2022年03月26日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています。
さて神栖市 蠶霊神社・星福寺の後編は、仏教系の養蚕信仰の『馬鳴菩薩』、そして星福寺の『衣襲(きぬがさ)明神』について、そして、この地における 金色姫信仰について、考えてみます。
【馬鳴菩薩とは】
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》)で、
養蚕の神には、神道系の神、仏教系の神、民間信仰の神に分けられる旨を書きました、
(文献1、2、3)。
また同じく前回、星福寺の山門前の石碑に、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
という一文がある旨に触れましたが、星福寺の御本尊の『蚕霊尊』は『馬鳴菩薩』の化身とのこと。
あまり見慣れない『馬鳴菩薩』という菩薩様のお名前、『馬鳴』は『まーめい』と読みます。
文献2②によると、『馬鳴』と呼ばれる仏教の尊者は2名いて、
(i) 紀元前5世紀頃の人 : 南天竺付近の馬国の人。菩薩がこの国で蚕の姿で現れて口から糸を出し衣を作った。
馬国の人々はそれを喜んで、馬のように鳴いたから『馬鳴菩薩』
(ii) 紀元後2世紀頃の人:中印度摩掲陀国の人。仏門に入り、著作もいくつかある。
とのこと。
馬鳴菩薩信仰が、いつ日本に伝来したかはっきりしたことは不明ですが、平安時代後期の天台宗比叡山の僧が記した書物に、馬鳴菩薩と蚕の関わりが書かれているとのこと(文献2②)。
それが中世になると、馬鳴菩薩信仰は、
(A) 中世の頃には蚕の神としての信仰ははっきりしていた(文献2①)
(B) 中世の頃は、鎌倉時代の書物から、戦い(合戦)を守護する仏と蚕を守護する仏としての信仰の2系統が
あり、中世の頃に『蚕の守護としての馬鳴菩薩』という信仰が盛んだったかどうかははっきりしない(文献2②)。
と、研究者に寄っても意見が分かれるようです。
しかし少なくとも、
・平安時代以降、日本の書物に馬鳴菩薩の名が出てくる。
・(当時まだ盛んで無くても)蚕の守護をする菩薩という信仰はあった。
ということは云えそうです。
【きぬがさ(絹笠・衣笠・襲衣)明神とは】
『きぬがさ明神』という神様も一般には聞き慣れないお名前ですが、養蚕の守り神としては重要な神様です。
神道系でも仏教系でもない、民間信仰の養蚕の神の一つです。
星福寺の石碑にはその名が見られない『きぬがさ明神』ではありますが、江戸時代以降この神栖の地から広まった養蚕信仰を考える上で、
外せない神様です。
『きぬがさ明神』の『きぬがさ』は、『絹笠』/『衣笠』/『襲衣』と書かれますが、『絹笠明神』という漢字表記が多いようです(文献1、2、3)。
文献2②によると、『絹笠明神』の総本山は滋賀県安土町の繖山蚕實寺(きぬがささんくわのみでら)で、
同書によると『養蚕の始まりは語るが、その後の発展については曖昧で確実性がない』とのこと。
また関東にどのように伝えられたかも明らかでないそうです。
その一方、関東の絹笠信仰の中心が星福寺(蚕霊山千手院星福寺)で、こちらについては、江戸時代の記録から信仰が広がっていった足跡が分かり、今も、群馬県を中心に『きぬがさ信仰』が残っています(文献1、2,3)。
(写真は、群馬県 咲前神社の境内にある絹笠神社。2019年7月撮影。拝殿には由緒書きが置かれ、『【御神徳】養蚕・子育て・安産 養蚕県群馬の中でも、碓氷・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られる。「蚕の神」というと「絹笠様」ということである。この神のことはよくわかっていない。』とことですが、いろいろ示唆を含む説明だと思います。拝殿前には、繭、絹糸と、白蛇の姿の絵馬が奉納されていました)
【星福寺の襲衣(きぬがさ)明神】
(以下文献1、2より)
時は文政十年(西暦1827年)の正月二十日夕方、江戸の版元 鶴屋喜右衛門が、戯作者の曲亭馬琴宅に年始に訪ねて来ました。
曲亭馬琴は滝沢馬琴の別名。あの南総里見八犬伝の作者です。
酒を飲みながら歓談していましたが、その折に喜右衛門は『蚕の祖神の像/衣笠明神』の絵を馬琴に渡し、
その絵に『賛』(絵の由来や絵を讃える一文)を書いてくれるよう依頼してきました。
そこで錦絵として世に出て広く広まったのが、『養蚕祖神衣襲明神真影』という図。
『賛』を書いた『曲亭陳人』はこれまた滝沢馬琴の別名。
この時、衣笠明神の『きぬがさ』に対して、その霊験から、馬琴は『衣を重ね着する=衣服に不自由しない』という意味の『衣襲』という字を当てたようです(文献2)
文献2、文献3にある写真を見ると、その姿絵は共通して、右手に蚕の種紙(卵が産み付けられた紙)、左手に桑の枝を持った、唐風の衣装の女神。多色刷りで色鮮やか。まさに、錦絵です
衣装には、馬や蚕蛾や絹糸らしい模様もあります(時代により変化)。
馬琴が最初に賛を書いたオリジナルのものは不明とのことですが、おそらく似たデザインだったことでしょう。
今もお正月に『初絵』ということで七福神の絵など飾ることも多いかと思いますが、同じようにこの衣襲明神の絵も、正月にを飾る初絵として、人気を博したそうです。
経緯は不明とのことですが、鶴屋喜右衛門は、鹿島神宮の近く(江戸から見たら近く)にある寺(『千手院』らしい)から、『衣笠明神』の姿絵を手に入れ、それの絵を元に、豪華な錦絵の版画を販売したようです。
元の絵はどういうものだったかも不明とのこと。
江戸時代のある時期から、千住院(現在の星福寺)は、順番は不明ながら、『馬鳴菩薩』、『金色姫』も取り入れ、
『蚕霊尊』(『蚕の祖神』か)、『衣笠明神(衣襲明神)』を習合して、養蚕の盛んな地方へ布教したようです。
(神栖地区は砂地が多く、桑の木が育ちにくいのか、養蚕は盛んでなかったようです)
いろんな神仏が混淆した、みごとな日本の民衆の信仰の例としても、大変興味深いです。
【蚕霊神社・星福寺と金色姫の関係は?】
さていよいよ、金色姫譚とこの地の関係ですが、結論から言いますと、金色姫譚は後年になって神栖地域に入ってきたと言って良いと考えます。
上で見てきたように、星福寺が蚕を守護するとして本尊としたのは『蚕霊尊』。で、
『蚕霊尊』は、『馬鳴菩薩』とも『きぬがさ(衣襲)明神』とも混淆していますが、金色姫は全く出てきせん。
少なくとも、『衣襲明神』の絵姿が布教に使われるきっかけとなった文政十年(西暦1827年)では、『金色姫』の名は出てきません。
文献2①では、金色姫伝説がこの地で語られるようになったのは、『江戸時代のいつごろからか』としています。
私は、江戸時代もかなり後期、もしかすると明治に入った頃の可能性もあるように思っています。
布教先の地の多くの養蚕農家は、ほぼ女性。
蚕を育てる過酷な状況を乗り越える心の支えとして、いろんな神仏を信仰している。
しかも、養蚕の神仏の特徴は、共通点が女性の姿。
衣襲明神とも馬鳴菩薩とも、別の系統の金色姫も一緒に信仰していただろうことは想像に難くない。
星福寺(蚕霊神社)側も、はやりの『金色姫』も『導入』したけれど、寺としてはやはり金色姫譚は『よそ者』の信仰。
なので本堂では祀らず、『蚕霊神社』という社(いつ建立したか時期は不明)の神(蚕霊尊)とも関係する話として、金色姫譚を導入したのではないか・・・
私はそのように想像します。
また、神栖付近では、常陸国三蚕社の他の地域(つくば・日立)と違って、金色姫伝説にちなむはっきりとした地名や祠(跡)等が伝わっていないようですが、このことも、金色姫譚がこの地で定着していなかった傍証になるかと思います。
ちなみに、常陸国三蚕神社の他の2つ、つくば・蚕影山神社近くにも、日立・蚕養神社近くにも、金色姫譚にちなむ場所や地名が残ります。
★筑波山麓 蚕影山神社付近には、『船の宮』『太夫の宮(タルの宮)』の祠や祠跡。
以前書いた記事
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
★日立・蚕養神社の周辺には、現在は場所は不明のようですが、昭和初期に作られた和賛には、伝説にちなむ名所・地名が数多く歌われています。
以前書いた記事
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
さて、そういう観点も踏まえて、あらためて、神栖の地に伝わっている金色姫譚をみていきましょう。
神栖の地での金色姫譚を伝える(a)~(f) の6つの資料を比較しましたが、(d)以外は本当におおまかなあらすじだけの記載です。
(d)は詳しく話を記載していますが、ストーリーはほぼ今まで見てきた金色姫譚と同じ。
特記すべきは、(a)〜(f) に共通しているのは、どれも繭から糸・布にしてそれが広まったところまでで話は終わっていることです。富士山云々の下りも全くありません。
また、登場人物の名前などは微妙に違ってはいますので、それだけ抜き出しますと、
(a) 文献4に掲載の『金色姫の伝説』
・金色姫の父:なし
・金色姫を助けて、『姫の生まれ変わり』の白い虫を育てた人:日川の権太夫夫婦
・繭から糸と真綿を作ることを教えた人:一人の仙人(名前なし)
(b) 星福寺の石碑にある登場人物:
・金色姫の父:大王(名前不明)
・金色姫を助けて『蚕化した』姫を育てた人:漁士の黒塚権太夫
・繭を糸や布にすることを教えた人:(景凡)道仙人 ※(景凡)は偏が「景」旁が「凡」。読みは『ホン』か?
(c) 蚕霊神社にある神栖市教育委員会による看板にある登場人物:
・金色姫の父:天竺の霖夷国の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった金色姫から変わった虫を育てた人:
・繭を糸や布にすることを教えた人:不明(記載なし)
(d) 文献5より((b)にある署名の人と作者は同じ)登場人物:
・金色姫の父:印度の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった姫の身体にわいた虫を育てた人:日川の漁夫 権太(権太夫の写植ミスか?)、もしくは権太夫夫妻
・繭を糸や布にすることを教えた人:権太夫夫妻の夢に出てきた老人(名前不明)
(e) 文献6の『蚕霊神社』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:記載なし (※『金色姫』の名もなし。『古某邦渠曾の女』とだけ記載)
・金色姫を助けた人:漁師 青塚権太夫
・繭を糸・布にすることを教えた人:記載なし
(f) 文献7の『星福寺』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:中国の輪廻大王
・金色姫を育てた人:漁師の青塚梶太夫 (※『梶』は『権』の誤植か?)
・『糸を綿にすること』を教えた人:星福寺の住職であった法道上人
登場人物の名前などが微妙に違うのが、なかなか興味深いです。
そして、先にも書きましたが、どの話にも、富士山の話は出てきません。
富士山信仰は修験道などにも絡むので、宗派・思想的に相容れず、カットしたのかもしれませんね。
(そう読むと、また別の観点で興味深いです)
現実的に、神栖・日川付近について地形を考えると、海洋から何かが流れ着くとしても外洋側の海岸でしょう。神栖・日川付近は内海か、海から川を遡るような土地に位置します。
漕ぎ手のいる船なら分かりますが、漂着物が川の遡るように何かが流れ着くというのは、伝説とはいえ、やはり正直無理があります。
そういった訳で、金色姫譚がもし常陸国で生まれ育ったとしても、神栖の土地ではなさそうです・・・。
【『利根川図志』には星福寺(千住院)の記載は無い】
江戸時代末期、安政2年(1855年)に完成した『利根川図志』という書物があります(文献8)。
利根川の中流~下流域の名所・見どころなどを細かく記録した、今でいう観光ガイドブック。
図も多くて当時のことがよく分かる書物です。
江戸時代、『千手院』と呼ばれていたという星福寺ですが、この利根川図志では、星福寺の名も千手院の名も出てきませんし、衣襲明神についても何も触れられていません。
養蚕の神仏で有名だったお寺ですから、当然詣でる人も多そうですし、
文政十年(西暦1827年)の頃、当代きっての戯曲作家の曲亭馬琴によって描かれた衣襲明神の絵図もそれなりに人気を博したでしょうから、
それから、20年以上経った頃に書かれたガイドブックである利根川図志には、それなりに何か触れられていても良さそうなのですが。
もしかすると、この地ではそれほど有名な寺ではなかったのでしょうか?
江戸時代、人気だった東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)詣り。
その一つの息栖神社は、この近くですが、これは当然、利根川図志で触れられています。
しかし、千住院(星福寺)の名は出てきません。
利根川図志は、結構細かい見どころも書かれているガイドブックで、『○○堂』『○○明神』『○○石』など、地元の人の
信仰を集めているらしいローカルな寺社や信仰物も、逸話なども交えて書かれています。
なのに千住院の名は出てこない・・・残念ですが、これが意味するのは、地元の人から特に篤い信仰はなかったのでなないか?疑惑です。
神栖のあたりは砂地で桑が生育しにくく、もともと養蚕もあまり盛んではなかったと云います。
地元で養蚕が盛んでないので地元の信者が少なく、従って地元ではその名が知られていなかったため、
利根川図志にも書かれていなかった(一般の参拝者はいなかった)。
(そもそも養蚕の盛んでない土地で、養蚕信仰を掲げた千住院(星福寺)も、不思議といえば不思議)
千住院は、蚕の守護神仏の御利益を掲げて、養蚕の盛んでない地元でなく、遠方へ布教活動をしたのではないか。
そして、養蚕農家ある遠方の地では、当時の流行作家、曲亭馬琴=滝沢馬琴 の賛が書かれた衣襲(きぬがさ)明神の姿絵も出回り、
、千住院(星福寺)の神仏も信仰されて有名になった。
けれども養蚕の盛んでない地元では、あまり知られた寺院ではなかった。
・・・という状況が考えられるように、私は思っています。
ただよく考えてみると、このような土地で、江戸時代頃からか、星福寺(千住院)が蚕の神仏として、外部へ布教を精力的に
始め、明治の頃の養蚕業の振興の風に乗って、遠くの土地の信者が増えていったという経緯は大変面白いです。
しかも、当時の流行作家、滝沢(曲亭)馬琴が、今で言うコピーライターとなって、売り出し文句(賛)と、
アイキャッチばっちりな漢字(『きぬがさ明神』に『衣襲明神』の字) が書かれた、明神の絵姿(ポスター)が広く配布された。
・・・その手法もいきさつも大変興味深い。
また、この土地の利として注目すべきは、利根川です。
星福寺(千手院)は、利根川に接する地にあります。
船運の盛んな利根川を、船で上流に向かえば、養蚕の盛んな群馬方面に布教に行くのはどこの土地よりも容易。
これは、この神栖の土地ならではです
金色姫譚の伝説の地としては残念ではありますが、利根川の船運をも利用した、『現代的な宣伝戦略発祥の地』!?として考えると興味深い面白いのが、神栖の蚕霊神社・星福寺ではないでしょうか。
(写真は利根川に架かる橋から筑波山方面を望む。 2022年1月初旬撮影)
【おまけ1: 神栖近くにある『豊浦』の地名がある?】
さて、本当に、この地に、金色姫譚を伝える地名はないのか、少し範囲を広げて調べてみました。
すると神栖市ではありませんが、星福寺から5キロほど離れた利根川の向こう岸、千葉県香取市に『豊浦』の地名が残っているのが分かりました。
ここは、昔、豊浦村という村があったところです。
ところで、この地は、『常陸国』でなくて『下総国』ではあります。
しかし現在の利根川、江戸時代の治水工事前は鬼怒川が流れ、霞ケ浦(当時は内海)に流れ込むあたりは、
川の氾濫があるたびに、川の流れも変わり、常陸国と下総国の国境はあいまいだったと考えられます。
文献9によると、この豊浦村は養蚕が盛んだったとのこと。
しかし『豊浦』の名は、5つの村が合併した時に、良い名をということで『豊浦』の名が付けられたとのことで、
残念ながら、金色姫譚に出てくる『豊浦』とは関係なさそうです。
下総国だけど国境があいまいだったので、常陸国として外部に伝わった…とすると、話は面白いのですが・・・。
現在調べている範囲では、千葉県(下総国)ではどうも、金色姫譚のような伝説はなく、信仰もなかったようなのです。
やはり、残念ながら、利根川の下流や河口付近が金色姫伝説の発祥の地とするのは無理がありそうです。
【おまけ2:「息栖神社」の元の名は「於岐津説神社」だが】
東国三社の一つ、神栖の『息栖神社』は、中世の頃『於岐津説神社』と呼ばれていました(文献10)。
(写真は息栖神社の前にある、忍井。2022年1月初旬撮影)
そして、日立・川尻の蠶養神社の昔の名前も『於岐津説神社』ですが、江戸時代は『津神社』とも記録にあります。
詳細 → 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
ところで『津神社』という名のお社は、日立市川尻地区だけでなく、茨城県の海岸沿いに散見されます。
『於岐津説(おきつせ)』 → 『沖つ瀬』=沖にある瀬 ということで、
沖にある瀬を神格化して、船の航行安全や豊漁を祈ったのだろうと思われます。
そして息栖神社の祭神の『くなど神』も、船の交通・安全航行の神。
安全航行の神や豊漁の神として、海岸線沿いで勧請され祀られていったのが『於岐津説』ではないでしょうか。
または、そういった信仰対象をまとめて、いつの頃からか『於岐津説』と呼ぶようになったか。
同じ名前で気になりますが、日立の於岐津説神社(現在の蚕養神社)と、神栖の於岐津説神社(現在の息栖神社)
には、養蚕信仰の地としての関係(金色姫譚の繋がり的なもの)はないのではないかと、私は考えます。
以上で、常陸国三蚕神社の2つ目、神栖の蚕霊神社/星福寺 と 金色姫譚の関係については、ひとまず筆を納めます。
次回は、常陸国三蚕神社の3つ目、つくば・神郡の 蚕影山神社(蚕影神社)です。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
******************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
この中の解説 ① 『養蚕の神々』 阪本英一
② 『馬鳴菩薩の信仰』 生駒哲郎
③ 『蚕神信仰に関する一考察』 佐野亨介
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
8.『利根川図志』 赤松宗旦 著 柳田国男 校訂 岩波文庫
9,『千葉県香取郡史』(復刻版)千葉県香取郡役所 編纂 臨川書店 発行
10.『神栖町史 上巻』 神栖町史編さん委員会 編著 神栖町 発行
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています。
さて神栖市 蠶霊神社・星福寺の後編は、仏教系の養蚕信仰の『馬鳴菩薩』、そして星福寺の『衣襲(きぬがさ)明神』について、そして、この地における 金色姫信仰について、考えてみます。
蠶霊神社 | 星福寺 |
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【馬鳴菩薩とは】
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》)で、
養蚕の神には、神道系の神、仏教系の神、民間信仰の神に分けられる旨を書きました、
(文献1、2、3)。
また同じく前回、星福寺の山門前の石碑に、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
という一文がある旨に触れましたが、星福寺の御本尊の『蚕霊尊』は『馬鳴菩薩』の化身とのこと。
あまり見慣れない『馬鳴菩薩』という菩薩様のお名前、『馬鳴』は『まーめい』と読みます。
文献2②によると、『馬鳴』と呼ばれる仏教の尊者は2名いて、
(i) 紀元前5世紀頃の人 : 南天竺付近の馬国の人。菩薩がこの国で蚕の姿で現れて口から糸を出し衣を作った。
馬国の人々はそれを喜んで、馬のように鳴いたから『馬鳴菩薩』
(ii) 紀元後2世紀頃の人:中印度摩掲陀国の人。仏門に入り、著作もいくつかある。
とのこと。
馬鳴菩薩信仰が、いつ日本に伝来したかはっきりしたことは不明ですが、平安時代後期の天台宗比叡山の僧が記した書物に、馬鳴菩薩と蚕の関わりが書かれているとのこと(文献2②)。
それが中世になると、馬鳴菩薩信仰は、
(A) 中世の頃には蚕の神としての信仰ははっきりしていた(文献2①)
(B) 中世の頃は、鎌倉時代の書物から、戦い(合戦)を守護する仏と蚕を守護する仏としての信仰の2系統が
あり、中世の頃に『蚕の守護としての馬鳴菩薩』という信仰が盛んだったかどうかははっきりしない(文献2②)。
と、研究者に寄っても意見が分かれるようです。
しかし少なくとも、
・平安時代以降、日本の書物に馬鳴菩薩の名が出てくる。
・(当時まだ盛んで無くても)蚕の守護をする菩薩という信仰はあった。
ということは云えそうです。
【きぬがさ(絹笠・衣笠・襲衣)明神とは】
『きぬがさ明神』という神様も一般には聞き慣れないお名前ですが、養蚕の守り神としては重要な神様です。
神道系でも仏教系でもない、民間信仰の養蚕の神の一つです。
星福寺の石碑にはその名が見られない『きぬがさ明神』ではありますが、江戸時代以降この神栖の地から広まった養蚕信仰を考える上で、
外せない神様です。
『きぬがさ明神』の『きぬがさ』は、『絹笠』/『衣笠』/『襲衣』と書かれますが、『絹笠明神』という漢字表記が多いようです(文献1、2、3)。
文献2②によると、『絹笠明神』の総本山は滋賀県安土町の繖山蚕實寺(きぬがささんくわのみでら)で、
同書によると『養蚕の始まりは語るが、その後の発展については曖昧で確実性がない』とのこと。
また関東にどのように伝えられたかも明らかでないそうです。
その一方、関東の絹笠信仰の中心が星福寺(蚕霊山千手院星福寺)で、こちらについては、江戸時代の記録から信仰が広がっていった足跡が分かり、今も、群馬県を中心に『きぬがさ信仰』が残っています(文献1、2,3)。
(写真は、群馬県 咲前神社の境内にある絹笠神社。2019年7月撮影。拝殿には由緒書きが置かれ、『【御神徳】養蚕・子育て・安産 養蚕県群馬の中でも、碓氷・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られる。「蚕の神」というと「絹笠様」ということである。この神のことはよくわかっていない。』とことですが、いろいろ示唆を含む説明だと思います。拝殿前には、繭、絹糸と、白蛇の姿の絵馬が奉納されていました)
【星福寺の襲衣(きぬがさ)明神】
(以下文献1、2より)
時は文政十年(西暦1827年)の正月二十日夕方、江戸の版元 鶴屋喜右衛門が、戯作者の曲亭馬琴宅に年始に訪ねて来ました。
曲亭馬琴は滝沢馬琴の別名。あの南総里見八犬伝の作者です。
酒を飲みながら歓談していましたが、その折に喜右衛門は『蚕の祖神の像/衣笠明神』の絵を馬琴に渡し、
その絵に『賛』(絵の由来や絵を讃える一文)を書いてくれるよう依頼してきました。
そこで錦絵として世に出て広く広まったのが、『養蚕祖神衣襲明神真影』という図。
『賛』を書いた『曲亭陳人』はこれまた滝沢馬琴の別名。
この時、衣笠明神の『きぬがさ』に対して、その霊験から、馬琴は『衣を重ね着する=衣服に不自由しない』という意味の『衣襲』という字を当てたようです(文献2)
文献2、文献3にある写真を見ると、その姿絵は共通して、右手に蚕の種紙(卵が産み付けられた紙)、左手に桑の枝を持った、唐風の衣装の女神。多色刷りで色鮮やか。まさに、錦絵です
衣装には、馬や蚕蛾や絹糸らしい模様もあります(時代により変化)。
馬琴が最初に賛を書いたオリジナルのものは不明とのことですが、おそらく似たデザインだったことでしょう。
今もお正月に『初絵』ということで七福神の絵など飾ることも多いかと思いますが、同じようにこの衣襲明神の絵も、正月にを飾る初絵として、人気を博したそうです。
経緯は不明とのことですが、鶴屋喜右衛門は、鹿島神宮の近く(江戸から見たら近く)にある寺(『千手院』らしい)から、『衣笠明神』の姿絵を手に入れ、それの絵を元に、豪華な錦絵の版画を販売したようです。
元の絵はどういうものだったかも不明とのこと。
江戸時代のある時期から、千住院(現在の星福寺)は、順番は不明ながら、『馬鳴菩薩』、『金色姫』も取り入れ、
『蚕霊尊』(『蚕の祖神』か)、『衣笠明神(衣襲明神)』を習合して、養蚕の盛んな地方へ布教したようです。
(神栖地区は砂地が多く、桑の木が育ちにくいのか、養蚕は盛んでなかったようです)
いろんな神仏が混淆した、みごとな日本の民衆の信仰の例としても、大変興味深いです。
【蚕霊神社・星福寺と金色姫の関係は?】
さていよいよ、金色姫譚とこの地の関係ですが、結論から言いますと、金色姫譚は後年になって神栖地域に入ってきたと言って良いと考えます。
上で見てきたように、星福寺が蚕を守護するとして本尊としたのは『蚕霊尊』。で、
『蚕霊尊』は、『馬鳴菩薩』とも『きぬがさ(衣襲)明神』とも混淆していますが、金色姫は全く出てきせん。
少なくとも、『衣襲明神』の絵姿が布教に使われるきっかけとなった文政十年(西暦1827年)では、『金色姫』の名は出てきません。
文献2①では、金色姫伝説がこの地で語られるようになったのは、『江戸時代のいつごろからか』としています。
私は、江戸時代もかなり後期、もしかすると明治に入った頃の可能性もあるように思っています。
布教先の地の多くの養蚕農家は、ほぼ女性。
蚕を育てる過酷な状況を乗り越える心の支えとして、いろんな神仏を信仰している。
しかも、養蚕の神仏の特徴は、共通点が女性の姿。
衣襲明神とも馬鳴菩薩とも、別の系統の金色姫も一緒に信仰していただろうことは想像に難くない。
星福寺(蚕霊神社)側も、はやりの『金色姫』も『導入』したけれど、寺としてはやはり金色姫譚は『よそ者』の信仰。
なので本堂では祀らず、『蚕霊神社』という社(いつ建立したか時期は不明)の神(蚕霊尊)とも関係する話として、金色姫譚を導入したのではないか・・・
私はそのように想像します。
また、神栖付近では、常陸国三蚕社の他の地域(つくば・日立)と違って、金色姫伝説にちなむはっきりとした地名や祠(跡)等が伝わっていないようですが、このことも、金色姫譚がこの地で定着していなかった傍証になるかと思います。
ちなみに、常陸国三蚕神社の他の2つ、つくば・蚕影山神社近くにも、日立・蚕養神社近くにも、金色姫譚にちなむ場所や地名が残ります。
★筑波山麓 蚕影山神社付近には、『船の宮』『太夫の宮(タルの宮)』の祠や祠跡。
以前書いた記事
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
★日立・蚕養神社の周辺には、現在は場所は不明のようですが、昭和初期に作られた和賛には、伝説にちなむ名所・地名が数多く歌われています。
以前書いた記事
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
さて、そういう観点も踏まえて、あらためて、神栖の地に伝わっている金色姫譚をみていきましょう。
神栖の地での金色姫譚を伝える(a)~(f) の6つの資料を比較しましたが、(d)以外は本当におおまかなあらすじだけの記載です。
(d)は詳しく話を記載していますが、ストーリーはほぼ今まで見てきた金色姫譚と同じ。
特記すべきは、(a)〜(f) に共通しているのは、どれも繭から糸・布にしてそれが広まったところまでで話は終わっていることです。富士山云々の下りも全くありません。
また、登場人物の名前などは微妙に違ってはいますので、それだけ抜き出しますと、
(a) 文献4に掲載の『金色姫の伝説』
・金色姫の父:なし
・金色姫を助けて、『姫の生まれ変わり』の白い虫を育てた人:日川の権太夫夫婦
・繭から糸と真綿を作ることを教えた人:一人の仙人(名前なし)
(b) 星福寺の石碑にある登場人物:
・金色姫の父:大王(名前不明)
・金色姫を助けて『蚕化した』姫を育てた人:漁士の黒塚権太夫
・繭を糸や布にすることを教えた人:(景凡)道仙人 ※(景凡)は偏が「景」旁が「凡」。読みは『ホン』か?
(c) 蚕霊神社にある神栖市教育委員会による看板にある登場人物:
・金色姫の父:天竺の霖夷国の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった金色姫から変わった虫を育てた人:
・繭を糸や布にすることを教えた人:不明(記載なし)
(d) 文献5より((b)にある署名の人と作者は同じ)登場人物:
・金色姫の父:印度の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった姫の身体にわいた虫を育てた人:日川の漁夫 権太(権太夫の写植ミスか?)、もしくは権太夫夫妻
・繭を糸や布にすることを教えた人:権太夫夫妻の夢に出てきた老人(名前不明)
(e) 文献6の『蚕霊神社』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:記載なし (※『金色姫』の名もなし。『古某邦渠曾の女』とだけ記載)
・金色姫を助けた人:漁師 青塚権太夫
・繭を糸・布にすることを教えた人:記載なし
(f) 文献7の『星福寺』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:中国の輪廻大王
・金色姫を育てた人:漁師の青塚梶太夫 (※『梶』は『権』の誤植か?)
・『糸を綿にすること』を教えた人:星福寺の住職であった法道上人
登場人物の名前などが微妙に違うのが、なかなか興味深いです。
そして、先にも書きましたが、どの話にも、富士山の話は出てきません。
富士山信仰は修験道などにも絡むので、宗派・思想的に相容れず、カットしたのかもしれませんね。
(そう読むと、また別の観点で興味深いです)
現実的に、神栖・日川付近について地形を考えると、海洋から何かが流れ着くとしても外洋側の海岸でしょう。神栖・日川付近は内海か、海から川を遡るような土地に位置します。
漕ぎ手のいる船なら分かりますが、漂着物が川の遡るように何かが流れ着くというのは、伝説とはいえ、やはり正直無理があります。
そういった訳で、金色姫譚がもし常陸国で生まれ育ったとしても、神栖の土地ではなさそうです・・・。
【『利根川図志』には星福寺(千住院)の記載は無い】
江戸時代末期、安政2年(1855年)に完成した『利根川図志』という書物があります(文献8)。
利根川の中流~下流域の名所・見どころなどを細かく記録した、今でいう観光ガイドブック。
図も多くて当時のことがよく分かる書物です。
江戸時代、『千手院』と呼ばれていたという星福寺ですが、この利根川図志では、星福寺の名も千手院の名も出てきませんし、衣襲明神についても何も触れられていません。
養蚕の神仏で有名だったお寺ですから、当然詣でる人も多そうですし、
文政十年(西暦1827年)の頃、当代きっての戯曲作家の曲亭馬琴によって描かれた衣襲明神の絵図もそれなりに人気を博したでしょうから、
それから、20年以上経った頃に書かれたガイドブックである利根川図志には、それなりに何か触れられていても良さそうなのですが。
もしかすると、この地ではそれほど有名な寺ではなかったのでしょうか?
江戸時代、人気だった東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)詣り。
その一つの息栖神社は、この近くですが、これは当然、利根川図志で触れられています。
しかし、千住院(星福寺)の名は出てきません。
利根川図志は、結構細かい見どころも書かれているガイドブックで、『○○堂』『○○明神』『○○石』など、地元の人の
信仰を集めているらしいローカルな寺社や信仰物も、逸話なども交えて書かれています。
なのに千住院の名は出てこない・・・残念ですが、これが意味するのは、地元の人から特に篤い信仰はなかったのでなないか?疑惑です。
神栖のあたりは砂地で桑が生育しにくく、もともと養蚕もあまり盛んではなかったと云います。
地元で養蚕が盛んでないので地元の信者が少なく、従って地元ではその名が知られていなかったため、
利根川図志にも書かれていなかった(一般の参拝者はいなかった)。
(そもそも養蚕の盛んでない土地で、養蚕信仰を掲げた千住院(星福寺)も、不思議といえば不思議)
千住院は、蚕の守護神仏の御利益を掲げて、養蚕の盛んでない地元でなく、遠方へ布教活動をしたのではないか。
そして、養蚕農家ある遠方の地では、当時の流行作家、曲亭馬琴=滝沢馬琴 の賛が書かれた衣襲(きぬがさ)明神の姿絵も出回り、
、千住院(星福寺)の神仏も信仰されて有名になった。
けれども養蚕の盛んでない地元では、あまり知られた寺院ではなかった。
・・・という状況が考えられるように、私は思っています。
ただよく考えてみると、このような土地で、江戸時代頃からか、星福寺(千住院)が蚕の神仏として、外部へ布教を精力的に
始め、明治の頃の養蚕業の振興の風に乗って、遠くの土地の信者が増えていったという経緯は大変面白いです。
しかも、当時の流行作家、滝沢(曲亭)馬琴が、今で言うコピーライターとなって、売り出し文句(賛)と、
アイキャッチばっちりな漢字(『きぬがさ明神』に『衣襲明神』の字) が書かれた、明神の絵姿(ポスター)が広く配布された。
・・・その手法もいきさつも大変興味深い。
また、この土地の利として注目すべきは、利根川です。
星福寺(千手院)は、利根川に接する地にあります。
船運の盛んな利根川を、船で上流に向かえば、養蚕の盛んな群馬方面に布教に行くのはどこの土地よりも容易。
これは、この神栖の土地ならではです
金色姫譚の伝説の地としては残念ではありますが、利根川の船運をも利用した、『現代的な宣伝戦略発祥の地』!?として考えると興味深い面白いのが、神栖の蚕霊神社・星福寺ではないでしょうか。
(写真は利根川に架かる橋から筑波山方面を望む。 2022年1月初旬撮影)
【おまけ1: 神栖近くにある『豊浦』の地名がある?】
さて、本当に、この地に、金色姫譚を伝える地名はないのか、少し範囲を広げて調べてみました。
すると神栖市ではありませんが、星福寺から5キロほど離れた利根川の向こう岸、千葉県香取市に『豊浦』の地名が残っているのが分かりました。
ここは、昔、豊浦村という村があったところです。
ところで、この地は、『常陸国』でなくて『下総国』ではあります。
しかし現在の利根川、江戸時代の治水工事前は鬼怒川が流れ、霞ケ浦(当時は内海)に流れ込むあたりは、
川の氾濫があるたびに、川の流れも変わり、常陸国と下総国の国境はあいまいだったと考えられます。
文献9によると、この豊浦村は養蚕が盛んだったとのこと。
しかし『豊浦』の名は、5つの村が合併した時に、良い名をということで『豊浦』の名が付けられたとのことで、
残念ながら、金色姫譚に出てくる『豊浦』とは関係なさそうです。
下総国だけど国境があいまいだったので、常陸国として外部に伝わった…とすると、話は面白いのですが・・・。
現在調べている範囲では、千葉県(下総国)ではどうも、金色姫譚のような伝説はなく、信仰もなかったようなのです。
やはり、残念ながら、利根川の下流や河口付近が金色姫伝説の発祥の地とするのは無理がありそうです。
【おまけ2:「息栖神社」の元の名は「於岐津説神社」だが】
東国三社の一つ、神栖の『息栖神社』は、中世の頃『於岐津説神社』と呼ばれていました(文献10)。
(写真は息栖神社の前にある、忍井。2022年1月初旬撮影)
そして、日立・川尻の蠶養神社の昔の名前も『於岐津説神社』ですが、江戸時代は『津神社』とも記録にあります。
詳細 → 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
ところで『津神社』という名のお社は、日立市川尻地区だけでなく、茨城県の海岸沿いに散見されます。
『於岐津説(おきつせ)』 → 『沖つ瀬』=沖にある瀬 ということで、
沖にある瀬を神格化して、船の航行安全や豊漁を祈ったのだろうと思われます。
そして息栖神社の祭神の『くなど神』も、船の交通・安全航行の神。
安全航行の神や豊漁の神として、海岸線沿いで勧請され祀られていったのが『於岐津説』ではないでしょうか。
または、そういった信仰対象をまとめて、いつの頃からか『於岐津説』と呼ぶようになったか。
同じ名前で気になりますが、日立の於岐津説神社(現在の蚕養神社)と、神栖の於岐津説神社(現在の息栖神社)
には、養蚕信仰の地としての関係(金色姫譚の繋がり的なもの)はないのではないかと、私は考えます。
以上で、常陸国三蚕神社の2つ目、神栖の蚕霊神社/星福寺 と 金色姫譚の関係については、ひとまず筆を納めます。
次回は、常陸国三蚕神社の3つ目、つくば・神郡の 蚕影山神社(蚕影神社)です。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
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【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
この中の解説 ① 『養蚕の神々』 阪本英一
② 『馬鳴菩薩の信仰』 生駒哲郎
③ 『蚕神信仰に関する一考察』 佐野亨介
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
8.『利根川図志』 赤松宗旦 著 柳田国男 校訂 岩波文庫
9,『千葉県香取郡史』(復刻版)千葉県香取郡役所 編纂 臨川書店 発行
10.『神栖町史 上巻』 神栖町史編さん委員会 編著 神栖町 発行
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