2021年07月25日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2)~蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
江戸時代前までは、生糸は輸入に頼っていたのですが、江戸時代になり絹の需要が伸びて、輸入のための金銀の流出を防ぐために、幕府は輸入生糸量を制限し、国内の養蚕を奨励するようになりました(文献1)
そうなると養蚕の為の手引書が生産者にとって必要になってきます。
日本で発行された初期の手引き書は、元禄十五年(1702年)に近江の野本道玄による『蚕飼養法記』で、幕府・諸藩の奨励と民間の熱意もあって、その後も江戸期には約100冊もの手引書が刊行されたとことで、著者の多くは蚕種作り商う蚕種家だったそうです(文献1)。
その中で、享和三年(1803年)、上垣守国によって書かれた『養蚕秘録』は詳しい養蚕技術だけでなく、養蚕の起源、蚕の伝説、真綿の作り方、教訓的な話など多義にわたる大変な名著として全国に広まり、その中に『金色姫』譚もありました(文献1,2)。
繊細な生き物である蚕の成育の難しさ、気候変動による蚕の餌となる桑の生育、鼠などの食害等に立ち向かうには、知識と技術はもちろんですが、やはり精神的支えも必須で、そこを救うのが、信仰の力なわけです
。
従って、そこに様々な信仰も広がっていきました(文献2,3,4)。
それらの信仰の中に、『常陸国三蚕神社』(江戸時代は寺も関係)が聖地として重要な位置を占め
、明治以降の養蚕の興隆とともに、流行神として信仰が広がっていきました(文献1,2,3,4)。
『常陸国三蚕神社』のそれぞれについては、今後各論で考察していきますが、
共通に『伝わっている』のが、『金色姫伝説』
です。
私はこの『金色姫』伝説の発祥の地が気になっています。

今回は、金色姫譚が生まれそうな土壌、土地について、文献を元に、妄想も膨らませて
考えてみます。
(今後は『金色姫伝説』でなく、『金色姫譚』と記載します)
写真は蚕の繭ですが、指を入れて洗顔するために一部カットされた美容グッズです。
現代は贅沢になってきていますね
【金色姫譚は、常陸国で生まれたのか??】
のっけから、愛県心の強い方に怒られそうですが
、
(しかも私は、金色姫譚の本拠地?のつくば に住んでいる、つくば市民ですが
)
私は、
今に伝わる『金色姫譚』の元となる、『原・金色姫譚』があって (それが生まれたのは常陸国とは限らない)、
それが時代と共に、『常陸国の金色姫伝説』になっていったのではないか
と考えています。
つまり、養蚕技術が常陸国に伝わった時に、『原・金色姫譚』的な説話・伝説も一緒に外から入ってきた可能性? を考えています。
その根拠として、
① 弥生時代前期の遺跡から絹が出土している(文献1,2、3)
② 本格的な養蚕技術は、1~2世紀頃に、朝鮮半島からもたらされたと考えられている(文献3)
またはその前に、中国・華中方面からもたらされた可能性もある(文献5)
③ 魏志倭人伝に、(西暦239年)邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝に国産の絹を献上したという記述と、
邪馬台国では桑と蚕を育て、糸を紡ぎ、上質の絹織物を作るという記述がある(文献1)
ということで、かなり古くから、『海を渡って』外国から養蚕技術がもたらされ、既に3世紀の卑弥呼の頃には自分の所で
作った絹を魏の国に献上するまでになっていたわけです。
・養蚕技術とともに、蚕や養蚕にまつわる様々な説話・伝説が日本列島にも伝わり
、
・更に、養蚕技術が国内各地に伝えられる時、説話・伝説も一緒に伝わり、広がっていった
だろうことは容易に想像出来ます
。
そういう伝承の一つに、
『金色姫』的なモチーフの話 = 『原・金色姫譚』
があったのではないかと、私は考えています。
【海から流れ着いて豊浦に】
さて、金色姫譚では、海に流された姫が『豊浦』に漂着します。
常陸国に伝わっている話なので、『常陸国豊浦』となっていますが、妙にはっきりと伝わる地名『豊浦』が気になります。
文献6で『豊浦』という地名を調べると、常陸国に該当する古代地名があったかはっきり(※)はわかりません
。
(※ 伝説の中で『豊浦』と呼ばれた旨が伝わる地は茨城県内にもありますが、これらは今後、各論で考察します)
しかし『豊浦』という地名は全国に数ヶ所あり、有名な所で、
★ 奈良県明日香村の豊浦宮(推古天皇が即位)
★ 山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津(仲哀天皇滞在・神功皇后滞在・出兵)
があります。
1つめの明日香の豊浦だとする説もありますが、これはこのページの最後の【註】で触れます。
私個人としては、2つめの、山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津に注目します。
というのも、まずは山口の豊浦津は、関門海峡に接し、日本海側にも瀬戸内海にも接している、古代からの交通の要所だからです。
そして地理的にも、中国大陸、朝鮮半島に近く、古くから交易が盛んだった地。
卑弥呼のいた邪馬台国の候補地、九州北部にも隣接する地。
・・・これだけどもすごい土地
そして、この山口県の『豊浦郡・豊浦津』を調べると、やはり大変興味深いことが分かってきます

【奉献珍宝蚕種等】
日本三大実録 巻五十 光孝天皇 仁和三年七月の記事に、
『十七日戊子。左京人従五位下行采女正時原宿祢春風、賜朝臣姓。春風自言。先祖出自秦始皇十一世孫功満王也。
帯仲彦天皇四年、帰化入朝、奉献珍宝蚕種等。』
という記載があります(文献7)。
平安時代 仁和三年(西暦889年)七月十七日戊子の日に、左京の人の時原春風という人が、「朝臣」の姓を賜った記事で、
その時に、春風が自分の出自を、
『秦の始皇帝の十一代目の子孫の功満王が自分の先祖で、
(功満王は)帯仲彦天皇四年に、この国に帰化して、その時に、珍宝蚕種などを献上しました』
と語ったという記事です。
※ 左京人:左京に住む人の意か?
従五位下:位階の一つ
采女正:女官(采女)の長。
宿祢:称号の一つ
朝臣:天武天皇が(西暦684年に)定めた「八色の姓(かばね)」の上から二番目。
帯仲彦天皇: 仲哀天皇。日本武尊の息子で、神功皇后の夫。
ただし、帯仲彦天皇(仲哀天皇)は、実在が疑われている天皇(父親の日本武尊が既に伝説の存在)なので、
『帯仲彦天皇四年』が西暦何年なのかは不明です
。
いずれにしても、時原春風という人が、自分の家で伝わる出自について語ったという話で、又聞きの記録ではありますが、
ここで注目したいキーワードが、
● 『功満王』
● 『奉献珍宝蚕種等』
です。
功満王は、外国から来て『蚕種=蚕の卵』を奉献し、帰化したということ。
誰に奉献したかは不明ですが、文意から行くと、帯仲彦天皇(仲哀天皇)に奉献したということでしょうか
。
【仲哀天皇】
仲哀天皇=帯仲彦(たらしなかつひこ)は、謎の多い天皇で、奥さんの神功皇后があまりにも有名ですが、仲哀天皇自身は非業の最期を遂げます。
さて、古事記によると、仲哀天皇は、『穴門の豊浦宮、筑紫の訶志比(香椎)宮に座して、天の下治らしめき』とのこと
(文献8)。
穴門はその後「長門国」となり、現在の山口県西半部から東北部に位置します(文献6、8、9)。
関門海峡があり、日本海側にも瀬戸内海にも接している交通の要所
です。
また筑紫国は関門海峡を挟んで長門国と隣接する土地。今の福岡県のあたりで訶志比(香椎)も日本海に接した場所です。
つまり交通の要所をがっつり押さえた場所に、仲哀天皇は宮を構えていたわけです。
上の時原春風が語った、自分の先祖(功満王)が仲哀天皇在位4年目に、蚕種を直接、仲哀天皇に献上したとしたら、
仲哀天皇のいた『穴門豊浦宮』の可能性がとても高くなります。
なお『穴門豊浦宮』の『豊浦』は『とゆら』『とよら』と読むようです
(文献6、8、10 )。
【功満王】
(文献11,12 )によると、
功満王:秦始皇帝の子孫。融通王(弓月君)の父。秦氏の祖。
ここに出てくる融通王は、
融通王 → 弓月君:秦氏の祖。応神十四年条に百済より帰化。功満王の父親
とのこと。
更に同文献の『弓月君』の項目に、姓氏録左京諸蕃という書物にある記載として
『(前略)その男功満王は仲哀天皇代に来帰し、その男融通王が応神十四年に百廿七県の民を率いて帰化し、金銀玉帛等物を献じた。
そして仁徳天皇の代に百廿七県の秦民を諸郡に従わしめ、姓波多を賜った』
とあります。
波多(はた)氏は秦氏。
秦氏は、養蚕と絹織物の技術を伝えた氏族です(文献2)。
【穴門豊浦宮】
今の山口県にあった『豊浦』について、もう少し見ていきます。
● 『豊浦という呼称の所見は「日本書紀」の熊襲征討の記事で、仲哀2年6月10日条に「天皇泊于豊浦津」、同年7月5日条に
「皇后泊豊浦津、是日皇后得如意珠於海中」とある』
(文献6)
● 『「日本書紀」仲哀天皇二年九月に 「宮室を穴門に興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す」 とある豊浦宮の置かれた地とされる』
(文献13)
更に養蚕に関しては、
● 『「続日本紀」神護景雲2年3月朔日条によれば、豊浦郡・厚狭郡などに養蚕をさせ、調の銅を綿に代えることとした』
(文献6)
また朝鮮半島に近く、交通の要所でもあるため、漂着する人の記事もあり、
● 『弘仁5年10月13日には新羅商人31人が当郡に漂着しており(日本後紀)』
(文献6)
たぶん、大昔から漂着者が多い土地で、記録に残らない漂着者も多かったことでしょう。
遭難して漂着した人もいたでしょうし、大陸や半島から逃げてきた人達、新天地を求めて来た人達も多かったのでしょう。
【豊浦はどこか?】
こう見ていくと、
★ 『豊浦』『豊浦津』という歴史的に有名な地名
★ (献上された)蚕種(蚕の卵)
★ 養蚕
★ 『海から流れついた』=海上交通の要所、遭難した人が流れ着く地
が文献的にも考古学的にもはっきりしているのが、穴門の豊浦なのです。
ちなみに、穴門は長門国となり、国府も置かれるようになります。
また、仲哀天皇がいた『豊浦宮』のあった場所は、現在、忌宮神社(山口県下関市)の周辺に比定されています(文献9、13)
。
金色姫譚のキーワードが揃う、山口県の『豊浦』。
『長門国』が、『常陸国』に変わっていったとしたら・・・!?。
妄想が広がりますが
、
金色姫譚伝説の元となる伝説・説話の存在(原・金色姫譚)の気配を、感じませんか?
そして、『常陸国豊浦』との関係は・・・!?
【註】 奈良県明日香の豊浦宮とする説について。
文献14 (筑波町史 資料集 第五篇) に収録されている 『日本一社蠶影神社御徳記 櫻井晩翠 著』 では、金色姫譚の最後の方に登場する 『欽明天皇の皇女の各谷姫』からの類推から、『豊浦』は、蘇我馬子の居住していた『豊浦宮』及び『豊浦寺』のあった、奈良県明日香村だとしています。
しかし私の個人的見解としては、伝説の成り立ちとしては、上記で述べてきたように、山口県豊浦との関係が深いように考えています。
また、各谷姫(カグヤ姫)の登場についても、次回に考察するように名理由で、奈良の豊浦宮とは直接関係ないと考えます。
(地元としては、 『欽明天皇の皇女の各谷姫』にロマンを感じたい気持ちは分かりますが)
(続きます)
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
*****************************
【参考文献】
1,『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蠶(かいこ)の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会 発行
4.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
5.『森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一著 小学館ライブラリー 収録『絹(対談者 布目順郎)』
6. 『古代地名大辞典 本編』 角川文化振興財団 編集 角川書店
7. 『新訂増補 国史大系 日本三代實録 後編』 吉川弘文館 p636
8. 『記紀の考古学』 森浩一 著 朝日文庫
9.『日本古代史地名事典 普及版』 雄山閣
10.『日本古代地名事典』田茂樹 著 新人物往来社
11. 『日本古代人名辞典3』 武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館
12. 『日本古代人名辞典7』武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館
13 『日本歴史地名大系第三十六巻 山口県の地名』平凡社
14 『筑波町史 資料集 第五篇』 茨城県つくば市教育委員会編
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい


→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
江戸時代前までは、生糸は輸入に頼っていたのですが、江戸時代になり絹の需要が伸びて、輸入のための金銀の流出を防ぐために、幕府は輸入生糸量を制限し、国内の養蚕を奨励するようになりました(文献1)
そうなると養蚕の為の手引書が生産者にとって必要になってきます。
日本で発行された初期の手引き書は、元禄十五年(1702年)に近江の野本道玄による『蚕飼養法記』で、幕府・諸藩の奨励と民間の熱意もあって、その後も江戸期には約100冊もの手引書が刊行されたとことで、著者の多くは蚕種作り商う蚕種家だったそうです(文献1)。
その中で、享和三年(1803年)、上垣守国によって書かれた『養蚕秘録』は詳しい養蚕技術だけでなく、養蚕の起源、蚕の伝説、真綿の作り方、教訓的な話など多義にわたる大変な名著として全国に広まり、その中に『金色姫』譚もありました(文献1,2)。
繊細な生き物である蚕の成育の難しさ、気候変動による蚕の餌となる桑の生育、鼠などの食害等に立ち向かうには、知識と技術はもちろんですが、やはり精神的支えも必須で、そこを救うのが、信仰の力なわけです

従って、そこに様々な信仰も広がっていきました(文献2,3,4)。
それらの信仰の中に、『常陸国三蚕神社』(江戸時代は寺も関係)が聖地として重要な位置を占め

『常陸国三蚕神社』のそれぞれについては、今後各論で考察していきますが、
共通に『伝わっている』のが、『金色姫伝説』
です。
私はこの『金色姫』伝説の発祥の地が気になっています。

今回は、金色姫譚が生まれそうな土壌、土地について、文献を元に、妄想も膨らませて

(今後は『金色姫伝説』でなく、『金色姫譚』と記載します)
写真は蚕の繭ですが、指を入れて洗顔するために一部カットされた美容グッズです。
現代は贅沢になってきていますね

【金色姫譚は、常陸国で生まれたのか??】
のっけから、愛県心の強い方に怒られそうですが

(しかも私は、金色姫譚の本拠地?のつくば に住んでいる、つくば市民ですが

私は、
今に伝わる『金色姫譚』の元となる、『原・金色姫譚』があって (それが生まれたのは常陸国とは限らない)、
それが時代と共に、『常陸国の金色姫伝説』になっていったのではないか
と考えています。
つまり、養蚕技術が常陸国に伝わった時に、『原・金色姫譚』的な説話・伝説も一緒に外から入ってきた可能性? を考えています。
その根拠として、
① 弥生時代前期の遺跡から絹が出土している(文献1,2、3)
② 本格的な養蚕技術は、1~2世紀頃に、朝鮮半島からもたらされたと考えられている(文献3)
またはその前に、中国・華中方面からもたらされた可能性もある(文献5)
③ 魏志倭人伝に、(西暦239年)邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝に国産の絹を献上したという記述と、
邪馬台国では桑と蚕を育て、糸を紡ぎ、上質の絹織物を作るという記述がある(文献1)
ということで、かなり古くから、『海を渡って』外国から養蚕技術がもたらされ、既に3世紀の卑弥呼の頃には自分の所で
作った絹を魏の国に献上するまでになっていたわけです。
・養蚕技術とともに、蚕や養蚕にまつわる様々な説話・伝説が日本列島にも伝わり

・更に、養蚕技術が国内各地に伝えられる時、説話・伝説も一緒に伝わり、広がっていった

だろうことは容易に想像出来ます

そういう伝承の一つに、
『金色姫』的なモチーフの話 = 『原・金色姫譚』
があったのではないかと、私は考えています。
【海から流れ着いて豊浦に】
さて、金色姫譚では、海に流された姫が『豊浦』に漂着します。
常陸国に伝わっている話なので、『常陸国豊浦』となっていますが、妙にはっきりと伝わる地名『豊浦』が気になります。
文献6で『豊浦』という地名を調べると、常陸国に該当する古代地名があったかはっきり(※)はわかりません

(※ 伝説の中で『豊浦』と呼ばれた旨が伝わる地は茨城県内にもありますが、これらは今後、各論で考察します)
しかし『豊浦』という地名は全国に数ヶ所あり、有名な所で、
★ 奈良県明日香村の豊浦宮(推古天皇が即位)
★ 山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津(仲哀天皇滞在・神功皇后滞在・出兵)
があります。
1つめの明日香の豊浦だとする説もありますが、これはこのページの最後の【註】で触れます。
私個人としては、2つめの、山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津に注目します。
というのも、まずは山口の豊浦津は、関門海峡に接し、日本海側にも瀬戸内海にも接している、古代からの交通の要所だからです。
そして地理的にも、中国大陸、朝鮮半島に近く、古くから交易が盛んだった地。
卑弥呼のいた邪馬台国の候補地、九州北部にも隣接する地。
・・・これだけどもすごい土地

そして、この山口県の『豊浦郡・豊浦津』を調べると、やはり大変興味深いことが分かってきます


【奉献珍宝蚕種等】
日本三大実録 巻五十 光孝天皇 仁和三年七月の記事に、
『十七日戊子。左京人従五位下行采女正時原宿祢春風、賜朝臣姓。春風自言。先祖出自秦始皇十一世孫功満王也。
帯仲彦天皇四年、帰化入朝、奉献珍宝蚕種等。』
という記載があります(文献7)。
平安時代 仁和三年(西暦889年)七月十七日戊子の日に、左京の人の時原春風という人が、「朝臣」の姓を賜った記事で、
その時に、春風が自分の出自を、
『秦の始皇帝の十一代目の子孫の功満王が自分の先祖で、
(功満王は)帯仲彦天皇四年に、この国に帰化して、その時に、珍宝蚕種などを献上しました』
と語ったという記事です。
※ 左京人:左京に住む人の意か?
従五位下:位階の一つ
采女正:女官(采女)の長。
宿祢:称号の一つ
朝臣:天武天皇が(西暦684年に)定めた「八色の姓(かばね)」の上から二番目。
帯仲彦天皇: 仲哀天皇。日本武尊の息子で、神功皇后の夫。
ただし、帯仲彦天皇(仲哀天皇)は、実在が疑われている天皇(父親の日本武尊が既に伝説の存在)なので、
『帯仲彦天皇四年』が西暦何年なのかは不明です

いずれにしても、時原春風という人が、自分の家で伝わる出自について語ったという話で、又聞きの記録ではありますが、
ここで注目したいキーワードが、
● 『功満王』
● 『奉献珍宝蚕種等』
です。
功満王は、外国から来て『蚕種=蚕の卵』を奉献し、帰化したということ。
誰に奉献したかは不明ですが、文意から行くと、帯仲彦天皇(仲哀天皇)に奉献したということでしょうか

【仲哀天皇】
仲哀天皇=帯仲彦(たらしなかつひこ)は、謎の多い天皇で、奥さんの神功皇后があまりにも有名ですが、仲哀天皇自身は非業の最期を遂げます。
さて、古事記によると、仲哀天皇は、『穴門の豊浦宮、筑紫の訶志比(香椎)宮に座して、天の下治らしめき』とのこと
(文献8)。
穴門はその後「長門国」となり、現在の山口県西半部から東北部に位置します(文献6、8、9)。
関門海峡があり、日本海側にも瀬戸内海にも接している交通の要所

また筑紫国は関門海峡を挟んで長門国と隣接する土地。今の福岡県のあたりで訶志比(香椎)も日本海に接した場所です。
つまり交通の要所をがっつり押さえた場所に、仲哀天皇は宮を構えていたわけです。
上の時原春風が語った、自分の先祖(功満王)が仲哀天皇在位4年目に、蚕種を直接、仲哀天皇に献上したとしたら、
仲哀天皇のいた『穴門豊浦宮』の可能性がとても高くなります。

なお『穴門豊浦宮』の『豊浦』は『とゆら』『とよら』と読むようです
(文献6、8、10 )。
【功満王】
(文献11,12 )によると、
功満王:秦始皇帝の子孫。融通王(弓月君)の父。秦氏の祖。
ここに出てくる融通王は、
融通王 → 弓月君:秦氏の祖。応神十四年条に百済より帰化。功満王の父親
とのこと。
更に同文献の『弓月君』の項目に、姓氏録左京諸蕃という書物にある記載として
『(前略)その男功満王は仲哀天皇代に来帰し、その男融通王が応神十四年に百廿七県の民を率いて帰化し、金銀玉帛等物を献じた。
そして仁徳天皇の代に百廿七県の秦民を諸郡に従わしめ、姓波多を賜った』
とあります。
波多(はた)氏は秦氏。
秦氏は、養蚕と絹織物の技術を伝えた氏族です(文献2)。
【穴門豊浦宮】
今の山口県にあった『豊浦』について、もう少し見ていきます。
● 『豊浦という呼称の所見は「日本書紀」の熊襲征討の記事で、仲哀2年6月10日条に「天皇泊于豊浦津」、同年7月5日条に
「皇后泊豊浦津、是日皇后得如意珠於海中」とある』
(文献6)
● 『「日本書紀」仲哀天皇二年九月に 「宮室を穴門に興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す」 とある豊浦宮の置かれた地とされる』
(文献13)
更に養蚕に関しては、
● 『「続日本紀」神護景雲2年3月朔日条によれば、豊浦郡・厚狭郡などに養蚕をさせ、調の銅を綿に代えることとした』
(文献6)
また朝鮮半島に近く、交通の要所でもあるため、漂着する人の記事もあり、
● 『弘仁5年10月13日には新羅商人31人が当郡に漂着しており(日本後紀)』
(文献6)
たぶん、大昔から漂着者が多い土地で、記録に残らない漂着者も多かったことでしょう。
遭難して漂着した人もいたでしょうし、大陸や半島から逃げてきた人達、新天地を求めて来た人達も多かったのでしょう。
【豊浦はどこか?】
こう見ていくと、
★ 『豊浦』『豊浦津』という歴史的に有名な地名
★ (献上された)蚕種(蚕の卵)
★ 養蚕
★ 『海から流れついた』=海上交通の要所、遭難した人が流れ着く地
が文献的にも考古学的にもはっきりしているのが、穴門の豊浦なのです。
ちなみに、穴門は長門国となり、国府も置かれるようになります。
また、仲哀天皇がいた『豊浦宮』のあった場所は、現在、忌宮神社(山口県下関市)の周辺に比定されています(文献9、13)

金色姫譚のキーワードが揃う、山口県の『豊浦』。
『長門国』が、『常陸国』に変わっていったとしたら・・・!?。
妄想が広がりますが

金色姫譚伝説の元となる伝説・説話の存在(原・金色姫譚)の気配を、感じませんか?

そして、『常陸国豊浦』との関係は・・・!?
【註】 奈良県明日香の豊浦宮とする説について。
文献14 (筑波町史 資料集 第五篇) に収録されている 『日本一社蠶影神社御徳記 櫻井晩翠 著』 では、金色姫譚の最後の方に登場する 『欽明天皇の皇女の各谷姫』からの類推から、『豊浦』は、蘇我馬子の居住していた『豊浦宮』及び『豊浦寺』のあった、奈良県明日香村だとしています。
しかし私の個人的見解としては、伝説の成り立ちとしては、上記で述べてきたように、山口県豊浦との関係が深いように考えています。
また、各谷姫(カグヤ姫)の登場についても、次回に考察するように名理由で、奈良の豊浦宮とは直接関係ないと考えます。
(地元としては、 『欽明天皇の皇女の各谷姫』にロマンを感じたい気持ちは分かりますが)
(続きます)
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
*****************************
【参考文献】
1,『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蠶(かいこ)の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会 発行
4.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
5.『森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一著 小学館ライブラリー 収録『絹(対談者 布目順郎)』
6. 『古代地名大辞典 本編』 角川文化振興財団 編集 角川書店
7. 『新訂増補 国史大系 日本三代實録 後編』 吉川弘文館 p636
8. 『記紀の考古学』 森浩一 著 朝日文庫
9.『日本古代史地名事典 普及版』 雄山閣
10.『日本古代地名事典』田茂樹 著 新人物往来社
11. 『日本古代人名辞典3』 武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館
12. 『日本古代人名辞典7』武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館
13 『日本歴史地名大系第三十六巻 山口県の地名』平凡社
14 『筑波町史 資料集 第五篇』 茨城県つくば市教育委員会編
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