2022年10月24日
常陸国に伝わる鎌倉・三浦に関係する伝説 &八田知家と三浦義村の関係?!
常陸国に伝わる鎌倉・三浦に関係する伝説 &八田知家と三浦義村の関係?!
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境となってきました
。
13人の中の関係者はどんどん攻め滅ぼされていますが、まだ残っていて、しかもキャラ的に
謎の存在感 と 妙なセクシーさ
を放っているのが、
三浦義村 そして、八田知家。
子孫が現在のつくば市小田に居城を構え小田氏を名乗り、
最近歴史マニアに人気の『戦国最弱!?』 『常陸の不死鳥!』 小田氏治の先祖である八田知家。
しかしながら、全国的には、八田知家はそれほど有名な存在ではないですね
。
このドラマでも、このマイナーな武将をどう描くのかな?と思ってドラマを見てきましたが、なにげちチラチラと、富士の巻狩で、狩の下手な源頼家の為に、鹿(のはく製?)をさっと出すとか、いつも土木工事関係をやっているとか、北条義時の奥さんの八重さんが亡くなるのに関わる孤児を連れて来るとか、更には(これは史実にもある)常陸国に流された阿野全成を誅するとか・・・。
もう残り数人しかいない「13人」関係者の中で、八田知家の出番がなにげに増えていっているのも、つくば市民としては嬉しい(笑)。
じわじわ存在感を出しながら八田知家を描いているドラマは、なかなか興味深いです。
土木工事建築関係や、身の回りのちょっとした家具作り?やら居てくれると助かるタイプながらも、結構、北条氏にとっては耳が痛いことを、ピンポイントで言ってくるキャラとなっていますが、今後どんな見せ方をしてくれるでしょうか
。
鎌倉時代当時の記録は実はほとんどなくて、『吾妻鏡』がほぼ唯一の文献だそうで、『鎌倉殿の13人』の脚本を書いている三谷幸喜さんも、『吾妻鏡がバイブル』とインタビューで答えてましたね。
バイブルの解釈と表現、脚本家の手腕も見どころですよね!
八田知家関係の話題は後述するとして、
鎌倉からちょっと離れた常陸国でありますが、
鎌倉時代から伝わると思われる伝説や史跡が今にも伝わっているのです
。
まずよく知られているところでは、『鎌倉街道』と呼ばれる古道が茨城県各所に伝わっています。
この鎌倉街道には、大きく分けて『上つ道』『中つ道』『下つ道』のメインロードがありました。
茨城県内を通るのは、『中つ道』『下つ道』です。
例えば、鎌倉幕府の奥州征伐の際に軍が通った道であり、またそれこそ御家人が『いざ鎌倉へ!』と使ったと思われる道です。
そんな常陸国には、鎌倉に繋がるなかなか興味深い伝説が伝わっています。
それをまずご紹介。
① 常陸太田と鎌倉と犬!?
昔、この地に浄因寺というお寺があり、鎌倉時代、鎌倉の建長寺から来た西堂という僧侶が住んでいました。
緊急に鎌倉に伝えたいことがあり、飼い犬の首に文箱をつけて鎌倉まで走らせました。
その犬は鎌倉まで行き、返事を受取り、常陸の寺まで息も絶え絶えで鳴きながら走って戻ってきましたが、寺のすぐ近くの場所で息絶えてしまいました。
犬が鳴きながら通った集落は『ナキダイラ』と呼ばれ、現在の『仲平』にあたるといいます。
その犬を葬ったのが『犬塚』と呼ばれ、つけていた文箱を埋めた集落が『箱地』と呼ばれる地域と伝わります。
(文献1、2、3)
切ない伝説ですが、でもそんなに急ぎの連絡とは何だったのでしょう?
『犬』とされているが、本当は伝達係の人ではなかったのでしょうか?
この辺りは、『鎌倉街道 下つ道』沿いのエリア。そして奥州の入り口辺り。
そして佐竹氏の領地。
寺の住職というのは実は…?!
…いろいろ憶測が頭の中を駆け巡る興味深い伝説です
。
詳細は、過去の記事
→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
https://cardamom.tsukuba.ch/e322968.html
をご覧ください♪
② 常陸大宮 『三浦杉』 (昔は『鎌倉杉』と呼ばれていた)

当地では昔から『鎌倉杉』と呼ばれていた杉を、その由来を聞いた水戸藩の徳川光圀が、『それなら ”三浦杉” とするのが良いだろう』と改名させたと言います。
三浦大介基安(※)という武将が、那須に殺生石を退治にいく途中に立ち寄ったこの地で武運を祈り、杉の木を植えたものが、常陸大宮の吉田八幡神社の大杉となったという伝承が伝わります。
(写真は、吉田八幡神社の『三浦杉』の1本 2010年撮影)
また同地では、その家臣の4人がこの地に残り、その家臣たちを先祖とする四つの家が現在も続いているとのこと(文献4)
。

三浦基安の像を祀った三浦神社、三浦基安が烏帽子をかけたという烏帽子掛峠という地名も伝わっています。
(写真は三浦神社 2010年撮影)
この『三浦基安』という人は、三浦氏の系図にはない名とのことですが、系図に載っていない人々も大勢いたはずです
。
ここまで具体的な話が伝わっているので、絶対何か関係はあるはず
※ 一般に『三浦大介』は『三浦義明』を指します。また、九尾の狐伝説で、狐を退治した武将の一人は三浦大介義明とされるのが一般的のようです。
こちらも詳細は、過去の記事
→
常陸大宮 吉田八幡神社の「三浦杉」を訪ねて
をご覧くださいませ♪
<余談>
この三浦杉伝説の背景にある『那須の殺生石』伝説ですが、話の前半はいわゆる九尾の狐伝説で、鎌倉時代に活躍した武将が、世を乱す妖女 玉藻前の正体が九尾の狐であることを暴きます。
そして伝説の後半は、下野国の那須へ逃げた九尾の狐を、今度は曹洞宗の僧侶(源翁和尚)が退治しました。しかし狐は『殺生石』となって今も毒ガスを吐き続けている…という伝説です。
さて、その源翁和尚についても、過去の記事に詳しく書きましたので、良かったら♪
→
那須の殺生石を砕いた!源翁和尚
https://cardamom.tsukuba.ch/e227245.html
民衆の中で語られ、能などでも演じられてきた伝説であり芸能の題材ですが、どうしてこれらの登場人物が選ばれたのか、どういう人たちが関わり、話を伝播していったのかとか、個人的に大変興味を感じます。
ちなみに栃木県那須の名勝『殺生石』は、今年2022年3月、リアルに割れているのが発見されニュースになっていました。
自然現象で割れたとのことで、岩は割れてはいますが、ガスは(地中から)吐き続けていますね(笑)。
数百年後に源翁和尚の術が効いたのか(?)石は割れたけれど、有毒ガスは出続けていますので、源翁和尚が勝ったのか、九尾狐が勝ったのか??
。
③ 源義経伝説
初代鎌倉殿の源頼朝の弟(腹違い)の1人、源義経は超有名ですね。
昔からいろいろな題材の主人公になっていますし、日本全国に義経伝説は数多くあります。
茨城県内でもいくつか『義経』にまつわる伝説が伝わっています(例えば境町など)。
これらはいずれ別途、書いていきたい
と思いますので、今回は割愛します。
さて、いよいよ八田知家関連について書きます
。
④ 阿野全成の墓
源頼朝の腹違いの弟で、源義経と母を同じくする兄である、阿野全成。
この方もちょっとマイナーな存在かと思いますが、今回のドラマではコミカルで良い味を出しているキャラクタとして描かれていました。
が、史実と同じく、最期は建仁三年(1203年)下野にて八田知家に誅されています。
ドラマでは涙なくして見られなかった場面です
・・・。

阿野全成と従者の墓と伝わる史跡が、栃木県益子町の大六天の森と呼ばれる地ににあります。
これは大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の最後の名所案内でも紹介されていましたね。
(写真は 益子町の大六天の森付近。 2017年9月撮影)
益子町は常陸国でなくて下野国ではありますが・・・隣接しているということで
。
大六天の森は近くまで行ったことはありますが、直接はまだ行ったことがないので、
近いうちに是非行きたいと考えています。
ところで、吾妻鏡によると、実は八田知家は阿野全成を誅した頃から、家名(※)を『八田』でなく『筑後』を名乗ります(文献6)
文献で『小田』の家名が出てくる初見は、八田知家の3代後(曾孫)の時知からとのこと(文献6)。
※ 『家名』とは:(文献6より)八田知家の正式な名は『藤原朝臣知家』。『氏』は『藤原』、『姓(かばね)=氏に付属する称号』は『朝臣』。『家名』は氏から分かれた一族の『名乗り』で、地名・役職・地域の特徴等様々なものが由来となるそうです。
ややこしいですね(汗)。
今回、当ブログでは、後述する八田知家の2代後(孫)の泰知から、家名を『小田』と書きます。
**************
さてこの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、八田知家同様、男の怪しい色気ムンムンの三浦義村も個人的に気になっております(笑)。
ドラマでは硬派なキャラの八田知家に対し、ナンパなキャラの三浦義村として描かれていて、なかなか対象的です。
三浦一族の領地は鎌倉に隣接する三浦半島。
(三浦半島は小さいので、鎌倉プラス三浦半島は、ほぼ、つくば市と同じ面積になります・・・そうイメージずると茨城県民には距離感がピンと来るかと・・・つまり近くなんです
)
常陸国とは一見関係なさそうな三浦氏ですが、先に②で紹介した『三浦杉』もありますし、
実は八田知家の子孫、小田氏とも少なからず関係が生まれています。
⑤ 八田知家の孫の小田泰知の妻は三浦氏出身(三浦泰村の娘)
八田知家の子の知重も鎌倉で仕えます。
その知重の子の泰知(つまり八田知家の孫)は、三浦泰村(三浦義村の子)の娘(つまり義村の孫娘)を娶ります。
しかしながら三浦泰村を筆頭とする三浦氏は1247年の宝治合戦で、執権北条氏に滅ぼされますが、小田氏も三浦氏の縁者であることが災いして宝治合戦で失脚し、常陸国守護の座を追われ、常陸国守護は宍戸氏になります(文献5,6)。
まさにサバイバル…。
なお、一般には小田泰知の妻は三浦氏出身というのが通説になっていますが、三浦氏出身ではないとする説もあります(文献6)。
さて、その三浦一族については、常陸国では、他にもなかなか興味深い伝説が伝わっています。
⑥ 三浦義重 = 善念(親鸞の二十四輩の第十二)
1216年(建保四年)の頃、親鸞が桜川のほとりで川を渡れないでいるところを、『私が背負ってお渡ししましょう』 と向こう岸まで送ってくれた若い武士がいました。
その若い武士は先に鎌倉で滅びた相模国の三浦一族の一党、岡崎義実の孫の義重(三浦義重)で、鹿島神宮を詣でた帰りだったとは語ります。
親鸞は念仏の教えを説いて聞かせると、義重は大変喜んで門弟になり、親鸞は善念という法名を与え、桜川のほとりに草庵を建てて与えたとのことです(文献7)。

(写真は桜川の水源近く、桜川市の櫻川磯部稲村神社に隣接する磯部桜川公園。2017年4月撮影)
義重が 『鹿島詣りの帰り』 に 『桜川』 の辺りを歩いているのは方向が?? と一瞬思いますが、同じく文献4によると、『常陸国の西部から北部にかけては三浦・和田一族の領地が散在する』とのことで、そうすると理解出来ます。
善念は親鸞の二十四輩の第十二とされ、水戸市酒門町の重善寺は、その善念が開祖と伝わります。
この重善寺は、当初は笠間にあったのが、水戸光圀により、現在の場所に移され今に到るとのこと(文献5)。
やっぱり、ここでも水戸藩の徳川光圀さんか
・・・(笑)。
なお、wikipediaによると、善念は、『三浦一族の長田義重』となっています。
(上の小田氏の時も書きましたが、『家名』はいろいろ変わるみたいでよくわかりませんね
)
しかしながら、大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』を見ていると、鎌倉時代初頭、北条氏が執権になった時期、御家人のサバイバルも熾烈を極めたのだと、再認識。
ドラマでは北条氏と仲良し(?)っぽかった三浦氏も、上述したように、史実では結局、三浦義村の次の三浦泰村の代で一族は北条氏に滅ぼされてしまいます(宝治合戦)。
まさにアウトレージなサバイバルの時代
。
そんな過酷なな状況で、領地は取られながらも一族滅亡の憂き目はなく、生き残った八田=小田氏
。
運が良かったのか、実は世渡り上手だったのか。
または、同じ関東武士とはいえ、鎌倉から少し離れた北関東の御家人だったからか。
同じ常陸国では、なんだかんだで佐竹氏も生き残りますし、鎌倉からやや離れた北関東・常陸国という、ある意味『地の利』があったのかもしれないと、私は個人的に思っています
。
奥州を抑える要の地ではあり、力関係やら何か思惑もあったのかもしれませんし、そんな状況の下、執権北条氏と南関東の武士団が攻め合っているうねりの中、北関東の武士団は、そのうねりの波乗りをうまくやりながら、この時代を生き抜き、鎌倉幕府滅亡以降の次の世に舞台を繋いでいったようにも思えます。
そんな目で、上に紹介した茨城に伝わる伝説を見てみると、また何かが見えてくるようで興味深い
。
そしてドラマでは八田知家をどう描くか?…ドラマの佳境に入り、その辺りも茨城県民・つくば市民としては興味津々です
。
ちなみに、現在、つくば市では、
令和4年度巡回企画展 「鎌倉殿の御家人 『八田知家』とつくば」
が開催中です。
開催期間:令和4年9月17日(土)~令和5年2月1日(日)
→
詳細: つくば市HP 令和4年度巡回企画展「鎌倉殿の御家人『八田知家』とつくば」
また先日10/2(日)に、大河ドラマで八田知家を演じている俳優の市原隼人さんのトークショーが、つくば市のつくば国際会議場で開催され、その模様については、
→
つくば市教育委員会 文化財課のHP 「大河ドラマ「鎌倉殿の13人」スペシャルトークinつくばへのご来場ありがとうございました」
これは行けなくて残念です
********************
【参考文献】
1.『美和村史』 美和村史編さん委員会 編集 美和村 発行
2.『日本の伝説37 茨城の伝説』 今瀬文也・武田静澄 共著 角川書店
3.『茨城の伝説』 茨城民俗学会 編 日本標準
4. 常陽藝文 2003年2月号 (財)常陽藝文センター
5.『里の国の中世:常陸・北下総の歴史世界』 網野善彦 著 平凡社ライブラリー
※ 本書は 『茨城県史 中世編(通史)』の網野氏の執筆部分を一つにまとめた書籍。
6. 『土浦市立博物館 第43回特別展『八田知家と名門常陸小田氏』 土浦市立博物館 発行
7. 『茨城と親鸞』 今井雅晴 著 茨城新聞社
8. 『茨城の寺を訪ねて 古寺巡礼ガイド』 茨城放送 発行
********************
【参考サイト】
常陸大宮市観光協会HP
http://www.city.hitachiomiya.ibaraki.jp/~kankokyokai/
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境となってきました

13人の中の関係者はどんどん攻め滅ぼされていますが、まだ残っていて、しかもキャラ的に


三浦義村 そして、八田知家。

子孫が現在のつくば市小田に居城を構え小田氏を名乗り、
最近歴史マニアに人気の『戦国最弱!?』 『常陸の不死鳥!』 小田氏治の先祖である八田知家。
しかしながら、全国的には、八田知家はそれほど有名な存在ではないですね

このドラマでも、このマイナーな武将をどう描くのかな?と思ってドラマを見てきましたが、なにげちチラチラと、富士の巻狩で、狩の下手な源頼家の為に、鹿(のはく製?)をさっと出すとか、いつも土木工事関係をやっているとか、北条義時の奥さんの八重さんが亡くなるのに関わる孤児を連れて来るとか、更には(これは史実にもある)常陸国に流された阿野全成を誅するとか・・・。
もう残り数人しかいない「13人」関係者の中で、八田知家の出番がなにげに増えていっているのも、つくば市民としては嬉しい(笑)。
じわじわ存在感を出しながら八田知家を描いているドラマは、なかなか興味深いです。
土木工事建築関係や、身の回りのちょっとした家具作り?やら居てくれると助かるタイプながらも、結構、北条氏にとっては耳が痛いことを、ピンポイントで言ってくるキャラとなっていますが、今後どんな見せ方をしてくれるでしょうか

鎌倉時代当時の記録は実はほとんどなくて、『吾妻鏡』がほぼ唯一の文献だそうで、『鎌倉殿の13人』の脚本を書いている三谷幸喜さんも、『吾妻鏡がバイブル』とインタビューで答えてましたね。
バイブルの解釈と表現、脚本家の手腕も見どころですよね!
八田知家関係の話題は後述するとして、
鎌倉からちょっと離れた常陸国でありますが、
鎌倉時代から伝わると思われる伝説や史跡が今にも伝わっているのです

まずよく知られているところでは、『鎌倉街道』と呼ばれる古道が茨城県各所に伝わっています。
この鎌倉街道には、大きく分けて『上つ道』『中つ道』『下つ道』のメインロードがありました。
茨城県内を通るのは、『中つ道』『下つ道』です。
例えば、鎌倉幕府の奥州征伐の際に軍が通った道であり、またそれこそ御家人が『いざ鎌倉へ!』と使ったと思われる道です。
そんな常陸国には、鎌倉に繋がるなかなか興味深い伝説が伝わっています。
それをまずご紹介。
① 常陸太田と鎌倉と犬!?
昔、この地に浄因寺というお寺があり、鎌倉時代、鎌倉の建長寺から来た西堂という僧侶が住んでいました。
緊急に鎌倉に伝えたいことがあり、飼い犬の首に文箱をつけて鎌倉まで走らせました。
その犬は鎌倉まで行き、返事を受取り、常陸の寺まで息も絶え絶えで鳴きながら走って戻ってきましたが、寺のすぐ近くの場所で息絶えてしまいました。
犬が鳴きながら通った集落は『ナキダイラ』と呼ばれ、現在の『仲平』にあたるといいます。
その犬を葬ったのが『犬塚』と呼ばれ、つけていた文箱を埋めた集落が『箱地』と呼ばれる地域と伝わります。
(文献1、2、3)
切ない伝説ですが、でもそんなに急ぎの連絡とは何だったのでしょう?
『犬』とされているが、本当は伝達係の人ではなかったのでしょうか?
この辺りは、『鎌倉街道 下つ道』沿いのエリア。そして奥州の入り口辺り。
そして佐竹氏の領地。
寺の住職というのは実は…?!
…いろいろ憶測が頭の中を駆け巡る興味深い伝説です

詳細は、過去の記事
→ 常陸大宮に伝わる 頑張った犬の伝説2つ(後編)
https://cardamom.tsukuba.ch/e322968.html
をご覧ください♪
② 常陸大宮 『三浦杉』 (昔は『鎌倉杉』と呼ばれていた)

当地では昔から『鎌倉杉』と呼ばれていた杉を、その由来を聞いた水戸藩の徳川光圀が、『それなら ”三浦杉” とするのが良いだろう』と改名させたと言います。
三浦大介基安(※)という武将が、那須に殺生石を退治にいく途中に立ち寄ったこの地で武運を祈り、杉の木を植えたものが、常陸大宮の吉田八幡神社の大杉となったという伝承が伝わります。
(写真は、吉田八幡神社の『三浦杉』の1本 2010年撮影)
また同地では、その家臣の4人がこの地に残り、その家臣たちを先祖とする四つの家が現在も続いているとのこと(文献4)


三浦基安の像を祀った三浦神社、三浦基安が烏帽子をかけたという烏帽子掛峠という地名も伝わっています。
(写真は三浦神社 2010年撮影)
この『三浦基安』という人は、三浦氏の系図にはない名とのことですが、系図に載っていない人々も大勢いたはずです

ここまで具体的な話が伝わっているので、絶対何か関係はあるはず

※ 一般に『三浦大介』は『三浦義明』を指します。また、九尾の狐伝説で、狐を退治した武将の一人は三浦大介義明とされるのが一般的のようです。
こちらも詳細は、過去の記事
→

をご覧くださいませ♪
<余談>
この三浦杉伝説の背景にある『那須の殺生石』伝説ですが、話の前半はいわゆる九尾の狐伝説で、鎌倉時代に活躍した武将が、世を乱す妖女 玉藻前の正体が九尾の狐であることを暴きます。
そして伝説の後半は、下野国の那須へ逃げた九尾の狐を、今度は曹洞宗の僧侶(源翁和尚)が退治しました。しかし狐は『殺生石』となって今も毒ガスを吐き続けている…という伝説です。
さて、その源翁和尚についても、過去の記事に詳しく書きましたので、良かったら♪
→

https://cardamom.tsukuba.ch/e227245.html
民衆の中で語られ、能などでも演じられてきた伝説であり芸能の題材ですが、どうしてこれらの登場人物が選ばれたのか、どういう人たちが関わり、話を伝播していったのかとか、個人的に大変興味を感じます。
ちなみに栃木県那須の名勝『殺生石』は、今年2022年3月、リアルに割れているのが発見されニュースになっていました。
自然現象で割れたとのことで、岩は割れてはいますが、ガスは(地中から)吐き続けていますね(笑)。
数百年後に源翁和尚の術が効いたのか(?)石は割れたけれど、有毒ガスは出続けていますので、源翁和尚が勝ったのか、九尾狐が勝ったのか??

③ 源義経伝説
初代鎌倉殿の源頼朝の弟(腹違い)の1人、源義経は超有名ですね。
昔からいろいろな題材の主人公になっていますし、日本全国に義経伝説は数多くあります。
茨城県内でもいくつか『義経』にまつわる伝説が伝わっています(例えば境町など)。
これらはいずれ別途、書いていきたい

さて、いよいよ八田知家関連について書きます

④ 阿野全成の墓
源頼朝の腹違いの弟で、源義経と母を同じくする兄である、阿野全成。
この方もちょっとマイナーな存在かと思いますが、今回のドラマではコミカルで良い味を出しているキャラクタとして描かれていました。
が、史実と同じく、最期は建仁三年(1203年)下野にて八田知家に誅されています。
ドラマでは涙なくして見られなかった場面です


阿野全成と従者の墓と伝わる史跡が、栃木県益子町の大六天の森と呼ばれる地ににあります。
これは大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の最後の名所案内でも紹介されていましたね。
(写真は 益子町の大六天の森付近。 2017年9月撮影)
益子町は常陸国でなくて下野国ではありますが・・・隣接しているということで

大六天の森は近くまで行ったことはありますが、直接はまだ行ったことがないので、
近いうちに是非行きたいと考えています。
ところで、吾妻鏡によると、実は八田知家は阿野全成を誅した頃から、家名(※)を『八田』でなく『筑後』を名乗ります(文献6)
文献で『小田』の家名が出てくる初見は、八田知家の3代後(曾孫)の時知からとのこと(文献6)。
※ 『家名』とは:(文献6より)八田知家の正式な名は『藤原朝臣知家』。『氏』は『藤原』、『姓(かばね)=氏に付属する称号』は『朝臣』。『家名』は氏から分かれた一族の『名乗り』で、地名・役職・地域の特徴等様々なものが由来となるそうです。
ややこしいですね(汗)。
今回、当ブログでは、後述する八田知家の2代後(孫)の泰知から、家名を『小田』と書きます。
**************
さてこの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、八田知家同様、男の怪しい色気ムンムンの三浦義村も個人的に気になっております(笑)。
ドラマでは硬派なキャラの八田知家に対し、ナンパなキャラの三浦義村として描かれていて、なかなか対象的です。
三浦一族の領地は鎌倉に隣接する三浦半島。
(三浦半島は小さいので、鎌倉プラス三浦半島は、ほぼ、つくば市と同じ面積になります・・・そうイメージずると茨城県民には距離感がピンと来るかと・・・つまり近くなんです

常陸国とは一見関係なさそうな三浦氏ですが、先に②で紹介した『三浦杉』もありますし、
実は八田知家の子孫、小田氏とも少なからず関係が生まれています。
⑤ 八田知家の孫の小田泰知の妻は三浦氏出身(三浦泰村の娘)
八田知家の子の知重も鎌倉で仕えます。
その知重の子の泰知(つまり八田知家の孫)は、三浦泰村(三浦義村の子)の娘(つまり義村の孫娘)を娶ります。
しかしながら三浦泰村を筆頭とする三浦氏は1247年の宝治合戦で、執権北条氏に滅ぼされますが、小田氏も三浦氏の縁者であることが災いして宝治合戦で失脚し、常陸国守護の座を追われ、常陸国守護は宍戸氏になります(文献5,6)。
まさにサバイバル…。
なお、一般には小田泰知の妻は三浦氏出身というのが通説になっていますが、三浦氏出身ではないとする説もあります(文献6)。
さて、その三浦一族については、常陸国では、他にもなかなか興味深い伝説が伝わっています。
⑥ 三浦義重 = 善念(親鸞の二十四輩の第十二)
1216年(建保四年)の頃、親鸞が桜川のほとりで川を渡れないでいるところを、『私が背負ってお渡ししましょう』 と向こう岸まで送ってくれた若い武士がいました。
その若い武士は先に鎌倉で滅びた相模国の三浦一族の一党、岡崎義実の孫の義重(三浦義重)で、鹿島神宮を詣でた帰りだったとは語ります。
親鸞は念仏の教えを説いて聞かせると、義重は大変喜んで門弟になり、親鸞は善念という法名を与え、桜川のほとりに草庵を建てて与えたとのことです(文献7)。

(写真は桜川の水源近く、桜川市の櫻川磯部稲村神社に隣接する磯部桜川公園。2017年4月撮影)
義重が 『鹿島詣りの帰り』 に 『桜川』 の辺りを歩いているのは方向が?? と一瞬思いますが、同じく文献4によると、『常陸国の西部から北部にかけては三浦・和田一族の領地が散在する』とのことで、そうすると理解出来ます。
善念は親鸞の二十四輩の第十二とされ、水戸市酒門町の重善寺は、その善念が開祖と伝わります。
この重善寺は、当初は笠間にあったのが、水戸光圀により、現在の場所に移され今に到るとのこと(文献5)。
やっぱり、ここでも水戸藩の徳川光圀さんか

なお、wikipediaによると、善念は、『三浦一族の長田義重』となっています。
(上の小田氏の時も書きましたが、『家名』はいろいろ変わるみたいでよくわかりませんね

しかしながら、大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』を見ていると、鎌倉時代初頭、北条氏が執権になった時期、御家人のサバイバルも熾烈を極めたのだと、再認識。
ドラマでは北条氏と仲良し(?)っぽかった三浦氏も、上述したように、史実では結局、三浦義村の次の三浦泰村の代で一族は北条氏に滅ぼされてしまいます(宝治合戦)。
まさにアウトレージなサバイバルの時代

そんな過酷なな状況で、領地は取られながらも一族滅亡の憂き目はなく、生き残った八田=小田氏

運が良かったのか、実は世渡り上手だったのか。
または、同じ関東武士とはいえ、鎌倉から少し離れた北関東の御家人だったからか。
同じ常陸国では、なんだかんだで佐竹氏も生き残りますし、鎌倉からやや離れた北関東・常陸国という、ある意味『地の利』があったのかもしれないと、私は個人的に思っています

奥州を抑える要の地ではあり、力関係やら何か思惑もあったのかもしれませんし、そんな状況の下、執権北条氏と南関東の武士団が攻め合っているうねりの中、北関東の武士団は、そのうねりの波乗りをうまくやりながら、この時代を生き抜き、鎌倉幕府滅亡以降の次の世に舞台を繋いでいったようにも思えます。
そんな目で、上に紹介した茨城に伝わる伝説を見てみると、また何かが見えてくるようで興味深い

そしてドラマでは八田知家をどう描くか?…ドラマの佳境に入り、その辺りも茨城県民・つくば市民としては興味津々です


令和4年度巡回企画展 「鎌倉殿の御家人 『八田知家』とつくば」
が開催中です。
開催期間:令和4年9月17日(土)~令和5年2月1日(日)
→

また先日10/2(日)に、大河ドラマで八田知家を演じている俳優の市原隼人さんのトークショーが、つくば市のつくば国際会議場で開催され、その模様については、
→

これは行けなくて残念です

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【参考文献】
1.『美和村史』 美和村史編さん委員会 編集 美和村 発行
2.『日本の伝説37 茨城の伝説』 今瀬文也・武田静澄 共著 角川書店
3.『茨城の伝説』 茨城民俗学会 編 日本標準
4. 常陽藝文 2003年2月号 (財)常陽藝文センター
5.『里の国の中世:常陸・北下総の歴史世界』 網野善彦 著 平凡社ライブラリー
※ 本書は 『茨城県史 中世編(通史)』の網野氏の執筆部分を一つにまとめた書籍。
6. 『土浦市立博物館 第43回特別展『八田知家と名門常陸小田氏』 土浦市立博物館 発行
7. 『茨城と親鸞』 今井雅晴 著 茨城新聞社
8. 『茨城の寺を訪ねて 古寺巡礼ガイド』 茨城放送 発行
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【参考サイト】
常陸大宮市観光協会HP
http://www.city.hitachiomiya.ibaraki.jp/~kankokyokai/
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
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