おうちで厄除け・無病息災祈願
【シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (9)】筑波山と羽子板と、羽根つき遊びの歌の謎

久しぶりの『筑波山名跡誌』シリーズですが、今回はポイントとしての場所ではなく書かれている伝説を読み解きたいと思います。


江戸中期の”ガイドブック” 『筑波山名跡誌』(上生菴亮盛 著)(文献1)に書かれた名所・旧跡を訪ね、興味のおもむくまま♪ 関連する話題も調べるシリーズです。
(筑波山名跡誌に記載されている順ではありませんので、その点、ご了承ください)

今までのお話
豆電球シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1)常陸帯宮(前編)
豆電球シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1) 常陸帯宮(後編)
豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (2) 男女川(水源)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (3)夫女之原、夫女石
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (4)亀之岳
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」(5)観流庵(前編)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (5)観流庵(後編)
豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (6) 酒香川
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (7) 橘川・迎来橋(前編)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (7) 橘川・迎来橋(後編)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (8) 一の鳥居


新型コロナの感染が拡大しています。しかも感染力の強い変異型の報道も出てきて大変気がかりです。
とにかく、新型コロナの感染をこれ以上広げないために、今年の年末年始は、やはり極力外出を控えないといけないです。

初詣でも、時期をずらして空いている年末に社寺に詣でる『幸先詣で』もあるとか。

とにかくここが我慢のしどころ。
そんな今年のお正月に
『厄除け・無病息災』を祈願しながら、おうちで家族と遊べる遊び
があるのです!


それは、

キラキラ羽根つき』!キラキラ

羽子板で羽根をついて遊ぶ、あのお正月伝統の遊びです。

(写真は、某人気アニメの絵の羽子板の裏側です)




先日、ラジオ(NHK第一)の番組のストリーミング放送を聞いていたら、

正月の羽子板遊びには厄除けの意味がある

という話題をやっていました。

① 衝く羽根の黒い玉は「むくろじ」の実。
むくろじは、「無患子」と書き、子供の無病息災祈願に繋がっている。

② 羽子板で衝く羽根をトンボに見立てて、羽根で衝いて宙に飛ばして、蚊などの害虫を退治させるまじない。

③ 失敗すると顔に墨を塗られることは、魔除けのまじない。

なのだそうです。

これはもう、羽子板で羽根つき遊びをやるしかないですね!グッド


そんな羽子板と羽根衝きの由来について、江戸時代中期に書かれた『筑波山名跡誌に、
筑波山に伝わる興味深い話が書かれていますので、今回はそれについて考えていきます。

(なお、羽つき/羽子板あそびについては、図書館にある文献でも調べてみました。このページの最後に参考文献(文献3、4、5))を挙げますのでご興味ある方はそちらもご覧くださいにこにこ


(1) 江戸時代中ごろ、筑波山地域は羽子板の名産地だった


以前も、筑波山の『羽子板』の『こぎのこ・こぎのみ(植物の「ツクバネ」の実)』について書きました。
 豆電球以前書いた記事 → 茨城こんなもの見つけた♪(19) 「つくばね御守」と「つくばね」の実 

今回は、同書の『羽子板』の項に書かれている、羽根つきの歌についてです。

まず、同書によると、著者の上生庵亮盛が、坂東巡礼で椎野山(椎尾山のことか?※)で泊った時に、
地元の老農夫から、筑波山における羽子板の由来として、

 ●最初は、木の枝で羽根を打っていたが、そのうち枝が板になり、さらにその板もきれいな形に作られて、
  毎年『霜月朔日』(旧暦11月1日)に市で売られて全国に、筑波山で作られた羽子板が出回るようになった


という話を聞きます。加えて、

 ●羽根衝きは、『日神』が筑波山にいつとせ(五年?)滞在した時に、他の神様達と一緒に、
  筑波山の二神を羽根衝き遊びで慰め伝わる『羽根衝きの歌』がある


ことも聞きます。


なお同書では、筑波山の名物の項に、

 ●羽子板、児岐之実(こぎのみ:植物のツクバネの実。衝き羽根の形に似る)

も入れています。
『筑波山名跡誌』が書かれた江戸時代中期の頃は、羽子板は筑波山の名産品だったようです!

 ※ 椎野山は、筑波連山の『椎尾山』の間違いかと考えます。
  坂東=関東には、椎野山という山はどうもないようですし、話の筋から筑波山連山の1つとした方が自然かと考えます。


(2)筑波山地方に伝わる羽根衝きの歌

一二三四(ひふみよ)と​五(いつ)まではごをつくばねの 月あらん事は そらにすめすめ

上生庵亮盛は、更に老農夫から、筑波山二神への御詠歌として、この歌(和歌)を聞き、筑波山名跡誌に書き綴ります。

なにか呪文のようでもありますね。
そして、それぞれのことばが掛けことばになって、歌自身がいくつも意味を持つようにも感じられます。

この歌の意味の謎解きにちょっと挑戦してみましょう!

① 羽根を羽子板で衝きながら、数を数える『一、二、三、四、五・・・』
    
  『ひふみよ』: 数を数える『一、二、三、四』
      または、
   『ひ』は『日(日神)』?
        『ふみ』は『踏み』? 『踏む』の古語の意味に『位につく』という意味もある(Webio古語辞典)
        『よ』は『世』?
       合わせると『日神が位につく(統べる)世』とも読める?  
         
  『いつ』:数字の『五』と、時を聞く『いつ』
       上生庵亮盛が聞いた筑波山の神々の伝説
        『日神が筑波山にいつとせ(五年)滞在した』 の『いつ』にも関係するか?

② はご 羽子板の羽子で、いわゆる羽根つき遊びに使う羽根です。『はね』。『つくばね(衝く羽根)』    

③ 『はごをつく』:羽子を衝く
  『つく』が『つくば(筑波)』の『つく』に繋がる。
  『つくばね』:『衝く羽根』、『筑波嶺』
 『つくばねの月』:『衝く羽根の衝き』、『筑波嶺の月』

④ 『月あらん事は』: 『月があること(月がある様子)』、『衝きがあること』 
    
⑤ 『そらにすめすめ』 これが難解…。

  この意味をを考えていきます。


(3)『そらにすめすめ』とは?

 実は同書では、『羽子板』の項の一つ前の『児岐乃子』の項で、後水尾院の御歌として

   『つくばねのそれにはあらでこぎのこのこよひの月はそらにすめすめ

 という歌も紹介しています。

 後水尾院は 江戸幕府が始まった頃、慶長元年~延宝八年(1596年-1680年) に生き、
 慶長16年(1611年)~寛永6年(1629年)に在位した天皇。
 その方の歌です。
 
 『こぎのこ(古岐乃子)』は、上でも書きましたが、植物の『ツクバネ』の実です。
 この『ツクバネ』は、羽子板遊びに使う羽子そっくりの形をしています。

 この後水尾院の御歌の意味も気にはなりますが、おそらく冒頭の『つくばね』は、山の『筑波嶺(つくばね)』ではなく、純粋に『衝く羽根』=羽子 のことを言っているのだと思います。 
 多分、宮中で羽子板遊び(神事だったかも?)をしている時の様子を、後水尾院が詠った歌なのではないのでしょうか。

 こちらの御歌にも、『月』が出てきますね。
 羽根衝きは月夜に行われることもあったのでしょうか?? 興味深い。

 そしてこの歌の最後が、やはり『そらにすめすめ』なのです。

 ・ 筑波山麓で(少なくとも江戸時代中期ごろ)伝わっていた羽根衝きの歌
  『一二三四(ひふみよ)と​五(いつ)まではごをつくばねの 月あらん事は そらにすめすめ』
 ・ 後水尾院(江戸時代初めの人)の歌
  『つくばねのそれにはあらでこぎのこのこよひの月はそらにすめすめ』

 どちらが先かは分かりませんが、どちらも
  『つくばね』『はご(羽子)/こぎのみ(児岐之実)』、『月』、『空にすめすめ』
 と共通ワードがあります。

 そしてやはり気になるのが、最後の『空にすめすめ』の意味。

 私は、『すめ』 は 『澄め』 ではないかと思います。
 というのも、

 古語『澄む』の例として、Webio古語辞典によると、

 吉田兼好の徒然草 十九にある一文

 『すさまじきものなりて見る人もなき月の、寒けくすめる二十日余りの空こそ、心細きものなれ』

 をあげて、その意味を

 『殺風景なものとして見る人もいない(冬の)月が、寒そうに澄んでいる
  (陰暦十二月9二十日過ぎの空は心細いものである』

 と説明します。

  また、新古今和歌集(文献2)によると、藤原秀能(ひでよし/ひでとう)という人の歌で、

 『月すめばよもの浮雲空に消えてみ山がくれにゆくあらしかな』   

 という用例があり、文献2の解説では、『月すめば』を『月が澄むと』と解説しています。

 つまり『月』と『澄む』はセットになり得る。

 なので、下の句の『月あらん事は そらにすめすめ』は、

 『月が(夜空に)ある姿で、その空で澄んで(美しく輝いて)いて下さい

 と読めるのではないかと思っています。


(4)筑波山地域に伝わっていた羽根衝き遊びの歌の意味は…。

以上より、

一二三四(ひふみよ)と​五(いつ)まではごをつくばねの 月あらん事は そらにすめすめ

の歌の意味は、私は下記のようにまずは考えます。

① 『ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつといつまでも、羽子を衝く筑波嶺に月がある姿で、空で輝き続けて下さい

月が輝く夜と、羽根を衝く神事の様子が重なる、美しくもミステリアスな歌ではありませんか♪

ところが気になるのは、

『日神がいつとせ、筑波山に滞在した時に、他の神様達と、筑波山の二神を羽根衝きで慰めた』

という話。

そうすると、

② 『日の神が治める世でいつまでも羽子を衝く筑波嶺に月がある姿で、空で輝き続けていて下さい

とも読めますし、

③ 『日の神が治める世で、日の神が五年滞在して羽子を衝く間は、筑波嶺に月がある姿で、空で輝き続けて下さい

とも読めるかも? 後の意味だと期間限定…?

いずれにせよ、『日神』が歌った歌に『月』が出てくる。それも『輝き続けて』と歌う。

いよいよミステリアス。

または、単純に羽根衝きの回数の数え歌 兼 応援歌として、

④ 『ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつといつまでも衝いている羽子の、その衝き(つき)が続くことを表すように、(衝かれた羽子よ)空中で(ずっと)輝いていて!

とも取れますよね。

他にも解釈や、裏の意味もありそうな歌で、とても興味が深まりますが、あとは各自で妄想の羽根を広げて頂くことにして、
私の解釈は、とりあえず上記の4つで(^^)笑


それにしても、この歌を唱えながら、羽根を羽子板で衝いて遊ぶと、ますます厄除け・無病息災の願いが届きそうではありませんか!
そして失敗した時は、顔に墨を塗って(サザエさんみたいに)、これまた厄除けになる。

身体を動かして健康的キラキラだわ、顔に墨を塗って笑いを呼ぶキラキラは、良いことずくめグッド

今年のお正月は、おうちで羽根つきして遊んで
、『おうちで厄除け・無病息災祈願
しませんかキラキラ(^o^)



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【参考文献】

1.『筑波山名跡誌 ―安永期の貴重な地誌再現―』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説  筑波書林

2.『新古今和歌集』 新日本古典文学大系11 岩波書店

3,『民族遊戯大事典』 大林太量 編 大修館書店

4.『日本こどものあそび大図鑑』 笹間良彦 著 株式会社遊子館

5.『江戸時代 子ども遊び大事典』 小林忠 監修 中城正堯 編著








  

源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)


びっくりあの源氏物語に 『筑波山』 が出てくる!びっくり
ということで、前回に引き続きキラキラ源氏物語と筑波山の関係 キラキラについてです。

豆電球前回までのお話
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)

(写真は2019年11月下旬撮影 つくば市国松付近から筑波山を望む)




4.源重之の歌のネタ元?『風俗歌 筑波山』

ところで、9世紀前半から11世紀中ごろの時代風俗歌『筑波山』という歌がありました(文献4、5)


風俗歌『筑波山』
筑波山 は山しげ山 茂きをぞや 誰が子も通ふな 下に通へ わがつまは下に

つくはやま はやましげやま しげきをぞや たがこもかよふな したにかよへ わがつまはしたに


歌の前半が、源重之の歌とほぼ同じです!!

後半の『下に通う』というのは『密かに通う』という意味(文献3)。

 【参考】 新古今和歌集 1014 : 我ならぬ人に心をつくば山したにかよはむ道だにやなき (大中臣能宣)
    ※この歌も、『つくば山(筑波山)』を歌っています。


つまり、風俗歌『筑波山』の意味は、

(歌垣・嬥歌(かがい)のあって古来から有名な)筑波山の周りの樹々が茂った山道(は皆が通う道なので)を通ってはいけない。
 こっそり通いなさい。私の愛しい人は密かに(別の場所に)いるのだから


ということでしょうか??(私の超訳ですグッド

(写真は、石岡市 国民宿舎つくばね の駐車場より筑波山を望む。2015年11月撮影)


ところで、この風俗歌『筑波山』、9世紀前半から11世紀中ごろの歌というのが気になります。
『風俗歌』というのは、明治時代に編纂された日本初の百科事典 『古事類苑』 によると(文献5)
宮中の行事で歌われたものが、次第に民衆に広まっていった歌のようです。

★この風俗歌『筑波山』が元々あって、それを『本歌取』して、源重之が『筑波山端山重山…』を歌ったのか?

★それとも、源重之の歌が有名(源氏物語でも引用されているくらい)なので、これが宮中の行事で歌われ、
次第に民衆にも広く歌われていったのか?

その辺りが気になりますが、いずれにせよ、源氏物語の時代に、
『つくばやま、はやま、しげやま・・・』 と始まる歌は、、
民衆にも歌われていたし、三十六歌仙の歌人までもが、筑波山を『詠って』いた
というのは、事実!キラキラ

『つくばやま はやま しげやま しげ〇〇〇』

韻もいくつも踏んでいるし、とてもリズム良いハート
現代ならば、ラップですね♪! 
みんなが口ずさみたくなるのが、よくわかりますグッド

『つくばやま、はやましげやま 茂けれど♪』
『つくばやま、はやましげやま 茂きをぞや♪』
こう歌いながら、常陸国の国府(石岡)やあちこちの村から、男女がフェス(歌垣・嬥歌(かがい))に参加するために、
筑波山目指してワクワク歩いている様子が、目に浮かぶようではありませんか!? キラキラ


そして都から常陸国の国府(石岡)に赴任してきた人たちやそのお供の人たちが、都に帰って、楽しかった?筑波山のフェスの話をして、噂は広まり・・・。
更に時代を遡った頃から伝わる万葉集にも25歌も詠われる筑波山のイメージもあり、
都の人々は、あーんなことや、こーんなこと等、いろいろ妄想を膨らませて 筑波山に恋とロマンハートを感じたのでしょうねハート
(写真は常陸国の国府跡地。現在は石岡市立石岡小学校)






5.源氏物語と「常陸」と「筑波山」

源氏物語の五十帖(宇治十帖の第六帖)の『東屋(あずまや)

この東屋(あずまや)は、その字の如く、『東国にあるような(素っ気ない)家屋』を表すそうです。

重要人物の浮舟は、父(養父)の赴任地の、東国の常陸国で育ちます。
それもあり、京で育てばそれなりに身についていたであろう雅びな教養がなく、身分も常陸介の娘(継娘)なので、
超~高級貴族の薫君も匂宮も、何気に見下す態度で接しますがーん…

正直、薫君も匂君も、いけ好かないヤツぷんぷん…というのは置いといて、

★ 『東屋』帖は、三十六歌仙の一人 源重之の歌『筑波山(つくばやま)…』で始まる。
★ 筑波山は、東国常陸国にある歌枕の地。恋の山としても知られる。


というのがあるので、やはり作者の紫式部は意識して、

『東屋』(東国にあるような家屋)
―『常陸・常陸介』(常陸国・常陸国の長官)
―『筑波山』(常陸国にある山・歌枕の地)

を、設定に取り入れたように思います笑

今回注目している源氏物語の宇治十帖の、ヒロイン浮舟の養父の身分も、常陸介(※)。
垢抜けないし、実子でない浮舟には冷たいけれど汗、とても金持ちで羽振りが良いオヤジキャラ。


(写真は常陸国国府跡の碑。石岡市立石岡小学校敷地内)

常陸介は『受領』と呼ばれる身分で、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者のこと。
現地でがっぽり富を蓄えて裕福ではありますが、所詮中央政権には進出できない中小貴族。
しかも都から見て、常陸国は遠い東国にある辺境の地。
同じ国司でも、東国に赴任する人は、やはり都近くの国に赴任するする人よりパッとしない貴族だったようで・・・汗

※ただし、『介』は国司に次ぐナンバー2ですが、常陸国は親王任国なので、『常陸介』という身分は、現地(常陸国)では実質ナンバー1!!
(親王任国であった、常陸国、上総国、上野国の3国は、国守は伝統的に親王がなるが現地には行かないので、
実際に任地に赴任する「介」が、現地ではナンバー1なのです)

源氏物語の中では、浮舟の家に仕えている人も東国出身者も多く、「あずまことば」でしゃべっているのも云々というくだりも出てきます汗^^;
(このくだりを読むと、生まれも育ちも関東出身の私は、正直イラっとします(笑))ZZZ

で、それやこれやで、中央政権にいる超~高級貴族の薫君は、浮舟を軽く見て、世間体を気にして煮え切らないわけです。
なら、惚れなきゃいいのにね、薫がーん…  ← 恋愛小説に文句いってもしかたありませんが。


今回、苦手な源氏物語を、『筑波山』に関わりそうな部分だけですが、訳文等を読む機会を持ちましたグッド

私は薫君にも匂宮という野郎どもキャラには何も惹かれませんが、浮舟の生きざま(設定)には共感するものがあります。
宇治十帖ぐらいは今度ちゃんと読んでみようかなと思いましたグッド


6.源氏物語が書かれた頃の筑波山周辺は?

さてさて、源氏物語の作者、紫式部の生きていた時代の筑波山付近を見てみますと・・・。

源氏物語が文献に初出するのは、1008年(参考サイト1より)。

その頃、常陸国の筑波山南麓(今のつくば市の水守や北条付近)には、平維幹、為幹親子がいました(990~1020年過ぎ頃)。


(写真はつくば市北条にある、日向廃寺跡。平安時代後期、この地にいた平氏(常陸平氏)が、京都の平等院鳳凰堂を模して作られたと考えられています。2011年5月撮影)

その財力は、当時の説話集の今昔物語でも語られていて、常陸介夫妻が京に帰る時の贈り物が都で語り草になっていたのが分かります。

紫式部(970頃~1019頃?)の頭の中には、地元の豪族、常陸国の平氏からがっつりいろいろ貰っていた潤っていた常陸介のイメージがあったのかもしれません。
ちなみに紫式部の母方の祖父の藤原為信も、常陸介経験者です(参考サイト2より)。

そういう、常陸国にある筑波山という連想も、作者の紫式部にも読者の貴族側にも共通にあったことでしょう。

そして、源氏物語が書かれた後になりますが、紫式部の異母弟(藤原惟通)も常陸介として常陸国の国府に赴任して現地で亡くなっています(1020年頃)。
この1020年頃は、筑波山南麓 水守~多気(今のつくば市水守~北条付近)に居を構えていた、平維幹・為幹父子の勢力が強大だったころです。
常陸介の藤原惟通が常陸国で亡くなった後、その妻は平為幹によってひどい目にあい、それを都で訴えたけれど、どうも握りつぶされたようです…ZZZ (文献6、7)。 
平維幹・為幹親子は、権勢を誇ったのでしょうが、特に為幹は行状が悪く、許せませんね。泣

 → 平維幹、為幹親子及びそのゴシップについては、以前書いた記事をご参照下さい。
    豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
    豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)

しかし、源氏物語に『筑波山』が出てくることから、ちょっと調べてみただけでもいろいろ分かって面白い!笑

源氏物語には他にも『常陸』という言葉が度々出てきます。
それは、地名としてだったり、身分や役職名だったり。


奈良時代末期に成立したとみられる日本最古の和歌集『万葉集』には、筑波山を歌った歌が25首もある!!のはご存じの方も多いでしょう。
それより時代が下った平安中期の歌人で、三十六歌仙の一人の源重之も筑波山を歌っているのを、今回知りました。

その歌を引用する形で、筑波山という名が源氏物語に出てくる!ハート

万葉集以降の歌、平安時代~鎌倉・室町時代の頃の『筑波山』の歌も、近いうちに調べたいです(^^)


【おまけ】
 
 この春から夏にかけてNHK第二ラジオの『古典朗読』という番組で、『更級日記』をシリーズで紹介していて、ストリーミング放送で聞きました。

 藤原孝標女(ふじわらのたかつえのむすめ)著 『更科日記(さらしなにっき)』
 こちらも紫式部の時代よりやや後の時代に生きた女性が書いた日記で、父が上総国介になり、
 その赴任に従って上総国(千葉県南部)で育った文学少女は、当時超人気だった源氏物語マニアとなり、その思いを語る姿は、
 今も昔もマニアの心は同じだと親近感を持ちます。

 藤原孝標女は、50歳台になった頃、昔を回想する形で更科日記を書き綴ったようです。

 藤原孝標女の父親は、60歳!になって今度は常陸国介になり、その年齢で一人で遠く単身赴任する時に、
 年頃(といっても25歳で未婚)の娘を残していく心配を愚痴る場面があります。
 それに、なかなかじーんとくるのは、私がそういう年齢になって身につまされるからですね…。

 そして当時の受領階級(中級・下級貴族)の悲哀や、『常陸国介にしかなれない』という悲哀もあって、これまた興味深くも、
 茨城県民としてはビミョーな気持ちがーん…

 でも、更級日記も今度、ちゃんと読んでみようっと♪


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【参考文献】


1.「源氏物語 七」 新潮日本古典集成<新装版> i石田穣二・清水好子 校注 新潮社

2.「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店

3.「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社

4. 「日本国語大辞典」 第2板 9巻 小学館

5.「古事類苑 樂舞部 一」 吉川弘文館 

※豆電球 古事類苑については、国際日本文化研究センターのWEBサイトのデータベースのページ
   http://db.nichibun.ac.jp/pc1/ja/
   で全文を見ることが出来ます。

6. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修

7. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集


【参考サイト】 2020年10月現在のもの

1.Wikipedia 『紫式部』

2.コトバンク 『藤原為信』

3.Wikipedia 『藤原惟通』







  

源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)


あの源氏物語に、なんと『筑波山』の名が出てくるのをご存じですか?

源氏物語全五十四帖の中の五十帖目、いわゆる『宇治十帖』の六帖目になる『東屋(あずまや)』の冒頭は、
筑波山(つくばやま)
で始まるのです!
びっくり

舞台は京の宇治。
なのになぜ遠い常陸国の筑波山(つくばやま)の名が出てくるのでしょう?


1.『筑波山』が出てくる前後のストーリー

実は私は、正直言って源氏物語には、ど~~~しても気持ちが入り込めないのですが汗
『筑波山』の名が出てくるなら、話は別ですちょき

状況説明のため、『東屋』の前の四十九帖(宇治十帖の五帖)『宿木』と、五十帖(宇治十帖の六帖)『東屋』帖の最初の方だけ、
さくさくと読んで走る、あらすじを書きます。

【あらすじ】
源氏物語の最後の十帖「宇治十帖」では、宇治が舞台で、主人公は薫君(かおるのきみ)と匂宮(におうのみや)です。
薫君は、光源氏の親友の頭中将の息子だけど、実は光源氏の息子である疑いが濃厚…汗
匂宮は、光源氏の孫。

そしてこの二人はほぼ同じ年齢(つまり光源氏があちこちで…以下自粛(笑))。
で、同じ浮舟という女性を好きになってしまうハート

浮舟と呼ばれる女性が登場するのは、『宿木』の帖からです。


(写真は、2013年2月の石岡市まちかど情報センターの『いしおか雛巡り』展示のひな人形です。
テーマは『源氏物語』でした笑

浮舟は、中級貴族の娘ですが、とても美しいキラキラ
父(養父)は、垢ぬけないけれど、金持ちで羽振りの良い常陸介。

だから(父親のお金目当てもあって)貴族の男たちが言い寄るのですが、その美しさゆえに、超~高級貴族の薫君や匂宮も目を付けますハート





最初に浮舟を見初めたハートのは薫君。

薫君は偶然、浮舟を見かけます。
そして、思いを寄せていた今は亡き大宮(おおいみや・八の宮の長女)にそっくりな浮舟に心惹かれ、忘れられなくなります。
そっくりなはず、浮舟は大宮の異母妹。
ここまでが『宿木』の帖。

浮舟に心惹かれる薫君ですが、『自分のような超~身分の高い人間が、身分が下の娘(浮舟)に言い寄るのは、世間体が悪い』と
グダグダ悩みます(^^;)。

この煮え切らない薫君の気持から、『東屋』帖は始まります。

そしてその『東屋』の冒頭のことばが
筑波山(つくばやま)
なのです!


【原文】東屋

筑波山を分け見まほしき御心はありながら、端山の繁りまであながちに思ひ入らむも 、
いと 人聞き軽々しう、かたはらいたかるべきほどなれば、思し憚りて、御消息をだにえ伝へさせたまはず。


文献1(「源氏物語 七」 新潮日本古典集成) によると、この意味は、

(薫は)筑波山に分け入って、よく見たいお気持ちもありながら、そんな端山(はやま)の繁みまでむやみに熱心になるのも、
全く人に聞かれても、身分にふさわしからぬ見苦しい振舞と思われそうな相手の分際なので、[思いはばかって] お手紙も
お取り次がせになれないでいる
』 
※[ ] 内は私が追加しました。

つまり、

薫は、(浮舟に)会いたい気持ちはあるけれど、端山(里の山)の繁み(=身分の低い娘)にまで 恋心を持っているというを、
人に知られたら、軽々しいアホ男と思われちゃってなんだかなぁがーん…と思いはばかって、手紙さえも届けられなかった。

・・・ということで、薫君の態度にイラッぷんぷんとするのを置いておいて(笑)、

注目すべきは、この『東屋』の帖の冒頭
筑波山(つくばやま)

で始まることなのです!

でもなぜ、ここでいきなり何の断りもなしに、『筑波山』で始まるのでしょうか?



2.平安貴族のハートをつかむパワーワード『筑波山』

実はこれは、有名な歌人(三十六歌仙の一人)源重之の歌

 『筑波山 端山繁山しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり
 (つくばやま はやま しげやま しげけれど おもひいるには さはらざりけり)

が背景にあります。

しかしこの歌自体は源氏物語の中では直接書かれていません。

引歌』というそうですが、有名な歌を引用する(想起させる)形で、
作者の紫式部は、登場人物の気持ちをつづっているわけです。

つまり、有名な源重之の歌にある『つくばやま(筑波山)』
が、薫の苦悩を語る『つかみの一言』
なのですキラキラ


源重之の詠んだ歌の意味は、
筑波山の端山(近くの小さな山)も、茂る樹々や草も、あなたを思う気持ちには、なんの障害にもなりません

つまり、『(身分の違いなど)何の障害でもありません!』
オリジナルの源重之の歌はカッコイイ!ちょき

でも悲しいかな、この歌のように薫君は言えないのです…世間体ってヤツで汗

そんな煮え切らないオトコ汗の恋心の葛藤をも、キラキラ雅びキラキラに伝えるためのパワーワードが、
筑波山
という地名(歌枕)

これが『東屋』の帖の冒頭で出てきて、読者の平安貴族の皆様はハートをガッツリ!
わしづかみにされるわけです。

つくばやま(筑波山)、ただ者ではありませんグッド



3.源重之の筑波山の歌

では、当時の平安貴族の常識でもあるらしい、この源重之の歌について、もう少し見ていきましょう。

源氏物語に『筑波山』の名が出る元となった源重之の歌

  筑波山 端山繁山しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり

は、『新古今和歌集』 第十一 戀歌一(文献2、3) にある歌です。

源重之は、平安時代中期の貴族・歌人で、三十六歌仙(※)の一人。
百人一首の48番『風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな』 を詠った歌人でもあります。

『筑波山 端山繁山しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり』
意味:『筑波山の端山(近くの小さな山)も、茂る樹々や草も、あなたを思う気持ちには、なんの障害にもなりません』


平安時代、遠い京の都の人にとっては、辺境の地の常陸国にある『山深い』イメージだったのは想像に難くない。

一方、『筑波山 つくばやま』は、古く万葉の時代から男女が集まる『かがい(歌垣)』の地=『恋の山』としても知られていました。
(平安時代の更に昔、奈良時代に編纂された万葉集に、筑波山は、25首、歌に詠まれていますちょき

キラキラ筑波山は、『恋の山』としてのイマジネーションを掻き立てられる地名(歌枕)の地。キラキラ 

だから『草木が茂っていても、山深くても、恋の道には何の障害にもならない』
と、三十六歌仙にも選ばれている源重之にも詠われたのでしょうハート

それゆえ、当時の貴族の超~人気小説『源氏物語』にも、引歌として『筑波山』を歌う和歌が引用されたのでしょう。

源氏物語に『筑波山』の名が出てくる事実は、もっと知られるべきです!

 ※ ちなみに、筑波山神社にも三十六歌仙の額があります♪
   狩野采女(後の 狩野探幽)画。三十六歌仙のうち34人の歌仙の絵図が残っています。
   そこにも源重之の姿絵もあります。

実はこの歌、本ブログでも多く引用している、江戸時代中期に書かれたガイドブック『筑波山名跡誌』の最初にも、紹介されています。 
つまり、昔から教養人には知られた歌だった。
だから、現代でも、もっと知られても良い歌ですよね。


なお、 「つくばやま はやましげやま しげけれど」 の描く情景ですが、
私は、これは、国府のあった石岡から八郷を越えて、筑波山中腹あたりにあったかがいの地(裳萩津)に行く時の景色ではないかと思います。

つまり、「はやましげやま」は、石岡市八郷地区の山並みではないかと、私は個人的に思っています。

(写真は、八郷地区、茨城県フラワーパーク付近の景色。2016年11月撮影)




八郷地区から筑波山を望む。2016年11月撮影









後編は、源重之の筑波山の歌の本歌かもしれない?歌 のことや、
源氏物語が書かれた時代の、筑波山麓の様子など、見ていきますにこにこ

次回につづく
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)



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【参考文献】


1.「源氏物語 七」 新潮日本古典集成<新装版> i石田穣二・清水好子 校注 新潮社

2.「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店

3.「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社

「日本国語大辞典」 第2板 9巻 小学館

「古事類苑 樂舞部 一」 吉川弘文館 

豆電球 古事類苑については、国際日本文化研究センターのWEBサイトのデータベースのページ
   http://db.nichibun.ac.jp/pc1/ja/
  で全文を見ることが出来ます。








  

筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説


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昔話・伝説関係の話題を書く時に、私のモットーとして、
 ★なるべく文献にあたる。
 ★可能な限り、現地に行く。
を心がけていますが、この新型コロナウィルス禍で、図書館は閉館して書籍に当たれず、
外出もままならない状況です汗

でもせっかく家にいる時間も多いことですし、手持ちの書籍と、信用できそうなインターネットのサイトを使って、調べていこうと思います。

新型コロナウィルス禍が収まり、図書館の本も読めたり、現地に行ったりして、
新しいことが分かりましたら、随時、修正・更新するということにします笑

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さて、前回までは、蚕影山神社にまつわる信仰の話を書きました。

豆電球蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議

豆電球つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 

有名な『金色姫伝説』に触れましたが、蚕影山神社及び神郡に関わる伝説として、
もう一つ『和気広虫伝説』があります(文献1)。

和気広虫は奈良時代の人。
奈良時代の有名な怪僧 弓削道鏡の天敵? 和気清麻呂のお姉さんで女官として孝謙上皇に仕えていました。
(Wikipediaより)
大変慈悲深い人キラキラで、多くの孤児を養育したと伝えられています。

神郡に伝わる伝説は、和気広虫に直接関わる伝説ではなく、和気広虫に育てられた孤児が大人になって、この神郡に住んだことが発端の伝説ですが、とても興味深いのです。グッド


神郡地区に伝わる和気広虫伝説
【あらすじ】
 参考:文献1 『筑波歴史散歩』(宮本宣一 著)

和気広虫に育てられた孤児の一人が、瓦職人になって常陸国へ来て、
新治郡カワラエ村で石岡国分寺の瓦や北条中台の国分寺級の瓦を焼いていた。
筑波のふもとの娘を妻にし、神郡に移り住んで、瓦を焼く技術を土地の人に伝えた。
そして、自分を育ててくれた広虫を偲んで、近くの山に広虫の姿を祀り、拝んでいた。
広虫に育てられた『子』が広虫の姿『御影』を拝むので、その山は『コカゲ山』と呼ばれるようになった。
また、広虫(ヒロムシ)の『虫』から、子供の虫封じや、蚕の虫除けに効くとされてきた。
 ※『蚕を守る』のでなく、『蚕の虫除け』は何を指すのか不明ですが・・・。



● 新治郡カワラエ村はどこ?

伝わる伝説の時代は奈良後期から平安時代初頭。
当時の『新治郡』は古代『新治郡』(今の筑西市あたり)です。
しかし時代を経て人々が近代・現代まで口頭で伝えた話であること、
『常陸国分寺の瓦を焼いた』と具体的に伝わっていることもあり、常陸国府(今の石岡市)に近いと考えられるので、
この物語の『新治郡』は、やはり近代の『新治郡』を指すと考えて良いでしょう。

事実、旧新治郡八郷町(現 石岡市)には、『瓦会(かわらえ)村』がかつて実在しました。

 参考: 石岡市HP『市の概要』
   
地図で確認すると、字名に『瓦会』はないようですが、石岡市瓦谷に、
瓦会小学校、瓦会郵便局、瓦会地区多目的研修センターがあり、『瓦会』の地名がついています。

更に!そのすぐ近くに瓦塚窯跡があり、石岡の国分寺の瓦はここで焼かれていたとのこと!

 参考: 石岡市HP 『瓦塚窯跡』
    https://www.city.ishioka.lg.jp/page/page004833.html

    茨城県教育委員会HP『瓦塚窯跡』
    
上記の石岡市HPによると、
 『瓦塚窯跡は、主に奈良時代の天平13年(741)、常陸国府(現在の石岡市国府周辺)に
 国分寺・国分尼寺等が建立された際に、その屋根に葺く瓦類を製造した窯跡です。
 昭和12年(1937)に茨城県の史跡に指定されました


そして、上記の茨城県教育委員会HPによると、
 『瓦塚窯跡は、古代常陸国の窯跡である。昭和43年以降の 調査により、
 南北130m、​東西80mの範囲に合計35基の窯が築かれたことが判明した。
 操業は7世紀前葉から10​世紀前葉に及ぶ。 窯構造は大半が地下式窖窯(あながま)である

 
とのこと。

瓦塚窯跡の住所は石岡市部原604番地1で、地図で確認する瓦谷に隣接する場所で、近くに瓦会小学校、瓦会郵便局があります。

地名も遺跡も一致するので、伝説の『カワラエ村』は旧瓦会村(現在の石岡市瓦谷地区とその周辺)として良いのではないでしょうか。
すごい!びっくり



瓦塚窯跡から南西方向へ2kmほど離れた場所にある、『佐久の大杉』(2015年5月撮影)
茨城県の指定天然記念物で、樹齢は推定1300年以上!

コロナ禍が収まったら、瓦塚窯跡を訪ねたいです。
その時はこのブログでまた紹介します笑







こちらは、瓦塚窯跡から南西方向へ3kmほど離れた場所にある丸山古墳にほど近い恋瀬川付近(2015年5月撮影)

ちなみに、この『丸山古墳』については、以前書いた記事も良かったら。
 → 茨城県最古級!‐丸山古墳(石岡・八郷) に行ってきました。






●神郡地区は、近年まで瓦の製造が盛んだった


神郡の町並み(2018年4月撮影)

文献2(すそみろく 第9号)の『瓦の灯りプロムナード 田井の瓦屋さんと子どもたち』という記事に興味深い話が載っています。
それによると、
神郡がある田井地区、昔から瓦作りが盛んな土地だったとのこと。
・すぐそばを流れる逆川沿いに堆積した土は、瓦作りに適していたとのこと。


瓦作りに適した粘土が取れたという逆川


すごいキラキラ
ここまでみごとに、伝説と実際の場所が一致しているのも珍しいですよね!!!?

当時、本当に瓦職人の人が奈良から、はるばる常陸国の瓦会村に行き、実際、常陸国国府(今の石岡市)の国分寺・国分尼寺の
瓦を焼いたのかもしれませんね。




蚕影山周辺を望む(2018年4月撮影)

瓦職人になった彼は、自分を育ててくれた広虫の姿を山の中に祀って朝夕にお参りしたことから、
子が(育ててくれた人の)御影を拝む山→ こかげ山 と呼ばれようになる。
その『広虫』の『虫』から、やがて、子供の疳の虫(広虫が孤児を育てたということで、子供の神様になったか?)
や、絹を取るための蚕の守り神として信仰されるようになった → 『蚕影(こかげ)山』

という話。

私はかなり納得出来る話に思います!笑


蚕影山神社鳥居から、拝殿方向を撮る(2019年3月撮影)

金色姫伝説は、どうも江戸時代に入って広く流布したらしい(以前書いた記事参照)、比較的新しい伝説のようです。
金色姫伝説が流布するずっと前から、蚕影山には、素朴な『広虫』信仰があったと考える方が、納得出来ませんか?

古代の民衆史を読むようですキラキラ

ドラマに出来そうではありませんか!豆電球


● 奈良時代、カワラエ村で瓦を焼いていた職人は、どうやって神郡の娘と夫婦になったのか?

そして個人的に知りたいのは、どうやって神郡の女性と知り合ったか?ということ。


ここからは私の妄想ですが、やはり万葉集にもたくさん歌われる有名な古代の筑波山の『かがい(嬥歌)』が、
出会いの場だったりしたのではないでしょうか♪ハート
今で言う合コンですから(^^)

しかも、万葉集に歌われる『あじくま山』は蚕影山に比定されるとのこと(以前書いた記事つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』 参照)。

いろんなことが見事に結びついて、なんだかワクワクしますね♪
うーん、やっぱり、筑波山地域を舞台にした、古代の民衆のドラマになりますよグッド



『かがい(嬥歌)』が行われた場所の有力な候補地 夫女が原にある『夫女石』
(2017年撮影)
神郡からほど近い場所にあります。
夫女が原は、現在は、つくば市の研修・宿泊施設 『筑波ふれあいの里』の敷地になっています。

なお、『かがい(嬥歌)』に関連した話題については、以前書いた記事も良かったら♪
 → 豆電球つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』

   豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (3)夫女之原、夫女石




●和気広虫は、徳一上人とも繋がる!?

奈良時代後期、筑波山に寺を開創した徳一上人は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子と伝わります。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こして、一族もろとも死罪になりますが、
子供達のうち、まだ乳飲み子のだった下の二人は死罪を免れ、
その助命に奔走したのが和気広虫で、乳飲み子の一人が後の徳一上人になったそう(文献3)

徳一上人が藤原仲麻呂の子だというのは、『後世の付会』で『出自は不明というしかない』(文献4)とも言います。

ただ、もし一般に言われているように、徳一上人が藤原仲麻呂の子だとすると、ちょっと面白い人物相関図が見えてきます。



和気広虫の弟の和気清麻呂は、有名な宇佐八幡宮神託事件で弓削道鏡と対立し、孝謙天皇から名前を汚い名前に変えられた上に、
流刑になりますが、女官だった和気広虫も一緒に、やはり名前を変えられて流刑になります(二人とも天皇が代わった時に復帰)。
※この「名前を変える」という行為も、古代の言霊信仰にも関わるのか、とても興味深いのですが、ここでは触れません。

一方、徳一上人の父と言われる藤原仲麻呂も、恵美押勝と良い名前を貰えるくらい孝謙天皇に重用されますが、
結局、弓削道鏡が現れて、孝謙・道鏡と対立、これまた有名な藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こして負けて死罪。
子供達も全員死罪になるところを、「必ず僧侶にする」を条件に、まだ幼かった下の二人の助命に奔走したのが和気広虫(文献2)。

たくさんの孤児を養育したり、謀反人の幼い子供の助命嘆願をしたり、
和気広虫は、なんと慈愛深く、しかも行動力のある女性だったのでしょう
!!

私は一気に和気広虫のファンになりましたハート

そして蚕影山神社の始まりは、
和気広虫に育てられて、立派な瓦職人になった子どもが、広虫の像(御影)を山中に祀り、日々これにお参りした
という謂われに、個人的に一票入れますグッド

更に、徳一上人の生い立ちも和気広虫に関わるというならば、これは絶対に、筑波山麓舞台の古代民衆ドラマ作れちゃう♪
しかもかなり壮大な!。どなたか漫画で描いて下さいキラキラ


● おまけ:茨城県下に伝わる孝謙天皇・弓削道鏡伝説

和気広虫の人生に大きく関わった、孝謙天皇(称徳天皇)と弓削道鏡。

道鏡は失脚した後、下野国(今の栃木県)に流され、下野薬師寺の別当になりそこで亡くなります(文献5)。
そのせいか、茨城の特に県央の辺りは、弓削道鏡や道鏡を寵愛した考謙天皇の伝説が伝わっています(文献5、6、7)。

古代の有名なスキャンダルの二人なので、伝説の内容も、あることないこと含む大人な話題なのですが、なかなか興味深いので、機会があったら考察してみたいです。



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【参考文献】

1.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著  日経事業出版センター

2.『すそみろく 第9号』 すそみろく編集委員会

3.『続 新治村の昔ばなし』 伊藤三雄 著 田宮郷土史研究会

4.『筑波町史 上』

5.『常陽藝文 2020年4月号』 常陽藝文センター

6.『茨城の史跡と伝説』 茨城新聞社編 暁印書館

7.『常陸の伝説』 藤田稔 編著 第一法規






  

蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議


筑波山南麓にある、蚕影山神社(蚕影神社 ※ここでは通称の『蚕影山神社』と呼びます)。
金色姫伝説が伝わる地です。

 豆電球前回までのお話
  → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 
金色姫伝説というのは、養蚕の始まりを伝える伝説です。
あらすじは、このページの最後にまとめました。

今回は、金色姫伝説をめぐり、蚕影山神社と、江戸時代まで蚕影山神社の近くにあった桑林寺について、注目していきます。


【謎:金色姫は蚕影山神社の祭神ではない?】


階段を上がった所が、蚕影山神社 拝殿。(2016年8月撮影)

前回 にも書きましたが、蚕影山神社の主祭神は、
稚産霊神(わかみむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまびめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

この三柱の神様は、いずれも神道系の神様です。
稚産霊神と埴山姫命は養蚕の神様で、木花開耶姫命は、織物の神様とされています(文献2)。

しかし伝説が伝わる『金色姫』は祭神ではありませんびっくり

また、蚕影山神社(蚕影神社)の信者が作る『蚕影講』では、掛けられる姿絵の神様は『蚕影明神』とされますが、
その蚕影明神も、現在の蚕影山神社の祭神には入っていませんびっくり

・・・そのあたりのナゾは、今は無き桑林寺にありそうです。
考えていきましょう。


【金色姫伝説はいつ頃からあったのか】

文献1によると、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の
『廿八社略縁誌巻之二』の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、
祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあるそうで、
『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に
飛んで行かれた話が書かれています。
更に同書には、社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』を上げているとのこと。
 ※『太夫之宮』の跡、『船之宮』の祠は、前回の記事をご参照下さい。

すると少なくとも、1797年頃には、金色姫伝説と同様の話が、蚕影山神社には伝わっていたのははっきりしていますね。
ただあくまでも伝説であって、祭神ではないよう? 
そしてまた、『金色姫』という名もこの頃はなかった??(特に名づけられてなかった?)ようですね。

なお『蚕影山明神』については、更に古い安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』の『蚕養(こかひ)山』の項で、
蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』とあり、
船に乗って来た神人が残していった玉を、里人が『蚕影明神』として崇め祀ったと記されています。
(この話のあらすじも後述します)

いわゆる金色姫伝説とは違う話の伝説です。

そして、現在の蚕影山神社の祭神には入っていない『蚕影山明神/蚕影明神』の名は、この時、既にありますね豆電球
ところで、祭神三座(稚産霊命・埴山姫命・開耶姫命)と『蚕影明神』とは別の神様のように読めるのですが、どうなんでしょう??


【桑林寺とは?】

前回も書きましたが、蚕影山神社の近くに江戸時代まで、『桑林寺』という寺院がありました。
『蚕影山吉祥院』と号したそうです(文献1)。

桑林寺は蚕影山神社の神宮寺(神様を守り神社を管理する寺、別当とも)で、
いうなれば、桑林寺と蚕影山神社は、二つでワンセットということになります。
(江戸時代までの神仏混淆信仰の頃は、この形態は一般的な形でした)

桑林寺は明治の時に、廃仏毀釈で廃寺となりました。
蚕影山神社から歩いて5分程度の所、館(たて)の集落の中に跡地があります。
跡地は今は竹林になっています。
(写真は 桑林寺跡地付近の竹林。2019年3月撮影)

江戸時代、桑林寺は、蚕影明神を養蚕の神として広く布教していったようです(文献1、2)

文献1によると、寛延四年(1751年)の資料より、桑林寺の創建は延宝(1673年~)年間以降から寛延元年(1748年)前後頃だろうとしています。
そして『18世紀後期、流布していた金色姫譚から蚕影神社縁起を創作したと考えられる』としています。

そして金色姫伝説を使って、蚕影山の蚕影明神を、蚕神として、布教していったようです。
そうして『金色姫=蚕影明神』になっていったのでしょう。

桑林寺は、江戸後期に『蚕影山縁起』を記し、更に内容が追加する形で、江戸末期 慶応元年(1865年)に『常州蚕影山略縁起』を記しています。
この慶応元年の『常州蚕影山略縁起』で、現在に伝わる金色姫伝説が完成したように思います。


【神様は混ざっていって・・・】

さて、養蚕に関わる信仰は複数の系統があり、大きく分けて、
・神道の蚕神
・仏教の蚕神
・民間信仰の蚕神

があります(文献1、2、3)。

どの信仰も共通なのは、
 1.蚕の生育祈願と良い絹が取れる祈願
 2.絹を得るために殺生したの蚕(さなぎ)の供養

側面があることです(文献1,2)。

特に、天候の影響(蚕の餌の桑の葉の生育に直結)や、ネズミの食害(蚕を食べてしまう)などにも合いやすく、養蚕は、管理も労力も大変にも関わらず不安定な労働。
だからこそ、ご利益がありそうな神や仏が習合したり、一緒に複数の神や仏をお祀りして祈る地域も多かったようです。

桑林寺は仏教の蚕神である『馬鳴(めみょう)菩薩』を本尊として取り入れていたらしい(文献2)とのこと。
桑林寺はお寺なので、仏教要素を入れて伝えたのは当然流れでしょう。

本来、菩薩に性別はないのですが、馬鳴菩薩は近世には女神として描かれることも多かったとのこと。
更に、養蚕に関わったのは主に農家の女性達だったので、女神や女性の姿の馬鳴菩薩がより信仰されていったようです(文献2,3)。

そして蚕影明神も、馬鳴菩薩の姿で描かれたり像が造られて、神仏混淆の形で各地で信仰が広まったいったようです。


【明治以降の蚕影山神社の興隆】

明治に入り、富国政策として外国との貿易が急速に発展し、絹糸、絹織物が日本の大きな輸出品となり、国内で養蚕業が大変盛んになっていきましたグッド
それに伴い、養蚕農家の中で、養蚕の神仏への信仰が盛んになっていきましたグッド

桑林寺は廃寺になりましたが、残った蚕影山神社(蚕影神社)は、関東甲信地域の養蚕を支える信仰の中心となり、分社もたくさん建立されました。
総本山の蚕影山神社も、昭和40年代頃までは参拝者が絶えなかった走ると云います。


写真は、蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社。(2013年3月撮影)

 豆電球この蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社については、以前書いた記事も良かったら。
 → 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係! http://cardamom.tsukuba.ch/e300925.html


しかし、化学繊維が普及し始め、安価な中国産の絹が入ってきたため、国内の養蚕農家も激減し、
蚕影山神社への参拝者も減っていきました。
今は、とてもひっそりした静けさに包まれています四つ葉のクローバー


写真は 養蚕の盛んな地域で今も続く繭玉。小正月の行事です。
つくば近郊では『ならせ餅』とも言います。
写真は2017年撮影の、2017個の巨大ならせ餅。 以下の記事もご参考まで♪
 豆電球どんど焼き と ならせ餅 2017







【なぜ蚕影神社と蚕影講の総本社 蚕影山神社に、蚕影明神像も金色姫像もないのか】

ここまで来て明らかなのは、やはり明治の廃仏毀釈で、桑林寺が廃寺になったのが大きいと思います。

『明神』というのは神仏習合の時代の 仏教的に呼んだ神の称号です。
神仏分離で、神社は仏教用語の『明神』を避けるようになりました。

ここ蚕影山山麓でも、桑林寺が廃寺となり、蚕影信仰の担い手は蚕影山神社になりました。
そうするとやはり、仏教系の『蚕影明神』の名はやはり言わなくなったのでしょう・・・ぶーっ

しかしながら民間の蚕影講では、昔から伝わっている蚕影明神の姿絵が祀られ(文献2,3,8)、一部の地方の蚕影神社にも、馬鳴菩薩に似た蚕影明神(金色姫)像(文献2)が信仰されているのだと思います。
つまり、各地の民間信仰では、蚕影明神(金色姫)信仰は、細々でも続いている!グッド

桑林寺が現存していたら、像なども残っていたでしょうが・・・う~ん、残念ですね泣

豆電球 金色姫=蚕影明神 の姿絵がご覧になりたい方は、下記の参考文献2,3,8 を ご参照下さい。 蚕影明神も含め、各地に伝わる蚕神の姿絵や像の写真があります。


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【金色姫伝説のあらすじ】

金色姫伝説は、いくつかのパターンがあり、同様の伝説が伝わっている地も国内で何か所かあります(文献1,2、3,4)。
が、金色姫の伝説の本拠地は筑波山麓の蚕影山とされるようです。

あらすじ:
 天竺の旧仲(きゅうちゅう)国のリンエ大王の娘の金色姫が、継母にいじめられ、4度の苦難に合う。
 不憫に思った王が、繭の形のような舟に乗せて海へ逃がし、その舟がついた地で権太夫(夫婦)に娘は育てられる。
 が、まもなくして金色姫は病気で死んでしまい、金色姫のなきがらは、絹糸を生む繭を作る白い虫になった。
 その虫を権太夫夫婦が育てる時に、虫の様子に変化があって困ると、夢枕に亡き金色姫が現れて知識を授けてくれ、虫を育てて繭を作ることが出来て、権太夫夫婦が養蚕の祖となる。
 その後、筑波山の影道仙人がやってきて、権太夫夫婦に、繭から糸を紡ぐ方法を教え、権太夫夫婦は金持ちになった。
 また、リンエ大王の娘が生まれ変わって欽明天皇の娘の各谷(かくや)姫となり、筑波山に飛んできて神衣を織り、また富士山に飛んでいった。

 ・『4度の苦難』=4回の脱皮   
 ・丸い舟に乗って海を渡る=繭
 ということで、蚕の一生を表しているのだそうです。


【蚕影山麓に伝わる別の伝説】

蚕影山神社には、いわゆる『金色姫伝説』とは違う系統の伝説も伝わります。

『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説(文献5)

 あらすじ:
 ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
 その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
 里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
 イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
 この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。


和気広虫(わけのひろむし)に関係する伝説(文献4)

  こちらはまた全く違う系統の話が伝わっています。
  和気広虫は、奈良時代、孝謙上皇に使えた女官で、和気清麻呂の姉。慈悲深く、たくさんの孤児を養育した人と伝わっています。
  和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託の事件で、孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛された道鏡に憎まれ、一度失脚し、姉の広虫も一緒に失脚します。
  が、その後二人とも復帰し、桓武天皇の時に重用されます。

  蚕影山には、その和気広虫その人の伝説というより、広虫に育てられた孤児が、瓦職人になって、蚕影山山麓の神郡に住んだ話が伝わります。

  あらすじ:
  広虫に育てられた孤児の一人が瓦職人になり、まず、新治郡カワラエ村に来て、(石岡の)国分寺や、北条 中台の寺の
  屋根瓦を焼く職人になりました。
  その後、神郡の娘を妻にし、神郡に住んで瓦を焼くようになりました。
  その職人は育ててくれた和気広虫を偲んで、近くの山の中に広虫の絵を祀って朝夕に拝んだので、子が影を拝むとのことで、
  その山は、こかげさん→蚕影山 と呼ばれるようになりました。

 豆電球 広虫伝説については、
 → 『筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説
で考察してみましたので、良かったら♪


********************


【おまけ:養蚕信仰の二大女神の中心は茨城県内に】

養蚕に関わる民間信仰で、茨城県内には大きな信仰の中心地が2つがありました。

桑林寺(=蚕影山神社・蚕影神社):蚕影明神(こかげみょうじん)
星福寺(=蚕霊神社(これいじんじゃ)):衣襲明神(きぬがさみょうじん)

ちなみに、衣襲明神も女神ですキラキラ

蚕影明神も衣襲明神も、寺による直接の布教活動の他、正月の縁起物(初絵)として配られたり、
蚕種(蚕の卵を産み付けた和紙)を売る業者が蚕の神仏の絵を一緒に配布したり、
薬売りの商人が、薬のおまけでそういった神仏の絵を配ったりしたそうで、
信仰が広まったようです(文献1,2,3)。

一種のアイドルや人気キャラクターのブロマイドみたいな感じでしょうか(こう書くと軽くなってしまいますが)。
しかもご利益があるかもしれない女神様のお姿。これは飾りたくなりますよねハート

関東甲信越地域の養蚕信仰の2大アイドル…いえ、二大女神(蚕影明神&衣襲明神)
の本拠地が二つとも茨城県にあるのは何か嬉しいです(^^)キラキラ

神栖の星福寺・蚕霊神社にも近いうちに行ってみたいです。

※また、もう一つ、日立市川尻の『養蚕(こかい)神社』を含む、常陸国の三つの蚕の神社と信仰については、
またあらためて書いていこうと思います。



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【参考文献】

1.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房

2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社

4.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター

5.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林

6. 『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行

7. 『筑波山麓フットパスマップ 神郡~六所~筑波』 マップ つくば市 発行

8.『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録



  

プロフィール
かるだ もん
かるだ もん
徒然なるままに、興味のあることを気ままに書いています。好きなことばは「中途半端も、たくさん集まればいっぱい!」(ドラマのセリフ)

地元つくばや茨城の話題を中心に、茨城の食材を使った家庭料理、民俗学もどき、国際交流、旅の話題など、趣味の記事を掲載中。

特に自分の勉強も兼ねて、
★民話・伝説紹介と、それにちなむ土地めぐり
★茨城を中心に、全国の郷土料理と食材(世界の料理も含む)の話題
の話題が多いです。

・ヒッポファミリークラブ(多言語自然習得活動と国際交流)
・観光ボランティア
・郷土食研究会うまかっぺ!茨城

別館: 夢うつつ湯治日記 https://note.com/carfamom/

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