2023年03月26日
『鹿島と香取』展 と 『旅するチバラキ』展
『鹿島と香取』展 と 『旅するチバラキ』展
先日、茨城県歴史館で開催中の『鹿島と香取』展 に行ってきました。
霞ヶ浦の入り口を挟んで鎮座する鹿島神宮と香取神宮。
古来から関わり合うこの二社のある地域の歴史、文化、信仰についての展示、多角的だし、説明も分かりやすく
大変、面白く勉強になります。
展示がⅠ期 とⅡ期 でかなり入れ替えがあるようで、私が行った3/19(日)はⅠ期の展示の最終日。
Ⅱ期の展示も是非見たいと思いました
。

さて写真はこの特別展のブックレットです。
厚い図説を想像していたので、薄くてある意味びっくり・・・。
いや、ちゃんと展示品の写真も解説も掲載されていて、とても良いブックレットなんです
でも個人的には、専門家の方のいろんな解説やら総説的なものも読みたかったので、ちょっと残念。
まあ、薄いブックレットの方が価格も安いので、多くの人が手にとって購入しやすいのかもしれませんね・・・。
ただ可能なら、もっと詳しい背景やら説明が書かれた書籍もあると嬉しいなぁと思ってます。

さて、この『鹿島と香取』展、嬉しいプレゼントもありました♪
アンケートに答えると、『鹿島大明神』 『香取大明神』と両面に文字が焼き付けられた木札のプレゼントがあります。
すてきな袋入りだったので、袋と一緒に写真を撮ってみました。

写真は二枚に分けて撮ってますが、頂ける木札は1枚で、片面に『鹿島大明神』、もう片面に『香取大明神』と焼き印が押されている木札です。
上の写真では『鹿島大明神』の焼き印が押された面で、
下の写真では『香取大明神』の焼き印がおされた面です。
木札なので、木の香りも良くて、何だかありがたみもあって
そして、よくよく考えると、一枚の木札に、『鹿島大明神』と『香取大明神』の二柱の神様の焼き印がある木札で、これって
超~レアもの
ですよね

この春の企画展に行かれたら、是非アンケートに答えて、レアものの木札をゲット・・・いえ、頂いて下さいませ
さて、この県歴史館の企画展とセットで開催されているのが、県北の北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館の『旅するチバラキ 連作《水郷めぐり》の全貌』展。
鹿島神宮と鹿島神宮も、茨城県・千葉県の県境の郷地域に位置します。
そして『旅するチバラキ』展で展示されているのも、大正時代の4人の画家達による、霞ヶ浦・利根川を中心とした旅で描いたスケッチ連作展。
北茨城市はちょっと遠くてなかなか行けそうもないのですが、こちらも個人的にすごく興味がある展示
。

とにかくこの『旅するチバラキ』展のブックレットだけでもと、購入しました♪
(県歴史館でも販売しています)
写真は、展覧会のパンフレット(右)と、購入した購入したブックレット(左)。
絵画類はやはり、美術館で本物を見た方が絶対良いのですが、でもリーフレットでも十分伝わってきますし、
ゆっくり何度でも見られるのが嬉しい
。
絵を見ていると、自分も当時の船旅に同行して、一緒に景色を眺めている気分になるのです。
利根川の船旅、イベントでも良いので、あった是非体験したいです
展示や資料を見て、霞ヶ浦・利根川の水郷の歴史と文化への興味に、また火が付きました
昔の情景を思い浮かべながら、古い紀行文や作品等を借りて、読み始めています。
茨城県歴史館 春の特別展『香取と鹿島』展の開催期間:Ⅰ期 2023年 2/17(金)~3/21(火・祝)、Ⅱ期 令和5年 4/8(土)~5/7(日) 開催
詳細: 茨城県歴史館 公式HP
茨城県天心記念五浦美術館 『旅するチバラキ 連絡《水郷めぐり》の全貌』 展の開催期間: 2023年 2/10(金)~4/23(日)
詳細: 茨城県天心記念五浦美術館 公式HP
先日、茨城県歴史館で開催中の『鹿島と香取』展 に行ってきました。
霞ヶ浦の入り口を挟んで鎮座する鹿島神宮と香取神宮。
古来から関わり合うこの二社のある地域の歴史、文化、信仰についての展示、多角的だし、説明も分かりやすく

大変、面白く勉強になります。
展示がⅠ期 とⅡ期 でかなり入れ替えがあるようで、私が行った3/19(日)はⅠ期の展示の最終日。
Ⅱ期の展示も是非見たいと思いました


さて写真はこの特別展のブックレットです。
厚い図説を想像していたので、薄くてある意味びっくり・・・。
いや、ちゃんと展示品の写真も解説も掲載されていて、とても良いブックレットなんです

でも個人的には、専門家の方のいろんな解説やら総説的なものも読みたかったので、ちょっと残念。
まあ、薄いブックレットの方が価格も安いので、多くの人が手にとって購入しやすいのかもしれませんね・・・。
ただ可能なら、もっと詳しい背景やら説明が書かれた書籍もあると嬉しいなぁと思ってます。

さて、この『鹿島と香取』展、嬉しいプレゼントもありました♪

アンケートに答えると、『鹿島大明神』 『香取大明神』と両面に文字が焼き付けられた木札のプレゼントがあります。
すてきな袋入りだったので、袋と一緒に写真を撮ってみました。

写真は二枚に分けて撮ってますが、頂ける木札は1枚で、片面に『鹿島大明神』、もう片面に『香取大明神』と焼き印が押されている木札です。
上の写真では『鹿島大明神』の焼き印が押された面で、
下の写真では『香取大明神』の焼き印がおされた面です。
木札なので、木の香りも良くて、何だかありがたみもあって

そして、よくよく考えると、一枚の木札に、『鹿島大明神』と『香取大明神』の二柱の神様の焼き印がある木札で、これって




この春の企画展に行かれたら、是非アンケートに答えて、レアものの木札をゲット・・・いえ、頂いて下さいませ

さて、この県歴史館の企画展とセットで開催されているのが、県北の北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館の『旅するチバラキ 連作《水郷めぐり》の全貌』展。
鹿島神宮と鹿島神宮も、茨城県・千葉県の県境の郷地域に位置します。
そして『旅するチバラキ』展で展示されているのも、大正時代の4人の画家達による、霞ヶ浦・利根川を中心とした旅で描いたスケッチ連作展。
北茨城市はちょっと遠くてなかなか行けそうもないのですが、こちらも個人的にすごく興味がある展示


とにかくこの『旅するチバラキ』展のブックレットだけでもと、購入しました♪
(県歴史館でも販売しています)
写真は、展覧会のパンフレット(右)と、購入した購入したブックレット(左)。
絵画類はやはり、美術館で本物を見た方が絶対良いのですが、でもリーフレットでも十分伝わってきますし、
ゆっくり何度でも見られるのが嬉しい

絵を見ていると、自分も当時の船旅に同行して、一緒に景色を眺めている気分になるのです。
利根川の船旅、イベントでも良いので、あった是非体験したいです

展示や資料を見て、霞ヶ浦・利根川の水郷の歴史と文化への興味に、また火が付きました

昔の情景を思い浮かべながら、古い紀行文や作品等を借りて、読み始めています。

詳細: 茨城県歴史館 公式HP

詳細: 茨城県天心記念五浦美術館 公式HP
2022年11月18日
つくば・神郡 筑波山麓秋祭り お行屋公開とお接待
つくば・神郡 筑波山麓秋祭り お行屋公開とお接待
もう先々週になりますが、11/3の午前中だけでしたが、筑波山麓秋祭りで神郡の催しに行くことが出来ました。

この日はとても暖かく、お天気もとても良くて
、まさに『里の秋』を満喫できる日よりでした
(写真はこの日、神郡の集落から筑波山を望む)
本当に良い天気
でも時間がなかったので、急ぎ足で歩いて、ピンポイントで見学
。

ということで、この日だけの
限定公開
、神郡の 『お行屋(おこや)』 へ行きました。
古くからこの地区で信仰されてきた仏像が拝見出来る、貴重な機会です。
おこやのある場所は、神郡の秋祭りの中心地区から少し離れた所にあります。
『神郡地区に伝わる仏像の展示 「おこや」拝見』 とある立て看板の指示に従って、ちょっと不安になりながらも集落の奥の方に歩いて行くと・・・

おこやが見えてきました!
地元の方が暖かく迎えてくださいました
。
おこやの中は、一段高くなった板張りの間に長テーブルや座布団が置かれ、その奥には仏壇のようになっていました。
正面には、両脇に花が飾られ、赤い帽子と服とお座布団に包まれた仏像(地蔵菩薩?)に並んで、大小の古い仏像が厨子に入って
祀られていました。
この集落で古くから人々が集って祈られていたものでしょう。
仏壇の脇には、古い太鼓や、とても大きな数珠も置かれていました。
太鼓は昔、お葬式の時に叩かれたそうです。
この辺りも含め、茨城南西部では、お葬式のことを 『じゃんぼん』、『じゃんぼ』 というそうで、
打ちならす太鼓や鉦の音からそう表現されたと聞いたことがありますが、
それを思い出しました。
靴をぬいで板張りの間に上がり、奥の仏壇でお参りをしました。
おこやの入り口付近の壁には、その周りの壁には『十王図』の掛け軸が掲げられていました。
近くの普門寺さんから預かっているとのこと。
『十王図』とは、死者が冥界に行くと、生前の行いを裁判する王が十人居て裁判するという信仰で、ここの裁判結果を基に、極楽に行くか、地獄に行くか(しかも地獄は、どの地獄に行くか」が決められるというものです。
(コミック 『鬼灯の冷徹』に詳しいです
← 大好きなコミック♪)
昔は(今も?)絵解きをしながら、地獄のことや信仰のことを語ったのかもしれませんね。
板の間には当番をされている女性がおられ、参拝にこられた方の質問に、いろいろ説明をされていました。
それをぼんやり聞きながら、椅子に腰かけてお茶を頂いていると、
『お接待です。召し上がって下さい』
と小皿にそれぞれ盛られた、冬瓜のあんかけと、蒸したかぼちゃを頂きました。

お接待の初体験です
そして頂いた 冬瓜のあんかけも、かぼちゃも美味しいこと
塩味のあんかけ冬瓜と、とても甘いかぼちゃ(多分かぼちゃそのものが甘い!)の組み合わせがまた
美味しい
。
この日は大変良いお天気で、歩いていると汗ばむくらいでしたので、よく冷えた料理が
心地よかったです。
『お接待の料理は何か決まったものがあったりするのですか?』
と伺うと、
『いえ、冬瓜とかぼちゃが沢山取れたので…』
とのこと。
思いがけず、地元野菜の美味しさも味わいました
。
そして帰りがけには、小袋に入ったお菓子まで頂きました
。

おこやの軒先では、和気藹々と輪投げを興じている おじいちゃん、おばあちゃんたちが
。
誘って頂き、私もやりたかったのですが、時間がなくて断念。
賞品もいろいろあるそうで、楽しそうだったのに、本当残念~
小春日和、秋の日差しの中、楽しそうに輪投げをしている地元の皆さんがほのぼのと素敵でした
。
今度は、時間を取って、是非ゆっくりと伺いたいと思いました。
【「お接待」のこと】
『お接待』 と聞くと、四国の八十八か所霊場巡りのお遍路さんへの「お接待」が浮かびます。
古くから地元の人々によって、心づくしの食事など、お遍路さんに振舞われてきた文化として有名です。
この日、お料理を頂いた時に言われた「お接待です」とのことば、参拝に来られたかたへの
ふるまいの食事などにも一般的に使われるのかな…?と思ったのですが、気になって調べてみたら、
『筑波山麓地域情報紙 すそみろく 19号』 という資料に、『普門寺のお遍路さん』という記事がありました。
毎年3月30日から4月8日の10日間、同じつくば市の松塚にある東福寺さんを出発し、お遍路さんが
『新四国桜川八十八霊場』を巡礼し、普門寺さんにも巡礼があるとのこと。
まさし く『お接待』 です!
ちなみに松塚の東福寺さんは、江戸時代までお寺だった筑波山神社(当時は筑波山知足院中禅寺)の山門にあった
『流れ仁王』像が、現在安置されている山門があるお寺さんです
。
『流れ仁王』については、ずいぶん以前ですが、当ブログで書いた記事もありますので、良かったら♪
→ 消えた筑波山の「お宝」を巡って!(前編)
---------------------------------------
【参考資料】
・『筑波山麓地域情報紙 すそみろく 第19号』 平成23年3月25日 すそみろく編集委員会発行
田井地区の地域の情報誌『すそみろく』は、
創刊号~29号は
下記のつくば環境フォーラムさんのサイトで見ることが出来ます。
『特定非営利活動法人(NPO) つくば環境フォーラム > 筑波山麓地域情報紙 『すそみろく』のバックナンバー
https://tef298.sakura.ne.jp/action/pg433.html
また、30号~40号は
下記の 筑波山麓グリーンツーリズム推進協議会 さんのサイトで見ることが出来ます。
筑波山麓グリーンツーリズム協議会 > すそみろく
http://www.tsukuba-gt.sakura.ne.jp/archives/category/susomiroku/
貴重でとても良い資料だと思います。
もう先々週になりますが、11/3の午前中だけでしたが、筑波山麓秋祭りで神郡の催しに行くことが出来ました。

この日はとても暖かく、お天気もとても良くて


(写真はこの日、神郡の集落から筑波山を望む)
本当に良い天気

でも時間がなかったので、急ぎ足で歩いて、ピンポイントで見学


ということで、この日だけの


古くからこの地区で信仰されてきた仏像が拝見出来る、貴重な機会です。
おこやのある場所は、神郡の秋祭りの中心地区から少し離れた所にあります。
『神郡地区に伝わる仏像の展示 「おこや」拝見』 とある立て看板の指示に従って、ちょっと不安になりながらも集落の奥の方に歩いて行くと・・・

おこやが見えてきました!
地元の方が暖かく迎えてくださいました

おこやの中は、一段高くなった板張りの間に長テーブルや座布団が置かれ、その奥には仏壇のようになっていました。
正面には、両脇に花が飾られ、赤い帽子と服とお座布団に包まれた仏像(地蔵菩薩?)に並んで、大小の古い仏像が厨子に入って
祀られていました。
この集落で古くから人々が集って祈られていたものでしょう。
仏壇の脇には、古い太鼓や、とても大きな数珠も置かれていました。
太鼓は昔、お葬式の時に叩かれたそうです。
この辺りも含め、茨城南西部では、お葬式のことを 『じゃんぼん』、『じゃんぼ』 というそうで、
打ちならす太鼓や鉦の音からそう表現されたと聞いたことがありますが、
それを思い出しました。
靴をぬいで板張りの間に上がり、奥の仏壇でお参りをしました。
おこやの入り口付近の壁には、その周りの壁には『十王図』の掛け軸が掲げられていました。
近くの普門寺さんから預かっているとのこと。
『十王図』とは、死者が冥界に行くと、生前の行いを裁判する王が十人居て裁判するという信仰で、ここの裁判結果を基に、極楽に行くか、地獄に行くか(しかも地獄は、どの地獄に行くか」が決められるというものです。
(コミック 『鬼灯の冷徹』に詳しいです

昔は(今も?)絵解きをしながら、地獄のことや信仰のことを語ったのかもしれませんね。
板の間には当番をされている女性がおられ、参拝にこられた方の質問に、いろいろ説明をされていました。
それをぼんやり聞きながら、椅子に腰かけてお茶を頂いていると、
『お接待です。召し上がって下さい』
と小皿にそれぞれ盛られた、冬瓜のあんかけと、蒸したかぼちゃを頂きました。

お接待の初体験です

そして頂いた 冬瓜のあんかけも、かぼちゃも美味しいこと

塩味のあんかけ冬瓜と、とても甘いかぼちゃ(多分かぼちゃそのものが甘い!)の組み合わせがまた
美味しい

この日は大変良いお天気で、歩いていると汗ばむくらいでしたので、よく冷えた料理が
心地よかったです。
『お接待の料理は何か決まったものがあったりするのですか?』
と伺うと、
『いえ、冬瓜とかぼちゃが沢山取れたので…』
とのこと。
思いがけず、地元野菜の美味しさも味わいました


そして帰りがけには、小袋に入ったお菓子まで頂きました

おこやの軒先では、和気藹々と輪投げを興じている おじいちゃん、おばあちゃんたちが

誘って頂き、私もやりたかったのですが、時間がなくて断念。
賞品もいろいろあるそうで、楽しそうだったのに、本当残念~

小春日和、秋の日差しの中、楽しそうに輪投げをしている地元の皆さんがほのぼのと素敵でした

今度は、時間を取って、是非ゆっくりと伺いたいと思いました。
【「お接待」のこと】
『お接待』 と聞くと、四国の八十八か所霊場巡りのお遍路さんへの「お接待」が浮かびます。
古くから地元の人々によって、心づくしの食事など、お遍路さんに振舞われてきた文化として有名です。
この日、お料理を頂いた時に言われた「お接待です」とのことば、参拝に来られたかたへの
ふるまいの食事などにも一般的に使われるのかな…?と思ったのですが、気になって調べてみたら、
『筑波山麓地域情報紙 すそみろく 19号』 という資料に、『普門寺のお遍路さん』という記事がありました。
毎年3月30日から4月8日の10日間、同じつくば市の松塚にある東福寺さんを出発し、お遍路さんが
『新四国桜川八十八霊場』を巡礼し、普門寺さんにも巡礼があるとのこと。
まさし く『お接待』 です!
ちなみに松塚の東福寺さんは、江戸時代までお寺だった筑波山神社(当時は筑波山知足院中禅寺)の山門にあった
『流れ仁王』像が、現在安置されている山門があるお寺さんです


→ 消えた筑波山の「お宝」を巡って!(前編)
---------------------------------------
【参考資料】
・『筑波山麓地域情報紙 すそみろく 第19号』 平成23年3月25日 すそみろく編集委員会発行
田井地区の地域の情報誌『すそみろく』は、
創刊号~29号は
下記のつくば環境フォーラムさんのサイトで見ることが出来ます。

https://tef298.sakura.ne.jp/action/pg433.html
また、30号~40号は
下記の 筑波山麓グリーンツーリズム推進協議会 さんのサイトで見ることが出来ます。

http://www.tsukuba-gt.sakura.ne.jp/archives/category/susomiroku/
貴重でとても良い資料だと思います。
2022年10月24日
常陸国に伝わる鎌倉・三浦に関係する伝説 &八田知家と三浦義村の関係?!
常陸国に伝わる鎌倉・三浦に関係する伝説 &八田知家と三浦義村の関係?!
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境となってきました
。
13人の中の関係者はどんどん攻め滅ぼされていますが、まだ残っていて、しかもキャラ的に
謎の存在感 と 妙なセクシーさ
を放っているのが、
三浦義村 そして、八田知家。
子孫が現在のつくば市小田に居城を構え小田氏を名乗り、
最近歴史マニアに人気の『戦国最弱!?』 『常陸の不死鳥!』 小田氏治の先祖である八田知家。
しかしながら、全国的には、八田知家はそれほど有名な存在ではないですね
。
このドラマでも、このマイナーな武将をどう描くのかな?と思ってドラマを見てきましたが、なにげちチラチラと、富士の巻狩で、狩の下手な源頼家の為に、鹿(のはく製?)をさっと出すとか、いつも土木工事関係をやっているとか、北条義時の奥さんの八重さんが亡くなるのに関わる孤児を連れて来るとか、更には(これは史実にもある)常陸国に流された阿野全成を誅するとか・・・。
もう残り数人しかいない「13人」関係者の中で、八田知家の出番がなにげに増えていっているのも、つくば市民としては嬉しい(笑)。
じわじわ存在感を出しながら八田知家を描いているドラマは、なかなか興味深いです。
土木工事建築関係や、身の回りのちょっとした家具作り?やら居てくれると助かるタイプながらも、結構、北条氏にとっては耳が痛いことを、ピンポイントで言ってくるキャラとなっていますが、今後どんな見せ方をしてくれるでしょうか
。
鎌倉時代当時の記録は実はほとんどなくて、『吾妻鏡』がほぼ唯一の文献だそうで、『鎌倉殿の13人』の脚本を書いている三谷幸喜さんも、『吾妻鏡がバイブル』とインタビューで答えてましたね。
バイブルの解釈と表現、脚本家の手腕も見どころですよね!
八田知家関係の話題は後述するとして、
鎌倉からちょっと離れた常陸国でありますが、
鎌倉時代から伝わると思われる伝説や史跡が今にも伝わっているのです
。
まずよく知られているところでは、『鎌倉街道』と呼ばれる古道が茨城県各所に伝わっています。
この鎌倉街道には、大きく分けて『上つ道』『中つ道』『下つ道』のメインロードがありました。
茨城県内を通るのは、『中つ道』『下つ道』です。
例えば、鎌倉幕府の奥州征伐の際に軍が通った道であり、またそれこそ御家人が『いざ鎌倉へ!』と使ったと思われる道です。
そんな常陸国には、鎌倉に繋がるなかなか興味深い伝説が伝わっています。
それをまずご紹介。
① 常陸太田と鎌倉と犬!?
昔、この地に浄因寺というお寺があり、鎌倉時代、鎌倉の建長寺から来た西堂という僧侶が住んでいました。
緊急に鎌倉に伝えたいことがあり、飼い犬の首に文箱をつけて鎌倉まで走らせました。
その犬は鎌倉まで行き、返事を受取り、常陸の寺まで息も絶え絶えで鳴きながら走って戻ってきましたが、寺のすぐ近くの場所で息絶えてしまいました。
犬が鳴きながら通った集落は『ナキダイラ』と呼ばれ、現在の『仲平』にあたるといいます。
その犬を葬ったのが『犬塚』と呼ばれ、つけていた文箱を埋めた集落が『箱地』と呼ばれる地域と伝わります。
(文献1、2、3)
切ない伝説ですが、でもそんなに急ぎの連絡とは何だったのでしょう?
『犬』とされているが、本当は伝達係の人ではなかったのでしょうか?
この辺りは、『鎌倉街道 下つ道』沿いのエリア。そして奥州の入り口辺り。
そして佐竹氏の領地。
寺の住職というのは実は…?!
…いろいろ憶測が頭の中を駆け巡る興味深い伝説です
。
詳細は、過去の記事
→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
https://cardamom.tsukuba.ch/e322968.html
をご覧ください♪
② 常陸大宮 『三浦杉』 (昔は『鎌倉杉』と呼ばれていた)

当地では昔から『鎌倉杉』と呼ばれていた杉を、その由来を聞いた水戸藩の徳川光圀が、『それなら ”三浦杉” とするのが良いだろう』と改名させたと言います。
三浦大介基安(※)という武将が、那須に殺生石を退治にいく途中に立ち寄ったこの地で武運を祈り、杉の木を植えたものが、常陸大宮の吉田八幡神社の大杉となったという伝承が伝わります。
(写真は、吉田八幡神社の『三浦杉』の1本 2010年撮影)
また同地では、その家臣の4人がこの地に残り、その家臣たちを先祖とする四つの家が現在も続いているとのこと(文献4)
。

三浦基安の像を祀った三浦神社、三浦基安が烏帽子をかけたという烏帽子掛峠という地名も伝わっています。
(写真は三浦神社 2010年撮影)
この『三浦基安』という人は、三浦氏の系図にはない名とのことですが、系図に載っていない人々も大勢いたはずです
。
ここまで具体的な話が伝わっているので、絶対何か関係はあるはず
※ 一般に『三浦大介』は『三浦義明』を指します。また、九尾の狐伝説で、狐を退治した武将の一人は三浦大介義明とされるのが一般的のようです。
こちらも詳細は、過去の記事
→
常陸大宮 吉田八幡神社の「三浦杉」を訪ねて
をご覧くださいませ♪
<余談>
この三浦杉伝説の背景にある『那須の殺生石』伝説ですが、話の前半はいわゆる九尾の狐伝説で、鎌倉時代に活躍した武将が、世を乱す妖女 玉藻前の正体が九尾の狐であることを暴きます。
そして伝説の後半は、下野国の那須へ逃げた九尾の狐を、今度は曹洞宗の僧侶(源翁和尚)が退治しました。しかし狐は『殺生石』となって今も毒ガスを吐き続けている…という伝説です。
さて、その源翁和尚についても、過去の記事に詳しく書きましたので、良かったら♪
→
那須の殺生石を砕いた!源翁和尚
https://cardamom.tsukuba.ch/e227245.html
民衆の中で語られ、能などでも演じられてきた伝説であり芸能の題材ですが、どうしてこれらの登場人物が選ばれたのか、どういう人たちが関わり、話を伝播していったのかとか、個人的に大変興味を感じます。
ちなみに栃木県那須の名勝『殺生石』は、今年2022年3月、リアルに割れているのが発見されニュースになっていました。
自然現象で割れたとのことで、岩は割れてはいますが、ガスは(地中から)吐き続けていますね(笑)。
数百年後に源翁和尚の術が効いたのか(?)石は割れたけれど、有毒ガスは出続けていますので、源翁和尚が勝ったのか、九尾狐が勝ったのか??
。
③ 源義経伝説
初代鎌倉殿の源頼朝の弟(腹違い)の1人、源義経は超有名ですね。
昔からいろいろな題材の主人公になっていますし、日本全国に義経伝説は数多くあります。
茨城県内でもいくつか『義経』にまつわる伝説が伝わっています(例えば境町など)。
これらはいずれ別途、書いていきたい
と思いますので、今回は割愛します。
さて、いよいよ八田知家関連について書きます
。
④ 阿野全成の墓
源頼朝の腹違いの弟で、源義経と母を同じくする兄である、阿野全成。
この方もちょっとマイナーな存在かと思いますが、今回のドラマではコミカルで良い味を出しているキャラクタとして描かれていました。
が、史実と同じく、最期は建仁三年(1203年)下野にて八田知家に誅されています。
ドラマでは涙なくして見られなかった場面です
・・・。

阿野全成と従者の墓と伝わる史跡が、栃木県益子町の大六天の森と呼ばれる地ににあります。
これは大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の最後の名所案内でも紹介されていましたね。
(写真は 益子町の大六天の森付近。 2017年9月撮影)
益子町は常陸国でなくて下野国ではありますが・・・隣接しているということで
。
大六天の森は近くまで行ったことはありますが、直接はまだ行ったことがないので、
近いうちに是非行きたいと考えています。
ところで、吾妻鏡によると、実は八田知家は阿野全成を誅した頃から、家名(※)を『八田』でなく『筑後』を名乗ります(文献6)
文献で『小田』の家名が出てくる初見は、八田知家の3代後(曾孫)の時知からとのこと(文献6)。
※ 『家名』とは:(文献6より)八田知家の正式な名は『藤原朝臣知家』。『氏』は『藤原』、『姓(かばね)=氏に付属する称号』は『朝臣』。『家名』は氏から分かれた一族の『名乗り』で、地名・役職・地域の特徴等様々なものが由来となるそうです。
ややこしいですね(汗)。
今回、当ブログでは、後述する八田知家の2代後(孫)の泰知から、家名を『小田』と書きます。
**************
さてこの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、八田知家同様、男の怪しい色気ムンムンの三浦義村も個人的に気になっております(笑)。
ドラマでは硬派なキャラの八田知家に対し、ナンパなキャラの三浦義村として描かれていて、なかなか対象的です。
三浦一族の領地は鎌倉に隣接する三浦半島。
(三浦半島は小さいので、鎌倉プラス三浦半島は、ほぼ、つくば市と同じ面積になります・・・そうイメージずると茨城県民には距離感がピンと来るかと・・・つまり近くなんです
)
常陸国とは一見関係なさそうな三浦氏ですが、先に②で紹介した『三浦杉』もありますし、
実は八田知家の子孫、小田氏とも少なからず関係が生まれています。
⑤ 八田知家の孫の小田泰知の妻は三浦氏出身(三浦泰村の娘)
八田知家の子の知重も鎌倉で仕えます。
その知重の子の泰知(つまり八田知家の孫)は、三浦泰村(三浦義村の子)の娘(つまり義村の孫娘)を娶ります。
しかしながら三浦泰村を筆頭とする三浦氏は1247年の宝治合戦で、執権北条氏に滅ぼされますが、小田氏も三浦氏の縁者であることが災いして宝治合戦で失脚し、常陸国守護の座を追われ、常陸国守護は宍戸氏になります(文献5,6)。
まさにサバイバル…。
なお、一般には小田泰知の妻は三浦氏出身というのが通説になっていますが、三浦氏出身ではないとする説もあります(文献6)。
さて、その三浦一族については、常陸国では、他にもなかなか興味深い伝説が伝わっています。
⑥ 三浦義重 = 善念(親鸞の二十四輩の第十二)
1216年(建保四年)の頃、親鸞が桜川のほとりで川を渡れないでいるところを、『私が背負ってお渡ししましょう』 と向こう岸まで送ってくれた若い武士がいました。
その若い武士は先に鎌倉で滅びた相模国の三浦一族の一党、岡崎義実の孫の義重(三浦義重)で、鹿島神宮を詣でた帰りだったとは語ります。
親鸞は念仏の教えを説いて聞かせると、義重は大変喜んで門弟になり、親鸞は善念という法名を与え、桜川のほとりに草庵を建てて与えたとのことです(文献7)。

(写真は桜川の水源近く、桜川市の櫻川磯部稲村神社に隣接する磯部桜川公園。2017年4月撮影)
義重が 『鹿島詣りの帰り』 に 『桜川』 の辺りを歩いているのは方向が?? と一瞬思いますが、同じく文献4によると、『常陸国の西部から北部にかけては三浦・和田一族の領地が散在する』とのことで、そうすると理解出来ます。
善念は親鸞の二十四輩の第十二とされ、水戸市酒門町の重善寺は、その善念が開祖と伝わります。
この重善寺は、当初は笠間にあったのが、水戸光圀により、現在の場所に移され今に到るとのこと(文献5)。
やっぱり、ここでも水戸藩の徳川光圀さんか
・・・(笑)。
なお、wikipediaによると、善念は、『三浦一族の長田義重』となっています。
(上の小田氏の時も書きましたが、『家名』はいろいろ変わるみたいでよくわかりませんね
)
しかしながら、大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』を見ていると、鎌倉時代初頭、北条氏が執権になった時期、御家人のサバイバルも熾烈を極めたのだと、再認識。
ドラマでは北条氏と仲良し(?)っぽかった三浦氏も、上述したように、史実では結局、三浦義村の次の三浦泰村の代で一族は北条氏に滅ぼされてしまいます(宝治合戦)。
まさにアウトレージなサバイバルの時代
。
そんな過酷なな状況で、領地は取られながらも一族滅亡の憂き目はなく、生き残った八田=小田氏
。
運が良かったのか、実は世渡り上手だったのか。
または、同じ関東武士とはいえ、鎌倉から少し離れた北関東の御家人だったからか。
同じ常陸国では、なんだかんだで佐竹氏も生き残りますし、鎌倉からやや離れた北関東・常陸国という、ある意味『地の利』があったのかもしれないと、私は個人的に思っています
。
奥州を抑える要の地ではあり、力関係やら何か思惑もあったのかもしれませんし、そんな状況の下、執権北条氏と南関東の武士団が攻め合っているうねりの中、北関東の武士団は、そのうねりの波乗りをうまくやりながら、この時代を生き抜き、鎌倉幕府滅亡以降の次の世に舞台を繋いでいったようにも思えます。
そんな目で、上に紹介した茨城に伝わる伝説を見てみると、また何かが見えてくるようで興味深い
。
そしてドラマでは八田知家をどう描くか?…ドラマの佳境に入り、その辺りも茨城県民・つくば市民としては興味津々です
。
ちなみに、現在、つくば市では、
令和4年度巡回企画展 「鎌倉殿の御家人 『八田知家』とつくば」
が開催中です。
開催期間:令和4年9月17日(土)~令和5年2月1日(日)
→
詳細: つくば市HP 令和4年度巡回企画展「鎌倉殿の御家人『八田知家』とつくば」
また先日10/2(日)に、大河ドラマで八田知家を演じている俳優の市原隼人さんのトークショーが、つくば市のつくば国際会議場で開催され、その模様については、
→
つくば市教育委員会 文化財課のHP 「大河ドラマ「鎌倉殿の13人」スペシャルトークinつくばへのご来場ありがとうございました」
これは行けなくて残念です
********************
【参考文献】
1.『美和村史』 美和村史編さん委員会 編集 美和村 発行
2.『日本の伝説37 茨城の伝説』 今瀬文也・武田静澄 共著 角川書店
3.『茨城の伝説』 茨城民俗学会 編 日本標準
4. 常陽藝文 2003年2月号 (財)常陽藝文センター
5.『里の国の中世:常陸・北下総の歴史世界』 網野善彦 著 平凡社ライブラリー
※ 本書は 『茨城県史 中世編(通史)』の網野氏の執筆部分を一つにまとめた書籍。
6. 『土浦市立博物館 第43回特別展『八田知家と名門常陸小田氏』 土浦市立博物館 発行
7. 『茨城と親鸞』 今井雅晴 著 茨城新聞社
8. 『茨城の寺を訪ねて 古寺巡礼ガイド』 茨城放送 発行
********************
【参考サイト】
常陸大宮市観光協会HP
http://www.city.hitachiomiya.ibaraki.jp/~kankokyokai/
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境となってきました

13人の中の関係者はどんどん攻め滅ぼされていますが、まだ残っていて、しかもキャラ的に


三浦義村 そして、八田知家。

子孫が現在のつくば市小田に居城を構え小田氏を名乗り、
最近歴史マニアに人気の『戦国最弱!?』 『常陸の不死鳥!』 小田氏治の先祖である八田知家。
しかしながら、全国的には、八田知家はそれほど有名な存在ではないですね

このドラマでも、このマイナーな武将をどう描くのかな?と思ってドラマを見てきましたが、なにげちチラチラと、富士の巻狩で、狩の下手な源頼家の為に、鹿(のはく製?)をさっと出すとか、いつも土木工事関係をやっているとか、北条義時の奥さんの八重さんが亡くなるのに関わる孤児を連れて来るとか、更には(これは史実にもある)常陸国に流された阿野全成を誅するとか・・・。
もう残り数人しかいない「13人」関係者の中で、八田知家の出番がなにげに増えていっているのも、つくば市民としては嬉しい(笑)。
じわじわ存在感を出しながら八田知家を描いているドラマは、なかなか興味深いです。
土木工事建築関係や、身の回りのちょっとした家具作り?やら居てくれると助かるタイプながらも、結構、北条氏にとっては耳が痛いことを、ピンポイントで言ってくるキャラとなっていますが、今後どんな見せ方をしてくれるでしょうか

鎌倉時代当時の記録は実はほとんどなくて、『吾妻鏡』がほぼ唯一の文献だそうで、『鎌倉殿の13人』の脚本を書いている三谷幸喜さんも、『吾妻鏡がバイブル』とインタビューで答えてましたね。
バイブルの解釈と表現、脚本家の手腕も見どころですよね!
八田知家関係の話題は後述するとして、
鎌倉からちょっと離れた常陸国でありますが、
鎌倉時代から伝わると思われる伝説や史跡が今にも伝わっているのです

まずよく知られているところでは、『鎌倉街道』と呼ばれる古道が茨城県各所に伝わっています。
この鎌倉街道には、大きく分けて『上つ道』『中つ道』『下つ道』のメインロードがありました。
茨城県内を通るのは、『中つ道』『下つ道』です。
例えば、鎌倉幕府の奥州征伐の際に軍が通った道であり、またそれこそ御家人が『いざ鎌倉へ!』と使ったと思われる道です。
そんな常陸国には、鎌倉に繋がるなかなか興味深い伝説が伝わっています。
それをまずご紹介。
① 常陸太田と鎌倉と犬!?
昔、この地に浄因寺というお寺があり、鎌倉時代、鎌倉の建長寺から来た西堂という僧侶が住んでいました。
緊急に鎌倉に伝えたいことがあり、飼い犬の首に文箱をつけて鎌倉まで走らせました。
その犬は鎌倉まで行き、返事を受取り、常陸の寺まで息も絶え絶えで鳴きながら走って戻ってきましたが、寺のすぐ近くの場所で息絶えてしまいました。
犬が鳴きながら通った集落は『ナキダイラ』と呼ばれ、現在の『仲平』にあたるといいます。
その犬を葬ったのが『犬塚』と呼ばれ、つけていた文箱を埋めた集落が『箱地』と呼ばれる地域と伝わります。
(文献1、2、3)
切ない伝説ですが、でもそんなに急ぎの連絡とは何だったのでしょう?
『犬』とされているが、本当は伝達係の人ではなかったのでしょうか?
この辺りは、『鎌倉街道 下つ道』沿いのエリア。そして奥州の入り口辺り。
そして佐竹氏の領地。
寺の住職というのは実は…?!
…いろいろ憶測が頭の中を駆け巡る興味深い伝説です

詳細は、過去の記事
→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
https://cardamom.tsukuba.ch/e322968.html
をご覧ください♪
② 常陸大宮 『三浦杉』 (昔は『鎌倉杉』と呼ばれていた)

当地では昔から『鎌倉杉』と呼ばれていた杉を、その由来を聞いた水戸藩の徳川光圀が、『それなら ”三浦杉” とするのが良いだろう』と改名させたと言います。
三浦大介基安(※)という武将が、那須に殺生石を退治にいく途中に立ち寄ったこの地で武運を祈り、杉の木を植えたものが、常陸大宮の吉田八幡神社の大杉となったという伝承が伝わります。
(写真は、吉田八幡神社の『三浦杉』の1本 2010年撮影)
また同地では、その家臣の4人がこの地に残り、その家臣たちを先祖とする四つの家が現在も続いているとのこと(文献4)


三浦基安の像を祀った三浦神社、三浦基安が烏帽子をかけたという烏帽子掛峠という地名も伝わっています。
(写真は三浦神社 2010年撮影)
この『三浦基安』という人は、三浦氏の系図にはない名とのことですが、系図に載っていない人々も大勢いたはずです

ここまで具体的な話が伝わっているので、絶対何か関係はあるはず

※ 一般に『三浦大介』は『三浦義明』を指します。また、九尾の狐伝説で、狐を退治した武将の一人は三浦大介義明とされるのが一般的のようです。
こちらも詳細は、過去の記事
→

をご覧くださいませ♪
<余談>
この三浦杉伝説の背景にある『那須の殺生石』伝説ですが、話の前半はいわゆる九尾の狐伝説で、鎌倉時代に活躍した武将が、世を乱す妖女 玉藻前の正体が九尾の狐であることを暴きます。
そして伝説の後半は、下野国の那須へ逃げた九尾の狐を、今度は曹洞宗の僧侶(源翁和尚)が退治しました。しかし狐は『殺生石』となって今も毒ガスを吐き続けている…という伝説です。
さて、その源翁和尚についても、過去の記事に詳しく書きましたので、良かったら♪
→

https://cardamom.tsukuba.ch/e227245.html
民衆の中で語られ、能などでも演じられてきた伝説であり芸能の題材ですが、どうしてこれらの登場人物が選ばれたのか、どういう人たちが関わり、話を伝播していったのかとか、個人的に大変興味を感じます。
ちなみに栃木県那須の名勝『殺生石』は、今年2022年3月、リアルに割れているのが発見されニュースになっていました。
自然現象で割れたとのことで、岩は割れてはいますが、ガスは(地中から)吐き続けていますね(笑)。
数百年後に源翁和尚の術が効いたのか(?)石は割れたけれど、有毒ガスは出続けていますので、源翁和尚が勝ったのか、九尾狐が勝ったのか??

③ 源義経伝説
初代鎌倉殿の源頼朝の弟(腹違い)の1人、源義経は超有名ですね。
昔からいろいろな題材の主人公になっていますし、日本全国に義経伝説は数多くあります。
茨城県内でもいくつか『義経』にまつわる伝説が伝わっています(例えば境町など)。
これらはいずれ別途、書いていきたい

さて、いよいよ八田知家関連について書きます

④ 阿野全成の墓
源頼朝の腹違いの弟で、源義経と母を同じくする兄である、阿野全成。
この方もちょっとマイナーな存在かと思いますが、今回のドラマではコミカルで良い味を出しているキャラクタとして描かれていました。
が、史実と同じく、最期は建仁三年(1203年)下野にて八田知家に誅されています。
ドラマでは涙なくして見られなかった場面です


阿野全成と従者の墓と伝わる史跡が、栃木県益子町の大六天の森と呼ばれる地ににあります。
これは大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の最後の名所案内でも紹介されていましたね。
(写真は 益子町の大六天の森付近。 2017年9月撮影)
益子町は常陸国でなくて下野国ではありますが・・・隣接しているということで

大六天の森は近くまで行ったことはありますが、直接はまだ行ったことがないので、
近いうちに是非行きたいと考えています。
ところで、吾妻鏡によると、実は八田知家は阿野全成を誅した頃から、家名(※)を『八田』でなく『筑後』を名乗ります(文献6)
文献で『小田』の家名が出てくる初見は、八田知家の3代後(曾孫)の時知からとのこと(文献6)。
※ 『家名』とは:(文献6より)八田知家の正式な名は『藤原朝臣知家』。『氏』は『藤原』、『姓(かばね)=氏に付属する称号』は『朝臣』。『家名』は氏から分かれた一族の『名乗り』で、地名・役職・地域の特徴等様々なものが由来となるそうです。
ややこしいですね(汗)。
今回、当ブログでは、後述する八田知家の2代後(孫)の泰知から、家名を『小田』と書きます。
**************
さてこの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、八田知家同様、男の怪しい色気ムンムンの三浦義村も個人的に気になっております(笑)。
ドラマでは硬派なキャラの八田知家に対し、ナンパなキャラの三浦義村として描かれていて、なかなか対象的です。
三浦一族の領地は鎌倉に隣接する三浦半島。
(三浦半島は小さいので、鎌倉プラス三浦半島は、ほぼ、つくば市と同じ面積になります・・・そうイメージずると茨城県民には距離感がピンと来るかと・・・つまり近くなんです

常陸国とは一見関係なさそうな三浦氏ですが、先に②で紹介した『三浦杉』もありますし、
実は八田知家の子孫、小田氏とも少なからず関係が生まれています。
⑤ 八田知家の孫の小田泰知の妻は三浦氏出身(三浦泰村の娘)
八田知家の子の知重も鎌倉で仕えます。
その知重の子の泰知(つまり八田知家の孫)は、三浦泰村(三浦義村の子)の娘(つまり義村の孫娘)を娶ります。
しかしながら三浦泰村を筆頭とする三浦氏は1247年の宝治合戦で、執権北条氏に滅ぼされますが、小田氏も三浦氏の縁者であることが災いして宝治合戦で失脚し、常陸国守護の座を追われ、常陸国守護は宍戸氏になります(文献5,6)。
まさにサバイバル…。
なお、一般には小田泰知の妻は三浦氏出身というのが通説になっていますが、三浦氏出身ではないとする説もあります(文献6)。
さて、その三浦一族については、常陸国では、他にもなかなか興味深い伝説が伝わっています。
⑥ 三浦義重 = 善念(親鸞の二十四輩の第十二)
1216年(建保四年)の頃、親鸞が桜川のほとりで川を渡れないでいるところを、『私が背負ってお渡ししましょう』 と向こう岸まで送ってくれた若い武士がいました。
その若い武士は先に鎌倉で滅びた相模国の三浦一族の一党、岡崎義実の孫の義重(三浦義重)で、鹿島神宮を詣でた帰りだったとは語ります。
親鸞は念仏の教えを説いて聞かせると、義重は大変喜んで門弟になり、親鸞は善念という法名を与え、桜川のほとりに草庵を建てて与えたとのことです(文献7)。

(写真は桜川の水源近く、桜川市の櫻川磯部稲村神社に隣接する磯部桜川公園。2017年4月撮影)
義重が 『鹿島詣りの帰り』 に 『桜川』 の辺りを歩いているのは方向が?? と一瞬思いますが、同じく文献4によると、『常陸国の西部から北部にかけては三浦・和田一族の領地が散在する』とのことで、そうすると理解出来ます。
善念は親鸞の二十四輩の第十二とされ、水戸市酒門町の重善寺は、その善念が開祖と伝わります。
この重善寺は、当初は笠間にあったのが、水戸光圀により、現在の場所に移され今に到るとのこと(文献5)。
やっぱり、ここでも水戸藩の徳川光圀さんか

なお、wikipediaによると、善念は、『三浦一族の長田義重』となっています。
(上の小田氏の時も書きましたが、『家名』はいろいろ変わるみたいでよくわかりませんね

しかしながら、大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』を見ていると、鎌倉時代初頭、北条氏が執権になった時期、御家人のサバイバルも熾烈を極めたのだと、再認識。
ドラマでは北条氏と仲良し(?)っぽかった三浦氏も、上述したように、史実では結局、三浦義村の次の三浦泰村の代で一族は北条氏に滅ぼされてしまいます(宝治合戦)。
まさにアウトレージなサバイバルの時代

そんな過酷なな状況で、領地は取られながらも一族滅亡の憂き目はなく、生き残った八田=小田氏

運が良かったのか、実は世渡り上手だったのか。
または、同じ関東武士とはいえ、鎌倉から少し離れた北関東の御家人だったからか。
同じ常陸国では、なんだかんだで佐竹氏も生き残りますし、鎌倉からやや離れた北関東・常陸国という、ある意味『地の利』があったのかもしれないと、私は個人的に思っています

奥州を抑える要の地ではあり、力関係やら何か思惑もあったのかもしれませんし、そんな状況の下、執権北条氏と南関東の武士団が攻め合っているうねりの中、北関東の武士団は、そのうねりの波乗りをうまくやりながら、この時代を生き抜き、鎌倉幕府滅亡以降の次の世に舞台を繋いでいったようにも思えます。
そんな目で、上に紹介した茨城に伝わる伝説を見てみると、また何かが見えてくるようで興味深い

そしてドラマでは八田知家をどう描くか?…ドラマの佳境に入り、その辺りも茨城県民・つくば市民としては興味津々です


令和4年度巡回企画展 「鎌倉殿の御家人 『八田知家』とつくば」
が開催中です。
開催期間:令和4年9月17日(土)~令和5年2月1日(日)
→

また先日10/2(日)に、大河ドラマで八田知家を演じている俳優の市原隼人さんのトークショーが、つくば市のつくば国際会議場で開催され、その模様については、
→

これは行けなくて残念です

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【参考文献】
1.『美和村史』 美和村史編さん委員会 編集 美和村 発行
2.『日本の伝説37 茨城の伝説』 今瀬文也・武田静澄 共著 角川書店
3.『茨城の伝説』 茨城民俗学会 編 日本標準
4. 常陽藝文 2003年2月号 (財)常陽藝文センター
5.『里の国の中世:常陸・北下総の歴史世界』 網野善彦 著 平凡社ライブラリー
※ 本書は 『茨城県史 中世編(通史)』の網野氏の執筆部分を一つにまとめた書籍。
6. 『土浦市立博物館 第43回特別展『八田知家と名門常陸小田氏』 土浦市立博物館 発行
7. 『茨城と親鸞』 今井雅晴 著 茨城新聞社
8. 『茨城の寺を訪ねて 古寺巡礼ガイド』 茨城放送 発行
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【参考サイト】
常陸大宮市観光協会HP
http://www.city.hitachiomiya.ibaraki.jp/~kankokyokai/
2022年07月17日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
さて、本回シリーズでは、金色姫譚について、どこで生まれどのように広まっていったのかということについて、
細かく考えてきました。
今回は本シリーズ最後として、日本での民衆の宗教史でもある、「中世神話」と呼ばれるものや、中世の寺社の縁起を集めた「神道集」から
金色姫譚を考え、今回のシリーズの結びとします。
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
金色姫譚は、養蚕技術と一緒に入ってきたのか? それとも伝説だけが後から入ってきたのか? それとも新たに作られたのか?
ここであらためて今一度、考えたいのが、金色姫譚は、
① 養蚕技術とともに常陸国に入ってきたのか?
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
の、いずれの立場で考えていくか? ということです。
今までずっと、①の、『養蚕技術とともに常陸国に入ってきた』という立場で、更に『海から入ってきた』という視点で、考察してきました。
これは、常陸国三蚕神社に伝わる金色姫譚が、『金色姫が乗ったうつぼ舟が、豊浦に流れ着いた』=『海に漂着した』を彷彿させることと、実際、外海から漂着物や遭難した船が常陸国の海岸に流れ着いた記録も古くからあることから、『海から来た人が養蚕を伝えた』可能性を考えたからです。
しかし、やはり人の流れとともに、養蚕技術や知識(伝説も含む)は『陸』伝いで入ってきたというのが、一番自然でしょう。
伝説の伝播だけを考えるなら、養蚕技術伝播とは別の、②や③の可能性も考えないといけません。
なので、シリーズ最終回の今回では、この
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
について考えてみます。
中世神話とは? 金色姫譚とどう関わるのか?
私も勉強しながら知りましたが、日本では中世(鎌倉・室町時代ごろ)に、寺社の縁起を再編する動きが盛んにおこなわれたそうです。これは『中世神話』とも呼ばれます(文献1,2,3,4,5)。
このように再編されたり新たに作られた縁起は、聖、巫女、尼、神人という末端の宗教者が村々を回り、人々に物語を語り広めていったそうです
(文献4,5)。
原・金色姫譚についても、こういう人々が外から常陸国の中へ話を伝えてきたのかもしれませんし、または、常陸国のどこかで話を(既にある何かの説話の影響を受けながらも)創作し、伝えていった可能性も考えられます。
あまりにも大きいテーマなので、私の手には負えませんが
、手持ちの資料を基に、こうだったんじゃないかという想像(妄想か?)・仮説を提案したいと思います。
復習:養蚕にからむ貴種譚(原・金色姫譚)の、常陸国への伝播・・・伝わってきたのは海からか?陸からか?
伝説の伝播については、今回のシリーズの前半
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
で考察し、仮説を提案してみました。
私は、日本列島へは、原・金色姫譚(貴種漂着譚)は、外国から(=海経由で)伝わったか、もしくは、何か史実的なことから原・金色姫譚(貴種漂着譚)が生まれたのではないかと考えています。そして、それは多分、養蚕技術・知識と一緒に入ってきたと考えています。
そしてそのように生まれた 原・金色姫譚(貴種漂着譚)が、常陸国に伝わったと考えていました。
常陸国/茨城の海岸線には、海流の影響もあって古来から漂着物が多く、船に乗った漂流者がたどり着く例も多かったので、『海からウツボ舟で漂着した金色姫』のイメージから、『海から伝わった』可能性に着目したからです。
しかし、当然陸続きなので、陸から常陸国に入ってきた人が、養蚕技術・知識と共に伝説を伝えることもあり得ます。
また、養蚕技術・知識とは別に、原・金色姫譚だけが、それを語る人々によって常陸国にもたらされたことも考えられますし、新たに常陸国の中で生まれた可能性もあります。
普通は、常陸国に入植した養蚕の知識を持った人が伝説も伝えたとか、そういう説話を語る宗教者が常陸国に来て、語って歩いたというのが一般的に考えられることでしょう。
しかし、常陸国はまた、古来から「遠流」の地でもありました。
つまり、刑を受けて、都から遠く離れた地に送られてくる、その地でもあったわけです。
文字通り「漂流者・漂着者」の他に、「遠流」で常陸国に「流れてきた」人もいたわけですし、『漂着』『流れ着いた』というのはそういった人の比喩かもしれません。
伝えたのは遠流の地 常陸国に流罪で送られてきた流人?
一般的には、養蚕の知識や技術は、 養蚕の そういった知識を持った人が入植したとか、知識を持った人から 何らかの形で教わったと考えられるでしょう。
『知識をもった人から』教わることを考える場合、ちょっとセンセーショナルかもしれませんが、常陸国に流罪に送られてきた流人やその周りの人から教わる・・・ということは考えられないでしょうか。
これもあながち荒唐無稽ではないかと思うのです。
『流刑地に流れ着いた』 → 『海から流れ着いた』として、後世の子孫や何か(信仰関係?)の関係者が金色姫伝説を作ったり脚色した可能性もありそうではありませんか?
流刑は死罪に次ぐ重い罪で、罪の重さによって、京の都から近いか遠いかで流刑地が決まり、
死罪に次ぐ重い罪の遠流の地は、伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国などがありました(文献6)。
古代から中世の時代、流罪はそれなりの身分の人に課せられたようで、常陸国に流罪で送られてきた人も比較的身分の高い人だったと考えられます。
身分がそれなりに高い罪人が流罪になった有名な例が、伊豆国に送られて、その地で生活していた源頼朝ですね。
流人だった源頼朝が東国の武士達と共に東国に『鎌倉幕府』なるものを作った。これは教科書にも載っている史実。
流人の存在は馬鹿にならない良い例です。
常陸国への流罪の例について見てみますと、時代は遡って古代になります。
常陸国風土記の行方郡の項に
『飛鳥の浄見原の天皇の世、麻続王を遣らひて居処らしめき』
という記述があります(文献7)。
続麻王(をみのみこ)とは、文献7の注釈によると、
『「天武紀」四年四月の条に「三位麻続王罪有り。稲葉に流す。一の子をは伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋に流す』とあり(中略) 「大系」は「イナバ(因幡国・下総国印波)・イラゴ・イタコと類似地名によって伝承が流伝したのであろう」とするが定かでない』
とあり、続麻王は流罪になった人ということは確かなようです。
さて、流罪の地に配流された人は妻子を伴ってその地に送られることも多く、その地で労働して生活をします(文献6)。
労働経験のない貴族など、大変な『苦役』な訳ですね。
家族以外にも身の回りのことをする使役人もわずかに連れて行った場合もあるかと思います。
私は思うのですが、配流された人で、蚕の卵とともに養蚕技術の知識を持つ人(妻なども含め)がいた可能性もあったのではないでしょうか。
(具体的にどういった人々が常陸国に流罪で送られてきたのか、常陸国でどのような生活をしたのか、何か記録があるのかは知りたいです)
都から来た人達の中には、蚕を飼って糸を紡ぎ、絹織物を織る知識を持っていたり、実際に技術を持つ人もい手も不思議ではありません。
それを生活の糧にしたことも当然考えられます。
伝説通り『海から漂着した』人もいたかもしれませんが、流罪になった先祖を美化して伝説化して伝えていき、いつしか説話(原・金色姫譚)として、常陸国の中で語られ、人口に膾炙して広まっていった・・・という可能性もあるのではないでしょうか。
中世神話の創生期の中で、原・金色姫譚が常陸国で作られた可能性
さて、鎌倉時代から室町時代にかけて、国内の寺社では、寺社の縁起を再構築する動きが大々的に行われ、
日本神話や仏典をもとに、さらに縁起を作り直す動きがありました。
そうやって再構築された縁起を「中世神話」は呼ばれと先に書きました(文献1、2、3、4、5)。
私たちが現在、見聞きする寺社の縁起は、このように中世に作り直された話も多いとのこと。
当時は神仏混交の頃でしたが、それぞれの寺社縁起については、仏教色を強くするか日本神話的な話を強くするかは、それぞれの思惑や考えがあったようです。
金色姫の話についてみると、金色姫の生まれはインドかその近辺の国です。
また、ストーリーの最後の方は明らかに仏教色が強くなるので、やはり仏を信仰する人たちが語り伝えていったのでしょう。
このあたりについては、このシリーズの以前の記事で考察していますので、そちらも良かったら。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
そういう時代の動きの中で、原・金色姫譚が、常陸国で生み出され、広められていった可能性もありえます。
金色姫譚に似たモチーフの説話の存在 二所権現(箱根権現・伊豆権現)縁起との類似性
さて、説話や寺社縁起を調べているうちに、金色姫譚によく似たモチーフの話を縁起とする寺社があるのに気づきました
。
室町時代の説話・または寺社の縁起の中には、継母に虐められる継子が、神仏に救われたり守られたりする話があります。
継子いじめ譚と呼ばれる系譜です。
金色姫の話も明らかに『継子いじめ』の物語です。
金色姫譚では、継母にいじめられた金色姫を、父王が継母から逃がすために、「うつぼ舟」の乗せて海に流します。
(寺社説話に継子いじめ譚は、なぜか父王は後妻=継母を罰することが出来ないのです・・・現代人には不思議過ぎるのですが)
それで、これにとても似た縁起を持つのが、箱根山権現と伊豆山権現の縁起なのです。
ちなみに、箱根山権現は現在の箱根神社、伊豆山権現は現在の伊豆山神社です(文献4、5)。

(伊豆山神社 2015年1月撮影)
こちらは主人公は複数いるのですが、インドのある国に生まれた王族で、継母からのいじめの方法も金色姫の場合と酷似しています。
そして、写本によりストーリーに多少違いがあるようですが、彰考館本と呼ばれる写本では、『桑のうつぼ舟』に乗って伊豆のめらの崎という場所に『流れ着く』とのこと。
金色姫端と二所権現の縁起、どちらが先か分かりませんが、どちらかが影響を受けて生まれたか、または共通の説話のようなものがあったとしか思えません。
また文献5によると、箱根山権現と伊豆山権現の縁起が作られた時期は、鎌倉時代中期までさかのぼれるとのこと。
さて、当時、寺社の縁起は、その寺の仏の功徳を伝える説話として、その寺院に円の深い宗教者、特に尼、巫女、など女性の宗教者によって、語られたり、歌われたり、絵解きがされながら、広まった考えられています(文献4 他)。
特に、継子いじめなどの話は、女性に大変人気があったそうで、当時つらい境遇の人々が多い中、聞きながらわが身に重ねて聞いた人がとても多かったのでしょう。
有名な曽我物語なども、尼、巫女、など女性の宗教者によって伝えられていったそうで、二所権現縁起も同様のようです(文献4,5 他)
筑波山麓で生まれた可能性は?
箱根山権現と伊豆山権現は、二つ合わせて『二所権現』と呼ばれ、この『二所権現』への信仰がとても篤かったのが源頼朝で、源頼朝とともに東国に武士の世を作った伊豆・相模・武蔵の武士の信仰も篤かったそうです(文献8)。
つまり、鎌倉の御家人にも二所権現信仰が広まった?
すると鎌倉殿の御家人の一人、常陸国の八田知家(小田氏の祖)も影響を受けて二所権現信仰を知っていたか、同じく信仰した可能性があるのではないか?
そうして二所権現縁起と似たモチーフが常陸国で生まれて語られる土壌が生まれたのではないか?
・・・そういう妄想もあながち不自然ではない?
実際、土浦市にある等学寺にある鎌倉時代前期に作られた梵鐘がありますが、これは八田知家が作らせたものと言われます。『筑後入道尊念』(八田知家の法号)が建永年間(1206年~1207年)に作らせたもので、この鐘は三村山清冷院極楽寺(現在のつくば市小田地区)に旧在した可能性が高いとのこと(文献9)。
八田知家とその子 知重の活動拠点は鎌倉だったといいます(文献10)。
そして建久4年(曽我兄弟の仇討ちに伴う混乱に乗じて、八田知家が多気義幹を失脚させた事件のあった年)の後ごろから、八田知家は筑波山麓の北条や小田に拠点を構えたと推察されるそうです(文献10)。その後、子孫は小田氏を名乗り、小田城を居城とします。(あの『常陸の不死鳥』『戦国最弱⁉︎大名』で有名な小田氏治はその子孫です)
また時代が少し下り、三村山清冷院極楽寺に忍性が入ったのは建長四年(1252年)ですが、その忍性は、寛元元年(1243年)27歳の時に、伊豆山(湯走山)権現に身を寄せています!(文献9)。
つまり、鎌倉時代、鎌倉と筑波山南麓地域は、人の行き来もあり、そうすると当然、説話などを伝える人もいたわけです。
ここまでくると、『筑波山麓で金色姫譚が作られ、広められた』と言いたくなります。
しかしながら、小田氏の居城に近い筑波山麓で金色姫譚が生まれたとするには、筑波山に関わるエピソード(ほんどう仙人)の話がほんのわずか過ぎます。
作るならもっと筑波山に関わる話にしそうですが、それがないということは、やはり筑波山付近で金色姫の話が生まれたのではないように、私は思います。(つくば市民としては残念ですが
)
茨城北部と鎌倉との関わりは?
では、同じく常陸国で茨城北部でも、鎌倉と関わる人物や信仰の流れはなかったのでしょうか?
茨城県北にも実は、鎌倉に関わる伝説が伝わっています。
当ブログの以前の記事でも触れていますが
常陸大宮、旧美和村に伝わる、『三浦杉』の話。
→ 常陸大宮 吉田八幡神社の「三浦杉」を訪ねて
鎌倉に急を知らせる犬の伝説(美和村 浄因寺の犬の伝説)
→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
が伝わっています。
例えば、鎌倉の佐竹攻めの時(金砂城の戦い 治承4年(1180年))や奥州合戦(文治5年(1189年))などの時に大きく人の流れがあり、二所権現の信仰や縁起が常陸国の北部にも伝わり、金色姫の原形の話が形づくられたり、この土地に元から伝わる話に、二所権現の縁起が引用され物語が脚色された可能性もありうるのではないでしょうか。
そして茨城北部の海には、川尻の小貝浜があります。
伝説・説話は、なんといっても口承文学です。民衆の要望・信仰等から生まれ・変化し、語りや歌舞など芸能に支えられて、説話も形づくられ広まっていったはずなのですから。
そうするとやはり金色姫譚も同様に、語り歩いた女性宗教者が浮かんできます。
常陸国にそういった人達が、説話として語り歩いたのではないでしょうか。
そして、聞き手の多くは女性。
そもそも養蚕と機織りは古来女性が従事していたので、自分たちに関わりの深い養蚕がらみの話で、しかも主人公が姫、そして継子いじめという民衆に共感される題材。より感情移入して聞き入ったでしょうし、広く受け入れられた話だったのではないでしょうか。
原・金色姫譚はだれによって広められていったのか。説話、語り芸としての金色姫譚
★ 常陸国北部の海岸付近に伝わっていた『原・金色姫譚/貴人漂着譚/養蚕技術に関する伝説』
★ 常陸国北部の山間部に伝わってきた、二所権現信仰・縁起
この二つを融合して、神仏の縁起や功徳を語るために、女性宗教者(尼、巫女など)が特に(継子いじめに共感する)女性信者に向けて、
『金色姫譚』を編み出して、説話として語り継いでいったのではないか
そういう可能性を私は考えます。
ただし、それを語っていった尼さんや巫女さんが、どこの寺社に所属していたのか、どこの寺社の縁起を伝えて布教しようとしていたのかは、
正直分かりません
。
何か文献とか遺跡とか見つかると良いのですが、こればかりは
ただし、以前の記事
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
等で書いたように、常陸国三蚕神社のある土地のなかでは、現時点では、私は日立・川尻付近が一番可能性がありそうに思っています。

(日立市川尻 蚕養神社の近くからの景色 2020年8月撮影)
そして、説話は、聴衆の反応などや状況を見て、細部など変わっていったことでしょう。
★ 金色姫の話についても、そのうち絹織物に対する一種の箔付けで、古来より絹織物で有名な筑波山麓を持ちだし(ブランドを利用)、
『筑波山のほんどう仙人』というキャラクターを創出して、付け加えていったのではないか。
★ そしてそのうち富士山の山岳修行者がこの話を知るようになり、富士山に地理的に近い二所権現(箱根権現・伊豆権現)の縁起にもストーリーが似ているので、富士山信仰を付け加えて語るようになっていったのではないか。
★ 当初はローカルな(常陸国国内?の)女性宗教者による細々とした口伝だったのが、富士山信仰の修験者によって、富士山信仰の部分が
なかば無理やり付け加えられ、富士山信仰拡散の一つのツールとして広く語られ、それが少なくとも15 年頃の時点で京都まで伝わり、
それが幸いなことに記録されたのではないか。
富士山が見えるエリアの養蚕・生糸生産・機織り従事の女性たちにも深く共感されたのかもしれません。
だから富士山信仰の話も挿入したまま、語られていったのでしょう。
私は、常陸国における金色姫譚としての萌芽は鎌倉時代、物語の成長と拡散は鎌倉以降の中世ではないかとするのが、一番妥当だと考えます。
新たな資料が発見されたり、寺院跡などが発掘されたりすると、また違ってくると思いますが、現時点で、自分が知りえるものだけだと、それが一番自然に思います。
まとめ1: 常陸国における金色姫譚の広まりは?
常陸国の中部~北部(現在の茨城県中部~北部)は、静神社、長旛部神社など、織物の神をまつる神社が複数あります。
また奈良時代に編纂された常陸国風土記に載る宿魂石の伝説は、しどり神(織物の神)が「悪神」を退治した話です。
古代から織物が盛んだった土地なのは確かでしょう。
そういったことも踏まえて、以下のような仮説も考えられないでしょうか。
(こう考えるとちょっとワクワクしてきます)
【常陸国での金色姫譚 仮説】
<1> 物語が入ってきた場所もしくは発生した場所と手段
案 ① 海から漂着した人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は現在の蚕養神社のある日立市川尻など、北部の海岸線を考える。
常陸国北部はもともと織物が盛んな地域。そこに(偶然にも?)蚕卵、繭、養蚕技術を持った人たちが入ってきた。
同じく比較的海に近くても、神栖のあたりは桑を育てられる土壌でないので養蚕自体が根づくのは難しく、仮に話が伝えられたとしても、説話は育まれにくかったと思われる。
詳細:以前の記事 →
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
案② 遠流で常陸国に来た流人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は、国府のあった石岡付近か? もしくは流罪なので、国府より(辺境の地である)北の方か?
『筑波山のほんどう仙人』が出てくるので、石岡付近・筑波山付近も候補に考えたいが、ほんどう仙人のくだりがあまりにも短すぎるので、おそらく、筑波山地域では物語は育まれていないのではないと考える)
なので物語が入ってきた場所は、私はやはり常陸国北部、豊浦の地名が伝説としても伝わる日立市川尻付近ではないかと考えています。
<2> 説話が育まれ、伝えられていった方法
蚕の生態の物語を、継子いじめの話として、仏教的要素も加わり、伝え歩く者たちが出てきた。
(尼、巫女など、女性宗教者か) 時代は中世(鎌倉~室町ごろ)か?
もともと、そういう信仰をもって布教する寺社が、常陸国のどこかに当時あって、そこの宗教者が縁起や説話を語って歩いた可能性もある。
継子いじめの話は、箱根・伊豆権現のことも知る宗教者(富士山修験者?)も話作りに加わっているかもしれない。
『筑波山のほんどう仙人』のくだりは、筑波山系の山岳宗教者が関わった可能性もあるし、本当に筑波山麓にいて真綿づくり・絹織物の技術を 持つ人が、実際に常陸国北部に技術を伝るようなこともあったのかもしれない。
しかし、『ほんどう仙人』のくだりは大変短いので、当時、真綿づくり・絹織物で有名だった筑波山麓にあやかり、金色姫譚を語っていた人が『ほんどう仙人から教えられた』と一文を加えただけの可能性が高い気がする。
さらに富士山信仰の宗教者(尼、巫女)や修験者などが、富士山信仰の布教も兼ねて、養蚕を担う女性たちに語って歩いたのかもしれない。
まとめ2: 日本列島における 金色姫伝説の伝播について
私は原・金色姫譚(貴人蚕譚)は、最初は常陸国以外で外国から伝わったか、常陸国以外で生まれたと考えていることは、
本シリーズの最初の時に考察し、仮説を立てました。
詳細
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
そして、原・金色姫譚(貴人蚕譚)が、何らかの形で常陸国に伝わってからのことについて、常陸国三蚕神社の地域に焦点を当てて考察してきました。
詳細
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
最後に、金色姫譚という説話が伝えられていった流れについて、
日本列島及び常陸国で起きたと考えられる仮説を提案して、ひとまず終わりたいと思います。
【金色姫譚の生成・伝播仮説】
※以前書いた
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
での説を一部修正し増補したものです。
(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か? ≪時代不明:古代~中世≫
(案 a1) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)
(案 a2) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話。
※ いずれの場合も、物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明
↓
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(案 b1) (A)の(a1)(a2)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(案 b2) (A)の(a1)(a2)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
伝わり方について
(案1)新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
(案2)養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。
(案3)蚕種を持った人が、九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた。蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。
(案4)流罪で常陸国に流された人・家族・身の回り世話をする人が、生活の糧のために養蚕し、生糸を作り、織物を織った。その技術を後世の人が、先祖を『美化』して伝えた。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(案 c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあり、とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していった。
※ 永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られた ≪時代不明:中世か?≫
この時、『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場したか?
全国的な寺社の縁起の創出(『中世神話』の創出)の流れに乗り、常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られ、聖、神人、尼、巫女などの宗教者によって、説話として語られ、広まっていった。
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:中世?≫
ある時期に (D)で語られていた原・金色姫単に、『筑波山のほんどう仙人』の下りが加わった。
既に絹織物の産地として知られていた筑波山麓のブランドを借用するために『筑波山のほんどう仙人』を説話に入れたか。
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
さらに富士山信仰の宗教者によって、(E) の話に、『欽明天皇の娘のかぐや」のくだりが加えられ、常陸国を出て広められる。
↓
(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる ≪中世≫
室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。
↓
(H) 江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく ≪近世:江戸時代≫
寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。
↓
(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせて、、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教した。
・常陸の川尻にあった蚕養神社の前身の社は、別当寺が水戸藩によって廃止されたことや、地の利の問題もあってか、桑林寺や星福寺のように積極的に外に布教されることがなかった。
従って、金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。
↓
(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。
↓
(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫
明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
広く信仰される。
まだまだ検討の余地は多いのですが、私は、以上のように考えています。
ひとまず、常陸国三蚕神社についての考察と、金色姫伝説についての考察は、これで終わります。
また何か新しい知見を得たら、再び考えてみようと思います
。
********************************************
【参考文献】
1.『神道の中世 伊勢神宮・田神道・中世日本紀』 伊藤聡 著 中公選書
2.『中世神話』 山本ひろ子 著 岩波新書
3.『変成譜 中世神仏習合の世界』
4,『神道集』 貴志正造 訳 東洋文庫94 平凡社
5.『宗教民俗集成6 寺社縁起からお伽話へ』 五来重 角川文庫
6,『流罪の日本史』 渡邊大門 著 筑摩書房
7.『常陸国風土記 全訳注』 秋本吉徳 著 講談社学術文庫
8.『承久の乱 日本史のターニングポイント』 本郷和人 著 文春新書
9.『中世の霞ヶ浦と律宗 よみがえる仏教文化の聖地』 土浦市立博物館
10.『八田知家と名門常陸小田氏 鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史』 土浦市立博物館
『曽我物語 新編日本古典文学全集 53』 小学館
『新編日本古典文学全集 63 室町物語草子集』 小学館
『新日本古典文学大系 54 室町物語集 上』 岩波書店
『新日本古典文学大系 55 室町物語集 下』 岩波書店
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

さて、本回シリーズでは、金色姫譚について、どこで生まれどのように広まっていったのかということについて、
細かく考えてきました。
今回は本シリーズ最後として、日本での民衆の宗教史でもある、「中世神話」と呼ばれるものや、中世の寺社の縁起を集めた「神道集」から
金色姫譚を考え、今回のシリーズの結びとします。
前回までの話









金色姫譚は、養蚕技術と一緒に入ってきたのか? それとも伝説だけが後から入ってきたのか? それとも新たに作られたのか?
ここであらためて今一度、考えたいのが、金色姫譚は、
① 養蚕技術とともに常陸国に入ってきたのか?
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
の、いずれの立場で考えていくか? ということです。
今までずっと、①の、『養蚕技術とともに常陸国に入ってきた』という立場で、更に『海から入ってきた』という視点で、考察してきました。
これは、常陸国三蚕神社に伝わる金色姫譚が、『金色姫が乗ったうつぼ舟が、豊浦に流れ着いた』=『海に漂着した』を彷彿させることと、実際、外海から漂着物や遭難した船が常陸国の海岸に流れ着いた記録も古くからあることから、『海から来た人が養蚕を伝えた』可能性を考えたからです。
しかし、やはり人の流れとともに、養蚕技術や知識(伝説も含む)は『陸』伝いで入ってきたというのが、一番自然でしょう。
伝説の伝播だけを考えるなら、養蚕技術伝播とは別の、②や③の可能性も考えないといけません。
なので、シリーズ最終回の今回では、この
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
について考えてみます。
中世神話とは? 金色姫譚とどう関わるのか?
私も勉強しながら知りましたが、日本では中世(鎌倉・室町時代ごろ)に、寺社の縁起を再編する動きが盛んにおこなわれたそうです。これは『中世神話』とも呼ばれます(文献1,2,3,4,5)。
このように再編されたり新たに作られた縁起は、聖、巫女、尼、神人という末端の宗教者が村々を回り、人々に物語を語り広めていったそうです
(文献4,5)。
原・金色姫譚についても、こういう人々が外から常陸国の中へ話を伝えてきたのかもしれませんし、または、常陸国のどこかで話を(既にある何かの説話の影響を受けながらも)創作し、伝えていった可能性も考えられます。
あまりにも大きいテーマなので、私の手には負えませんが

復習:養蚕にからむ貴種譚(原・金色姫譚)の、常陸国への伝播・・・伝わってきたのは海からか?陸からか?
伝説の伝播については、今回のシリーズの前半




で考察し、仮説を提案してみました。
私は、日本列島へは、原・金色姫譚(貴種漂着譚)は、外国から(=海経由で)伝わったか、もしくは、何か史実的なことから原・金色姫譚(貴種漂着譚)が生まれたのではないかと考えています。そして、それは多分、養蚕技術・知識と一緒に入ってきたと考えています。
そしてそのように生まれた 原・金色姫譚(貴種漂着譚)が、常陸国に伝わったと考えていました。
常陸国/茨城の海岸線には、海流の影響もあって古来から漂着物が多く、船に乗った漂流者がたどり着く例も多かったので、『海からウツボ舟で漂着した金色姫』のイメージから、『海から伝わった』可能性に着目したからです。
しかし、当然陸続きなので、陸から常陸国に入ってきた人が、養蚕技術・知識と共に伝説を伝えることもあり得ます。
また、養蚕技術・知識とは別に、原・金色姫譚だけが、それを語る人々によって常陸国にもたらされたことも考えられますし、新たに常陸国の中で生まれた可能性もあります。
普通は、常陸国に入植した養蚕の知識を持った人が伝説も伝えたとか、そういう説話を語る宗教者が常陸国に来て、語って歩いたというのが一般的に考えられることでしょう。
しかし、常陸国はまた、古来から「遠流」の地でもありました。
つまり、刑を受けて、都から遠く離れた地に送られてくる、その地でもあったわけです。
文字通り「漂流者・漂着者」の他に、「遠流」で常陸国に「流れてきた」人もいたわけですし、『漂着』『流れ着いた』というのはそういった人の比喩かもしれません。
伝えたのは遠流の地 常陸国に流罪で送られてきた流人?
一般的には、養蚕の知識や技術は、 養蚕の そういった知識を持った人が入植したとか、知識を持った人から 何らかの形で教わったと考えられるでしょう。
『知識をもった人から』教わることを考える場合、ちょっとセンセーショナルかもしれませんが、常陸国に流罪に送られてきた流人やその周りの人から教わる・・・ということは考えられないでしょうか。
これもあながち荒唐無稽ではないかと思うのです。
『流刑地に流れ着いた』 → 『海から流れ着いた』として、後世の子孫や何か(信仰関係?)の関係者が金色姫伝説を作ったり脚色した可能性もありそうではありませんか?
流刑は死罪に次ぐ重い罪で、罪の重さによって、京の都から近いか遠いかで流刑地が決まり、
死罪に次ぐ重い罪の遠流の地は、伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国などがありました(文献6)。
古代から中世の時代、流罪はそれなりの身分の人に課せられたようで、常陸国に流罪で送られてきた人も比較的身分の高い人だったと考えられます。
身分がそれなりに高い罪人が流罪になった有名な例が、伊豆国に送られて、その地で生活していた源頼朝ですね。
流人だった源頼朝が東国の武士達と共に東国に『鎌倉幕府』なるものを作った。これは教科書にも載っている史実。
流人の存在は馬鹿にならない良い例です。
常陸国への流罪の例について見てみますと、時代は遡って古代になります。
常陸国風土記の行方郡の項に
『飛鳥の浄見原の天皇の世、麻続王を遣らひて居処らしめき』
という記述があります(文献7)。
続麻王(をみのみこ)とは、文献7の注釈によると、
『「天武紀」四年四月の条に「三位麻続王罪有り。稲葉に流す。一の子をは伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋に流す』とあり(中略) 「大系」は「イナバ(因幡国・下総国印波)・イラゴ・イタコと類似地名によって伝承が流伝したのであろう」とするが定かでない』
とあり、続麻王は流罪になった人ということは確かなようです。
さて、流罪の地に配流された人は妻子を伴ってその地に送られることも多く、その地で労働して生活をします(文献6)。
労働経験のない貴族など、大変な『苦役』な訳ですね。
家族以外にも身の回りのことをする使役人もわずかに連れて行った場合もあるかと思います。
私は思うのですが、配流された人で、蚕の卵とともに養蚕技術の知識を持つ人(妻なども含め)がいた可能性もあったのではないでしょうか。
(具体的にどういった人々が常陸国に流罪で送られてきたのか、常陸国でどのような生活をしたのか、何か記録があるのかは知りたいです)
都から来た人達の中には、蚕を飼って糸を紡ぎ、絹織物を織る知識を持っていたり、実際に技術を持つ人もい手も不思議ではありません。
それを生活の糧にしたことも当然考えられます。
伝説通り『海から漂着した』人もいたかもしれませんが、流罪になった先祖を美化して伝説化して伝えていき、いつしか説話(原・金色姫譚)として、常陸国の中で語られ、人口に膾炙して広まっていった・・・という可能性もあるのではないでしょうか。
中世神話の創生期の中で、原・金色姫譚が常陸国で作られた可能性
さて、鎌倉時代から室町時代にかけて、国内の寺社では、寺社の縁起を再構築する動きが大々的に行われ、
日本神話や仏典をもとに、さらに縁起を作り直す動きがありました。
そうやって再構築された縁起を「中世神話」は呼ばれと先に書きました(文献1、2、3、4、5)。
私たちが現在、見聞きする寺社の縁起は、このように中世に作り直された話も多いとのこと。
当時は神仏混交の頃でしたが、それぞれの寺社縁起については、仏教色を強くするか日本神話的な話を強くするかは、それぞれの思惑や考えがあったようです。
金色姫の話についてみると、金色姫の生まれはインドかその近辺の国です。
また、ストーリーの最後の方は明らかに仏教色が強くなるので、やはり仏を信仰する人たちが語り伝えていったのでしょう。

→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
そういう時代の動きの中で、原・金色姫譚が、常陸国で生み出され、広められていった可能性もありえます。
金色姫譚に似たモチーフの説話の存在 二所権現(箱根権現・伊豆権現)縁起との類似性
さて、説話や寺社縁起を調べているうちに、金色姫譚によく似たモチーフの話を縁起とする寺社があるのに気づきました

室町時代の説話・または寺社の縁起の中には、継母に虐められる継子が、神仏に救われたり守られたりする話があります。
継子いじめ譚と呼ばれる系譜です。
金色姫の話も明らかに『継子いじめ』の物語です。
金色姫譚では、継母にいじめられた金色姫を、父王が継母から逃がすために、「うつぼ舟」の乗せて海に流します。
(寺社説話に継子いじめ譚は、なぜか父王は後妻=継母を罰することが出来ないのです・・・現代人には不思議過ぎるのですが)
それで、これにとても似た縁起を持つのが、箱根山権現と伊豆山権現の縁起なのです。
ちなみに、箱根山権現は現在の箱根神社、伊豆山権現は現在の伊豆山神社です(文献4、5)。
(伊豆山神社 2015年1月撮影)
こちらは主人公は複数いるのですが、インドのある国に生まれた王族で、継母からのいじめの方法も金色姫の場合と酷似しています。
そして、写本によりストーリーに多少違いがあるようですが、彰考館本と呼ばれる写本では、『桑のうつぼ舟』に乗って伊豆のめらの崎という場所に『流れ着く』とのこと。
金色姫端と二所権現の縁起、どちらが先か分かりませんが、どちらかが影響を受けて生まれたか、または共通の説話のようなものがあったとしか思えません。
また文献5によると、箱根山権現と伊豆山権現の縁起が作られた時期は、鎌倉時代中期までさかのぼれるとのこと。
さて、当時、寺社の縁起は、その寺の仏の功徳を伝える説話として、その寺院に円の深い宗教者、特に尼、巫女、など女性の宗教者によって、語られたり、歌われたり、絵解きがされながら、広まった考えられています(文献4 他)。
特に、継子いじめなどの話は、女性に大変人気があったそうで、当時つらい境遇の人々が多い中、聞きながらわが身に重ねて聞いた人がとても多かったのでしょう。
有名な曽我物語なども、尼、巫女、など女性の宗教者によって伝えられていったそうで、二所権現縁起も同様のようです(文献4,5 他)
筑波山麓で生まれた可能性は?
箱根山権現と伊豆山権現は、二つ合わせて『二所権現』と呼ばれ、この『二所権現』への信仰がとても篤かったのが源頼朝で、源頼朝とともに東国に武士の世を作った伊豆・相模・武蔵の武士の信仰も篤かったそうです(文献8)。
つまり、鎌倉の御家人にも二所権現信仰が広まった?
すると鎌倉殿の御家人の一人、常陸国の八田知家(小田氏の祖)も影響を受けて二所権現信仰を知っていたか、同じく信仰した可能性があるのではないか?
そうして二所権現縁起と似たモチーフが常陸国で生まれて語られる土壌が生まれたのではないか?
・・・そういう妄想もあながち不自然ではない?
実際、土浦市にある等学寺にある鎌倉時代前期に作られた梵鐘がありますが、これは八田知家が作らせたものと言われます。『筑後入道尊念』(八田知家の法号)が建永年間(1206年~1207年)に作らせたもので、この鐘は三村山清冷院極楽寺(現在のつくば市小田地区)に旧在した可能性が高いとのこと(文献9)。
八田知家とその子 知重の活動拠点は鎌倉だったといいます(文献10)。
そして建久4年(曽我兄弟の仇討ちに伴う混乱に乗じて、八田知家が多気義幹を失脚させた事件のあった年)の後ごろから、八田知家は筑波山麓の北条や小田に拠点を構えたと推察されるそうです(文献10)。その後、子孫は小田氏を名乗り、小田城を居城とします。(あの『常陸の不死鳥』『戦国最弱⁉︎大名』で有名な小田氏治はその子孫です)
また時代が少し下り、三村山清冷院極楽寺に忍性が入ったのは建長四年(1252年)ですが、その忍性は、寛元元年(1243年)27歳の時に、伊豆山(湯走山)権現に身を寄せています!(文献9)。
つまり、鎌倉時代、鎌倉と筑波山南麓地域は、人の行き来もあり、そうすると当然、説話などを伝える人もいたわけです。
ここまでくると、『筑波山麓で金色姫譚が作られ、広められた』と言いたくなります。
しかしながら、小田氏の居城に近い筑波山麓で金色姫譚が生まれたとするには、筑波山に関わるエピソード(ほんどう仙人)の話がほんのわずか過ぎます。
作るならもっと筑波山に関わる話にしそうですが、それがないということは、やはり筑波山付近で金色姫の話が生まれたのではないように、私は思います。(つくば市民としては残念ですが

茨城北部と鎌倉との関わりは?
では、同じく常陸国で茨城北部でも、鎌倉と関わる人物や信仰の流れはなかったのでしょうか?
茨城県北にも実は、鎌倉に関わる伝説が伝わっています。
当ブログの以前の記事でも触れていますが

→ 常陸大宮 吉田八幡神社の「三浦杉」を訪ねて

→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
が伝わっています。
例えば、鎌倉の佐竹攻めの時(金砂城の戦い 治承4年(1180年))や奥州合戦(文治5年(1189年))などの時に大きく人の流れがあり、二所権現の信仰や縁起が常陸国の北部にも伝わり、金色姫の原形の話が形づくられたり、この土地に元から伝わる話に、二所権現の縁起が引用され物語が脚色された可能性もありうるのではないでしょうか。
そして茨城北部の海には、川尻の小貝浜があります。
伝説・説話は、なんといっても口承文学です。民衆の要望・信仰等から生まれ・変化し、語りや歌舞など芸能に支えられて、説話も形づくられ広まっていったはずなのですから。
そうするとやはり金色姫譚も同様に、語り歩いた女性宗教者が浮かんできます。
常陸国にそういった人達が、説話として語り歩いたのではないでしょうか。
そして、聞き手の多くは女性。
そもそも養蚕と機織りは古来女性が従事していたので、自分たちに関わりの深い養蚕がらみの話で、しかも主人公が姫、そして継子いじめという民衆に共感される題材。より感情移入して聞き入ったでしょうし、広く受け入れられた話だったのではないでしょうか。
原・金色姫譚はだれによって広められていったのか。説話、語り芸としての金色姫譚
★ 常陸国北部の海岸付近に伝わっていた『原・金色姫譚/貴人漂着譚/養蚕技術に関する伝説』
★ 常陸国北部の山間部に伝わってきた、二所権現信仰・縁起
この二つを融合して、神仏の縁起や功徳を語るために、女性宗教者(尼、巫女など)が特に(継子いじめに共感する)女性信者に向けて、
『金色姫譚』を編み出して、説話として語り継いでいったのではないか
そういう可能性を私は考えます。
ただし、それを語っていった尼さんや巫女さんが、どこの寺社に所属していたのか、どこの寺社の縁起を伝えて布教しようとしていたのかは、
正直分かりません

何か文献とか遺跡とか見つかると良いのですが、こればかりは

ただし、以前の記事
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
等で書いたように、常陸国三蚕神社のある土地のなかでは、現時点では、私は日立・川尻付近が一番可能性がありそうに思っています。

(日立市川尻 蚕養神社の近くからの景色 2020年8月撮影)
そして、説話は、聴衆の反応などや状況を見て、細部など変わっていったことでしょう。
★ 金色姫の話についても、そのうち絹織物に対する一種の箔付けで、古来より絹織物で有名な筑波山麓を持ちだし(ブランドを利用)、
『筑波山のほんどう仙人』というキャラクターを創出して、付け加えていったのではないか。
★ そしてそのうち富士山の山岳修行者がこの話を知るようになり、富士山に地理的に近い二所権現(箱根権現・伊豆権現)の縁起にもストーリーが似ているので、富士山信仰を付け加えて語るようになっていったのではないか。
★ 当初はローカルな(常陸国国内?の)女性宗教者による細々とした口伝だったのが、富士山信仰の修験者によって、富士山信仰の部分が
なかば無理やり付け加えられ、富士山信仰拡散の一つのツールとして広く語られ、それが少なくとも15 年頃の時点で京都まで伝わり、
それが幸いなことに記録されたのではないか。
富士山が見えるエリアの養蚕・生糸生産・機織り従事の女性たちにも深く共感されたのかもしれません。
だから富士山信仰の話も挿入したまま、語られていったのでしょう。
私は、常陸国における金色姫譚としての萌芽は鎌倉時代、物語の成長と拡散は鎌倉以降の中世ではないかとするのが、一番妥当だと考えます。
新たな資料が発見されたり、寺院跡などが発掘されたりすると、また違ってくると思いますが、現時点で、自分が知りえるものだけだと、それが一番自然に思います。
まとめ1: 常陸国における金色姫譚の広まりは?
常陸国の中部~北部(現在の茨城県中部~北部)は、静神社、長旛部神社など、織物の神をまつる神社が複数あります。
また奈良時代に編纂された常陸国風土記に載る宿魂石の伝説は、しどり神(織物の神)が「悪神」を退治した話です。
古代から織物が盛んだった土地なのは確かでしょう。
そういったことも踏まえて、以下のような仮説も考えられないでしょうか。
(こう考えるとちょっとワクワクしてきます)
【常陸国での金色姫譚 仮説】
<1> 物語が入ってきた場所もしくは発生した場所と手段
案 ① 海から漂着した人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は現在の蚕養神社のある日立市川尻など、北部の海岸線を考える。
常陸国北部はもともと織物が盛んな地域。そこに(偶然にも?)蚕卵、繭、養蚕技術を持った人たちが入ってきた。
同じく比較的海に近くても、神栖のあたりは桑を育てられる土壌でないので養蚕自体が根づくのは難しく、仮に話が伝えられたとしても、説話は育まれにくかったと思われる。
詳細:以前の記事 →


案② 遠流で常陸国に来た流人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は、国府のあった石岡付近か? もしくは流罪なので、国府より(辺境の地である)北の方か?
『筑波山のほんどう仙人』が出てくるので、石岡付近・筑波山付近も候補に考えたいが、ほんどう仙人のくだりがあまりにも短すぎるので、おそらく、筑波山地域では物語は育まれていないのではないと考える)
なので物語が入ってきた場所は、私はやはり常陸国北部、豊浦の地名が伝説としても伝わる日立市川尻付近ではないかと考えています。
<2> 説話が育まれ、伝えられていった方法
蚕の生態の物語を、継子いじめの話として、仏教的要素も加わり、伝え歩く者たちが出てきた。
(尼、巫女など、女性宗教者か) 時代は中世(鎌倉~室町ごろ)か?
もともと、そういう信仰をもって布教する寺社が、常陸国のどこかに当時あって、そこの宗教者が縁起や説話を語って歩いた可能性もある。
継子いじめの話は、箱根・伊豆権現のことも知る宗教者(富士山修験者?)も話作りに加わっているかもしれない。
『筑波山のほんどう仙人』のくだりは、筑波山系の山岳宗教者が関わった可能性もあるし、本当に筑波山麓にいて真綿づくり・絹織物の技術を 持つ人が、実際に常陸国北部に技術を伝るようなこともあったのかもしれない。
しかし、『ほんどう仙人』のくだりは大変短いので、当時、真綿づくり・絹織物で有名だった筑波山麓にあやかり、金色姫譚を語っていた人が『ほんどう仙人から教えられた』と一文を加えただけの可能性が高い気がする。
さらに富士山信仰の宗教者(尼、巫女)や修験者などが、富士山信仰の布教も兼ねて、養蚕を担う女性たちに語って歩いたのかもしれない。
まとめ2: 日本列島における 金色姫伝説の伝播について
私は原・金色姫譚(貴人蚕譚)は、最初は常陸国以外で外国から伝わったか、常陸国以外で生まれたと考えていることは、
本シリーズの最初の時に考察し、仮説を立てました。
詳細



そして、原・金色姫譚(貴人蚕譚)が、何らかの形で常陸国に伝わってからのことについて、常陸国三蚕神社の地域に焦点を当てて考察してきました。
詳細





最後に、金色姫譚という説話が伝えられていった流れについて、
日本列島及び常陸国で起きたと考えられる仮説を提案して、ひとまず終わりたいと思います。
【金色姫譚の生成・伝播仮説】
※以前書いた

での説を一部修正し増補したものです。
(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か? ≪時代不明:古代~中世≫
(案 a1) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)
(案 a2) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話。
※ いずれの場合も、物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明
↓
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(案 b1) (A)の(a1)(a2)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(案 b2) (A)の(a1)(a2)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
伝わり方について
(案1)新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
(案2)養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。
(案3)蚕種を持った人が、九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた。蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。
(案4)流罪で常陸国に流された人・家族・身の回り世話をする人が、生活の糧のために養蚕し、生糸を作り、織物を織った。その技術を後世の人が、先祖を『美化』して伝えた。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(案 c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあり、とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していった。
※ 永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られた ≪時代不明:中世か?≫
この時、『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場したか?
全国的な寺社の縁起の創出(『中世神話』の創出)の流れに乗り、常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られ、聖、神人、尼、巫女などの宗教者によって、説話として語られ、広まっていった。
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:中世?≫
ある時期に (D)で語られていた原・金色姫単に、『筑波山のほんどう仙人』の下りが加わった。
既に絹織物の産地として知られていた筑波山麓のブランドを借用するために『筑波山のほんどう仙人』を説話に入れたか。
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
さらに富士山信仰の宗教者によって、(E) の話に、『欽明天皇の娘のかぐや」のくだりが加えられ、常陸国を出て広められる。
↓
(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる ≪中世≫
室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。
↓
(H) 江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく ≪近世:江戸時代≫
寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。
↓
(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせて、、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教した。
・常陸の川尻にあった蚕養神社の前身の社は、別当寺が水戸藩によって廃止されたことや、地の利の問題もあってか、桑林寺や星福寺のように積極的に外に布教されることがなかった。
従って、金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。
↓
(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。
↓
(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫
明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
広く信仰される。
まだまだ検討の余地は多いのですが、私は、以上のように考えています。
ひとまず、常陸国三蚕神社についての考察と、金色姫伝説についての考察は、これで終わります。
また何か新しい知見を得たら、再び考えてみようと思います

********************************************
【参考文献】
1.『神道の中世 伊勢神宮・田神道・中世日本紀』 伊藤聡 著 中公選書
2.『中世神話』 山本ひろ子 著 岩波新書
3.『変成譜 中世神仏習合の世界』
4,『神道集』 貴志正造 訳 東洋文庫94 平凡社
5.『宗教民俗集成6 寺社縁起からお伽話へ』 五来重 角川文庫
6,『流罪の日本史』 渡邊大門 著 筑摩書房
7.『常陸国風土記 全訳注』 秋本吉徳 著 講談社学術文庫
8.『承久の乱 日本史のターニングポイント』 本郷和人 著 文春新書
9.『中世の霞ヶ浦と律宗 よみがえる仏教文化の聖地』 土浦市立博物館
10.『八田知家と名門常陸小田氏 鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史』 土浦市立博物館
『曽我物語 新編日本古典文学全集 53』 小学館
『新編日本古典文学全集 63 室町物語草子集』 小学館
『新日本古典文学大系 54 室町物語集 上』 岩波書店
『新日本古典文学大系 55 室町物語集 下』 岩波書店
2022年05月14日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。

常陸国三蚕神社を考える3つ目は、地元、つくば市の蚕影山(蚕影)神社です。
(写真は2021年10月下旬撮影)
蚕影山神社か?蚕影神社か? 名前が2通りありますが、当ブログでは、『蚕影山神社』で統一して書きます。
蚕影山神社(蚕影神社)については、以前、詳細に取り上げました。
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
これらの記事と重複する部分もありますので、適宜、それをご覧頂きながら、今回のシリーズのメインテーマ、金色姫譚は常陸国のどこに伝わり育まれたか?について、蚕影山神社とその地域の可能性を考えていきます。
まず結論から言うと、すでに
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
で書きましたが、常陸国三蚕神社の中では、筑波山麓・蚕影山神社付近の可能性は低いと考えています。
それは何故かについても含めて、以下述べます。
【金色姫譚は、筑波山/筑波山麓(蚕影山)が本場なのか?】

<写真は、蚕影山神社境内に奉納されている絵馬や額の数々。写真中央は、金色姫譚の一場面を描いた絵馬。(2021年10月下旬撮影)>
今に伝わる金色姫譚は、筑波山系の蚕影山で生まれたと思われることも多いようです。実際、金色姫譚にまつわる祠なども、蚕影山神社の付近に点在(詳細: 以前の記事 → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 )するので、尚更ロマンを感じるのかもしれません
。
加えて、
● 古来から絹織物が盛んだった筑波山麓から絹織物が古来から収められている物的証拠が実際、正倉院に残っている。
● 万葉集にも、筑波山麓の養蚕・絹生産を直接感じさせる歌がある。
『万葉集 巻第十四 3350番 筑波嶺の 新桑繭の衣はあれど 君がみ衣しし あやに着欲も』 (文献1)
ということから、当然、筑波山麓では古来から『養蚕や織物に関する信仰』もあるはずと考えるからでしょう。
確かにそうではありますが、その『養蚕や織物に関する信仰』が、金色姫譚と関係があったかどうかは分かりません
。
別の信仰があった可能性も大きいですし、実際、伝わっていた別の伝説もあります(後述)。

<写真は、筑波山南麓から蚕影山を望む (2018年4月撮影)>
そして、たとえ素直に伝説を信じて『ここまで内海が来ていた』としても、外洋からここまで、漂着物が直接流れ着くとは、地形的に考え難い
。
(外洋から内海=現在の霞ヶ浦 に入り、桜川を遡って、『意図的に』舟を漕いで入ってくるなら分かりますが)
以前の記事
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
で詳述しましたが、この地においては、
★江戸時代中頃、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、金色姫譚も加えて布教したらしいと考えられる。
★『筑波山名跡誌』 安永九年(1780年)刊 (桑林寺が布教を始めたらしい時期の少し以前の頃に成立)には、金色姫譚については何も触れらおらず、全く別の蚕にまつわる伝説(後述)が記載されている。(文献2)
ことが言えます。
さて、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の『廿八社略縁誌巻之二』という書の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあり、『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた話を記しているがとのこと。
加えて社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』も上げられているとの記載があるそうです(文献3)。
つまり、1781年頃(『筑波山名跡誌」成立の頃)~1797年頃(『廿八社略縁誌巻之二』成立の頃)の16年間位の間に、
この筑波山麓・蚕影山で、金色姫譚が流布・巷説されるようになったと考えられないでしょうか。
そしてこの時期は、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、蚕影山明神の布教を広げた時期と同じ頃なのです。
現時点で分かっている、金色姫譚が記録されている最も古い記録は、このシリーズでも何度か触れてきましたが、永禄元年(1558年) 年成立の『戒言(かいこ)』で、『各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた』云々のくだりもすでにあります(文献4)。

<写真は、桑林寺跡付近。2019年3月撮影>
1558年頃と1797年頃では、約240年もの間があり、その間 『戒言』(金色姫譚)はどう広められていったのか?というミッシングリングは埋まりませんが、240年後の江戸中期、桑林寺が蚕影山明神の布教を本気でしようとした場合、やはり『筑波山のほんどう仙人』が出てくる『戒言』の金色姫をも習合して布教したのではないでしょうか。
もしかすると、『戒言』(金色姫譚)は当時、既に全国的に知られていた話だったのかもしれません。
また江戸時代になり、筑波山(当時は中禅寺)参詣者が増えて、同時に筑波山麓の桑林寺・蚕影山神社への参拝者も結構いたのかもしれません。
そこで、テーマパークのように、金色姫譚にちなんだ名所・祠を、当時の境内やその付近に作ったのではないでしょうか。
(テーマパーク的な施設というか演出は、『疑似体験する』という体験をするわけで、宗教施設としても重要です)
以上の見てきたように、つくば市民の私としては残念ですが
、筑波山麓・蚕影山神社付近が、『金色姫譚発祥の地』とするのは無理があると私は考えます。
しかし、この地で古くから養蚕・絹織物生産が行われたのははっきりしていますし、民衆の信仰の歴史を考える上でも魅力的な土地であることに、変わりはありません
。
事実、安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』にも、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』
とあり、金色姫譚があろうがなかろうが、この地は古くから、『日本養蚕の始まり』と言われてきたのも事実なのですから
。
(なお、この地に金色姫譚とは別に伝わる伝説については、後述する【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】もお読み下さい)
【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】
金色姫譚とは別の、蚕にまつわる伝説です。
以前の記事(蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議 http://cardamom.tsukuba.ch/e332790.html)より抜粋
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説のあらすじ(文献2)
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
金色姫譚と似ているところは、あえて言えば、
・船/舟 に乗ってきた
・1つの玉(繭的なもの)を残していなくなった(去った/亡くなった)
だけです。
そして、
・神人が残した「玉」を、村人は祀った
・「玉」は昼夜光り輝き、光が至る所に、蚕と桑が生じた。
・「玉」はワカムスビノミコト(日本神話の神)である。
のくだりは、金色姫譚とは違う系統の伝説だということが分かります。
この伝説は少なくとも、『筑波山名跡誌』が成立した1772年~1781年頃には伝わっているのははっきりしています。
しかし、どういう理由からか伝えられなくなった もしくは、金色姫譚に取って代わられたようです。
それで、注目したいのは、あらすじの冒頭
『ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った』
の部分です。
この地の絹が、正倉院に納められてること、万葉集にも謳われていることなど、古代から養蚕・絹生産の地であったのは確かです。
そして、養蚕技術がこの地に伝わった可能性として、蚕の卵と養蚕技術を持った人達が、
『外洋から、内海=現在の霞ヶ浦に入り、桜川を遡って、舟で「意図的に」漕いで入ってきた』
ということを伝説化して伝えてきたということは、十分考えられます。

筑波山は、海からもランドマークとしてよく見え、銚子の漁師さん達も古くから筑波山を信仰していると聞きます。
<写真は、霞ヶ浦の入り口・潮来付近から筑波山を望む(2022年1月上旬撮影)>
『あの山の麓なら、蚕を育てる桑の木もあるだろうし、桑をたくさん栽培して蚕もたくさん育てられるだろう』
そう思って、筑波山を目指して、内海(今の霞ヶ浦)の注ぐ川(例えば桜川)を舟
で遡って筑波山麓に入り、ここに入植して桑を育て
、蚕を育て、絹を作った人々がいた。
・・・こちらの方が自然に納得できます
。

<写真は、桜川(つくば市小田付近)から筑波山を望む(2019年7月撮影)>
なので、筑波山麓の伝説としては、金色姫譚とは別の伝説であるこちらの話に、個人的には注目したいです
。
(しかし、これ以上の情報は伝わっていないようなのが残念・・・)
日立・蠶養神社、神栖・蠶霊神社、そして今回の つくば・蚕霊山神社を、それぞれ個別に見てきました。
以上で、金色姫譚と常陸国蚕三神社のそれぞれの関係については、ひとまず筆をおきます。
次回は、このシリーズの
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
で述べた仮説を再考し、今までの総括も含め、金色姫譚が流布された背景・時代について考察し、まとめたいと思います。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
-----------------------------
【参考文献】
1.『万葉集 常陸の歌 -作品解釈と鑑賞へのしるべ- 上』 有馬徳 著 筑波書林
2.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
3.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86
『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話








物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています


常陸国三蚕神社を考える3つ目は、地元、つくば市の蚕影山(蚕影)神社です。
(写真は2021年10月下旬撮影)
蚕影山神社か?蚕影神社か? 名前が2通りありますが、当ブログでは、『蚕影山神社』で統一して書きます。
蚕影山神社(蚕影神社)については、以前、詳細に取り上げました。
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
これらの記事と重複する部分もありますので、適宜、それをご覧頂きながら、今回のシリーズのメインテーマ、金色姫譚は常陸国のどこに伝わり育まれたか?について、蚕影山神社とその地域の可能性を考えていきます。
まず結論から言うと、すでに
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
で書きましたが、常陸国三蚕神社の中では、筑波山麓・蚕影山神社付近の可能性は低いと考えています。
それは何故かについても含めて、以下述べます。
【金色姫譚は、筑波山/筑波山麓(蚕影山)が本場なのか?】

<写真は、蚕影山神社境内に奉納されている絵馬や額の数々。写真中央は、金色姫譚の一場面を描いた絵馬。(2021年10月下旬撮影)>
今に伝わる金色姫譚は、筑波山系の蚕影山で生まれたと思われることも多いようです。実際、金色姫譚にまつわる祠なども、蚕影山神社の付近に点在(詳細: 以前の記事 → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 )するので、尚更ロマンを感じるのかもしれません

加えて、
● 古来から絹織物が盛んだった筑波山麓から絹織物が古来から収められている物的証拠が実際、正倉院に残っている。
● 万葉集にも、筑波山麓の養蚕・絹生産を直接感じさせる歌がある。
『万葉集 巻第十四 3350番 筑波嶺の 新桑繭の衣はあれど 君がみ衣しし あやに着欲も』 (文献1)
ということから、当然、筑波山麓では古来から『養蚕や織物に関する信仰』もあるはずと考えるからでしょう。
確かにそうではありますが、その『養蚕や織物に関する信仰』が、金色姫譚と関係があったかどうかは分かりません

別の信仰があった可能性も大きいですし、実際、伝わっていた別の伝説もあります(後述)。

<写真は、筑波山南麓から蚕影山を望む (2018年4月撮影)>
そして、たとえ素直に伝説を信じて『ここまで内海が来ていた』としても、外洋からここまで、漂着物が直接流れ着くとは、地形的に考え難い

(外洋から内海=現在の霞ヶ浦 に入り、桜川を遡って、『意図的に』舟を漕いで入ってくるなら分かりますが)
以前の記事
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
で詳述しましたが、この地においては、
★江戸時代中頃、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、金色姫譚も加えて布教したらしいと考えられる。
★『筑波山名跡誌』 安永九年(1780年)刊 (桑林寺が布教を始めたらしい時期の少し以前の頃に成立)には、金色姫譚については何も触れらおらず、全く別の蚕にまつわる伝説(後述)が記載されている。(文献2)
ことが言えます。
さて、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の『廿八社略縁誌巻之二』という書の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあり、『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた話を記しているがとのこと。
加えて社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』も上げられているとの記載があるそうです(文献3)。
つまり、1781年頃(『筑波山名跡誌」成立の頃)~1797年頃(『廿八社略縁誌巻之二』成立の頃)の16年間位の間に、
この筑波山麓・蚕影山で、金色姫譚が流布・巷説されるようになったと考えられないでしょうか。
そしてこの時期は、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、蚕影山明神の布教を広げた時期と同じ頃なのです。
現時点で分かっている、金色姫譚が記録されている最も古い記録は、このシリーズでも何度か触れてきましたが、永禄元年(1558年) 年成立の『戒言(かいこ)』で、『各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた』云々のくだりもすでにあります(文献4)。

<写真は、桑林寺跡付近。2019年3月撮影>
1558年頃と1797年頃では、約240年もの間があり、その間 『戒言』(金色姫譚)はどう広められていったのか?というミッシングリングは埋まりませんが、240年後の江戸中期、桑林寺が蚕影山明神の布教を本気でしようとした場合、やはり『筑波山のほんどう仙人』が出てくる『戒言』の金色姫をも習合して布教したのではないでしょうか。
もしかすると、『戒言』(金色姫譚)は当時、既に全国的に知られていた話だったのかもしれません。
また江戸時代になり、筑波山(当時は中禅寺)参詣者が増えて、同時に筑波山麓の桑林寺・蚕影山神社への参拝者も結構いたのかもしれません。
そこで、テーマパークのように、金色姫譚にちなんだ名所・祠を、当時の境内やその付近に作ったのではないでしょうか。
(テーマパーク的な施設というか演出は、『疑似体験する』という体験をするわけで、宗教施設としても重要です)
以上の見てきたように、つくば市民の私としては残念ですが

しかし、この地で古くから養蚕・絹織物生産が行われたのははっきりしていますし、民衆の信仰の歴史を考える上でも魅力的な土地であることに、変わりはありません

事実、安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』にも、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』
とあり、金色姫譚があろうがなかろうが、この地は古くから、『日本養蚕の始まり』と言われてきたのも事実なのですから

(なお、この地に金色姫譚とは別に伝わる伝説については、後述する【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】もお読み下さい)
【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】
金色姫譚とは別の、蚕にまつわる伝説です。
以前の記事(蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議 http://cardamom.tsukuba.ch/e332790.html)より抜粋
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説のあらすじ(文献2)
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
金色姫譚と似ているところは、あえて言えば、
・船/舟 に乗ってきた
・1つの玉(繭的なもの)を残していなくなった(去った/亡くなった)
だけです。
そして、
・神人が残した「玉」を、村人は祀った
・「玉」は昼夜光り輝き、光が至る所に、蚕と桑が生じた。
・「玉」はワカムスビノミコト(日本神話の神)である。
のくだりは、金色姫譚とは違う系統の伝説だということが分かります。
この伝説は少なくとも、『筑波山名跡誌』が成立した1772年~1781年頃には伝わっているのははっきりしています。
しかし、どういう理由からか伝えられなくなった もしくは、金色姫譚に取って代わられたようです。
それで、注目したいのは、あらすじの冒頭
『ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った』
の部分です。
この地の絹が、正倉院に納められてること、万葉集にも謳われていることなど、古代から養蚕・絹生産の地であったのは確かです。
そして、養蚕技術がこの地に伝わった可能性として、蚕の卵と養蚕技術を持った人達が、
『外洋から、内海=現在の霞ヶ浦に入り、桜川を遡って、舟で「意図的に」漕いで入ってきた』
ということを伝説化して伝えてきたということは、十分考えられます。

筑波山は、海からもランドマークとしてよく見え、銚子の漁師さん達も古くから筑波山を信仰していると聞きます。
<写真は、霞ヶ浦の入り口・潮来付近から筑波山を望む(2022年1月上旬撮影)>
『あの山の麓なら、蚕を育てる桑の木もあるだろうし、桑をたくさん栽培して蚕もたくさん育てられるだろう』
そう思って、筑波山を目指して、内海(今の霞ヶ浦)の注ぐ川(例えば桜川)を舟


・・・こちらの方が自然に納得できます


<写真は、桜川(つくば市小田付近)から筑波山を望む(2019年7月撮影)>
なので、筑波山麓の伝説としては、金色姫譚とは別の伝説であるこちらの話に、個人的には注目したいです

(しかし、これ以上の情報は伝わっていないようなのが残念・・・)
日立・蠶養神社、神栖・蠶霊神社、そして今回の つくば・蚕霊山神社を、それぞれ個別に見てきました。
以上で、金色姫譚と常陸国蚕三神社のそれぞれの関係については、ひとまず筆をおきます。
次回は、このシリーズの

で述べた仮説を再考し、今までの総括も含め、金色姫譚が流布された背景・時代について考察し、まとめたいと思います。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
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【参考文献】
1.『万葉集 常陸の歌 -作品解釈と鑑賞へのしるべ- 上』 有馬徳 著 筑波書林
2.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
3.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86
『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録