2022年05月14日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。

常陸国三蚕神社を考える3つ目は、地元、つくば市の蚕影山(蚕影)神社です。
(写真は2021年10月下旬撮影)
蚕影山神社か?蚕影神社か? 名前が2通りありますが、当ブログでは、『蚕影山神社』で統一して書きます。
蚕影山神社(蚕影神社)については、以前、詳細に取り上げました。
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
これらの記事と重複する部分もありますので、適宜、それをご覧頂きながら、今回のシリーズのメインテーマ、金色姫譚は常陸国のどこに伝わり育まれたか?について、蚕影山神社とその地域の可能性を考えていきます。
まず結論から言うと、すでに
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
で書きましたが、常陸国三蚕神社の中では、筑波山麓・蚕影山神社付近の可能性は低いと考えています。
それは何故かについても含めて、以下述べます。
【金色姫譚は、筑波山/筑波山麓(蚕影山)が本場なのか?】

<写真は、蚕影山神社境内に奉納されている絵馬や額の数々。写真中央は、金色姫譚の一場面を描いた絵馬。(2021年10月下旬撮影)>
今に伝わる金色姫譚は、筑波山系の蚕影山で生まれたと思われることも多いようです。実際、金色姫譚にまつわる祠なども、蚕影山神社の付近に点在(詳細: 以前の記事 → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 )するので、尚更ロマンを感じるのかもしれません
。
加えて、
● 古来から絹織物が盛んだった筑波山麓から絹織物が古来から収められている物的証拠が実際、正倉院に残っている。
● 万葉集にも、筑波山麓の養蚕・絹生産を直接感じさせる歌がある。
『万葉集 巻第十四 3350番 筑波嶺の 新桑繭の衣はあれど 君がみ衣しし あやに着欲も』 (文献1)
ということから、当然、筑波山麓では古来から『養蚕や織物に関する信仰』もあるはずと考えるからでしょう。
確かにそうではありますが、その『養蚕や織物に関する信仰』が、金色姫譚と関係があったかどうかは分かりません
。
別の信仰があった可能性も大きいですし、実際、伝わっていた別の伝説もあります(後述)。

<写真は、筑波山南麓から蚕影山を望む (2018年4月撮影)>
そして、たとえ素直に伝説を信じて『ここまで内海が来ていた』としても、外洋からここまで、漂着物が直接流れ着くとは、地形的に考え難い
。
(外洋から内海=現在の霞ヶ浦 に入り、桜川を遡って、『意図的に』舟を漕いで入ってくるなら分かりますが)
以前の記事
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
で詳述しましたが、この地においては、
★江戸時代中頃、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、金色姫譚も加えて布教したらしいと考えられる。
★『筑波山名跡誌』 安永九年(1780年)刊 (桑林寺が布教を始めたらしい時期の少し以前の頃に成立)には、金色姫譚については何も触れらおらず、全く別の蚕にまつわる伝説(後述)が記載されている。(文献2)
ことが言えます。
さて、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の『廿八社略縁誌巻之二』という書の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあり、『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた話を記しているがとのこと。
加えて社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』も上げられているとの記載があるそうです(文献3)。
つまり、1781年頃(『筑波山名跡誌」成立の頃)~1797年頃(『廿八社略縁誌巻之二』成立の頃)の16年間位の間に、
この筑波山麓・蚕影山で、金色姫譚が流布・巷説されるようになったと考えられないでしょうか。
そしてこの時期は、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、蚕影山明神の布教を広げた時期と同じ頃なのです。
現時点で分かっている、金色姫譚が記録されている最も古い記録は、このシリーズでも何度か触れてきましたが、永禄元年(1558年) 年成立の『戒言(かいこ)』で、『各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた』云々のくだりもすでにあります(文献4)。

<写真は、桑林寺跡付近。2019年3月撮影>
1558年頃と1797年頃では、約240年もの間があり、その間 『戒言』(金色姫譚)はどう広められていったのか?というミッシングリングは埋まりませんが、240年後の江戸中期、桑林寺が蚕影山明神の布教を本気でしようとした場合、やはり『筑波山のほんどう仙人』が出てくる『戒言』の金色姫をも習合して布教したのではないでしょうか。
もしかすると、『戒言』(金色姫譚)は当時、既に全国的に知られていた話だったのかもしれません。
また江戸時代になり、筑波山(当時は中禅寺)参詣者が増えて、同時に筑波山麓の桑林寺・蚕影山神社への参拝者も結構いたのかもしれません。
そこで、テーマパークのように、金色姫譚にちなんだ名所・祠を、当時の境内やその付近に作ったのではないでしょうか。
(テーマパーク的な施設というか演出は、『疑似体験する』という体験をするわけで、宗教施設としても重要です)
以上の見てきたように、つくば市民の私としては残念ですが
、筑波山麓・蚕影山神社付近が、『金色姫譚発祥の地』とするのは無理があると私は考えます。
しかし、この地で古くから養蚕・絹織物生産が行われたのははっきりしていますし、民衆の信仰の歴史を考える上でも魅力的な土地であることに、変わりはありません
。
事実、安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』にも、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』
とあり、金色姫譚があろうがなかろうが、この地は古くから、『日本養蚕の始まり』と言われてきたのも事実なのですから
。
(なお、この地に金色姫譚とは別に伝わる伝説については、後述する【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】もお読み下さい)
【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】
金色姫譚とは別の、蚕にまつわる伝説です。
以前の記事(蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議 http://cardamom.tsukuba.ch/e332790.html)より抜粋
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説のあらすじ(文献2)
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
金色姫譚と似ているところは、あえて言えば、
・船/舟 に乗ってきた
・1つの玉(繭的なもの)を残していなくなった(去った/亡くなった)
だけです。
そして、
・神人が残した「玉」を、村人は祀った
・「玉」は昼夜光り輝き、光が至る所に、蚕と桑が生じた。
・「玉」はワカムスビノミコト(日本神話の神)である。
のくだりは、金色姫譚とは違う系統の伝説だということが分かります。
この伝説は少なくとも、『筑波山名跡誌』が成立した1772年~1781年頃には伝わっているのははっきりしています。
しかし、どういう理由からか伝えられなくなった もしくは、金色姫譚に取って代わられたようです。
それで、注目したいのは、あらすじの冒頭
『ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った』
の部分です。
この地の絹が、正倉院に納められてること、万葉集にも謳われていることなど、古代から養蚕・絹生産の地であったのは確かです。
そして、養蚕技術がこの地に伝わった可能性として、蚕の卵と養蚕技術を持った人達が、
『外洋から、内海=現在の霞ヶ浦に入り、桜川を遡って、舟で「意図的に」漕いで入ってきた』
ということを伝説化して伝えてきたということは、十分考えられます。

筑波山は、海からもランドマークとしてよく見え、銚子の漁師さん達も古くから筑波山を信仰していると聞きます。
<写真は、霞ヶ浦の入り口・潮来付近から筑波山を望む(2022年1月上旬撮影)>
『あの山の麓なら、蚕を育てる桑の木もあるだろうし、桑をたくさん栽培して蚕もたくさん育てられるだろう』
そう思って、筑波山を目指して、内海(今の霞ヶ浦)の注ぐ川(例えば桜川)を舟
で遡って筑波山麓に入り、ここに入植して桑を育て
、蚕を育て、絹を作った人々がいた。
・・・こちらの方が自然に納得できます
。

<写真は、桜川(つくば市小田付近)から筑波山を望む(2019年7月撮影)>
なので、筑波山麓の伝説としては、金色姫譚とは別の伝説であるこちらの話に、個人的には注目したいです
。
(しかし、これ以上の情報は伝わっていないようなのが残念・・・)
日立・蠶養神社、神栖・蠶霊神社、そして今回の つくば・蚕霊山神社を、それぞれ個別に見てきました。
以上で、金色姫譚と常陸国蚕三神社のそれぞれの関係については、ひとまず筆をおきます。
次回は、このシリーズの
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
で述べた仮説を再考し、今までの総括も含め、金色姫譚が流布された背景・時代について考察し、まとめたいと思います。
続きます。
-----------------------------
【参考文献】
1.『万葉集 常陸の歌 -作品解釈と鑑賞へのしるべ- 上』 有馬徳 著 筑波書林
2.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
3.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86
『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話








物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています


常陸国三蚕神社を考える3つ目は、地元、つくば市の蚕影山(蚕影)神社です。
(写真は2021年10月下旬撮影)
蚕影山神社か?蚕影神社か? 名前が2通りありますが、当ブログでは、『蚕影山神社』で統一して書きます。
蚕影山神社(蚕影神社)については、以前、詳細に取り上げました。
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
これらの記事と重複する部分もありますので、適宜、それをご覧頂きながら、今回のシリーズのメインテーマ、金色姫譚は常陸国のどこに伝わり育まれたか?について、蚕影山神社とその地域の可能性を考えていきます。
まず結論から言うと、すでに
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
で書きましたが、常陸国三蚕神社の中では、筑波山麓・蚕影山神社付近の可能性は低いと考えています。
それは何故かについても含めて、以下述べます。
【金色姫譚は、筑波山/筑波山麓(蚕影山)が本場なのか?】

<写真は、蚕影山神社境内に奉納されている絵馬や額の数々。写真中央は、金色姫譚の一場面を描いた絵馬。(2021年10月下旬撮影)>
今に伝わる金色姫譚は、筑波山系の蚕影山で生まれたと思われることも多いようです。実際、金色姫譚にまつわる祠なども、蚕影山神社の付近に点在(詳細: 以前の記事 → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 )するので、尚更ロマンを感じるのかもしれません

加えて、
● 古来から絹織物が盛んだった筑波山麓から絹織物が古来から収められている物的証拠が実際、正倉院に残っている。
● 万葉集にも、筑波山麓の養蚕・絹生産を直接感じさせる歌がある。
『万葉集 巻第十四 3350番 筑波嶺の 新桑繭の衣はあれど 君がみ衣しし あやに着欲も』 (文献1)
ということから、当然、筑波山麓では古来から『養蚕や織物に関する信仰』もあるはずと考えるからでしょう。
確かにそうではありますが、その『養蚕や織物に関する信仰』が、金色姫譚と関係があったかどうかは分かりません

別の信仰があった可能性も大きいですし、実際、伝わっていた別の伝説もあります(後述)。

<写真は、筑波山南麓から蚕影山を望む (2018年4月撮影)>
そして、たとえ素直に伝説を信じて『ここまで内海が来ていた』としても、外洋からここまで、漂着物が直接流れ着くとは、地形的に考え難い

(外洋から内海=現在の霞ヶ浦 に入り、桜川を遡って、『意図的に』舟を漕いで入ってくるなら分かりますが)
以前の記事
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
で詳述しましたが、この地においては、
★江戸時代中頃、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、金色姫譚も加えて布教したらしいと考えられる。
★『筑波山名跡誌』 安永九年(1780年)刊 (桑林寺が布教を始めたらしい時期の少し以前の頃に成立)には、金色姫譚については何も触れらおらず、全く別の蚕にまつわる伝説(後述)が記載されている。(文献2)
ことが言えます。
さて、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の『廿八社略縁誌巻之二』という書の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあり、『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた話を記しているがとのこと。
加えて社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』も上げられているとの記載があるそうです(文献3)。
つまり、1781年頃(『筑波山名跡誌」成立の頃)~1797年頃(『廿八社略縁誌巻之二』成立の頃)の16年間位の間に、
この筑波山麓・蚕影山で、金色姫譚が流布・巷説されるようになったと考えられないでしょうか。
そしてこの時期は、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、蚕影山明神の布教を広げた時期と同じ頃なのです。
現時点で分かっている、金色姫譚が記録されている最も古い記録は、このシリーズでも何度か触れてきましたが、永禄元年(1558年) 年成立の『戒言(かいこ)』で、『各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた』云々のくだりもすでにあります(文献4)。

<写真は、桑林寺跡付近。2019年3月撮影>
1558年頃と1797年頃では、約240年もの間があり、その間 『戒言』(金色姫譚)はどう広められていったのか?というミッシングリングは埋まりませんが、240年後の江戸中期、桑林寺が蚕影山明神の布教を本気でしようとした場合、やはり『筑波山のほんどう仙人』が出てくる『戒言』の金色姫をも習合して布教したのではないでしょうか。
もしかすると、『戒言』(金色姫譚)は当時、既に全国的に知られていた話だったのかもしれません。
また江戸時代になり、筑波山(当時は中禅寺)参詣者が増えて、同時に筑波山麓の桑林寺・蚕影山神社への参拝者も結構いたのかもしれません。
そこで、テーマパークのように、金色姫譚にちなんだ名所・祠を、当時の境内やその付近に作ったのではないでしょうか。
(テーマパーク的な施設というか演出は、『疑似体験する』という体験をするわけで、宗教施設としても重要です)
以上の見てきたように、つくば市民の私としては残念ですが

しかし、この地で古くから養蚕・絹織物生産が行われたのははっきりしていますし、民衆の信仰の歴史を考える上でも魅力的な土地であることに、変わりはありません

事実、安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』にも、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』
とあり、金色姫譚があろうがなかろうが、この地は古くから、『日本養蚕の始まり』と言われてきたのも事実なのですから

(なお、この地に金色姫譚とは別に伝わる伝説については、後述する【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】もお読み下さい)
【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】
金色姫譚とは別の、蚕にまつわる伝説です。
以前の記事(蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議 http://cardamom.tsukuba.ch/e332790.html)より抜粋
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説のあらすじ(文献2)
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
金色姫譚と似ているところは、あえて言えば、
・船/舟 に乗ってきた
・1つの玉(繭的なもの)を残していなくなった(去った/亡くなった)
だけです。
そして、
・神人が残した「玉」を、村人は祀った
・「玉」は昼夜光り輝き、光が至る所に、蚕と桑が生じた。
・「玉」はワカムスビノミコト(日本神話の神)である。
のくだりは、金色姫譚とは違う系統の伝説だということが分かります。
この伝説は少なくとも、『筑波山名跡誌』が成立した1772年~1781年頃には伝わっているのははっきりしています。
しかし、どういう理由からか伝えられなくなった もしくは、金色姫譚に取って代わられたようです。
それで、注目したいのは、あらすじの冒頭
『ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った』
の部分です。
この地の絹が、正倉院に納められてること、万葉集にも謳われていることなど、古代から養蚕・絹生産の地であったのは確かです。
そして、養蚕技術がこの地に伝わった可能性として、蚕の卵と養蚕技術を持った人達が、
『外洋から、内海=現在の霞ヶ浦に入り、桜川を遡って、舟で「意図的に」漕いで入ってきた』
ということを伝説化して伝えてきたということは、十分考えられます。

筑波山は、海からもランドマークとしてよく見え、銚子の漁師さん達も古くから筑波山を信仰していると聞きます。
<写真は、霞ヶ浦の入り口・潮来付近から筑波山を望む(2022年1月上旬撮影)>
『あの山の麓なら、蚕を育てる桑の木もあるだろうし、桑をたくさん栽培して蚕もたくさん育てられるだろう』
そう思って、筑波山を目指して、内海(今の霞ヶ浦)の注ぐ川(例えば桜川)を舟


・・・こちらの方が自然に納得できます


<写真は、桜川(つくば市小田付近)から筑波山を望む(2019年7月撮影)>
なので、筑波山麓の伝説としては、金色姫譚とは別の伝説であるこちらの話に、個人的には注目したいです

(しかし、これ以上の情報は伝わっていないようなのが残念・・・)
日立・蠶養神社、神栖・蠶霊神社、そして今回の つくば・蚕霊山神社を、それぞれ個別に見てきました。
以上で、金色姫譚と常陸国蚕三神社のそれぞれの関係については、ひとまず筆をおきます。
次回は、このシリーズの

で述べた仮説を再考し、今までの総括も含め、金色姫譚が流布された背景・時代について考察し、まとめたいと思います。
続きます。
-----------------------------
【参考文献】
1.『万葉集 常陸の歌 -作品解釈と鑑賞へのしるべ- 上』 有馬徳 著 筑波書林
2.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
3.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86
『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
2022年03月26日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
さて神栖市 蠶霊神社・星福寺の後編は、仏教系の養蚕信仰の『馬鳴菩薩』、そして星福寺の『衣襲(きぬがさ)明神』について、そして、この地における 金色姫信仰について、考えてみます。
【馬鳴菩薩とは】
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》)で、
養蚕の神には、神道系の神、仏教系の神、民間信仰の神に分けられる旨を書きました、
(文献1、2、3)。
また同じく前回、星福寺の山門前の石碑に、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
という一文がある旨に触れましたが、星福寺の御本尊の『蚕霊尊』は『馬鳴菩薩』の化身とのこと。
あまり見慣れない『馬鳴菩薩』という菩薩様のお名前、『馬鳴』は『まーめい』と読みます。
文献2②によると、『馬鳴』と呼ばれる仏教の尊者は2名いて、
(i) 紀元前5世紀頃の人 : 南天竺付近の馬国の人。菩薩がこの国で蚕の姿で現れて口から糸を出し衣を作った。
馬国の人々はそれを喜んで、馬のように鳴いたから『馬鳴菩薩』
(ii) 紀元後2世紀頃の人:中印度摩掲陀国の人。仏門に入り、著作もいくつかある。
とのこと。
馬鳴菩薩信仰が、いつ日本に伝来したかはっきりしたことは不明ですが、平安時代後期の天台宗比叡山の僧が記した書物に、馬鳴菩薩と蚕の関わりが書かれているとのこと(文献2②)。
それが中世になると、馬鳴菩薩信仰は、
(A) 中世の頃には蚕の神としての信仰ははっきりしていた(文献2①)
(B) 中世の頃は、鎌倉時代の書物から、戦い(合戦)を守護する仏と蚕を守護する仏としての信仰の2系統が
あり、中世の頃に『蚕の守護としての馬鳴菩薩』という信仰が盛んだったかどうかははっきりしない(文献2②)。
と、研究者に寄っても意見が分かれるようです。
しかし少なくとも、
・平安時代以降、日本の書物に馬鳴菩薩の名が出てくる。
・(当時まだ盛んで無くても)蚕の守護をする菩薩という信仰はあった。
ということは云えそうです。
【きぬがさ(絹笠・衣笠・襲衣)明神とは】
『きぬがさ明神』という神様も一般には聞き慣れないお名前ですが、養蚕の守り神としては重要な神様です。
神道系でも仏教系でもない、民間信仰の養蚕の神の一つです。
星福寺の石碑にはその名が見られない『きぬがさ明神』ではありますが、江戸時代以降この神栖の地から広まった養蚕信仰を考える上で、
外せない神様です。
『きぬがさ明神』の『きぬがさ』は、『絹笠』/『衣笠』/『襲衣』と書かれますが、『絹笠明神』という漢字表記が多いようです(文献1、2、3)。
文献2②によると、『絹笠明神』の総本山は滋賀県安土町の繖山蚕實寺(きぬがささんくわのみでら)で、
同書によると『養蚕の始まりは語るが、その後の発展については曖昧で確実性がない』とのこと。
また関東にどのように伝えられたかも明らかでないそうです。

その一方、関東の絹笠信仰の中心が星福寺(蚕霊山千手院星福寺)で、こちらについては、江戸時代の記録から信仰が広がっていった足跡が分かり、今も、群馬県を中心に『きぬがさ信仰』が残っています(文献1、2,3)。
(写真は、群馬県 咲前神社の境内にある絹笠神社。2019年7月撮影。拝殿には由緒書きが置かれ、『【御神徳】養蚕・子育て・安産 養蚕県群馬の中でも、碓氷・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られる。「蚕の神」というと「絹笠様」ということである。この神のことはよくわかっていない。』とことですが、いろいろ示唆を含む説明だと思います。拝殿前には、繭、絹糸と、白蛇の姿の絵馬が奉納されていました)
【星福寺の襲衣(きぬがさ)明神】
(以下文献1、2より)
時は文政十年(西暦1827年)の正月二十日夕方、江戸の版元 鶴屋喜右衛門が、戯作者の曲亭馬琴宅に年始に訪ねて来ました。
曲亭馬琴は滝沢馬琴の別名。あの南総里見八犬伝の作者です。
酒を飲みながら歓談していましたが、その折に喜右衛門は『蚕の祖神の像/衣笠明神』の絵を馬琴に渡し、
その絵に『賛』(絵の由来や絵を讃える一文)を書いてくれるよう依頼してきました。
そこで錦絵として世に出て広く広まったのが、『養蚕祖神衣襲明神真影』という図。
『賛』を書いた『曲亭陳人』はこれまた滝沢馬琴の別名。
この時、衣笠明神の『きぬがさ』に対して、その霊験から、馬琴は『衣を重ね着する=衣服に不自由しない』という意味の『衣襲』という字を当てたようです(文献2)
文献2、文献3にある写真を見ると、その姿絵は共通して、右手に蚕の種紙(卵が産み付けられた紙)、左手に桑の枝を持った、唐風の衣装の女神。多色刷りで色鮮やか
。まさに、錦絵です
衣装には、馬や蚕蛾や絹糸らしい模様もあります(時代により変化)。
馬琴が最初に賛を書いたオリジナルのものは不明とのことですが、おそらく似たデザインだったことでしょう。
今もお正月に『初絵』ということで七福神の絵など飾ることも多いかと思いますが、同じようにこの衣襲明神の絵も、正月にを飾る初絵として、人気を博したそうです
。
経緯は不明とのことですが、鶴屋喜右衛門は、鹿島神宮の近く(江戸から見たら近く)にある寺(『千手院』らしい)から、『衣笠明神』の姿絵を手に入れ、それの絵を元に、豪華な錦絵の版画を販売したようです。
元の絵はどういうものだったかも不明とのこと。
江戸時代のある時期から、千住院(現在の星福寺)は、順番は不明ながら、『馬鳴菩薩』、『金色姫』も取り入れ、
『蚕霊尊』(『蚕の祖神』か)、『衣笠明神(衣襲明神)』を習合して、養蚕の盛んな地方へ布教したようです。
(神栖地区は砂地が多く、桑の木が育ちにくいのか、養蚕は盛んでなかったようです)
いろんな神仏が混淆した、みごとな日本の民衆の信仰の例としても、大変興味深いです
。
【蚕霊神社・星福寺と金色姫の関係は?】
さていよいよ、金色姫譚とこの地の関係ですが、結論から言いますと、金色姫譚は後年になって神栖地域に入ってきたと言って良いと考えます。
上で見てきたように、星福寺が蚕を守護するとして本尊としたのは『蚕霊尊』。で、
『蚕霊尊』は、『馬鳴菩薩』とも『きぬがさ(衣襲)明神』とも混淆していますが、金色姫は全く出てきせん。
少なくとも、『衣襲明神』の絵姿が布教に使われるきっかけとなった文政十年(西暦1827年)では、『金色姫』の名は出てきません。
文献2①では、金色姫伝説がこの地で語られるようになったのは、『江戸時代のいつごろからか』としています。
私は、江戸時代もかなり後期、もしかすると明治に入った頃の可能性もあるように思っています。
布教先の地の多くの養蚕農家は、ほぼ女性。
蚕を育てる過酷な状況を乗り越える心の支えとして、いろんな神仏を信仰している。
しかも、養蚕の神仏の特徴は、共通点が女性の姿。
衣襲明神とも馬鳴菩薩とも、別の系統の金色姫も一緒に信仰していただろうことは想像に難くない。
星福寺(蚕霊神社)側も、はやりの『金色姫』も『導入』したけれど、寺としてはやはり金色姫譚は『よそ者』の信仰。
なので本堂では祀らず、『蚕霊神社』という社(いつ建立したか時期は不明)の神(蚕霊尊)とも関係する話として、金色姫譚を導入したのではないか・・・
私はそのように想像します。
また、神栖付近では、常陸国三蚕社の他の地域(つくば・日立)と違って、金色姫伝説にちなむはっきりとした地名や祠(跡)等が伝わっていないようですが、このことも、金色姫譚がこの地で定着していなかった傍証になるかと思います。
ちなみに、常陸国三蚕神社の他の2つ、つくば・蚕影山神社近くにも、日立・蚕養神社近くにも、金色姫譚にちなむ場所や地名が残ります。
★筑波山麓 蚕影山神社付近には、『船の宮』『太夫の宮(タルの宮)』の祠や祠跡。
以前書いた記事
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
★日立・蚕養神社の周辺には、現在は場所は不明のようですが、昭和初期に作られた和賛には、伝説にちなむ名所・地名が数多く歌われています。
以前書いた記事
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
さて、そういう観点も踏まえて、あらためて、神栖の地に伝わっている金色姫譚をみていきましょう。
神栖の地での金色姫譚を伝える(a)~(f) の6つの資料を比較しましたが、(d)以外は本当におおまかなあらすじだけの記載です。
(d)は詳しく話を記載していますが、ストーリーはほぼ今まで見てきた金色姫譚と同じ。
特記すべきは、(a)〜(f) に共通しているのは、どれも繭から糸・布にしてそれが広まったところまでで話は終わっていることです。富士山云々の下りも全くありません。
また、登場人物の名前などは微妙に違ってはいますので、それだけ抜き出しますと、
(a) 文献4に掲載の『金色姫の伝説』
・金色姫の父:なし
・金色姫を助けて、『姫の生まれ変わり』の白い虫を育てた人:日川の権太夫夫婦
・繭から糸と真綿を作ることを教えた人:一人の仙人(名前なし)

(b) 星福寺の石碑にある登場人物:
・金色姫の父:大王(名前不明)
・金色姫を助けて『蚕化した』姫を育てた人:漁士の黒塚権太夫
・繭を糸や布にすることを教えた人:(景凡)道仙人 ※(景凡)は偏が「景」旁が「凡」。読みは『ホン』か?

(c) 蚕霊神社にある神栖市教育委員会による看板にある登場人物:
・金色姫の父:天竺の霖夷国の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった金色姫から変わった虫を育てた人:
・繭を糸や布にすることを教えた人:不明(記載なし)
(d) 文献5より((b)にある署名の人と作者は同じ)登場人物:
・金色姫の父:印度の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった姫の身体にわいた虫を育てた人:日川の漁夫 権太(権太夫の写植ミスか?)、もしくは権太夫夫妻
・繭を糸や布にすることを教えた人:権太夫夫妻の夢に出てきた老人(名前不明)
(e) 文献6の『蚕霊神社』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:記載なし (※『金色姫』の名もなし。『古某邦渠曾の女』とだけ記載)
・金色姫を助けた人:漁師 青塚権太夫
・繭を糸・布にすることを教えた人:記載なし
(f) 文献7の『星福寺』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:中国の輪廻大王
・金色姫を育てた人:漁師の青塚梶太夫 (※『梶』は『権』の誤植か?)
・『糸を綿にすること』を教えた人:星福寺の住職であった法道上人
登場人物の名前などが微妙に違うのが、なかなか興味深いです
。
そして、先にも書きましたが、どの話にも、富士山の話は出てきません。
富士山信仰は修験道などにも絡むので、宗派・思想的に相容れず、カットしたのかもしれませんね。
(そう読むと、また別の観点で興味深いです
)
現実的に、神栖・日川付近について地形を考えると、海洋から何かが流れ着くとしても外洋側の海岸でしょう。神栖・日川付近は内海か、海から川を遡るような土地に位置します。
漕ぎ手のいる船なら分かりますが、漂着物が川の遡るように何かが流れ着くというのは、伝説とはいえ、やはり正直無理があります
。
そういった訳で、金色姫譚がもし常陸国で生まれ育ったとしても、神栖の土地ではなさそうです・・・
。
【『利根川図志』には星福寺(千住院)の記載は無い】
江戸時代末期、安政2年(1855年)に完成した『利根川図志』という書物があります(文献8)。
利根川の中流~下流域の名所・見どころなどを細かく記録した、今でいう観光ガイドブック
。
図も多くて当時のことがよく分かる書物です。
江戸時代、『千手院』と呼ばれていたという星福寺ですが、この利根川図志では、星福寺の名も千手院の名も出てきませんし、衣襲明神についても何も触れられていません。
養蚕の神仏で有名だったお寺ですから、当然詣でる人も多そうですし、
文政十年(西暦1827年)の頃、当代きっての戯曲作家の曲亭馬琴によって描かれた衣襲明神の絵図もそれなりに人気を博したでしょうから、
それから、20年以上経った頃に書かれたガイドブックである利根川図志には、それなりに何か触れられていても良さそうなのですが。
もしかすると、この地ではそれほど有名な寺ではなかったのでしょうか?
江戸時代、人気だった東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)詣り。
その一つの息栖神社は、この近くですが、これは当然、利根川図志で触れられています。
しかし、千住院(星福寺)の名は出てきません。
利根川図志は、結構細かい見どころも書かれているガイドブックで、『○○堂』『○○明神』『○○石』など、地元の人の
信仰を集めているらしいローカルな寺社や信仰物も、逸話なども交えて書かれています。
なのに千住院の名は出てこない・・・残念ですが、これが意味するのは、地元の人から特に篤い信仰はなかったのでなないか?
疑惑です。
神栖のあたりは砂地で桑が生育しにくく、もともと養蚕もあまり盛んではなかったと云います。
地元で養蚕が盛んでないので地元の信者が少なく、従って地元ではその名が知られていなかったため、
利根川図志にも書かれていなかった(一般の参拝者はいなかった)。
(そもそも養蚕の盛んでない土地で、養蚕信仰を掲げた千住院(星福寺)も、不思議といえば不思議)
千住院は、蚕の守護神仏の御利益を掲げて、養蚕の盛んでない地元でなく、遠方へ布教活動をしたのではないか。
そして、養蚕農家ある遠方の地では、当時の流行作家、曲亭馬琴=滝沢馬琴 の賛が書かれた衣襲(きぬがさ)明神の姿絵も出回り、
、千住院(星福寺)の神仏も信仰されて有名になった。
けれども養蚕の盛んでない地元では、あまり知られた寺院ではなかった。
・・・という状況が考えられるように、私は思っています。
ただよく考えてみると、このような土地で、江戸時代頃からか、星福寺(千住院)が蚕の神仏として、外部へ布教を精力的に
始め、明治の頃の養蚕業の振興の風に乗って、遠くの土地の信者が増えていったという経緯は大変面白い
です。
しかも、当時の流行作家、滝沢(曲亭)馬琴が、今で言うコピーライターとなって、売り出し文句(賛)と、
アイキャッチばっちりな漢字(『きぬがさ明神』に『衣襲明神』の字) が書かれた、明神の絵姿(ポスター)が広く配布された。
・・・その手法もいきさつも大変興味深い。
また、この土地の利として注目すべきは、利根川です
。
星福寺(千手院)は、利根川に接する地にあります
。

船運の盛んな利根川を、船で上流に向かえば、養蚕の盛んな群馬方面に布教に行くのはどこの土地よりも容易
。
これは、この神栖の土地ならではです
金色姫譚の伝説の地としては残念ではありますが、利根川の船運をも利用した、『現代的な宣伝戦略発祥の地』!?として考えると興味深い面白いのが、神栖の蚕霊神社・星福寺ではないでしょうか
。
(写真は利根川に架かる橋から筑波山方面を望む。 2022年1月初旬撮影)
【おまけ1: 神栖近くにある『豊浦』の地名がある?】
さて、本当に、この地に、金色姫譚を伝える地名はないのか、少し範囲を広げて調べてみました。
すると神栖市ではありませんが、星福寺から5キロほど離れた利根川の向こう岸、千葉県香取市に『豊浦』の地名が残っているのが分かりました
。
ここは、昔、豊浦村という村があったところです。
ところで、この地は、『常陸国』でなくて『下総国』ではあります。
しかし現在の利根川、江戸時代の治水工事前は鬼怒川が流れ、霞ケ浦(当時は内海)に流れ込むあたりは、
川の氾濫があるたびに、川の流れも変わり、常陸国と下総国の国境はあいまいだったと考えられます。
文献9によると、この豊浦村は養蚕が盛んだったとのこと。
しかし『豊浦』の名は、5つの村が合併した時に、良い名をということで『豊浦』の名が付けられたとのことで、
残念ながら、金色姫譚に出てくる『豊浦』とは関係なさそうです
。
下総国だけど国境があいまいだったので、常陸国として外部に伝わった…とすると、話は面白いのですが・・・。
現在調べている範囲では、千葉県(下総国)ではどうも、金色姫譚のような伝説はなく、信仰もなかったようなのです
。
やはり、残念ながら、利根川の下流や河口付近が金色姫伝説の発祥の地とするのは無理がありそうです
。
【おまけ2:「息栖神社」の元の名は「於岐津説神社」だが】

東国三社の一つ、神栖の『息栖神社』は、中世の頃『於岐津説神社』と呼ばれていました(文献10)。
(写真は息栖神社の前にある、忍井。2022年1月初旬撮影)
そして、日立・川尻の蠶養神社の昔の名前も『於岐津説神社』ですが、江戸時代は『津神社』とも記録にあります。
詳細 → 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
ところで『津神社』という名のお社は、日立市川尻地区だけでなく、茨城県の海岸沿いに散見されます。
『於岐津説(おきつせ)』 → 『沖つ瀬』=沖にある瀬 ということで、
沖にある瀬を神格化して、船の航行安全や豊漁を祈ったのだろうと思われます。
そして息栖神社の祭神の『くなど神』も、船の交通・安全航行の神。
安全航行の神や豊漁の神として、海岸線沿いで勧請され祀られていったのが『於岐津説』ではないでしょうか。
または、そういった信仰対象をまとめて、いつの頃からか『於岐津説』と呼ぶようになったか。
同じ名前で気になりますが、日立の於岐津説神社(現在の蚕養神社)と、神栖の於岐津説神社(現在の息栖神社)
には、養蚕信仰の地としての関係(金色姫譚の繋がり的なもの)はないのではないかと、私は考えます。
以上で、常陸国三蚕神社の2つ目、神栖の蚕霊神社/星福寺 と 金色姫譚の関係については、ひとまず筆を納めます。
次回は、常陸国三蚕神社の3つ目、つくば・神郡の 蚕影山神社(蚕影神社)です。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
******************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
この中の解説 ① 『養蚕の神々』 阪本英一
② 『馬鳴菩薩の信仰』 生駒哲郎
③ 『蚕神信仰に関する一考察』 佐野亨介
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
8.『利根川図志』 赤松宗旦 著 柳田国男 校訂 岩波文庫
9,『千葉県香取郡史』(復刻版)千葉県香取郡役所 編纂 臨川書店 発行
10.『神栖町史 上巻』 神栖町史編さん委員会 編著 神栖町 発行
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話







物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

さて神栖市 蠶霊神社・星福寺の後編は、仏教系の養蚕信仰の『馬鳴菩薩』、そして星福寺の『衣襲(きぬがさ)明神』について、そして、この地における 金色姫信仰について、考えてみます。
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---|---|
蚕霊神社 | 星福寺 |
【馬鳴菩薩とは】
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》)で、
養蚕の神には、神道系の神、仏教系の神、民間信仰の神に分けられる旨を書きました、
(文献1、2、3)。
また同じく前回、星福寺の山門前の石碑に、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
という一文がある旨に触れましたが、星福寺の御本尊の『蚕霊尊』は『馬鳴菩薩』の化身とのこと。
あまり見慣れない『馬鳴菩薩』という菩薩様のお名前、『馬鳴』は『まーめい』と読みます。
文献2②によると、『馬鳴』と呼ばれる仏教の尊者は2名いて、
(i) 紀元前5世紀頃の人 : 南天竺付近の馬国の人。菩薩がこの国で蚕の姿で現れて口から糸を出し衣を作った。
馬国の人々はそれを喜んで、馬のように鳴いたから『馬鳴菩薩』
(ii) 紀元後2世紀頃の人:中印度摩掲陀国の人。仏門に入り、著作もいくつかある。
とのこと。
馬鳴菩薩信仰が、いつ日本に伝来したかはっきりしたことは不明ですが、平安時代後期の天台宗比叡山の僧が記した書物に、馬鳴菩薩と蚕の関わりが書かれているとのこと(文献2②)。
それが中世になると、馬鳴菩薩信仰は、
(A) 中世の頃には蚕の神としての信仰ははっきりしていた(文献2①)
(B) 中世の頃は、鎌倉時代の書物から、戦い(合戦)を守護する仏と蚕を守護する仏としての信仰の2系統が
あり、中世の頃に『蚕の守護としての馬鳴菩薩』という信仰が盛んだったかどうかははっきりしない(文献2②)。
と、研究者に寄っても意見が分かれるようです。
しかし少なくとも、
・平安時代以降、日本の書物に馬鳴菩薩の名が出てくる。
・(当時まだ盛んで無くても)蚕の守護をする菩薩という信仰はあった。
ということは云えそうです。
【きぬがさ(絹笠・衣笠・襲衣)明神とは】
『きぬがさ明神』という神様も一般には聞き慣れないお名前ですが、養蚕の守り神としては重要な神様です。
神道系でも仏教系でもない、民間信仰の養蚕の神の一つです。
星福寺の石碑にはその名が見られない『きぬがさ明神』ではありますが、江戸時代以降この神栖の地から広まった養蚕信仰を考える上で、
外せない神様です。
『きぬがさ明神』の『きぬがさ』は、『絹笠』/『衣笠』/『襲衣』と書かれますが、『絹笠明神』という漢字表記が多いようです(文献1、2、3)。
文献2②によると、『絹笠明神』の総本山は滋賀県安土町の繖山蚕實寺(きぬがささんくわのみでら)で、
同書によると『養蚕の始まりは語るが、その後の発展については曖昧で確実性がない』とのこと。
また関東にどのように伝えられたかも明らかでないそうです。

その一方、関東の絹笠信仰の中心が星福寺(蚕霊山千手院星福寺)で、こちらについては、江戸時代の記録から信仰が広がっていった足跡が分かり、今も、群馬県を中心に『きぬがさ信仰』が残っています(文献1、2,3)。
(写真は、群馬県 咲前神社の境内にある絹笠神社。2019年7月撮影。拝殿には由緒書きが置かれ、『【御神徳】養蚕・子育て・安産 養蚕県群馬の中でも、碓氷・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られる。「蚕の神」というと「絹笠様」ということである。この神のことはよくわかっていない。』とことですが、いろいろ示唆を含む説明だと思います。拝殿前には、繭、絹糸と、白蛇の姿の絵馬が奉納されていました)
【星福寺の襲衣(きぬがさ)明神】
(以下文献1、2より)
時は文政十年(西暦1827年)の正月二十日夕方、江戸の版元 鶴屋喜右衛門が、戯作者の曲亭馬琴宅に年始に訪ねて来ました。
曲亭馬琴は滝沢馬琴の別名。あの南総里見八犬伝の作者です。
酒を飲みながら歓談していましたが、その折に喜右衛門は『蚕の祖神の像/衣笠明神』の絵を馬琴に渡し、
その絵に『賛』(絵の由来や絵を讃える一文)を書いてくれるよう依頼してきました。
そこで錦絵として世に出て広く広まったのが、『養蚕祖神衣襲明神真影』という図。
『賛』を書いた『曲亭陳人』はこれまた滝沢馬琴の別名。
この時、衣笠明神の『きぬがさ』に対して、その霊験から、馬琴は『衣を重ね着する=衣服に不自由しない』という意味の『衣襲』という字を当てたようです(文献2)
文献2、文献3にある写真を見ると、その姿絵は共通して、右手に蚕の種紙(卵が産み付けられた紙)、左手に桑の枝を持った、唐風の衣装の女神。多色刷りで色鮮やか


衣装には、馬や蚕蛾や絹糸らしい模様もあります(時代により変化)。
馬琴が最初に賛を書いたオリジナルのものは不明とのことですが、おそらく似たデザインだったことでしょう。
今もお正月に『初絵』ということで七福神の絵など飾ることも多いかと思いますが、同じようにこの衣襲明神の絵も、正月にを飾る初絵として、人気を博したそうです

経緯は不明とのことですが、鶴屋喜右衛門は、鹿島神宮の近く(江戸から見たら近く)にある寺(『千手院』らしい)から、『衣笠明神』の姿絵を手に入れ、それの絵を元に、豪華な錦絵の版画を販売したようです。
元の絵はどういうものだったかも不明とのこと。
江戸時代のある時期から、千住院(現在の星福寺)は、順番は不明ながら、『馬鳴菩薩』、『金色姫』も取り入れ、
『蚕霊尊』(『蚕の祖神』か)、『衣笠明神(衣襲明神)』を習合して、養蚕の盛んな地方へ布教したようです。
(神栖地区は砂地が多く、桑の木が育ちにくいのか、養蚕は盛んでなかったようです)
いろんな神仏が混淆した、みごとな日本の民衆の信仰の例としても、大変興味深いです

【蚕霊神社・星福寺と金色姫の関係は?】
さていよいよ、金色姫譚とこの地の関係ですが、結論から言いますと、金色姫譚は後年になって神栖地域に入ってきたと言って良いと考えます。
上で見てきたように、星福寺が蚕を守護するとして本尊としたのは『蚕霊尊』。で、
『蚕霊尊』は、『馬鳴菩薩』とも『きぬがさ(衣襲)明神』とも混淆していますが、金色姫は全く出てきせん。
少なくとも、『衣襲明神』の絵姿が布教に使われるきっかけとなった文政十年(西暦1827年)では、『金色姫』の名は出てきません。
文献2①では、金色姫伝説がこの地で語られるようになったのは、『江戸時代のいつごろからか』としています。
私は、江戸時代もかなり後期、もしかすると明治に入った頃の可能性もあるように思っています。
布教先の地の多くの養蚕農家は、ほぼ女性。
蚕を育てる過酷な状況を乗り越える心の支えとして、いろんな神仏を信仰している。
しかも、養蚕の神仏の特徴は、共通点が女性の姿。
衣襲明神とも馬鳴菩薩とも、別の系統の金色姫も一緒に信仰していただろうことは想像に難くない。
星福寺(蚕霊神社)側も、はやりの『金色姫』も『導入』したけれど、寺としてはやはり金色姫譚は『よそ者』の信仰。
なので本堂では祀らず、『蚕霊神社』という社(いつ建立したか時期は不明)の神(蚕霊尊)とも関係する話として、金色姫譚を導入したのではないか・・・
私はそのように想像します。
また、神栖付近では、常陸国三蚕社の他の地域(つくば・日立)と違って、金色姫伝説にちなむはっきりとした地名や祠(跡)等が伝わっていないようですが、このことも、金色姫譚がこの地で定着していなかった傍証になるかと思います。
ちなみに、常陸国三蚕神社の他の2つ、つくば・蚕影山神社近くにも、日立・蚕養神社近くにも、金色姫譚にちなむ場所や地名が残ります。
★筑波山麓 蚕影山神社付近には、『船の宮』『太夫の宮(タルの宮)』の祠や祠跡。

→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
★日立・蚕養神社の周辺には、現在は場所は不明のようですが、昭和初期に作られた和賛には、伝説にちなむ名所・地名が数多く歌われています。

→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
さて、そういう観点も踏まえて、あらためて、神栖の地に伝わっている金色姫譚をみていきましょう。
神栖の地での金色姫譚を伝える(a)~(f) の6つの資料を比較しましたが、(d)以外は本当におおまかなあらすじだけの記載です。
(d)は詳しく話を記載していますが、ストーリーはほぼ今まで見てきた金色姫譚と同じ。
特記すべきは、(a)〜(f) に共通しているのは、どれも繭から糸・布にしてそれが広まったところまでで話は終わっていることです。富士山云々の下りも全くありません。
また、登場人物の名前などは微妙に違ってはいますので、それだけ抜き出しますと、
(a) 文献4に掲載の『金色姫の伝説』
・金色姫の父:なし
・金色姫を助けて、『姫の生まれ変わり』の白い虫を育てた人:日川の権太夫夫婦
・繭から糸と真綿を作ることを教えた人:一人の仙人(名前なし)

(b) 星福寺の石碑にある登場人物:
・金色姫の父:大王(名前不明)
・金色姫を助けて『蚕化した』姫を育てた人:漁士の黒塚権太夫
・繭を糸や布にすることを教えた人:(景凡)道仙人 ※(景凡)は偏が「景」旁が「凡」。読みは『ホン』か?

(c) 蚕霊神社にある神栖市教育委員会による看板にある登場人物:
・金色姫の父:天竺の霖夷国の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった金色姫から変わった虫を育てた人:
・繭を糸や布にすることを教えた人:不明(記載なし)
(d) 文献5より((b)にある署名の人と作者は同じ)登場人物:
・金色姫の父:印度の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった姫の身体にわいた虫を育てた人:日川の漁夫 権太(権太夫の写植ミスか?)、もしくは権太夫夫妻
・繭を糸や布にすることを教えた人:権太夫夫妻の夢に出てきた老人(名前不明)
(e) 文献6の『蚕霊神社』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:記載なし (※『金色姫』の名もなし。『古某邦渠曾の女』とだけ記載)
・金色姫を助けた人:漁師 青塚権太夫
・繭を糸・布にすることを教えた人:記載なし
(f) 文献7の『星福寺』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:中国の輪廻大王
・金色姫を育てた人:漁師の青塚梶太夫 (※『梶』は『権』の誤植か?)
・『糸を綿にすること』を教えた人:星福寺の住職であった法道上人
登場人物の名前などが微妙に違うのが、なかなか興味深いです

そして、先にも書きましたが、どの話にも、富士山の話は出てきません。
富士山信仰は修験道などにも絡むので、宗派・思想的に相容れず、カットしたのかもしれませんね。
(そう読むと、また別の観点で興味深いです

現実的に、神栖・日川付近について地形を考えると、海洋から何かが流れ着くとしても外洋側の海岸でしょう。神栖・日川付近は内海か、海から川を遡るような土地に位置します。
漕ぎ手のいる船なら分かりますが、漂着物が川の遡るように何かが流れ着くというのは、伝説とはいえ、やはり正直無理があります

そういった訳で、金色姫譚がもし常陸国で生まれ育ったとしても、神栖の土地ではなさそうです・・・

【『利根川図志』には星福寺(千住院)の記載は無い】
江戸時代末期、安政2年(1855年)に完成した『利根川図志』という書物があります(文献8)。
利根川の中流~下流域の名所・見どころなどを細かく記録した、今でいう観光ガイドブック

図も多くて当時のことがよく分かる書物です。
江戸時代、『千手院』と呼ばれていたという星福寺ですが、この利根川図志では、星福寺の名も千手院の名も出てきませんし、衣襲明神についても何も触れられていません。
養蚕の神仏で有名だったお寺ですから、当然詣でる人も多そうですし、
文政十年(西暦1827年)の頃、当代きっての戯曲作家の曲亭馬琴によって描かれた衣襲明神の絵図もそれなりに人気を博したでしょうから、
それから、20年以上経った頃に書かれたガイドブックである利根川図志には、それなりに何か触れられていても良さそうなのですが。
もしかすると、この地ではそれほど有名な寺ではなかったのでしょうか?
江戸時代、人気だった東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)詣り。
その一つの息栖神社は、この近くですが、これは当然、利根川図志で触れられています。
しかし、千住院(星福寺)の名は出てきません。
利根川図志は、結構細かい見どころも書かれているガイドブックで、『○○堂』『○○明神』『○○石』など、地元の人の
信仰を集めているらしいローカルな寺社や信仰物も、逸話なども交えて書かれています。
なのに千住院の名は出てこない・・・残念ですが、これが意味するのは、地元の人から特に篤い信仰はなかったのでなないか?

神栖のあたりは砂地で桑が生育しにくく、もともと養蚕もあまり盛んではなかったと云います。
地元で養蚕が盛んでないので地元の信者が少なく、従って地元ではその名が知られていなかったため、
利根川図志にも書かれていなかった(一般の参拝者はいなかった)。
(そもそも養蚕の盛んでない土地で、養蚕信仰を掲げた千住院(星福寺)も、不思議といえば不思議)
千住院は、蚕の守護神仏の御利益を掲げて、養蚕の盛んでない地元でなく、遠方へ布教活動をしたのではないか。
そして、養蚕農家ある遠方の地では、当時の流行作家、曲亭馬琴=滝沢馬琴 の賛が書かれた衣襲(きぬがさ)明神の姿絵も出回り、
、千住院(星福寺)の神仏も信仰されて有名になった。
けれども養蚕の盛んでない地元では、あまり知られた寺院ではなかった。
・・・という状況が考えられるように、私は思っています。
ただよく考えてみると、このような土地で、江戸時代頃からか、星福寺(千住院)が蚕の神仏として、外部へ布教を精力的に
始め、明治の頃の養蚕業の振興の風に乗って、遠くの土地の信者が増えていったという経緯は大変面白い

しかも、当時の流行作家、滝沢(曲亭)馬琴が、今で言うコピーライターとなって、売り出し文句(賛)と、
アイキャッチばっちりな漢字(『きぬがさ明神』に『衣襲明神』の字) が書かれた、明神の絵姿(ポスター)が広く配布された。
・・・その手法もいきさつも大変興味深い。
また、この土地の利として注目すべきは、利根川です

星福寺(千手院)は、利根川に接する地にあります


船運の盛んな利根川を、船で上流に向かえば、養蚕の盛んな群馬方面に布教に行くのはどこの土地よりも容易

これは、この神栖の土地ならではです

金色姫譚の伝説の地としては残念ではありますが、利根川の船運をも利用した、『現代的な宣伝戦略発祥の地』!?として考えると興味深い面白いのが、神栖の蚕霊神社・星福寺ではないでしょうか

(写真は利根川に架かる橋から筑波山方面を望む。 2022年1月初旬撮影)
【おまけ1: 神栖近くにある『豊浦』の地名がある?】
さて、本当に、この地に、金色姫譚を伝える地名はないのか、少し範囲を広げて調べてみました。
すると神栖市ではありませんが、星福寺から5キロほど離れた利根川の向こう岸、千葉県香取市に『豊浦』の地名が残っているのが分かりました

ここは、昔、豊浦村という村があったところです。
ところで、この地は、『常陸国』でなくて『下総国』ではあります。
しかし現在の利根川、江戸時代の治水工事前は鬼怒川が流れ、霞ケ浦(当時は内海)に流れ込むあたりは、
川の氾濫があるたびに、川の流れも変わり、常陸国と下総国の国境はあいまいだったと考えられます。
文献9によると、この豊浦村は養蚕が盛んだったとのこと。
しかし『豊浦』の名は、5つの村が合併した時に、良い名をということで『豊浦』の名が付けられたとのことで、
残念ながら、金色姫譚に出てくる『豊浦』とは関係なさそうです

下総国だけど国境があいまいだったので、常陸国として外部に伝わった…とすると、話は面白いのですが・・・。
現在調べている範囲では、千葉県(下総国)ではどうも、金色姫譚のような伝説はなく、信仰もなかったようなのです

やはり、残念ながら、利根川の下流や河口付近が金色姫伝説の発祥の地とするのは無理がありそうです

【おまけ2:「息栖神社」の元の名は「於岐津説神社」だが】

東国三社の一つ、神栖の『息栖神社』は、中世の頃『於岐津説神社』と呼ばれていました(文献10)。
(写真は息栖神社の前にある、忍井。2022年1月初旬撮影)
そして、日立・川尻の蠶養神社の昔の名前も『於岐津説神社』ですが、江戸時代は『津神社』とも記録にあります。

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
ところで『津神社』という名のお社は、日立市川尻地区だけでなく、茨城県の海岸沿いに散見されます。
『於岐津説(おきつせ)』 → 『沖つ瀬』=沖にある瀬 ということで、
沖にある瀬を神格化して、船の航行安全や豊漁を祈ったのだろうと思われます。
そして息栖神社の祭神の『くなど神』も、船の交通・安全航行の神。
安全航行の神や豊漁の神として、海岸線沿いで勧請され祀られていったのが『於岐津説』ではないでしょうか。
または、そういった信仰対象をまとめて、いつの頃からか『於岐津説』と呼ぶようになったか。
同じ名前で気になりますが、日立の於岐津説神社(現在の蚕養神社)と、神栖の於岐津説神社(現在の息栖神社)
には、養蚕信仰の地としての関係(金色姫譚の繋がり的なもの)はないのではないかと、私は考えます。
以上で、常陸国三蚕神社の2つ目、神栖の蚕霊神社/星福寺 と 金色姫譚の関係については、ひとまず筆を納めます。
次回は、常陸国三蚕神社の3つ目、つくば・神郡の 蚕影山神社(蚕影神社)です。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
******************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
この中の解説 ① 『養蚕の神々』 阪本英一
② 『馬鳴菩薩の信仰』 生駒哲郎
③ 『蚕神信仰に関する一考察』 佐野亨介
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
8.『利根川図志』 赤松宗旦 著 柳田国男 校訂 岩波文庫
9,『千葉県香取郡史』(復刻版)千葉県香取郡役所 編纂 臨川書店 発行
10.『神栖町史 上巻』 神栖町史編さん委員会 編著 神栖町 発行
2022年02月19日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
まず、今回は養蚕を守る神仏について改めて書きます。
といいますのも、特に養蚕を守る神仏については混淆が激しいようで、明治以前はもちろんのこと、神仏分離された明治以降になっても、表面上は分かれているようですが、信仰する人々の心情は、混淆したままで続いてようで、特に今回取り上げる、神栖の蠶霊神社・星福寺は、それがはっきり感じるからです。
養蚕を守る神仏は実は多くあります。
大きく分けて、神道系、仏教系、民間信仰系の神仏に分けられます(文献1、2、3、4)。
それらの神仏の詳細については当ブログでは触れませんが、茨城県内の養蚕信仰について書きますと、
(文献1,2,3)
・民間信仰の信仰
つくば・蚕影山神社: 蚕影山明神、金色姫
日立・蚕養神社: 金色姫
神栖・蚕霊神社: 蚕霊尊、衣襲明神(※)
・神道系の信仰
つくば・蚕影山神社: 稚産霊命、埴山姫命、木花開耶姫命
日立・蚕養神社: 稚産霊命、宇気霊命、事代主命
神栖・蚕霊神社: 大気津比売命
・仏教系の信仰
神栖・星福寺: 馬鳴菩薩
明治以前はこれらの神仏が混淆して布教され、信仰されていました。
日立の蚕養神社(江戸時代は津神社)には、江戸時代初期までは吉祥院という寺が管理していたことが分かっているのは、前々回・前回に書きました。
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
つくばの蚕影山神社は、明治の神仏分離までは別当寺の桑林寺が管理し、江戸時代の蚕影山明神の布教に力を入れていました。
つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
養蚕は、餌となる桑の栽培も含め、天候や蚕や桑の病気に左右される上に、大変な重労働。
養蚕農家は、多くの神仏を信仰し、なるべくご加護があるように祈りながら作業されてきたのでしょう。
だから、近代(現代も?)に至っても、心の中では様々な神仏が混淆するのは、当然だと思います。
(ちなみに私個人は、日本の民衆の信仰は、神仏混淆が自然だと思っています)
以上を頭の隅に置いて頂いて、以下お読み頂けたらと思います
。
ということで、今回は、常陸三蚕神社の2つ目の聖地、神栖市にある蚕霊神社です。
当ブログでは、神社の扁額にある表記に従い、今後は『蠶霊神社』と表記します。

常陸三蚕神社の他の二社と違って、別当寺であったらしい星福寺が現在も残っており、
仏教系の養蚕信仰を今に伝えています。
この神栖の蚕霊神社・星福寺については、大変詳しく調査されている文献1を中心に参考にしながら、考えていきます。
まずは実際に、神栖の蚕霊神社と星福寺に行ってきました
。
(1) 星福寺

(写真は、2022年1月初旬撮影)
正式名は蠶霊山山千手院星福寺。
本尊は、大日如来と蚕霊尊
(文献1,2)
文献4によると、
『星福寺と蚕霊神社はもともと一体のもので、養蚕の神として人々信仰を集めていました』
とあります。
まさに、神仏分離前の、神社とそれを管理する別当寺の関係を、今に伝えているのではないでしょうか
星福寺の山門の前に、金色姫伝説が書かれた立派な石造りの碑があり、お寺の由来・御本尊や、この地に伝わる金色姫譚のあらすじが書かれています。
(ここに書かれている金色姫譚については、次回、星福寺の御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)、そして衣襲明神と絡めて詳しく見ていきます)
まずは星福寺について、こちらの碑文によると、
『当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(今の日川)に蚕霊山千手院星福寺と称し』
とのことで、お寺のあるこの地が、『豊良浦日向川』 とのこと。
また、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
そして、
『降りて室町時代から江戸時代には益々信を起し、(中略)京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆をみ、・・・(後略)』
ということで、当初は『蚕霊尊』を本尊として祀り、その後、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となったとのこと。文意から江戸時代頃に真言密教の道場になったように読めます。
江戸時代までの神仏混淆の様子も分かる、興味深い一文です。
更に大正六年に突風によって多くの堂宇を失い、残ったのが
『元禄二年建立せる山門』 (筆者註:元禄二年は西暦 1689年)
『嘉永五年に建立せる堂宇のみ』 (筆者註:嘉永五年は西暦 1852年)
とのことで、堂宇は平成に大改築された旨が同石碑にあります。

ガラス越しに参拝しました。
御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)は分かりませんでした。
『奥の院』の御本尊ということなので、なかなか拝見出来ないのかもしれません。
石碑にある 『大正六年』 の突風による被害がなければ、堂宇が立ち並ぶ壮観な様子が今に伝わっていたのでしょう。
その頃の姿が見たかったですが、自然の災害には逆らえませんね・・・
。
それでも敷地に隣接して幼稚園もあったりで、親しみのある雰囲気を感じる境内でした
(2) 蠶霊神社

蚕霊神社読み方は「さんれい」とも「こだま」とも「こりん」とも読むようです。
星福寺から240mほど西北西方向に行った場所にあります。
(写真は2022年1月初旬撮影)
祭神は大気津比売命(文献6)

鳥居の手前に、神栖市の教育委員会による説明版に、金色姫伝説が書かれています。
文の最後の『撰文 中村ときを』とありますが、この方は、文献5(『神栖のむかし話』)の著書の方です。
こちらの説明板には同書に書かれている金色姫伝説のあらすじが書かれていますが、時に個人的に気になった表現が、
『この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、蚕業の創始先駆者の象徴として、造営したのが蚕霊神社であり、長くこの地域の守りが意味と鳴って鎮座されている』
です。
神社というものが生まれて人々の守り神になっていく姿を表す、誠意ある文章だと感じます。

静謐な参道の奥に、鮮やかな赤いお堂が。
創建の時期は不明とのこと(文献6)。

拝殿の後ろの本殿は波板で覆いがされています。
拝殿も本殿も赤い色を基調に鮮やかに色が塗られています。
特に覆いがかかっている本殿は、色鮮やかに保たれています。
比較的最近、塗り直された印象です。
覆いが、雨風などから本殿の塗装を守っているのですね。

しかしながら、本殿正面上部の蟇股の部分の彫刻が何か、見たかったのですが、拝殿から通路と覆いがあってよく見えません
。
神社本殿の蟇股の彫刻は、祭神のお使いの動物や象徴する物だったりすることが多いので、興味があるのですが。
何か青い波みたいな形が見えますので、金色姫が乗ってきたうつぼ舟だったりしませんかね?
興味津々
。
ご神体は「軽石」だったが戦後のどさくさで行方不明になったといいます(文献1)。
ご神体が軽石・・・というくだり、日立・川尻の蠶養神社の話を彷彿させます。
詳細 → 前回の記事 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
軽石がやはり、繭を連想させる色・形だからでしょうか。
ただし日立・川尻の蠶養神社と違って、ご神体という軽石ついてまつわる伝承は不明です(※)。
※ 一般に寺社については、その自治体が発行している書籍(○○市史、○○町史)に歴史や祭神など書かれているものですが、
『神栖町史』には、東国三社の一つの息栖神社以外の寺社について、何も書かれていません。残念です・・・。
さて次回は、星福寺の蚕霊神=衣襲(きぬがさ)明神について、そして、この地における金色姫譚について見ていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
*************************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話






物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

まず、今回は養蚕を守る神仏について改めて書きます。
といいますのも、特に養蚕を守る神仏については混淆が激しいようで、明治以前はもちろんのこと、神仏分離された明治以降になっても、表面上は分かれているようですが、信仰する人々の心情は、混淆したままで続いてようで、特に今回取り上げる、神栖の蠶霊神社・星福寺は、それがはっきり感じるからです。
養蚕を守る神仏は実は多くあります。
大きく分けて、神道系、仏教系、民間信仰系の神仏に分けられます(文献1、2、3、4)。
それらの神仏の詳細については当ブログでは触れませんが、茨城県内の養蚕信仰について書きますと、
(文献1,2,3)
・民間信仰の信仰
つくば・蚕影山神社: 蚕影山明神、金色姫
日立・蚕養神社: 金色姫
神栖・蚕霊神社: 蚕霊尊、衣襲明神(※)
・神道系の信仰
つくば・蚕影山神社: 稚産霊命、埴山姫命、木花開耶姫命
日立・蚕養神社: 稚産霊命、宇気霊命、事代主命
神栖・蚕霊神社: 大気津比売命
・仏教系の信仰
神栖・星福寺: 馬鳴菩薩
明治以前はこれらの神仏が混淆して布教され、信仰されていました。
日立の蚕養神社(江戸時代は津神社)には、江戸時代初期までは吉祥院という寺が管理していたことが分かっているのは、前々回・前回に書きました。


つくばの蚕影山神社は、明治の神仏分離までは別当寺の桑林寺が管理し、江戸時代の蚕影山明神の布教に力を入れていました。


養蚕は、餌となる桑の栽培も含め、天候や蚕や桑の病気に左右される上に、大変な重労働。
養蚕農家は、多くの神仏を信仰し、なるべくご加護があるように祈りながら作業されてきたのでしょう。
だから、近代(現代も?)に至っても、心の中では様々な神仏が混淆するのは、当然だと思います。
(ちなみに私個人は、日本の民衆の信仰は、神仏混淆が自然だと思っています)
以上を頭の隅に置いて頂いて、以下お読み頂けたらと思います

ということで、今回は、常陸三蚕神社の2つ目の聖地、神栖市にある蚕霊神社です。
当ブログでは、神社の扁額にある表記に従い、今後は『蠶霊神社』と表記します。

常陸三蚕神社の他の二社と違って、別当寺であったらしい星福寺が現在も残っており、
仏教系の養蚕信仰を今に伝えています。
この神栖の蚕霊神社・星福寺については、大変詳しく調査されている文献1を中心に参考にしながら、考えていきます。
まずは実際に、神栖の蚕霊神社と星福寺に行ってきました

(1) 星福寺

(写真は、2022年1月初旬撮影)
正式名は蠶霊山山千手院星福寺。
本尊は、大日如来と蚕霊尊
(文献1,2)
文献4によると、
『星福寺と蚕霊神社はもともと一体のもので、養蚕の神として人々信仰を集めていました』
とあります。
まさに、神仏分離前の、神社とそれを管理する別当寺の関係を、今に伝えているのではないでしょうか


(ここに書かれている金色姫譚については、次回、星福寺の御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)、そして衣襲明神と絡めて詳しく見ていきます)
まずは星福寺について、こちらの碑文によると、
『当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(今の日川)に蚕霊山千手院星福寺と称し』
とのことで、お寺のあるこの地が、『豊良浦日向川』 とのこと。
また、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
そして、
『降りて室町時代から江戸時代には益々信を起し、(中略)京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆をみ、・・・(後略)』
ということで、当初は『蚕霊尊』を本尊として祀り、その後、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となったとのこと。文意から江戸時代頃に真言密教の道場になったように読めます。
江戸時代までの神仏混淆の様子も分かる、興味深い一文です。
更に大正六年に突風によって多くの堂宇を失い、残ったのが
『元禄二年建立せる山門』 (筆者註:元禄二年は西暦 1689年)
『嘉永五年に建立せる堂宇のみ』 (筆者註:嘉永五年は西暦 1852年)
とのことで、堂宇は平成に大改築された旨が同石碑にあります。

ガラス越しに参拝しました。
御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)は分かりませんでした。
『奥の院』の御本尊ということなので、なかなか拝見出来ないのかもしれません。
石碑にある 『大正六年』 の突風による被害がなければ、堂宇が立ち並ぶ壮観な様子が今に伝わっていたのでしょう。
その頃の姿が見たかったですが、自然の災害には逆らえませんね・・・

それでも敷地に隣接して幼稚園もあったりで、親しみのある雰囲気を感じる境内でした

(2) 蠶霊神社

蚕霊神社読み方は「さんれい」とも「こだま」とも「こりん」とも読むようです。
星福寺から240mほど西北西方向に行った場所にあります。
(写真は2022年1月初旬撮影)
祭神は大気津比売命(文献6)

鳥居の手前に、神栖市の教育委員会による説明版に、金色姫伝説が書かれています。
文の最後の『撰文 中村ときを』とありますが、この方は、文献5(『神栖のむかし話』)の著書の方です。
こちらの説明板には同書に書かれている金色姫伝説のあらすじが書かれていますが、時に個人的に気になった表現が、
『この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、蚕業の創始先駆者の象徴として、造営したのが蚕霊神社であり、長くこの地域の守りが意味と鳴って鎮座されている』
です。
神社というものが生まれて人々の守り神になっていく姿を表す、誠意ある文章だと感じます。

静謐な参道の奥に、鮮やかな赤いお堂が。
創建の時期は不明とのこと(文献6)。

拝殿の後ろの本殿は波板で覆いがされています。
拝殿も本殿も赤い色を基調に鮮やかに色が塗られています。
特に覆いがかかっている本殿は、色鮮やかに保たれています。
比較的最近、塗り直された印象です。
覆いが、雨風などから本殿の塗装を守っているのですね。

しかしながら、本殿正面上部の蟇股の部分の彫刻が何か、見たかったのですが、拝殿から通路と覆いがあってよく見えません

神社本殿の蟇股の彫刻は、祭神のお使いの動物や象徴する物だったりすることが多いので、興味があるのですが。
何か青い波みたいな形が見えますので、金色姫が乗ってきたうつぼ舟だったりしませんかね?
興味津々

ご神体は「軽石」だったが戦後のどさくさで行方不明になったといいます(文献1)。
ご神体が軽石・・・というくだり、日立・川尻の蠶養神社の話を彷彿させます。

軽石がやはり、繭を連想させる色・形だからでしょうか。
ただし日立・川尻の蠶養神社と違って、ご神体という軽石ついてまつわる伝承は不明です(※)。
※ 一般に寺社については、その自治体が発行している書籍(○○市史、○○町史)に歴史や祭神など書かれているものですが、
『神栖町史』には、東国三社の一つの息栖神社以外の寺社について、何も書かれていません。残念です・・・。
さて次回は、星福寺の蚕霊神=衣襲(きぬがさ)明神について、そして、この地における金色姫譚について見ていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
*************************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
2021年12月27日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
※ なお、この記事に出てくる『蠶』は『蚕』の旧字、『䗝』は、『蚕』の異体字です。
また当記事では、神社名の『蠶養神社』は、同神社の扁額の記載に従っています。多くの参考文献では『蚕養神社』となっていますが、当記事では旧字の『蠶養』と記載します。
さて今回は日立市川尻地区にある蠶養神社の後編、蠶養神社についての考察のまとめです。

(写真は、蠶養神社。2020年8月撮影)
【現在の蠶養神社について文献から分かること(客観的事実)】
前回 (茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》)では、日立市川尻の蠶養神社の歴史について書きました。
常陸国三蚕神社の他の2つの神社に比べ、地味なのに、江戸時代、怒濤の(?)歴史を経て、今に至るのが分かり、びっくりです。
そして、現時点で各資料から分かることは、以下の①~⑥の6つだと云えます(文献1、2、8、10、11)。

① 旧川尻村の『津明神』=(~明治34年まで)於岐津説神社 =(明治34年~現在)蠶養神社
② 元禄五年(西暦1692年)の頃、一度取り潰しが決まった川尻の『津明神』が、逆に神主も置かれて存続することになった。
これは、地元の漁村民はこの明神を『おきぢさま』と呼んで大切にし、雉子を『おきぢさま』(またはそのお使い?)と見なしていたのか、雉子が鳴くと『おきぢさまの御鳴なさる』と言っていたとのことで、地元の人達からとても崇敬されていたため。
③ 元禄年中1688年~1704年の頃には、『(神の下に虫)養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し』、
『全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々…』
という信仰があった模様。
④ 寛政十年(1798年)に水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝が撰した縁起文で、『蠶影大明神』の名 及び『蠶養嶺地主神』の名が出る。
これは、宝永五年(西暦1708年)以降に書かれたであろう『常陸國蠶養嶺略縁起』
(『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔』)
が元であると思われる。
⑤ 同じく寛政十年(1798年)に水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝が撰した縁起文で、『豊浦湊』という地名とヤマトタケル(大和武尊)との関わりが、記されている。
⑥ 『河尻村日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔による縁起にも、水戸彰考館の青山延彝による縁起文にも、『金色姫』については言及無し。
【現在の蠶養神社について考えられること(私見的考察)】
以上のことを発展させると、 旧川尻村の『津明神』=(~明治34年まで)於岐津説神社 =(明治34年~現在)蚕養神社 については、
以下の(A)(B)(C)(D)のことが云えるのではないかと考えます。
(A) 『おきぢさま』と村漁民から深く崇敬されていた。それゆえ取り壊されず、あらたに祭祀者が付けられた。

(蠶養神社の境内付近から、小貝浜とは反対側の、北のウミウ捕獲場のある方向を望む 2020年8月撮影)
⇩
●漁業に携わる人からの崇敬があるということは、元々は漁業の神・豊漁の神・航海安全の神だったのではないか?
●お社のある位置も海に突き出た丘の上にあって、漁業・航海安全の祈願をされていたというのは理解しやすい。
(B) 大神主 大都權之太輔による縁起(文献11)によると、ある時(時代不明)、この地の沖(東方沖?)に蚕?繭?の形をしたものが 浮いているのが発見され、それを『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』名付けて、おきぢさまの境内に安置された。
特に 元禄年中1688年~1704年の頃から、『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』という名の神として崇められ、 一時水戸藩により信仰を禁止されるが、それでも復活して段々信仰が広まった模様。
⇩
●その当時、当地やその周辺では養蚕が行わていて、養蚕の神として流行神のように『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』信仰が
広まったと考えられる。
(C) 『豊浦湊』『大和武尊』の名は、水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝の縁起文に出てくる。
大和武尊が『豊浦湊』から上陸し、この社で祈願したら、戦わずして蝦夷に勝てたということでこの社に寄進をしたというエピソードあり。
このヤマトタケル(大和武尊)の伝説は古事記・日本書記・常陸国風土記には見られない(文献9)。
いつごろから語られるようになっていたのかは不明。
⇩
●ヤマトタケルがこの土地の神に祈ったら『戦わずに』蝦夷を平らげることが出来たというエピソードは、蝦夷の人にシンパシーを感じているこの土地の人々、そして征服・平定しにきた大和の政権に忸怩たる想いを持つ人々が、隠れたその思いを語り継いできた伝説のように感じる。
(D) 金色姫譚は全く触れられていない。
子貝浜の小さな赤い巻貝や綺麗な石を蚕のお守りとする信仰(文献3、4、5、7)はいつから始まったか不明。
金色姫の赤い巻貝の首飾りの話(文献7 及び境内の掲示板)も、いつごろに生まれたか不明。
⇩
●江戸時代前期の頃は、金色姫伝説はこの地に伝わってなかったのか?
●もしくはこの地には金色姫譚は伝わっていたが、川尻の津明神(於岐津説神社)とは違う系統の伝説だったので、神社の公式な縁起とされなかったので 記録されなかったか?
●それがいつしか川尻の津明神(於岐津説神社)の信仰と混淆していったか?
【現在の蠶養神社と金色姫譚との関係についての仮説】
室町後期の永禄元年(西暦1558年)に京都で記録された『戒言』の『常陸国とよら』とのミッシングリングは埋まりませんが、 もし常陸国の中で最初にこの地に『原 金色姫譚』が伝わったとした場合 、私は以下の仮説が言えるように思っています。
【仮説】
① 日立市の川尻地区・蠶養神社付近には、古くから語られたローカルなヤマトタケル伝説とそれにちなむ『豊浦湊』という地があった。
② 複数の系統・技術・言い伝えを持つ織物技術のグループが古くから住んでいたと考えられる。
茨城県北あたりは、もともと織物の神を祀る古い神社が複数ある。
静神社、長旗部神社、大甕神社など、それぞれ違う系統の織物の神と思われる。
③ 船の遭難か何かで、豊浦港付近に、従来から住んでいた②のグループとは別系統の人々がこの地に流れ着き、養蚕技術・蚕種や独自の伝説をこの地に伝えた。
④ 上記③の事情で伝説と手法等が伝わった痕跡が、金色姫伝説ではないか。この地の人々はその伝説と養蚕・織物の手法を細々と伝えていたのかもしれない。
また赤い貝の首飾りの話など、いわゆるシャーマン的存在を感じる。
⑤ またこの辺りは阿武隈山系が海の近くまで迫っている。阿武隈山系で修行したり移動する修験道や山岳修行者が古くからいた。
この山岳修行者が、金色姫伝説や養蚕、織物技術的なものを、別の土地に伝えたのではないか?
※ この山岳修行者の介入の可能性については、前回の記事
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
も、ご参照下さい。
この地に伝わる金色姫伝説には、筑波山ほんどう仙人も富士山かぐや姫も出てこない。
これは、本来の伝説は金色姫が亡くなるところまでで、その後、山岳宗教者(修験者など)がこの伝説を取り込み、まず阿武隈山系南端の筑波山系の山岳宗教者が金色姫譚を知って『筑波山のほんどう仙人』の話を作って付け加え、筑波山方面に金色姫譚を伝えたか?
その後、富士山信仰の山岳宗教者が、関東布教の折に、ほんどう仙人の話も含めた金色姫譚を知り、それに『富士山のかぐや姫』の話を作ってさらに付け加え、布教の際にこの話を広く広めて京都まで伝わり、1500年代、京都まで伝わり、『戒言』として記録されたか?
⑥ 川尻の津明神(おきつせ神社)は、当初は養蚕とは関係なく、豊漁と航海安全の神だった。
江戸時代の頃(元禄年中(1688年~1704年))、川尻の沖に『蚕形』のものがあるのを見つけ『蠶養大明神 蠶養嶺地主神』と名付けて川尻の津明神境内か(もしくはその近く?)に祀った人がいた。

(蠶影神社の境内の先から海を望む。看板には大変おおまかなこの辺りの地図。地図としてはもう少し情報が欲しいところ。2020年8月撮影)
おりしも養蚕が奨励されてきつつある時、守り神として流行神の様に信仰がひろまり、淫祀邪教を徹底的に取り締まった水戸藩(水戸光圀)が禁止したが、それでも信仰され、寛政十年(1798年)に水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝が撰した縁起文には、それらの神名(『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』『蠶養大明神 蠶養嶺地主神』)が記されるようになった。
⑦ 同じく江戸中期ごろになると、養蚕が各地で行われるようになり、育てるのに大変な蚕を守るための神仏への信仰もまた求められるようになった。その需要にいち早く対応し、布教活動に力を入れたのが、神栖の星福寺(蚕霊神社)と、筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社)。星福寺は、特に衣襲(きぬがさ)明神を蚕の神仏として布教し、桑林寺は金色姫を蚕影山明神と同じ神として布教した。衣襲明神(絹笠明神とも)は群馬の方で特に信仰され、蚕影山明神(金色姫)は東京・神奈川・山梨方面で信仰された。
どちらも、利根川・鬼怒川・桜川などの水運の近くで、布教のための移動もしやすく、また信者も詣でやすい土地だったと思われる。
しかも、星福寺は、鹿島・香取・息栖の東国三社詣での地に近く、桑林寺(蚕影山神社)も、筑波山の知足院中禅寺(現在の筑波山神社)に近い。信者が東国三社詣でのついでに詣でやすい。
それに比べ、日立・川尻の『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』『蠶養大明神 蠶養嶺地主神』は、桑原寺(蚕影山神社)や星福寺(蚕霊神社)のような強力な布教活動はしなかった上に、東国三社や筑波山中禅寺のような有名寺が近くにない。また他の土地(内陸』を自由に移動できる水運の盛んな川も近くになく、地の利に乏しい。
水戸藩による徹底した宗教政策の影響も大きかっただろう。
そういった条件が重なり、隣の福島までぐらいしか信仰が広がりにくく、そのため知名度も低いのではないか。
⑧ 金色姫伝説は本来の津明神の信仰とは関係なかったので、津明神(於岐津説神社)の縁起文、すなわち、宝永五年(西暦1708年)以降に書かれたであろう『常陸國蠶養嶺略縁起』(『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔』)にも、寛政十年(西暦1798年)の水戸彰考館編集神道司経青山延彝による縁起文にも触れられていないのではないか。
しかし、この地で元々細々と伝わっていた金色姫伝説は、庶民の中で津明神の近くで祀られた、蚕形の御神体の神と同じ養蚕の神として結びつき、明治以降養蚕が盛んになるにつれてそちらが有名になり、『津明神=於岐津説神社』から、明治時代になり『蠶養神社』と社名も変わり、さらに大正時代には祭神も追加されて現在の祭神3柱になったか?
【蠶養神社の和賛に謳われる、金色姫譚にまつわる地名】
ちなみに、文献7に、昭和2年に福島県の相沢さんという方が作ったという『かひこ礼讃』が掲載されています。
大変長い和讃ですが、その中に、川尻・蠶養神社周辺の、金色姫譚にまつわるらしい地名が数多く出てきます。
それを、順に並べると、
イワヒ山、コカヒがハマ、蚕島、そだて島、かがて姫島、かくれ磯、ぢい磯、ばあ磯、めをと磯、袖ケ浦、三宝磯、経が島、タテ山、ビヨウブ岩、ボダイ山、マユ磯、蝶島、鍋島、イビラ島、経繰(ヘグリ)の磯、
ザグリ穴、船橋、イト磯、タカラ磯、アヤ磯、錦島、コロモ磯、太夫がヤカタ、外記ヤシキ、赤見台、あまつシミツの井戸、トヨラ潟、えびすの穴、鯛の磯、ベンテン崎、ホテイ岩、ダイコク島、ビシヤモン堂、コカヒがみね
・・・最後のあたりは七福神関係(^^;)ですね
。
しかし逆に、金色姫譚と養蚕・織物にまつわる名がつけられた地名、そしてめでたい七福神との混淆が、民衆の生々しい信仰と願いを伝えていると感じます。
現在はそれぞれがどこに該当するのか分からないようですが、少なくともそう呼ばれた地名が当時の頃まではあったということでしょう。
それにしても、この『こかひ礼賛』の名所紹介の箇所を歌うと、この辺りの海岸線や、小島、岩、浜辺の様子が目に浮かぶようです
。
(文献7の『筑波歴史散歩』(宮本宣一 著)に、筑波山麓から遠く離れた、貴重な蠶養神社の『かひこ礼讃』が全文記載されている
のは、素晴らしいと思いました。著者は、蚕影山神社の『蚕影山和讃』を元にした例として紹介していますが)
以上述べてきたことを考えると、実はこの日立市川尻地区が、『常陸国における金色姫譚の始まりの地』
の可能性が一番高いのではないかと、私は考えています
。
【ジオから見た蠶養神社の信仰】
さてこの地での金色姫伝説については、この土地特有のジオも関わっていると思います。
つまり、この日立市川尻地区の周辺の、海洋生物の生態、地形、地質、海流の条件が見事に重なって、蚕のお守り=サンショウガイや綺麗な小石という民間信仰が生まれた言えるでしょう。
(1) 砂浜の貝殻:鮮やかな赤色の小さな巻貝がある。
昔は浜辺が赤くなるほど、サンショウガイの貝殻があったと云います(文献3、4、6)

その赤い小さな巻貝は『サンショウガイ』
サンショウガイはサザエ科の微小な巻貝。
参考サイト:微小貝さがしサポートデータベース
地元の伝承(文献3、4、6)では『蚕生貝』という字を当てられ、蚕のお守りにするとされたとのこと。
参考サイト:
日立市HP 金色姫伝説、サンショウガイ
もしかすると、
『赤い』サンショウガイ と 『白い』蚕 ⇒ 赤と白の組み合わせに 『めでたい』 ⇒ 『良い生育』
を、願ったのかもしれませんね
。
(2) 砂浜の砂利:きれいな小石。常陸国風土記にも、「碁石」など綺麗な小石の浜があると書かれている。
これも蚕のお守りにするとされたと云います(文献6)。

これは、茨城県北の山で産出する、めのうや玉髄などが川から海に流れていき、きれいな小石の砂利となっているためです。
茨城県北、奥久慈の山はメノウや玉髄の産地です
。
久慈川上流のメノウについては、以前書いた記事もご参照下さい
→ 茨城こんなもの見つけた♪(23) 常陸大宮の 珪化木 と メノウ
久慈川・十王川水系(久慈川 · 里川 · 茂宮川 · 入四間川 · 落見川、十王川)が、山から風化等で崩れてきたメノウや玉髄を運び、 更にそれらが細かい砂利となって、この辺りの美しい海岸の砂利を作っているのですね。
(3)海流:この土地は外洋に面した土地。

(小貝浜の南に隣接する川尻海水浴場 2020年8月撮影)
そして、この茨城県沖は、黒潮と親潮がぶつかるエリア。
海産物も豊富だが、遠くから流されてくる漂着物も多く、昔から様々なものが流れ着きました。
例えば、文献1では、漂流していた琉球船が流れ着いた記録も記されています。
ご神体とされていた『蚕形』の石(文献11)に書かれた縁起書には、この浦の沖で蚕形のもの(石?)が浮いているのが発見され、それを 上子山(現在の蚕養神社のある高台か?)に安置して、『䗝養濱神虫神石御命』『蚕養大明神 蚕養嶺地主神』『蚕養大明神』としたとあります。
※『䗝』 (『神』の下に『虫』、蚕の異体字)
またその『蚕形』の石が発見された翌日に、『従者のように小石が沢山 流れ着いた』という話も、後から海流に乗って次々に漂着した軽石を思わせます。
海流の関係から、例えば伊豆諸島の火山や海底火山が噴火したら、噴出物の軽石などが流れ着く可能性は大いに考えられます。
(今年2021年の8月小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」噴火し、海流に乗った大量のよる軽石が、10月には奄美・沖縄方面に大量に漂着し、11月には千葉県の海岸にも漂着が確認されたニュースの記憶が新しいです)
このようなジオ的な目で見ると、この土地に伝わる信仰についても、また違った風景が見えてきますね。
【おまけ】 つくばにある『蚕養神社』

さて、つくば市上郷、小貝川のほとりにある金村別雷神社。
(写真は金村別雷神社。2021年10月撮影)
その金村別雷神社の境内に、『蚕養神社』があります(※)。
すぐ近く、筑波山麓の蚕影山神社(蚕影神社)でなく、『蚕養神社』なのです!
(※)つくば市内に蚕養神社があるのは、(当時)神栖町歴史民俗資料館が発行した 『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』(文献 13) の 『茨城県内の養蚕・機織りに関する神社と地名』の地図で見つけ、具体的にどこにあるのか、同資料館に問い合わせたところ、金村別雷神社の境内にあるとご教示頂きました。
神栖市歴史民俗資料館の職員の方、ありがとうございました。

金村別雷神社の本殿の裏手側、複数の祠が並ぶ中に、蚕養神社があります。
(こちらの祠の扁額には『蚕養神社』となってますので、当ブログでもこちらの神社は旧字を使った『蠶養』でなく『蚕養』と書きます)
お詣りされる方が多いのか、小さなお賽銭箱もあり、お酒も奉納されています
。
(2021年10月撮影)
上郷地区(旧 豊里町)は、昔は養蚕が盛んな場所でした。
そして先ごろ廃校になってしまいましたが、県立上郷高等学校の前身は、『上郷養蚕高等学校』でした(文献14)。
そういった土地だったので、『蚕養神社』の祠が奉られ、信仰されてきたのでしょう。

しかしなぜ、(筑波山に隣接する)蚕影山に比較的近いこの地に、『蚕影山神社/蚕影神社』ではなくて、『蚕養神社』の祠が建立され、信仰されてきたのでしょうか。
日立・川尻の蚕養神社から分霊したものなのか?はたまた偶然の名前の一致なのか?
神社の方にここの蚕養神社の祠について尋ねましたが、『この辺りにあった小さな祠をまとめたものです』ということで、
詳しいことは分からないとのことでした。
もしご存じの方がおられたら、ご教示下さい。
次回からは、神栖の星福寺/蚕霊神社 について考えていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
************************
【参考文献】
1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社
2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市
3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団
4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)
5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房
7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター
8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社
10. 『日立市史』 日立市役所 常陸書房
11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
12. 『地球再発見 いばらき自然ものがたり』 ミュージアムパーク茨城県自然博物館 編 茨城新聞社
いばらきの自然
13. 『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
14. 『豊里町の歴史』 豊里町史編纂委員会 豊里町
【参考サイト】
微小貝さがしサポートデータベース
http://bishogai-sagashi.jp/search/block.php
http://bishogai-sagashi.jp/sp/
日立市HP 金色姫伝説、サンショウガイ
https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/hitachikaze/boasts/view/p092362.html
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話





物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

※ なお、この記事に出てくる『蠶』は『蚕』の旧字、『䗝』は、『蚕』の異体字です。
また当記事では、神社名の『蠶養神社』は、同神社の扁額の記載に従っています。多くの参考文献では『蚕養神社』となっていますが、当記事では旧字の『蠶養』と記載します。
さて今回は日立市川尻地区にある蠶養神社の後編、蠶養神社についての考察のまとめです。

(写真は、蠶養神社。2020年8月撮影)
【現在の蠶養神社について文献から分かること(客観的事実)】
前回 (茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》)では、日立市川尻の蠶養神社の歴史について書きました。
常陸国三蚕神社の他の2つの神社に比べ、地味なのに、江戸時代、怒濤の(?)歴史を経て、今に至るのが分かり、びっくりです。
そして、現時点で各資料から分かることは、以下の①~⑥の6つだと云えます(文献1、2、8、10、11)。

① 旧川尻村の『津明神』=(~明治34年まで)於岐津説神社 =(明治34年~現在)蠶養神社
② 元禄五年(西暦1692年)の頃、一度取り潰しが決まった川尻の『津明神』が、逆に神主も置かれて存続することになった。
これは、地元の漁村民はこの明神を『おきぢさま』と呼んで大切にし、雉子を『おきぢさま』(またはそのお使い?)と見なしていたのか、雉子が鳴くと『おきぢさまの御鳴なさる』と言っていたとのことで、地元の人達からとても崇敬されていたため。
③ 元禄年中1688年~1704年の頃には、『(神の下に虫)養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し』、
『全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々…』
という信仰があった模様。
④ 寛政十年(1798年)に水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝が撰した縁起文で、『蠶影大明神』の名 及び『蠶養嶺地主神』の名が出る。
これは、宝永五年(西暦1708年)以降に書かれたであろう『常陸國蠶養嶺略縁起』
(『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔』)
が元であると思われる。
⑤ 同じく寛政十年(1798年)に水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝が撰した縁起文で、『豊浦湊』という地名とヤマトタケル(大和武尊)との関わりが、記されている。
⑥ 『河尻村日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔による縁起にも、水戸彰考館の青山延彝による縁起文にも、『金色姫』については言及無し。
【現在の蠶養神社について考えられること(私見的考察)】
以上のことを発展させると、 旧川尻村の『津明神』=(~明治34年まで)於岐津説神社 =(明治34年~現在)蚕養神社 については、
以下の(A)(B)(C)(D)のことが云えるのではないかと考えます。
(A) 『おきぢさま』と村漁民から深く崇敬されていた。それゆえ取り壊されず、あらたに祭祀者が付けられた。

(蠶養神社の境内付近から、小貝浜とは反対側の、北のウミウ捕獲場のある方向を望む 2020年8月撮影)
⇩
●漁業に携わる人からの崇敬があるということは、元々は漁業の神・豊漁の神・航海安全の神だったのではないか?
●お社のある位置も海に突き出た丘の上にあって、漁業・航海安全の祈願をされていたというのは理解しやすい。
(B) 大神主 大都權之太輔による縁起(文献11)によると、ある時(時代不明)、この地の沖(東方沖?)に蚕?繭?の形をしたものが 浮いているのが発見され、それを『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』名付けて、おきぢさまの境内に安置された。
特に 元禄年中1688年~1704年の頃から、『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』という名の神として崇められ、 一時水戸藩により信仰を禁止されるが、それでも復活して段々信仰が広まった模様。
⇩
●その当時、当地やその周辺では養蚕が行わていて、養蚕の神として流行神のように『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』信仰が
広まったと考えられる。
(C) 『豊浦湊』『大和武尊』の名は、水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝の縁起文に出てくる。
大和武尊が『豊浦湊』から上陸し、この社で祈願したら、戦わずして蝦夷に勝てたということでこの社に寄進をしたというエピソードあり。
このヤマトタケル(大和武尊)の伝説は古事記・日本書記・常陸国風土記には見られない(文献9)。
いつごろから語られるようになっていたのかは不明。
⇩
●ヤマトタケルがこの土地の神に祈ったら『戦わずに』蝦夷を平らげることが出来たというエピソードは、蝦夷の人にシンパシーを感じているこの土地の人々、そして征服・平定しにきた大和の政権に忸怩たる想いを持つ人々が、隠れたその思いを語り継いできた伝説のように感じる。
(D) 金色姫譚は全く触れられていない。
子貝浜の小さな赤い巻貝や綺麗な石を蚕のお守りとする信仰(文献3、4、5、7)はいつから始まったか不明。
金色姫の赤い巻貝の首飾りの話(文献7 及び境内の掲示板)も、いつごろに生まれたか不明。
⇩
●江戸時代前期の頃は、金色姫伝説はこの地に伝わってなかったのか?
●もしくはこの地には金色姫譚は伝わっていたが、川尻の津明神(於岐津説神社)とは違う系統の伝説だったので、神社の公式な縁起とされなかったので 記録されなかったか?
●それがいつしか川尻の津明神(於岐津説神社)の信仰と混淆していったか?
【現在の蠶養神社と金色姫譚との関係についての仮説】
室町後期の永禄元年(西暦1558年)に京都で記録された『戒言』の『常陸国とよら』とのミッシングリングは埋まりませんが、 もし常陸国の中で最初にこの地に『原 金色姫譚』が伝わったとした場合 、私は以下の仮説が言えるように思っています。
【仮説】
① 日立市の川尻地区・蠶養神社付近には、古くから語られたローカルなヤマトタケル伝説とそれにちなむ『豊浦湊』という地があった。
② 複数の系統・技術・言い伝えを持つ織物技術のグループが古くから住んでいたと考えられる。
茨城県北あたりは、もともと織物の神を祀る古い神社が複数ある。
静神社、長旗部神社、大甕神社など、それぞれ違う系統の織物の神と思われる。
③ 船の遭難か何かで、豊浦港付近に、従来から住んでいた②のグループとは別系統の人々がこの地に流れ着き、養蚕技術・蚕種や独自の伝説をこの地に伝えた。
④ 上記③の事情で伝説と手法等が伝わった痕跡が、金色姫伝説ではないか。この地の人々はその伝説と養蚕・織物の手法を細々と伝えていたのかもしれない。
また赤い貝の首飾りの話など、いわゆるシャーマン的存在を感じる。
⑤ またこの辺りは阿武隈山系が海の近くまで迫っている。阿武隈山系で修行したり移動する修験道や山岳修行者が古くからいた。
この山岳修行者が、金色姫伝説や養蚕、織物技術的なものを、別の土地に伝えたのではないか?
※ この山岳修行者の介入の可能性については、前回の記事

も、ご参照下さい。
この地に伝わる金色姫伝説には、筑波山ほんどう仙人も富士山かぐや姫も出てこない。
これは、本来の伝説は金色姫が亡くなるところまでで、その後、山岳宗教者(修験者など)がこの伝説を取り込み、まず阿武隈山系南端の筑波山系の山岳宗教者が金色姫譚を知って『筑波山のほんどう仙人』の話を作って付け加え、筑波山方面に金色姫譚を伝えたか?
その後、富士山信仰の山岳宗教者が、関東布教の折に、ほんどう仙人の話も含めた金色姫譚を知り、それに『富士山のかぐや姫』の話を作ってさらに付け加え、布教の際にこの話を広く広めて京都まで伝わり、1500年代、京都まで伝わり、『戒言』として記録されたか?
⑥ 川尻の津明神(おきつせ神社)は、当初は養蚕とは関係なく、豊漁と航海安全の神だった。
江戸時代の頃(元禄年中(1688年~1704年))、川尻の沖に『蚕形』のものがあるのを見つけ『蠶養大明神 蠶養嶺地主神』と名付けて川尻の津明神境内か(もしくはその近く?)に祀った人がいた。

(蠶影神社の境内の先から海を望む。看板には大変おおまかなこの辺りの地図。地図としてはもう少し情報が欲しいところ。2020年8月撮影)
おりしも養蚕が奨励されてきつつある時、守り神として流行神の様に信仰がひろまり、淫祀邪教を徹底的に取り締まった水戸藩(水戸光圀)が禁止したが、それでも信仰され、寛政十年(1798年)に水戸彰考館の編集神道司経の青山延彝が撰した縁起文には、それらの神名(『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』『蠶養大明神 蠶養嶺地主神』)が記されるようになった。
⑦ 同じく江戸中期ごろになると、養蚕が各地で行われるようになり、育てるのに大変な蚕を守るための神仏への信仰もまた求められるようになった。その需要にいち早く対応し、布教活動に力を入れたのが、神栖の星福寺(蚕霊神社)と、筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社)。星福寺は、特に衣襲(きぬがさ)明神を蚕の神仏として布教し、桑林寺は金色姫を蚕影山明神と同じ神として布教した。衣襲明神(絹笠明神とも)は群馬の方で特に信仰され、蚕影山明神(金色姫)は東京・神奈川・山梨方面で信仰された。
どちらも、利根川・鬼怒川・桜川などの水運の近くで、布教のための移動もしやすく、また信者も詣でやすい土地だったと思われる。
しかも、星福寺は、鹿島・香取・息栖の東国三社詣での地に近く、桑林寺(蚕影山神社)も、筑波山の知足院中禅寺(現在の筑波山神社)に近い。信者が東国三社詣でのついでに詣でやすい。
それに比べ、日立・川尻の『(神の下に虫)養濱神虫神石御命』『蠶養大明神 蠶養嶺地主神』は、桑原寺(蚕影山神社)や星福寺(蚕霊神社)のような強力な布教活動はしなかった上に、東国三社や筑波山中禅寺のような有名寺が近くにない。また他の土地(内陸』を自由に移動できる水運の盛んな川も近くになく、地の利に乏しい。
水戸藩による徹底した宗教政策の影響も大きかっただろう。
そういった条件が重なり、隣の福島までぐらいしか信仰が広がりにくく、そのため知名度も低いのではないか。
⑧ 金色姫伝説は本来の津明神の信仰とは関係なかったので、津明神(於岐津説神社)の縁起文、すなわち、宝永五年(西暦1708年)以降に書かれたであろう『常陸國蠶養嶺略縁起』(『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔』)にも、寛政十年(西暦1798年)の水戸彰考館編集神道司経青山延彝による縁起文にも触れられていないのではないか。
しかし、この地で元々細々と伝わっていた金色姫伝説は、庶民の中で津明神の近くで祀られた、蚕形の御神体の神と同じ養蚕の神として結びつき、明治以降養蚕が盛んになるにつれてそちらが有名になり、『津明神=於岐津説神社』から、明治時代になり『蠶養神社』と社名も変わり、さらに大正時代には祭神も追加されて現在の祭神3柱になったか?
【蠶養神社の和賛に謳われる、金色姫譚にまつわる地名】
ちなみに、文献7に、昭和2年に福島県の相沢さんという方が作ったという『かひこ礼讃』が掲載されています。
大変長い和讃ですが、その中に、川尻・蠶養神社周辺の、金色姫譚にまつわるらしい地名が数多く出てきます。
それを、順に並べると、
イワヒ山、コカヒがハマ、蚕島、そだて島、かがて姫島、かくれ磯、ぢい磯、ばあ磯、めをと磯、袖ケ浦、三宝磯、経が島、タテ山、ビヨウブ岩、ボダイ山、マユ磯、蝶島、鍋島、イビラ島、経繰(ヘグリ)の磯、
ザグリ穴、船橋、イト磯、タカラ磯、アヤ磯、錦島、コロモ磯、太夫がヤカタ、外記ヤシキ、赤見台、あまつシミツの井戸、トヨラ潟、えびすの穴、鯛の磯、ベンテン崎、ホテイ岩、ダイコク島、ビシヤモン堂、コカヒがみね
・・・最後のあたりは七福神関係(^^;)ですね

しかし逆に、金色姫譚と養蚕・織物にまつわる名がつけられた地名、そしてめでたい七福神との混淆が、民衆の生々しい信仰と願いを伝えていると感じます。
現在はそれぞれがどこに該当するのか分からないようですが、少なくともそう呼ばれた地名が当時の頃まではあったということでしょう。
それにしても、この『こかひ礼賛』の名所紹介の箇所を歌うと、この辺りの海岸線や、小島、岩、浜辺の様子が目に浮かぶようです

(文献7の『筑波歴史散歩』(宮本宣一 著)に、筑波山麓から遠く離れた、貴重な蠶養神社の『かひこ礼讃』が全文記載されている
のは、素晴らしいと思いました。著者は、蚕影山神社の『蚕影山和讃』を元にした例として紹介していますが)
以上述べてきたことを考えると、実はこの日立市川尻地区が、『常陸国における金色姫譚の始まりの地』
の可能性が一番高いのではないかと、私は考えています

【ジオから見た蠶養神社の信仰】
さてこの地での金色姫伝説については、この土地特有のジオも関わっていると思います。
つまり、この日立市川尻地区の周辺の、海洋生物の生態、地形、地質、海流の条件が見事に重なって、蚕のお守り=サンショウガイや綺麗な小石という民間信仰が生まれた言えるでしょう。
(1) 砂浜の貝殻:鮮やかな赤色の小さな巻貝がある。
昔は浜辺が赤くなるほど、サンショウガイの貝殻があったと云います(文献3、4、6)
その赤い小さな巻貝は『サンショウガイ』
サンショウガイはサザエ科の微小な巻貝。

地元の伝承(文献3、4、6)では『蚕生貝』という字を当てられ、蚕のお守りにするとされたとのこと。

日立市HP 金色姫伝説、サンショウガイ
もしかすると、
『赤い』サンショウガイ と 『白い』蚕 ⇒ 赤と白の組み合わせに 『めでたい』 ⇒ 『良い生育』
を、願ったのかもしれませんね

(2) 砂浜の砂利:きれいな小石。常陸国風土記にも、「碁石」など綺麗な小石の浜があると書かれている。
これも蚕のお守りにするとされたと云います(文献6)。
これは、茨城県北の山で産出する、めのうや玉髄などが川から海に流れていき、きれいな小石の砂利となっているためです。
茨城県北、奥久慈の山はメノウや玉髄の産地です



→ 茨城こんなもの見つけた♪(23) 常陸大宮の 珪化木 と メノウ
久慈川・十王川水系(久慈川 · 里川 · 茂宮川 · 入四間川 · 落見川、十王川)が、山から風化等で崩れてきたメノウや玉髄を運び、 更にそれらが細かい砂利となって、この辺りの美しい海岸の砂利を作っているのですね。
(3)海流:この土地は外洋に面した土地。

(小貝浜の南に隣接する川尻海水浴場 2020年8月撮影)
そして、この茨城県沖は、黒潮と親潮がぶつかるエリア。
海産物も豊富だが、遠くから流されてくる漂着物も多く、昔から様々なものが流れ着きました。
例えば、文献1では、漂流していた琉球船が流れ着いた記録も記されています。
ご神体とされていた『蚕形』の石(文献11)に書かれた縁起書には、この浦の沖で蚕形のもの(石?)が浮いているのが発見され、それを 上子山(現在の蚕養神社のある高台か?)に安置して、『䗝養濱神虫神石御命』『蚕養大明神 蚕養嶺地主神』『蚕養大明神』としたとあります。
※『䗝』 (『神』の下に『虫』、蚕の異体字)
またその『蚕形』の石が発見された翌日に、『従者のように小石が沢山 流れ着いた』という話も、後から海流に乗って次々に漂着した軽石を思わせます。
海流の関係から、例えば伊豆諸島の火山や海底火山が噴火したら、噴出物の軽石などが流れ着く可能性は大いに考えられます。
(今年2021年の8月小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」噴火し、海流に乗った大量のよる軽石が、10月には奄美・沖縄方面に大量に漂着し、11月には千葉県の海岸にも漂着が確認されたニュースの記憶が新しいです)
このようなジオ的な目で見ると、この土地に伝わる信仰についても、また違った風景が見えてきますね。
【おまけ】 つくばにある『蚕養神社』

さて、つくば市上郷、小貝川のほとりにある金村別雷神社。
(写真は金村別雷神社。2021年10月撮影)
その金村別雷神社の境内に、『蚕養神社』があります(※)。
すぐ近く、筑波山麓の蚕影山神社(蚕影神社)でなく、『蚕養神社』なのです!
(※)つくば市内に蚕養神社があるのは、(当時)神栖町歴史民俗資料館が発行した 『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』(文献 13) の 『茨城県内の養蚕・機織りに関する神社と地名』の地図で見つけ、具体的にどこにあるのか、同資料館に問い合わせたところ、金村別雷神社の境内にあるとご教示頂きました。
神栖市歴史民俗資料館の職員の方、ありがとうございました。

金村別雷神社の本殿の裏手側、複数の祠が並ぶ中に、蚕養神社があります。
(こちらの祠の扁額には『蚕養神社』となってますので、当ブログでもこちらの神社は旧字を使った『蠶養』でなく『蚕養』と書きます)
お詣りされる方が多いのか、小さなお賽銭箱もあり、お酒も奉納されています

(2021年10月撮影)
上郷地区(旧 豊里町)は、昔は養蚕が盛んな場所でした。
そして先ごろ廃校になってしまいましたが、県立上郷高等学校の前身は、『上郷養蚕高等学校』でした(文献14)。
そういった土地だったので、『蚕養神社』の祠が奉られ、信仰されてきたのでしょう。

しかしなぜ、(筑波山に隣接する)蚕影山に比較的近いこの地に、『蚕影山神社/蚕影神社』ではなくて、『蚕養神社』の祠が建立され、信仰されてきたのでしょうか。
日立・川尻の蚕養神社から分霊したものなのか?はたまた偶然の名前の一致なのか?
神社の方にここの蚕養神社の祠について尋ねましたが、『この辺りにあった小さな祠をまとめたものです』ということで、
詳しいことは分からないとのことでした。
もしご存じの方がおられたら、ご教示下さい。
次回からは、神栖の星福寺/蚕霊神社 について考えていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
************************
【参考文献】
1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社
2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市
3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団
4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)
5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房
7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター
8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社
10. 『日立市史』 日立市役所 常陸書房
11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
12. 『地球再発見 いばらき自然ものがたり』 ミュージアムパーク茨城県自然博物館 編 茨城新聞社
いばらきの自然
13. 『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
14. 『豊里町の歴史』 豊里町史編纂委員会 豊里町
【参考サイト】
微小貝さがしサポートデータベース
http://bishogai-sagashi.jp/search/block.php
http://bishogai-sagashi.jp/sp/
日立市HP 金色姫伝説、サンショウガイ
https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/hitachikaze/boasts/view/p092362.html
2021年11月26日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけていきます
。
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)で立てた金色姫譚が生まれて広がった経緯の仮説をもとに、いよいよ、現在伝わる『金色姫譚』に出てくる『常陸国豊浦』について考えていきます。
私の仮説では、『金色姫譚』の原形『貴人蚕譚』は瀬戸内海~九州北部で生まれて(詳細茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)・
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」 )、それがいつの時代か常陸国に伝わって、『常陸国豊浦』と『常陸化』し、更に現在の『金色姫譚』(ストーリーが4部構成)になっていったと考えています。
(詳細 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)に書いた仮説の流れの中うち、下記の(B)~(F)が常陸国で起きたことだと私は考えています。
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(c1) 偶然『とゆら/とよら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった
(c2) とゆら/とよら(豊浦)の地名に『常陸国』が加わって『常陸国の豊浦』となって、話の舞台が『常陸化』していったか
永禄元年(西暦1558年) の『戒言』(現在まで伝わる金色姫の話とほぼ同じ)には『常陸国とよら』とはっきり書かれているので、1558 年より前に話の舞台が『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫
『筑波山のほんどう仙人』
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
『富士山=筑波山』という考え方
かぐやは『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。
上の仮説を前提に、現在まで金色姫譚が伝わる常陸国三蚕社について、それぞれ検討していきます。
まず最初は、日立市川尻町にある蠶養(こかい)神社です。
【日立市 川尻町 蠶養(こかい)神社】

日立市 川尻にある 蠶養(こかい)神社。
神社境内にある社務所による由来の看板には『蠶養神社』とあり、『蚕』の時が旧字体の『蠶』なので、ここでは『蠶養神社』と書きます。
この辺りは昔は川尻村と呼ばれたところです(文献1、2)
(写真は2020年8月撮影)
こじんまりした小貝浜(蚕養浜)に面する高台に蠶養神社はあります。
『小貝(こかい)浜』は、同じ『こかい』の音から、『蚕養(こかい)浜』とも文献には書かれています。
『小貝』の字が先か、『蚕養』の字が先か、なかなか興味深いです。
(写真は2020年8月撮影)

また、この蠶養神社に伝わる信仰で大変ユニークなのが、
・小貝浜(蚕養浜)で取れる赤い小さな巻貝を、養蚕のお守りとする。
(文献3、4、5)
・小貝浜(蚕養浜)で取れる小石を、養蚕のお守りとする。
(文献6)
というのがあります。
このような民間信仰も、常陸国蚕の社の他の2社(神栖・蚕霊神社、つくば・蚕影山神社)にはないものです。

『サンショウガイ』と呼ばれる赤い微少な巻き貝。
これを養蚕のお守りとして、養蚕家が大事に神棚に上げていたそうです。
赤い色が鮮やかで可愛い
『サンショウガイ』は、『山椒貝』とも『蚕生貝』という字を当てるようです。
熟した山椒の実が赤いからでしょうか。
『蚕生』のあて字は、巧くて良い字ですよね

こちらは同じ小貝浜で見られる綺麗な石。
この辺りの山で算出するメノウなどでしょうか。
これも養蚕のお守りにするとのこと。綺麗な石ですよね。
(これらの貝や石については、後に後編で考えていきます)
ちなみに、宮本宣一著『筑波歴史散歩』(文献7)に、小貝浜の蠶養神社の御詠歌が載っています。
この御詠歌は昭和2年に、福島の人によって作られたとのことで、かなり新しいものではあります。
だた興味深いのは、御詠歌には、赤い貝のことはもちろん、小貝浜付近の地形と金色姫伝説を結び付けたらしい『名所』が
多く読み込まれています
これは、名所案内としても現代に通じますし、また貴重な情報
のですから、もっと知られて良い唄だと思います。
【蚕養神社に伝わる金色姫譚】
同神社の境内にある看板に同地区に伝わる『金色姫物語』が書かれています。そこに書かれている物語の概要は、
【あらすじ】
昔、常陸国豊浦湊(現在の川尻の小貝浜)に、繭の形の丸木舟が流れ着き、宮司の権太夫が見つけた。
中から美しい姫が現れたので、わけをきくと、金色姫と名乗り、インドの大王の娘で継母がいじめるので、父の大王が見かねて、桑の木で丸木舟を作り、赤い貝で作った首飾りを首にかけて、慈悲深い人に助けられるようにと舟に乗せたと語った。
権太夫は姫を育てたが、五年たった時、姫は自分の命は今宵限りで、自分は蚕という虫に生まれ変わると言い、桑葉のことと蚕の育て方を伝え、赤い貝の首飾りと繭を置いて念仏とともに昇天した。これより日本で養蚕が広まった。
とのこと。
以上から、この地区に伝わる金色姫譚の特色は、
① 金色姫が直接、蚕の育て方を権太夫に伝えるところで終わる。
② 金色姫は赤い貝の首飾りを身に着けていて、亡くなる時にその首飾りも置いていく。
③ 『筑波山のほんどう仙人』の話も、『富士山のかぐや姫』の話も出てこない。
の3つが言えると思います。
【豊浦とヤマトタケル伝説】
金色姫が流れ着いたと伝わる『豊浦湊』ですが、この地では『豊浦』が出てくる全く違う伝説が伝わっています。
ヤマトタケル伝説です。
蠶養神社のあるあたりは、昔は『川尻村』と呼ばれていました。
明治22年に、近隣の砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となったとのこと(文献1)。
この『豊浦』を使ったのは、この地に『豊浦湊』があり、大和武尊(ヤマトタケル)が戦勝祈願の為に寄港したという伝説から、その名をつけたとのこと(文献1)
豊浦町:明治22年4月1日 砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となる。その名の由来は『區域の海濱に往昔豊良港あり、豊良又豊浦に作る、日本武尊船を豊浦湊に維ぐとの文あり。町名是に起る』 (文献1より引用)
では、ヤマトタケル(日本武尊)が船でこの豊浦湊に来たという伝承は、どこから来たのかというと、まず文献8(茨城県神社誌)の蚕養神社の項を見ると、
『景行帝四十年日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
とあります。
つまり、この地の伝わるヤマトタケル(日本武尊)伝説は、
日本武尊が東征(つまり蝦夷の地の東北を攻め上った時)の途中、この地の豊浦湊に上陸して、この地の社(現在の蚕影神社)に祈ったところ、戦わずして征服することが出来た。
東征の帰り(甲斐国に向かう途中か)に当社に神領八十束部、摂社宛五束部を寄進された伝わる。
という話です。
このヤマトタケル伝説は、古事記、日本書記、常陸国風土記にも見当たりません(文献9)
。
地元だけで伝わっていた話か? はたまた…?
これについては後述することにして、まずは蠶養神社の変遷を追ってみましょう。
【蠶養神社の変遷 ~ 江戸時代前期の運命の波を乗り越えて】
現在の蠶養神社は、明治三十四年(西暦1901年)10月に現在の名前に改められたとのことで、それまでは、於岐津説神社と呼ばれていたようです (文献10)。
そしてその於岐津説神社は、『創立年代不詳。於岐津説神社は水藩神名録によれば永正10年(1513年)創立とされている』
とのこと (文献10)。
その於岐津説神社ですが、文献2をよく読んでいくと面白いことが分かってきます
。
同書によると、江戸時代前期、水戸藩の水戸光圀によるこの地方における寺社の改革の変遷が書かれています。
それらの寺社の中にある『川尻村』の『津明神』が、この於岐津説神社(現 蠶養神社)のことではないかと思われます。
それ以外に該当する寺社は見当たらないので、『川尻の津明神』=『於岐津説神社(現 蠶養神社)』と見なして間違いないと考えます。
さてこの川尻の津明神は、江戸前期、ジェットコースターのような運命の波
を乗り越えています
文献2より、川尻の津明神に起きたことを時系列で並べてみます。
●寛文三年(西暦1663年)(光圀による改革前)時点: 「川尻村 神社:津明神 司祭者:真言宗吉祥院」
吉祥院というのが、川尻村の津明神の別当寺だったようです。
●元禄四年(西暦1691年)六月:(川尻村の)津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定
「たとえば、川尻村には・・・津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定した。…」
●元禄五年(西暦1692年)八月:(川尻村の)津明神は翌年八月には神職がつけられ建宮
これは漁村民が、この明神を「おきぢさま又おきぢさま」と呼んで大切にし、またとても雉子を大切にして、雉子が鳴くと「おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさる」と言ったいうように、とても崇敬されていたという理由で、復活したとのこと。
地元の人たちが嘆願したくらい、信仰されていたというのが伝わってきます。
『このようになったのは、この明神が「はなはだ雉子を愛したまう由にて、一村これを大切し、おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさるなどという由。
「宝永頃水戸領鎮守録」静嘉堂文庫蔵」)とあるように、漁村民の尊崇厚いものがあったことによろう』
(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p531)
●元禄八年(西暦1695年)八月:津明神の別当寺の吉祥院は、徳川光圀によって取り潰された模様
『川尻村 寺院名:吉祥院 寺歴:永正十年海全開山 徳川光圀による処分状況:元禄八年八月死亡』
●宝永五年(西暦1708年)(光圀による改革後):「川尻村 神社:津明神 司祭者:大津村禰宜源太夫」
津明神に、新たに司祭が任命されました。
取り潰されてしまった別当時の吉祥院の代わりに、直接司祭者が任命され、管理を任されたようです。(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p512 表3-1 「江戸時代初期日立地方の寺院一覧」より)
ちなみに大津村は、現在の北茨城市大津港のある辺りで、当地には延喜式内常陸二十八の一社の佐波波地祇神社があります。
そこの司祭者が、津明神の司祭も兼ねたのか、別の人が司祭者になったのかは不明ですが気になります。
以上の経緯を見ると、特筆すべきは、蠶養神社の前身、津明神(於岐津説神社)は、
★光圀の時に一度取り潰しが決定しながらも、翌年にその決定が覆され、しかも新たに宮司を迎えて復活している。
ことです
。
それは、この明神様を地元の人が『おきぢさま』と呼び、雉を大切にして雉の鳴き声を『おきぢさまが御鳴きなさる』と呼んでいるように、
篤い信仰心のたまもの
であることがはっきりと記録されています。
【常陸國蠶養嶺略縁起】
別の資料からも検討してみます。
文献11には、資料として『常陸國蠶養嶺略縁起』が掲載されています。
縁起を記したのは、『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔 となっています。
書かれた年代は不明ですが、 『司祭者:大津村禰宜源太夫』が『川尻村 神社:津明神』に任命されたのは、宝永五年(西暦1708年)。
ですから書かれたのは、宝永五年(西暦1708年)以降でしょう。
資料中『元禄年中』の記載がありますが、著者の禰宜源太夫は自分が任命される以前(元禄年中1688年~1704年)から伝わる伝承を書いたのかもしれません。
禰宜源太夫は、復活した川尻の津明神(於岐津説神社)に新たに任命された宮司が記したと考えて良いかと考えます。
また蠶養嶺とは、現在蠶養神社(当時は津明神、於岐津説神社)が鎮座している、小貝浜の脇の小高い丘のことだと思われます。
さて、この『常陸國蠶養嶺略縁起』には
『寛文年中、水戸光圀公 別当 吉祥院まで御潰し佛具等不残埋めさせ 今吉祥塚という字有』
『元禄年中・・・(中略)・・・二十七代目権之太夫常定へ 光圀公御尊慮ヲ以唯一宗源之社社務職被付 今に䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・(後略)』
という箇所が出てきます。
※『䗝』(『神』の下に『虫』)は、『蚕』の異字体
寛文年中、水戸光圀公・・・の部分は上に書いた吉祥院お取り潰しのことと合致します。
また、『䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・』の部分もとても興味深く、
『䗝養濱神虫神石御命という神は、神虫種神躰(= 蚕?)と等しい』という信仰は、怪しい信仰だと(水戸藩が?)止めさせたが、『日本最初の蚕の始まり』として信仰がどんどん広まっていった・・・ということがあったということでしょうか。
まるで日本書紀に書かれた、大生部多と『常世の神』の話を彷彿させる、大変興味深い話です
。
大生部多と『常世の神』の話は、秦河勝が大生部多を討伐してしまいますが、それと異なって、この䗝養濱神虫神石御命という『神』への信仰は、禁止しても広まっていったらしいのは、これまたとても興味深いです
。
【水戸彰考館編集神道司経 青山延彝(のぶつね)による縁起文】
さてここで 茨城県神社誌(文献8)による蚕養神社の縁起をあらためて見ていきましょう。
同書では、
① 孝霊帝五年二月初午
『蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山に祠を建て蚕養大明神、蚕養嶺地主神と尊称した』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
② 景行帝四十年
『日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。
尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
の二つの大きなエピソードを伝えていますが、これはどうもオリジナルは、
寛政十年(1798年)に水戸彰考館の神道司経の青山延彝(のぶつね)が撰した縁起文
『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』
だと思われます(文献1)。
その『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』の縁起文についてですが、
文献1("茨城県多賀郡史(復刻版))の文をそのまま引用すると、
① 『水戸彰考館編集神道司経青山延彝寛政十年に本社の縁起文を撰す。
曰く孝霊帝五年辛巳二月初午、始形見于蠶養濱相去一許町東沖時人為立祠於上子山祀之、
號曰蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神…』
② 『・・・日本武尊 東征 入陸奥、時過常陸國、維船于豊浦湊、
直詣蠶養嶺神路森、祈克三日夜、 既而発船、至蝦夷境、不戦蝦夷威平、・・・日本武尊蠶養嶺神、
寄付神領八十束部、・・・』
と、2つの由来が語られています。
孝霊帝五年いう時代、そして景行帝四十年という時代については神話上の時代なので、どこまで信頼できるかは
はなはだ疑問ですが、少なくとも江戸時代当時、この2つの伝承が伝わっていたということは言えるようです。
【常陸國蠶養嶺略縁起 及び 青山延彝(のぶつね)による縁起文 を合わせると・・・】
いつの頃か、蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山(蠶養山 つまり、現在蠶養神社のある高台)に祠を建て。蠶養大明神、蠶養嶺地主神となった。
その後、この神は『䗝養濱神虫神石御命』とも呼ばれ、『神虫種神躰』(蚕か?)がこの神そのものだ』という信仰となって、どうも元禄年中(1688年~1704年)頃にこれは淫祠邪教として(水戸藩が?)信仰を禁止したが、それでも、『日本最初 蟲の初まり』ということで、信仰は広まっていった。
・・・ということでしょうか。
先にも書きましたが、もしこれが事実なら大変興味深い
。
【ヤマトタケル伝説から伝わる常陸国の人々の心】
上記の寛政十年に水戸彰考館の神道司経の青山延彝が提出した蠶影大明神の縁起文に出てくる
『豊浦湊』と『日本武尊(ヤマトタケル)』の話は、地元で伝わっていたらしいオリジナルの伝説のようです。
文献9では、古事記、日本書記 そして常陸国風土記におけるヤマトタケル(漢字表記がそれぞれ文献によって異なるので同書ではカタカナ表記に統一)の常陸国内での足跡を詳しく検討していますが、同書を読むと、青山延彝が書いた縁起文にあるヤマトタケルに関する伝承(上記(4)②)は、古事記、日本書記はもちろん、常陸国風土記にもない伝承です(※)。
※ただし、現存している常陸国風土記は完全本でありません。
オリジナルには記載があったのかもしれませんが、川尻村のエリアとなるであろう多珂郡の記載内容は少なく、今となっては分からないのが残念です。
文献9によると、全国には数々のヤマトタケル伝説があり、おそらく当時からいろいろな語り部が「ヤマトタケル」伝説を
既に伝えていて、古事記や日本書紀という中央集権でまとめた時に取り入れた説話と、常陸国風土記が記録したヤマトタケル伝説は、
語り部が全く違って、話の体系も違ったのではないかとしています。私もその考え方に賛同します。
そして、更に常陸国風土記には(完全本があったとしても)記載されていない、もっとローカルな「ヤマトタケル伝説」は、
沢山あったことでしょう。
(たとえば、つくばのエリアに伝わるヤマトタケル伝説~岩崎山の話・今鹿島の話など~も、常陸国風土記にも書かれていない
ローカルな伝説です)
そして私は
『戦わずに勝てた』
という一言に深い意味を感じます
。
当時の大和朝廷から見て、常陸国は極めて蝦夷に近い土地です。
しかも鹿島神宮よりもさらに北にある、茨城県北は更に東北に近い。
その土地柄、古来からこの土地の人は、蝦夷の民にシンパシーを感じてた(もしくは征服された蝦夷の民だった)のではないか。
大和の中央政権に対して、忸怩たる想いを抱き続けていたのではないか。
だから、ヤマトタケルという英雄が来て戦勝祈願したら『戦わずに勝てた』ということで、その神意に沢山の寄進をした
と伝えているのではないか。
そう感じるのです。
青山延彝が記した縁起文の『大和武尊』の話も、付随して出てくる地名『豊浦湊』も、
私は、地元で語り継がれてきた、とても古い伝説ではないかと思っています。
ところで、蚕養神社の由緒と変遷を見てきましたが、金色姫譚は全然出てきません…
。
しかし、この地では『赤い貝の首飾り』にちなんだ蚕のお守りの赤い巻き貝や石のお守りも含めた、金色姫伝説はしっかり伝わっている
。
その辺りも含めて、この地における金色姫譚の生まれた経緯と伝播について考えていきましょう。
(続きます)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《後編》
************************
【参考文献】
1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社
2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市
3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団
4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)
5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房
7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター
8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社
10. 『日立市史』 日立市役所 常陸書房
11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話




物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけていきます

前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)で立てた金色姫譚が生まれて広がった経緯の仮説をもとに、いよいよ、現在伝わる『金色姫譚』に出てくる『常陸国豊浦』について考えていきます。
私の仮説では、『金色姫譚』の原形『貴人蚕譚』は瀬戸内海~九州北部で生まれて(詳細茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)・
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」 )、それがいつの時代か常陸国に伝わって、『常陸国豊浦』と『常陸化』し、更に現在の『金色姫譚』(ストーリーが4部構成)になっていったと考えています。
(詳細 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)に書いた仮説の流れの中うち、下記の(B)~(F)が常陸国で起きたことだと私は考えています。
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(c1) 偶然『とゆら/とよら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった
(c2) とゆら/とよら(豊浦)の地名に『常陸国』が加わって『常陸国の豊浦』となって、話の舞台が『常陸化』していったか
永禄元年(西暦1558年) の『戒言』(現在まで伝わる金色姫の話とほぼ同じ)には『常陸国とよら』とはっきり書かれているので、1558 年より前に話の舞台が『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫
『筑波山のほんどう仙人』
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
『富士山=筑波山』という考え方
かぐやは『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。
上の仮説を前提に、現在まで金色姫譚が伝わる常陸国三蚕社について、それぞれ検討していきます。
まず最初は、日立市川尻町にある蠶養(こかい)神社です。
【日立市 川尻町 蠶養(こかい)神社】

日立市 川尻にある 蠶養(こかい)神社。
神社境内にある社務所による由来の看板には『蠶養神社』とあり、『蚕』の時が旧字体の『蠶』なので、ここでは『蠶養神社』と書きます。
この辺りは昔は川尻村と呼ばれたところです(文献1、2)
(写真は2020年8月撮影)
こじんまりした小貝浜(蚕養浜)に面する高台に蠶養神社はあります。
『小貝(こかい)浜』は、同じ『こかい』の音から、『蚕養(こかい)浜』とも文献には書かれています。
『小貝』の字が先か、『蚕養』の字が先か、なかなか興味深いです。
(写真は2020年8月撮影)

また、この蠶養神社に伝わる信仰で大変ユニークなのが、
・小貝浜(蚕養浜)で取れる赤い小さな巻貝を、養蚕のお守りとする。
(文献3、4、5)
・小貝浜(蚕養浜)で取れる小石を、養蚕のお守りとする。
(文献6)
というのがあります。
このような民間信仰も、常陸国蚕の社の他の2社(神栖・蚕霊神社、つくば・蚕影山神社)にはないものです。
『サンショウガイ』と呼ばれる赤い微少な巻き貝。
これを養蚕のお守りとして、養蚕家が大事に神棚に上げていたそうです。
赤い色が鮮やかで可愛い
『サンショウガイ』は、『山椒貝』とも『蚕生貝』という字を当てるようです。
熟した山椒の実が赤いからでしょうか。
『蚕生』のあて字は、巧くて良い字ですよね

こちらは同じ小貝浜で見られる綺麗な石。
この辺りの山で算出するメノウなどでしょうか。
これも養蚕のお守りにするとのこと。綺麗な石ですよね。
(これらの貝や石については、後に後編で考えていきます)
ちなみに、宮本宣一著『筑波歴史散歩』(文献7)に、小貝浜の蠶養神社の御詠歌が載っています。
この御詠歌は昭和2年に、福島の人によって作られたとのことで、かなり新しいものではあります。
だた興味深いのは、御詠歌には、赤い貝のことはもちろん、小貝浜付近の地形と金色姫伝説を結び付けたらしい『名所』が
多く読み込まれています

これは、名所案内としても現代に通じますし、また貴重な情報

【蚕養神社に伝わる金色姫譚】
同神社の境内にある看板に同地区に伝わる『金色姫物語』が書かれています。そこに書かれている物語の概要は、
【あらすじ】
昔、常陸国豊浦湊(現在の川尻の小貝浜)に、繭の形の丸木舟が流れ着き、宮司の権太夫が見つけた。
中から美しい姫が現れたので、わけをきくと、金色姫と名乗り、インドの大王の娘で継母がいじめるので、父の大王が見かねて、桑の木で丸木舟を作り、赤い貝で作った首飾りを首にかけて、慈悲深い人に助けられるようにと舟に乗せたと語った。
権太夫は姫を育てたが、五年たった時、姫は自分の命は今宵限りで、自分は蚕という虫に生まれ変わると言い、桑葉のことと蚕の育て方を伝え、赤い貝の首飾りと繭を置いて念仏とともに昇天した。これより日本で養蚕が広まった。
とのこと。
以上から、この地区に伝わる金色姫譚の特色は、
① 金色姫が直接、蚕の育て方を権太夫に伝えるところで終わる。
② 金色姫は赤い貝の首飾りを身に着けていて、亡くなる時にその首飾りも置いていく。
③ 『筑波山のほんどう仙人』の話も、『富士山のかぐや姫』の話も出てこない。
の3つが言えると思います。
【豊浦とヤマトタケル伝説】
金色姫が流れ着いたと伝わる『豊浦湊』ですが、この地では『豊浦』が出てくる全く違う伝説が伝わっています。
ヤマトタケル伝説です。
蠶養神社のあるあたりは、昔は『川尻村』と呼ばれていました。
明治22年に、近隣の砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となったとのこと(文献1)。
この『豊浦』を使ったのは、この地に『豊浦湊』があり、大和武尊(ヤマトタケル)が戦勝祈願の為に寄港したという伝説から、その名をつけたとのこと(文献1)
豊浦町:明治22年4月1日 砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となる。その名の由来は『區域の海濱に往昔豊良港あり、豊良又豊浦に作る、日本武尊船を豊浦湊に維ぐとの文あり。町名是に起る』 (文献1より引用)
では、ヤマトタケル(日本武尊)が船でこの豊浦湊に来たという伝承は、どこから来たのかというと、まず文献8(茨城県神社誌)の蚕養神社の項を見ると、
『景行帝四十年日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
とあります。
つまり、この地の伝わるヤマトタケル(日本武尊)伝説は、
日本武尊が東征(つまり蝦夷の地の東北を攻め上った時)の途中、この地の豊浦湊に上陸して、この地の社(現在の蚕影神社)に祈ったところ、戦わずして征服することが出来た。
東征の帰り(甲斐国に向かう途中か)に当社に神領八十束部、摂社宛五束部を寄進された伝わる。
という話です。
このヤマトタケル伝説は、古事記、日本書記、常陸国風土記にも見当たりません(文献9)

地元だけで伝わっていた話か? はたまた…?
これについては後述することにして、まずは蠶養神社の変遷を追ってみましょう。
【蠶養神社の変遷 ~ 江戸時代前期の運命の波を乗り越えて】
現在の蠶養神社は、明治三十四年(西暦1901年)10月に現在の名前に改められたとのことで、それまでは、於岐津説神社と呼ばれていたようです (文献10)。
そしてその於岐津説神社は、『創立年代不詳。於岐津説神社は水藩神名録によれば永正10年(1513年)創立とされている』
とのこと (文献10)。
その於岐津説神社ですが、文献2をよく読んでいくと面白いことが分かってきます

同書によると、江戸時代前期、水戸藩の水戸光圀によるこの地方における寺社の改革の変遷が書かれています。
それらの寺社の中にある『川尻村』の『津明神』が、この於岐津説神社(現 蠶養神社)のことではないかと思われます。
それ以外に該当する寺社は見当たらないので、『川尻の津明神』=『於岐津説神社(現 蠶養神社)』と見なして間違いないと考えます。
さてこの川尻の津明神は、江戸前期、ジェットコースターのような運命の波


文献2より、川尻の津明神に起きたことを時系列で並べてみます。
●寛文三年(西暦1663年)(光圀による改革前)時点: 「川尻村 神社:津明神 司祭者:真言宗吉祥院」
吉祥院というのが、川尻村の津明神の別当寺だったようです。
●元禄四年(西暦1691年)六月:(川尻村の)津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定
「たとえば、川尻村には・・・津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定した。…」
●元禄五年(西暦1692年)八月:(川尻村の)津明神は翌年八月には神職がつけられ建宮
これは漁村民が、この明神を「おきぢさま又おきぢさま」と呼んで大切にし、またとても雉子を大切にして、雉子が鳴くと「おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさる」と言ったいうように、とても崇敬されていたという理由で、復活したとのこと。
地元の人たちが嘆願したくらい、信仰されていたというのが伝わってきます。
『このようになったのは、この明神が「はなはだ雉子を愛したまう由にて、一村これを大切し、おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさるなどという由。
「宝永頃水戸領鎮守録」静嘉堂文庫蔵」)とあるように、漁村民の尊崇厚いものがあったことによろう』
(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p531)
●元禄八年(西暦1695年)八月:津明神の別当寺の吉祥院は、徳川光圀によって取り潰された模様
『川尻村 寺院名:吉祥院 寺歴:永正十年海全開山 徳川光圀による処分状況:元禄八年八月死亡』
●宝永五年(西暦1708年)(光圀による改革後):「川尻村 神社:津明神 司祭者:大津村禰宜源太夫」
津明神に、新たに司祭が任命されました。
取り潰されてしまった別当時の吉祥院の代わりに、直接司祭者が任命され、管理を任されたようです。(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p512 表3-1 「江戸時代初期日立地方の寺院一覧」より)
ちなみに大津村は、現在の北茨城市大津港のある辺りで、当地には延喜式内常陸二十八の一社の佐波波地祇神社があります。
そこの司祭者が、津明神の司祭も兼ねたのか、別の人が司祭者になったのかは不明ですが気になります。
以上の経緯を見ると、特筆すべきは、蠶養神社の前身、津明神(於岐津説神社)は、
★光圀の時に一度取り潰しが決定しながらも、翌年にその決定が覆され、しかも新たに宮司を迎えて復活している。
ことです

それは、この明神様を地元の人が『おきぢさま』と呼び、雉を大切にして雉の鳴き声を『おきぢさまが御鳴きなさる』と呼んでいるように、


【常陸國蠶養嶺略縁起】
別の資料からも検討してみます。
文献11には、資料として『常陸國蠶養嶺略縁起』が掲載されています。
縁起を記したのは、『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔 となっています。
書かれた年代は不明ですが、 『司祭者:大津村禰宜源太夫』が『川尻村 神社:津明神』に任命されたのは、宝永五年(西暦1708年)。
ですから書かれたのは、宝永五年(西暦1708年)以降でしょう。
資料中『元禄年中』の記載がありますが、著者の禰宜源太夫は自分が任命される以前(元禄年中1688年~1704年)から伝わる伝承を書いたのかもしれません。
禰宜源太夫は、復活した川尻の津明神(於岐津説神社)に新たに任命された宮司が記したと考えて良いかと考えます。
また蠶養嶺とは、現在蠶養神社(当時は津明神、於岐津説神社)が鎮座している、小貝浜の脇の小高い丘のことだと思われます。
さて、この『常陸國蠶養嶺略縁起』には
『寛文年中、水戸光圀公 別当 吉祥院まで御潰し佛具等不残埋めさせ 今吉祥塚という字有』
『元禄年中・・・(中略)・・・二十七代目権之太夫常定へ 光圀公御尊慮ヲ以唯一宗源之社社務職被付 今に䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・(後略)』
という箇所が出てきます。
※『䗝』(『神』の下に『虫』)は、『蚕』の異字体
寛文年中、水戸光圀公・・・の部分は上に書いた吉祥院お取り潰しのことと合致します。
また、『䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・』の部分もとても興味深く、
『䗝養濱神虫神石御命という神は、神虫種神躰(= 蚕?)と等しい』という信仰は、怪しい信仰だと(水戸藩が?)止めさせたが、『日本最初の蚕の始まり』として信仰がどんどん広まっていった・・・ということがあったということでしょうか。
まるで日本書紀に書かれた、大生部多と『常世の神』の話を彷彿させる、大変興味深い話です

大生部多と『常世の神』の話は、秦河勝が大生部多を討伐してしまいますが、それと異なって、この䗝養濱神虫神石御命という『神』への信仰は、禁止しても広まっていったらしいのは、これまたとても興味深いです

【水戸彰考館編集神道司経 青山延彝(のぶつね)による縁起文】
さてここで 茨城県神社誌(文献8)による蚕養神社の縁起をあらためて見ていきましょう。
同書では、
① 孝霊帝五年二月初午
『蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山に祠を建て蚕養大明神、蚕養嶺地主神と尊称した』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
② 景行帝四十年
『日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。
尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
の二つの大きなエピソードを伝えていますが、これはどうもオリジナルは、
寛政十年(1798年)に水戸彰考館の神道司経の青山延彝(のぶつね)が撰した縁起文
『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』
だと思われます(文献1)。
その『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』の縁起文についてですが、
文献1("茨城県多賀郡史(復刻版))の文をそのまま引用すると、
① 『水戸彰考館編集神道司経青山延彝寛政十年に本社の縁起文を撰す。
曰く孝霊帝五年辛巳二月初午、始形見于蠶養濱相去一許町東沖時人為立祠於上子山祀之、
號曰蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神…』
② 『・・・日本武尊 東征 入陸奥、時過常陸國、維船于豊浦湊、
直詣蠶養嶺神路森、祈克三日夜、 既而発船、至蝦夷境、不戦蝦夷威平、・・・日本武尊蠶養嶺神、
寄付神領八十束部、・・・』
と、2つの由来が語られています。
孝霊帝五年いう時代、そして景行帝四十年という時代については神話上の時代なので、どこまで信頼できるかは
はなはだ疑問ですが、少なくとも江戸時代当時、この2つの伝承が伝わっていたということは言えるようです。
【常陸國蠶養嶺略縁起 及び 青山延彝(のぶつね)による縁起文 を合わせると・・・】
いつの頃か、蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山(蠶養山 つまり、現在蠶養神社のある高台)に祠を建て。蠶養大明神、蠶養嶺地主神となった。
その後、この神は『䗝養濱神虫神石御命』とも呼ばれ、『神虫種神躰』(蚕か?)がこの神そのものだ』という信仰となって、どうも元禄年中(1688年~1704年)頃にこれは淫祠邪教として(水戸藩が?)信仰を禁止したが、それでも、『日本最初 蟲の初まり』ということで、信仰は広まっていった。
・・・ということでしょうか。
先にも書きましたが、もしこれが事実なら大変興味深い

【ヤマトタケル伝説から伝わる常陸国の人々の心】
上記の寛政十年に水戸彰考館の神道司経の青山延彝が提出した蠶影大明神の縁起文に出てくる
『豊浦湊』と『日本武尊(ヤマトタケル)』の話は、地元で伝わっていたらしいオリジナルの伝説のようです。
文献9では、古事記、日本書記 そして常陸国風土記におけるヤマトタケル(漢字表記がそれぞれ文献によって異なるので同書ではカタカナ表記に統一)の常陸国内での足跡を詳しく検討していますが、同書を読むと、青山延彝が書いた縁起文にあるヤマトタケルに関する伝承(上記(4)②)は、古事記、日本書記はもちろん、常陸国風土記にもない伝承です(※)。
※ただし、現存している常陸国風土記は完全本でありません。
オリジナルには記載があったのかもしれませんが、川尻村のエリアとなるであろう多珂郡の記載内容は少なく、今となっては分からないのが残念です。
文献9によると、全国には数々のヤマトタケル伝説があり、おそらく当時からいろいろな語り部が「ヤマトタケル」伝説を
既に伝えていて、古事記や日本書紀という中央集権でまとめた時に取り入れた説話と、常陸国風土記が記録したヤマトタケル伝説は、
語り部が全く違って、話の体系も違ったのではないかとしています。私もその考え方に賛同します。
そして、更に常陸国風土記には(完全本があったとしても)記載されていない、もっとローカルな「ヤマトタケル伝説」は、
沢山あったことでしょう。
(たとえば、つくばのエリアに伝わるヤマトタケル伝説~岩崎山の話・今鹿島の話など~も、常陸国風土記にも書かれていない
ローカルな伝説です)
そして私は
『戦わずに勝てた』
という一言に深い意味を感じます

当時の大和朝廷から見て、常陸国は極めて蝦夷に近い土地です。
しかも鹿島神宮よりもさらに北にある、茨城県北は更に東北に近い。
その土地柄、古来からこの土地の人は、蝦夷の民にシンパシーを感じてた(もしくは征服された蝦夷の民だった)のではないか。
大和の中央政権に対して、忸怩たる想いを抱き続けていたのではないか。
だから、ヤマトタケルという英雄が来て戦勝祈願したら『戦わずに勝てた』ということで、その神意に沢山の寄進をした
と伝えているのではないか。
そう感じるのです。
青山延彝が記した縁起文の『大和武尊』の話も、付随して出てくる地名『豊浦湊』も、
私は、地元で語り継がれてきた、とても古い伝説ではないかと思っています。
ところで、蚕養神社の由緒と変遷を見てきましたが、金色姫譚は全然出てきません…

しかし、この地では『赤い貝の首飾り』にちなんだ蚕のお守りの赤い巻き貝や石のお守りも含めた、金色姫伝説はしっかり伝わっている

その辺りも含めて、この地における金色姫譚の生まれた経緯と伝播について考えていきましょう。
(続きます)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《後編》
************************
【参考文献】
1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社
2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市
3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団
4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)
5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房
7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター
8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社
10. 『日立市史』 日立市役所 常陸書房
11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会