茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑


豆電球前回までの話
 →  茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)


江戸時代前までは、生糸は輸入に頼っていたのですが、江戸時代になり絹の需要が伸びて、輸入のための金銀の流出を防ぐために、幕府は輸入生糸量を制限し、国内の養蚕を奨励するようになりました(文献1)

そうなると養蚕の為の手引書が生産者にとって必要になってきます。
日本で発行された初期の手引き書は、元禄十五年(1702年)に近江の野本道玄による『蚕飼養法記』で、幕府・諸藩の奨励と民間の熱意もあって、その後も江戸期には約100冊もの手引書が刊行されたとことで、著者の多くは蚕種作り商う蚕種家だったそうです(文献1)。
その中で、享和三年(1803年)、上垣守国によって書かれた『養蚕秘録』は詳しい養蚕技術だけでなく、養蚕の起源、蚕の伝説、真綿の作り方、教訓的な話など多義にわたる大変な名著として全国に広まり、その中に『金色姫』譚もありました(文献1,2)。

繊細な生き物である蚕の成育の難しさ、気候変動による蚕の餌となる桑の生育、鼠などの食害等に立ち向かうには、知識と技術はもちろんですが、やはり精神的支えも必須で、そこを救うのが、信仰の力なわけですにこにこ
従って、そこに様々な信仰も広がっていきました(文献2,3,4)。

それらの信仰の中に、『常陸国三蚕神社』(江戸時代は寺も関係)が聖地として重要な位置を占めキラキラ、明治以降の養蚕の興隆とともに、流行神として信仰が広がっていきました(文献1,2,3,4)。

『常陸国三蚕神社』のそれぞれについては、今後各論で考察していきますが、
共通に『伝わっている』のが、『金色姫伝説』
です。

私はこの『金色姫』伝説の発祥の地が気になっています。


今回は、金色姫譚が生まれそうな土壌、土地について、文献を元に、妄想も膨らませてキラキラ考えてみます。
(今後は『金色姫伝説』でなく、『金色姫譚』と記載します)

写真は蚕の繭ですが、指を入れて洗顔するために一部カットされた美容グッズです。
現代は贅沢になってきていますね汗






【金色姫譚は、常陸国で生まれたのか??】

のっけから、愛県心の強い方に怒られそうですが汗
(しかも私は、金色姫譚の本拠地?のつくば に住んでいる、つくば市民ですが汗
私は、
今に伝わる『金色姫譚』の元となる、『原・金色姫譚』があって (それが生まれたのは常陸国とは限らない)、
それが時代と共に、『常陸国の金色姫伝説』になっていったのではないか

と考えています。

つまり、養蚕技術が常陸国に伝わった時に、『原・金色姫譚』的な説話・伝説も一緒に外から入ってきた可能性を考えています。

その根拠として、

① 弥生時代前期の遺跡から絹が出土している(文献1,2、3)

② 本格的な養蚕技術は、1~2世紀頃に、朝鮮半島からもたらされたと考えられている(文献3)
  またはその前に、中国・華中方面からもたらされた可能性もある
(文献5)

③ 魏志倭人伝に、(西暦239年)邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝に国産の絹を献上したという記述と、
 邪馬台国では桑と蚕を育て、糸を紡ぎ、上質の絹織物を作るという記述がある
(文献1)

ということで、かなり古くから、『海を渡って』外国から養蚕技術がもたらされ、既に3世紀の卑弥呼の頃には自分の所で
作った絹を魏の国に献上するまでになっていたわけです。

・養蚕技術とともに、蚕や養蚕にまつわる様々な説話・伝説が日本列島にも伝わり走る
・更に、養蚕技術が国内各地に伝えられる時、説話・伝説も一緒に伝わり、広がっていった芽


だろうことは容易に想像出来ますちょき

そういう伝承の一つに、

『金色姫』的なモチーフの話 = 『原・金色姫譚』

があったのではないかと、私は考えています。


【海から流れ着いて豊浦に】

さて、金色姫譚では、海に流された姫が『豊浦』に漂着します。
常陸国に伝わっている話なので、『常陸国豊浦』となっていますが、妙にはっきりと伝わる地名『豊浦』が気になります。

文献6で『豊浦』という地名を調べると、常陸国に該当する古代地名はありません泣

しかし『豊浦』という地名は全国に数ヶ所あり、有名な所で、奈良県明日村の豊浦宮(推古天皇が即位)、
山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津(仲哀天皇滞在・神功皇后滞在・出兵)があります。

特に2つめの、山口県穴門(長門国)豊浦郡・豊浦津は、関門海峡に接し日本海側にも瀬戸内海にも接している交通の要所です。
地理的にも、中国大陸、朝鮮半島に近く、古くから交易が盛んだった地
卑弥呼のいた邪馬台国の候補地、九州北部にも隣接する地

・・・すごい土地です!びっくり

そして、この山口県の『豊浦郡・豊浦津』を調べると、やはり大変興味深いことが分かってきます!びっくり


【奉献珍宝蚕種等】

日本三大実録 巻五十 光孝天皇 仁和三年七月の記事に、

十七日戊子。左京人従五位下行采女正時原宿祢春風、賜朝臣姓。春風自言。先祖出自秦始皇十一世孫功満王也。
帯仲彦天皇四年、帰化入朝、奉献珍宝蚕種等
。』

という記載があります(文献7)。

平安時代 仁和三年(西暦889年)七月十七日戊子の日に、左京の人の時原春風という人が、「朝臣」の姓を賜った記事で、
その時に、春風が自分の出自を、

秦の始皇帝の十一代目の子孫の功満王が自分の先祖で、
(功満王は)帯仲彦天皇四年に、この国に帰化して、その時に、珍宝蚕種などを献上しました


と語ったという記事です。
 ※ 左京人:左京に住む人の意か? 
    従五位下:位階の一つ
   采女正:女官(采女)の長。
   宿祢:称号の一つ
   朝臣:天武天皇が(西暦684年に)定めた「八色の姓(かばね)」の上から二番目。
   帯仲彦天皇: 仲哀天皇。日本武尊の息子で、神功皇后の夫。

ただし、帯仲彦天皇(仲哀天皇)は、実在が疑われている天皇(父親の日本武尊が既に伝説の存在)なので、
『帯仲彦天皇四年』が西暦何年なのかは不明です泣

いずれにしても、時原春風という人の家で伝わる出自を語ったという話で、又聞きの記録ではありますが、
ここで注目したいキーワードが、

● 『功満王』
● 『奉献珍宝蚕種等』


です。

功満王は、外国から来て『蚕種=蚕の卵』を奉献し、帰化したということ。
誰に奉献したかは不明ですが、文意から行くと、帯仲彦天皇(仲哀天皇)でしょうか豆電球


【仲哀天皇】

仲哀天皇=帯仲彦(たらしなかつひこ)は、謎の多い天皇で、奥さんの神功皇后があまりにも有名ですが、仲哀天皇自身は非業の最期を遂げます。

さて、古事記によると、仲哀天皇は、『穴門の豊浦宮、筑紫の訶志比(香椎)宮に座して、天の下治らしめき』とのこと
(文献8)。

穴門はその後「長門国」となり、現在の山口県西半部から東北部に位置します(文献6、8、9)。

関門海峡があり、日本海側にも瀬戸内海にも接している交通の要所キラキラです。

また筑紫国は関門海峡を挟んで長門国と隣接する土地。今の福岡県のあたりで訶志比(香椎)も日本海に接した場所です。
つまり交通の要所をがっつり押さえた場所に、仲哀天皇は宮を構えていたわけです。

上の時原春風が語った、自分の先祖(功満王)が仲哀天皇在位4年目に、蚕種を直接、仲哀天皇に献上したとしたら、
仲哀天皇のいた『穴門豊浦宮』の可能性がとても高くなります。グッド

なお『穴門豊浦宮』の『豊浦』は『とゆら』『とよら』と読むようです
(文献6、8、10 )。


【功満王】

(文献11,12 )によると、

功満王:秦始皇帝の子孫。融通王(弓月君)の父。秦氏の祖
ここに出てくる融通王は、
融通王 → 弓月君:秦氏の祖。応神十四年条に百済より帰化。功満王の父親

とのこと。

更に同文献の『弓月君』の項目に、姓氏録左京諸蕃という書物にある記載として
『(前略)その男功満王は仲哀天皇代に来帰し、その男融通王が応神十四年に百廿七県の民を率いて帰化し、金銀玉帛等物を献じた。
そして仁徳天皇の代に百廿七県の秦民を諸郡に従わしめ、姓波多を賜った』
とあります。

波多(はた)氏は秦氏。
秦氏は、養蚕と絹織物の技術を伝えた氏族です(文献2)。



【穴門豊浦宮】

今の山口県にあった『豊浦』について、もう少し見ていきます。

● 『豊浦という呼称の所見は「日本書紀」の熊襲征討の記事で、仲哀2年6月10日条に「天皇泊于豊浦津」、同年7月5日条に
 「皇后泊豊浦津、是日皇后得如意珠於海中」とある』 

(文献6)

● 『「日本書紀」仲哀天皇二年九月に 「宮室を穴門に興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す」 とある豊浦宮の置かれた地とされる』
(文献13)


更に養蚕に関しては、

● 『「続日本紀」神護景雲2年3月朔日条によれば、豊浦郡・厚狭郡などに養蚕をさせ、調の銅を綿に代えることとした
(文献6)


また朝鮮半島に近く、交通の要所でもあるため、漂着する人の記事もあり、

● 『弘仁5年10月13日には新羅商人31人が当郡に漂着しており(日本後紀)』
(文献6)

たぶん、大昔から漂着者が多い土地で、記録に残らない漂着者も多かったことでしょう。
遭難して漂着した人もいたでしょうし、大陸や半島から逃げてきた人達、新天地を求めて来た人達も多かったのでしょう。


【豊浦はどこか?】

こう見ていくと、

★ 『豊浦』『豊浦津』という歴史的に有名な地名
★ (献上された)蚕種(蚕の卵)
★ 養蚕
★ 『海から流れついた』=海上交通の要所、遭難した人が流れ着く地


が文献的にも考古学的にもはっきりしているのが、穴門の豊浦だということが分かります。

ちなみに、穴門は長門国となり、国府も置かれるようになります。
また、仲哀天皇がいた『豊浦宮』のあった場所は、現在、忌宮神社(山口県下関市)の周辺に比定されています(文献9、13)キラキラ

金色姫譚のキーワードが揃う、山口県の『豊浦』
『長門国』が、『常陸国』に変わっていったとしたら・・・!?

妄想が広がりますが芽
金色姫譚伝説の元となる伝説・説話の存在(原・金色姫譚)の気配を、感じませんか?笑

そして、『常陸国豊浦』との関係は・・・!?


(続きます)


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【参考文献】


1,『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行

2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社

3.『養蠶(かいこ)の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会 発行

4.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

5.『森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一著 小学館ライブラリー 収録『絹(対談者 布目順郎)』

6. 『古代地名大辞典 本編』 角川文化振興財団 編集 角川書店

7. 『新訂増補 国史大系 日本三代實録 後編』 吉川弘文館  p636

8. 『記紀の考古学』 森浩一 著 朝日文庫

9.『日本古代史地名事典 普及版』 雄山閣 

10.『日本古代地名事典』田茂樹 著 新人物往来社

11. 『日本古代人名辞典3』 武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館

12. 『日本古代人名辞典7』武内理三・山田英雄・平野邦雄 著 吉川弘文館

13 『日本歴史地名大系第三十六巻 山口県の地名』平凡社





  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)


蚕影山に伝わる金色姫伝説では、金色姫は「天竺」から舟で流されてきました。

天竺」・・・インドです!

もう20年以上前になりますが、当時のJICA筑波の研修員の方で、
インドの養蚕技術の研究者の方が我が家にホームステイされたことがありました。

つくば市には匡の研究機関が多くありますが、当時の農林水産省の蚕糸・昆虫農業技術研究所(※)に養蚕技術の研究のために来られた方でした。
 ※ 蚕糸・昆虫農業技術研究所は、その後、他の農林水産省の研究所と統合され、現在は、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究 機構(農研機構) 農業生物資源研究所の一部門となっているようです。


その方からお土産に、インド産のシルクのスカーフを頂きましたキラキラ
(写真は頂いたそのスカーフのアップ)

落ち着いた色合いとシルクの肌触りがとても気に入っていて、しかも丈夫で20年以上経っても全然へたっていない! 。なので、現在も愛用していますが、不勉強な私は
インドの絹/絹製品』を、その時初めて知った次第でした。






スカーフについている、
「100% PURE SILK MADE IN INDEA」と書かれたタグ
まさしく、天竺の絹織物!

ところでその当時、筑波山麓に『蚕影山神社』というのがあるらしいというのを知ってはいましたが、まだ行ったことはなかったので、養蚕の神様だから、その方と一緒に行ってみたいと提案しました。

しかし、その方は大して興味を示されず (まあ、科学技術としての養蚕を研究されている方ですし、日本の神様にも興味ないのは当然かな)、うちの家族も気乗りしないようだったので、一緒に行くことはありませんでした。

ただ個人的に、ずっと蚕影山神社に惹かれて、今に至り、つれづれなるままに、蚕影山神社の話題を中心に、養蚕信仰について調べては、以下のような記事を当ブログに書いてきました。

豆電球筑波山麓 蚕影山神社、神郡地域の話題として、

 ● つくば市フットパスで訪ねる金色姫伝説

 ● 蚕影山神社と桑林寺~金色姫伝説の不思議

 ● 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係!   

 ● つくばプチ民俗学・・・ならせ餅

  豆電球また、養蚕とは直接関係はないのですが、蚕影山/神郡周辺の話題として、

   ● 筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の『和気広虫』伝説

   ● つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』

  豆電球 蚕影山信仰とは直接は関係ないのですが、つくばにも近く絹織物の結城紬で有名な結城に関係する話題として

    ● 結城と福井を繋ぐ伝説と信仰―猫塚伝説と袋羽神―

    ● 茨城 こんなもの見つけた♪(21) 結城まゆ細工ストラップ・結城紬バッジ・大穂ほうきストラップ



金色姫伝説』が伝わるのは、つくば市の蚕影山神社だけでなく、神栖市(星福寺・蚕霊神社)日立市(蚕養神社)にも伝わります。

これら3つの神社は、『茨城 三大蚕の神社』ということで、特に明治以降、日本で絹製品の輸出が増加し、養蚕業が盛んだった頃に、関東甲信越を中心に、各地から多くの参拝者(昭和になるとバスを仕立てて参拝に来られたとか)が訪れ、分霊された神社も各地に建てられました。
(その一例が上にも紹介した記事 → 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係!


さて、日本国内の絹といえば、世界遺産の群馬県富岡市にある富岡製糸場 が有名ですよね。
現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、『近代日本経済の父』澁澤栄一。もうすぐ新一万円札の顔にもなりますが、
その澁澤栄一も設立に関わった富岡製糸場。

インドのお土産のシルクスカーフから始まり、
近代日本の産業 - 絹・養蚕 ー 養蚕信仰 ー 茨城県の3つの養蚕信仰の聖地と歴史・民俗等

と、自分の中で、一本の糸で繋がったのでちょき、これから、じっくり 気になっていた
茨城県の3つの養蚕信仰の聖地
について書いていこうと思います。
(本当は茨城県歴史館あたりで企画展して欲しいくらいですがぷんぷん。過去に企画展やったことあるのかな?)


ちなみに参考文献は、県内各地に伝わる昔話と地域史(市史・町史)等の他に、

★ 『養蠶(かいこ)の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会 発行

★ 『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

★ 『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行

★ 『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社


をメインの参考文献・テキストとさせて頂き、勉強しながら書いていきます。


(続きます)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」


【おまけ】 


世界遺産 富岡製糸場 (2019年8月撮影)

大変見応えがあります。








その富岡製糸場へ行ったときのお土産

● 『富岡名物 まゆこもり 富岡産シルク入り』 



 (本当はもっと箱ぎっしりに入っていたのですが、半分以上食べてしまってからの写真なので4個だけです汗

  美しい白色と可愛い形ハート
  品の良い甘さの葛湯の素。

  お湯に溶かして葛湯として頂くものなのですが、実は干菓子として直接食べても美味しくてハート、その後、再び群馬に行ったときにリピートして買いました。
  富岡製糸場でなくても、道の駅などでも買えましたので、見かけたらまた買うつもりです笑




(以下、画像に注意 (笑))






『かいこ王国』さんの蚕の形のチョコレート



 富岡製糸場前の商店街にあるお店で購入。

  クランチの入ったホワイトチョコの蚕が、抹茶味の緑色のチョコの上に乗っています。

  これはインスタ映えする(?)のもあって、ネットでは結構有名ですよね。   
  
  蚕の形に一瞬ギョッとして、キワモノ的汗ですが、食べるととても美味しいチョコレートでしたグッド
  (私はホワイトチョコは好きでないのですが、こちらのこの蚕の形のチョコは美味しかったです! お店の方によると、とても良い材料を使って作られているとのことで、要冷蔵でした)





  

八代集に収められている筑波山の歌~【4】新古今和歌集にある筑波山


日本最古の歌集 『万葉集』 以降に編纂された八つの勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集) 「八代集」
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集に歌われる、『つくばやま・つくばね (筑波山・筑波嶺)』の歌を見ていくシリーズ。

豆電球今までの記事
八代集に収められている筑波山の歌~【1】古今和歌集にある筑波山
八代集に収められている筑波山の歌~【2】後撰和歌集にある筑波山
八代集に収められている筑波山の歌~【3】拾遺・後拾遺・詞花和歌集にある筑波山


第4回目最終回の今回は、新古今和歌集にある筑波山の歌を見ていきます。


(6)新古今和歌集
    註: 5番目の勅撰和歌集の『金葉和歌集』と7番目の勅撰和歌集の『千載和歌集』には筑波山を歌う歌がないので、
    八代集の最後ですが(6)になっています。


新古今和歌集は、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の下命により編纂された八番目の勅撰和歌集です。
建仁元年(1201年)に和歌所が設置され六名の撰者が任命されました。その後、長年、撰者達のよる歌の収集と改訂を繰り返し、
後鳥羽院自らによっても選別と編集が繰り返され、承久の乱(1221年)後鳥羽院が隠岐に流された後も、隠岐で後鳥羽院が晩年まで編集を続けたそうです。
後鳥羽院の執念が込められた和歌集と云えましょう。

そんな後鳥羽院こだわりの和歌集~新古今和歌集にも、筑波山を歌った歌が2首選ばれています。

① 1013番 源重之:
  筑波山 は山しげゝれど思ひ入るはさはらざりけり


② 1014番 大中臣能宣朝臣:
   又通ふ人ありける女のもとにつかはしける
  われならぬ人に心を筑波山したにかよはん道だにやなき



実は、この二首は既に当ブログで扱ったことがありますちょき

源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)

ということで、上の二首についての詳細は上記の記事をを読んで頂けたらと思いますが、
先に書いた記事の時から新たに文献(文献1:『新古典文学大系11 新古今和歌集』 校注者 田中裕 赤瀬信吾 岩波書店 
)が加わり、その解説が分かりやすく、また新しい知見もありましたので、今回解釈を追加したいと思います。


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① 新古今和歌集 1013番 ; 源重之

  筑波山 は山しげゝれど思ひ入るはさはらざりけり

歌の意味は、文献1の解説によると
筑波山は端山茂山と重なっている-人目が随分うるさい-が、決心して分け入る-慕い寄る-時の障碍にならないな
とのこと。


(写真は筑波山中腹、東山付近から、筑波連山・宝筺山方面を望む。 2021年3月撮影)

歌の中の語句の説明は、同書によると、
 ・は山:里近い浅い山
 ・しげ山:は山の対
 ・しげゝれ:木の繁茂していることを人目の多い譬えとする。
 ・思ひ入る:恋い慕う意味もあり、一首が恋の譬となる

この歌の本歌は、やはり
風俗歌『筑波山』
筑波山は山しげ山茂きをぞや 誰が子も歌ふな下に通へ わが妻は下に
としています。
 風俗歌『筑波山』については、
  源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)
 をご参照下さい。

さて、歌の意味なのですが、以前書いたブログの記事(源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編))での解釈では、

『筑波山の端山(近くの小さな山)も、茂る樹々や草も、あなたを思う気持ちには、なんの障害にもなりません』

としましたので、歌の印象が随分変わりますね!


なお同じく文献1の解説では、
 ・筑波山:和歌初学抄に常陸国として『しげきことによむ』とある。
と書かれています。

『しげきこと』というのは同書に解釈のままだと『人目が多いこと』ともとれますので、
常陸国は、『人目が多い』の譬えにされていたのでしょうか!???
・・・これはあまり納得できませんが汗

詳しい方、ご教示頂けると幸いです。

なお、参考として同書では、平安時代中期の歌人の曽禰好忠(そねのよした)の
筑波山は山しげ山しげけれど降りつむ雪はさはらざりけり
(好忠集)

の歌も解説の中で挙げています。

『筑波山 端山(はやま) 茂山(しげやま) 茂げ・・・』
のフレーズは、語呂も良いですし、歌人達によく使われたフレーズなんですね笑



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② 新古今和歌集 1014番 大中臣能宣朝臣

  又通ふ人ありける女のもとにつかはしける

  われならぬ人に心を筑波山したにかよはん道だにやなき


同じく文献1の解説によると
『私以外の男に心をつくばあなたに、そのつくば山でないが、ひそかに通う道-てだてさえもないのでしょうか』

同書での語句の説明は、

 ・心を筑: 思いを寄せる 『付く』と『筑』を掛ける。
 ・したにかよわん: 本歌による。本歌の終わりの二句は、人目につかないように、こっそりと通うがよい。
         私の相手の男はこっそり通っているの意。

とのこと。

ここで言う「本歌」も、1013番の源重之の歌の本歌と同じく、風俗歌『筑波山』です。

そして同書では、『誰が子も歌ふな下に通へ わが妻は下に』の意味は、
『人目につかないように、こっそりと通うがよい。私の相手の男はこっそり通っている』
とのこと。


(写真は2021年3月撮影)

つまり、風俗歌『筑波山』
筑波山は山しげ山茂きをぞや 誰が子も歌ふな下に通へ わが妻は下に

の意味は、
『筑波山は端山茂山がそばにある(人目が多い)から、人目に付かないようにこっそり通うのが良いですよ。
私の彼はこっそり通っていますから』
ということになるでしょうか。

一方、以前書いたブログの記事(源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編))での解釈では、

『(歌垣・嬥歌(かがい)のあって古来から有名な)筑波山の周りの樹々が茂った山道(は皆が通う道なので)を通ってはいけない。
 こっそり通いなさい。私の愛しい人は密かに(別の場所に)いるのだから』

としました。

比較すると、歌の雰囲気が、結構違ってきますね。
特にやはり、最後のに句の解釈が違うので、歌全体の印象も違ってくる。

ただ多少はニュアンスに違いがあっても、ほぼ近い状況を歌っているわけです。

歌の真意は、それを作った原作者のみが知ることなので、後世ではいろんな解釈があってもOKだと私は思います(^^)ちょき

こう深く考えていくと、和歌って面白いなぁ!と、ちょっとハマりそうです笑


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以上、4回に分けて、有名な、古今和歌集から新古今和歌集までの8つの勅撰和歌集のうち、
6つの勅撰和歌集に選ばれた『筑波山』『筑波嶺』の歌を見てきました。

調べている内にも、有名な歌人が歌った、筑波山・筑波嶺を和歌があるのが分かりましたので、
また機会を見て、すこしずつ見ていきたいと思っています(^^)

歌人が歌った和歌を口ずさみながら見る筑波山、筑波連山もまた、趣深いですから(^^)



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【参考文献】

1. 「新古典文学大系11 新古今和歌集」 校注者 田中裕 赤瀬信吾 岩波書店 

2. 「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店

3. 「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社






  

八代集に収められている筑波山の歌~【3】拾遺・後拾遺・詞花和歌集にある筑波山

日本最古の歌集 『万葉集』 以降に編纂された八つの勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集) 「八代集」
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集に歌われる、『つくばやま・つくばね (筑波山・筑波嶺)』の歌を見ていくシリーズ。

豆電球今までの記事
八代集に収められている筑波山の歌~【1】古今和歌集にある筑波山
八代集に収められている筑波山の歌~【2】後撰和歌集にある筑波山


第三回目の今回は、拾遺和歌集・後拾遺和歌集・詞花和歌集の3つの和歌集にある筑波山の歌をまとめて見ていきます。

この写真の謎解き?は、後ほど笑

※八代集の中で編纂されて時期の順で見ると、後拾遺和歌集と詞花和歌集の間に、金葉和歌集があります。しかし金葉和歌集には、筑波山(つくばやま)、筑波嶺(つくばね)を歌った歌は収録されていないので、このシリーズでは金葉和歌集には触れません。






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(3)拾遺和歌集

拾遺和歌集は、先に紹介した、古今和歌集、後撰和歌集に次ぐ、3番目の勅撰和歌集です。
(古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集の3つは『三代集』とも呼ばれているとのこと(文献1)

一条天皇の時代、花山院が親撰した和歌集で、『寛弘年間の所産ということになり』(文献1)とのこと。
寛弘年間とは1004年~1012年頃。完成はその頃のようですが、はっきりは分からないようです。

さて、この拾遺和歌集にも、『筑波山・筑波嶺』を歌った和歌が、一首、選ばれていますキラキラ

拾遺和歌集 627番 詠み人知らず:

音に聞く人に心をつくばねのみねど恋しき君にもある哉(かな)


文献1の解説によると、歌の意味は
評判ばかり聞く人に思いをかけて、筑波嶺の峰ではないが、逢い見たこともないけれども、恋しく思われるあなたであることだ
とのこと。
(同じシリーズでも文献1の拾遺和歌集の歌の訳はとても分かりやすい気がします笑

『つくばねのみねど』が、ダブルのかけことばになっていて、
その前の『心を』と繋がって、『心を付く』
その後の『恋しき』に繋がって、『嶺ど恋しき』 → 『見ねど恋しき』
と、『巧いこと言うねぇ!』という歌なのですグッド


素敵な噂を聞いて、妄想 想いが膨らんで、逢ったこともない人に恋している歌です。
現代と違って、写真もテレビもインターネットももちろんない時代、人の噂で恋する人もとても多かったのでしょうねハート

(写真は石岡方面から見た筑波山。男体山に女体山が寄り添っているように見えますよねハート 2021年3月撮影)







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(4)後拾遺和歌集

後拾遺和歌集は、拾遺和歌集の後に編纂された、4番目の勅撰和歌集。
白河天皇の勅命で、藤原通俊が選者。応徳3年(1086年)に完成。

後拾遺和歌集では、筑波山・筑波嶺を歌った和歌はありませんが、の最後の方に、『筑波嶺』が出てきます。
その部分を抜粋しますと・・・、

 

・・・菅(すが)の根の長き秋の夜、筑波嶺のつくづくと、白糸の思ひ乱れつゝ、三年(みとせ)になりぬれば・・・ (抜粋)

 ※ 『筑波嶺つくづくと』は、文献1では、『づく』が繰り返しの『〲』になっていますが、
横書きのフォントがないので、当ブログでは『づく』とひらがな書きにしています。

文献2によると、
 ・『菅の根』: 『長き』の序詞
 ・『筑波嶺』: 『つくづくと』を起こす序詞
 ・『白糸の』: 『乱れ』を起こす序詞

序詞(じょし、じょことば)とは、枕詞にも似て、あることばを導くための表現。
序詞を使って、叙情的に雅びに表現してるのですね♪ 

『菅の根』、『白糸』という一般名詞に混じって、『筑波嶺』は堂々の固有名詞! さすが歌枕の地グッド

植物の管(すが、すげ)は、カヤツリグサ科スゲ属の総称で、種類もとても多いそうです。
和歌に出てくる菅は、具体的にどれを指すのか分かりませんが…というか、細い葉で茂るの草の総称のように思います。


茅葺屋根の『茅(かや)』も、『古くから屋根材や飼肥料などに利用されてきた、イネ科あるいはイネ科およびカヤツリグサ科の草本の総称である(wikipediaより)』

写真は、筑波山梅林の展望四阿(あずまや)の屋根。2021年3月撮影。
筑波山麓の茅葺屋根『筑波流』で葺かれています。








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(5)詞花和歌集

八代集の六番目の勅撰和歌集。天養元年(1144年)に崇徳院が下命し、藤原顕輔が撰者。
仁平元年(1151年)に完成。

こちらには『筑波山・筑波嶺』の歌が2首、収められていますが、どちらも大変興味深いのです!びっくり

① 164番 能因法師 : 君が世は白雲かゝる筑波嶺のみねのつゞきの海となるまで

② 373番 太皇太后宮肥後: 筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を

具体的に見ていきましょう笑


*******

① 詞花和歌集164番 能因法師:

長元八年宇治前太政大臣家歌合によめる

君が世は白雲かゝる筑波嶺のみねのつゞきの海となるまで


歌合せの会で 『寿ぐ』 歌と言うことで、歌われたとのこと(文献2)。

まるで、『君が代』の詞を彷彿させる和歌ですよね!!

『君が代』の歌詞の元は、

古今和歌集 賀歌 343番 詠み人知らず:
 わが君は 千世にやちよに さざれいしのいはほとなりて こけのむすまで


で、やはり寿ぎの場で歌われた歌とのこと。

古今和歌集の仮名序の(→ 八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山)の
…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …
でも、『さざれ石』 と 『筑波山』が 並んで語られていますし、やはり『筑波山』は長久を表す山と云えましょうグッド。 


地理的に見ても、筑波山系は霞ヶ浦に続くように連なっていて、現在の霞ケ浦は、昔は海(内海)でしたから、
まさしく、この歌のように『筑波嶺のみねのつゞき』は『海となる』までは事実なわけですちょき

写真は筑波山山頂(女体山山頂)から霞ケ浦を望む。
(2018年8月撮影)




そしてこちらの写真は、昔は『雄龍岩』と呼ばれ、その尾は霞ケ浦まで続くと言われていた蝦蟇石。
(2018年8月撮影)


作者の能因法師(988年 - 1050年​もしくは1058年)は、平安時代中期の僧侶・歌人。
中古三十六歌仙の一人。奥州をはじめ諸国を旅して各地の歌を作った旅の歌人。

小倉百人一首『嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり』の作者でもあります。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にも、歌人としてのすごいこだわりを伝える面白い逸話が伝わる人物。



筑波山・筑波嶺は、寿ぎの地でもあり、和歌にも歌われている!

しかもその歌は『君が代』の歌詞と酷似の詞で、
百人一首にも選ばれている有名歌人の能因法師が詠っているのです!

!

これももっと知られてい良いと思いますし、もっともっと宣伝すべきだと思いますグッド


(霞ヶ浦湖上から筑波山系を望む。2013年5月撮影)

能因法師が詠った筑波山・筑波嶺の歌は、この八代集の八つの勅撰和歌集以外にもあるので、
それも機会があったら見ていきたいと思ってます笑






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② 詞花和歌集 373番 太皇太后宮肥後

藤原実宗常陸の介に侍ける時、大蔵省の使(つかひ)どもきびしく責めければ、
卿匡房にいひて侍りければ、遠江にきりかへて侍れければ、いひつかはしける


筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を


藤原実宗が常陸介だったころ、抱えていた常陸国の負債を払えないで、大蔵省か強く返済を迫られて困っていて、
匡房に相談したところ、その負債を遠江国のものとして払ってくれて助かった時に、
感謝して歌った和歌とのこと。

今まで見てきた歌とかなり異色の歌ですが、歌の背景を見ていくと大変興味深く(妄想も膨らみ♪豆電球)、しかもその後の
東国の歴史にも関わってくることにも繋がるのです!

作者は、太皇太后宮肥後という女性。
関白藤原師実家に30余年仕え、その後、白河天皇の皇女の令子内親王(太皇太后宮)に仕え、勅撰集にはなんと50首入っており、家集『肥後集』も伝わる代表的な女流歌人。肥後守藤原定成の娘で、夫は常陸介だった藤原実宗。

当時の女性は、本名が残っている人は少なく、この歌の作者も、父親の肥後守藤原定成の職業から『肥後』と呼ばれ、
その後、夫の職業の『常陸介』からか『常陸』の名でも歌を詠んでいます(文献4、5)。

常陸介だった藤原実宗の代わりに、奥さんが感謝の和歌を作って贈ったわけですが、
奥様が代表的歌人ならば、感謝の意の和歌もお手のもの。
逆に歌人としての腕の見せどころだったかもしれませんグッド

この歌には、常陸国の『筑波山(つくばやま)』と、遠江国の『浜名(はまな)の橋』2つの歌枕の地を読み込まれています。

『浜名の橋』は、現在の浜名湖付近にあった橋で、京や西国から東国に行くときに必ず通る場所。

だたならぬ(?)状況で歌った歌汗なわけですが、この歌には『藤原実宗常陸の介に侍ける時、大蔵省の使(つかひ)どもきびしく責めければ、卿匡房にいひて侍りければ、遠江にきりかへて侍れければ、いひつかはしける
という説明が書かれているので、それを基に調べてみると、大変興味深いことが分かってきました豆電球

まず、『藤原実宗常陸の介に侍ける時』の『藤原実宗』は、作者の肥後の夫であることは書きました。

そして、『卿匡房』は、大蔵卿の大江匡房(まさふさ)。1041年~1111年。権中納言、太宰権帥。後三条・白河・堀河帝の侍読(天皇に教える学者)。 多くの著作・詩文も残す歌人でもあります。
鳥羽天皇の天永2年(1111年)、大蔵卿に遷任されるが同年薨去。享年71とのこと(wikipediaより)。

つまりこの和歌が作られたは状況を、無理やり現代に置き換えますと(細かいことは無視して)、

茨城県知事が国からの負債を払えないで財務省から督促されて困り果てていたところを、
財務大臣が静岡県の負債に切り替えてくれて助かったので、茨城県知事の奥さんで有名な歌人(つまりアーティスト)が
感謝の意を込めて歌った和歌。びっくり

ということでしょうか。

…すごいシチュエーション…汗
そして、肩代わりさせられた遠江国守はどうしたんでしょう? (財力があったのか?)

そして、大江匡房は大蔵卿なったその年に71歳で亡くなっています。借金を切り替えたのは、大江匡房が亡くなる直前??
大江匡房、体調不調だったりして、判断力あったのか?

太皇太后宮肥後のお礼の歌を、ちゃんと大江匡房は読むことが出来たのか??

頭の中は妄想が渦巻きまくりです!(笑)。

さてさて、ラッキーな藤原実宗さん。
こちらも調べると、すごいことになります!!


常陸介になった実宗は、常陸国伊佐荘(現在の筑西市中館)に住み、常陸伊佐城の元になる居城を構えます。
実宗から5代目の朝宗は、源頼朝の奥州征討に加わり、戦功を上げ、陸奥伊達郡を与えられて伊達氏を名乗ります。
…そうです、あの伊達氏の祖です!
 
 参考: 茨城県教育委員会HP 『伊佐城阯』

(写真は筑西市船玉古墳付近から撮った筑波山。2011年10月撮影)


つまり、その後の常陸国の歴史も、伊達氏が生まれて奥州の覇者になったのも、大蔵卿だった大江匡房が、
常陸国の借金を、遠江国に肩代わりさせてくれたお陰!? と言っていい位でしょうキラキラ

逆に大江匡房の措置が無かったら、その後の日本の、特に東日本の歴史はかなり大きく変わっていた可能性が高いわけですびっくり

そういう観点から、もう一度、
筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を
の歌を味わってみましょう。


…うーん、歴史は深い。


さて、文献3の解説には書かれていないのですが、肥後ほどの実力のある歌人キラキラ
もっと懸けていることばも暗喩もあるように私は思っています。

例えば、

① 『筑波山ふかくうれし…』の『ふかく』は、その前の『筑波山』と後の『うれし』の二つに懸かり、
『筑波山ふかく(山深い)』と『ふかくうれし(大変うれしい)』…つまり、『筑波山』があるから、
『ふかく』という言葉を選んでいるのでは?

② 遠江国にある歌枕『(浜名)橋』を歌に詠みこみたいために、『(感謝を)届けたい』を『渡す』と表現した。

③ 『浜名の橋』は、現在の浜名湖付近にあった橋で、東国と西国を繋ぐ要所の橋。
  災害でよく流されていたと云い(文献3)、事実 室町時代 年の津波で地形が変わって現在の浜名湖が出来たと云います。
  そんな、壊れやすいけれど大事な橋、『常陸国の負債を遠江国の負債に切り替えた』という危く(?)難しい対応ことをやってくれた
  ことに対する感謝が、『浜名の橋にわたす心を』で表しているのではないか?


あと、もしかすると古今和歌集1095番(常陸歌)
 : 筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし
豆電球詳細 → 八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山

あたりも、作者の肥後の頭にあったのではないかと私は思いますにこにこ
この場合の『君』は、大蔵卿大江匡房であり、事実上肩代わりしてくれる遠江国守で。

そうすると、常陸介からの感謝を歌うとしたら、やはり『筑波山』は絶対に使いたいことばなわけで(^^)


素人の私にはこれ位しか分かりませんが、専門家だと何かもっと懸けていることや、暗喩も分かるのかもしれませんね。
こうやって考えると、歌・和歌も大変深いですね…。


とにかく、筑波山付近に住む我々は歴史の妙を感じながら、感謝して、浜名湖の鰻や浜名湖名物うなぎパイ
を食べないといけませんね(^^)。


という訳で、冒頭にも掲げたこの写真は、

つくば土産の、筑波山の形のクッキーと、ご存じ浜名湖名物 うなぎパイ。

うなぎパイを、『浜名橋』に見立てておりますちょき


太皇太后宮肥後の和歌
筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を

を表した現代お菓子の図。
こんなことしたのは、私ぐらいでしょう(笑)グッド

もちろん、撮影後は美味しく頂きました♪





【おまけ】

この歌が歌われた頃(1111年頃 平安後期)の筑波山麓の様子を見てみると、常陸平氏の全盛期
平致幹が東城寺に経塚を納めた頃の10年ちょっと前。
 
(東城寺の経塚群 2020年2月撮影)
東城寺(現在の土浦市 )の経塚から発掘された、銅鋳製の経筒には,保安3年(1122)​・天治元年(1124)の年紀と
平致幹の名が刻まれています。(発掘された文物は、国指定重要文化財指定、茨城県指定重要文化財指定)

  詳細: 茨城県教育委員会HP 東城寺経塚群
      茨城県立歴史館HP 東城寺と経塚
 
平致幹の祖父は平維幹、父は平為幹。権勢と財力は、今昔物語にも語られているくらい。
平維幹、為幹について伝わる話についても、以前書いた記事もご覧ください(^^)

   →  豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
     豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)


また、北条地区に残る日向廃寺跡。京都の平等院と同じ形式の建築で、 12世紀後半から13世紀初頭に平(多気)義幹(致幹の孫)によって建立されたと言われています(文献6)。 
(写真は、日向廃寺跡。2011年5月撮影)   

更に北条地区に隣接する小田地区の山の花崗岩の崖に彫られた、摩崖仏(小田不動尊)も作風から平安後期の作と考えられるそう。
 小田の摩崖仏(小田不動尊)についても、以前書いた記事も良かったら。
     → 豆電球信仰とジオの意外な関係(3)
~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―後篇~



次の勅撰和歌集は千載和歌集と新古今和歌集ですが、残念ながら千載和歌集には『筑波山・筑波嶺』の歌は収められていません。
なので次回は、新古今和歌集に収められた筑波山・筑波嶺の歌を見ていきます。

続きます。

 → 八代集に収められている筑波山の歌~【4】新古今和歌集にある筑波山


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【参考文献】

1.『拾遺和歌集  新日本古典文学大系7』 岩波書店

2.『後拾遺和歌集  新日本古典文学大系8』 岩波書店

3.『金葉和歌集 詞花和歌集  新日本古典文学大系9』 岩波書店

4.『日本古代人名辞典』 阿部猛 編著 東京堂出版

5.『日本女性人名辞典』 日本図書センター

6.茨城県立歴史館 『いばらきの歴史をさぐる』 茨城県立歴史館

7.『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店

8.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房
  筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。





  

八代集に収められている筑波山の歌~(2)後撰和歌集にある筑波山



日本最古の歌集 『万葉集』 以降に編纂された八つの勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集) 「八代集」
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集
に歌われる、『つくばやま・つくばね (筑波山・筑波嶺)』の歌を見ていくシリーズ。

前回 → 八代集に収められている筑波山の歌~【1】古今和歌集にある筑波山

第二回目の今回は、後撰和歌集にある、筑波山の歌を見ていきます笑


(2)後撰和歌集

後撰和歌集は、村上天皇の下命によって編纂された勅撰和歌集で、古今和歌集に続いて二番目の勅撰和歌集です。
天歴五年(951年)に撰集が開始され、天徳二年(958年)以前に完成したとされています(文献1)。 
藤原伊尹(これただ/これまさ)、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城が撰集。       
二十巻・総歌数1425首です。
        
その中で、筑波山(つくばやま)、筑波嶺を歌う和歌が以下の4首です。      
        

① 675番 詠み人知らず  今はてふ心つくばの山見れば こずゑよりこそ色変わりけれ

② 686番 詠み人知らず  人づてに言う事の葉の中よりぞ 思ひつくばの山は見えける

③ 776番 陽成院 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりける

④ 1150番 詠み人知らず 限なく思う心は筑波嶺の このもやいかがあらむとすらん



776番の陽成院の歌は、百人一首にもある有名な歌なのでご存じの方も多いでしょう。

それ以外の、詠み人知らずの3首も興味深い歌で、
この3首に共通なのが、かけことばと言いますか、ことばの遊び心がとても感じられると私は思いますハート

先に見た古今和歌集では、
筑波山は、恩恵を表す歌枕の地
でもありました。

今回見る後撰和歌集では、
つくば」の「つく」がかけことばとして歌われていている歌が、4首中3首あります。

実際、文献1では、
筑波山・筑波嶺は、『心を付く』 『心を尽くす』 『思ひを付く』と掛けて歌われることが多い
と説明されています。

3首はいずれも詠み人知らずですが、ストレートに気持ちを歌うより洒落が効いていて、
歌を貰った方も、思わずニヤリとしたかもしれません。

では、具体的に見ていきましょう。


********
① 後撰和歌集 675番 詠み人知らず:


かれがたになりける人に、末もみぢたる枝につけてつかはしける

今はてふ心つくばの山見ればこずゑよりこそ色変わりけれ


文献1より
 かれがたになりける人:疎遠になりつつある人 『かれ』は『離(か)れ』
 末もみぢたる:葉末の方が紅葉した
 つけて:歌をつけて
 今はてふ:「今はお別れ」という
 心つくばの山: 「心つく」と「筑波山」を掛ける

更に文献1では、
『こずゑよりこそ 「梢」と「来ず」を掛けているのが眼目』
と云います。

『色変わりけれ』は、木の葉がうつろい変わったのと男の心が変わったのを掛けているとのこと。


(写真は2019年11月撮影。筑波山中のモミジ)

文献1によると、歌の意味は、
「今はお別れ」というお心がつく筑波山ならぬあなたを見ますと、梢の方から紅葉するように「来ず」ということからお心の色が変わったようでありますよ
と解説されています。

・・・すみません、文献1の説明は、正直まわりくどくて 丁寧過ぎて、無粋な私はどうもピンときませんが(^^;)、

つまり、心変わりして最近訪れなくなった人に、葉先の色が変わり始めた枝を送って、

今は果ててしまった心を表すつくばの山を見れば、やはり来ないことを象徴するように、木の葉の色も変わってしまってます
もしくは、
もう別れようという気持ちが取り憑いているあなた(つくば山)を見ると、やはり来ないことを現すように、山の梢は色が変わってしまってますね

ということでしょうか・・・汗

それにしても、かけことばの、
●『心』ー 『付く』= つく(つくばのやま) →  『(あなたの)心』=『つくばのやま』

●『つくばの山』 は 『見る』 もの

●『梢(こずえ)』 → 『来ず』、『来ない』

●『(葉の)色変わりけれ』=心が変わってしまった


これらの表現の綾が特徴的で、心変わりした人を、詩的な表現で嘆いてるのか、恨みを伝えているのか、諦めなのか、実は清々しているのか?・・・いろいろ想像が膨らみます。



********
② 後撰和歌集 686番 詠み人知らず:

はじめて人につかはしける

人づてに言う事の葉の中よりぞ 思ひつくばの山は見えける

意味は、文献1より
人づてにお贈りするこの言葉の中から、あなたに心に付ける筑波山ならぬ私の思いは自然に見えることでありますよ』


(写真は、筑波山西麓 国松付近から見た筑波山。2021年3月撮影)
つまり、
はじめて もしくは 改めて人を遣わした時の歌で、
人を通して贈る言葉の中からも、私のあなたへの思い(私の思いが付く=つくばの山)は見えるでしょう
ということでしょう。

この歌も、

●思ひ ー つく(つくばのやま) 

●『つくばのやま』 ― 『見る』もの

●『(ことのは)葉』 ― 『思い』 = 心 = つくばのやま(の木々)

が、共通の表現です。

ところで、筑波山は上の写真でも分かるとおり、関東平野にそびえる独立嶺で目立つので、どこからでもキラキラバッチリキラキラ見えます。
筑波山を『私の思い』に例えることは、『思いはモロ見え、丸出し』ということ(笑)でしょうか?(← 多分違いますね汗

当時、遠い都に住んでいた人が、イメージで『つくばやま』にかけて歌ったのか、はたまた実際の筑波山を知っている人によって謳われていたのか、状況によって歌の持つ雰囲気も違って受け取れるのも楽しいグッド

でも、やはり、独立峰でどこからもバッチリ見える筑波山ですから、

『つくばのやま』=『よく見える山』=『伝わりやすい思い・伝えたい気持ち』

に繋がってるのかも?・・・な~んて、思っています。


********
③ 後撰和歌集 776番 陽成院

釣殿のみこのつかはしける

筑波嶺の嶺より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりける


百人一首にも歌われている有名な歌です。

『釣殿のみこ』とは、光孝天皇の皇女で、綏子(すいし)内親王のことで、この歌を歌った陽成院に嫁します(文献2)。


『みなの川』は、筑波山の男体山と女体山の間を流れる、男女川
ちなみに、筑波山南麓(つくば市)側にも、筑波山北麓(桜川市・真壁側)にも、『男女川』があります。キラキラ
どちらの川を歌ったのかは不明・・・と言いますが、遠い京の都から、想像の翼を広げて歌われた歌なので、
筑波山の男体山・女体山の間を流れる川ならば、どちらでも良いわけですちょき

(写真は、筑波山南麓の方の男女川の水源の1つ。2016年撮影)


さて歌の意味は、文献2の解説をそのまま引用しますと、
筑波山の峰から流れ落ちる みなの川の水が、つもりつもって深い淵となるように、あなたを思うわたしの恋も、ほのかな思いから今ではつもりつもって、淵のように深くなっていることだ

この歌は、『万葉集』3392番 の歌
筑波嶺の岩もとどろに落つる水 世にもたゆらにわが思わなくに
に影響を受けたとも(文献1)云われ、文献2でも対比して語られています。

ちなみに、万葉集の歌の意味は、文献3より、
『筑波山の、岩もとどろきつつ落ちる水のように、絶えてしまうなどとは全く思わないことだ』
とのこと。
つまり、『私の思いは、筑波山の、岩をとどろき落ちる流れのように、絶えてしまうなんてあり得ない!』
という熱い想いの歌のようで、深く静かな印象の、陽成院の歌と対比的だとされています。
(陽成院の歌も、静かな表現の中にも、熱い想いは伝わってくるように、私には思えますが・・・)

陽成院は、貞観十年(868年)に生まれ、清和天皇第一皇子、母は二条后(藤原)高子。
貞観十八年(876年)わずか8歳で即位、元慶八年(884年)に『狂病のため』16歳の時に廃され、でも長生きで天歴三年(949年)82歳で崩じました。
この歌は、天皇を廃された後に、後に后となる綏子内親王に贈った歌です。

陽成院は、わずか8歳〜16歳までの在位。数え年ですから、今なら小学校低学年〜中学生の年齢の間の在位。
この歌は退位した後、二十代中頃に作られ、のちに妃になる綏子内親王に贈った歌。

残念なことに、在位中に悪行が伝えられる陽成院ですが、この歌はとてもきれいで純粋な気持ちハートが伝わってくるように感じます。
(だからこそ、小倉百人一首に選ばれた歌!

ドロドロの権力の世界。もしかすると、何かいろいろあったのかもしれませんね・・・。


********
④ 後撰和歌集 150番 詠み人知らず:

人の裳を縫はせ侍に、縫ひてつかはすとて

限(かぎり)なく思(おもふ)心は筑波嶺のこのもやいかゞあらむとすらん

文献1より
あなたのことを限りなく覆う私の心をつけておきましたこの裳は、どのようになりましたでしょうか、気になります

つまり、
心を込めて縫い上げたこの裳は、いかがでしょうか (お気に召したでしょうか)
という問いかけを歌にしたのでしょうか。

●思う・心 → 付く(つく) → 筑波のやま、筑波嶺

●この裳 → このも →  古今和歌集にある常陸歌 『このもかのも(この面かの面)に蔭あれど』が背景にあり、『も(裳)』と『も(面)』をかけている(文献1)
 前回の記事
(古今和歌集にある常陸歌…ということは、地元常陸国をはじめ、よく謳われていたみたいですね!?)

● つくばのやま―見れば、見えける

やはりこれらが、共通の表現です。


(写真は2013年2月撮影。石岡市まちかど情報センターの『いしおか雛巡り』展示のひな人形)

ところで、文献1によると『裳』は当時の男性の礼服とのこと。
でも、平安時代以降の、宮中の女房の長いスカートのような衣服も『裳』と呼ぶようなので、この歌が男性用の衣装について歌っているという根拠は何なのでしょう?

でもまあ、現代でしたら、男女どちらの場合も使えそうです。
特に、着る物(特に手作りの服、浴衣や、手編みの服など)等を贈った時は、この歌を添えると格調高く感想を求めることが出来そう!?ちょき

*****

以上のように、詠み人知らずの3首に共通する『つくばやま(筑波山)』を使う時の使い方、つまり洒落のような表現があるのが分かりました。

和歌における『筑波山・筑波嶺』の使い方や意味がまた一つ加わった感じですちょき

次回は、『拾遺和歌集』、『後拾遺和歌集』、『詞花和歌集』にある筑波山の歌です。

続きます。

 → 八代集に収められている筑波山の歌~【3】拾遺・後拾遺・詞花和歌集にある筑波山


************************************
【参考文献】

1. 『古今和歌集  新日本古典文学大系6』 岩波書店

2. 『鑑賞 第7巻 日本古典文學 古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集』 角川書店

3.[『万葉集 全訳注 原文付(三)』 中西進 講談社文庫

4, 『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店

5.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房

  5には、筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。








  

プロフィール
かるだ もん
かるだ もん
徒然なるままに、興味のあることを気ままに書いています。好きなことばは「中途半端も、たくさん集まればいっぱい!」(ドラマのセリフ)

地元つくばや茨城の話題を中心に、茨城の食材を使った家庭料理、民俗学もどき、国際交流、旅の話題など、趣味の記事を掲載中。

特に自分の勉強も兼ねて、
★民話・伝説紹介と、それにちなむ土地めぐり
★茨城を中心に、全国の郷土料理と食材(世界の料理も含む)の話題
の話題が多いです。

・ヒッポファミリークラブ(多言語自然習得活動と国際交流)
・観光ボランティア
・郷土食研究会うまかっぺ!茨城

別館: 夢うつつ湯治日記 https://note.com/carfamom/

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