2011年01月05日
那須の殺生石を砕いた!源翁和尚
つくば(茨城)プチ民俗学: 那須の殺生石を砕いた!源翁和尚のお墓探訪(結城・安穏寺)
(初出:2011年1月05日 20時28分)
(★昨年10月ラヂオつくば「つくば井戸端レポーター」でお話しした「妖怪九尾の狐からひもとく茨城の歴史」の追加情報です)
那須の殺生石と妖怪九尾狐の伝説につきましては、以前、三浦杉(茨城県常陸大宮市 吉田八幡神社)を紹介した時にも触れましたので、そちらも ご覧下さい。
→ 常陸大宮 吉田八幡神社の『三浦杉』を訪ねて』
簡単にあらましを書きますと、
時は平安末期、悪事を働いていた妖怪九尾の狐が、那須野に逃げたところを、三浦介らに退治されました。
しかし、それでもなお殺生石となって毒ガスを吐き、人や動物に危害を加えていたところ、その石を砕いて退治した(成仏させた?)のが、源翁(心昭)和尚 さんです。
そのお墓が、茨城県の結城市にあります。
穏やかな日差しの今年のお正月1月3日、冬晴れに誘われてドライブがてらに行ってきました。
源翁和尚は、4年ほど結城の安穏寺にいたとのことで、結城市教育委員会の看板によると、源翁和尚愛用の数珠と払子(いずれも県指定文化財 室町時代作)が伝えられているそうです。
お墓の方は、安穏寺境内ではなく、結城小学校の近くの閑静な住宅地の、きれいに整備された一角にあります。
始め知らずに、境内のお墓の中をうろうろしておりましたが、お墓参りに来られた地元の方に教えて頂き、見つけることができました。
とても品の良い年配のご夫婦で、「私も小学校の時の遠足で行っただけなんですが、ちゃんと囲いに囲まれていると思いますよ」とおっしゃっていました。
その通り、きれいに囲いがあって整地されている場所でした。
お墓敷地入口にあった、結城市教育委員会の看板の文章をそのまま掲載します。
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市指定史跡 源翁和尚の墓
源翁(心昭)和尚(一三二六~一三九六年)は、南北朝期の曹洞宗の僧侶で、越後国(新潟県)に生まれ、同国の陸上寺で出家しました。十八歳の時に禅宗に転じ、能登国(石川県)の総持寺の峨山禅師の弟子となり修業したのち、諸国をまわって多くの寺院を創建しました。
室町時代の応安四(一三七一)年には、結城家八代直光の招きで結城を訪れ、奈良時代に律宗の寺として創建されたといわれる安穏寺を禅宗の寺に改めて開山しました。
この源翁和尚は、安穏寺に四年間滞在したのち会津に行き、さらに那須では、悪い煙を上げて人や鳥獣たちに害を与えていた殺生石を二つに割り、石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られています。このことは、源翁和尚とその門人たちが石工に関係があり、源翁和尚の周囲に職人達がいたことをうかがわせます。
また、殺生石にまつわる伝説は、民話、能、浄瑠璃などに取り上げられ、全国的に知られており、このことから、石を砕いたりする槌を「げんのう」と呼ぶようになったといわれています。
なお、源翁和尚が使用したと伝わる数珠と払子が、今も安穏寺(市内鍛冶町)に残されており、茨城県指定文化財になっています。
平成二十二年三月 結城市教育委員会
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源翁和尚さんに、世の中の悪いものを打ち砕いてくれるよう(?)、お参りしてきました。
さて、安穏寺には、江戸時代に建てられたという山門(結城市指定文化財)があります。
この山門をくぐると、「『狐つき』が治る」という言い伝え があるそう。
狐が化けた殺生石を退治した源翁和尚にちなんででしょうか。
結城の町は、蔵の街でもあるようで、街のあちらこちらに趣のある蔵がありました。
しかし、この日は1月3日で、正月三が日でもあり、お店はどこも閉まっていました。
昨年2010年、結城紬がユネスコ無形文化財に登録された ことでもありますし、今度、別の日に改めて散策に来たいと思いました。
皆さんも是非行かれて見てくださいね。
(初出:2011年1月05日 20時28分)
(★昨年10月ラヂオつくば「つくば井戸端レポーター」でお話しした「妖怪九尾の狐からひもとく茨城の歴史」の追加情報です)
那須の殺生石と妖怪九尾狐の伝説につきましては、以前、三浦杉(茨城県常陸大宮市 吉田八幡神社)を紹介した時にも触れましたので、そちらも ご覧下さい。
→ 常陸大宮 吉田八幡神社の『三浦杉』を訪ねて』
簡単にあらましを書きますと、
時は平安末期、悪事を働いていた妖怪九尾の狐が、那須野に逃げたところを、三浦介らに退治されました。
しかし、それでもなお殺生石となって毒ガスを吐き、人や動物に危害を加えていたところ、その石を砕いて退治した(成仏させた?)のが、源翁(心昭)和尚 さんです。
そのお墓が、茨城県の結城市にあります。
穏やかな日差しの今年のお正月1月3日、冬晴れに誘われてドライブがてらに行ってきました。
源翁和尚は、4年ほど結城の安穏寺にいたとのことで、結城市教育委員会の看板によると、源翁和尚愛用の数珠と払子(いずれも県指定文化財 室町時代作)が伝えられているそうです。
お墓の方は、安穏寺境内ではなく、結城小学校の近くの閑静な住宅地の、きれいに整備された一角にあります。
始め知らずに、境内のお墓の中をうろうろしておりましたが、お墓参りに来られた地元の方に教えて頂き、見つけることができました。
とても品の良い年配のご夫婦で、「私も小学校の時の遠足で行っただけなんですが、ちゃんと囲いに囲まれていると思いますよ」とおっしゃっていました。
その通り、きれいに囲いがあって整地されている場所でした。
お墓敷地入口にあった、結城市教育委員会の看板の文章をそのまま掲載します。
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市指定史跡 源翁和尚の墓
源翁(心昭)和尚(一三二六~一三九六年)は、南北朝期の曹洞宗の僧侶で、越後国(新潟県)に生まれ、同国の陸上寺で出家しました。十八歳の時に禅宗に転じ、能登国(石川県)の総持寺の峨山禅師の弟子となり修業したのち、諸国をまわって多くの寺院を創建しました。
室町時代の応安四(一三七一)年には、結城家八代直光の招きで結城を訪れ、奈良時代に律宗の寺として創建されたといわれる安穏寺を禅宗の寺に改めて開山しました。
この源翁和尚は、安穏寺に四年間滞在したのち会津に行き、さらに那須では、悪い煙を上げて人や鳥獣たちに害を与えていた殺生石を二つに割り、石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られています。このことは、源翁和尚とその門人たちが石工に関係があり、源翁和尚の周囲に職人達がいたことをうかがわせます。
また、殺生石にまつわる伝説は、民話、能、浄瑠璃などに取り上げられ、全国的に知られており、このことから、石を砕いたりする槌を「げんのう」と呼ぶようになったといわれています。
なお、源翁和尚が使用したと伝わる数珠と払子が、今も安穏寺(市内鍛冶町)に残されており、茨城県指定文化財になっています。
平成二十二年三月 結城市教育委員会
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源翁和尚さんに、世の中の悪いものを打ち砕いてくれるよう(?)、お参りしてきました。
さて、安穏寺には、江戸時代に建てられたという山門(結城市指定文化財)があります。
この山門をくぐると、「『狐つき』が治る」という言い伝え があるそう。
狐が化けた殺生石を退治した源翁和尚にちなんででしょうか。
結城の町は、蔵の街でもあるようで、街のあちらこちらに趣のある蔵がありました。
しかし、この日は1月3日で、正月三が日でもあり、お店はどこも閉まっていました。
昨年2010年、結城紬がユネスコ無形文化財に登録された ことでもありますし、今度、別の日に改めて散策に来たいと思いました。
皆さんも是非行かれて見てくださいね。
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