2022年02月19日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
まず、今回は養蚕を守る神仏について改めて書きます。
といいますのも、特に養蚕を守る神仏については混淆が激しいようで、明治以前はもちろんのこと、神仏分離された明治以降になっても、表面上は分かれているようですが、信仰する人々の心情は、混淆したままで続いてようで、特に今回取り上げる、神栖の蠶霊神社・星福寺は、それがはっきり感じるからです。
養蚕を守る神仏は実は多くあります。
大きく分けて、神道系、仏教系、民間信仰系の神仏に分けられます(文献1、2、3、4)。
それらの神仏の詳細については当ブログでは触れませんが、茨城県内の養蚕信仰について書きますと、
(文献1,2,3)
・民間信仰の信仰
つくば・蚕影山神社: 蚕影山明神、金色姫
日立・蚕養神社: 金色姫
神栖・蚕霊神社: 蚕霊尊、衣襲明神(※)
・神道系の信仰
つくば・蚕影山神社: 稚産霊命、埴山姫命、木花開耶姫命
日立・蚕養神社: 稚産霊命、宇気霊命、事代主命
神栖・蚕霊神社: 大気津比売命
・仏教系の信仰
神栖・星福寺: 馬鳴菩薩
明治以前はこれらの神仏が混淆して布教され、信仰されていました。
日立の蚕養神社(江戸時代は津神社)には、江戸時代初期までは吉祥院という寺が管理していたことが分かっているのは、前々回・前回に書きました。
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
つくばの蚕影山神社は、明治の神仏分離までは別当寺の桑林寺が管理し、江戸時代の蚕影山明神の布教に力を入れていました。
つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
養蚕は、餌となる桑の栽培も含め、天候や蚕や桑の病気に左右される上に、大変な重労働。
養蚕農家は、多くの神仏を信仰し、なるべくご加護があるように祈りながら作業されてきたのでしょう。
だから、近代(現代も?)に至っても、心の中では様々な神仏が混淆するのは、当然だと思います。
(ちなみに私個人は、日本の民衆の信仰は、神仏混淆が自然だと思っています)
以上を頭の隅に置いて頂いて、以下お読み頂けたらと思います
。
ということで、今回は、常陸三蚕神社の2つ目の聖地、神栖市にある蚕霊神社です。
当ブログでは、神社の扁額にある表記に従い、今後は『蠶霊神社』と表記します。

常陸三蚕神社の他の二社と違って、別当寺であったらしい星福寺が現在も残っており、
仏教系の養蚕信仰を今に伝えています。
この神栖の蚕霊神社・星福寺については、大変詳しく調査されている文献1を中心に参考にしながら、考えていきます。
まずは実際に、神栖の蚕霊神社と星福寺に行ってきました
。
(1) 星福寺

(写真は、2022年1月初旬撮影)
正式名は蠶霊山山千手院星福寺。
本尊は、大日如来と蚕霊尊
(文献1,2)
文献4によると、
『星福寺と蚕霊神社はもともと一体のもので、養蚕の神として人々信仰を集めていました』
とあります。
まさに、神仏分離前の、神社とそれを管理する別当寺の関係を、今に伝えているのではないでしょうか
星福寺の山門の前に、金色姫伝説が書かれた立派な石造りの碑があり、お寺の由来・御本尊や、この地に伝わる金色姫譚のあらすじが書かれています。
(ここに書かれている金色姫譚については、次回、星福寺の御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)、そして衣襲明神と絡めて詳しく見ていきます)
まずは星福寺について、こちらの碑文によると、
『当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(今の日川)に蚕霊山千手院星福寺と称し』
とのことで、お寺のあるこの地が、『豊良浦日向川』 とのこと。
また、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
そして、
『降りて室町時代から江戸時代には益々信を起し、(中略)京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆をみ、・・・(後略)』
ということで、当初は『蚕霊尊』を本尊として祀り、その後、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となったとのこと。文意から江戸時代頃に真言密教の道場になったように読めます。
江戸時代までの神仏混淆の様子も分かる、興味深い一文です。
更に大正六年に突風によって多くの堂宇を失い、残ったのが
『元禄二年建立せる山門』 (筆者註:元禄二年は西暦 1689年)
『嘉永五年に建立せる堂宇のみ』 (筆者註:嘉永五年は西暦 1852年)
とのことで、堂宇は平成に大改築された旨が同石碑にあります。

ガラス越しに参拝しました。
御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)は分かりませんでした。
『奥の院』の御本尊ということなので、なかなか拝見出来ないのかもしれません。
石碑にある 『大正六年』 の突風による被害がなければ、堂宇が立ち並ぶ壮観な様子が今に伝わっていたのでしょう。
その頃の姿が見たかったですが、自然の災害には逆らえませんね・・・
。
それでも敷地に隣接して幼稚園もあったりで、親しみのある雰囲気を感じる境内でした
(2) 蠶霊神社

蚕霊神社読み方は「さんれい」とも「こだま」とも「こりん」とも読むようです。
星福寺から240mほど西北西方向に行った場所にあります。
(写真は2022年1月初旬撮影)
祭神は大気津比売命(文献6)

鳥居の手前に、神栖市の教育委員会による説明版に、金色姫伝説が書かれています。
文の最後の『撰文 中村ときを』とありますが、この方は、文献5(『神栖のむかし話』)の著書の方です。
こちらの説明板には同書に書かれている金色姫伝説のあらすじが書かれていますが、時に個人的に気になった表現が、
『この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、蚕業の創始先駆者の象徴として、造営したのが蚕霊神社であり、長くこの地域の守りが意味と鳴って鎮座されている』
です。
神社というものが生まれて人々の守り神になっていく姿を表す、誠意ある文章だと感じます。

静謐な参道の奥に、鮮やかな赤いお堂が。
創建の時期は不明とのこと(文献6)。

拝殿の後ろの本殿は波板で覆いがされています。
拝殿も本殿も赤い色を基調に鮮やかに色が塗られています。
特に覆いがかかっている本殿は、色鮮やかに保たれています。
比較的最近、塗り直された印象です。
覆いが、雨風などから本殿の塗装を守っているのですね。

しかしながら、本殿正面上部の蟇股の部分の彫刻が何か、見たかったのですが、拝殿から通路と覆いがあってよく見えません
。
神社本殿の蟇股の彫刻は、祭神のお使いの動物や象徴する物だったりすることが多いので、興味があるのですが。
何か青い波みたいな形が見えますので、金色姫が乗ってきたうつぼ舟だったりしませんかね?
興味津々
。
ご神体は「軽石」だったが戦後のどさくさで行方不明になったといいます(文献1)。
ご神体が軽石・・・というくだり、日立・川尻の蠶養神社の話を彷彿させます。
詳細 → 前回の記事 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
軽石がやはり、繭を連想させる色・形だからでしょうか。
ただし日立・川尻の蠶養神社と違って、ご神体という軽石ついてまつわる伝承は不明です(※)。
※ 一般に寺社については、その自治体が発行している書籍(○○市史、○○町史)に歴史や祭神など書かれているものですが、
『神栖町史』には、東国三社の一つの息栖神社以外の寺社について、何も書かれていません。残念です・・・。
さて次回は、星福寺の蚕霊神=衣襲(きぬがさ)明神について、そして、この地における金色姫譚について見ていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
*************************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話






物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

まず、今回は養蚕を守る神仏について改めて書きます。
といいますのも、特に養蚕を守る神仏については混淆が激しいようで、明治以前はもちろんのこと、神仏分離された明治以降になっても、表面上は分かれているようですが、信仰する人々の心情は、混淆したままで続いてようで、特に今回取り上げる、神栖の蠶霊神社・星福寺は、それがはっきり感じるからです。
養蚕を守る神仏は実は多くあります。
大きく分けて、神道系、仏教系、民間信仰系の神仏に分けられます(文献1、2、3、4)。
それらの神仏の詳細については当ブログでは触れませんが、茨城県内の養蚕信仰について書きますと、
(文献1,2,3)
・民間信仰の信仰
つくば・蚕影山神社: 蚕影山明神、金色姫
日立・蚕養神社: 金色姫
神栖・蚕霊神社: 蚕霊尊、衣襲明神(※)
・神道系の信仰
つくば・蚕影山神社: 稚産霊命、埴山姫命、木花開耶姫命
日立・蚕養神社: 稚産霊命、宇気霊命、事代主命
神栖・蚕霊神社: 大気津比売命
・仏教系の信仰
神栖・星福寺: 馬鳴菩薩
明治以前はこれらの神仏が混淆して布教され、信仰されていました。
日立の蚕養神社(江戸時代は津神社)には、江戸時代初期までは吉祥院という寺が管理していたことが分かっているのは、前々回・前回に書きました。


つくばの蚕影山神社は、明治の神仏分離までは別当寺の桑林寺が管理し、江戸時代の蚕影山明神の布教に力を入れていました。


養蚕は、餌となる桑の栽培も含め、天候や蚕や桑の病気に左右される上に、大変な重労働。
養蚕農家は、多くの神仏を信仰し、なるべくご加護があるように祈りながら作業されてきたのでしょう。
だから、近代(現代も?)に至っても、心の中では様々な神仏が混淆するのは、当然だと思います。
(ちなみに私個人は、日本の民衆の信仰は、神仏混淆が自然だと思っています)
以上を頭の隅に置いて頂いて、以下お読み頂けたらと思います

ということで、今回は、常陸三蚕神社の2つ目の聖地、神栖市にある蚕霊神社です。
当ブログでは、神社の扁額にある表記に従い、今後は『蠶霊神社』と表記します。

常陸三蚕神社の他の二社と違って、別当寺であったらしい星福寺が現在も残っており、
仏教系の養蚕信仰を今に伝えています。
この神栖の蚕霊神社・星福寺については、大変詳しく調査されている文献1を中心に参考にしながら、考えていきます。
まずは実際に、神栖の蚕霊神社と星福寺に行ってきました

(1) 星福寺

(写真は、2022年1月初旬撮影)
正式名は蠶霊山山千手院星福寺。
本尊は、大日如来と蚕霊尊
(文献1,2)
文献4によると、
『星福寺と蚕霊神社はもともと一体のもので、養蚕の神として人々信仰を集めていました』
とあります。
まさに、神仏分離前の、神社とそれを管理する別当寺の関係を、今に伝えているのではないでしょうか


(ここに書かれている金色姫譚については、次回、星福寺の御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)、そして衣襲明神と絡めて詳しく見ていきます)
まずは星福寺について、こちらの碑文によると、
『当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(今の日川)に蚕霊山千手院星福寺と称し』
とのことで、お寺のあるこの地が、『豊良浦日向川』 とのこと。
また、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
そして、
『降りて室町時代から江戸時代には益々信を起し、(中略)京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆をみ、・・・(後略)』
ということで、当初は『蚕霊尊』を本尊として祀り、その後、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となったとのこと。文意から江戸時代頃に真言密教の道場になったように読めます。
江戸時代までの神仏混淆の様子も分かる、興味深い一文です。
更に大正六年に突風によって多くの堂宇を失い、残ったのが
『元禄二年建立せる山門』 (筆者註:元禄二年は西暦 1689年)
『嘉永五年に建立せる堂宇のみ』 (筆者註:嘉永五年は西暦 1852年)
とのことで、堂宇は平成に大改築された旨が同石碑にあります。

ガラス越しに参拝しました。
御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)は分かりませんでした。
『奥の院』の御本尊ということなので、なかなか拝見出来ないのかもしれません。
石碑にある 『大正六年』 の突風による被害がなければ、堂宇が立ち並ぶ壮観な様子が今に伝わっていたのでしょう。
その頃の姿が見たかったですが、自然の災害には逆らえませんね・・・

それでも敷地に隣接して幼稚園もあったりで、親しみのある雰囲気を感じる境内でした

(2) 蠶霊神社

蚕霊神社読み方は「さんれい」とも「こだま」とも「こりん」とも読むようです。
星福寺から240mほど西北西方向に行った場所にあります。
(写真は2022年1月初旬撮影)
祭神は大気津比売命(文献6)

鳥居の手前に、神栖市の教育委員会による説明版に、金色姫伝説が書かれています。
文の最後の『撰文 中村ときを』とありますが、この方は、文献5(『神栖のむかし話』)の著書の方です。
こちらの説明板には同書に書かれている金色姫伝説のあらすじが書かれていますが、時に個人的に気になった表現が、
『この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、蚕業の創始先駆者の象徴として、造営したのが蚕霊神社であり、長くこの地域の守りが意味と鳴って鎮座されている』
です。
神社というものが生まれて人々の守り神になっていく姿を表す、誠意ある文章だと感じます。

静謐な参道の奥に、鮮やかな赤いお堂が。
創建の時期は不明とのこと(文献6)。

拝殿の後ろの本殿は波板で覆いがされています。
拝殿も本殿も赤い色を基調に鮮やかに色が塗られています。
特に覆いがかかっている本殿は、色鮮やかに保たれています。
比較的最近、塗り直された印象です。
覆いが、雨風などから本殿の塗装を守っているのですね。

しかしながら、本殿正面上部の蟇股の部分の彫刻が何か、見たかったのですが、拝殿から通路と覆いがあってよく見えません

神社本殿の蟇股の彫刻は、祭神のお使いの動物や象徴する物だったりすることが多いので、興味があるのですが。
何か青い波みたいな形が見えますので、金色姫が乗ってきたうつぼ舟だったりしませんかね?
興味津々

ご神体は「軽石」だったが戦後のどさくさで行方不明になったといいます(文献1)。
ご神体が軽石・・・というくだり、日立・川尻の蠶養神社の話を彷彿させます。

軽石がやはり、繭を連想させる色・形だからでしょうか。
ただし日立・川尻の蠶養神社と違って、ご神体という軽石ついてまつわる伝承は不明です(※)。
※ 一般に寺社については、その自治体が発行している書籍(○○市史、○○町史)に歴史や祭神など書かれているものですが、
『神栖町史』には、東国三社の一つの息栖神社以外の寺社について、何も書かれていません。残念です・・・。
さて次回は、星福寺の蚕霊神=衣襲(きぬがさ)明神について、そして、この地における金色姫譚について見ていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
*************************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
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