八代集に収められている筑波山の歌~(3)拾遺・後拾遺・詞花和歌集にある筑波山

日本最古の歌集 『万葉集』 以降に編纂された八つの勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集) 「八代集」
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集に歌われる、『つくばやま・つくばね (筑波山・筑波嶺)』の歌を見ていくシリーズ。

豆電球今までの記事
八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山
八代集に収められている筑波山の歌~(2)後撰和歌集にある筑波山


第三回目の今回は、拾遺和歌集・後拾遺和歌集・詞花和歌集の3つの和歌集にある筑波山の歌をまとめて見ていきます。

この写真の謎解き?は、後ほど笑

※八代集の中で編纂されて時期の順で見ると、後拾遺和歌集と詞花和歌集の間に、金葉和歌集があります。しかし金葉和歌集には、筑波山(つくばやま)、筑波嶺(つくばね)を歌った歌は収録されていないので、このシリーズでは金葉和歌集には触れません。






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(3)拾遺和歌集

拾遺和歌集は、先に紹介した、古今和歌集、後撰和歌集に次ぐ、3番目の勅撰和歌集です。
(古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集の3つは『三代集』とも呼ばれているとのこと(文献1)

一条天皇の時代、花山院が親撰した和歌集で、『寛弘年間の所産ということになり』(文献1)とのこと。
寛弘年間とは1004年~1012年頃。完成はその頃のようですが、はっきりは分からないようです。

さて、この拾遺和歌集にも、『筑波山・筑波嶺』を歌った和歌が、一首、選ばれていますキラキラ

拾遺和歌集 627番 詠み人知らず:

音に聞く人に心をつくばねのみねど恋しき君にもある哉(かな)


文献1の解説によると、歌の意味は
評判ばかり聞く人に思いをかけて、筑波嶺の峰ではないが、逢い見たこともないけれども、恋しく思われるあなたであることだ
とのこと。
(同じシリーズでも文献1の拾遺和歌集の歌の訳はとても分かりやすい気がします笑

『つくばねのみねど』が、ダブルのかけことばになっていて、
その前の『心を』と繋がって、『心を付く』
その後の『恋しき』に繋がって、『嶺ど恋しき』 → 『見ねど恋しき』
と、『巧いこと言うねぇ!』という歌なのですグッド


素敵な噂を聞いて、妄想 想いが膨らんで、逢ったこともない人に恋している歌です。
現代と違って、写真もテレビもインターネットももちろんない時代、人の噂で恋する人もとても多かったのでしょうねハート

(写真は石岡方面から見た筑波山。男体山に女体山が寄り添っているように見えますよねハート 2021年3月撮影)







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(4)後拾遺和歌集

後拾遺和歌集は、拾遺和歌集の後に編纂された、4番目の勅撰和歌集。
白河天皇の勅命で、藤原通俊が選者。応徳3年(1086年)に完成。

後拾遺和歌集では、筑波山・筑波嶺を歌った和歌はありませんが、の最後の方に、『筑波嶺』が出てきます。
その部分を抜粋しますと・・・、

 

・・・菅(すが)の根の長き秋の夜、筑波嶺のつくづくと、白糸の思ひ乱れつゝ、三年(みとせ)になりぬれば・・・ (抜粋)

 ※ 『筑波嶺つくづくと』は、文献1では、『づく』が繰り返しの『〲』になっていますが、
横書きのフォントがないので、当ブログでは『づく』とひらがな書きにしています。

文献2によると、
 ・『菅の根』: 『長き』の序詞
 ・『筑波嶺』: 『つくづくと』を起こす序詞
 ・『白糸の』: 『乱れ』を起こす序詞

序詞(じょし、じょことば)とは、枕詞にも似て、あることばを導くための表現。
序詞を使って、叙情的に雅びに表現してるのですね♪ 

『菅の根』、『白糸』という一般名詞に混じって、『筑波嶺』は堂々の固有名詞! さすが歌枕の地グッド

植物の管(すが、すげ)は、カヤツリグサ科スゲ属の総称で、種類もとても多いそうです。
和歌に出てくる菅は、具体的にどれを指すのか分かりませんが…というか、細い葉で茂るの草の総称のように思います。


茅葺屋根の『茅(かや)』も、『古くから屋根材や飼肥料などに利用されてきた、イネ科あるいはイネ科およびカヤツリグサ科の草本の総称である(wikipediaより)』

写真は、筑波山梅林の展望四阿(あずまや)の屋根。2021年3月撮影。
筑波山麓の茅葺屋根『筑波流』で葺かれています。








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(5)詞花和歌集

八代集の六番目の勅撰和歌集。天養元年(1144年)に崇徳院が下命し、藤原顕輔が撰者。
仁平元年(1151年)に完成。

こちらには『筑波山・筑波嶺』の歌が2首、収められていますが、どちらも大変興味深いのです!びっくり

① 164番 能因法師 : 君が世は白雲かゝる筑波嶺のみねのつゞきの海となるまで

② 373番 太皇太后宮肥後: 筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を

具体的に見ていきましょう笑


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① 詞花和歌集164番 能因法師:

長元八年宇治前太政大臣家歌合によめる

君が世は白雲かゝる筑波嶺のみねのつゞきの海となるまで


歌合せの会で 『寿ぐ』 歌と言うことで、歌われたとのこと(文献2)。

まるで、『君が代』の詞を彷彿させる和歌ですよね!!

『君が代』の歌詞の元は、

古今和歌集 賀歌 343番 詠み人知らず:
 わが君は 千世にやちよに さざれいしのいはほとなりて こけのむすまで


で、やはり寿ぎの場で歌われた歌とのこと。

古今和歌集の仮名序の(→ 八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山)の
…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …
でも、『さざれ石』 と 『筑波山』が 並んで語られていますし、やはり『筑波山』は長久を表す山と云えましょうグッド。 


地理的に見ても、筑波山系は霞ヶ浦に続くように連なっていて、現在の霞ケ浦は、昔は海(内海)でしたから、
まさしく、この歌のように『筑波嶺のみねのつゞき』は『海となる』までは事実なわけですちょき

写真は筑波山山頂(女体山山頂)から霞ケ浦を望む。
(2018年8月撮影)




そしてこちらの写真は、昔は『雄龍岩』と呼ばれ、その尾は霞ケ浦まで続くと言われていた蝦蟇石。
(2018年8月撮影)


作者の能因法師(988年 - 1050年​もしくは1058年)は、平安時代中期の僧侶・歌人。
中古三十六歌仙の一人。奥州をはじめ諸国を旅して各地の歌を作った旅の歌人。

小倉百人一首『嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり』の作者でもあります。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にも、歌人としてのすごいこだわりを伝える面白い逸話が伝わる人物。



筑波山・筑波嶺は、寿ぎの地でもあり、和歌にも歌われている!

しかもその歌は『君が代』の歌詞と酷似の詞で、
百人一首にも選ばれている有名歌人の能因法師が詠っているのです!

!

これももっと知られてい良いと思いますし、もっともっと宣伝すべきだと思いますグッド


(霞ヶ浦湖上から筑波山系を望む。2013年5月撮影)

能因法師が詠った筑波山・筑波嶺の歌は、この八代集の八つの勅撰和歌集以外にもあるので、
それも機会があったら見ていきたいと思ってます笑






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② 詞花和歌集 373番 太皇太后宮肥後

藤原実宗常陸の介に侍ける時、大蔵省の使(つかひ)どもきびしく責めければ、
卿匡房にいひて侍りければ、遠江にきりかへて侍れければ、いひつかはしける


筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を


藤原実宗が常陸介だったころ、抱えていた常陸国の負債を払えないで、大蔵省か強く返済を迫られて困っていて、
匡房に相談したところ、その負債を遠江国のものとして払ってくれて助かった時に、
感謝して歌った和歌とのこと。

今まで見てきた歌とかなり異色の歌ですが、歌の背景を見ていくと大変興味深く(妄想も膨らみ♪豆電球)、しかもその後の
東国の歴史にも関わってくることにも繋がるのです!

作者は、太皇太后宮肥後という女性。
関白藤原師実家に30余年仕え、その後、白河天皇の皇女の令子内親王(太皇太后宮)に仕え、勅撰集にはなんと50首入っており、家集『肥後集』も伝わる代表的な女流歌人。肥後守藤原定成の娘で、夫は常陸介だった藤原実宗。

当時の女性は、本名が残っている人は少なく、この歌の作者も、父親の肥後守藤原定成の職業から『肥後』と呼ばれ、
その後、夫の職業の『常陸介』からか『常陸』の名でも歌を詠んでいます(文献4、5)。

常陸介だった藤原実宗の代わりに、奥さんが感謝の和歌を作って贈ったわけですが、
奥様が代表的歌人ならば、感謝の意の和歌もお手のもの。
逆に歌人としての腕の見せどころだったかもしれませんグッド

この歌には、常陸国の『筑波山(つくばやま)』と、遠江国の『浜名(はまな)の橋』2つの歌枕の地を読み込まれています。

『浜名の橋』は、現在の浜名湖付近にあった橋で、京や西国から東国に行くときに必ず通る場所。

だたならぬ(?)状況で歌った歌汗なわけですが、この歌には『藤原実宗常陸の介に侍ける時、大蔵省の使(つかひ)どもきびしく責めければ、卿匡房にいひて侍りければ、遠江にきりかへて侍れければ、いひつかはしける
という説明が書かれているので、それを基に調べてみると、大変興味深いことが分かってきました豆電球

まず、『藤原実宗常陸の介に侍ける時』の『藤原実宗』は、作者の肥後の夫であることは書きました。

そして、『卿匡房』は、大蔵卿の大江匡房(まさふさ)。1041年~1111年。権中納言、太宰権帥。後三条・白河・堀河帝の侍読(天皇に教える学者)。 多くの著作・詩文も残す歌人でもあります。
鳥羽天皇の天永2年(1111年)、大蔵卿に遷任されるが同年薨去。享年71とのこと(wikipediaより)。

つまりこの和歌が作られたは状況を、無理やり現代に置き換えますと(細かいことは無視して)、

茨城県知事が国からの負債を払えないで財務省から督促されて困り果てていたところを、
財務大臣が静岡県の負債に切り替えてくれて助かったので、茨城県知事の奥さんで有名な歌人(つまりアーティスト)が
感謝の意を込めて歌った和歌。びっくり

ということでしょうか。

…すごいシチュエーション…汗
そして、肩代わりさせられた遠江国守はどうしたんでしょう? (財力があったのか?)

そして、大江匡房は大蔵卿なったその年に71歳で亡くなっています。借金を切り替えたのは、大江匡房が亡くなる直前??
大江匡房、体調不調だったりして、判断力あったのか?

太皇太后宮肥後のお礼の歌を、ちゃんと大江匡房は読むことが出来たのか??

頭の中は妄想が渦巻きまくりです!(笑)。

さてさて、ラッキーな藤原実宗さん。
こちらも調べると、すごいことになります!!


常陸介になった実宗は、常陸国伊佐荘(現在の筑西市中館)に住み、常陸伊佐城の元になる居城を構えます。
実宗から5代目の朝宗は、源頼朝の奥州征討に加わり、戦功を上げ、陸奥伊達郡を与えられて伊達氏を名乗ります。
…そうです、あの伊達氏の祖です!
 
 参考: 茨城県教育委員会HP 『伊佐城阯』

(写真は筑西市船玉古墳付近から撮った筑波山。2011年10月撮影)


つまり、その後の常陸国の歴史も、伊達氏が生まれて奥州の覇者になったのも、大蔵卿だった大江匡房が、
常陸国の借金を、遠江国に肩代わりさせてくれたお陰!? と言っていい位でしょうキラキラ

逆に大江匡房の措置が無かったら、その後の日本の、特に東日本の歴史はかなり大きく変わっていた可能性が高いわけですびっくり

そういう観点から、もう一度、
筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を
の歌を味わってみましょう。


…うーん、歴史は深い。


さて、文献3の解説には書かれていないのですが、肥後ほどの実力のある歌人キラキラ
もっと懸けていることばも暗喩もあるように私は思っています。

例えば、

① 『筑波山ふかくうれし…』の『ふかく』は、その前の『筑波山』と後の『うれし』の二つに懸かり、
『筑波山ふかく(山深い)』と『ふかくうれし(大変うれしい)』…つまり、『筑波山』があるから、
『ふかく』という言葉を選んでいるのでは?

② 遠江国にある歌枕『(浜名)橋』を歌に詠みこみたいために、『(感謝を)届けたい』を『渡す』と表現した。

③ 『浜名の橋』は、現在の浜名湖付近にあった橋で、東国と西国を繋ぐ要所の橋。
  災害でよく流されていたと云い(文献3)、事実 室町時代 年の津波で地形が変わって現在の浜名湖が出来たと云います。
  そんな、壊れやすいけれど大事な橋、『常陸国の負債を遠江国の負債に切り替えた』という危く(?)難しい対応ことをやってくれた
  ことに対する感謝が、『浜名の橋にわたす心を』で表しているのではないか?


あと、もしかすると古今和歌集1095番(常陸歌)
 : 筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし
豆電球詳細 → 八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山

あたりも、作者の肥後の頭にあったのではないかと私は思いますにこにこ
この場合の『君』は、大蔵卿大江匡房であり、事実上肩代わりしてくれる遠江国守で。

そうすると、常陸介からの感謝を歌うとしたら、やはり『筑波山』は絶対に使いたいことばなわけで(^^)


素人の私にはこれ位しか分かりませんが、専門家だと何かもっと懸けていることや、暗喩も分かるのかもしれませんね。
こうやって考えると、歌・和歌も大変深いですね…。


とにかく、筑波山付近に住む我々は歴史の妙を感じながら、感謝して、浜名湖の鰻や浜名湖名物うなぎパイ
を食べないといけませんね(^^)。


という訳で、冒頭にも掲げたこの写真は、

つくば土産の、筑波山の形のクッキーと、ご存じ浜名湖名物 うなぎパイ。

うなぎパイを、『浜名橋』に見立てておりますちょき


太皇太后宮肥後の和歌
筑波山(つくばやま)ふかくうれしと思ふかな浜名(はまな)の橋にわたす心を

を表した現代お菓子の図。
こんなことしたのは、私ぐらいでしょう(笑)グッド

もちろん、撮影後は美味しく頂きました♪





【おまけ】

この歌が歌われた頃(1111年頃 平安後期)の筑波山麓の様子を見てみると、常陸平氏の全盛期
平致幹が東城寺に経塚を納めた頃の10年ちょっと前。
 
(東城寺の経塚群 2020年2月撮影)
東城寺(現在の土浦市 )の経塚から発掘された、銅鋳製の経筒には,保安3年(1122)​・天治元年(1124)の年紀と
平致幹の名が刻まれています。(発掘された文物は、国指定重要文化財指定、茨城県指定重要文化財指定)

  詳細: 茨城県教育委員会HP 東城寺経塚群
      茨城県立歴史館HP 東城寺と経塚
 
平致幹の祖父は平維幹、父は平為幹。権勢と財力は、今昔物語にも語られているくらい。
平維幹、為幹について伝わる話についても、以前書いた記事もご覧ください(^^)

   →  豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
     豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)


また、北条地区に残る日向廃寺跡。京都の平等院と同じ形式の建築で、 12世紀後半から13世紀初頭に平(多気)義幹(致幹の孫)によって建立されたと言われています(文献6)。 
(写真は、日向廃寺跡。2011年5月撮影)   

更に北条地区に隣接する小田地区の山の花崗岩の崖に彫られた、摩崖仏(小田不動尊)も作風から平安後期の作と考えられるそう。
 小田の摩崖仏(小田不動尊)についても、以前書いた記事も良かったら。
     → 豆電球信仰とジオの意外な関係(3)
~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―後篇~



次の勅撰和歌集は千載和歌集と新古今和歌集ですが、残念ながら千載和歌集には『筑波山・筑波嶺』の歌は収められていません。
なので次回は、新古今和歌集に収められた筑波山・筑波嶺の歌を見ていきます。

続きます。




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【参考文献】

1.『拾遺和歌集  新日本古典文学大系7』 岩波書店

2.『後拾遺和歌集  新日本古典文学大系8』 岩波書店

3.『金葉和歌集 詞花和歌集  新日本古典文学大系9』 岩波書店

4.『日本古代人名辞典』 阿部猛 編著 東京堂出版

5.『日本女性人名辞典』 日本図書センター

6.茨城県立歴史館 『いばらきの歴史をさぐる』 茨城県立歴史館

7.『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店

8.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房
  筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。





  

八代集に収められている筑波山の歌~(2)後撰和歌集にある筑波山



日本最古の歌集 『万葉集』 以降に編纂された八つの勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集) 「八代集」
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集
に歌われる、『つくばやま・つくばね (筑波山・筑波嶺)』の歌を見ていくシリーズ。

前回 → 八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山

第二回目の今回は、後撰和歌集にある、筑波山の歌を見ていきます笑


(2)後撰和歌集

後撰和歌集は、村上天皇の下命によって編纂された勅撰和歌集で、古今和歌集に続いて二番目の勅撰和歌集です。
天歴五年(951年)に撰集が開始され、天徳二年(958年)以前に完成したとされています(文献1)。 
藤原伊尹(これただ/これまさ)、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城が撰集。       
二十巻・総歌数1425首です。
        
その中で、筑波山(つくばやま)、筑波嶺を歌う和歌が以下の4首です。      
        

① 675番 詠み人知らず  今はてふ心つくばの山見れば こずゑよりこそ色変わりけれ

② 686番 詠み人知らず  人づてに言う事の葉の中よりぞ 思ひつくばの山は見えける

③ 776番 陽成院 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりける

④ 1150番 詠み人知らず 限なく思う心は筑波嶺の このもやいかがあらむとすらん



776番の陽成院の歌は、百人一首にもある有名な歌なのでご存じの方も多いでしょう。

それ以外の、詠み人知らずの3首も興味深い歌で、
この3首に共通なのが、かけことばと言いますか、ことばの遊び心がとても感じられると私は思いますハート

先に見た古今和歌集では、
筑波山は、恩恵を表す歌枕の地
でもありました。

今回見る後撰和歌集では、
つくば」の「つく」がかけことばとして歌われていている歌が、4首中3首あります。

実際、文献1では、
筑波山・筑波嶺は、『心を付く』 『心を尽くす』 『思ひを付く』と掛けて歌われることが多い
と説明されています。

3首はいずれも詠み人知らずですが、ストレートに気持ちを歌うより洒落が効いていて、
歌を貰った方も、思わずニヤリとしたかもしれません。

では、具体的に見ていきましょう。


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① 後撰和歌集 675番 詠み人知らず:


かれがたになりける人に、末もみぢたる枝につけてつかはしける

今はてふ心つくばの山見ればこずゑよりこそ色変わりけれ


文献1より
 かれがたになりける人:疎遠になりつつある人 『かれ』は『離(か)れ』
 末もみぢたる:葉末の方が紅葉した
 つけて:歌をつけて
 今はてふ:「今はお別れ」という
 心つくばの山: 「心つく」と「筑波山」を掛ける

更に文献1では、
『こずゑよりこそ 「梢」と「来ず」を掛けているのが眼目』
と云います。

『色変わりけれ』は、木の葉がうつろい変わったのと男の心が変わったのを掛けているとのこと。


(写真は2019年11月撮影。筑波山中のモミジ)

文献1によると、歌の意味は、
「今はお別れ」というお心がつく筑波山ならぬあなたを見ますと、梢の方から紅葉するように「来ず」ということからお心の色が変わったようでありますよ
と解説されています。

・・・すみません、文献1の説明は、正直まわりくどくて 丁寧過ぎて、無粋な私はどうもピンときませんが(^^;)、

つまり、心変わりして最近訪れなくなった人に、葉先の色が変わり始めた枝を送って、

今は果ててしまった心を表すつくばの山を見れば、やはり来ないことを象徴するように、木の葉の色も変わってしまってます
もしくは、
もう別れようという気持ちが取り憑いているあなた(つくば山)を見ると、やはり来ないことを現すように、山の梢は色が変わってしまってますね

ということでしょうか・・・汗

それにしても、かけことばの、
●『心』ー 『付く』= つく(つくばのやま) →  『(あなたの)心』=『つくばのやま』

●『つくばの山』 は 『見る』 もの

●『梢(こずえ)』 → 『来ず』、『来ない』

●『(葉の)色変わりけれ』=心が変わってしまった


これらの表現の綾が特徴的で、心変わりした人を、詩的な表現で嘆いてるのか、恨みを伝えているのか、諦めなのか、実は清々しているのか?・・・いろいろ想像が膨らみます。



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② 後撰和歌集 686番 詠み人知らず:

はじめて人につかはしける

人づてに言う事の葉の中よりぞ 思ひつくばの山は見えける

意味は、文献1より
人づてにお贈りするこの言葉の中から、あなたに心に付ける筑波山ならぬ私の思いは自然に見えることでありますよ』


(写真は、筑波山西麓 国松付近から見た筑波山。2021年3月撮影)
つまり、
はじめて もしくは 改めて人を遣わした時の歌で、
人を通して贈る言葉の中からも、私のあなたへの思い(私の思いが付く=つくばの山)は見えるでしょう
ということでしょう。

この歌も、

●思ひ ー つく(つくばのやま) 

●『つくばのやま』 ― 『見る』もの

●『(ことのは)葉』 ― 『思い』 = 心 = つくばのやま(の木々)

が、共通の表現です。

ところで、筑波山は上の写真でも分かるとおり、関東平野にそびえる独立嶺で目立つので、どこからでもキラキラバッチリキラキラ見えます。
筑波山を『私の思い』に例えることは、『思いはモロ見え、丸出し』ということ(笑)でしょうか?(← 多分違いますね汗

当時、遠い都に住んでいた人が、イメージで『つくばやま』にかけて歌ったのか、はたまた実際の筑波山を知っている人によって謳われていたのか、状況によって歌の持つ雰囲気も違って受け取れるのも楽しいグッド

でも、やはり、独立峰でどこからもバッチリ見える筑波山ですから、

『つくばのやま』=『よく見える山』=『伝わりやすい思い・伝えたい気持ち』

に繋がってるのかも?・・・な~んて、思っています。


********
③ 後撰和歌集 776番 陽成院

釣殿のみこのつかはしける

筑波嶺の嶺より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりける


百人一首にも歌われている有名な歌です。

『釣殿のみこ』とは、光孝天皇の皇女で、綏子(すいし)内親王のことで、この歌を歌った陽成院に嫁します(文献2)。


『みなの川』は、筑波山の男体山と女体山の間を流れる、男女川
ちなみに、筑波山南麓(つくば市)側にも、筑波山北麓(桜川市・真壁側)にも、『男女川』があります。キラキラ
どちらの川を歌ったのかは不明・・・と言いますが、遠い京の都から、想像の翼を広げて歌われた歌なので、
筑波山の男体山・女体山の間を流れる川ならば、どちらでも良いわけですちょき

(写真は、筑波山南麓の方の男女川の水源の1つ。2016年撮影)


さて歌の意味は、文献2の解説をそのまま引用しますと、
筑波山の峰から流れ落ちる みなの川の水が、つもりつもって深い淵となるように、あなたを思うわたしの恋も、ほのかな思いから今ではつもりつもって、淵のように深くなっていることだ

この歌は、『万葉集』3392番 の歌
筑波嶺の岩もとどろに落つる水 世にもたゆらにわが思わなくに
に影響を受けたとも(文献1)云われ、文献2でも対比して語られています。

ちなみに、万葉集の歌の意味は、文献3より、
『筑波山の、岩もとどろきつつ落ちる水のように、絶えてしまうなどとは全く思わないことだ』
とのこと。
つまり、『私の思いは、筑波山の、岩をとどろき落ちる流れのように、絶えてしまうなんてあり得ない!』
という熱い想いの歌のようで、深く静かな印象の、陽成院の歌と対比的だとされています。
(陽成院の歌も、静かな表現の中にも、熱い想いは伝わってくるように、私には思えますが・・・)

陽成院は、貞観十年(868年)に生まれ、清和天皇第一皇子、母は二条后(藤原)高子。
貞観十八年(876年)わずか8歳で即位、元慶八年(884年)に『狂病のため』16歳の時に廃され、でも長生きで天歴三年(949年)82歳で崩じました。
この歌は、天皇を廃された後に、後に后となる綏子内親王に贈った歌です。

陽成院は、わずか8歳〜16歳までの在位。数え年ですから、今なら小学校低学年〜中学生の年齢の間の在位。
この歌は退位した後、二十代中頃に作られ、のちに妃になる綏子内親王に贈った歌。

残念なことに、在位中に悪行が伝えられる陽成院ですが、この歌はとてもきれいで純粋な気持ちハートが伝わってくるように感じます。
(だからこそ、小倉百人一首に選ばれた歌!

ドロドロの権力の世界。もしかすると、何かいろいろあったのかもしれませんね・・・。


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④ 後撰和歌集 150番 詠み人知らず:

人の裳を縫はせ侍に、縫ひてつかはすとて

限(かぎり)なく思(おもふ)心は筑波嶺のこのもやいかゞあらむとすらん

文献1より
あなたのことを限りなく覆う私の心をつけておきましたこの裳は、どのようになりましたでしょうか、気になります

つまり、
心を込めて縫い上げたこの裳は、いかがでしょうか (お気に召したでしょうか)
という問いかけを歌にしたのでしょうか。

●思う・心 → 付く(つく) → 筑波のやま、筑波嶺

●この裳 → このも →  古今和歌集にある常陸歌 『このもかのも(この面かの面)に蔭あれど』が背景にあり、『も(裳)』と『も(面)』をかけている(文献1)
 前回の記事
(古今和歌集にある常陸歌…ということは、地元常陸国をはじめ、よく謳われていたみたいですね!?)

● つくばのやま―見れば、見えける

やはりこれらが、共通の表現です。


(写真は2013年2月撮影。石岡市まちかど情報センターの『いしおか雛巡り』展示のひな人形)

ところで、文献1によると『裳』は当時の男性の礼服とのこと。
でも、平安時代以降の、宮中の女房の長いスカートのような衣服も『裳』と呼ぶようなので、この歌が男性用の衣装について歌っているという根拠は何なのでしょう?

でもまあ、現代でしたら、男女どちらの場合も使えそうです。
特に、着る物(特に手作りの服、浴衣や、手編みの服など)等を贈った時は、この歌を添えると格調高く感想を求めることが出来そう!?ちょき

*****

以上のように、詠み人知らずの3首に共通する『つくばやま(筑波山)』を使う時の使い方、つまり洒落のような表現があるのが分かりました。

和歌における『筑波山・筑波嶺』の使い方や意味がまた一つ加わった感じですちょき

次回は、『拾遺和歌集』、『後拾遺和歌集』、『詞花和歌集』にある筑波山の歌です。

続きます。

 → 八代集に収められている筑波山の歌~(3)拾遺・後拾遺・詞花和歌集にある筑波山


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【参考文献】

1. 『古今和歌集  新日本古典文学大系6』 岩波書店

2. 『鑑賞 第7巻 日本古典文學 古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集』 角川書店

3.[『万葉集 全訳注 原文付(三)』 中西進 講談社文庫

4, 『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店

5.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房

  5には、筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。








  

八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山


日本で一番古い歌集「万葉集」には、筑波山を歌った歌が25首あるのは、よく知られているかと思います。
筑波山神社の境内や、登山道(迎場コース:筑波山神社~白雲橋~酒迎場分岐~筑波山ロープウェイを結ぶ道)に、万葉集歌を彫った石碑もありますし、筑波山麓やその周辺にも、万葉集の歌が彫られた碑も見かけますので、ご存じの方も多いでしょう。。

その万葉集以降に編纂された勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集)にも、筑波山(つくばやま、つくばね)を歌った歌が多く収録されています!

万葉集の後、(平安初期~鎌倉初期)に編纂された8つの勅撰和歌集は、「八代集」と呼ばれており、

・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集

です。
(その後の時代にも、勅撰和歌集の編纂は続きます)

万葉集の他にも歌われた歌も知りたいですよね♪
八大集は図書館にもあるので調べやすいので(^^)v、
シリーズとして数回に分けて、八代集の中で歌われた筑波山の歌を見ていこうと思います。



(写真は、当時の常陸国国府のあった石岡付近から見た筑波山。2021年2月下旬 撮影)

万葉集では、筑波山は、かがい(歌垣)の地で、もっぱら恋の歌(それもかなりダイレクトな)が詠われる地で、「恋の山」のイメージですが、時代が下ると、恋の山以外のイメージも付加されてきます。

その辺りにも注目して、歌を見ていきましょう笑

さて、初回の今回は、古今和歌集の中にある、筑波山の歌です。


(1)古今和歌集

古今和歌集は、延喜五年(905年)醍醐天皇の勅命により、十世紀初期(文献1では「延喜十三年から十七年の間」)に編纂された和歌集です。
編纂の初期の頃は『続万葉集』と称せられていたとのこと(文献2)

『仮名序』と呼ばれる序文と、『真名序』と呼ばれる序文があり、万葉集に選ばれなかった古い時代の歌から編纂時の頃の和歌までが選ばれて、全二十巻、1111首が収められています。

この古今和歌集に納められている 『筑波山』(つくばやま、つくばね)の歌や表現は、

①仮名序 (紀貫之) :
『…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …』

②真名序 (紀淑望) : 『…陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。…』

『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰』 ③966番の歌 (宮道潔興) : 筑波嶺のこのもと毎に立ちぞよる春のみ山の蔭を恋つつ

④1095番の歌 (常陸歌) : 筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし

⑤1096番の歌 (常陸歌) : 筑波嶺の 峰のもみぢ葉おちつもり 知るも知らぬもなべてかなしも



です。

文献1,2の解釈を参考に、この5つを見てきましょう。


********
① 古今集​仮名序

紀貫之が書いた仮名序。
その長い序文の一節

『…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …』

に、まず、筑波山(つくばやま)が出てきます!


(写真は2021年2月下旬撮影)

古今集は全20巻、総歌数1111首が納められた和歌集ですが、その序で、1111首に歌われる数々の歌枕の地の中から
筑波山(つくばやま)
の名が掲げられているのです!

しかも、この前後の文がまた素晴らしいので引用しますと、

しかあるのみにあらず、さざれ 石にたとへ、筑波山にかけて君を願ひ、
よろこび身に過ぎ、たのしび心に余り、富士の煙によそへて人を恋ひ、
松虫の音に友をしのび、高砂・住の江の松も相生のやうに覚え、
男山の音を思ひ出でて、女郎花の ひとときをくねるにも、歌をいひてぞ慰めける
』。

是非、声に出して歌って欲しい、名文だと思います(*^^*)ハート
古典のことはよくわかりませんが、紀貫之、さすがだと思いませんか?

醍醐天皇の勅命で編纂された和歌集なので、やはり醍醐天皇を讃えながら、和歌を讃えているわけですが、この名文の中に、京の都から遠く離れた常陸国の筑波山が、入っているのが嬉しい。

『君を願ひ』の『君』は、君主つまりここでは天皇のことです(文献1,2)。
つまり 『天皇陛下の安泰を願い』ということでしょう。

筑波山(つくばやま 筑波嶺とも)は、君主の恩恵を賛美するたとえに用いられる』(文献1)とのことで、古事記が編纂された頃は、筑波山はもっぱら『恋の山』のたとえが多かったようですが、時代とともに別の意味も加わってきて、古今和歌集が編纂された平安時代前期になると、『君主の恩恵』を表すようになったようですね!

面白ですね!
どのような変遷でそうなったか興味深いです。                  

それにしても、つくばやま・つくばねは、歌枕の地としてゆるぎなかった上に、勅撰和歌集の序文にも書かれるくらい、聖地としても遠く都まで伝わっていたということですよね。

これ、もっと知られて良いと思いますキラキラ


********
② ​真名序

紀淑望が書いたと言われる、漢文で書かれた序文です。
仮名(ひらがな)に対する真名(漢字)で書かれた序文。 
 
真名序は仮名序の訳だとも、逆に仮名序を訳したのが真名序だとも言われるようですが、
書いてある内容のニュアンスが違うと私は思います。
お互い内容に整合性を持ちつつ、それぞれの表現方法で序を書いていると感じます。
 
さて、仮名序と同じく、こちらでも『筑波山』がしっかりと出てきます。
 
陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰』

読み下し文
陛下の御宇今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵は筑波山の陰よりも茂る

意味は、
『(醍醐天皇の治世は現在、九年である) 天皇の仁愛は日本国の外まであふれ出し、その恩恵は筑波山の山かげに草木が茂るように深い』
(文献1より筆者要約) 


(写真は 御幸ヶ原登山道の巨木群。2016年10撮影)

『筑波山の陰』とは、筑波山に茂る木々の陰を指すようで、『木陰』は『 おかげ・恩恵』のたとえで、『寄らば大樹の陰』の『陰』と同じ使い方でしょうか(^^;)

つまり、『筑波山の陰』は、天皇が世に与える豊かな恵みを表す例えに使われている!

これは、この古今和歌集に収められいる966番、1095番、1096番の歌において、
筑波山に茂る木々の陰 = 身分の高い人からの庇護・恩恵
とされているからのようで、多分、当時、つくばやま(筑波山)・つくばね(筑波嶺)をそのような意味を想起させる土地の名(歌枕)としてよく使われていて、古今和歌集に収録された歌以外にもそんな用例が多くあったのかもしれませんね。

なおこの後に続く文も見てみますと、

『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。
淵変為瀬之声、寂々閇口、砂長為巌之頌、洋々満耳。思継既絶之風、欲興久廃之道』

『陛下の御宇今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵は筑波山の陰よりも茂し。
淵の変じて瀬となる声、寂々として口を閉ぢ、砂の長じて巌となる頌、洋々として耳に満てり。
既に絶えたる風を継がむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す』

紀貫之が書いた仮名序と、(醍醐)天皇を褒め讃えている点はのは同じですが、讃え方の表現が微妙に違う。

真名序のこの部分では、仮名序のように和歌について直接讃えているわけではありませんが、失われつつある良き歌を残したいという
この古今和歌集編纂への天皇の想い(そして編纂者の想い)を強く伝えていると私は感じます。


********
③ 古今和歌集 966番 宮路潔興

筑波嶺のこのもと毎に立ちぞよる春のみ山の蔭を恋つつ

宮道潔興(みやじのきよき)は、平安時代前期の官人・歌人。

   
(写真は筑波山梅林、2021年3月撮影)

古今和歌集では、この歌の前に、
『親王(みこの)宮の帯刀(たちはき)に侍りけるを、宮仕え仕う奉らずとて、解けて侍りける時に、よめる』
とあります。

文献1の注釈・解説によりますと、
 親王宮: 春宮(皇太子)御所
 帯刀: 皇太子護衛の帯刀舎人(たちはきのとねり)
 筑波嶺: 中世注は「つくはね」ともしめす
 春のみやま: 『春の宮』と『春の御山』を掛ける

つまり(文献2)によりますと、
『東宮警護の役だった宮道潔興は、勤務不良という理由で解職されてしまった時に読んだ歌』
とのことのよう(^^;)

で、その歌の意味は、
(文献1より、後に出てくる④1095番の常陸歌の句
『筑波嶺のこのもかのもに影はあれど』tと『君がみかげにますかげはなし』 を踏まえて)


(写真は同上)
『「筑波嶺のこのもかのもに影あれど」というその木のしたのあちこちに立ち寄っていております。春のみやま(=春宮様)の恩恵をお慕いしております』

つまり職を解かれた宮道さんが、仕えていた春宮(皇太子)の恩恵を忘れらずにいるのか、はたまた再び恩恵を承りたい(もう一度雇って欲しい)のか・・・そんな切ない気持ちを歌っているのでしょうか。

一見、恋の歌のように読んでしまうのは、現代人の浅はかさ・・・実は、職を解かれた悲しさ、切なさを歌っているのですね泣

上でも書きましたが、この宮道潔興の歌の下地になっているのが、次に見ていく1095番の歌(常陸歌)です。


********
④ 古今和歌集 常陸歌 1095番

『常陸歌』とは、常陸国の民衆が歌ってきた歌(歌謡)で、詠み人は不明です。

筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし

『このもかのもの』の『も』は、文献1によると『表面、方向の意の「おも」の略』とのこと。


(写真はつくばフォレストアドベンチャー 2021年3月上旬撮影)

意味は、文献1では、
『昔から名高いあの筑波山のこちら側にもあちら側にも「かげ」はあるけれど、「かげ」とは名ばかりのことで、あなた様の御面「影」にまさる「陰」はございません』

また文献2では、ちょっとニュアンスが違って、
『かげはあれど』: 木の蔭はいくらでもあるが
『きみがみかげ』: 君のみ恵みのかげ。君の御庇護

ちなみに文献3では、文献2とほぼ同じ解釈で、
『筑波嶺のこちらの斜面あちらの斜面に木陰は多いけれど、君(主君)御庇護にまさる蔭はありません』

なるほど~!

前述の966番の歌の下地にもなっている歌。
きっと、いろんな人が謡ってきたヒットソングだったのでしょうキラキラ

でも現代でも、ごますり 誰かのご恩を褒め讃える時に使えそうですので、使ってみたいですねちょき 株が上がりそう!?グッド


******** 
⑤ 古今和歌集 『常陸歌』 1096番 詠み人知らず

 筑波嶺の 峰のもみぢ葉おちつもり 知るも知らぬもなべてかなしも
 

(写真は、筑波山ケーブルカー 宮脇駅付近。写真は2019年11月撮影)

文献1によると歌の意味は
『昔から名高いあのもみじの葉が落葉して積もっていて、秋はともかく『悲しい』ことではるが、それでもやはり、知っている葉も知らない葉も、すべてそれぞれにしみじみといとおしく思われることだなあ』
とし、更に
『(筆者註:他の歌の例から) 秋は悲しいものという前提でいうが、転じて「葉」が「御世」を暗示し、1095番を承けた御世御世の賛歌と解する。「おほやけ(朝廷・公)のあまねき御恵みの遠近なきにたとへたり」。もとは筑波山の嬥歌会(かがい)の歌とする説もある』
としています。

また文献2では、微妙に解釈が異なり、
『つくばねの峯のもみじばおちつもり』: 美しいものがたくさん集っているたとえ
『しるもしらぬもなべてかなしも』: している人も知らない人も、おしなべていったいにいとおしいなあ。
とのこと。


(写真は同上。2019年11月撮影)

こちらの歌も上の1095番の歌と同様、常陸歌で、詠み人知らず。
これも、平安時代初期の更に昔から常陸国の人々が折に触れ歌っていたらしい、ヒットソングですねグッド

それにしても 『もみじ葉』が何を指しているか、何を例えているのか…いろいろ想像が膨らみますが豆電球
落ち葉は土に戻り、腐葉土となり、木々が育つ豊かな土壌になるわけで、『落ち葉』=『恩恵』という解釈は、しみじみと深いと思います。

 
***********

今回は、平安時代前期に編纂された『古今和歌集』に出てくる筑波山
  つくばやま、つくばね
の歌や表現を見ていきました。

 
歌枕の地としての『つくばやま』『つくばね』は、
 ・天皇の世(=国の安泰)を願える聖地
 ・その恩恵の大きさ・豊かさの例えに使われた地
とされていたのが分かり、感動していますキラキラ

これ、本当にもっと宣伝すべきですよ!!筑波山!!

それにしても、現代でも使えそうな歌の数々。雅に気持ちを歌えるのに良さそうではありませんか!  
筑波山麓やその周辺にお住いの方、是非使ってみてはいかがでしょう♪グッド


さて、次回は後撰和歌集に歌われる『筑波山』です。
百人一首に詠われるあの有名な歌の他にも、筑波山を歌った歌がありますし、こちらの「序」にも
「筑波の山」「筑波嶺」が出てきます(^^)v。

続きます笑
 → 八代集に収められている筑波山の歌~(2)後撰和歌集にある筑波山


*******************************************
【参考文献】

1. 『古今和歌集  新日本古典文学大系5』 岩波書店

2. 『古今和歌集 日本古典文學体系8』 岩波書店

3. 『鑑賞 第7巻 日本古典文學 古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集』 角川書店

4, 『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店

5.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房

  5には、筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。






















  

おうちで厄除け・無病息災祈願
【シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (9)】筑波山と羽子板と、羽根つき遊びの歌の謎

久しぶりの『筑波山名跡誌』シリーズですが、今回はポイントとしての場所ではなく書かれている伝説を読み解きたいと思います。


江戸中期の”ガイドブック” 『筑波山名跡誌』(上生菴亮盛 著)(文献1)に書かれた名所・旧跡を訪ね、興味のおもむくまま♪ 関連する話題も調べるシリーズです。
(筑波山名跡誌に記載されている順ではありませんので、その点、ご了承ください)

今までのお話
豆電球シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1)常陸帯宮(前編)
豆電球シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1) 常陸帯宮(後編)
豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (2) 男女川(水源)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (3)夫女之原、夫女石
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (4)亀之岳
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」(5)観流庵(前編)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (5)観流庵(後編)
豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (6) 酒香川
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (7) 橘川・迎来橋(前編)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (7) 橘川・迎来橋(後編)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (8) 一の鳥居


新型コロナの感染が拡大しています。しかも感染力の強い変異型の報道も出てきて大変気がかりです。
とにかく、新型コロナの感染をこれ以上広げないために、今年の年末年始は、やはり極力外出を控えないといけないです。

初詣でも、時期をずらして空いている年末に社寺に詣でる『幸先詣で』もあるとか。

とにかくここが我慢のしどころ。
そんな今年のお正月に
『厄除け・無病息災』を祈願しながら、おうちで家族と遊べる遊び
があるのです!


それは、

キラキラ羽根つき』!キラキラ

羽子板で羽根をついて遊ぶ、あのお正月伝統の遊びです。

(写真は、某人気アニメの絵の羽子板の裏側です)




先日、ラジオ(NHK第一)の番組のストリーミング放送を聞いていたら、

正月の羽子板遊びには厄除けの意味がある

という話題をやっていました。

① 衝く羽根の黒い玉は「むくろじ」の実。
むくろじは、「無患子」と書き、子供の無病息災祈願に繋がっている。

② 羽子板で衝く羽根をトンボに見立てて、羽根で衝いて宙に飛ばして、蚊などの害虫を退治させるまじない。

③ 失敗すると顔に墨を塗られることは、魔除けのまじない。

なのだそうです。

これはもう、羽子板で羽根つき遊びをやるしかないですね!グッド


そんな羽子板と羽根衝きの由来について、江戸時代中期に書かれた『筑波山名跡誌に、
筑波山に伝わる興味深い話が書かれていますので、今回はそれについて考えていきます。

(なお、羽つき/羽子板あそびについては、図書館にある文献でも調べてみました。このページの最後に参考文献(文献3、4、5))を挙げますのでご興味ある方はそちらもご覧くださいにこにこ


(1) 江戸時代中ごろ、筑波山地域は羽子板の名産地だった


以前も、筑波山の『羽子板』の『こぎのこ・こぎのみ(植物の「ツクバネ」の実)』について書きました。
 豆電球以前書いた記事 → 茨城こんなもの見つけた♪(19) 「つくばね御守」と「つくばね」の実 

今回は、同書の『羽子板』の項に書かれている、羽根つきの歌についてです。

まず、同書によると、著者の上生庵亮盛が、坂東巡礼で椎野山(椎尾山のことか?※)で泊った時に、
地元の老農夫から、筑波山における羽子板の由来として、

 ●最初は、木の枝で羽根を打っていたが、そのうち枝が板になり、さらにその板もきれいな形に作られて、
  毎年『霜月朔日』(旧暦11月1日)に市で売られて全国に、筑波山で作られた羽子板が出回るようになった


という話を聞きます。加えて、

 ●羽根衝きは、『日神』が筑波山にいつとせ(五年?)滞在した時に、他の神様達と一緒に、
  筑波山の二神を羽根衝き遊びで慰め伝わる『羽根衝きの歌』がある


ことも聞きます。


なお同書では、筑波山の名物の項に、

 ●羽子板、児岐之実(こぎのみ:植物のツクバネの実。衝き羽根の形に似る)

も入れています。
『筑波山名跡誌』が書かれた江戸時代中期の頃は、羽子板は筑波山の名産品だったようです!

 ※ 椎野山は、筑波連山の『椎尾山』の間違いかと考えます。
  坂東=関東には、椎野山という山はどうもないようですし、話の筋から筑波山連山の1つとした方が自然かと考えます。


(2)筑波山地方に伝わる羽根衝きの歌

一二三四(ひふみよ)と​五(いつ)まではごをつくばねの 月あらん事は そらにすめすめ

上生庵亮盛は、更に老農夫から、筑波山二神への御詠歌として、この歌(和歌)を聞き、筑波山名跡誌に書き綴ります。

なにか呪文のようでもありますね。
そして、それぞれのことばが掛けことばになって、歌自身がいくつも意味を持つようにも感じられます。

この歌の意味の謎解きにちょっと挑戦してみましょう!

① 羽根を羽子板で衝きながら、数を数える『一、二、三、四、五・・・』
    
  『ひふみよ』: 数を数える『一、二、三、四』
      または、
   『ひ』は『日(日神)』?
        『ふみ』は『踏み』? 『踏む』の古語の意味に『位につく』という意味もある(Webio古語辞典)
        『よ』は『世』?
       合わせると『日神が位につく(統べる)世』とも読める?  
         
  『いつ』:数字の『五』と、時を聞く『いつ』
       上生庵亮盛が聞いた筑波山の神々の伝説
        『日神が筑波山にいつとせ(五年)滞在した』 の『いつ』にも関係するか?

② はご 羽子板の羽子で、いわゆる羽根つき遊びに使う羽根です。『はね』。『つくばね(衝く羽根)』    

③ 『はごをつく』:羽子を衝く
  『つく』が『つくば(筑波)』の『つく』に繋がる。
  『つくばね』:『衝く羽根』、『筑波嶺』
 『つくばねの月』:『衝く羽根の衝き』、『筑波嶺の月』

④ 『月あらん事は』: 『月があること(月がある様子)』、『衝きがあること』 
    
⑤ 『そらにすめすめ』 これが難解…。

  この意味をを考えていきます。


(3)『そらにすめすめ』とは?

 実は同書では、『羽子板』の項の一つ前の『児岐乃子』の項で、後水尾院の御歌として

   『つくばねのそれにはあらでこぎのこのこよひの月はそらにすめすめ

 という歌も紹介しています。

 後水尾院は 江戸幕府が始まった頃、慶長元年~延宝八年(1596年-1680年) に生き、
 慶長16年(1611年)~寛永6年(1629年)に在位した天皇。
 その方の歌です。
 
 『こぎのこ(古岐乃子)』は、上でも書きましたが、植物の『ツクバネ』の実です。
 この『ツクバネ』は、羽子板遊びに使う羽子そっくりの形をしています。

 この後水尾院の御歌の意味も気にはなりますが、おそらく冒頭の『つくばね』は、山の『筑波嶺(つくばね)』ではなく、純粋に『衝く羽根』=羽子 のことを言っているのだと思います。 
 多分、宮中で羽子板遊び(神事だったかも?)をしている時の様子を、後水尾院が詠った歌なのではないのでしょうか。

 こちらの御歌にも、『月』が出てきますね。
 羽根衝きは月夜に行われることもあったのでしょうか?? 興味深い。

 そしてこの歌の最後が、やはり『そらにすめすめ』なのです。

 ・ 筑波山麓で(少なくとも江戸時代中期ごろ)伝わっていた羽根衝きの歌
  『一二三四(ひふみよ)と​五(いつ)まではごをつくばねの 月あらん事は そらにすめすめ』
 ・ 後水尾院(江戸時代初めの人)の歌
  『つくばねのそれにはあらでこぎのこのこよひの月はそらにすめすめ』

 どちらが先かは分かりませんが、どちらも
  『つくばね』『はご(羽子)/こぎのみ(児岐之実)』、『月』、『空にすめすめ』
 と共通ワードがあります。

 そしてやはり気になるのが、最後の『空にすめすめ』の意味。

 私は、『すめ』 は 『澄め』 ではないかと思います。
 というのも、

 古語『澄む』の例として、Webio古語辞典によると、

 吉田兼好の徒然草 十九にある一文

 『すさまじきものなりて見る人もなき月の、寒けくすめる二十日余りの空こそ、心細きものなれ』

 をあげて、その意味を

 『殺風景なものとして見る人もいない(冬の)月が、寒そうに澄んでいる
  (陰暦十二月9二十日過ぎの空は心細いものである』

 と説明します。

  また、新古今和歌集(文献2)によると、藤原秀能(ひでよし/ひでとう)という人の歌で、

 『月すめばよもの浮雲空に消えてみ山がくれにゆくあらしかな』   

 という用例があり、文献2の解説では、『月すめば』を『月が澄むと』と解説しています。

 つまり『月』と『澄む』はセットになり得る。

 なので、下の句の『月あらん事は そらにすめすめ』は、

 『月が(夜空に)ある姿で、その空で澄んで(美しく輝いて)いて下さい

 と読めるのではないかと思っています。


(4)筑波山地域に伝わっていた羽根衝き遊びの歌の意味は…。

以上より、

一二三四(ひふみよ)と​五(いつ)まではごをつくばねの 月あらん事は そらにすめすめ

の歌の意味は、私は下記のようにまずは考えます。

① 『ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつといつまでも、羽子を衝く筑波嶺に月がある姿で、空で輝き続けて下さい

月が輝く夜と、羽根を衝く神事の様子が重なる、美しくもミステリアスな歌ではありませんか♪

ところが気になるのは、

『日神がいつとせ、筑波山に滞在した時に、他の神様達と、筑波山の二神を羽根衝きで慰めた』

という話。

そうすると、

② 『日の神が治める世でいつまでも羽子を衝く筑波嶺に月がある姿で、空で輝き続けていて下さい

とも読めますし、

③ 『日の神が治める世で、日の神が五年滞在して羽子を衝く間は、筑波嶺に月がある姿で、空で輝き続けて下さい

とも読めるかも? 後の意味だと期間限定…?

いずれにせよ、『日神』が歌った歌に『月』が出てくる。それも『輝き続けて』と歌う。

いよいよミステリアス。

または、単純に羽根衝きの回数の数え歌 兼 応援歌として、

④ 『ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつといつまでも衝いている羽子の、その衝き(つき)が続くことを表すように、(衝かれた羽子よ)空中で(ずっと)輝いていて!

とも取れますよね。

他にも解釈や、裏の意味もありそうな歌で、とても興味が深まりますが、あとは各自で妄想の羽根を広げて頂くことにして、
私の解釈は、とりあえず上記の4つで(^^)笑


それにしても、この歌を唱えながら、羽根を羽子板で衝いて遊ぶと、ますます厄除け・無病息災の願いが届きそうではありませんか!
そして失敗した時は、顔に墨を塗って(サザエさんみたいに)、これまた厄除けになる。

身体を動かして健康的キラキラだわ、顔に墨を塗って笑いを呼ぶキラキラは、良いことずくめグッド

今年のお正月は、おうちで羽根つきして遊んで
、『おうちで厄除け・無病息災祈願
しませんかキラキラ(^o^)



*************************************************************************
【参考文献】

1.『筑波山名跡誌 ―安永期の貴重な地誌再現―』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説  筑波書林

2.『新古今和歌集』 新日本古典文学大系11 岩波書店

3,『民族遊戯大事典』 大林太量 編 大修館書店

4.『日本こどものあそび大図鑑』 笹間良彦 著 株式会社遊子館

5.『江戸時代 子ども遊び大事典』 小林忠 監修 中城正堯 編著








  

源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)


びっくりあの源氏物語に 『筑波山』 が出てくる!びっくり
ということで、前回に引き続きキラキラ源氏物語と筑波山の関係 キラキラについてです。

豆電球前回までのお話
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)

(写真は2019年11月下旬撮影 つくば市国松付近から筑波山を望む)




4.源重之の歌のネタ元?『風俗歌 筑波山』

ところで、9世紀前半から11世紀中ごろの時代風俗歌『筑波山』という歌がありました(文献4、5)


風俗歌『筑波山』
筑波山 は山しげ山 茂きをぞや 誰が子も通ふな 下に通へ わがつまは下に

つくはやま はやましげやま しげきをぞや たがこもかよふな したにかよへ わがつまはしたに


歌の前半が、源重之の歌とほぼ同じです!!

後半の『下に通う』というのは『密かに通う』という意味(文献3)。

 【参考】 新古今和歌集 1014 : 我ならぬ人に心をつくば山したにかよはむ道だにやなき (大中臣能宣)
    ※この歌も、『つくば山(筑波山)』を歌っています。


つまり、風俗歌『筑波山』の意味は、

(歌垣・嬥歌(かがい)のあって古来から有名な)筑波山の周りの樹々が茂った山道(は皆が通う道なので)を通ってはいけない。
 こっそり通いなさい。私の愛しい人は密かに(別の場所に)いるのだから


ということでしょうか??(私の超訳ですグッド

(写真は、石岡市 国民宿舎つくばね の駐車場より筑波山を望む。2015年11月撮影)


ところで、この風俗歌『筑波山』、9世紀前半から11世紀中ごろの歌というのが気になります。
『風俗歌』というのは、明治時代に編纂された日本初の百科事典 『古事類苑』 によると(文献5)
宮中の行事で歌われたものが、次第に民衆に広まっていった歌のようです。

★この風俗歌『筑波山』が元々あって、それを『本歌取』して、源重之が『筑波山端山重山…』を歌ったのか?

★それとも、源重之の歌が有名(源氏物語でも引用されているくらい)なので、これが宮中の行事で歌われ、
次第に民衆にも広く歌われていったのか?

その辺りが気になりますが、いずれにせよ、源氏物語の時代に、
『つくばやま、はやま、しげやま・・・』 と始まる歌は、、
民衆にも歌われていたし、三十六歌仙の歌人までもが、筑波山を『詠って』いた
というのは、事実!キラキラ

『つくばやま はやま しげやま しげ〇〇〇』

韻もいくつも踏んでいるし、とてもリズム良いハート
現代ならば、ラップですね♪! 
みんなが口ずさみたくなるのが、よくわかりますグッド

『つくばやま、はやましげやま 茂けれど♪』
『つくばやま、はやましげやま 茂きをぞや♪』
こう歌いながら、常陸国の国府(石岡)やあちこちの村から、男女がフェス(歌垣・嬥歌(かがい))に参加するために、
筑波山目指してワクワク歩いている様子が、目に浮かぶようではありませんか!? キラキラ


そして都から常陸国の国府(石岡)に赴任してきた人たちやそのお供の人たちが、都に帰って、楽しかった?筑波山のフェスの話をして、噂は広まり・・・。
更に時代を遡った頃から伝わる万葉集にも25歌も詠われる筑波山のイメージもあり、
都の人々は、あーんなことや、こーんなこと等、いろいろ妄想を膨らませて 筑波山に恋とロマンハートを感じたのでしょうねハート
(写真は常陸国の国府跡地。現在は石岡市立石岡小学校)






5.源氏物語と「常陸」と「筑波山」

源氏物語の五十帖(宇治十帖の第六帖)の『東屋(あずまや)

この東屋(あずまや)は、その字の如く、『東国にあるような(素っ気ない)家屋』を表すそうです。

重要人物の浮舟は、父(養父)の赴任地の、東国の常陸国で育ちます。
それもあり、京で育てばそれなりに身についていたであろう雅びな教養がなく、身分も常陸介の娘(継娘)なので、
超~高級貴族の薫君も匂宮も、何気に見下す態度で接しますがーん…

正直、薫君も匂君も、いけ好かないヤツぷんぷん…というのは置いといて、

★ 『東屋』帖は、三十六歌仙の一人 源重之の歌『筑波山(つくばやま)…』で始まる。
★ 筑波山は、東国常陸国にある歌枕の地。恋の山としても知られる。


というのがあるので、やはり作者の紫式部は意識して、

『東屋』(東国にあるような家屋)
―『常陸・常陸介』(常陸国・常陸国の長官)
―『筑波山』(常陸国にある山・歌枕の地)

を、設定に取り入れたように思います笑

今回注目している源氏物語の宇治十帖の、ヒロイン浮舟の養父の身分も、常陸介(※)。
垢抜けないし、実子でない浮舟には冷たいけれど汗、とても金持ちで羽振りが良いオヤジキャラ。


(写真は常陸国国府跡の碑。石岡市立石岡小学校敷地内)

常陸介は『受領』と呼ばれる身分で、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者のこと。
現地でがっぽり富を蓄えて裕福ではありますが、所詮中央政権には進出できない中小貴族。
しかも都から見て、常陸国は遠い東国にある辺境の地。
同じ国司でも、東国に赴任する人は、やはり都近くの国に赴任するする人よりパッとしない貴族だったようで・・・汗

※ただし、『介』は国司に次ぐナンバー2ですが、常陸国は親王任国なので、『常陸介』という身分は、現地(常陸国)では実質ナンバー1!!
(親王任国であった、常陸国、上総国、上野国の3国は、国守は伝統的に親王がなるが現地には行かないので、
実際に任地に赴任する「介」が、現地ではナンバー1なのです)

源氏物語の中では、浮舟の家に仕えている人も東国出身者も多く、「あずまことば」でしゃべっているのも云々というくだりも出てきます汗^^;
(このくだりを読むと、生まれも育ちも関東出身の私は、正直イラっとします(笑))ZZZ

で、それやこれやで、中央政権にいる超~高級貴族の薫君は、浮舟を軽く見て、世間体を気にして煮え切らないわけです。
なら、惚れなきゃいいのにね、薫がーん…  ← 恋愛小説に文句いってもしかたありませんが。


今回、苦手な源氏物語を、『筑波山』に関わりそうな部分だけですが、訳文等を読む機会を持ちましたグッド

私は薫君にも匂宮という野郎どもキャラには何も惹かれませんが、浮舟の生きざま(設定)には共感するものがあります。
宇治十帖ぐらいは今度ちゃんと読んでみようかなと思いましたグッド


6.源氏物語が書かれた頃の筑波山周辺は?

さてさて、源氏物語の作者、紫式部の生きていた時代の筑波山付近を見てみますと・・・。

源氏物語が文献に初出するのは、1008年(参考サイト1より)。

その頃、常陸国の筑波山南麓(今のつくば市の水守や北条付近)には、平維幹、為幹親子がいました(990~1020年過ぎ頃)。


(写真はつくば市北条にある、日向廃寺跡。平安時代後期、この地にいた平氏(常陸平氏)が、京都の平等院鳳凰堂を模して作られたと考えられています。2011年5月撮影)

その財力は、当時の説話集の今昔物語でも語られていて、常陸介夫妻が京に帰る時の贈り物が都で語り草になっていたのが分かります。

紫式部(970頃~1019頃?)の頭の中には、地元の豪族、常陸国の平氏からがっつりいろいろ貰っていた潤っていた常陸介のイメージがあったのかもしれません。
ちなみに紫式部の母方の祖父の藤原為信も、常陸介経験者です(参考サイト2より)。

そういう、常陸国にある筑波山という連想も、作者の紫式部にも読者の貴族側にも共通にあったことでしょう。

そして、源氏物語が書かれた後になりますが、紫式部の異母弟(藤原惟通)も常陸介として常陸国の国府に赴任して現地で亡くなっています(1020年頃)。
この1020年頃は、筑波山南麓 水守~多気(今のつくば市水守~北条付近)に居を構えていた、平維幹・為幹父子の勢力が強大だったころです。
常陸介の藤原惟通が常陸国で亡くなった後、その妻は平為幹によってひどい目にあい、それを都で訴えたけれど、どうも握りつぶされたようです…ZZZ (文献6、7)。 
平維幹・為幹親子は、権勢を誇ったのでしょうが、特に為幹は行状が悪く、許せませんね。泣

 → 平維幹、為幹親子及びそのゴシップについては、以前書いた記事をご参照下さい。
    豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
    豆電球宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)

しかし、源氏物語に『筑波山』が出てくることから、ちょっと調べてみただけでもいろいろ分かって面白い!笑

源氏物語には他にも『常陸』という言葉が度々出てきます。
それは、地名としてだったり、身分や役職名だったり。


奈良時代末期に成立したとみられる日本最古の和歌集『万葉集』には、筑波山を歌った歌が25首もある!!のはご存じの方も多いでしょう。
それより時代が下った平安中期の歌人で、三十六歌仙の一人の源重之も筑波山を歌っているのを、今回知りました。

その歌を引用する形で、筑波山という名が源氏物語に出てくる!ハート

万葉集以降の歌、平安時代~鎌倉・室町時代の頃の『筑波山』の歌も、近いうちに調べたいです(^^)


【おまけ】
 
 この春から夏にかけてNHK第二ラジオの『古典朗読』という番組で、『更級日記』をシリーズで紹介していて、ストリーミング放送で聞きました。

 藤原孝標女(ふじわらのたかつえのむすめ)著 『更科日記(さらしなにっき)』
 こちらも紫式部の時代よりやや後の時代に生きた女性が書いた日記で、父が上総国介になり、
 その赴任に従って上総国(千葉県南部)で育った文学少女は、当時超人気だった源氏物語マニアとなり、その思いを語る姿は、
 今も昔もマニアの心は同じだと親近感を持ちます。

 藤原孝標女は、50歳台になった頃、昔を回想する形で更科日記を書き綴ったようです。

 藤原孝標女の父親は、60歳!になって今度は常陸国介になり、その年齢で一人で遠く単身赴任する時に、
 年頃(といっても25歳で未婚)の娘を残していく心配を愚痴る場面があります。
 それに、なかなかじーんとくるのは、私がそういう年齢になって身につまされるからですね…。

 そして当時の受領階級(中級・下級貴族)の悲哀や、『常陸国介にしかなれない』という悲哀もあって、これまた興味深くも、
 茨城県民としてはビミョーな気持ちがーん…

 でも、更級日記も今度、ちゃんと読んでみようっと♪


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【参考文献】


1.「源氏物語 七」 新潮日本古典集成<新装版> i石田穣二・清水好子 校注 新潮社

2.「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店

3.「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社

4. 「日本国語大辞典」 第2板 9巻 小学館

5.「古事類苑 樂舞部 一」 吉川弘文館 

※豆電球 古事類苑については、国際日本文化研究センターのWEBサイトのデータベースのページ
   http://db.nichibun.ac.jp/pc1/ja/
   で全文を見ることが出来ます。

6. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修

7. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集


【参考サイト】 2020年10月現在のもの

1.Wikipedia 『紫式部』

2.コトバンク 『藤原為信』

3.Wikipedia 『藤原惟通』







  

プロフィール
かるだ もん
かるだ もん
徒然なるままに、興味のあることを気ままに書いています。好きなことばは「中途半端も、たくさん集まればいっぱい!」(ドラマのセリフ)

地元つくばや茨城の話題を中心に、茨城の食材を使った家庭料理、民俗学もどき、国際交流、旅の話題など、趣味の記事を掲載中。

特に自分の勉強も兼ねて、
★民話・伝説紹介と、それにちなむ土地めぐり
★茨城を中心に、全国の郷土料理と食材(世界の料理も含む)の話題
の話題が多いです。

・ヒッポファミリークラブ(多言語自然習得活動と国際交流)
・観光ボランティア
・郷土食研究会うまかっぺ!茨城

別館: 夢うつつ湯治日記 https://note.com/carfamom/

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