2023年12月02日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9) 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9)~ 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
当ブログで、シリーズで茨城県に伝わる3つの養蚕信仰の聖地について書来ました。
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8)~ 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
すると大変ありがたいことに、代々神栖市にお住まいで、星福寺の檀家さんでもいらっしゃる H様から、地元に伝わる貴重なお話を教えて頂きました
H様から快く掲載の許可を頂きましたので、教えて頂いた内容を(一部個人情報になる箇所は伏せて)、掲載させていただきます。
星福寺
(2022年1月初旬撮影)
蠶霊神社
(2022年1月初旬撮影)
H様はこちらの管理のご当番もされているとのこと。
こちらの神社の清々しい雰囲気と、建物が綺麗なのは、管理されている皆様のおかげなのだと、あらためて感じ入りました。
********************
【星福寺 檀家さんに伝わるお話】
以下、H様からのメールより、
『その昔、神栖市のあたりは浮島の集合体だったらしく水害が多くて書物等が残っていないようです』
とのことで、お祖父様から聞かれているお話として、
『時系列がどうなのかはわかりませんが
・息栖神社が日川に建造される。当時の東国三社(鹿島神宮、香取神宮)は正三角形
・日川に金色姫が変わった船に乗って戦火から逃れ漂流してきて絹を日川に教える。(インドの文字を書いていたらしい)
・絹で裕福になり豪族が生まれ、日川権現塚古墳ができる(3世紀から4世紀)
・絹が特産物になり孝徳天皇(軽皇子かるのおうじ)に献上して地名に軽野の名前をもらう。6世紀ごろ
・水害で日川息栖神社が流されて、現在の息栖神社ができる(8世紀ごろ)現在跡地が石塚石碑になっている。
・軽野村と息栖村が合併して神栖村になる~鹿島開発が起こり1980年頃養蚕業が歴史を閉じる。
こんな感じで亡くなった祖父から聞いています』
とのことです。
古墳や地名の由来も含めて、地元で伝説が語り継がれているのですね!
歴史ロマンを感じますし、何か史実も含まれている様な気がしてなりません。
息栖神社
(2022年1月初旬撮影)
東国三社の一つ。
鹿島神宮、香取神宮よりこじんまりした神社ですが、大変雰囲気の良い神社で、私は大好きです。
息栖神社の門前にある、忍潮井
(2022年1月初旬撮影)
日本三霊泉の一つ。
1000年以上の歴史を持つと言われています。
昔、この地が海だった時でも、真水が湧いていたという井戸。
『男瓶(おがめ)』と『女瓶(めがめ)』の2つの夫婦の瓶が、水底に安置されています。
(この男瓶と女瓶にまつわる伝説も、ミステリアスでロマンが)
またH様からは、金色姫伝説についてのH様のご見解も、参考資料とともに頂きました。
こちらもH様から頂いたメールを掲載させて頂きます。
『この様な資料(かるだもん註:引用されている資料は後述★)は残されていますが、1300年以上前つまり6世紀ごろの神栖市日川周辺が孤島だったことを考えると、まともな記録が残って無いのは当然だと思っています。
ですので、断片的な歴史を紡いで妄想でつなげていくと昔話ができるのかなと思っています。現段階の情報を並べると
・6世紀ごろ日川が島だった。
・6世紀前後してごろの蚕神社、星福寺、現息栖神社、権現塚古墳、ができる(存在した)
・軽野村は明治に統合してできたが、「かるの」という地名は6世紀ごろにはあった。
・孝徳天皇(6世紀)の幼少時は軽皇子(かるのおうじ)だった。
そうなると疑問が
なぜ小さな島に豪族が誕生して古墳が作られるほどの力を持ったのか、神社が建てられるほど人が集まるところだったのか。
そもそもこんな小さな島にこんなに沢山の建物が建てられたのかを想像すると、共通のルーツがあったと考えられます。
こんな島に幾つも転機があるはずがない。と考えられます。
そこを妄想で埋めると
むかしむかし、日川という地に金色にの船が流れ着き中に少女が乗っていました。地元の漁師の権大夫が助け看病すると少女は蚕なる絹糸を吐く虫を連れていました。
少女は助けてもらったお礼に権大夫に絹の作り方を教えました。
権大夫のつくる絹糸は評判になり日川島に人が集まるようになり、うわさを聞き付けた貴族が権大夫の絹を軽皇子に貢がせました。すると軽皇子はたいそう気に入り自分の名前の「かるの」を地名につけました。
権大夫は神様のお導きだと日川地にお寺と蚕の霊を祭る神社を立てなくなりました。
豪族となった権大夫は元息栖神社前に権現塚古墳が建てられ祭られました。
後に8世紀ごろ日川島は大きな水害に遭い息栖神社が壊滅的な被害に遭い今の息栖神社に移転し跡地に石塚が建てられました。
権大夫も一代ではないとは思いますが、というような大筋なお話になるのかと思っています』。
★ H様からお知らせ頂いた資料
① 日本養蚕事始め/茨城の史跡と伝説
② 広報かみす 2022/1/15
https://www.city.kamisu.ibaraki.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/434/koho_kamisu362_all.pdf
③ 神栖市魅力情報発信ポータルサイト
「市民なら知っておきたい神栖の歴史」
https://kamisu-pr.jp/2021/09/22/history_gounoike/
********************
【地元に伝わる様々なバージョンの伝説を 後世にも!】
各地に伝わる伝説や昔話には、様々な経緯でその土地に根付き、人々に語られて今に至ってます。
歴史的な事実から生まれたものもあるでしょうし、他の土地でも語られていたものが、その土地にやってきた語り部の人から伝えられて、それがその土地でも言い伝えとして語られてきたものもあるでしょう。
また、何かの理由で物語を生み出した人がいて、それが人々に受け入れらて広く後世まで語り継がれたものもあると思います。
様々な背景が伝説や昔話があるはずたと思いますが、大事なのは、それを伝える人々が昔からいて、それが現代まで受け継がれてきたということです。
なので、ストーリーに様々なバージョンもあるのは当然かと思います。
H様も
『(水害が多くて書物等が残っていないようなので)正式な文献だけに頼るとかなりの情報がなくなってしまいます。
ですので、歴史が好きで、考察するような方の色々な考察も踏まえて
神栖むかし話(フィクション込み)が出来ればロマンもあっていいなと思っています』。
とおっしゃられており、私も全く同じく考えます。
(なので、当ブログを長年書いています)
今回、神栖のH様からいろいろご教示頂きながら思ったのは、もし、教育委員会や博物館などでその土地の伝説や昔話を収録することがあったら、なるべく多くのバージョンも記録として残して頂きたいなぁと思います。
また別の企画として、H様も上述されているような、
地元の方が想いを込めた 『私の〇〇物語』的な物語集も生まれると、次世代にも誇り継がれるもう一つの形態として良いのではないかと思いました。
たとえば、『私の金色姫物語』を、いろんな世代に一般募集して、まとめて書籍にするなど、結構楽しいのはないでしょうか。
関係各位、是非、後世の為にも実現してくださいませ
H様、貴重な情報、ありがとうございました
また、H様から教えて頂いた 『日川権現塚古墳』 、今度行ってみたいと思います
当ブログで、シリーズで茨城県に伝わる3つの養蚕信仰の聖地について書来ました。
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8)~ 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
すると大変ありがたいことに、代々神栖市にお住まいで、星福寺の檀家さんでもいらっしゃる H様から、地元に伝わる貴重なお話を教えて頂きました
H様から快く掲載の許可を頂きましたので、教えて頂いた内容を(一部個人情報になる箇所は伏せて)、掲載させていただきます。
星福寺
(2022年1月初旬撮影)
蠶霊神社
(2022年1月初旬撮影)
H様はこちらの管理のご当番もされているとのこと。
こちらの神社の清々しい雰囲気と、建物が綺麗なのは、管理されている皆様のおかげなのだと、あらためて感じ入りました。
********************
【星福寺 檀家さんに伝わるお話】
以下、H様からのメールより、
『その昔、神栖市のあたりは浮島の集合体だったらしく水害が多くて書物等が残っていないようです』
とのことで、お祖父様から聞かれているお話として、
『時系列がどうなのかはわかりませんが
・息栖神社が日川に建造される。当時の東国三社(鹿島神宮、香取神宮)は正三角形
・日川に金色姫が変わった船に乗って戦火から逃れ漂流してきて絹を日川に教える。(インドの文字を書いていたらしい)
・絹で裕福になり豪族が生まれ、日川権現塚古墳ができる(3世紀から4世紀)
・絹が特産物になり孝徳天皇(軽皇子かるのおうじ)に献上して地名に軽野の名前をもらう。6世紀ごろ
・水害で日川息栖神社が流されて、現在の息栖神社ができる(8世紀ごろ)現在跡地が石塚石碑になっている。
・軽野村と息栖村が合併して神栖村になる~鹿島開発が起こり1980年頃養蚕業が歴史を閉じる。
こんな感じで亡くなった祖父から聞いています』
とのことです。
古墳や地名の由来も含めて、地元で伝説が語り継がれているのですね!
歴史ロマンを感じますし、何か史実も含まれている様な気がしてなりません。
息栖神社
(2022年1月初旬撮影)
東国三社の一つ。
鹿島神宮、香取神宮よりこじんまりした神社ですが、大変雰囲気の良い神社で、私は大好きです。
息栖神社の門前にある、忍潮井
(2022年1月初旬撮影)
日本三霊泉の一つ。
1000年以上の歴史を持つと言われています。
昔、この地が海だった時でも、真水が湧いていたという井戸。
『男瓶(おがめ)』と『女瓶(めがめ)』の2つの夫婦の瓶が、水底に安置されています。
(この男瓶と女瓶にまつわる伝説も、ミステリアスでロマンが)
またH様からは、金色姫伝説についてのH様のご見解も、参考資料とともに頂きました。
こちらもH様から頂いたメールを掲載させて頂きます。
『この様な資料(かるだもん註:引用されている資料は後述★)は残されていますが、1300年以上前つまり6世紀ごろの神栖市日川周辺が孤島だったことを考えると、まともな記録が残って無いのは当然だと思っています。
ですので、断片的な歴史を紡いで妄想でつなげていくと昔話ができるのかなと思っています。現段階の情報を並べると
・6世紀ごろ日川が島だった。
・6世紀前後してごろの蚕神社、星福寺、現息栖神社、権現塚古墳、ができる(存在した)
・軽野村は明治に統合してできたが、「かるの」という地名は6世紀ごろにはあった。
・孝徳天皇(6世紀)の幼少時は軽皇子(かるのおうじ)だった。
そうなると疑問が
なぜ小さな島に豪族が誕生して古墳が作られるほどの力を持ったのか、神社が建てられるほど人が集まるところだったのか。
そもそもこんな小さな島にこんなに沢山の建物が建てられたのかを想像すると、共通のルーツがあったと考えられます。
こんな島に幾つも転機があるはずがない。と考えられます。
そこを妄想で埋めると
むかしむかし、日川という地に金色にの船が流れ着き中に少女が乗っていました。地元の漁師の権大夫が助け看病すると少女は蚕なる絹糸を吐く虫を連れていました。
少女は助けてもらったお礼に権大夫に絹の作り方を教えました。
権大夫のつくる絹糸は評判になり日川島に人が集まるようになり、うわさを聞き付けた貴族が権大夫の絹を軽皇子に貢がせました。すると軽皇子はたいそう気に入り自分の名前の「かるの」を地名につけました。
権大夫は神様のお導きだと日川地にお寺と蚕の霊を祭る神社を立てなくなりました。
豪族となった権大夫は元息栖神社前に権現塚古墳が建てられ祭られました。
後に8世紀ごろ日川島は大きな水害に遭い息栖神社が壊滅的な被害に遭い今の息栖神社に移転し跡地に石塚が建てられました。
権大夫も一代ではないとは思いますが、というような大筋なお話になるのかと思っています』。
★ H様からお知らせ頂いた資料
① 日本養蚕事始め/茨城の史跡と伝説
② 広報かみす 2022/1/15
https://www.city.kamisu.ibaraki.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/434/koho_kamisu362_all.pdf
③ 神栖市魅力情報発信ポータルサイト
「市民なら知っておきたい神栖の歴史」
https://kamisu-pr.jp/2021/09/22/history_gounoike/
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【地元に伝わる様々なバージョンの伝説を 後世にも!】
各地に伝わる伝説や昔話には、様々な経緯でその土地に根付き、人々に語られて今に至ってます。
歴史的な事実から生まれたものもあるでしょうし、他の土地でも語られていたものが、その土地にやってきた語り部の人から伝えられて、それがその土地でも言い伝えとして語られてきたものもあるでしょう。
また、何かの理由で物語を生み出した人がいて、それが人々に受け入れらて広く後世まで語り継がれたものもあると思います。
様々な背景が伝説や昔話があるはずたと思いますが、大事なのは、それを伝える人々が昔からいて、それが現代まで受け継がれてきたということです。
なので、ストーリーに様々なバージョンもあるのは当然かと思います。
H様も
『(水害が多くて書物等が残っていないようなので)正式な文献だけに頼るとかなりの情報がなくなってしまいます。
ですので、歴史が好きで、考察するような方の色々な考察も踏まえて
神栖むかし話(フィクション込み)が出来ればロマンもあっていいなと思っています』。
とおっしゃられており、私も全く同じく考えます。
(なので、当ブログを長年書いています)
今回、神栖のH様からいろいろご教示頂きながら思ったのは、もし、教育委員会や博物館などでその土地の伝説や昔話を収録することがあったら、なるべく多くのバージョンも記録として残して頂きたいなぁと思います。
また別の企画として、H様も上述されているような、
地元の方が想いを込めた 『私の〇〇物語』的な物語集も生まれると、次世代にも誇り継がれるもう一つの形態として良いのではないかと思いました。
たとえば、『私の金色姫物語』を、いろんな世代に一般募集して、まとめて書籍にするなど、結構楽しいのはないでしょうか。
関係各位、是非、後世の為にも実現してくださいませ
H様、貴重な情報、ありがとうございました
また、H様から教えて頂いた 『日川権現塚古墳』 、今度行ってみたいと思います
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