茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《前編》



茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑

前回までの話
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
豆電球茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説

物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけていきますぐー


前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)で立てた金色姫譚が生まれて広がった経緯の仮説をもとに、いよいよ、現在伝わる『金色姫譚』に出てくる『常陸国豊浦』について考えていきます。

私の仮説では、『金色姫譚』の原形『貴人蚕譚』は瀬戸内海~九州北部で生まれて(詳細茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」 )、それがいつの時代か常陸国に伝わって、『常陸国豊浦』と『常陸化』し、更に現在の『金色姫譚』(ストーリーが4部構成)になっていったと考えています。
(詳細  茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説

前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)に書いた仮説の流れの中うち、下記の(B)~(F)が常陸国で起きたことだと私は考えています。

 (B)  常陸国への『貴人蚕譚』(蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
    養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
   (b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
   (b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。 
 ↓
 (C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫ 
    (c1) 偶然『とゆら/とよら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった
    (c2) とゆら/とよら(豊浦)の地名に『常陸国』が加わって『常陸国の豊浦』となって、話の舞台が『常陸化』していったか    
   永禄元年(西暦1558年) の『戒言』(現在まで伝わる金色姫の話とほぼ同じ)には『常陸国とよら』とはっきり書かれているので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。
 ↓
(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫ 
 ↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫
   『筑波山のほんどう仙人』
 ↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
   『欽明天皇の娘のかぐや」の登場   
   『富士山=筑波山』という考え方
    かぐやは『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。


上の仮説を前提に、現在まで金色姫譚が伝わる常陸国三蚕社について、それぞれ検討していきます。

まず最初は、日立市川尻町にある蠶養(こかい)神社です。


【日立市 川尻町 蠶養(こかい)神社】


日立市 川尻にある 蠶養(こかい)神社
神社境内にある社務所による由来の看板には『蠶養神社』とあり、『蚕』の時が旧字体の『』なので、ここでは『蠶養神社』と書きます。

この辺りは昔は川尻村と呼ばれたところです(文献1、2)
(写真は2020年8月撮影)




こじんまりした小貝浜(蚕養浜)に面する高台に蠶養神社はあります。
『小貝(こかい)浜』は、同じ『こかい』の音から、『蚕養(こかい)浜』とも文献には書かれています。
『小貝』の字が先か、『蚕養』の字が先か、なかなか興味深いです。
(写真は2020年8月撮影)


また、この蠶養神社に伝わる信仰で大変ユニークなのが、

・小貝浜(蚕養浜)で取れる赤い小さな巻貝を、養蚕のお守りとする。
(文献3、4、5)
・小貝浜(蚕養浜)で取れる小石を、養蚕のお守りとする。
(文献6)
というのがあります。
このような民間信仰も、常陸国蚕の社の他の2社(神栖・蚕霊神社、つくば・蚕影山神社)にはないものです。



サンショウガイ』と呼ばれる赤い微少な巻き貝。
これを養蚕のお守りとして、養蚕家が大事に神棚に上げていたそうです。
赤い色が鮮やかで可愛い
『サンショウガイ』は、『山椒貝』とも『蚕生貝』という字を当てるようです。
熟した山椒の実が赤いからでしょうか。
『蚕生』の字は、巧いこと良い字ですよね笑






こちらは同じ小貝浜で見られる綺麗な石。
この辺りの山で算出するメノウなどでしょうか。
これも養蚕のお守りにしてとのこと。綺麗な石ですよね。

(これらの貝や石については、後に後編で考えていきます)


ちなみに、宮本宣一著『筑波歴史散歩』(文献7)に、小貝浜の蠶養神社の御詠歌が載っています。
この御詠歌は昭和2年に、福島の人によって作られたとのことで、かなり新しいものではあります。

だた興味深いのは、御詠歌には、赤い貝のことはもちろん、小貝浜付近の地形と金色姫伝説を結び付けたらしい『名所』
多く読み込まれていますハート
これは、名所案内としても現代に通じますし、また貴重な情報豆電球のですから、もっと知られて良い唄だと思います。



【蚕養神社に伝わる金色姫譚】

同神社の境内にある看板に同地区に伝わる『金色姫物語』が書かれています。

【あらすじ】

昔、常陸国豊浦湊(現在の川尻の小貝浜)に、繭の形の丸木舟が流れ着き、宮司の権太夫が見つけた。
中から美しい姫が現れたので、わけをきくと、金色姫と名乗り、インドの大王の娘で継母がいじめるので、父の大王が見かねて、桑の木で丸木舟を作り、赤い貝で作った首飾りを首にかけて、慈悲深い人に助けられるようにと舟に乗せたと語った。
権太夫は姫を育てたが、五年たった時、姫は自分の命は今宵限りで、自分は蚕という虫に生まれ変わると言い、桑葉のことと蚕の育て方を伝え、赤い貝の首飾りと繭を置いて念仏とともに昇天した。これより日本で養蚕が広まった。



この地区に伝わる金色姫譚の特色は、

① 金色姫が直接、蚕の育て方を権太夫に伝えるところで終わる。

② 金色姫は赤い貝の首飾りを身に着けていて、亡くなる時にその首飾りも置いていく。

③ 『筑波山のほんどう仙人』の話も、『富士山のかぐや姫』の話も出てこない。

の3つです。



【豊浦とヤマトタケル伝説】

金色姫が流れ着いたと伝わる『豊浦湊』ですが、この地では『豊浦』が出てくる全く違う伝説が伝わっています。
ヤマトタケル伝説です。

蚕養神社のあるあたりは、昔は『川尻村』と呼ばれていました。
明治22年に、近隣の砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となったとのこと(文献1)。
この『豊浦』を使ったのは、この地に『豊浦湊』があり、大和武尊(ヤマトタケル)が戦勝祈願の為に寄港したという伝説から
その名をつけたとのこと(文献1)

 豊浦町:明治22年4月1日 砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となる。
 その名の由来は『區域の海濱に往昔豊良港あり、豊良又豊浦に作る、日本武尊船を豊浦湊に維ぐとの文あり。町名是に起る』 (文献1より引用)


では、ヤマトタケル(日本武尊)が船でこの豊浦湊に来たという伝承は、どこから来たのかというと、
まず文献8(茨城県神社誌)の蚕養神社の項を見ると
景行帝四十年日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』

とあります。

つまり、この地の伝わるヤマトタケル(日本武尊)伝説は、

 日本武尊が東征(つまり蝦夷の地の東北を攻め上った時)の途中、この地の豊浦湊に上陸して、この地の社(現在の蚕影神社)に祈ったところ、戦わずして征服することが出来た。
 東征の帰り(甲斐国に向かう途中か)に当社に神領八十束部、摂社宛五束部を寄進された伝わる。


という話です。

このヤマトタケル伝説は、古事記、日本書記、常陸国風土記にも見当たりません(文献9)びっくり
地元だけで伝わっていた話か? はたまた…?

これについては後述することにして、まずは蚕養神社の変遷を追ってみましょう。


【蚕養神社の変遷 ~ 江戸時代前期の運命の波を乗り越えて】

現在の蚕養神社は、明治三十四年(西暦1901年)10月に現在の名前に改められたとのことで、それまでは、於岐津説神社と呼ばれていたようです (文献10)。
そしてその於岐津説神社は、『創立年代不詳。於岐津説神社は水藩神名録によれば永正10年(1513年)創立とされている』
とのこと (文献10)。

その於岐津説神社ですが、文献2をよく読んでいくと面白いことが分かってきますびっくり

同書によると、江戸時代前期、水戸藩の水戸光圀によるこの地方における寺社の改革の変遷が書かれています。
それらの寺社の中にある『川尻村』の『津明神』が、この於岐津説神社(現 蚕養神社)のことではないかと思われます。
それ以外に該当する寺社は見当たらないので、『川尻の津明神』=『於岐津説神社(現 蚕養神社)』と見なして間違いないと考えます。

さてこの川尻の津明神は、江戸前期、ジェットコースターのような運命の波びっくりを乗り越えています!!

川尻の津明神に起きたことを時系列で並べてみます。

●寛文三年(西暦1663年)(光圀による改革前)時点: 「川尻村 神社:津明神  司祭者:真言宗吉祥院」
  吉祥院というのが、川尻村の津明神の別当寺だったようです。


●元禄四年(西暦1691年)六月:(川尻村の)津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定
  「たとえば、川尻村には・・・津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定した。…」
 

●元禄五年(西暦1692年)八月:(川尻村の)津明神は翌年八月には神職がつけられ建宮
  これは漁村民が、この明神を「おきぢさま又おきぢさま」と呼んで大切にし、
  またとても雉子を大切にして、雉子が鳴くと「おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさる」と言ったいうように、
  とても崇敬されていたという理由で、復活したとのこと。
  地元の人たちが嘆願したくらい、信仰されていたというのが伝わってきます。

   『このようになったのは、この明神が「はなはだ雉子を愛したまう由にて、一村これを大切し、
   おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさるなどという由。
   「宝永頃水戸領鎮守録」静嘉堂文庫蔵」)とあるように、漁村民の尊崇厚いものがあったことによろう』
   (文献2  「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行  平成6年9月発行 p531)


●元禄八年(西暦1695年)八月:津明神の別当寺の吉祥院は、徳川光圀によって取り潰された模様

  「川尻村 寺院名:吉祥院 寺歴:永正十年海全開山 徳川光圀による処分状況:元禄八年八月死亡」


●宝永五年(西暦1708年)(光圀による改革後):「川尻村 神社:津明神 司祭者:大津村禰宜源太夫」
津明神に、新たに司祭が任命されました。
   取り潰されてしまった別当時の吉祥院の代わりに、直接司祭者が任命され、管理を任されたようです。
    (文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p512 表3-1 「江戸時代初期日立地方の寺院一覧」より)
   
ちなみに大津村は、現在の北茨城市大津港のある辺りで、当地には延喜式内常陸二十八の一社の佐波波地祇神社があります。
そこの司祭者が、津明神の司祭も兼ねたのか、別の人が司祭者になったのかは不明ですが、気になります。

蚕養神社の前身、津明神(於岐津説神社)は、光圀の時に一度取り潰しが決定しながらも、翌年にその決定が覆され、しかも新たに宮司を迎えて復活しているのです!!

それは、この明神様を地元の人が『おきぢさま』と呼び、雉を大切にして雉の鳴き声を『おきぢさまが御鳴きなさる』と呼んでいるように、キラキラ篤い信仰心のたまものキラキラであることがはっきりと記録されています。


【常陸國蠶養嶺略縁起】

別の資料からも検討してみます。

文献11には、資料として『常陸國蠶養嶺略縁起』が掲載されています。
縁起を記したのは、『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔 となっています。

書かれた年代は不明ですが、 『司祭者:大津村禰宜源太夫』が『川尻村 神社:津明神』に任命されたのは、宝永五年(西暦1708年)。
ですから書かれたのは、宝永五年(西暦1708年)以降でしょう。
資料中『元禄年中』の記載がありますが、著者の禰宜源太夫は自分が任命される以前(元禄年中1688年~1704年)から伝わる伝承を書いたのかもしれません。

禰宜源太夫は、復活した川尻の津明神(於岐津説神社)に新たに任命された宮司が記したと考えて良いかと考えます。

また蠶養嶺とは、現在蚕養神社(当時は津明神、於岐津説神社)が鎮座している、小貝浜の脇の小高い丘のことだと思われます。

さて、この『常陸國蠶養嶺略縁起』には
 
  『寛文年中、水戸光圀公 別当 吉祥院まで御潰し佛具等不残埋めさせ 今吉祥塚という字有』

  『元禄年中・・・今に(神の下に虫)養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 
   全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々・・・』


という縁起が出てきます。

  いつの頃からか『蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山に祠を建て蚕養大明神、蚕養嶺地主神となり、
  この(神の下に虫)養濱神虫神石御命』という神は『神虫種神躰』(蚕か?)と同じだ』という信仰があって、
  どうも元禄年中(1688年~1704年)頃にこれは淫祠邪教として(水戸藩・水戸光圀が?)信仰を止めさせたが、
  その後、『日本最初 蟲の初まり』ということで再び、信仰が復活していった。


・・・ということでしょうか。

『上子山』がどこを指すのか不明ですが、おそらく現在の社地、上の縁起でいう『蠶養嶺』と同じ場所ではないでしょうか。



【水戸彰考館編集神道司経 青山延彝(のぶつね)による縁起文】


さてここで 茨城県神社誌(文献8)による蚕養神社の縁起をあらためて見ていきましょう。

同書では、

① 孝霊帝五年二月初午
 『蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山に祠を建て蚕養大明神、蚕養嶺地主神と尊称した』 

  茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行

② 景行帝四十年
 『日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。
  尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』 

  茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行

の二つの大きなエピソードを伝えていますが、これはどうもオリジナルは、
寛政十年(1798年)に水戸彰考館の神道司経の青山延彝(のぶつね)が撰した縁起文
蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神
だと思われます(文献1)。

その『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』の縁起文についてですが、
文献1("茨城県多賀郡史(復刻版))の文をそのまま引用すると、

 ① 『水戸彰考館編集神道司経青山延彝寛政十年に本社の縁起文を撰す。
曰く孝霊帝五年辛巳二月初午、始形見于蠶養濱相去一許町東沖時人為立祠於上子山祀之、
號曰蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神…』


 ② 『・・・日本武尊 東征 入陸奥、時過常陸國、維船于豊浦湊、
直詣蠶養嶺神路森、祈克三日夜、 既而発船、至蝦夷境、不戦蝦夷威平、・・・日本武尊蠶養嶺神、
寄付神領八十束部、・・・』


と、2つの由来が語られています。 
孝霊帝五年いう時代、そして景行帝四十年という時代については神話上の時代なので、どこまで信頼できるかは
はなはだ疑問ですが、少なくとも江戸時代当時、この2つの伝承が伝わっていたということは言えるようです。


【ヤマトタケル伝説から伝わる常陸国の人々の心】

上記の寛政十年に水戸彰考館の神道司経の青山延彝が提出した蠶影大明神の縁起文に出てくる
『豊浦湊』と『日本武尊(ヤマトタケル)』の話は、地元で伝わっていたらしいオリジナルの伝説のようです。

文献9では、古事記、日本書記 そして常陸国風土記におけるヤマトタケル(漢字表記がそれぞれ文献によって異なるので同書ではカタカナ表記に統一)の常陸国内での足跡を詳しく検討していますが、同書を読むと、青山延彝が書いた縁起文にあるヤマトタケルに関する伝承(上記(4)②)は、古事記、日本書記はもちろん、常陸国風土記にもない伝承です(※)。
 ※ただし、現存している常陸国風土記は完全本でありません。
  オリジナルには記載があったのかもしれませんが、川尻村のエリアとなるであろう多珂郡の記載内容は少なく、
  今となっては分からないのが残念です。

文献9によると、全国には数々のヤマトタケル伝説があり、おそらく当時からいろいろな語り部が「ヤマトタケル」伝説を
既に伝えていて、古事記や日本書紀という中央集権でまとめた時に取り入れた説話と、常陸国風土記が記録したヤマトタケル伝説は、
語り部が全く違って、話の体系も違ったのではないかとしています。私もその考え方に賛同します。

そして、更に常陸国風土記には(完全本があったとしても)記載されていない、もっとローカルな「ヤマトタケル伝説」は、
沢山あったことでしょう。
(たとえば、つくばのエリアに伝わるヤマトタケル伝説~岩崎山の話・今鹿島の話など~も、常陸国風土記にも書かれていない
ローカルな伝説です)

そして私は
戦わずに勝てた
という一言に深い意味を感じます豆電球

当時の大和朝廷から見て、常陸国は極めて蝦夷に近い土地です。
しかも鹿島神宮よりもさらに北にある、茨城県北は更に東北に近い。

その土地柄、古来からこの土地の人は、蝦夷の民にシンパシーを感じてた(もしくは征服された蝦夷の民だった)のではないか。
大和の中央政権に対して、忸怩たる想いを抱き続けていたのではないか。

だから、ヤマトタケルという英雄が来て戦勝祈願したら『戦わずに勝てた』ということで、その神意に沢山の寄進をした
と伝えているのではないか。

そう感じるのです。

青山延彝が記した縁起文の『大和武尊』の話も、付随して出てくる地名『豊浦湊』も、
私は、地元で語り継がれてきた、とても古い伝説ではないかと思っています。


ところで、蚕養神社の由緒と変遷を見てきましたが、金色姫譚は全然出てきません…!!

しかし、この地では『赤い貝の首飾り』にちなんだ蚕のお守りを含めた、金色姫伝説は
しっかり伝わっているぐー

その辺りも含めて、この地における金色姫譚の生まれた経緯と伝播について考えていきましょう。


(続きます)

  茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《後編》



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【参考文献】

1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社

2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市

3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団

4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)

5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社

6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房

7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター

8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁 

9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社

10.  『日立市史』 日立市役所 常陸書房

11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会






  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑

前回までの話
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山


引き続き、金色姫譚が生まれた過程を考えていきますが、
さて今回は、室町時代後期の頃までの金色姫譚に、なぜ、いきなり、富士山信仰が入ってきたのか?についてです。

前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山)では、
室町時代後期 永禄元年(西暦1558年)滝本坊という人によって『戒言』(滝本坊 筆)として書かれた金色姫譚に、
かなり無理矢理の後付け感たっぷりで、『かぐや』姫と富士山の話が挿入されていることを書きました。

その『戒言』(金色姫譚)の最後の部分、富士山とかぐや姫がいきなり出てくる箇所のあらすじを、再度掲載します。


*****

そこへまた『不思議なことに』、欽明天皇の皇女のかぐやひめが、筑波山へ飛んできて、神様だと言われ、人々にあがめ奉られた。
ある時、神託があり、『自分は旧仲国の霖夷大王の娘で、この国の人々を守るために来て、欽明天皇の子となった。
そしてこの国でこがひの神となり、『とよら』の地で綿を作ったのは、私、かくやひめである』と言い、
この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ神様は行かれた。
 たかとりの翁達もこの神を拝んだ。『筑波山の神と富士の権現は一体』なので、こがひの神ともなり、
その本地は勢至菩薩の化身である。
 だいにちへんぜう(大日遍照か?)の『ごへんさ』(意味不明)なので飼っている蚕はおろそかにしてはいけない。
綿を練った仙人は、りやうじゅせん(霊鷲山か?)の釈迦牟尼仏である。


*****

この箇所を頭に入れて、考えていきましょう走る


【1.中世富士山縁起と、かぐや姫】


写真は、伊豆大島から見た富士山
(2019年5月撮影)

一般に『かぐや』『かぐや姫』といえば、有名な竹取物語の登場人物です。
竹取物語は平安時代前期ごろ成立した考えられる物語。

その竹取物語とは別のストーリーが、富士山付近で古くから伝わっているというのです。
(文献1:「富士山縁起の世界 -赫夜姫・愛鷹・犬飼-」 富士市立博物館)

『富士山縁起』と呼ばれている、富士山ものがそれで、文献1によると
『富士山縁起とは、富士山および富士山信仰に関わった寺社に関する由来伝説などを記した縁起書の総称』
とのことで、内容は多義に渡っているのですが、『赫夜姫(かぐやひめ)』にまつわる話も多く含まれるとのこと。

現在の富士山信仰の神社の祭神は『木花開耶姫(このはなさくやひめ)』ですが、これは近世、江戸時代以降のことで、中世の富士山縁起には、赫夜姫は登場するけれども、木花開耶姫は出てこないのです。

富士山縁起の赫夜姫の説話については本記事では触れませんが、注目すべきは、

★中世の頃の富士山縁起には、かぐや姫(赫夜姫)』が主役として語られる縁起が多く伝わる

という事実です。



【2.中世の富士山信仰と常陸国】

文献2(「富士山信仰と富士塚」 富士市立博物館)によると、平安時代後期に末代上人によって富士山修験道が生まれ、富士山麓の村山の地を拠点に、村山修験道と呼ばれる信仰が広まったそうです。そして、

●仏教色の強い初期の富士山信仰は、関東よりも関西に広がった。
(「村山を中心とする富士山修験者は京都聖護院門跡を中心とする本山派に属している」)

●時代が下がるにつれて関東にも広がり、関東に多くの行者・先達が現れた。
(「これが爆発的な発展をみせる江戸時代の富士講の基礎になる」)。

特に、同文献では『新編常陸国誌』の記述『中世以後、関東ノ風俗ニテ塚ヲ築キ、富士権現ヲ勧請スルモノ所々ニアリ』
という一文を紹介し、中世以後の関東での富士山修験者(村山修験者)の増加は明らかとのこと。

つまり、中世(室町時代ごろか)、仏教色の強い村山修験が常陸の国にも広がりつつあった様子が分かります。


【3.中世の富士山修験者と養蚕と女性】

さて、養蚕信仰と富士山信仰がどう繋がるのかと言うと、これもしっかり繋がります。

文献3(「富士山と養蚕 ―信仰の側面からー」山梨県立富士山世界遺産センター)によると、江戸時代に入ると、富士講と蚕神(蚕影山権現)と結びつき、山梨県方面で蚕影山信仰が広がっていったとのこと。

江戸期以前、中世の頃も、富士講が生まれる前の富士山修験者によって、富士山信仰と共に蚕神(この場合、蚕影山権現かどうかは不明)が関係づけられて、信仰を広げていったのは充分考えられます。

その証拠が、先に上げた永禄元年(西暦1558年)に書かれた『戒言』の最後の部分なわけです。

『戒言』では、富士山の神がコノハナサクヤヒメでなくカグヤヒメなのも、中世富士山縁起を反映されているのが分かります。


養蚕、蚕糸、織物は、古代から近代・現代に至るまで女性の仕事でした(文献4)。
また、江戸以降の富士講が発達した地域は養蚕が非常に盛んだった地域と重なるとのこと(文献5)。

蚕の餌となる桑の栽培も含め、養蚕は気候変動や、蚕の病気・害獣による食害などで、大変に苦労を伴う仕事です。
蚕という『生けるもの』の生命と交換に蚕糸を得る仕事。
そういう重労働に携わる女性達の気持ちをぐっと捉えるのは、やはり女性神、女神でしょう。

中世の富士山縁起に出てくる『赫夜姫(かぐやひめ)』は、絶好のキャラクターです。
(それが江戸時代以降は『木花開耶姫(このはなさくやひめ)』になっていくわけです)

女性たちによって養蚕が営まれてきた関東甲信地区で布教するうえで、富士山修験者達が富士の神『赫夜姫(かぐやひめ)』と、蚕神『金色姫』キャラクターを用いて、『同じ神』だとなかば強引に結び付けて布教していったのは容易に想像できます。


中世の頃『金色姫譚』がどのエリアまで広がっていたのか不明です。
最初は、常陸国もしくは筑波山付近あたりだけのローカルな蚕神だったのかもしれません。

それを関東に布教にやってきた富士山修験者(村山修験者)が金色姫譚の存在を知り、布教のツールとして金色姫を使ったのではないかと私は思います。
その証拠が、『戒言』の最後に無理やり挿入されている『かぐや姫』のくだりです。

原文は
こゝもとの山も、いさぎよからす、これより、みやこちかき、ふしさんへ、よぢのほるなり
(文献6)
つまり、『この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ(神様は)登られた

の部分は、地元常陸国の人が語ったとは思えないぷんぷん
しかも『よちのぼる』です。 富士山に登っちゃうんです!!
もろに富士山修験です。

『戒言』からは、そのような背景をも見えてくるようで、大変興味深いです。


写真は、常磐自動車道から見た富士山
(2020年2月撮影)







【4.江戸時代~近代の金色姫譚】

江戸時代になると幕府や各藩の政策で養蚕が奨励されるようになり、寺子屋でも養蚕技術が教えられるようになります。

江戸時代中期になりますと、養蚕業の興隆に合わせるように、養蚕技術に関する様々な指南書の普及し、信仰面でも、蚕影山桑林寺など、後述する常陸国蚕の神社に繋がる寺院による布教もあり、金色姫譚も全国に知られていきました。

蚕影山桑林寺と金色姫譚のことは、以前当ブログでも書きましたのでそちらもご参照ください。
 → 豆電球 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
   豆電球 つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地


江戸後期、享和三年(1803年)に蚕種商人の上垣守国による『養蚕秘録』は養蚕について多義にわたって書かれた蚕書で、度々再版されて、海外にも伝わりフランス語訳、イタリア語訳で出版された書(文献4)ですが、その『養蚕秘録』でも金色姫譚が紹介される(文献4、7)など、金色姫譚が全国に(世界に!)広まっていきました。

江戸時代以降につきましては、今後、常陸国の3つの蚕の神社の各論でまた詳しく見ていきます。


【★金色姫譚誕生の仮説★】

ということで、今まで見てきた資料等から、今に伝わる金色姫譚が生まれ、後世広く広まっていった経緯を想像しますと、

下記の

(A)⇒(B)⇒ (C) ⇒(D) ⇒ (E) ⇒ (F) ⇒ (G) ⇒ (H)

という仮説を私は考えます。



(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か?  ≪時代不明:古代~中世≫
 
以下の(i)と(ii)がベースにあったか。

(i) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)

(ii) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話

  物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明




(B)  常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫


養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。

(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。

(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。

 伝わり方は想像するしかないが、例えば、
 
 ・新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
   養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。

 ・九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた舟に、蚕種を持った人がいて、
  蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。



(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫ 

  (c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった

 (c2) とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していったか
    
  永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。



(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫

 上の(C)の前か後か同時期かは不明




(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫

  『筑波山のほんどう仙人』



(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫

   『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
    かぐやは、生糸から織り方を教える。

   『富士山=筑波山』という考え方
    かぐやは、『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。



(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる  ≪中世≫

   室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。 




(H) 江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく   ≪近世:江戸時代≫

   寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。




(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭    ≪近世:江戸時代中期~後期≫

・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせ、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教。

金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。



(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫

養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。



(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫

 明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
 蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
 筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
 広く信仰される。



以上の(A)~(K)のような流れがあったのではないかと私は考えます。

特に記録のほとんどない中世以前の(A)~(G)の『金色姫譚 誕生仮説』は、
状況証拠による私の想像の産物ですが、あながち外れていないように思っていますが、更に詳しい方のご意見を聞きたいです。

江戸時代以降の(H)~(K)については、文献   など、多くの研究者が調べられていますので、
当ブログでは、中世以前の(A)~(G)の『貴人蚕譚』から『金色姫譚』に変わっていったプロセスについて
焦点を当てて
考えます。

(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生

については、今まで考えてきましたので、いよいよ、常陸国が関わっていそうな、

(B) 『貴人蚕譚』の伝播?誕生?
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』
(D) 権太夫という登場人物の誕生
(E) 筑波山系修行者の介入
(G) (B)〜(E)がまとめられて伝播


のプロセスが気になります。

どこでどのようにして生まれたのか? ヒントはないのか?
そうしますと、やはり、金色姫譚が今でも伝わる常陸国の三蚕社のある地域は外せません。

ということで、次回からは、常陸国の三蚕社とその地域について、それぞれ考えていきます。

まず最初は、日立市の蚕養神社とその地域についてです。

→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《前編》





  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑

前回までの話
豆電球茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
豆電球茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」


引き続き、金色姫譚が生まれた過程を考えていきます。

前回は、長門国(穴門)の豊浦宮(現在の山口県下関市)で、もしかして『原・金色姫譚』が生まれたのかもしれない!? という仮説を、歴史文献から立ててみました。

今回は、さらに別の見地からも考察してみます。

【おことわり】
※ 前回、当ブログでは、『金色姫譚の原形』を『原・金色譚』と呼ぶとしましたが、
初期の頃に登場人物に『こんじき(金色)』という名がついていたか不明であり、紛らわしいので、今後は『金色姫譚の原形』を『貴人蚕譚
と呼び、現在に伝わる金色姫伝説を『金色姫譚』と呼ぶことにします。
 

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【1.柳田国男 著『妹の力』の中の『うつぼ舟のこと』論考より】


柳田国男 著『妹の力』(文献1)の中の『うつぼ舟のこと』論考を読むと、以下のことが書かれています。

① 海からうつぼ舟(中空の舟)に乗って、貴人が流れてくる伝説が、瀬戸内海地方~九州にかけていくつも伝わっており、祖先がそういった貴人だとする氏族がある(周防の大内氏、備前の宇喜多氏、伊予の河野家など)。

②(常陸国の金色姫譚以外には)うつぼ舟が伝わる話は、『東部日本ではいまだ聞くことがないのである』。
つまり、東日本では、うつぼ舟で貴人が流されてくる伝説・説話は、金色姫譚以外に見当たらないとのこと。


また別の文献(文献2)によると、

③ 阿波や土佐などの諸国は養蚕の技術が盛んに取り入れられながらも、それに伴う信仰が伝えられなかったようだとのこと。
(徳島県でわずかに繭を社寺や祠堂に供えたり、高知県で戦後に関東に習ってつくられた女神の御札がある程度とのこと)

どうも西日本では、養蚕が盛んだった地域でも、不思議なことに養蚕関係の伝説・説話は伝わっていないようです
(これは今後も要確認事項ですが)。

しかしながら、注目は①で、瀬戸内海地方~九州にかけて、うつぼ舟に乗って流れ着いた貴人が祖先だという氏族が複数あるということです。
つまり、長門国(穴門)豊浦を含む瀬戸内海~九州の地域には、『金色譚』の原型となる『原・金色譚』ともいうべき『貴人蚕譚』が生まれる土壌があったと言えるのではないでしょうか。


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【2.永禄元年(西暦1558年)滝本坊 筆『戒言』より】


さて、現在まで伝わる『金色姫譚』は、少なくとも室町時代後期には出来上がっていたのが分かっています。
(文献2,3) 
というのも、永禄元年(西暦1558年)京都の八幡山の滝本坊という人が書き写した『戒言(かいこ)』  
が『金色姫譚』そのものなのですグッド

現在まで伝わる金色姫譚(蚕影神社縁起、蚕影山和讃等 文献5,6)のあらすじとほぼ同じなのですが、微妙に違う点があり、これが今後、考察を進める上で重要だと私は考えますので、文献4(『室町時代物語大成 第三』に収録されている『戒言』)を元に、少し詳しく書きます。


【『戒言』のあらすじ】

まず『戒言』では、前書きの後に、『きんめいてんわうのみよに、こかひあり、そのゆらいを、くわしくたつぬるに、』
で話が始まります。
『きんめいてんわう』(欽明天皇か?)の時代には既に『こかひ』(蚕養ひ=養蚕)があり、その由来がこれから語られる物語だという始まりです。

ストーリーは現在に伝わる『金色姫譚』とほぼ同じで、話の流れは大きく4つ(※)に分けられます。
 ※多くの文献では、下記の①②を一つにして、3つに分かれるとしていますが、私は4つだと考えます。

北天竺国のなかの旧仲国の りんゐだいわう(霖夷大王)の娘の こんじき(金色)が継母にいじめられる。
   継母によって4回の災難(獅子孔山に捨てられる・鷹群山に捨てられる・海眼山という島に捨てられる・庭の地中深くに埋められる)にあうが、なんとか助けられる。
  こういう災難に会うのは、こんじきが尊い仏様の化身のためだと考えた王は、桑の木でうつぼ舟にこんじきを乗せて泣く泣く海に流して逃がす。


    ※全体の話の中で、この①の部分が一番長く、全体の6割弱を占めます


 海に流されたこんじきは、多くの月日を経て、秋津洲(日本)の「ひたち」国の「とゆら」に流れ着き、漁師のごんのだいふ(権太夫)に助けられる。
 権太夫夫婦の介護もむなしく、こんじきは身体が衰弱して亡くなる。
  嘆き悲しんだ夫婦は、からひつ(唐棺)をこしらえて亡くなったこんじきを安置する。
 ある夜、『食事を与えて欲しい』という夢を見て棺を開けると、こんじきの姿は消えていて、小さな虫たちがいた。
 生まれ変わったと喜こんだものの、餌に何を与えて良いか分からない権太夫夫婦、こんじきが乗ってきた舟が桑の木で出来ていたので、桑の木の葉を虫に与えると、虫たちは喜んで食べた。
 しかしそのうち虫たちは動かなくなってしまい、権太夫夫婦は途方にくれたが、また夢で(こんじきが出てきて)、自分が祖国で受けた4つの災難を語り、これは虫たちの4つの生態(しけめとまり・たかめとまり・ふなとまり・にわとまり)だと伝える。
 4つの『とまり』を経て虫たちは まひ(繭)を作ったが、これは こんじきがうつぼ舟に乗ることと同じだとされた。

    
  ※この②の部分は全体の3割を占めます


 その頃、つくば山(筑波山)に ほんだう仙人という一人の仙人がいて、山から下りてきて、繭を練って『綿』(真綿。木綿ではない)を作ることを教えた。『わたいと(絹糸)』はこの時より始まった。 綿は寒さを防ぎ、人々に喜ばれた。『きぬ』『あや』とも言われ、衣装も美しくなった。  
 その方法を学び、権太夫は豊かになった。
 
  
 
※③の部分は全体の0.5割強を占めます。

 そこへまた『不思議なことに』、欽明天皇の皇女のかぐやひめが、筑波山へ飛んできて、神様だと言われ、人々にあがめ奉られた。
 ある時、神託があり、『自分は旧仲国の霖夷大王の娘で、この国の人々を守るために来て、欽明天皇の子となった。そしてこの国でこがひの神となり、『とよら』の地で綿を作ったのは、私、かくやひめである』と言い、この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ神様は行かれた。
 たかとりの翁達もこの神を拝んだ。『筑波山の神と富士の権現は一体』なので、こがひの神ともなり、その本地は勢至菩薩の化身である。
 だいにちへんぜう(大日遍照か?)の『ごへんさ』(意味不明)なので飼っている蚕はおろそかにしてはいけない。綿を練った仙人は、りやうじゅせん(霊鷲山か?)の釈迦牟尼仏である。


     ※④は③よりも更に占める割合は少なく、全体の0.5割弱ですが、仏教用語が並びます。


『話が4つに分かれる』というより、①の話に、後から別の話②③④が次々付け加えられ、4部構成になったような印象です。

 ★①は、外国で継母にいじめらる娘のこんじき(金色姫)を、大王が(助けるために?)舟に乗せられて海に流されるまでの話で、世界的に見られる、継母による継子いじめの話の類型に思えます。
 (余談:継子いじめの類話に出てくる、いじめる後妻のダンナ=いじめられる子の父親は、たとえ大王とはいえ、後妻には何も出来ないというが、世界の昔話の定番であり、不思議ではありますね)

 『北天竺国の旧仲国』(具体的な場所は不明)という設定に加え、金色姫の父の霖夷、実母(早くに亡くなる)の光契という名、受難を受ける獅子吼山・鷹群山・海眼山という地名にも、やはり大陸から伝わった物語だと感じさせます。
 
 また、霖夷大王が金色に言う台詞『ぶつじんさんほうのけしんなり(仏神三宝の化身か?)』『ぶつはふ はんじやうのくにへ(仏法繁盛の国か?』
『しゅうじゃうをもさいどし給へ(衆生を済度し給え)』
 と仏教的表現が(唐突ですが)使われています。
 また金色姫の4回の苦難(継母のいじめ)は、蚕の4回の脱皮にも見立てられていて、蚕の生態説明の説話になっています。

★②で、『ひたち』の『とゆら』という地名が出てきます。


(写真は、茨城県日立市の国民宿舎 鵜の岬 の前の海。 常陸国の海の例です。2020年8月撮影)

 常陸国の『とゆら』という地名だけで、舟が流れ着いたので、海辺だということしか分かりません。
こんじきを助けるのが、『うら人』の『ごんのだいふ(権太夫)』夫婦。『うら人』は『浦人』で、つまり流れ着いた浦に住む人ということでしょう。
 こんじきの生まれ変わりの白い小さな虫の餌(桑の葉)や蚕の生態を夢に出てきた姫から教わって、育てます。
 つまり、蚕を育てる=養蚕の事始めの説話です。



で、『つくば山』の名が出てきます。

 
(写真は石岡市高浜付近から見た筑波山。2021年4月撮影)

 ほんどう仙人は、『仙人』という表現から、一見、神仙思想のようにも思えますが、
 『つくば山』に当時も既に多くいたであろう、筑波山系で修業する山岳信仰の修行者の影を感じます。
  ほんどう仙人は「綿」(※)の作り方を教えています。「綿」は蚕の成虫が出てきた後の(穴の開いた)繭を伸ばして作ります(文献 )。 
   ※ここで言われている『綿』は、木綿(コットン)ではなくて真綿=蚕の繭から作られたものを指しています。
  ほんどう仙人が、成虫が出た後の繭から真綿を作り、暖かい服に出来ることを教えたというお話です。 
  更に『わたいと(生糸)』はこの時より始まったという表現、『きぬ(衣?)』『あや(綾?)』『いしょう(衣装?)』という表現も(取って付けた感がありますが)書かれ、機織りも伝えたような表現です。

  筑波山信仰の宗教者が、養蚕・蚕糸・機織りの知識を持っていて、地元の人に教えたようなこともあったかもしれませんが、それにしては①②のようや具体的な説話ではなく、話が短すぎます。
『つくば山のほんどう仙人』というキャラクターを登場させ、養蚕の技術を伝える際に、筑波山(筑波山信仰?)を結びつけようとした宗教者(グループ)がいたのではないかと考えます。

  なお、『つくば山のほんどう仙人』が綿の作り方を教えた場所は、筑波山麓(蚕影山?)か他の土地なのかは、冷静に読むとはっきりしません。
 『つくば山のほんどう仙人』と書かれていることで、筑波山麓で教えたような含みを感じさせてますが。    


そして最後★④では、いきなり!欽明天皇の皇女のかぐや』が登場してきて、実は自分が養蚕の神であると言います。
 ストーリーの冒頭で、欽明天皇の世に既にあった養蚕の由来で、欽明天皇の時代よりも以前の時代設定のはずなのに、
 欽明天皇の皇女が出てくる・・・という矛盾も物ともせず(^^:)汗


(写真は 伊豆大島から見た富士山。2019年5月撮影)

 『筑波山=富士山』だと言いながらも、筑波山なんかにいてもぱっとしないのでと言って泣『都に近い』富士山に行くと言って富士に行き、当地で神になったという話。しかも『たかとりの翁』という人物がなんの説明もなく、『あの有名人も信仰してるよ!』という感じでいきなり名前があがる。
 しかも神だけど、仏教の勢至菩薩、釈迦牟尼仏、などなど仏教用語のオンパレード

 結末は常陸国でなくて、富士山のある駿河国か甲斐国のお話に…?がーん…。 

明らかに、富士山信仰、しかも仏教と混淆した宗教思想が唐突に入ってきて、結末をかっさらています(笑)びっくり

 
  ①②③④と4部の構成ですが、まず最初の①の説話がくどい位に長い(^^;)汗
 登場人物の描写やら、金色姫の遭う災難の説明がひたすら長く描かれます。

  次の②では、舞台が秋津洲(日本)の常陸国に舞台が変わりますが、割と自然な感じで①と結びついていて、『蚕を育てる(養蚕)』の事始めの話としてまとまっています。

  私は、②の部分は物語が伝わった初期の段階で①に付け加えられ、比較的長い間、人口に膾炙していって話がこなれて繋がっていったのではないかと考えます。
  (一般には、①と②は一緒の話だと考える研究者がほとんどのようですが)

  さて、それに続く③は、綿づくり業・蚕種業・蚕糸業・織物業の事始め説話であり、かなり重要な技術に関する説話のはずです。
しかしそれらはとても簡単に語られていて、正直、雑…(^^;)汗

 思うに、それほど養蚕・蚕糸・織物の造詣の深くない、筑波山系の山岳宗教者(グループ)が、もとからあった養蚕の伝説に、
  『つくば山のほんどう仙人』というキャラクターを加えて、無理に?筑波山の話にした
ように私は感じます。

そして最後の④では、全く違う登場人物が唐突に出てきて、『筑波山=富士山』だと言い、『ここに(筑波山)にいてもいさぎよからず(いてもしょうがない)』と、筑波山をディスりながら(笑)、京の都に『近い』と言って唐突に半ば強引に、舞台を富士山に持って行き、仏教用語、菩薩、仏様の名を畳み掛けるように並べて、話を終えています・・・。

  富士山信仰・特に仏教との混淆が強い山岳宗教者(グループ)が、この説話を利用するために、強引に汗最後の部分をつけて、富士山の神が養蚕の神だとして、話を拡散(布教)したと見て良いかと思います。

  では、なぜ富士山信仰が関わってきたのでしょうか??
  そして、どうして4部構成の物語になっていったのでしょうか??

  次回はそれを考察していきます。
 
  (続きます)
 
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説


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【参考文献】

1.『妹の力』柳田国男著 角川文庫 収録 『うつぼ舟の話』

2.『民俗信仰の神々』 大島建彦 著 三弥井書店

3.『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行

4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86

5.『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター

6.『筑波町史 史料集 第五篇』 茨城県つくば市教育委員会


















  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑


豆電球前回までの話
 →  茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)


江戸時代前までは、生糸は輸入に頼っていたのですが、江戸時代になり絹の需要が伸びて、輸入のための金銀の流出を防ぐために、幕府は輸入生糸量を制限し、国内の養蚕を奨励するようになりました(文献1)

そうなると養蚕の為の手引書が生産者にとって必要になってきます。
日本で発行された初期の手引き書は、元禄十五年(1702年)に近江の野本道玄による『蚕飼養法記』で、幕府・諸藩の奨励と民間の熱意もあって、その後も江戸期には約100冊もの手引書が刊行されたとことで、著者の多くは蚕種作り商う蚕種家だったそうです(文献1)。
その中で、享和三年(1803年)、上垣守国によって書かれた『養蚕秘録』は詳しい養蚕技術だけでなく、養蚕の起源、蚕の伝説、真綿の作り方、教訓的な話など多義にわたる大変な名著として全国に広まり、その中に『金色姫』譚もありました(文献1,2)。

繊細な生き物である蚕の成育の難しさ、気候変動による蚕の餌となる桑の生育、鼠などの食害等に立ち向かうには、知識と技術はもちろんですが、やはり精神的支えも必須で、そこを救うのが、信仰の力なわけですにこにこ
従って、そこに様々な信仰も広がっていきました(文献2,3,4)。

それらの信仰の中に、『常陸国三蚕神社』(江戸時代は寺も関係)が聖地として重要な位置を占めキラキラ、明治以降の養蚕の興隆とともに、流行神として信仰が広がっていきました(文献1,2,3,4)。

『常陸国三蚕神社』のそれぞれについては、今後各論で考察していきますが、
共通に『伝わっている』のが、『金色姫伝説』
です。

私はこの『金色姫』伝説の発祥の地が気になっています。


今回は、金色姫譚が生まれそうな土壌、土地について、文献を元に、妄想も膨らませてキラキラ考えてみます。
(今後は『金色姫伝説』でなく、『金色姫譚』と記載します)

写真は蚕の繭ですが、指を入れて洗顔するために一部カットされた美容グッズです。
現代は贅沢になってきていますね汗






【金色姫譚は、常陸国で生まれたのか??】

のっけから、愛県心の強い方に怒られそうですが汗
(しかも私は、金色姫譚の本拠地?のつくば に住んでいる、つくば市民ですが汗
私は、
今に伝わる『金色姫譚』の元となる、『原・金色姫譚』があって (それが生まれたのは常陸国とは限らない)、
それが時代と共に、『常陸国の金色姫伝説』になっていったのではないか

と考えています。

つまり、養蚕技術が常陸国に伝わった時に、『原・金色姫譚』的な説話・伝説も一緒に外から入ってきた可能性を考えています。

その根拠として、

① 弥生時代前期の遺跡から絹が出土している(文献1,2、3)

② 本格的な養蚕技術は、1~2世紀頃に、朝鮮半島からもたらされたと考えられている(文献3)
  またはその前に、中国・華中方面からもたらされた可能性もある
(文献5)

③ 魏志倭人伝に、(西暦239年)邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝に国産の絹を献上したという記述と、
 邪馬台国では桑と蚕を育て、糸を紡ぎ、上質の絹織物を作るという記述がある
(文献1)

ということで、かなり古くから、『海を渡って』外国から養蚕技術がもたらされ、既に3世紀の卑弥呼の頃には自分の所で
作った絹を魏の国に献上するまでになっていたわけです。

・養蚕技術とともに、蚕や養蚕にまつわる様々な説話・伝説が日本列島にも伝わり走る
・更に、養蚕技術が国内各地に伝えられる時、説話・伝説も一緒に伝わり、広がっていった芽


だろうことは容易に想像出来ますちょき

そういう伝承の一つに、

『金色姫』的なモチーフの話 = 『原・金色姫譚』

があったのではないかと、私は考えています。


【海から流れ着いて豊浦に】

さて、金色姫譚では、海に流された姫が『豊浦』に漂着します。
常陸国に伝わっている話なので、『常陸国豊浦』となっていますが、妙にはっきりと伝わる地名『豊浦』が気になります。

文献6で『豊浦』という地名を調べると、常陸国に該当する古代地名があったかはっきり(※)はわかりません泣
 (※ 伝説の中で『豊浦』と呼ばれた旨が伝わる地は茨城県内にもありますが、これらは今後、各論で考察します)

しかし『豊浦』という地名は全国に数ヶ所あり、有名な所で、
★ 奈良県明日香村の豊浦宮(推古天皇が即位) 
★ 山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津(仲哀天皇滞在・神功皇后滞在・出兵)
があります。

1つめの明日香の豊浦だとする説もありますが、これはこのページの最後の【註】で触れます。

私個人としては、2つめの、山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津に注目します。
というのも、まずは山口の豊浦津は、関門海峡に接し日本海側にも瀬戸内海にも接している、古代からの交通の要所だからです。
そして地理的にも、中国大陸、朝鮮半島に近く、古くから交易が盛んだった地
卑弥呼のいた邪馬台国の候補地、九州北部にも隣接する地

・・・これだけどもすごい土地びっくり

そして、この山口県の『豊浦郡・豊浦津』を調べると、やはり大変興味深いことが分かってきます!びっくり


【奉献珍宝蚕種等】

日本三大実録 巻五十 光孝天皇 仁和三年七月の記事に、

十七日戊子。左京人従五位下行采女正時原宿祢春風、賜朝臣姓。春風自言。先祖出自秦始皇十一世孫功満王也。
帯仲彦天皇四年、帰化入朝、奉献珍宝蚕種等
。』

という記載があります(文献7)。

平安時代 仁和三年(西暦889年)七月十七日戊子の日に、左京の人の時原春風という人が、「朝臣」の姓を賜った記事で、
その時に、春風が自分の出自を、

秦の始皇帝の十一代目の子孫の功満王が自分の先祖で、
(功満王は)帯仲彦天皇四年に、この国に帰化して、その時に、珍宝蚕種などを献上しました


と語ったという記事です。
 ※ 左京人:左京に住む人の意か? 
    従五位下:位階の一つ
   采女正:女官(采女)の長。
   宿祢:称号の一つ
   朝臣:天武天皇が(西暦684年に)定めた「八色の姓(かばね)」の上から二番目。
   帯仲彦天皇: 仲哀天皇。日本武尊の息子で、神功皇后の夫。

ただし、帯仲彦天皇(仲哀天皇)は、実在が疑われている天皇(父親の日本武尊が既に伝説の存在)なので、
『帯仲彦天皇四年』が西暦何年なのかは不明です泣

いずれにしても、時原春風という人が、自分の家で伝わる出自について語ったという話で、又聞きの記録ではありますが、
ここで注目したいキーワードが、

● 『功満王』
● 『奉献珍宝蚕種等』


です。

功満王は、外国から来て『蚕種=蚕の卵』を奉献し、帰化したということ。
誰に奉献したかは不明ですが、文意から行くと、帯仲彦天皇(仲哀天皇)に奉献したということでしょうか豆電球


【仲哀天皇】

仲哀天皇=帯仲彦(たらしなかつひこ)は、謎の多い天皇で、奥さんの神功皇后があまりにも有名ですが、仲哀天皇自身は非業の最期を遂げます。

さて、古事記によると、仲哀天皇は、『穴門の豊浦宮、筑紫の訶志比(香椎)宮に座して、天の下治らしめき』とのこと
(文献8)。

穴門はその後「長門国」となり、現在の山口県西半部から東北部に位置します(文献6、8、9)。

関門海峡があり、日本海側にも瀬戸内海にも接している交通の要所キラキラです。

また筑紫国は関門海峡を挟んで長門国と隣接する土地。今の福岡県のあたりで訶志比(香椎)も日本海に接した場所です。
つまり交通の要所をがっつり押さえた場所に、仲哀天皇は宮を構えていたわけです。

上の時原春風が語った、自分の先祖(功満王)が仲哀天皇在位4年目に、蚕種を直接、仲哀天皇に献上したとしたら、
仲哀天皇のいた『穴門豊浦宮』の可能性がとても高くなります。グッド

なお『穴門豊浦宮』の『豊浦』は『とゆら』『とよら』と読むようです
(文献6、8、10 )。


【功満王】

(文献11,12 )によると、

功満王:秦始皇帝の子孫。融通王(弓月君)の父。秦氏の祖
ここに出てくる融通王は、
融通王 → 弓月君:秦氏の祖。応神十四年条に百済より帰化。功満王の父親

とのこと。

更に同文献の『弓月君』の項目に、姓氏録左京諸蕃という書物にある記載として
『(前略)その男功満王は仲哀天皇代に来帰し、その男融通王が応神十四年に百廿七県の民を率いて帰化し、金銀玉帛等物を献じた。
そして仁徳天皇の代に百廿七県の秦民を諸郡に従わしめ、姓波多を賜った』
とあります。

波多(はた)氏は秦氏。
秦氏は、養蚕と絹織物の技術を伝えた氏族です(文献2)。



【穴門豊浦宮】

今の山口県にあった『豊浦』について、もう少し見ていきます。

● 『豊浦という呼称の所見は「日本書紀」の熊襲征討の記事で、仲哀2年6月10日条に「天皇泊于豊浦津」、同年7月5日条に
 「皇后泊豊浦津、是日皇后得如意珠於海中」とある』 

(文献6)

● 『「日本書紀」仲哀天皇二年九月に 「宮室を穴門に興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す」 とある豊浦宮の置かれた地とされる』
(文献13)


更に養蚕に関しては、

● 『「続日本紀」神護景雲2年3月朔日条によれば、豊浦郡・厚狭郡などに養蚕をさせ、調の銅を綿に代えることとした
(文献6)


また朝鮮半島に近く、交通の要所でもあるため、漂着する人の記事もあり、

● 『弘仁5年10月13日には新羅商人31人が当郡に漂着しており(日本後紀)』
(文献6)

たぶん、大昔から漂着者が多い土地で、記録に残らない漂着者も多かったことでしょう。
遭難して漂着した人もいたでしょうし、大陸や半島から逃げてきた人達、新天地を求めて来た人達も多かったのでしょう。


【豊浦はどこか?】

こう見ていくと、

★ 『豊浦』『豊浦津』という歴史的に有名な地名
★ (献上された)蚕種(蚕の卵)
★ 養蚕
★ 『海から流れついた』=海上交通の要所、遭難した人が流れ着く地


が文献的にも考古学的にもはっきりしているのが、穴門の豊浦なのです。

ちなみに、穴門は長門国となり、国府も置かれるようになります。
また、仲哀天皇がいた『豊浦宮』のあった場所は、現在、忌宮神社(山口県下関市)の周辺に比定されています(文献9、13)キラキラ

金色姫譚のキーワードが揃う、山口県の『豊浦』
『長門国』が、『常陸国』に変わっていったとしたら・・・!?

妄想が広がりますが芽
金色姫譚伝説の元となる伝説・説話の存在(原・金色姫譚)の気配を、感じませんか?笑

そして、『常陸国豊浦』との関係は・・・!?


【註】 奈良県明日香の豊浦宮とする説について。

文献14 (筑波町史 資料集 第五篇) に収録されている 『日本一社蠶影神社御徳記 櫻井晩翠 著』 では、金色姫譚の最後の方に登場する 『欽明天皇の皇女の各谷姫』からの類推から、『豊浦』は、蘇我馬子の居住していた『豊浦宮』及び『豊浦寺』のあった、奈良県明日香村だとしています。

しかし私の個人的見解としては、伝説の成り立ちとしては、上記で述べてきたように、山口県豊浦との関係が深いように考えています。

また、各谷姫(カグヤ姫)の登場についても、次回に考察するように名理由で、奈良の豊浦宮とは直接関係ないと考えます。
(地元としては、 『欽明天皇の皇女の各谷姫』にロマンを感じたい気持ちは分かりますが)


(続きます)

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山



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【参考文献】


1,『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行

2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社

3.『養蠶(かいこ)の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会 発行

4.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

5.『森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一著 小学館ライブラリー 収録『絹(対談者 布目順郎)』

6. 『古代地名大辞典 本編』 角川文化振興財団 編集 角川書店

7. 『新訂増補 国史大系 日本三代實録 後編』 吉川弘文館  p636

8. 『記紀の考古学』 森浩一 著 朝日文庫

9.『日本古代史地名事典 普及版』 雄山閣 

10.『日本古代地名事典』田茂樹 著 新人物往来社

11. 『日本古代人名辞典3』 武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館

12. 『日本古代人名辞典7』武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館

13 『日本歴史地名大系第三十六巻 山口県の地名』平凡社

14 『筑波町史 資料集 第五篇』 茨城県つくば市教育委員会編



  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)


蚕影山に伝わる金色姫伝説では、金色姫は「天竺」から舟で流されてきました。

天竺」・・・インドです!

もう20年以上前になりますが、当時のJICA筑波の研修員の方で、
インドの養蚕技術の研究者の方が我が家にホームステイされたことがありました。

つくば市には匡の研究機関が多くありますが、当時の農林水産省の蚕糸・昆虫農業技術研究所(※)に養蚕技術の研究のために来られた方でした。
 ※ 蚕糸・昆虫農業技術研究所は、その後、他の農林水産省の研究所と統合され、現在は、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究 機構(農研機構) 農業生物資源研究所の一部門となっているようです。


その方からお土産に、インド産のシルクのスカーフを頂きましたキラキラ
(写真は頂いたそのスカーフのアップ)

落ち着いた色合いとシルクの肌触りがとても気に入っていて、しかも丈夫で20年以上経っても全然へたっていない! 。なので、現在も愛用していますが、不勉強な私は
インドの絹/絹製品』を、その時初めて知った次第でした。






スカーフについている、
「100% PURE SILK MADE IN INDEA」と書かれたタグ
まさしく、天竺の絹織物!

ところでその当時、筑波山麓に『蚕影山神社』というのがあるらしいというのを知ってはいましたが、まだ行ったことはなかったので、養蚕の神様だから、その方と一緒に行ってみたいと提案しました。

しかし、その方は大して興味を示されず (まあ、科学技術としての養蚕を研究されている方ですし、日本の神様にも興味ないのは当然かな)、うちの家族も気乗りしないようだったので、一緒に行くことはありませんでした。

ただ個人的に、ずっと蚕影山神社に惹かれて、今に至り、つれづれなるままに、蚕影山神社の話題を中心に、養蚕信仰について調べては、以下のような記事を当ブログに書いてきました。

豆電球筑波山麓 蚕影山神社、神郡地域の話題として、

 ● つくば市フットパスで訪ねる金色姫伝説

 ● 蚕影山神社と桑林寺~金色姫伝説の不思議

 ● 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係!   

 ● つくばプチ民俗学・・・ならせ餅

  豆電球また、養蚕とは直接関係はないのですが、蚕影山/神郡周辺の話題として、

   ● 筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の『和気広虫』伝説

   ● つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』

  豆電球 蚕影山信仰とは直接は関係ないのですが、つくばにも近く絹織物の結城紬で有名な結城に関係する話題として

    ● 結城と福井を繋ぐ伝説と信仰―猫塚伝説と袋羽神―

    ● 茨城 こんなもの見つけた♪(21) 結城まゆ細工ストラップ・結城紬バッジ・大穂ほうきストラップ



金色姫伝説』が伝わるのは、つくば市の蚕影山神社だけでなく、神栖市(星福寺・蚕霊神社)日立市(蚕養神社)にも伝わります。

これら3つの神社は、『茨城 三大蚕の神社』ということで、特に明治以降、日本で絹製品の輸出が増加し、養蚕業が盛んだった頃に、関東甲信越を中心に、各地から多くの参拝者(昭和になるとバスを仕立てて参拝に来られたとか)が訪れ、分霊された神社も各地に建てられました。
(その一例が上にも紹介した記事 → 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係!


さて、日本国内の絹といえば、世界遺産の群馬県富岡市にある富岡製糸場 が有名ですよね。
現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、『近代日本経済の父』澁澤栄一。もうすぐ新一万円札の顔にもなりますが、
その澁澤栄一も設立に関わった富岡製糸場。

インドのお土産のシルクスカーフから始まり、
近代日本の産業 - 絹・養蚕 ー 養蚕信仰 ー 茨城県の3つの養蚕信仰の聖地と歴史・民俗等

と、自分の中で、一本の糸で繋がったのでちょき、これから、じっくり 気になっていた
茨城県の3つの養蚕信仰の聖地
について書いていこうと思います。
(本当は茨城県歴史館あたりで企画展して欲しいくらいですがぷんぷん。過去に企画展やったことあるのかな?)


ちなみに参考文献は、県内各地に伝わる昔話と地域史(市史・町史)等の他に、

★ 『養蠶(かいこ)の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会 発行

★ 『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

★ 『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行

★ 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社


をメインの参考文献・テキストとさせて頂き、勉強しながら書いていきます。


(続きます)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」


【おまけ】 


世界遺産 富岡製糸場 (2019年8月撮影)

大変見応えがあります。








その富岡製糸場へ行ったときのお土産

● 『富岡名物 まゆこもり 富岡産シルク入り』 



 (本当はもっと箱ぎっしりに入っていたのですが、半分以上食べてしまってからの写真なので4個だけです汗

  美しい白色と可愛い形ハート
  品の良い甘さの葛湯の素。

  お湯に溶かして葛湯として頂くものなのですが、実は干菓子として直接食べても美味しくてハート、その後、再び群馬に行ったときにリピートして買いました。
  富岡製糸場でなくても、道の駅などでも買えましたので、見かけたらまた買うつもりです笑




(以下、画像に注意 (笑))






『かいこ王国』さんの蚕の形のチョコレート



 富岡製糸場前の商店街にあるお店で購入。

  クランチの入ったホワイトチョコの蚕が、抹茶味の緑色のチョコの上に乗っています。

  これはインスタ映えする(?)のもあって、ネットでは結構有名ですよね。   
  
  蚕の形に一瞬ギョッとして、キワモノ的汗ですが、食べるととても美味しいチョコレートでしたグッド
  (私はホワイトチョコは好きでないのですが、こちらのこの蚕の形のチョコは美味しかったです! お店の方によると、とても良い材料を使って作られているとのことで、要冷蔵でした)





  

プロフィール
かるだ もん
かるだ もん
徒然なるままに、興味のあることを気ままに書いています。好きなことばは「中途半端も、たくさん集まればいっぱい!」(ドラマのセリフ)

地元つくばや茨城の話題を中心に、茨城の食材を使った家庭料理、民俗学もどき、国際交流、旅の話題など、趣味の記事を掲載中。

特に自分の勉強も兼ねて、
★民話・伝説紹介と、それにちなむ土地めぐり
★茨城を中心に、全国の郷土料理と食材(世界の料理も含む)の話題
の話題が多いです。

・ヒッポファミリークラブ(多言語自然習得活動と国際交流)
・観光ボランティア
・郷土食研究会うまかっぺ!茨城

別館: 夢うつつ湯治日記 https://note.com/carfamom/

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