2022年07月17日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
さて、本回シリーズでは、金色姫譚について、どこで生まれどのように広まっていったのかということについて、
細かく考えてきました。
今回は本シリーズ最後として、日本での民衆の宗教史でもある、「中世神話」と呼ばれるものや、中世の寺社の縁起を集めた「神道集」から
金色姫譚を考え、今回のシリーズの結びとします。
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
金色姫譚は、養蚕技術と一緒に入ってきたのか? それとも伝説だけが後から入ってきたのか? それとも新たに作られたのか?
ここであらためて今一度、考えたいのが、金色姫譚は、
① 養蚕技術とともに常陸国に入ってきたのか?
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
の、いずれの立場で考えていくか? ということです。
今までずっと、①の、『養蚕技術とともに常陸国に入ってきた』という立場で、更に『海から入ってきた』という視点で、考察してきました。
これは、常陸国三蚕神社に伝わる金色姫譚が、『金色姫が乗ったうつぼ舟が、豊浦に流れ着いた』=『海に漂着した』を彷彿させることと、実際、外海から漂着物や遭難した船が常陸国の海岸に流れ着いた記録も古くからあることから、『海から来た人が養蚕を伝えた』可能性を考えたからです。
しかし、やはり人の流れとともに、養蚕技術や知識(伝説も含む)は『陸』伝いで入ってきたというのが、一番自然でしょう。
伝説の伝播だけを考えるなら、養蚕技術伝播とは別の、②や③の可能性も考えないといけません。
なので、シリーズ最終回の今回では、この
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
について考えてみます。
中世神話とは? 金色姫譚とどう関わるのか?
私も勉強しながら知りましたが、日本では中世(鎌倉・室町時代ごろ)に、寺社の縁起を再編する動きが盛んにおこなわれたそうです。これは『中世神話』とも呼ばれます(文献1,2,3,4,5)。
このように再編されたり新たに作られた縁起は、聖、巫女、尼、神人という末端の宗教者が村々を回り、人々に物語を語り広めていったそうです
(文献4,5)。
原・金色姫譚についても、こういう人々が外から常陸国の中へ話を伝えてきたのかもしれませんし、または、常陸国のどこかで話を(既にある何かの説話の影響を受けながらも)創作し、伝えていった可能性も考えられます。
あまりにも大きいテーマなので、私の手には負えませんが
、手持ちの資料を基に、こうだったんじゃないかという想像(妄想か?)・仮説を提案したいと思います。
復習:養蚕にからむ貴種譚(原・金色姫譚)の、常陸国への伝播・・・伝わってきたのは海からか?陸からか?
伝説の伝播については、今回のシリーズの前半
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
で考察し、仮説を提案してみました。
私は、日本列島へは、原・金色姫譚(貴種漂着譚)は、外国から(=海経由で)伝わったか、もしくは、何か史実的なことから原・金色姫譚(貴種漂着譚)が生まれたのではないかと考えています。そして、それは多分、養蚕技術・知識と一緒に入ってきたと考えています。
そしてそのように生まれた 原・金色姫譚(貴種漂着譚)が、常陸国に伝わったと考えていました。
常陸国/茨城の海岸線には、海流の影響もあって古来から漂着物が多く、船に乗った漂流者がたどり着く例も多かったので、『海からウツボ舟で漂着した金色姫』のイメージから、『海から伝わった』可能性に着目したからです。
しかし、当然陸続きなので、陸から常陸国に入ってきた人が、養蚕技術・知識と共に伝説を伝えることもあり得ます。
また、養蚕技術・知識とは別に、原・金色姫譚だけが、それを語る人々によって常陸国にもたらされたことも考えられますし、新たに常陸国の中で生まれた可能性もあります。
普通は、常陸国に入植した養蚕の知識を持った人が伝説も伝えたとか、そういう説話を語る宗教者が常陸国に来て、語って歩いたというのが一般的に考えられることでしょう。
しかし、常陸国はまた、古来から「遠流」の地でもありました。
つまり、刑を受けて、都から遠く離れた地に送られてくる、その地でもあったわけです。
文字通り「漂流者・漂着者」の他に、「遠流」で常陸国に「流れてきた」人もいたわけですし、『漂着』『流れ着いた』というのはそういった人の比喩かもしれません。
伝えたのは遠流の地 常陸国に流罪で送られてきた流人?
一般的には、養蚕の知識や技術は、 養蚕の そういった知識を持った人が入植したとか、知識を持った人から 何らかの形で教わったと考えられるでしょう。
『知識をもった人から』教わることを考える場合、ちょっとセンセーショナルかもしれませんが、常陸国に流罪に送られてきた流人やその周りの人から教わる・・・ということは考えられないでしょうか。
これもあながち荒唐無稽ではないかと思うのです。
『流刑地に流れ着いた』 → 『海から流れ着いた』として、後世の子孫や何か(信仰関係?)の関係者が金色姫伝説を作ったり脚色した可能性もありそうではありませんか?
流刑は死罪に次ぐ重い罪で、罪の重さによって、京の都から近いか遠いかで流刑地が決まり、
死罪に次ぐ重い罪の遠流の地は、伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国などがありました(文献6)。
古代から中世の時代、流罪はそれなりの身分の人に課せられたようで、常陸国に流罪で送られてきた人も比較的身分の高い人だったと考えられます。
身分がそれなりに高い罪人が流罪になった有名な例が、伊豆国に送られて、その地で生活していた源頼朝ですね。
流人だった源頼朝が東国の武士達と共に東国に『鎌倉幕府』なるものを作った。これは教科書にも載っている史実。
流人の存在は馬鹿にならない良い例です。
常陸国への流罪の例について見てみますと、時代は遡って古代になります。
常陸国風土記の行方郡の項に
『飛鳥の浄見原の天皇の世、麻続王を遣らひて居処らしめき』
という記述があります(文献7)。
続麻王(をみのみこ)とは、文献7の注釈によると、
『「天武紀」四年四月の条に「三位麻続王罪有り。稲葉に流す。一の子をは伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋に流す』とあり(中略) 「大系」は「イナバ(因幡国・下総国印波)・イラゴ・イタコと類似地名によって伝承が流伝したのであろう」とするが定かでない』
とあり、続麻王は流罪になった人ということは確かなようです。
さて、流罪の地に配流された人は妻子を伴ってその地に送られることも多く、その地で労働して生活をします(文献6)。
労働経験のない貴族など、大変な『苦役』な訳ですね。
家族以外にも身の回りのことをする使役人もわずかに連れて行った場合もあるかと思います。
私は思うのですが、配流された人で、蚕の卵とともに養蚕技術の知識を持つ人(妻なども含め)がいた可能性もあったのではないでしょうか。
(具体的にどういった人々が常陸国に流罪で送られてきたのか、常陸国でどのような生活をしたのか、何か記録があるのかは知りたいです)
都から来た人達の中には、蚕を飼って糸を紡ぎ、絹織物を織る知識を持っていたり、実際に技術を持つ人もい手も不思議ではありません。
それを生活の糧にしたことも当然考えられます。
伝説通り『海から漂着した』人もいたかもしれませんが、流罪になった先祖を美化して伝説化して伝えていき、いつしか説話(原・金色姫譚)として、常陸国の中で語られ、人口に膾炙して広まっていった・・・という可能性もあるのではないでしょうか。
中世神話の創生期の中で、原・金色姫譚が常陸国で作られた可能性
さて、鎌倉時代から室町時代にかけて、国内の寺社では、寺社の縁起を再構築する動きが大々的に行われ、
日本神話や仏典をもとに、さらに縁起を作り直す動きがありました。
そうやって再構築された縁起を「中世神話」は呼ばれと先に書きました(文献1、2、3、4、5)。
私たちが現在、見聞きする寺社の縁起は、このように中世に作り直された話も多いとのこと。
当時は神仏混交の頃でしたが、それぞれの寺社縁起については、仏教色を強くするか日本神話的な話を強くするかは、それぞれの思惑や考えがあったようです。
金色姫の話についてみると、金色姫の生まれはインドかその近辺の国です。
また、ストーリーの最後の方は明らかに仏教色が強くなるので、やはり仏を信仰する人たちが語り伝えていったのでしょう。
このあたりについては、このシリーズの以前の記事で考察していますので、そちらも良かったら。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
そういう時代の動きの中で、原・金色姫譚が、常陸国で生み出され、広められていった可能性もありえます。
金色姫譚に似たモチーフの説話の存在 二所権現(箱根権現・伊豆権現)縁起との類似性
さて、説話や寺社縁起を調べているうちに、金色姫譚によく似たモチーフの話を縁起とする寺社があるのに気づきました
。
室町時代の説話・または寺社の縁起の中には、継母に虐められる継子が、神仏に救われたり守られたりする話があります。
継子いじめ譚と呼ばれる系譜です。
金色姫の話も明らかに『継子いじめ』の物語です。
金色姫譚では、継母にいじめられた金色姫を、父王が継母から逃がすために、「うつぼ舟」の乗せて海に流します。
(寺社説話に継子いじめ譚は、なぜか父王は後妻=継母を罰することが出来ないのです・・・現代人には不思議過ぎるのですが)
それで、これにとても似た縁起を持つのが、箱根山権現と伊豆山権現の縁起なのです。
ちなみに、箱根山権現は現在の箱根神社、伊豆山権現は現在の伊豆山神社です(文献4、5)。

(伊豆山神社 2015年1月撮影)
こちらは主人公は複数いるのですが、インドのある国に生まれた王族で、継母からのいじめの方法も金色姫の場合と酷似しています。
そして、写本によりストーリーに多少違いがあるようですが、彰考館本と呼ばれる写本では、『桑のうつぼ舟』に乗って伊豆のめらの崎という場所に『流れ着く』とのこと。
金色姫端と二所権現の縁起、どちらが先か分かりませんが、どちらかが影響を受けて生まれたか、または共通の説話のようなものがあったとしか思えません。
また文献5によると、箱根山権現と伊豆山権現の縁起が作られた時期は、鎌倉時代中期までさかのぼれるとのこと。
さて、当時、寺社の縁起は、その寺の仏の功徳を伝える説話として、その寺院に円の深い宗教者、特に尼、巫女、など女性の宗教者によって、語られたり、歌われたり、絵解きがされながら、広まった考えられています(文献4 他)。
特に、継子いじめなどの話は、女性に大変人気があったそうで、当時つらい境遇の人々が多い中、聞きながらわが身に重ねて聞いた人がとても多かったのでしょう。
有名な曽我物語なども、尼、巫女、など女性の宗教者によって伝えられていったそうで、二所権現縁起も同様のようです(文献4,5 他)
筑波山麓で生まれた可能性は?
箱根山権現と伊豆山権現は、二つ合わせて『二所権現』と呼ばれ、この『二所権現』への信仰がとても篤かったのが源頼朝で、源頼朝とともに東国に武士の世を作った伊豆・相模・武蔵の武士の信仰も篤かったそうです(文献8)。
つまり、鎌倉の御家人にも二所権現信仰が広まった?
すると鎌倉殿の御家人の一人、常陸国の八田知家(小田氏の祖)も影響を受けて二所権現信仰を知っていたか、同じく信仰した可能性があるのではないか?
そうして二所権現縁起と似たモチーフが常陸国で生まれて語られる土壌が生まれたのではないか?
・・・そういう妄想もあながち不自然ではない?
実際、土浦市にある等学寺にある鎌倉時代前期に作られた梵鐘がありますが、これは八田知家が作らせたものと言われます。『筑後入道尊念』(八田知家の法号)が建永年間(1206年~1207年)に作らせたもので、この鐘は三村山清冷院極楽寺(現在のつくば市小田地区)に旧在した可能性が高いとのこと(文献9)。
八田知家とその子 知重の活動拠点は鎌倉だったといいます(文献10)。
そして建久4年(曽我兄弟の仇討ちに伴う混乱に乗じて、八田知家が多気義幹を失脚させた事件のあった年)の後ごろから、八田知家は筑波山麓の北条や小田に拠点を構えたと推察されるそうです(文献10)。その後、子孫は小田氏を名乗り、小田城を居城とします。(あの『常陸の不死鳥』『戦国最弱⁉︎大名』で有名な小田氏治はその子孫です)
また時代が少し下り、三村山清冷院極楽寺に忍性が入ったのは建長四年(1252年)ですが、その忍性は、寛元元年(1243年)27歳の時に、伊豆山(湯走山)権現に身を寄せています!(文献9)。
つまり、鎌倉時代、鎌倉と筑波山南麓地域は、人の行き来もあり、そうすると当然、説話などを伝える人もいたわけです。
ここまでくると、『筑波山麓で金色姫譚が作られ、広められた』と言いたくなります。
しかしながら、小田氏の居城に近い筑波山麓で金色姫譚が生まれたとするには、筑波山に関わるエピソード(ほんどう仙人)の話がほんのわずか過ぎます。
作るならもっと筑波山に関わる話にしそうですが、それがないということは、やはり筑波山付近で金色姫の話が生まれたのではないように、私は思います。(つくば市民としては残念ですが
)
茨城北部と鎌倉との関わりは?
では、同じく常陸国で茨城北部でも、鎌倉と関わる人物や信仰の流れはなかったのでしょうか?
茨城県北にも実は、鎌倉に関わる伝説が伝わっています。
当ブログの以前の記事でも触れていますが
常陸大宮、旧美和村に伝わる、『三浦杉』の話。
→ 常陸大宮 吉田八幡神社の「三浦杉」を訪ねて
鎌倉に急を知らせる犬の伝説(美和村 浄因寺の犬の伝説)
→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
が伝わっています。
例えば、鎌倉の佐竹攻めの時(金砂城の戦い 治承4年(1180年))や奥州合戦(文治5年(1189年))などの時に大きく人の流れがあり、二所権現の信仰や縁起が常陸国の北部にも伝わり、金色姫の原形の話が形づくられたり、この土地に元から伝わる話に、二所権現の縁起が引用され物語が脚色された可能性もありうるのではないでしょうか。
そして茨城北部の海には、川尻の小貝浜があります。
伝説・説話は、なんといっても口承文学です。民衆の要望・信仰等から生まれ・変化し、語りや歌舞など芸能に支えられて、説話も形づくられ広まっていったはずなのですから。
そうするとやはり金色姫譚も同様に、語り歩いた女性宗教者が浮かんできます。
常陸国にそういった人達が、説話として語り歩いたのではないでしょうか。
そして、聞き手の多くは女性。
そもそも養蚕と機織りは古来女性が従事していたので、自分たちに関わりの深い養蚕がらみの話で、しかも主人公が姫、そして継子いじめという民衆に共感される題材。より感情移入して聞き入ったでしょうし、広く受け入れられた話だったのではないでしょうか。
原・金色姫譚はだれによって広められていったのか。説話、語り芸としての金色姫譚
★ 常陸国北部の海岸付近に伝わっていた『原・金色姫譚/貴人漂着譚/養蚕技術に関する伝説』
★ 常陸国北部の山間部に伝わってきた、二所権現信仰・縁起
この二つを融合して、神仏の縁起や功徳を語るために、女性宗教者(尼、巫女など)が特に(継子いじめに共感する)女性信者に向けて、
『金色姫譚』を編み出して、説話として語り継いでいったのではないか
そういう可能性を私は考えます。
ただし、それを語っていった尼さんや巫女さんが、どこの寺社に所属していたのか、どこの寺社の縁起を伝えて布教しようとしていたのかは、
正直分かりません
。
何か文献とか遺跡とか見つかると良いのですが、こればかりは
ただし、以前の記事
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
等で書いたように、常陸国三蚕神社のある土地のなかでは、現時点では、私は日立・川尻付近が一番可能性がありそうに思っています。

(日立市川尻 蚕養神社の近くからの景色 2020年8月撮影)
そして、説話は、聴衆の反応などや状況を見て、細部など変わっていったことでしょう。
★ 金色姫の話についても、そのうち絹織物に対する一種の箔付けで、古来より絹織物で有名な筑波山麓を持ちだし(ブランドを利用)、
『筑波山のほんどう仙人』というキャラクターを創出して、付け加えていったのではないか。
★ そしてそのうち富士山の山岳修行者がこの話を知るようになり、富士山に地理的に近い二所権現(箱根権現・伊豆権現)の縁起にもストーリーが似ているので、富士山信仰を付け加えて語るようになっていったのではないか。
★ 当初はローカルな(常陸国国内?の)女性宗教者による細々とした口伝だったのが、富士山信仰の修験者によって、富士山信仰の部分が
なかば無理やり付け加えられ、富士山信仰拡散の一つのツールとして広く語られ、それが少なくとも15 年頃の時点で京都まで伝わり、
それが幸いなことに記録されたのではないか。
富士山が見えるエリアの養蚕・生糸生産・機織り従事の女性たちにも深く共感されたのかもしれません。
だから富士山信仰の話も挿入したまま、語られていったのでしょう。
私は、常陸国における金色姫譚としての萌芽は鎌倉時代、物語の成長と拡散は鎌倉以降の中世ではないかとするのが、一番妥当だと考えます。
新たな資料が発見されたり、寺院跡などが発掘されたりすると、また違ってくると思いますが、現時点で、自分が知りえるものだけだと、それが一番自然に思います。
まとめ1: 常陸国における金色姫譚の広まりは?
常陸国の中部~北部(現在の茨城県中部~北部)は、静神社、長旛部神社など、織物の神をまつる神社が複数あります。
また奈良時代に編纂された常陸国風土記に載る宿魂石の伝説は、しどり神(織物の神)が「悪神」を退治した話です。
古代から織物が盛んだった土地なのは確かでしょう。
そういったことも踏まえて、以下のような仮説も考えられないでしょうか。
(こう考えるとちょっとワクワクしてきます)
【常陸国での金色姫譚 仮説】
<1> 物語が入ってきた場所もしくは発生した場所と手段
案 ① 海から漂着した人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は現在の蚕養神社のある日立市川尻など、北部の海岸線を考える。
常陸国北部はもともと織物が盛んな地域。そこに(偶然にも?)蚕卵、繭、養蚕技術を持った人たちが入ってきた。
同じく比較的海に近くても、神栖のあたりは桑を育てられる土壌でないので養蚕自体が根づくのは難しく、仮に話が伝えられたとしても、説話は育まれにくかったと思われる。
詳細:以前の記事 →
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
案② 遠流で常陸国に来た流人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は、国府のあった石岡付近か? もしくは流罪なので、国府より(辺境の地である)北の方か?
『筑波山のほんどう仙人』が出てくるので、石岡付近・筑波山付近も候補に考えたいが、ほんどう仙人のくだりがあまりにも短すぎるので、おそらく、筑波山地域では物語は育まれていないのではないと考える)
なので物語が入ってきた場所は、私はやはり常陸国北部、豊浦の地名が伝説としても伝わる日立市川尻付近ではないかと考えています。
<2> 説話が育まれ、伝えられていった方法
蚕の生態の物語を、継子いじめの話として、仏教的要素も加わり、伝え歩く者たちが出てきた。
(尼、巫女など、女性宗教者か) 時代は中世(鎌倉~室町ごろ)か?
もともと、そういう信仰をもって布教する寺社が、常陸国のどこかに当時あって、そこの宗教者が縁起や説話を語って歩いた可能性もある。
継子いじめの話は、箱根・伊豆権現のことも知る宗教者(富士山修験者?)も話作りに加わっているかもしれない。
『筑波山のほんどう仙人』のくだりは、筑波山系の山岳宗教者が関わった可能性もあるし、本当に筑波山麓にいて真綿づくり・絹織物の技術を 持つ人が、実際に常陸国北部に技術を伝るようなこともあったのかもしれない。
しかし、『ほんどう仙人』のくだりは大変短いので、当時、真綿づくり・絹織物で有名だった筑波山麓にあやかり、金色姫譚を語っていた人が『ほんどう仙人から教えられた』と一文を加えただけの可能性が高い気がする。
さらに富士山信仰の宗教者(尼、巫女)や修験者などが、富士山信仰の布教も兼ねて、養蚕を担う女性たちに語って歩いたのかもしれない。
まとめ2: 日本列島における 金色姫伝説の伝播について
私は原・金色姫譚(貴人蚕譚)は、最初は常陸国以外で外国から伝わったか、常陸国以外で生まれたと考えていることは、
本シリーズの最初の時に考察し、仮説を立てました。
詳細
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
そして、原・金色姫譚(貴人蚕譚)が、何らかの形で常陸国に伝わってからのことについて、常陸国三蚕神社の地域に焦点を当てて考察してきました。
詳細
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
最後に、金色姫譚という説話が伝えられていった流れについて、
日本列島及び常陸国で起きたと考えられる仮説を提案して、ひとまず終わりたいと思います。
【金色姫譚の生成・伝播仮説】
※以前書いた
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
での説を一部修正し増補したものです。
(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か? ≪時代不明:古代~中世≫
(案 a1) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)
(案 a2) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話。
※ いずれの場合も、物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明
↓
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(案 b1) (A)の(a1)(a2)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(案 b2) (A)の(a1)(a2)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
伝わり方について
(案1)新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
(案2)養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。
(案3)蚕種を持った人が、九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた。蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。
(案4)流罪で常陸国に流された人・家族・身の回り世話をする人が、生活の糧のために養蚕し、生糸を作り、織物を織った。その技術を後世の人が、先祖を『美化』して伝えた。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(案 c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあり、とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していった。
※ 永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られた ≪時代不明:中世か?≫
この時、『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場したか?
全国的な寺社の縁起の創出(『中世神話』の創出)の流れに乗り、常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られ、聖、神人、尼、巫女などの宗教者によって、説話として語られ、広まっていった。
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:中世?≫
ある時期に (D)で語られていた原・金色姫単に、『筑波山のほんどう仙人』の下りが加わった。
既に絹織物の産地として知られていた筑波山麓のブランドを借用するために『筑波山のほんどう仙人』を説話に入れたか。
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
さらに富士山信仰の宗教者によって、(E) の話に、『欽明天皇の娘のかぐや」のくだりが加えられ、常陸国を出て広められる。
↓
(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる ≪中世≫
室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。
↓
(H) 江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく ≪近世:江戸時代≫
寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。
↓
(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせて、、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教した。
・常陸の川尻にあった蚕養神社の前身の社は、別当寺が水戸藩によって廃止されたことや、地の利の問題もあってか、桑林寺や星福寺のように積極的に外に布教されることがなかった。
従って、金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。
↓
(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。
↓
(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫
明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
広く信仰される。
まだまだ検討の余地は多いのですが、私は、以上のように考えています。
ひとまず、常陸国三蚕神社についての考察と、金色姫伝説についての考察は、これで終わります。
また何か新しい知見を得たら、再び考えてみようと思います
。
********************************************
【参考文献】
1.『神道の中世 伊勢神宮・田神道・中世日本紀』 伊藤聡 著 中公選書
2.『中世神話』 山本ひろ子 著 岩波新書
3.『変成譜 中世神仏習合の世界』
4,『神道集』 貴志正造 訳 東洋文庫94 平凡社
5.『宗教民俗集成6 寺社縁起からお伽話へ』 五来重 角川文庫
6,『流罪の日本史』 渡邊大門 著 筑摩書房
7.『常陸国風土記 全訳注』 秋本吉徳 著 講談社学術文庫
8.『承久の乱 日本史のターニングポイント』 本郷和人 著 文春新書
9.『中世の霞ヶ浦と律宗 よみがえる仏教文化の聖地』 土浦市立博物館
10.『八田知家と名門常陸小田氏 鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史』 土浦市立博物館
『曽我物語 新編日本古典文学全集 53』 小学館
『新編日本古典文学全集 63 室町物語草子集』 小学館
『新日本古典文学大系 54 室町物語集 上』 岩波書店
『新日本古典文学大系 55 室町物語集 下』 岩波書店
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

さて、本回シリーズでは、金色姫譚について、どこで生まれどのように広まっていったのかということについて、
細かく考えてきました。
今回は本シリーズ最後として、日本での民衆の宗教史でもある、「中世神話」と呼ばれるものや、中世の寺社の縁起を集めた「神道集」から
金色姫譚を考え、今回のシリーズの結びとします。
前回までの話









金色姫譚は、養蚕技術と一緒に入ってきたのか? それとも伝説だけが後から入ってきたのか? それとも新たに作られたのか?
ここであらためて今一度、考えたいのが、金色姫譚は、
① 養蚕技術とともに常陸国に入ってきたのか?
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
の、いずれの立場で考えていくか? ということです。
今までずっと、①の、『養蚕技術とともに常陸国に入ってきた』という立場で、更に『海から入ってきた』という視点で、考察してきました。
これは、常陸国三蚕神社に伝わる金色姫譚が、『金色姫が乗ったうつぼ舟が、豊浦に流れ着いた』=『海に漂着した』を彷彿させることと、実際、外海から漂着物や遭難した船が常陸国の海岸に流れ着いた記録も古くからあることから、『海から来た人が養蚕を伝えた』可能性を考えたからです。
しかし、やはり人の流れとともに、養蚕技術や知識(伝説も含む)は『陸』伝いで入ってきたというのが、一番自然でしょう。
伝説の伝播だけを考えるなら、養蚕技術伝播とは別の、②や③の可能性も考えないといけません。
なので、シリーズ最終回の今回では、この
② 伝説・説話として、話だけが常陸国に入ってきたのか?
③ 常陸国内のどこかで、新たに話が作られたのか?
について考えてみます。
中世神話とは? 金色姫譚とどう関わるのか?
私も勉強しながら知りましたが、日本では中世(鎌倉・室町時代ごろ)に、寺社の縁起を再編する動きが盛んにおこなわれたそうです。これは『中世神話』とも呼ばれます(文献1,2,3,4,5)。
このように再編されたり新たに作られた縁起は、聖、巫女、尼、神人という末端の宗教者が村々を回り、人々に物語を語り広めていったそうです
(文献4,5)。
原・金色姫譚についても、こういう人々が外から常陸国の中へ話を伝えてきたのかもしれませんし、または、常陸国のどこかで話を(既にある何かの説話の影響を受けながらも)創作し、伝えていった可能性も考えられます。
あまりにも大きいテーマなので、私の手には負えませんが

復習:養蚕にからむ貴種譚(原・金色姫譚)の、常陸国への伝播・・・伝わってきたのは海からか?陸からか?
伝説の伝播については、今回のシリーズの前半




で考察し、仮説を提案してみました。
私は、日本列島へは、原・金色姫譚(貴種漂着譚)は、外国から(=海経由で)伝わったか、もしくは、何か史実的なことから原・金色姫譚(貴種漂着譚)が生まれたのではないかと考えています。そして、それは多分、養蚕技術・知識と一緒に入ってきたと考えています。
そしてそのように生まれた 原・金色姫譚(貴種漂着譚)が、常陸国に伝わったと考えていました。
常陸国/茨城の海岸線には、海流の影響もあって古来から漂着物が多く、船に乗った漂流者がたどり着く例も多かったので、『海からウツボ舟で漂着した金色姫』のイメージから、『海から伝わった』可能性に着目したからです。
しかし、当然陸続きなので、陸から常陸国に入ってきた人が、養蚕技術・知識と共に伝説を伝えることもあり得ます。
また、養蚕技術・知識とは別に、原・金色姫譚だけが、それを語る人々によって常陸国にもたらされたことも考えられますし、新たに常陸国の中で生まれた可能性もあります。
普通は、常陸国に入植した養蚕の知識を持った人が伝説も伝えたとか、そういう説話を語る宗教者が常陸国に来て、語って歩いたというのが一般的に考えられることでしょう。
しかし、常陸国はまた、古来から「遠流」の地でもありました。
つまり、刑を受けて、都から遠く離れた地に送られてくる、その地でもあったわけです。
文字通り「漂流者・漂着者」の他に、「遠流」で常陸国に「流れてきた」人もいたわけですし、『漂着』『流れ着いた』というのはそういった人の比喩かもしれません。
伝えたのは遠流の地 常陸国に流罪で送られてきた流人?
一般的には、養蚕の知識や技術は、 養蚕の そういった知識を持った人が入植したとか、知識を持った人から 何らかの形で教わったと考えられるでしょう。
『知識をもった人から』教わることを考える場合、ちょっとセンセーショナルかもしれませんが、常陸国に流罪に送られてきた流人やその周りの人から教わる・・・ということは考えられないでしょうか。
これもあながち荒唐無稽ではないかと思うのです。
『流刑地に流れ着いた』 → 『海から流れ着いた』として、後世の子孫や何か(信仰関係?)の関係者が金色姫伝説を作ったり脚色した可能性もありそうではありませんか?
流刑は死罪に次ぐ重い罪で、罪の重さによって、京の都から近いか遠いかで流刑地が決まり、
死罪に次ぐ重い罪の遠流の地は、伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国などがありました(文献6)。
古代から中世の時代、流罪はそれなりの身分の人に課せられたようで、常陸国に流罪で送られてきた人も比較的身分の高い人だったと考えられます。
身分がそれなりに高い罪人が流罪になった有名な例が、伊豆国に送られて、その地で生活していた源頼朝ですね。
流人だった源頼朝が東国の武士達と共に東国に『鎌倉幕府』なるものを作った。これは教科書にも載っている史実。
流人の存在は馬鹿にならない良い例です。
常陸国への流罪の例について見てみますと、時代は遡って古代になります。
常陸国風土記の行方郡の項に
『飛鳥の浄見原の天皇の世、麻続王を遣らひて居処らしめき』
という記述があります(文献7)。
続麻王(をみのみこ)とは、文献7の注釈によると、
『「天武紀」四年四月の条に「三位麻続王罪有り。稲葉に流す。一の子をは伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋に流す』とあり(中略) 「大系」は「イナバ(因幡国・下総国印波)・イラゴ・イタコと類似地名によって伝承が流伝したのであろう」とするが定かでない』
とあり、続麻王は流罪になった人ということは確かなようです。
さて、流罪の地に配流された人は妻子を伴ってその地に送られることも多く、その地で労働して生活をします(文献6)。
労働経験のない貴族など、大変な『苦役』な訳ですね。
家族以外にも身の回りのことをする使役人もわずかに連れて行った場合もあるかと思います。
私は思うのですが、配流された人で、蚕の卵とともに養蚕技術の知識を持つ人(妻なども含め)がいた可能性もあったのではないでしょうか。
(具体的にどういった人々が常陸国に流罪で送られてきたのか、常陸国でどのような生活をしたのか、何か記録があるのかは知りたいです)
都から来た人達の中には、蚕を飼って糸を紡ぎ、絹織物を織る知識を持っていたり、実際に技術を持つ人もい手も不思議ではありません。
それを生活の糧にしたことも当然考えられます。
伝説通り『海から漂着した』人もいたかもしれませんが、流罪になった先祖を美化して伝説化して伝えていき、いつしか説話(原・金色姫譚)として、常陸国の中で語られ、人口に膾炙して広まっていった・・・という可能性もあるのではないでしょうか。
中世神話の創生期の中で、原・金色姫譚が常陸国で作られた可能性
さて、鎌倉時代から室町時代にかけて、国内の寺社では、寺社の縁起を再構築する動きが大々的に行われ、
日本神話や仏典をもとに、さらに縁起を作り直す動きがありました。
そうやって再構築された縁起を「中世神話」は呼ばれと先に書きました(文献1、2、3、4、5)。
私たちが現在、見聞きする寺社の縁起は、このように中世に作り直された話も多いとのこと。
当時は神仏混交の頃でしたが、それぞれの寺社縁起については、仏教色を強くするか日本神話的な話を強くするかは、それぞれの思惑や考えがあったようです。
金色姫の話についてみると、金色姫の生まれはインドかその近辺の国です。
また、ストーリーの最後の方は明らかに仏教色が強くなるので、やはり仏を信仰する人たちが語り伝えていったのでしょう。

→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
そういう時代の動きの中で、原・金色姫譚が、常陸国で生み出され、広められていった可能性もありえます。
金色姫譚に似たモチーフの説話の存在 二所権現(箱根権現・伊豆権現)縁起との類似性
さて、説話や寺社縁起を調べているうちに、金色姫譚によく似たモチーフの話を縁起とする寺社があるのに気づきました

室町時代の説話・または寺社の縁起の中には、継母に虐められる継子が、神仏に救われたり守られたりする話があります。
継子いじめ譚と呼ばれる系譜です。
金色姫の話も明らかに『継子いじめ』の物語です。
金色姫譚では、継母にいじめられた金色姫を、父王が継母から逃がすために、「うつぼ舟」の乗せて海に流します。
(寺社説話に継子いじめ譚は、なぜか父王は後妻=継母を罰することが出来ないのです・・・現代人には不思議過ぎるのですが)
それで、これにとても似た縁起を持つのが、箱根山権現と伊豆山権現の縁起なのです。
ちなみに、箱根山権現は現在の箱根神社、伊豆山権現は現在の伊豆山神社です(文献4、5)。
(伊豆山神社 2015年1月撮影)
こちらは主人公は複数いるのですが、インドのある国に生まれた王族で、継母からのいじめの方法も金色姫の場合と酷似しています。
そして、写本によりストーリーに多少違いがあるようですが、彰考館本と呼ばれる写本では、『桑のうつぼ舟』に乗って伊豆のめらの崎という場所に『流れ着く』とのこと。
金色姫端と二所権現の縁起、どちらが先か分かりませんが、どちらかが影響を受けて生まれたか、または共通の説話のようなものがあったとしか思えません。
また文献5によると、箱根山権現と伊豆山権現の縁起が作られた時期は、鎌倉時代中期までさかのぼれるとのこと。
さて、当時、寺社の縁起は、その寺の仏の功徳を伝える説話として、その寺院に円の深い宗教者、特に尼、巫女、など女性の宗教者によって、語られたり、歌われたり、絵解きがされながら、広まった考えられています(文献4 他)。
特に、継子いじめなどの話は、女性に大変人気があったそうで、当時つらい境遇の人々が多い中、聞きながらわが身に重ねて聞いた人がとても多かったのでしょう。
有名な曽我物語なども、尼、巫女、など女性の宗教者によって伝えられていったそうで、二所権現縁起も同様のようです(文献4,5 他)
筑波山麓で生まれた可能性は?
箱根山権現と伊豆山権現は、二つ合わせて『二所権現』と呼ばれ、この『二所権現』への信仰がとても篤かったのが源頼朝で、源頼朝とともに東国に武士の世を作った伊豆・相模・武蔵の武士の信仰も篤かったそうです(文献8)。
つまり、鎌倉の御家人にも二所権現信仰が広まった?
すると鎌倉殿の御家人の一人、常陸国の八田知家(小田氏の祖)も影響を受けて二所権現信仰を知っていたか、同じく信仰した可能性があるのではないか?
そうして二所権現縁起と似たモチーフが常陸国で生まれて語られる土壌が生まれたのではないか?
・・・そういう妄想もあながち不自然ではない?
実際、土浦市にある等学寺にある鎌倉時代前期に作られた梵鐘がありますが、これは八田知家が作らせたものと言われます。『筑後入道尊念』(八田知家の法号)が建永年間(1206年~1207年)に作らせたもので、この鐘は三村山清冷院極楽寺(現在のつくば市小田地区)に旧在した可能性が高いとのこと(文献9)。
八田知家とその子 知重の活動拠点は鎌倉だったといいます(文献10)。
そして建久4年(曽我兄弟の仇討ちに伴う混乱に乗じて、八田知家が多気義幹を失脚させた事件のあった年)の後ごろから、八田知家は筑波山麓の北条や小田に拠点を構えたと推察されるそうです(文献10)。その後、子孫は小田氏を名乗り、小田城を居城とします。(あの『常陸の不死鳥』『戦国最弱⁉︎大名』で有名な小田氏治はその子孫です)
また時代が少し下り、三村山清冷院極楽寺に忍性が入ったのは建長四年(1252年)ですが、その忍性は、寛元元年(1243年)27歳の時に、伊豆山(湯走山)権現に身を寄せています!(文献9)。
つまり、鎌倉時代、鎌倉と筑波山南麓地域は、人の行き来もあり、そうすると当然、説話などを伝える人もいたわけです。
ここまでくると、『筑波山麓で金色姫譚が作られ、広められた』と言いたくなります。
しかしながら、小田氏の居城に近い筑波山麓で金色姫譚が生まれたとするには、筑波山に関わるエピソード(ほんどう仙人)の話がほんのわずか過ぎます。
作るならもっと筑波山に関わる話にしそうですが、それがないということは、やはり筑波山付近で金色姫の話が生まれたのではないように、私は思います。(つくば市民としては残念ですが

茨城北部と鎌倉との関わりは?
では、同じく常陸国で茨城北部でも、鎌倉と関わる人物や信仰の流れはなかったのでしょうか?
茨城県北にも実は、鎌倉に関わる伝説が伝わっています。
当ブログの以前の記事でも触れていますが

→ 常陸大宮 吉田八幡神社の「三浦杉」を訪ねて

→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
が伝わっています。
例えば、鎌倉の佐竹攻めの時(金砂城の戦い 治承4年(1180年))や奥州合戦(文治5年(1189年))などの時に大きく人の流れがあり、二所権現の信仰や縁起が常陸国の北部にも伝わり、金色姫の原形の話が形づくられたり、この土地に元から伝わる話に、二所権現の縁起が引用され物語が脚色された可能性もありうるのではないでしょうか。
そして茨城北部の海には、川尻の小貝浜があります。
伝説・説話は、なんといっても口承文学です。民衆の要望・信仰等から生まれ・変化し、語りや歌舞など芸能に支えられて、説話も形づくられ広まっていったはずなのですから。
そうするとやはり金色姫譚も同様に、語り歩いた女性宗教者が浮かんできます。
常陸国にそういった人達が、説話として語り歩いたのではないでしょうか。
そして、聞き手の多くは女性。
そもそも養蚕と機織りは古来女性が従事していたので、自分たちに関わりの深い養蚕がらみの話で、しかも主人公が姫、そして継子いじめという民衆に共感される題材。より感情移入して聞き入ったでしょうし、広く受け入れられた話だったのではないでしょうか。
原・金色姫譚はだれによって広められていったのか。説話、語り芸としての金色姫譚
★ 常陸国北部の海岸付近に伝わっていた『原・金色姫譚/貴人漂着譚/養蚕技術に関する伝説』
★ 常陸国北部の山間部に伝わってきた、二所権現信仰・縁起
この二つを融合して、神仏の縁起や功徳を語るために、女性宗教者(尼、巫女など)が特に(継子いじめに共感する)女性信者に向けて、
『金色姫譚』を編み出して、説話として語り継いでいったのではないか
そういう可能性を私は考えます。
ただし、それを語っていった尼さんや巫女さんが、どこの寺社に所属していたのか、どこの寺社の縁起を伝えて布教しようとしていたのかは、
正直分かりません

何か文献とか遺跡とか見つかると良いのですが、こればかりは

ただし、以前の記事
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
等で書いたように、常陸国三蚕神社のある土地のなかでは、現時点では、私は日立・川尻付近が一番可能性がありそうに思っています。

(日立市川尻 蚕養神社の近くからの景色 2020年8月撮影)
そして、説話は、聴衆の反応などや状況を見て、細部など変わっていったことでしょう。
★ 金色姫の話についても、そのうち絹織物に対する一種の箔付けで、古来より絹織物で有名な筑波山麓を持ちだし(ブランドを利用)、
『筑波山のほんどう仙人』というキャラクターを創出して、付け加えていったのではないか。
★ そしてそのうち富士山の山岳修行者がこの話を知るようになり、富士山に地理的に近い二所権現(箱根権現・伊豆権現)の縁起にもストーリーが似ているので、富士山信仰を付け加えて語るようになっていったのではないか。
★ 当初はローカルな(常陸国国内?の)女性宗教者による細々とした口伝だったのが、富士山信仰の修験者によって、富士山信仰の部分が
なかば無理やり付け加えられ、富士山信仰拡散の一つのツールとして広く語られ、それが少なくとも15 年頃の時点で京都まで伝わり、
それが幸いなことに記録されたのではないか。
富士山が見えるエリアの養蚕・生糸生産・機織り従事の女性たちにも深く共感されたのかもしれません。
だから富士山信仰の話も挿入したまま、語られていったのでしょう。
私は、常陸国における金色姫譚としての萌芽は鎌倉時代、物語の成長と拡散は鎌倉以降の中世ではないかとするのが、一番妥当だと考えます。
新たな資料が発見されたり、寺院跡などが発掘されたりすると、また違ってくると思いますが、現時点で、自分が知りえるものだけだと、それが一番自然に思います。
まとめ1: 常陸国における金色姫譚の広まりは?
常陸国の中部~北部(現在の茨城県中部~北部)は、静神社、長旛部神社など、織物の神をまつる神社が複数あります。
また奈良時代に編纂された常陸国風土記に載る宿魂石の伝説は、しどり神(織物の神)が「悪神」を退治した話です。
古代から織物が盛んだった土地なのは確かでしょう。
そういったことも踏まえて、以下のような仮説も考えられないでしょうか。
(こう考えるとちょっとワクワクしてきます)
【常陸国での金色姫譚 仮説】
<1> 物語が入ってきた場所もしくは発生した場所と手段
案 ① 海から漂着した人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は現在の蚕養神社のある日立市川尻など、北部の海岸線を考える。
常陸国北部はもともと織物が盛んな地域。そこに(偶然にも?)蚕卵、繭、養蚕技術を持った人たちが入ってきた。
同じく比較的海に近くても、神栖のあたりは桑を育てられる土壌でないので養蚕自体が根づくのは難しく、仮に話が伝えられたとしても、説話は育まれにくかったと思われる。
詳細:以前の記事 →


案② 遠流で常陸国に来た流人が養蚕と伝説を伝えた。
場所は、国府のあった石岡付近か? もしくは流罪なので、国府より(辺境の地である)北の方か?
『筑波山のほんどう仙人』が出てくるので、石岡付近・筑波山付近も候補に考えたいが、ほんどう仙人のくだりがあまりにも短すぎるので、おそらく、筑波山地域では物語は育まれていないのではないと考える)
なので物語が入ってきた場所は、私はやはり常陸国北部、豊浦の地名が伝説としても伝わる日立市川尻付近ではないかと考えています。
<2> 説話が育まれ、伝えられていった方法
蚕の生態の物語を、継子いじめの話として、仏教的要素も加わり、伝え歩く者たちが出てきた。
(尼、巫女など、女性宗教者か) 時代は中世(鎌倉~室町ごろ)か?
もともと、そういう信仰をもって布教する寺社が、常陸国のどこかに当時あって、そこの宗教者が縁起や説話を語って歩いた可能性もある。
継子いじめの話は、箱根・伊豆権現のことも知る宗教者(富士山修験者?)も話作りに加わっているかもしれない。
『筑波山のほんどう仙人』のくだりは、筑波山系の山岳宗教者が関わった可能性もあるし、本当に筑波山麓にいて真綿づくり・絹織物の技術を 持つ人が、実際に常陸国北部に技術を伝るようなこともあったのかもしれない。
しかし、『ほんどう仙人』のくだりは大変短いので、当時、真綿づくり・絹織物で有名だった筑波山麓にあやかり、金色姫譚を語っていた人が『ほんどう仙人から教えられた』と一文を加えただけの可能性が高い気がする。
さらに富士山信仰の宗教者(尼、巫女)や修験者などが、富士山信仰の布教も兼ねて、養蚕を担う女性たちに語って歩いたのかもしれない。
まとめ2: 日本列島における 金色姫伝説の伝播について
私は原・金色姫譚(貴人蚕譚)は、最初は常陸国以外で外国から伝わったか、常陸国以外で生まれたと考えていることは、
本シリーズの最初の時に考察し、仮説を立てました。
詳細



そして、原・金色姫譚(貴人蚕譚)が、何らかの形で常陸国に伝わってからのことについて、常陸国三蚕神社の地域に焦点を当てて考察してきました。
詳細





最後に、金色姫譚という説話が伝えられていった流れについて、
日本列島及び常陸国で起きたと考えられる仮説を提案して、ひとまず終わりたいと思います。
【金色姫譚の生成・伝播仮説】
※以前書いた

での説を一部修正し増補したものです。
(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か? ≪時代不明:古代~中世≫
(案 a1) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)
(案 a2) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話。
※ いずれの場合も、物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明
↓
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(案 b1) (A)の(a1)(a2)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(案 b2) (A)の(a1)(a2)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
伝わり方について
(案1)新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
(案2)養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。
(案3)蚕種を持った人が、九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた。蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。
(案4)流罪で常陸国に流された人・家族・身の回り世話をする人が、生活の糧のために養蚕し、生糸を作り、織物を織った。その技術を後世の人が、先祖を『美化』して伝えた。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(案 c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあり、とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していった。
※ 永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られた ≪時代不明:中世か?≫
この時、『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場したか?
全国的な寺社の縁起の創出(『中世神話』の創出)の流れに乗り、常陸国のどこかの寺社で、縁起・説話としての原・金色姫譚が作られ、聖、神人、尼、巫女などの宗教者によって、説話として語られ、広まっていった。
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:中世?≫
ある時期に (D)で語られていた原・金色姫単に、『筑波山のほんどう仙人』の下りが加わった。
既に絹織物の産地として知られていた筑波山麓のブランドを借用するために『筑波山のほんどう仙人』を説話に入れたか。
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
さらに富士山信仰の宗教者によって、(E) の話に、『欽明天皇の娘のかぐや」のくだりが加えられ、常陸国を出て広められる。
↓
(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる ≪中世≫
室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。
↓
(H) 江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく ≪近世:江戸時代≫
寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。
↓
(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせて、、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教した。
・常陸の川尻にあった蚕養神社の前身の社は、別当寺が水戸藩によって廃止されたことや、地の利の問題もあってか、桑林寺や星福寺のように積極的に外に布教されることがなかった。
従って、金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。
↓
(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫
養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。
↓
(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫
明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
広く信仰される。
まだまだ検討の余地は多いのですが、私は、以上のように考えています。
ひとまず、常陸国三蚕神社についての考察と、金色姫伝説についての考察は、これで終わります。
また何か新しい知見を得たら、再び考えてみようと思います

********************************************
【参考文献】
1.『神道の中世 伊勢神宮・田神道・中世日本紀』 伊藤聡 著 中公選書
2.『中世神話』 山本ひろ子 著 岩波新書
3.『変成譜 中世神仏習合の世界』
4,『神道集』 貴志正造 訳 東洋文庫94 平凡社
5.『宗教民俗集成6 寺社縁起からお伽話へ』 五来重 角川文庫
6,『流罪の日本史』 渡邊大門 著 筑摩書房
7.『常陸国風土記 全訳注』 秋本吉徳 著 講談社学術文庫
8.『承久の乱 日本史のターニングポイント』 本郷和人 著 文春新書
9.『中世の霞ヶ浦と律宗 よみがえる仏教文化の聖地』 土浦市立博物館
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