2022年05月14日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。

常陸国三蚕神社を考える3つ目は、地元、つくば市の蚕影山(蚕影)神社です。
(写真は2021年10月下旬撮影)
蚕影山神社か?蚕影神社か? 名前が2通りありますが、当ブログでは、『蚕影山神社』で統一して書きます。
蚕影山神社(蚕影神社)については、以前、詳細に取り上げました。
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
これらの記事と重複する部分もありますので、適宜、それをご覧頂きながら、今回のシリーズのメインテーマ、金色姫譚は常陸国のどこに伝わり育まれたか?について、蚕影山神社とその地域の可能性を考えていきます。
まず結論から言うと、すでに
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
で書きましたが、常陸国三蚕神社の中では、筑波山麓・蚕影山神社付近の可能性は低いと考えています。
それは何故かについても含めて、以下述べます。
【金色姫譚は、筑波山/筑波山麓(蚕影山)が本場なのか?】

<写真は、蚕影山神社境内に奉納されている絵馬や額の数々。写真中央は、金色姫譚の一場面を描いた絵馬。(2021年10月下旬撮影)>
今に伝わる金色姫譚は、筑波山系の蚕影山で生まれたと思われることも多いようです。実際、金色姫譚にまつわる祠なども、蚕影山神社の付近に点在(詳細: 以前の記事 → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 )するので、尚更ロマンを感じるのかもしれません
。
加えて、
● 古来から絹織物が盛んだった筑波山麓から絹織物が古来から収められている物的証拠が実際、正倉院に残っている。
● 万葉集にも、筑波山麓の養蚕・絹生産を直接感じさせる歌がある。
『万葉集 巻第十四 3350番 筑波嶺の 新桑繭の衣はあれど 君がみ衣しし あやに着欲も』 (文献1)
ということから、当然、筑波山麓では古来から『養蚕や織物に関する信仰』もあるはずと考えるからでしょう。
確かにそうではありますが、その『養蚕や織物に関する信仰』が、金色姫譚と関係があったかどうかは分かりません
。
別の信仰があった可能性も大きいですし、実際、伝わっていた別の伝説もあります(後述)。

<写真は、筑波山南麓から蚕影山を望む (2018年4月撮影)>
そして、たとえ素直に伝説を信じて『ここまで内海が来ていた』としても、外洋からここまで、漂着物が直接流れ着くとは、地形的に考え難い
。
(外洋から内海=現在の霞ヶ浦 に入り、桜川を遡って、『意図的に』舟を漕いで入ってくるなら分かりますが)
以前の記事
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
で詳述しましたが、この地においては、
★江戸時代中頃、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、金色姫譚も加えて布教したらしいと考えられる。
★『筑波山名跡誌』 安永九年(1780年)刊 (桑林寺が布教を始めたらしい時期の少し以前の頃に成立)には、金色姫譚については何も触れらおらず、全く別の蚕にまつわる伝説(後述)が記載されている。(文献2)
ことが言えます。
さて、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の『廿八社略縁誌巻之二』という書の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあり、『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた話を記しているがとのこと。
加えて社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』も上げられているとの記載があるそうです(文献3)。
つまり、1781年頃(『筑波山名跡誌」成立の頃)~1797年頃(『廿八社略縁誌巻之二』成立の頃)の16年間位の間に、
この筑波山麓・蚕影山で、金色姫譚が流布・巷説されるようになったと考えられないでしょうか。
そしてこの時期は、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、蚕影山明神の布教を広げた時期と同じ頃なのです。
現時点で分かっている、金色姫譚が記録されている最も古い記録は、このシリーズでも何度か触れてきましたが、永禄元年(1558年) 年成立の『戒言(かいこ)』で、『各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた』云々のくだりもすでにあります(文献4)。

<写真は、桑林寺跡付近。2019年3月撮影>
1558年頃と1797年頃では、約240年もの間があり、その間 『戒言』(金色姫譚)はどう広められていったのか?というミッシングリングは埋まりませんが、240年後の江戸中期、桑林寺が蚕影山明神の布教を本気でしようとした場合、やはり『筑波山のほんどう仙人』が出てくる『戒言』の金色姫をも習合して布教したのではないでしょうか。
もしかすると、『戒言』(金色姫譚)は当時、既に全国的に知られていた話だったのかもしれません。
また江戸時代になり、筑波山(当時は中禅寺)参詣者が増えて、同時に筑波山麓の桑林寺・蚕影山神社への参拝者も結構いたのかもしれません。
そこで、テーマパークのように、金色姫譚にちなんだ名所・祠を、当時の境内やその付近に作ったのではないでしょうか。
(テーマパーク的な施設というか演出は、『疑似体験する』という体験をするわけで、宗教施設としても重要です)
以上の見てきたように、つくば市民の私としては残念ですが
、筑波山麓・蚕影山神社付近が、『金色姫譚発祥の地』とするのは無理があると私は考えます。
しかし、この地で古くから養蚕・絹織物生産が行われたのははっきりしていますし、民衆の信仰の歴史を考える上でも魅力的な土地であることに、変わりはありません
。
事実、安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』にも、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』
とあり、金色姫譚があろうがなかろうが、この地は古くから、『日本養蚕の始まり』と言われてきたのも事実なのですから
。
(なお、この地に金色姫譚とは別に伝わる伝説については、後述する【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】もお読み下さい)
【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】
金色姫譚とは別の、蚕にまつわる伝説です。
以前の記事(蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議 http://cardamom.tsukuba.ch/e332790.html)より抜粋
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説のあらすじ(文献2)
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
金色姫譚と似ているところは、あえて言えば、
・船/舟 に乗ってきた
・1つの玉(繭的なもの)を残していなくなった(去った/亡くなった)
だけです。
そして、
・神人が残した「玉」を、村人は祀った
・「玉」は昼夜光り輝き、光が至る所に、蚕と桑が生じた。
・「玉」はワカムスビノミコト(日本神話の神)である。
のくだりは、金色姫譚とは違う系統の伝説だということが分かります。
この伝説は少なくとも、『筑波山名跡誌』が成立した1772年~1781年頃には伝わっているのははっきりしています。
しかし、どういう理由からか伝えられなくなった もしくは、金色姫譚に取って代わられたようです。
それで、注目したいのは、あらすじの冒頭
『ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った』
の部分です。
この地の絹が、正倉院に納められてること、万葉集にも謳われていることなど、古代から養蚕・絹生産の地であったのは確かです。
そして、養蚕技術がこの地に伝わった可能性として、蚕の卵と養蚕技術を持った人達が、
『外洋から、内海=現在の霞ヶ浦に入り、桜川を遡って、舟で「意図的に」漕いで入ってきた』
ということを伝説化して伝えてきたということは、十分考えられます。

筑波山は、海からもランドマークとしてよく見え、銚子の漁師さん達も古くから筑波山を信仰していると聞きます。
<写真は、霞ヶ浦の入り口・潮来付近から筑波山を望む(2022年1月上旬撮影)>
『あの山の麓なら、蚕を育てる桑の木もあるだろうし、桑をたくさん栽培して蚕もたくさん育てられるだろう』
そう思って、筑波山を目指して、内海(今の霞ヶ浦)の注ぐ川(例えば桜川)を舟
で遡って筑波山麓に入り、ここに入植して桑を育て
、蚕を育て、絹を作った人々がいた。
・・・こちらの方が自然に納得できます
。

<写真は、桜川(つくば市小田付近)から筑波山を望む(2019年7月撮影)>
なので、筑波山麓の伝説としては、金色姫譚とは別の伝説であるこちらの話に、個人的には注目したいです
。
(しかし、これ以上の情報は伝わっていないようなのが残念・・・)
日立・蠶養神社、神栖・蠶霊神社、そして今回の つくば・蚕霊山神社を、それぞれ個別に見てきました。
以上で、金色姫譚と常陸国蚕三神社のそれぞれの関係については、ひとまず筆をおきます。
次回は、このシリーズの
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
で述べた仮説を再考し、今までの総括も含め、金色姫譚が流布された背景・時代について考察し、まとめたいと思います。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
-----------------------------
【参考文献】
1.『万葉集 常陸の歌 -作品解釈と鑑賞へのしるべ- 上』 有馬徳 著 筑波書林
2.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
3.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86
『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話








物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています


常陸国三蚕神社を考える3つ目は、地元、つくば市の蚕影山(蚕影)神社です。
(写真は2021年10月下旬撮影)
蚕影山神社か?蚕影神社か? 名前が2通りありますが、当ブログでは、『蚕影山神社』で統一して書きます。
蚕影山神社(蚕影神社)については、以前、詳細に取り上げました。
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
これらの記事と重複する部分もありますので、適宜、それをご覧頂きながら、今回のシリーズのメインテーマ、金色姫譚は常陸国のどこに伝わり育まれたか?について、蚕影山神社とその地域の可能性を考えていきます。
まず結論から言うと、すでに
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
で書きましたが、常陸国三蚕神社の中では、筑波山麓・蚕影山神社付近の可能性は低いと考えています。
それは何故かについても含めて、以下述べます。
【金色姫譚は、筑波山/筑波山麓(蚕影山)が本場なのか?】

<写真は、蚕影山神社境内に奉納されている絵馬や額の数々。写真中央は、金色姫譚の一場面を描いた絵馬。(2021年10月下旬撮影)>
今に伝わる金色姫譚は、筑波山系の蚕影山で生まれたと思われることも多いようです。実際、金色姫譚にまつわる祠なども、蚕影山神社の付近に点在(詳細: 以前の記事 → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 )するので、尚更ロマンを感じるのかもしれません

加えて、
● 古来から絹織物が盛んだった筑波山麓から絹織物が古来から収められている物的証拠が実際、正倉院に残っている。
● 万葉集にも、筑波山麓の養蚕・絹生産を直接感じさせる歌がある。
『万葉集 巻第十四 3350番 筑波嶺の 新桑繭の衣はあれど 君がみ衣しし あやに着欲も』 (文献1)
ということから、当然、筑波山麓では古来から『養蚕や織物に関する信仰』もあるはずと考えるからでしょう。
確かにそうではありますが、その『養蚕や織物に関する信仰』が、金色姫譚と関係があったかどうかは分かりません

別の信仰があった可能性も大きいですし、実際、伝わっていた別の伝説もあります(後述)。

<写真は、筑波山南麓から蚕影山を望む (2018年4月撮影)>
そして、たとえ素直に伝説を信じて『ここまで内海が来ていた』としても、外洋からここまで、漂着物が直接流れ着くとは、地形的に考え難い

(外洋から内海=現在の霞ヶ浦 に入り、桜川を遡って、『意図的に』舟を漕いで入ってくるなら分かりますが)
以前の記事
→ 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
で詳述しましたが、この地においては、
★江戸時代中頃、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、金色姫譚も加えて布教したらしいと考えられる。
★『筑波山名跡誌』 安永九年(1780年)刊 (桑林寺が布教を始めたらしい時期の少し以前の頃に成立)には、金色姫譚については何も触れらおらず、全く別の蚕にまつわる伝説(後述)が記載されている。(文献2)
ことが言えます。
さて、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の『廿八社略縁誌巻之二』という書の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあり、『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた話を記しているがとのこと。
加えて社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』も上げられているとの記載があるそうです(文献3)。
つまり、1781年頃(『筑波山名跡誌」成立の頃)~1797年頃(『廿八社略縁誌巻之二』成立の頃)の16年間位の間に、
この筑波山麓・蚕影山で、金色姫譚が流布・巷説されるようになったと考えられないでしょうか。
そしてこの時期は、蚕影山神社の別当寺の桑林寺が、蚕影山明神の布教を広げた時期と同じ頃なのです。
現時点で分かっている、金色姫譚が記録されている最も古い記録は、このシリーズでも何度か触れてきましたが、永禄元年(1558年) 年成立の『戒言(かいこ)』で、『各耶(かぐや)姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に飛んで行かれた』云々のくだりもすでにあります(文献4)。

<写真は、桑林寺跡付近。2019年3月撮影>
1558年頃と1797年頃では、約240年もの間があり、その間 『戒言』(金色姫譚)はどう広められていったのか?というミッシングリングは埋まりませんが、240年後の江戸中期、桑林寺が蚕影山明神の布教を本気でしようとした場合、やはり『筑波山のほんどう仙人』が出てくる『戒言』の金色姫をも習合して布教したのではないでしょうか。
もしかすると、『戒言』(金色姫譚)は当時、既に全国的に知られていた話だったのかもしれません。
また江戸時代になり、筑波山(当時は中禅寺)参詣者が増えて、同時に筑波山麓の桑林寺・蚕影山神社への参拝者も結構いたのかもしれません。
そこで、テーマパークのように、金色姫譚にちなんだ名所・祠を、当時の境内やその付近に作ったのではないでしょうか。
(テーマパーク的な施設というか演出は、『疑似体験する』という体験をするわけで、宗教施設としても重要です)
以上の見てきたように、つくば市民の私としては残念ですが

しかし、この地で古くから養蚕・絹織物生産が行われたのははっきりしていますし、民衆の信仰の歴史を考える上でも魅力的な土地であることに、変わりはありません

事実、安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』にも、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』
とあり、金色姫譚があろうがなかろうが、この地は古くから、『日本養蚕の始まり』と言われてきたのも事実なのですから

(なお、この地に金色姫譚とは別に伝わる伝説については、後述する【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】もお読み下さい)
【おまけの考察:『筑波山名跡誌』にある蚕影山の伝説について】
金色姫譚とは別の、蚕にまつわる伝説です。
以前の記事(蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議 http://cardamom.tsukuba.ch/e332790.html)より抜粋
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説のあらすじ(文献2)
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
金色姫譚と似ているところは、あえて言えば、
・船/舟 に乗ってきた
・1つの玉(繭的なもの)を残していなくなった(去った/亡くなった)
だけです。
そして、
・神人が残した「玉」を、村人は祀った
・「玉」は昼夜光り輝き、光が至る所に、蚕と桑が生じた。
・「玉」はワカムスビノミコト(日本神話の神)である。
のくだりは、金色姫譚とは違う系統の伝説だということが分かります。
この伝説は少なくとも、『筑波山名跡誌』が成立した1772年~1781年頃には伝わっているのははっきりしています。
しかし、どういう理由からか伝えられなくなった もしくは、金色姫譚に取って代わられたようです。
それで、注目したいのは、あらすじの冒頭
『ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った』
の部分です。
この地の絹が、正倉院に納められてること、万葉集にも謳われていることなど、古代から養蚕・絹生産の地であったのは確かです。
そして、養蚕技術がこの地に伝わった可能性として、蚕の卵と養蚕技術を持った人達が、
『外洋から、内海=現在の霞ヶ浦に入り、桜川を遡って、舟で「意図的に」漕いで入ってきた』
ということを伝説化して伝えてきたということは、十分考えられます。

筑波山は、海からもランドマークとしてよく見え、銚子の漁師さん達も古くから筑波山を信仰していると聞きます。
<写真は、霞ヶ浦の入り口・潮来付近から筑波山を望む(2022年1月上旬撮影)>
『あの山の麓なら、蚕を育てる桑の木もあるだろうし、桑をたくさん栽培して蚕もたくさん育てられるだろう』
そう思って、筑波山を目指して、内海(今の霞ヶ浦)の注ぐ川(例えば桜川)を舟


・・・こちらの方が自然に納得できます


<写真は、桜川(つくば市小田付近)から筑波山を望む(2019年7月撮影)>
なので、筑波山麓の伝説としては、金色姫譚とは別の伝説であるこちらの話に、個人的には注目したいです

(しかし、これ以上の情報は伝わっていないようなのが残念・・・)
日立・蠶養神社、神栖・蠶霊神社、そして今回の つくば・蚕霊山神社を、それぞれ個別に見てきました。
以上で、金色姫譚と常陸国蚕三神社のそれぞれの関係については、ひとまず筆をおきます。
次回は、このシリーズの

で述べた仮説を再考し、今までの総括も含め、金色姫譚が流布された背景・時代について考察し、まとめたいと思います。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚
-----------------------------
【参考文献】
1.『万葉集 常陸の歌 -作品解釈と鑑賞へのしるべ- 上』 有馬徳 著 筑波書林
2.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
3.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86
『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
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つくば・神郡 筑波山麓秋祭り お行屋公開とお接待
常陸国に伝わる鎌倉・三浦に関係する伝説 &八田知家と三浦義村の関係?!
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Posted by かるだ もん at 16:46│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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