2021年11月26日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけていきます
。
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)で立てた金色姫譚が生まれて広がった経緯の仮説をもとに、いよいよ、現在伝わる『金色姫譚』に出てくる『常陸国豊浦』について考えていきます。
私の仮説では、『金色姫譚』の原形『貴人蚕譚』は瀬戸内海~九州北部で生まれて(詳細茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)・
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」 )、それがいつの時代か常陸国に伝わって、『常陸国豊浦』と『常陸化』し、更に現在の『金色姫譚』(ストーリーが4部構成)になっていったと考えています。
(詳細 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)に書いた仮説の流れの中うち、下記の(B)~(F)が常陸国で起きたことだと私は考えています。
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(c1) 偶然『とゆら/とよら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった
(c2) とゆら/とよら(豊浦)の地名に『常陸国』が加わって『常陸国の豊浦』となって、話の舞台が『常陸化』していったか
永禄元年(西暦1558年) の『戒言』(現在まで伝わる金色姫の話とほぼ同じ)には『常陸国とよら』とはっきり書かれているので、1558 年より前に話の舞台が『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫
『筑波山のほんどう仙人』
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
『富士山=筑波山』という考え方
かぐやは『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。
上の仮説を前提に、現在まで金色姫譚が伝わる常陸国三蚕社について、それぞれ検討していきます。
まず最初は、日立市川尻町にある蠶養(こかい)神社です。
【日立市 川尻町 蠶養(こかい)神社】

日立市 川尻にある 蠶養(こかい)神社。
神社境内にある社務所による由来の看板には『蠶養神社』とあり、『蚕』の時が旧字体の『蠶』なので、ここでは『蠶養神社』と書きます。
この辺りは昔は川尻村と呼ばれたところです(文献1、2)
(写真は2020年8月撮影)
こじんまりした小貝浜(蚕養浜)に面する高台に蠶養神社はあります。
『小貝(こかい)浜』は、同じ『こかい』の音から、『蚕養(こかい)浜』とも文献には書かれています。
『小貝』の字が先か、『蚕養』の字が先か、なかなか興味深いです。
(写真は2020年8月撮影)

また、この蠶養神社に伝わる信仰で大変ユニークなのが、
・小貝浜(蚕養浜)で取れる赤い小さな巻貝を、養蚕のお守りとする。
(文献3、4、5)
・小貝浜(蚕養浜)で取れる小石を、養蚕のお守りとする。
(文献6)
というのがあります。
このような民間信仰も、常陸国蚕の社の他の2社(神栖・蚕霊神社、つくば・蚕影山神社)にはないものです。

『サンショウガイ』と呼ばれる赤い微少な巻き貝。
これを養蚕のお守りとして、養蚕家が大事に神棚に上げていたそうです。
赤い色が鮮やかで可愛い
『サンショウガイ』は、『山椒貝』とも『蚕生貝』という字を当てるようです。
熟した山椒の実が赤いからでしょうか。
『蚕生』のあて字は、巧くて良い字ですよね

こちらは同じ小貝浜で見られる綺麗な石。
この辺りの山で算出するメノウなどでしょうか。
これも養蚕のお守りにするとのこと。綺麗な石ですよね。
(これらの貝や石については、後に後編で考えていきます)
ちなみに、宮本宣一著『筑波歴史散歩』(文献7)に、小貝浜の蠶養神社の御詠歌が載っています。
この御詠歌は昭和2年に、福島の人によって作られたとのことで、かなり新しいものではあります。
だた興味深いのは、御詠歌には、赤い貝のことはもちろん、小貝浜付近の地形と金色姫伝説を結び付けたらしい『名所』が
多く読み込まれています
これは、名所案内としても現代に通じますし、また貴重な情報
のですから、もっと知られて良い唄だと思います。
【蚕養神社に伝わる金色姫譚】
同神社の境内にある看板に同地区に伝わる『金色姫物語』が書かれています。そこに書かれている物語の概要は、
【あらすじ】
昔、常陸国豊浦湊(現在の川尻の小貝浜)に、繭の形の丸木舟が流れ着き、宮司の権太夫が見つけた。
中から美しい姫が現れたので、わけをきくと、金色姫と名乗り、インドの大王の娘で継母がいじめるので、父の大王が見かねて、桑の木で丸木舟を作り、赤い貝で作った首飾りを首にかけて、慈悲深い人に助けられるようにと舟に乗せたと語った。
権太夫は姫を育てたが、五年たった時、姫は自分の命は今宵限りで、自分は蚕という虫に生まれ変わると言い、桑葉のことと蚕の育て方を伝え、赤い貝の首飾りと繭を置いて念仏とともに昇天した。これより日本で養蚕が広まった。
とのこと。
以上から、この地区に伝わる金色姫譚の特色は、
① 金色姫が直接、蚕の育て方を権太夫に伝えるところで終わる。
② 金色姫は赤い貝の首飾りを身に着けていて、亡くなる時にその首飾りも置いていく。
③ 『筑波山のほんどう仙人』の話も、『富士山のかぐや姫』の話も出てこない。
の3つが言えると思います。
【豊浦とヤマトタケル伝説】
金色姫が流れ着いたと伝わる『豊浦湊』ですが、この地では『豊浦』が出てくる全く違う伝説が伝わっています。
ヤマトタケル伝説です。
蠶養神社のあるあたりは、昔は『川尻村』と呼ばれていました。
明治22年に、近隣の砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となったとのこと(文献1)。
この『豊浦』を使ったのは、この地に『豊浦湊』があり、大和武尊(ヤマトタケル)が戦勝祈願の為に寄港したという伝説から、その名をつけたとのこと(文献1)
豊浦町:明治22年4月1日 砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となる。その名の由来は『區域の海濱に往昔豊良港あり、豊良又豊浦に作る、日本武尊船を豊浦湊に維ぐとの文あり。町名是に起る』 (文献1より引用)
では、ヤマトタケル(日本武尊)が船でこの豊浦湊に来たという伝承は、どこから来たのかというと、まず文献8(茨城県神社誌)の蚕養神社の項を見ると、
『景行帝四十年日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
とあります。
つまり、この地の伝わるヤマトタケル(日本武尊)伝説は、
日本武尊が東征(つまり蝦夷の地の東北を攻め上った時)の途中、この地の豊浦湊に上陸して、この地の社(現在の蚕影神社)に祈ったところ、戦わずして征服することが出来た。
東征の帰り(甲斐国に向かう途中か)に当社に神領八十束部、摂社宛五束部を寄進された伝わる。
という話です。
このヤマトタケル伝説は、古事記、日本書記、常陸国風土記にも見当たりません(文献9)
。
地元だけで伝わっていた話か? はたまた…?
これについては後述することにして、まずは蠶養神社の変遷を追ってみましょう。
【蠶養神社の変遷 ~ 江戸時代前期の運命の波を乗り越えて】
現在の蠶養神社は、明治三十四年(西暦1901年)10月に現在の名前に改められたとのことで、それまでは、於岐津説神社と呼ばれていたようです (文献10)。
そしてその於岐津説神社は、『創立年代不詳。於岐津説神社は水藩神名録によれば永正10年(1513年)創立とされている』
とのこと (文献10)。
その於岐津説神社ですが、文献2をよく読んでいくと面白いことが分かってきます
。
同書によると、江戸時代前期、水戸藩の水戸光圀によるこの地方における寺社の改革の変遷が書かれています。
それらの寺社の中にある『川尻村』の『津明神』が、この於岐津説神社(現 蠶養神社)のことではないかと思われます。
それ以外に該当する寺社は見当たらないので、『川尻の津明神』=『於岐津説神社(現 蠶養神社)』と見なして間違いないと考えます。
さてこの川尻の津明神は、江戸前期、ジェットコースターのような運命の波
を乗り越えています
文献2より、川尻の津明神に起きたことを時系列で並べてみます。
●寛文三年(西暦1663年)(光圀による改革前)時点: 「川尻村 神社:津明神 司祭者:真言宗吉祥院」
吉祥院というのが、川尻村の津明神の別当寺だったようです。
●元禄四年(西暦1691年)六月:(川尻村の)津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定
「たとえば、川尻村には・・・津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定した。…」
●元禄五年(西暦1692年)八月:(川尻村の)津明神は翌年八月には神職がつけられ建宮
これは漁村民が、この明神を「おきぢさま又おきぢさま」と呼んで大切にし、またとても雉子を大切にして、雉子が鳴くと「おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさる」と言ったいうように、とても崇敬されていたという理由で、復活したとのこと。
地元の人たちが嘆願したくらい、信仰されていたというのが伝わってきます。
『このようになったのは、この明神が「はなはだ雉子を愛したまう由にて、一村これを大切し、おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさるなどという由。
「宝永頃水戸領鎮守録」静嘉堂文庫蔵」)とあるように、漁村民の尊崇厚いものがあったことによろう』
(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p531)
●元禄八年(西暦1695年)八月:津明神の別当寺の吉祥院は、徳川光圀によって取り潰された模様
『川尻村 寺院名:吉祥院 寺歴:永正十年海全開山 徳川光圀による処分状況:元禄八年八月死亡』
●宝永五年(西暦1708年)(光圀による改革後):「川尻村 神社:津明神 司祭者:大津村禰宜源太夫」
津明神に、新たに司祭が任命されました。
取り潰されてしまった別当時の吉祥院の代わりに、直接司祭者が任命され、管理を任されたようです。(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p512 表3-1 「江戸時代初期日立地方の寺院一覧」より)
ちなみに大津村は、現在の北茨城市大津港のある辺りで、当地には延喜式内常陸二十八の一社の佐波波地祇神社があります。
そこの司祭者が、津明神の司祭も兼ねたのか、別の人が司祭者になったのかは不明ですが気になります。
以上の経緯を見ると、特筆すべきは、蠶養神社の前身、津明神(於岐津説神社)は、
★光圀の時に一度取り潰しが決定しながらも、翌年にその決定が覆され、しかも新たに宮司を迎えて復活している。
ことです
。
それは、この明神様を地元の人が『おきぢさま』と呼び、雉を大切にして雉の鳴き声を『おきぢさまが御鳴きなさる』と呼んでいるように、
篤い信仰心のたまもの
であることがはっきりと記録されています。
【常陸國蠶養嶺略縁起】
別の資料からも検討してみます。
文献11には、資料として『常陸國蠶養嶺略縁起』が掲載されています。
縁起を記したのは、『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔 となっています。
書かれた年代は不明ですが、 『司祭者:大津村禰宜源太夫』が『川尻村 神社:津明神』に任命されたのは、宝永五年(西暦1708年)。
ですから書かれたのは、宝永五年(西暦1708年)以降でしょう。
資料中『元禄年中』の記載がありますが、著者の禰宜源太夫は自分が任命される以前(元禄年中1688年~1704年)から伝わる伝承を書いたのかもしれません。
禰宜源太夫は、復活した川尻の津明神(於岐津説神社)に新たに任命された宮司が記したと考えて良いかと考えます。
また蠶養嶺とは、現在蠶養神社(当時は津明神、於岐津説神社)が鎮座している、小貝浜の脇の小高い丘のことだと思われます。
さて、この『常陸國蠶養嶺略縁起』には
『寛文年中、水戸光圀公 別当 吉祥院まで御潰し佛具等不残埋めさせ 今吉祥塚という字有』
『元禄年中・・・(中略)・・・二十七代目権之太夫常定へ 光圀公御尊慮ヲ以唯一宗源之社社務職被付 今に䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・(後略)』
という箇所が出てきます。
※『䗝』(『神』の下に『虫』)は、『蚕』の異字体
寛文年中、水戸光圀公・・・の部分は上に書いた吉祥院お取り潰しのことと合致します。
また、『䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・』の部分もとても興味深く、
『䗝養濱神虫神石御命という神は、神虫種神躰(= 蚕?)と等しい』という信仰は、怪しい信仰だと(水戸藩が?)止めさせたが、『日本最初の蚕の始まり』として信仰がどんどん広まっていった・・・ということがあったということでしょうか。
まるで日本書紀に書かれた、大生部多と『常世の神』の話を彷彿させる、大変興味深い話です
。
大生部多と『常世の神』の話は、秦河勝が大生部多を討伐してしまいますが、それと異なって、この䗝養濱神虫神石御命という『神』への信仰は、禁止しても広まっていったらしいのは、これまたとても興味深いです
。
【水戸彰考館編集神道司経 青山延彝(のぶつね)による縁起文】
さてここで 茨城県神社誌(文献8)による蚕養神社の縁起をあらためて見ていきましょう。
同書では、
① 孝霊帝五年二月初午
『蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山に祠を建て蚕養大明神、蚕養嶺地主神と尊称した』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
② 景行帝四十年
『日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。
尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
の二つの大きなエピソードを伝えていますが、これはどうもオリジナルは、
寛政十年(1798年)に水戸彰考館の神道司経の青山延彝(のぶつね)が撰した縁起文
『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』
だと思われます(文献1)。
その『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』の縁起文についてですが、
文献1("茨城県多賀郡史(復刻版))の文をそのまま引用すると、
① 『水戸彰考館編集神道司経青山延彝寛政十年に本社の縁起文を撰す。
曰く孝霊帝五年辛巳二月初午、始形見于蠶養濱相去一許町東沖時人為立祠於上子山祀之、
號曰蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神…』
② 『・・・日本武尊 東征 入陸奥、時過常陸國、維船于豊浦湊、
直詣蠶養嶺神路森、祈克三日夜、 既而発船、至蝦夷境、不戦蝦夷威平、・・・日本武尊蠶養嶺神、
寄付神領八十束部、・・・』
と、2つの由来が語られています。
孝霊帝五年いう時代、そして景行帝四十年という時代については神話上の時代なので、どこまで信頼できるかは
はなはだ疑問ですが、少なくとも江戸時代当時、この2つの伝承が伝わっていたということは言えるようです。
【常陸國蠶養嶺略縁起 及び 青山延彝(のぶつね)による縁起文 を合わせると・・・】
いつの頃か、蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山(蠶養山 つまり、現在蠶養神社のある高台)に祠を建て。蠶養大明神、蠶養嶺地主神となった。
その後、この神は『䗝養濱神虫神石御命』とも呼ばれ、『神虫種神躰』(蚕か?)がこの神そのものだ』という信仰となって、どうも元禄年中(1688年~1704年)頃にこれは淫祠邪教として(水戸藩が?)信仰を禁止したが、それでも、『日本最初 蟲の初まり』ということで、信仰は広まっていった。
・・・ということでしょうか。
先にも書きましたが、もしこれが事実なら大変興味深い
。
【ヤマトタケル伝説から伝わる常陸国の人々の心】
上記の寛政十年に水戸彰考館の神道司経の青山延彝が提出した蠶影大明神の縁起文に出てくる
『豊浦湊』と『日本武尊(ヤマトタケル)』の話は、地元で伝わっていたらしいオリジナルの伝説のようです。
文献9では、古事記、日本書記 そして常陸国風土記におけるヤマトタケル(漢字表記がそれぞれ文献によって異なるので同書ではカタカナ表記に統一)の常陸国内での足跡を詳しく検討していますが、同書を読むと、青山延彝が書いた縁起文にあるヤマトタケルに関する伝承(上記(4)②)は、古事記、日本書記はもちろん、常陸国風土記にもない伝承です(※)。
※ただし、現存している常陸国風土記は完全本でありません。
オリジナルには記載があったのかもしれませんが、川尻村のエリアとなるであろう多珂郡の記載内容は少なく、今となっては分からないのが残念です。
文献9によると、全国には数々のヤマトタケル伝説があり、おそらく当時からいろいろな語り部が「ヤマトタケル」伝説を
既に伝えていて、古事記や日本書紀という中央集権でまとめた時に取り入れた説話と、常陸国風土記が記録したヤマトタケル伝説は、
語り部が全く違って、話の体系も違ったのではないかとしています。私もその考え方に賛同します。
そして、更に常陸国風土記には(完全本があったとしても)記載されていない、もっとローカルな「ヤマトタケル伝説」は、
沢山あったことでしょう。
(たとえば、つくばのエリアに伝わるヤマトタケル伝説~岩崎山の話・今鹿島の話など~も、常陸国風土記にも書かれていない
ローカルな伝説です)
そして私は
『戦わずに勝てた』
という一言に深い意味を感じます
。
当時の大和朝廷から見て、常陸国は極めて蝦夷に近い土地です。
しかも鹿島神宮よりもさらに北にある、茨城県北は更に東北に近い。
その土地柄、古来からこの土地の人は、蝦夷の民にシンパシーを感じてた(もしくは征服された蝦夷の民だった)のではないか。
大和の中央政権に対して、忸怩たる想いを抱き続けていたのではないか。
だから、ヤマトタケルという英雄が来て戦勝祈願したら『戦わずに勝てた』ということで、その神意に沢山の寄進をした
と伝えているのではないか。
そう感じるのです。
青山延彝が記した縁起文の『大和武尊』の話も、付随して出てくる地名『豊浦湊』も、
私は、地元で語り継がれてきた、とても古い伝説ではないかと思っています。
ところで、蚕養神社の由緒と変遷を見てきましたが、金色姫譚は全然出てきません…
。
しかし、この地では『赤い貝の首飾り』にちなんだ蚕のお守りの赤い巻き貝や石のお守りも含めた、金色姫伝説はしっかり伝わっている
。
その辺りも含めて、この地における金色姫譚の生まれた経緯と伝播について考えていきましょう。
(続きます)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《後編》
************************
【参考文献】
1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社
2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市
3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団
4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)
5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房
7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター
8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社
10. 『日立市史』 日立市役所 常陸書房
11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話




物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけていきます

前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)で立てた金色姫譚が生まれて広がった経緯の仮説をもとに、いよいよ、現在伝わる『金色姫譚』に出てくる『常陸国豊浦』について考えていきます。
私の仮説では、『金色姫譚』の原形『貴人蚕譚』は瀬戸内海~九州北部で生まれて(詳細茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)・
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」 )、それがいつの時代か常陸国に伝わって、『常陸国豊浦』と『常陸化』し、更に現在の『金色姫譚』(ストーリーが4部構成)になっていったと考えています。
(詳細 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山・茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説)に書いた仮説の流れの中うち、下記の(B)~(F)が常陸国で起きたことだと私は考えています。
(B) 常陸国への『貴人蚕譚』(蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫
養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。
(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。
(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。
↓
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫
(c1) 偶然『とゆら/とよら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった
(c2) とゆら/とよら(豊浦)の地名に『常陸国』が加わって『常陸国の豊浦』となって、話の舞台が『常陸化』していったか
永禄元年(西暦1558年) の『戒言』(現在まで伝わる金色姫の話とほぼ同じ)には『常陸国とよら』とはっきり書かれているので、1558 年より前に話の舞台が『常陸化』したのは確か。
↓
(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫
↓
(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫
『筑波山のほんどう仙人』
↓
(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫
『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
『富士山=筑波山』という考え方
かぐやは『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。
上の仮説を前提に、現在まで金色姫譚が伝わる常陸国三蚕社について、それぞれ検討していきます。
まず最初は、日立市川尻町にある蠶養(こかい)神社です。
【日立市 川尻町 蠶養(こかい)神社】

日立市 川尻にある 蠶養(こかい)神社。
神社境内にある社務所による由来の看板には『蠶養神社』とあり、『蚕』の時が旧字体の『蠶』なので、ここでは『蠶養神社』と書きます。
この辺りは昔は川尻村と呼ばれたところです(文献1、2)
(写真は2020年8月撮影)
こじんまりした小貝浜(蚕養浜)に面する高台に蠶養神社はあります。
『小貝(こかい)浜』は、同じ『こかい』の音から、『蚕養(こかい)浜』とも文献には書かれています。
『小貝』の字が先か、『蚕養』の字が先か、なかなか興味深いです。
(写真は2020年8月撮影)

また、この蠶養神社に伝わる信仰で大変ユニークなのが、
・小貝浜(蚕養浜)で取れる赤い小さな巻貝を、養蚕のお守りとする。
(文献3、4、5)
・小貝浜(蚕養浜)で取れる小石を、養蚕のお守りとする。
(文献6)
というのがあります。
このような民間信仰も、常陸国蚕の社の他の2社(神栖・蚕霊神社、つくば・蚕影山神社)にはないものです。
『サンショウガイ』と呼ばれる赤い微少な巻き貝。
これを養蚕のお守りとして、養蚕家が大事に神棚に上げていたそうです。
赤い色が鮮やかで可愛い
『サンショウガイ』は、『山椒貝』とも『蚕生貝』という字を当てるようです。
熟した山椒の実が赤いからでしょうか。
『蚕生』のあて字は、巧くて良い字ですよね

こちらは同じ小貝浜で見られる綺麗な石。
この辺りの山で算出するメノウなどでしょうか。
これも養蚕のお守りにするとのこと。綺麗な石ですよね。
(これらの貝や石については、後に後編で考えていきます)
ちなみに、宮本宣一著『筑波歴史散歩』(文献7)に、小貝浜の蠶養神社の御詠歌が載っています。
この御詠歌は昭和2年に、福島の人によって作られたとのことで、かなり新しいものではあります。
だた興味深いのは、御詠歌には、赤い貝のことはもちろん、小貝浜付近の地形と金色姫伝説を結び付けたらしい『名所』が
多く読み込まれています

これは、名所案内としても現代に通じますし、また貴重な情報

【蚕養神社に伝わる金色姫譚】
同神社の境内にある看板に同地区に伝わる『金色姫物語』が書かれています。そこに書かれている物語の概要は、
【あらすじ】
昔、常陸国豊浦湊(現在の川尻の小貝浜)に、繭の形の丸木舟が流れ着き、宮司の権太夫が見つけた。
中から美しい姫が現れたので、わけをきくと、金色姫と名乗り、インドの大王の娘で継母がいじめるので、父の大王が見かねて、桑の木で丸木舟を作り、赤い貝で作った首飾りを首にかけて、慈悲深い人に助けられるようにと舟に乗せたと語った。
権太夫は姫を育てたが、五年たった時、姫は自分の命は今宵限りで、自分は蚕という虫に生まれ変わると言い、桑葉のことと蚕の育て方を伝え、赤い貝の首飾りと繭を置いて念仏とともに昇天した。これより日本で養蚕が広まった。
とのこと。
以上から、この地区に伝わる金色姫譚の特色は、
① 金色姫が直接、蚕の育て方を権太夫に伝えるところで終わる。
② 金色姫は赤い貝の首飾りを身に着けていて、亡くなる時にその首飾りも置いていく。
③ 『筑波山のほんどう仙人』の話も、『富士山のかぐや姫』の話も出てこない。
の3つが言えると思います。
【豊浦とヤマトタケル伝説】
金色姫が流れ着いたと伝わる『豊浦湊』ですが、この地では『豊浦』が出てくる全く違う伝説が伝わっています。
ヤマトタケル伝説です。
蠶養神社のあるあたりは、昔は『川尻村』と呼ばれていました。
明治22年に、近隣の砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となったとのこと(文献1)。
この『豊浦』を使ったのは、この地に『豊浦湊』があり、大和武尊(ヤマトタケル)が戦勝祈願の為に寄港したという伝説から、その名をつけたとのこと(文献1)
豊浦町:明治22年4月1日 砂澤村・川尻村・折笠村が合併して豊浦町となる。その名の由来は『區域の海濱に往昔豊良港あり、豊良又豊浦に作る、日本武尊船を豊浦湊に維ぐとの文あり。町名是に起る』 (文献1より引用)
では、ヤマトタケル(日本武尊)が船でこの豊浦湊に来たという伝承は、どこから来たのかというと、まず文献8(茨城県神社誌)の蚕養神社の項を見ると、
『景行帝四十年日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
とあります。
つまり、この地の伝わるヤマトタケル(日本武尊)伝説は、
日本武尊が東征(つまり蝦夷の地の東北を攻め上った時)の途中、この地の豊浦湊に上陸して、この地の社(現在の蚕影神社)に祈ったところ、戦わずして征服することが出来た。
東征の帰り(甲斐国に向かう途中か)に当社に神領八十束部、摂社宛五束部を寄進された伝わる。
という話です。
このヤマトタケル伝説は、古事記、日本書記、常陸国風土記にも見当たりません(文献9)

地元だけで伝わっていた話か? はたまた…?
これについては後述することにして、まずは蠶養神社の変遷を追ってみましょう。
【蠶養神社の変遷 ~ 江戸時代前期の運命の波を乗り越えて】
現在の蠶養神社は、明治三十四年(西暦1901年)10月に現在の名前に改められたとのことで、それまでは、於岐津説神社と呼ばれていたようです (文献10)。
そしてその於岐津説神社は、『創立年代不詳。於岐津説神社は水藩神名録によれば永正10年(1513年)創立とされている』
とのこと (文献10)。
その於岐津説神社ですが、文献2をよく読んでいくと面白いことが分かってきます

同書によると、江戸時代前期、水戸藩の水戸光圀によるこの地方における寺社の改革の変遷が書かれています。
それらの寺社の中にある『川尻村』の『津明神』が、この於岐津説神社(現 蠶養神社)のことではないかと思われます。
それ以外に該当する寺社は見当たらないので、『川尻の津明神』=『於岐津説神社(現 蠶養神社)』と見なして間違いないと考えます。
さてこの川尻の津明神は、江戸前期、ジェットコースターのような運命の波


文献2より、川尻の津明神に起きたことを時系列で並べてみます。
●寛文三年(西暦1663年)(光圀による改革前)時点: 「川尻村 神社:津明神 司祭者:真言宗吉祥院」
吉祥院というのが、川尻村の津明神の別当寺だったようです。
●元禄四年(西暦1691年)六月:(川尻村の)津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定
「たとえば、川尻村には・・・津明神は、元禄四年六月、別当の死亡により潰しと決定した。…」
●元禄五年(西暦1692年)八月:(川尻村の)津明神は翌年八月には神職がつけられ建宮
これは漁村民が、この明神を「おきぢさま又おきぢさま」と呼んで大切にし、またとても雉子を大切にして、雉子が鳴くと「おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさる」と言ったいうように、とても崇敬されていたという理由で、復活したとのこと。
地元の人たちが嘆願したくらい、信仰されていたというのが伝わってきます。
『このようになったのは、この明神が「はなはだ雉子を愛したまう由にて、一村これを大切し、おきぢさま又おきぢさまの御鳴なさるなどという由。
「宝永頃水戸領鎮守録」静嘉堂文庫蔵」)とあるように、漁村民の尊崇厚いものがあったことによろう』
(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p531)
●元禄八年(西暦1695年)八月:津明神の別当寺の吉祥院は、徳川光圀によって取り潰された模様
『川尻村 寺院名:吉祥院 寺歴:永正十年海全開山 徳川光圀による処分状況:元禄八年八月死亡』
●宝永五年(西暦1708年)(光圀による改革後):「川尻村 神社:津明神 司祭者:大津村禰宜源太夫」
津明神に、新たに司祭が任命されました。
取り潰されてしまった別当時の吉祥院の代わりに、直接司祭者が任命され、管理を任されたようです。(文献2 「新修 日立市史 上巻」 日立市編さん委員会 編著 日立市発行 平成6年9月発行 p512 表3-1 「江戸時代初期日立地方の寺院一覧」より)
ちなみに大津村は、現在の北茨城市大津港のある辺りで、当地には延喜式内常陸二十八の一社の佐波波地祇神社があります。
そこの司祭者が、津明神の司祭も兼ねたのか、別の人が司祭者になったのかは不明ですが気になります。
以上の経緯を見ると、特筆すべきは、蠶養神社の前身、津明神(於岐津説神社)は、
★光圀の時に一度取り潰しが決定しながらも、翌年にその決定が覆され、しかも新たに宮司を迎えて復活している。
ことです

それは、この明神様を地元の人が『おきぢさま』と呼び、雉を大切にして雉の鳴き声を『おきぢさまが御鳴きなさる』と呼んでいるように、


【常陸國蠶養嶺略縁起】
別の資料からも検討してみます。
文献11には、資料として『常陸國蠶養嶺略縁起』が掲載されています。
縁起を記したのは、『常陸國梁津庄豊浦湊多珂郡河尻村 日本最初蠶養嶺 大神主 大都權之太輔 となっています。
書かれた年代は不明ですが、 『司祭者:大津村禰宜源太夫』が『川尻村 神社:津明神』に任命されたのは、宝永五年(西暦1708年)。
ですから書かれたのは、宝永五年(西暦1708年)以降でしょう。
資料中『元禄年中』の記載がありますが、著者の禰宜源太夫は自分が任命される以前(元禄年中1688年~1704年)から伝わる伝承を書いたのかもしれません。
禰宜源太夫は、復活した川尻の津明神(於岐津説神社)に新たに任命された宮司が記したと考えて良いかと考えます。
また蠶養嶺とは、現在蠶養神社(当時は津明神、於岐津説神社)が鎮座している、小貝浜の脇の小高い丘のことだと思われます。
さて、この『常陸國蠶養嶺略縁起』には
『寛文年中、水戸光圀公 別当 吉祥院まで御潰し佛具等不残埋めさせ 今吉祥塚という字有』
『元禄年中・・・(中略)・・・二十七代目権之太夫常定へ 光圀公御尊慮ヲ以唯一宗源之社社務職被付 今に䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・(後略)』
という箇所が出てきます。
※『䗝』(『神』の下に『虫』)は、『蚕』の異字体
寛文年中、水戸光圀公・・・の部分は上に書いた吉祥院お取り潰しのことと合致します。
また、『䗝養濱神虫神石御命にてこれ全く神虫種神躰に等し 依而猥に取事停止たる遍し 全く日本最初 蟲の初まりと成こと今に年々歳々伊勢祭にも又豊浦湊にて祭り・・・』の部分もとても興味深く、
『䗝養濱神虫神石御命という神は、神虫種神躰(= 蚕?)と等しい』という信仰は、怪しい信仰だと(水戸藩が?)止めさせたが、『日本最初の蚕の始まり』として信仰がどんどん広まっていった・・・ということがあったということでしょうか。
まるで日本書紀に書かれた、大生部多と『常世の神』の話を彷彿させる、大変興味深い話です

大生部多と『常世の神』の話は、秦河勝が大生部多を討伐してしまいますが、それと異なって、この䗝養濱神虫神石御命という『神』への信仰は、禁止しても広まっていったらしいのは、これまたとても興味深いです

【水戸彰考館編集神道司経 青山延彝(のぶつね)による縁起文】
さてここで 茨城県神社誌(文献8)による蚕養神社の縁起をあらためて見ていきましょう。
同書では、
① 孝霊帝五年二月初午
『蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山に祠を建て蚕養大明神、蚕養嶺地主神と尊称した』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
② 景行帝四十年
『日本武尊東征の途豊浦湊に上陸され、直に当社に熱祷され、その神意赤赤と照り、東夷を戦わずして服させしてめたといふ。
尊甲斐国に至るとき、当社に神領八十束部、摂社宛五束部の寄進をされたといふ』
茨城県神社誌 茨城県神社庁発行 昭和48年6月発行
の二つの大きなエピソードを伝えていますが、これはどうもオリジナルは、
寛政十年(1798年)に水戸彰考館の神道司経の青山延彝(のぶつね)が撰した縁起文
『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』
だと思われます(文献1)。
その『蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神』の縁起文についてですが、
文献1("茨城県多賀郡史(復刻版))の文をそのまま引用すると、
① 『水戸彰考館編集神道司経青山延彝寛政十年に本社の縁起文を撰す。
曰く孝霊帝五年辛巳二月初午、始形見于蠶養濱相去一許町東沖時人為立祠於上子山祀之、
號曰蠶影大明神、是為蠶養嶺地主神…』
② 『・・・日本武尊 東征 入陸奥、時過常陸國、維船于豊浦湊、
直詣蠶養嶺神路森、祈克三日夜、 既而発船、至蝦夷境、不戦蝦夷威平、・・・日本武尊蠶養嶺神、
寄付神領八十束部、・・・』
と、2つの由来が語られています。
孝霊帝五年いう時代、そして景行帝四十年という時代については神話上の時代なので、どこまで信頼できるかは
はなはだ疑問ですが、少なくとも江戸時代当時、この2つの伝承が伝わっていたということは言えるようです。
【常陸國蠶養嶺略縁起 及び 青山延彝(のぶつね)による縁起文 を合わせると・・・】
いつの頃か、蚕養浜東沖に於て蚕形を発見、時の人上子山(蠶養山 つまり、現在蠶養神社のある高台)に祠を建て。蠶養大明神、蠶養嶺地主神となった。
その後、この神は『䗝養濱神虫神石御命』とも呼ばれ、『神虫種神躰』(蚕か?)がこの神そのものだ』という信仰となって、どうも元禄年中(1688年~1704年)頃にこれは淫祠邪教として(水戸藩が?)信仰を禁止したが、それでも、『日本最初 蟲の初まり』ということで、信仰は広まっていった。
・・・ということでしょうか。
先にも書きましたが、もしこれが事実なら大変興味深い

【ヤマトタケル伝説から伝わる常陸国の人々の心】
上記の寛政十年に水戸彰考館の神道司経の青山延彝が提出した蠶影大明神の縁起文に出てくる
『豊浦湊』と『日本武尊(ヤマトタケル)』の話は、地元で伝わっていたらしいオリジナルの伝説のようです。
文献9では、古事記、日本書記 そして常陸国風土記におけるヤマトタケル(漢字表記がそれぞれ文献によって異なるので同書ではカタカナ表記に統一)の常陸国内での足跡を詳しく検討していますが、同書を読むと、青山延彝が書いた縁起文にあるヤマトタケルに関する伝承(上記(4)②)は、古事記、日本書記はもちろん、常陸国風土記にもない伝承です(※)。
※ただし、現存している常陸国風土記は完全本でありません。
オリジナルには記載があったのかもしれませんが、川尻村のエリアとなるであろう多珂郡の記載内容は少なく、今となっては分からないのが残念です。
文献9によると、全国には数々のヤマトタケル伝説があり、おそらく当時からいろいろな語り部が「ヤマトタケル」伝説を
既に伝えていて、古事記や日本書紀という中央集権でまとめた時に取り入れた説話と、常陸国風土記が記録したヤマトタケル伝説は、
語り部が全く違って、話の体系も違ったのではないかとしています。私もその考え方に賛同します。
そして、更に常陸国風土記には(完全本があったとしても)記載されていない、もっとローカルな「ヤマトタケル伝説」は、
沢山あったことでしょう。
(たとえば、つくばのエリアに伝わるヤマトタケル伝説~岩崎山の話・今鹿島の話など~も、常陸国風土記にも書かれていない
ローカルな伝説です)
そして私は
『戦わずに勝てた』
という一言に深い意味を感じます

当時の大和朝廷から見て、常陸国は極めて蝦夷に近い土地です。
しかも鹿島神宮よりもさらに北にある、茨城県北は更に東北に近い。
その土地柄、古来からこの土地の人は、蝦夷の民にシンパシーを感じてた(もしくは征服された蝦夷の民だった)のではないか。
大和の中央政権に対して、忸怩たる想いを抱き続けていたのではないか。
だから、ヤマトタケルという英雄が来て戦勝祈願したら『戦わずに勝てた』ということで、その神意に沢山の寄進をした
と伝えているのではないか。
そう感じるのです。
青山延彝が記した縁起文の『大和武尊』の話も、付随して出てくる地名『豊浦湊』も、
私は、地元で語り継がれてきた、とても古い伝説ではないかと思っています。
ところで、蚕養神社の由緒と変遷を見てきましたが、金色姫譚は全然出てきません…

しかし、この地では『赤い貝の首飾り』にちなんだ蚕のお守りの赤い巻き貝や石のお守りも含めた、金色姫伝説はしっかり伝わっている

その辺りも含めて、この地における金色姫譚の生まれた経緯と伝播について考えていきましょう。
(続きます)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《後編》
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【参考文献】
1. 『常陸多賀郡史(復刻版)』 千秋社
2. 『新修 日立市史 上巻』 日立市史編さん委員会 日立市
3. 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 柴田勇一郎 著 日立市民文化事業団
4. 『日立の伝説』 柴田勇一郎 著 筑波書林 (※ 『ひたち地方の伝説ー郷愁の伝承誌ー』 と同じ内容)
5. 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
6. 『水戸黄門の遊跡 -日立地方の巻-』 鈴木彰 著 崙書房
7. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター
8. 『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
9. 『ヤマトタケルと常陸国風土記』 黒澤彰哉 著 茨城新聞社
10. 『日立市史』 日立市役所 常陸書房
11. 『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
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