源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)


あの源氏物語に、なんと『筑波山』の名が出てくるのをご存じですか?

源氏物語全五十四帖の中の五十帖目、いわゆる『宇治十帖』の六帖目になる『東屋(あずまや)』の冒頭は、
筑波山(つくばやま)
で始まるのです!
びっくり

舞台は京の宇治。
なのになぜ遠い常陸国の筑波山(つくばやま)の名が出てくるのでしょう?


1.『筑波山』が出てくる前後のストーリー

実は私は、正直言って源氏物語には、ど~~~しても気持ちが入り込めないのですが汗
『筑波山』の名が出てくるなら、話は別ですちょき

状況説明のため、『東屋』の前の四十九帖(宇治十帖の五帖)『宿木』と、五十帖(宇治十帖の六帖)『東屋』帖の最初の方だけ、
さくさくと読んで走る、あらすじを書きます。

【あらすじ】
源氏物語の最後の十帖「宇治十帖」では、宇治が舞台で、主人公は薫君(かおるのきみ)と匂宮(におうのみや)です。
薫君は、光源氏の親友の頭中将の息子だけど、実は光源氏の息子である疑いが濃厚…汗
匂宮は、光源氏の孫。

そしてこの二人はほぼ同じ年齢(つまり光源氏があちこちで…以下自粛(笑))。
で、同じ浮舟という女性を好きになってしまうハート

浮舟と呼ばれる女性が登場するのは、『宿木』の帖からです。


(写真は、2013年2月の石岡市まちかど情報センターの『いしおか雛巡り』展示のひな人形です。
テーマは『源氏物語』でした笑

浮舟は、中級貴族の娘ですが、とても美しいキラキラ
父(養父)は、垢ぬけないけれど、金持ちで羽振りの良い常陸介。

だから(父親のお金目当てもあって)貴族の男たちが言い寄るのですが、その美しさゆえに、超~高級貴族の薫君や匂宮も目を付けますハート





最初に浮舟を見初めたハートのは薫君。

薫君は偶然、浮舟を見かけます。
そして、思いを寄せていた今は亡き大宮(おおいみや・八の宮の長女)にそっくりな浮舟に心惹かれ、忘れられなくなります。
そっくりなはず、浮舟は大宮の異母妹。
ここまでが『宿木』の帖。

浮舟に心惹かれる薫君ですが、『自分のような超~身分の高い人間が、身分が下の娘(浮舟)に言い寄るのは、世間体が悪い』と
グダグダ悩みます(^^;)。

この煮え切らない薫君の気持から、『東屋』帖は始まります。

そしてその『東屋』の冒頭のことばが
筑波山(つくばやま)
なのです!


【原文】東屋

筑波山を分け見まほしき御心はありながら、端山の繁りまであながちに思ひ入らむも 、
いと 人聞き軽々しう、かたはらいたかるべきほどなれば、思し憚りて、御消息をだにえ伝へさせたまはず。


文献1(「源氏物語 七」 新潮日本古典集成) によると、この意味は、

(薫は)筑波山に分け入って、よく見たいお気持ちもありながら、そんな端山(はやま)の繁みまでむやみに熱心になるのも、
全く人に聞かれても、身分にふさわしからぬ見苦しい振舞と思われそうな相手の分際なので、[思いはばかって] お手紙も
お取り次がせになれないでいる
』 
※[ ] 内は私が追加しました。

つまり、

薫は、(浮舟に)会いたい気持ちはあるけれど、端山(里の山)の繁み(=身分の低い娘)にまで 恋心を持っているというを、
人に知られたら、軽々しいアホ男と思われちゃってなんだかなぁがーん…と思いはばかって、手紙さえも届けられなかった。

・・・ということで、薫君の態度にイラッぷんぷんとするのを置いておいて(笑)、

注目すべきは、この『東屋』の帖の冒頭
筑波山(つくばやま)

で始まることなのです!

でもなぜ、ここでいきなり何の断りもなしに、『筑波山』で始まるのでしょうか?



2.平安貴族のハートをつかむパワーワード『筑波山』

実はこれは、有名な歌人(三十六歌仙の一人)源重之の歌

 『筑波山 端山繁山しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり
 (つくばやま はやま しげやま しげけれど おもひいるには さはらざりけり)

が背景にあります。

しかしこの歌自体は源氏物語の中では直接書かれていません。

引歌』というそうですが、有名な歌を引用する(想起させる)形で、
作者の紫式部は、登場人物の気持ちをつづっているわけです。

つまり、有名な源重之の歌にある『つくばやま(筑波山)』
が、薫の苦悩を語る『つかみの一言』
なのですキラキラ


源重之の詠んだ歌の意味は、
筑波山の端山(近くの小さな山)も、茂る樹々や草も、あなたを思う気持ちには、なんの障害にもなりません

つまり、『(身分の違いなど)何の障害でもありません!』
オリジナルの源重之の歌はカッコイイ!ちょき

でも悲しいかな、この歌のように薫君は言えないのです…世間体ってヤツで汗

そんな煮え切らないオトコ汗の恋心の葛藤をも、キラキラ雅びキラキラに伝えるためのパワーワードが、
筑波山
という地名(歌枕)

これが『東屋』の帖の冒頭で出てきて、読者の平安貴族の皆様はハートをガッツリ!
わしづかみにされるわけです。

つくばやま(筑波山)、ただ者ではありませんグッド



3.源重之の筑波山の歌

では、当時の平安貴族の常識でもあるらしい、この源重之の歌について、もう少し見ていきましょう。

源氏物語に『筑波山』の名が出る元となった源重之の歌

  筑波山 端山繁山しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり

は、『新古今和歌集』 第十一 戀歌一(文献2、3) にある歌です。

源重之は、平安時代中期の貴族・歌人で、三十六歌仙(※)の一人。
百人一首の48番『風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな』 を詠った歌人でもあります。

『筑波山 端山繁山しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり』
意味:『筑波山の端山(近くの小さな山)も、茂る樹々や草も、あなたを思う気持ちには、なんの障害にもなりません』


平安時代、遠い京の都の人にとっては、辺境の地の常陸国にある『山深い』イメージだったのは想像に難くない。

一方、『筑波山 つくばやま』は、古く万葉の時代から男女が集まる『かがい(歌垣)』の地=『恋の山』としても知られていました。
(平安時代の更に昔、奈良時代に編纂された万葉集に、筑波山は、25首、歌に詠まれていますちょき

キラキラ筑波山は、『恋の山』としてのイマジネーションを掻き立てられる地名(歌枕)の地。キラキラ 

だから『草木が茂っていても、山深くても、恋の道には何の障害にもならない』
と、三十六歌仙にも選ばれている源重之にも詠われたのでしょうハート

それゆえ、当時の貴族の超~人気小説『源氏物語』にも、引歌として『筑波山』を歌う和歌が引用されたのでしょう。

源氏物語に『筑波山』の名が出てくる事実は、もっと知られるべきです!

 ※ ちなみに、筑波山神社にも三十六歌仙の額があります♪
   狩野采女(後の 狩野探幽)画。三十六歌仙のうち34人の歌仙の絵図が残っています。
   そこにも源重之の姿絵もあります。

実はこの歌、本ブログでも多く引用している、江戸時代中期に書かれたガイドブック『筑波山名跡誌』の最初にも、紹介されています。 
つまり、昔から教養人には知られた歌だった。
だから、現代でも、もっと知られても良い歌ですよね。


なお、 「つくばやま はやましげやま しげけれど」 の描く情景ですが、
私は、これは、国府のあった石岡から八郷を越えて、筑波山中腹あたりにあったかがいの地(裳萩津)に行く時の景色ではないかと思います。

つまり、「はやましげやま」は、石岡市八郷地区の山並みではないかと、私は個人的に思っています。

(写真は、八郷地区、茨城県フラワーパーク付近の景色。2016年11月撮影)




八郷地区から筑波山を望む。2016年11月撮影









後編は、源重之の筑波山の歌の本歌かもしれない?歌 のことや、
源氏物語が書かれた時代の、筑波山麓の様子など、見ていきますにこにこ

次回につづく
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)



**********************************************

【参考文献】


1.「源氏物語 七」 新潮日本古典集成<新装版> i石田穣二・清水好子 校注 新潮社

2.「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店

3.「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社

「日本国語大辞典」 第2板 9巻 小学館

「古事類苑 樂舞部 一」 吉川弘文館 

豆電球 古事類苑については、国際日本文化研究センターのWEBサイトのデータベースのページ
   http://db.nichibun.ac.jp/pc1/ja/
  で全文を見ることが出来ます。








  

筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説


****************************
昔話・伝説関係の話題を書く時に、私のモットーとして、
 ★なるべく文献にあたる。
 ★可能な限り、現地に行く。
を心がけていますが、この新型コロナウィルス禍で、図書館は閉館して書籍に当たれず、
外出もままならない状況です汗

でもせっかく家にいる時間も多いことですし、手持ちの書籍と、信用できそうなインターネットのサイトを使って、調べていこうと思います。

新型コロナウィルス禍が収まり、図書館の本も読めたり、現地に行ったりして、
新しいことが分かりましたら、随時、修正・更新するということにします笑

****************************

さて、前回までは、蚕影山神社にまつわる信仰の話を書きました。

豆電球蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議

豆電球つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 

有名な『金色姫伝説』に触れましたが、蚕影山神社及び神郡に関わる伝説として、
もう一つ『和気広虫伝説』があります(文献1)。

和気広虫は奈良時代の人。
奈良時代の有名な怪僧 弓削道鏡の天敵? 和気清麻呂のお姉さんで女官として孝謙上皇に仕えていました。
(Wikipediaより)
大変慈悲深い人キラキラで、多くの孤児を養育したと伝えられています。

神郡に伝わる伝説は、和気広虫に直接関わる伝説ではなく、和気広虫に育てられた孤児が大人になって、この神郡に住んだことが発端の伝説ですが、とても興味深いのです。グッド


神郡地区に伝わる和気広虫伝説
【あらすじ】
 参考:文献1 『筑波歴史散歩』(宮本宣一 著)

和気広虫に育てられた孤児の一人が、瓦職人になって常陸国へ来て、
新治郡カワラエ村で石岡国分寺の瓦や北条中台の国分寺級の瓦を焼いていた。
筑波のふもとの娘を妻にし、神郡に移り住んで、瓦を焼く技術を土地の人に伝えた。
そして、自分を育ててくれた広虫を偲んで、近くの山に広虫の姿を祀り、拝んでいた。
広虫に育てられた『子』が広虫の姿『御影』を拝むので、その山は『コカゲ山』と呼ばれるようになった。
また、広虫(ヒロムシ)の『虫』から、子供の虫封じや、蚕の虫除けに効くとされてきた。
 ※『蚕を守る』のでなく、『蚕の虫除け』は何を指すのか不明ですが・・・。



● 新治郡カワラエ村はどこ?

伝わる伝説の時代は奈良後期から平安時代初頭。
当時の『新治郡』は古代『新治郡』(今の筑西市あたり)です。
しかし時代を経て人々が近代・現代まで口頭で伝えた話であること、
『常陸国分寺の瓦を焼いた』と具体的に伝わっていることもあり、常陸国府(今の石岡市)に近いと考えられるので、
この物語の『新治郡』は、やはり近代の『新治郡』を指すと考えて良いでしょう。

事実、旧新治郡八郷町(現 石岡市)には、『瓦会(かわらえ)村』がかつて実在しました。

 参考: 石岡市HP『市の概要』
   
地図で確認すると、字名に『瓦会』はないようですが、石岡市瓦谷に、
瓦会小学校、瓦会郵便局、瓦会地区多目的研修センターがあり、『瓦会』の地名がついています。

更に!そのすぐ近くに瓦塚窯跡があり、石岡の国分寺の瓦はここで焼かれていたとのこと!

 参考: 石岡市HP 『瓦塚窯跡』
    https://www.city.ishioka.lg.jp/page/page004833.html

    茨城県教育委員会HP『瓦塚窯跡』
    
上記の石岡市HPによると、
 『瓦塚窯跡は、主に奈良時代の天平13年(741)、常陸国府(現在の石岡市国府周辺)に
 国分寺・国分尼寺等が建立された際に、その屋根に葺く瓦類を製造した窯跡です。
 昭和12年(1937)に茨城県の史跡に指定されました


そして、上記の茨城県教育委員会HPによると、
 『瓦塚窯跡は、古代常陸国の窯跡である。昭和43年以降の 調査により、
 南北130m、​東西80mの範囲に合計35基の窯が築かれたことが判明した。
 操業は7世紀前葉から10​世紀前葉に及ぶ。 窯構造は大半が地下式窖窯(あながま)である

 
とのこと。

瓦塚窯跡の住所は石岡市部原604番地1で、地図で確認する瓦谷に隣接する場所で、近くに瓦会小学校、瓦会郵便局があります。

地名も遺跡も一致するので、伝説の『カワラエ村』は旧瓦会村(現在の石岡市瓦谷地区とその周辺)として良いのではないでしょうか。
すごい!びっくり



瓦塚窯跡から南西方向へ2kmほど離れた場所にある、『佐久の大杉』(2015年5月撮影)
茨城県の指定天然記念物で、樹齢は推定1300年以上!

コロナ禍が収まったら、瓦塚窯跡を訪ねたいです。
その時はこのブログでまた紹介します笑







こちらは、瓦塚窯跡から南西方向へ3kmほど離れた場所にある丸山古墳にほど近い恋瀬川付近(2015年5月撮影)

ちなみに、この『丸山古墳』については、以前書いた記事も良かったら。
 → 茨城県最古級!‐丸山古墳(石岡・八郷) に行ってきました。






●神郡地区は、近年まで瓦の製造が盛んだった


神郡の町並み(2018年4月撮影)

文献2(すそみろく 第9号)の『瓦の灯りプロムナード 田井の瓦屋さんと子どもたち』という記事に興味深い話が載っています。
それによると、
神郡がある田井地区、昔から瓦作りが盛んな土地だったとのこと。
・すぐそばを流れる逆川沿いに堆積した土は、瓦作りに適していたとのこと。


瓦作りに適した粘土が取れたという逆川


すごいキラキラ
ここまでみごとに、伝説と実際の場所が一致しているのも珍しいですよね!!!?

当時、本当に瓦職人の人が奈良から、はるばる常陸国の瓦会村に行き、実際、常陸国国府(今の石岡市)の国分寺・国分尼寺の
瓦を焼いたのかもしれませんね。




蚕影山周辺を望む(2018年4月撮影)

瓦職人になった彼は、自分を育ててくれた広虫の姿を山の中に祀って朝夕にお参りしたことから、
子が(育ててくれた人の)御影を拝む山→ こかげ山 と呼ばれようになる。
その『広虫』の『虫』から、やがて、子供の疳の虫(広虫が孤児を育てたということで、子供の神様になったか?)
や、絹を取るための蚕の守り神として信仰されるようになった → 『蚕影(こかげ)山』

という話。

私はかなり納得出来る話に思います!笑


蚕影山神社鳥居から、拝殿方向を撮る(2019年3月撮影)

金色姫伝説は、どうも江戸時代に入って広く流布したらしい(以前書いた記事参照)、比較的新しい伝説のようです。
金色姫伝説が流布するずっと前から、蚕影山には、素朴な『広虫』信仰があったと考える方が、納得出来ませんか?

古代の民衆史を読むようですキラキラ

ドラマに出来そうではありませんか!豆電球


● 奈良時代、カワラエ村で瓦を焼いていた職人は、どうやって神郡の娘と夫婦になったのか?

そして個人的に知りたいのは、どうやって神郡の女性と知り合ったか?ということ。


ここからは私の妄想ですが、やはり万葉集にもたくさん歌われる有名な古代の筑波山の『かがい(嬥歌)』が、
出会いの場だったりしたのではないでしょうか♪ハート
今で言う合コンですから(^^)

しかも、万葉集に歌われる『あじくま山』は蚕影山に比定されるとのこと(以前書いた記事つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』 参照)。

いろんなことが見事に結びついて、なんだかワクワクしますね♪
うーん、やっぱり、筑波山地域を舞台にした、古代の民衆のドラマになりますよグッド



『かがい(嬥歌)』が行われた場所の有力な候補地 夫女が原にある『夫女石』
(2017年撮影)
神郡からほど近い場所にあります。
夫女が原は、現在は、つくば市の研修・宿泊施設 『筑波ふれあいの里』の敷地になっています。

なお、『かがい(嬥歌)』に関連した話題については、以前書いた記事も良かったら♪
 → 豆電球つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』

   豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (3)夫女之原、夫女石




●和気広虫は、徳一上人とも繋がる!?

奈良時代後期、筑波山に寺を開創した徳一上人は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子と伝わります。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こして、一族もろとも死罪になりますが、
子供達のうち、まだ乳飲み子のだった下の二人は死罪を免れ、
その助命に奔走したのが和気広虫で、乳飲み子の一人が後の徳一上人になったそう(文献3)

徳一上人が藤原仲麻呂の子だというのは、『後世の付会』で『出自は不明というしかない』(文献4)とも言います。

ただ、もし一般に言われているように、徳一上人が藤原仲麻呂の子だとすると、ちょっと面白い人物相関図が見えてきます。



和気広虫の弟の和気清麻呂は、有名な宇佐八幡宮神託事件で弓削道鏡と対立し、孝謙天皇から名前を汚い名前に変えられた上に、
流刑になりますが、女官だった和気広虫も一緒に、やはり名前を変えられて流刑になります(二人とも天皇が代わった時に復帰)。
※この「名前を変える」という行為も、古代の言霊信仰にも関わるのか、とても興味深いのですが、ここでは触れません。

一方、徳一上人の父と言われる藤原仲麻呂も、恵美押勝と良い名前を貰えるくらい孝謙天皇に重用されますが、
結局、弓削道鏡が現れて、孝謙・道鏡と対立、これまた有名な藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こして負けて死罪。
子供達も全員死罪になるところを、「必ず僧侶にする」を条件に、まだ幼かった下の二人の助命に奔走したのが和気広虫(文献2)。

たくさんの孤児を養育したり、謀反人の幼い子供の助命嘆願をしたり、
和気広虫は、なんと慈愛深く、しかも行動力のある女性だったのでしょう
!!

私は一気に和気広虫のファンになりましたハート

そして蚕影山神社の始まりは、
和気広虫に育てられて、立派な瓦職人になった子どもが、広虫の像(御影)を山中に祀り、日々これにお参りした
という謂われに、個人的に一票入れますグッド

更に、徳一上人の生い立ちも和気広虫に関わるというならば、これは絶対に、筑波山麓舞台の古代民衆ドラマ作れちゃう♪
しかもかなり壮大な!。どなたか漫画で描いて下さいキラキラ


● おまけ:茨城県下に伝わる孝謙天皇・弓削道鏡伝説

和気広虫の人生に大きく関わった、孝謙天皇(称徳天皇)と弓削道鏡。

道鏡は失脚した後、下野国(今の栃木県)に流され、下野薬師寺の別当になりそこで亡くなります(文献5)。
そのせいか、茨城の特に県央の辺りは、弓削道鏡や道鏡を寵愛した考謙天皇の伝説が伝わっています(文献5、6、7)。

古代の有名なスキャンダルの二人なので、伝説の内容も、あることないこと含む大人な話題なのですが、なかなか興味深いので、機会があったら考察してみたいです。



--------------------------
【参考文献】

1.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著  日経事業出版センター

2.『すそみろく 第9号』 すそみろく編集委員会

3.『続 新治村の昔ばなし』 伊藤三雄 著 田宮郷土史研究会

4.『筑波町史 上』

5.『常陽藝文 2020年4月号』 常陽藝文センター

6.『茨城の史跡と伝説』 茨城新聞社編 暁印書館

7.『常陸の伝説』 藤田稔 編著 第一法規






  

蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議


筑波山南麓にある、蚕影山神社(蚕影神社 ※ここでは通称の『蚕影山神社』と呼びます)。
金色姫伝説が伝わる地です。

 豆電球前回までのお話
  → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 
金色姫伝説というのは、養蚕の始まりを伝える伝説です。
あらすじは、このページの最後にまとめました。

今回は、金色姫伝説をめぐり、蚕影山神社と、江戸時代まで蚕影山神社の近くにあった桑林寺について、注目していきます。


【謎:金色姫は蚕影山神社の祭神ではない?】


階段を上がった所が、蚕影山神社 拝殿。(2016年8月撮影)

前回 にも書きましたが、蚕影山神社の主祭神は、
稚産霊神(わかみむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまびめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

この三柱の神様は、いずれも神道系の神様です。
稚産霊神と埴山姫命は養蚕の神様で、木花開耶姫命は、織物の神様とされています(文献2)。

しかし伝説が伝わる『金色姫』は祭神ではありませんびっくり

また、蚕影山神社(蚕影神社)の信者が作る『蚕影講』では、掛けられる姿絵の神様は『蚕影明神』とされますが、
その蚕影明神も、現在の蚕影山神社の祭神には入っていませんびっくり

・・・そのあたりのナゾは、今は無き桑林寺にありそうです。
考えていきましょう。


【金色姫伝説はいつ頃からあったのか】

文献1によると、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の
『廿八社略縁誌巻之二』の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、
祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあるそうで、
『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に
飛んで行かれた話が書かれています。
更に同書には、社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』を上げているとのこと。
 ※『太夫之宮』の跡、『船之宮』の祠は、前回の記事をご参照下さい。

すると少なくとも、1797年頃には、金色姫伝説と同様の話が、蚕影山神社には伝わっていたのははっきりしていますね。
ただあくまでも伝説であって、祭神ではないよう? 
そしてまた、『金色姫』という名もこの頃はなかった??(特に名づけられてなかった?)ようですね。

なお『蚕影山明神』については、更に古い安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』の『蚕養(こかひ)山』の項で、
蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』とあり、
船に乗って来た神人が残していった玉を、里人が『蚕影明神』として崇め祀ったと記されています。
(この話のあらすじも後述します)

いわゆる金色姫伝説とは違う話の伝説です。

そして、現在の蚕影山神社の祭神には入っていない『蚕影山明神/蚕影明神』の名は、この時、既にありますね豆電球
ところで、祭神三座(稚産霊命・埴山姫命・開耶姫命)と『蚕影明神』とは別の神様のように読めるのですが、どうなんでしょう??


【桑林寺とは?】

前回も書きましたが、蚕影山神社の近くに江戸時代まで、『桑林寺』という寺院がありました。
『蚕影山吉祥院』と号したそうです(文献1)。

桑林寺は蚕影山神社の神宮寺(神様を守り神社を管理する寺、別当とも)で、
いうなれば、桑林寺と蚕影山神社は、二つでワンセットということになります。
(江戸時代までの神仏混淆信仰の頃は、この形態は一般的な形でした)

桑林寺は明治の時に、廃仏毀釈で廃寺となりました。
蚕影山神社から歩いて5分程度の所、館(たて)の集落の中に跡地があります。
跡地は今は竹林になっています。
(写真は 桑林寺跡地付近の竹林。2019年3月撮影)

江戸時代、桑林寺は、蚕影明神を養蚕の神として広く布教していったようです(文献1、2)

文献1によると、寛延四年(1751年)の資料より、桑林寺の創建は延宝(1673年~)年間以降から寛延元年(1748年)前後頃だろうとしています。
そして『18世紀後期、流布していた金色姫譚から蚕影神社縁起を創作したと考えられる』としています。

そして金色姫伝説を使って、蚕影山の蚕影明神を、蚕神として、布教していったようです。
そうして『金色姫=蚕影明神』になっていったのでしょう。

桑林寺は、江戸後期に『蚕影山縁起』を記し、更に内容が追加する形で、江戸末期 慶応元年(1865年)に『常州蚕影山略縁起』を記しています。
この慶応元年の『常州蚕影山略縁起』で、現在に伝わる金色姫伝説が完成したように思います。


【神様は混ざっていって・・・】

さて、養蚕に関わる信仰は複数の系統があり、大きく分けて、
・神道の蚕神
・仏教の蚕神
・民間信仰の蚕神

があります(文献1、2、3)。

どの信仰も共通なのは、
 1.蚕の生育祈願と良い絹が取れる祈願
 2.絹を得るために殺生したの蚕(さなぎ)の供養

側面があることです(文献1,2)。

特に、天候の影響(蚕の餌の桑の葉の生育に直結)や、ネズミの食害(蚕を食べてしまう)などにも合いやすく、養蚕は、管理も労力も大変にも関わらず不安定な労働。
だからこそ、ご利益がありそうな神や仏が習合したり、一緒に複数の神や仏をお祀りして祈る地域も多かったようです。

桑林寺は仏教の蚕神である『馬鳴(めみょう)菩薩』を本尊として取り入れていたらしい(文献2)とのこと。
桑林寺はお寺なので、仏教要素を入れて伝えたのは当然流れでしょう。

本来、菩薩に性別はないのですが、馬鳴菩薩は近世には女神として描かれることも多かったとのこと。
更に、養蚕に関わったのは主に農家の女性達だったので、女神や女性の姿の馬鳴菩薩がより信仰されていったようです(文献2,3)。

そして蚕影明神も、馬鳴菩薩の姿で描かれたり像が造られて、神仏混淆の形で各地で信仰が広まったいったようです。


【明治以降の蚕影山神社の興隆】

明治に入り、富国政策として外国との貿易が急速に発展し、絹糸、絹織物が日本の大きな輸出品となり、国内で養蚕業が大変盛んになっていきましたグッド
それに伴い、養蚕農家の中で、養蚕の神仏への信仰が盛んになっていきましたグッド

桑林寺は廃寺になりましたが、残った蚕影山神社(蚕影神社)は、関東甲信地域の養蚕を支える信仰の中心となり、分社もたくさん建立されました。
総本山の蚕影山神社も、昭和40年代頃までは参拝者が絶えなかった走ると云います。


写真は、蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社。(2013年3月撮影)

 豆電球この蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社については、以前書いた記事も良かったら。
 → 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係! http://cardamom.tsukuba.ch/e300925.html


しかし、化学繊維が普及し始め、安価な中国産の絹が入ってきたため、国内の養蚕農家も激減し、
蚕影山神社への参拝者も減っていきました。
今は、とてもひっそりした静けさに包まれています四つ葉のクローバー


写真は 養蚕の盛んな地域で今も続く繭玉。小正月の行事です。
つくば近郊では『ならせ餅』とも言います。
写真は2017年撮影の、2017個の巨大ならせ餅。 以下の記事もご参考まで♪
 豆電球どんど焼き と ならせ餅 2017







【なぜ蚕影神社と蚕影講の総本社 蚕影山神社に、蚕影明神像も金色姫像もないのか】

ここまで来て明らかなのは、やはり明治の廃仏毀釈で、桑林寺が廃寺になったのが大きいと思います。

『明神』というのは神仏習合の時代の 仏教的に呼んだ神の称号です。
神仏分離で、神社は仏教用語の『明神』を避けるようになりました。

ここ蚕影山山麓でも、桑林寺が廃寺となり、蚕影信仰の担い手は蚕影山神社になりました。
そうするとやはり、仏教系の『蚕影明神』の名はやはり言わなくなったのでしょう・・・ぶーっ

しかしながら民間の蚕影講では、昔から伝わっている蚕影明神の姿絵が祀られ(文献2,3,8)、一部の地方の蚕影神社にも、馬鳴菩薩に似た蚕影明神(金色姫)像(文献2)が信仰されているのだと思います。
つまり、各地の民間信仰では、蚕影明神(金色姫)信仰は、細々でも続いている!グッド

桑林寺が現存していたら、像なども残っていたでしょうが・・・う~ん、残念ですね泣

豆電球 金色姫=蚕影明神 の姿絵がご覧になりたい方は、下記の参考文献2,3,8 を ご参照下さい。 蚕影明神も含め、各地に伝わる蚕神の姿絵や像の写真があります。


********************


【金色姫伝説のあらすじ】

金色姫伝説は、いくつかのパターンがあり、同様の伝説が伝わっている地も国内で何か所かあります(文献1,2、3,4)。
が、金色姫の伝説の本拠地は筑波山麓の蚕影山とされるようです。

あらすじ:
 天竺の旧仲(きゅうちゅう)国のリンエ大王の娘の金色姫が、継母にいじめられ、4度の苦難に合う。
 不憫に思った王が、繭の形のような舟に乗せて海へ逃がし、その舟がついた地で権太夫(夫婦)に娘は育てられる。
 が、まもなくして金色姫は病気で死んでしまい、金色姫のなきがらは、絹糸を生む繭を作る白い虫になった。
 その虫を権太夫夫婦が育てる時に、虫の様子に変化があって困ると、夢枕に亡き金色姫が現れて知識を授けてくれ、虫を育てて繭を作ることが出来て、権太夫夫婦が養蚕の祖となる。
 その後、筑波山の影道仙人がやってきて、権太夫夫婦に、繭から糸を紡ぐ方法を教え、権太夫夫婦は金持ちになった。
 また、リンエ大王の娘が生まれ変わって欽明天皇の娘の各谷(かくや)姫となり、筑波山に飛んできて神衣を織り、また富士山に飛んでいった。

 ・『4度の苦難』=4回の脱皮   
 ・丸い舟に乗って海を渡る=繭
 ということで、蚕の一生を表しているのだそうです。


【蚕影山麓に伝わる別の伝説】

蚕影山神社には、いわゆる『金色姫伝説』とは違う系統の伝説も伝わります。

『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説(文献5)

 あらすじ:
 ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
 その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
 里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
 イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
 この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。


和気広虫(わけのひろむし)に関係する伝説(文献4)

  こちらはまた全く違う系統の話が伝わっています。
  和気広虫は、奈良時代、孝謙上皇に使えた女官で、和気清麻呂の姉。慈悲深く、たくさんの孤児を養育した人と伝わっています。
  和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託の事件で、孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛された道鏡に憎まれ、一度失脚し、姉の広虫も一緒に失脚します。
  が、その後二人とも復帰し、桓武天皇の時に重用されます。

  蚕影山には、その和気広虫その人の伝説というより、広虫に育てられた孤児が、瓦職人になって、蚕影山山麓の神郡に住んだ話が伝わります。

  あらすじ:
  広虫に育てられた孤児の一人が瓦職人になり、まず、新治郡カワラエ村に来て、(石岡の)国分寺や、北条 中台の寺の
  屋根瓦を焼く職人になりました。
  その後、神郡の娘を妻にし、神郡に住んで瓦を焼くようになりました。
  その職人は育ててくれた和気広虫を偲んで、近くの山の中に広虫の絵を祀って朝夕に拝んだので、子が影を拝むとのことで、
  その山は、こかげさん→蚕影山 と呼ばれるようになりました。

 豆電球 広虫伝説については、
 → 『筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説
で考察してみましたので、良かったら♪


********************


【おまけ:養蚕信仰の二大女神の中心は茨城県内に】

養蚕に関わる民間信仰で、茨城県内には大きな信仰の中心地が2つがありました。

桑林寺(=蚕影山神社・蚕影神社):蚕影明神(こかげみょうじん)
星福寺(=蚕霊神社(これいじんじゃ)):衣襲明神(きぬがさみょうじん)

ちなみに、衣襲明神も女神ですキラキラ

蚕影明神も衣襲明神も、寺による直接の布教活動の他、正月の縁起物(初絵)として配られたり、
蚕種(蚕の卵を産み付けた和紙)を売る業者が蚕の神仏の絵を一緒に配布したり、
薬売りの商人が、薬のおまけでそういった神仏の絵を配ったりしたそうで、
信仰が広まったようです(文献1,2,3)。

一種のアイドルや人気キャラクターのブロマイドみたいな感じでしょうか(こう書くと軽くなってしまいますが)。
しかもご利益があるかもしれない女神様のお姿。これは飾りたくなりますよねハート

関東甲信越地域の養蚕信仰の2大アイドル…いえ、二大女神(蚕影明神&衣襲明神)
の本拠地が二つとも茨城県にあるのは何か嬉しいです(^^)キラキラ

神栖の星福寺・蚕霊神社にも近いうちに行ってみたいです。

※また、もう一つ、日立市川尻の『養蚕(こかい)神社』を含む、常陸国の三つの蚕の神社と信仰については、
またあらためて書いていこうと思います。



***********************************
【参考文献】

1.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房

2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社

4.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター

5.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林

6. 『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行

7. 『筑波山麓フットパスマップ 神郡~六所~筑波』 マップ つくば市 発行

8.『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録



  

つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 


筑波山麓 神郡(かんごおり)地区は、養蚕信仰のメッカ蚕影山神社と金色姫伝説にちなむ祠がひっそりと佇むエリアです。

筑波山南麓にもつくば市が整備したフットパスがあり、詳しいルートの解説も書かれたフットパスマップも出ています。

豆電球筑波山麓フットパスマップは、つくば市HPからもダウンロード出来ますグッド
 → つくば市HP フットパスマップ https://www.city.tsukuba.lg.jp/kankobunka/kankojoho/annai/1001433.html    
 

その中のフットパスマップ『神郡~六所~筑波コース中の地図(文献1)を見ながら、養蚕信仰と伝説を伝える地を訪ねて歩いてみました。
※この記事の写真は、昨年2019年3月下旬に撮ったものです。


【金色姫の伝説がひっそりと息づく道】

 金色姫伝説というのは、養蚕にまつわる伝説です。蚕影山神社がその発祥の地とも言われています。
 金色姫伝説は、いくつかのパターンがあるようですが、
 このうち、金色姫を助けて育てた『権太夫』が出てくる伝説にちなむ祠や石造物が
 神社の付近に点在します。

 今回は、
 >蚕影山神社 → 春喜屋 → 権太夫の宮(跡) → 桑林寺(跡) → 船の宮 → 六所方面へ
 のルートでご案内します。

●蚕影山神社

  フットパスマップ(文献1)では、『蚕影神社(通称 蚕影山神社)』となっています。

  
関東甲信越地域に広く信仰され建立されている「蚕影神社」の総本社。
正式名称は「蚕影神社」でなくて、「蚕影山神社」だとも聞いたことがあります。
(本当はどっち?汗)。  
ちなみに御朱印は筑波山神社の社務所で頂けます。

写真を撮影した日(2019年3月28日)は、春の例大祭(蚕糸祭)の日で、たくさんの人が参拝に来られていました。
  




蚕影山神社本殿の屋根には、やはり 『蚕』 の文字が。

蚕影山神社の主祭神は、
稚産霊神(わかみむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまびめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

伝説が伝わる金色姫は、神社の祭神ではないのです・・・不思議。


  
10年程前までは、この絵馬堂(本殿の隣の建物)には、奉納された額などが掲げられていましたが、現在はありません(保護のためにどこかに保管されていると聞きました)。
奉納された額の中には、金色姫伝説の場面を描いたものもあったのも記憶しています。
確か、権太夫夫妻を描いた絵だったと思います。
(昔に撮った写真があるはずなのですが、見つからず汗

写真のように、今はがらんどうの絵馬堂。

また近年の台風の被害で境内に達するほどのがけ崩れがあり、一部立ち入り禁止の箇所があります。
・・・豪雨がある度にどんどん浸食されるようで、心配です汗


蚕影山神社は、蚕影山の中腹にありますが、この蚕影山、実は、『阿自久麻夜未(あじくまやま)』という名で、
万葉集にも歌われている山なのですキラキラ。 詳しくは以前書いた記事をご覧下さいにこにこ
 豆電球つくば市内 万葉集に詠われるもう一つの山 『あじくま山』



●春喜屋

 昭和中期ごろまで、旅館兼土産物屋だったとのこと。      

現在は、祭事の時などにお店を開かれているようです。
お店が開いている時は、お茶やお菓子、そして、蚕影山神社のお札もこちらで扱っておられますちょき。 レアものですねハート

写真奥が、蚕影山神社に上る階段で、写真向かって左の紅い壁の建物が、春喜屋さんです。  
写真を撮った日も、祭事の日だったので、お店を開けておられました。
お店の中は、時が止まったような、とても懐かしい雰囲気でしたハート




●タルの宮(跡)・権太夫の碑・


金色姫伝説で、流れついた金色姫は権太夫夫婦に育てられます。
その権太夫を祀る宮が、以前あったそうです。
文献2(『筑波歴史散歩』)にある『タルの宮』は、『太夫の宮』が訛ったものとのことで、同書にその『タルの宮』の写真があります。
地元の人から聞いた話だと、以前は塚のような土盛があって、その上にに藁葺屋根の社があったそうです。

ただ、その『タルの宮』は、火事で焼けてなくなってしまったとのこと泣
碑(?)もしくはご神体?は、地元のどなたかのお宅で保管されているとおっしゃっていました。

現在は、神郡児童館の建物脇にある灯籠のような石造物がある場所が、『タルの宮』の名残とのことのようです。

フットパスマップにある 『権太夫の碑』については、地図では、神郡児童館のお隣らしい建物(家?)にあるように見えますが、『碑』らしいものは見当たりません。
それで、先の話を伺った地元の方に聞くと、『碑』の場所というより、先に書いた『タルの宮(権太夫の宮?)』の話をされました。

なのでフットパスマップにある 『権太夫の”碑”』 らしいものは分かりませんでしたが、上の写真の場所が 『タルの宮跡』で間違いないと思います。




●桑林寺跡 

  
明治の廃仏毀釈で廃寺になりました。
桑林寺は蚕影山神社の神宮寺(神様を守る/神社を管理する寺)で、いうなれば、
桑林寺と蚕影山神社は、二つでワンセットでした。
(江戸時代までの神仏習合の頃は、この形態は一般的な形でした)
現在は竹林になっています。
特に看板もないので、フットパスマップの地図を見ないと、ここにお寺があったとは分かりません汗



 
蚕影山神社からスタートし、神郡児童館の前を歩いてちょっと先に、フットパスのこげ茶色ポールがある角を右に曲がると、道の突き当たりに、次のフットパスのポール(写真)が見えます。
このポールがある辺りの竹林が、桑林寺があった場所のようです。
  







●船の宮

 
伝説で金色姫が乗った船が漂着したとされる場所でしょうか。
小さな石の祠が、他の祠と並んで、逆川沿いの原っぱの奥にあります。
祠のそばの木は、桜かな?
春は満開の花で綺麗でしょうねハート





 

写真 向かって左の祠が『船ノ宮』、向かって右の祠が『稲荷宮』です。

船の宮も以前は少し違った場所にあったらしい(同じく地元の人の話)です。
元はどこにあったのか興味ありますが、多分、道の造成等でこちらに移されたのかもしれませんね(私の想像です)。

この辺り一帯は、縄文時代の遺跡もある所(文献3、4)。
つまり古代から人が住んでいた場所です。筑波山を目の前にして、川も流れ、穏やかな土地。
すごく分かる気がします。


【逆川を渡って六所へ】

逆川』を挟んで、向こう側は六所
 豆電球逆川については、以前書いた記事など 
  → 『シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (6) 酒香川』

六所のあたりは、金色姫伝説に関するものはありませんが、長閑な中にも、新しいものと古いものが共存しているのが面白いなぁと感じます。

●六所大仏



六所大仏は近年に安置されたもので、お参りする時、花崗岩の石像が輝いて回りの山々と青空に映えます。
写真の左奥の方に白く見える像が、六所大仏。

写真右側の木々は、逆川沿いのハナモモの木々。
ハナモモの花は、白、薄いピンク、濃いピンクなので、逆川は、ハナモモの季節は大変あでやかに彩られます。






この日も、少しずつ、ハナモモが咲き始めていました。








●ワイン用のブドウ畑


ブドウの枝を誘導するワイヤーが並びます。
盛りの菜の花に隠れていますが、選定されて春を待つブドウの木が並んでいます。

菜の花と、ワイン用ブドウ用のワイヤーと、背景の茅葺き屋根の古民家。
なかなか味わい深い組み合わせ笑

 豆電球つくば産のワインについては、以前書いた記事など、良かったら
 → 豆電球 『茨城こんなもの見つけた♪ (45) つくば産ワイン 3種』


●六所神社跡

六所神社は、明治以前はかなり大きな境内を持った神社だったそうで「馬場」などの小字名も残ります。
明治の頃に倒れた鳥居から、坂上田村麻呂が奉納した銅鏡が出てきたとも伝わります(文献)。
筑波山の御座替り祭では、昔は六所神社から出発したとのこと。
そんな由緒を持つ神社だったのに、敷地しか残っていないのは、大変もったいないですね…。
明治時代に廃社になり、現在は宗教団体が管理されているそうで、境内は凛としてきれいです。

4月になると、上に書いた逆川沿岸のハナモモ、つくばりんりんロード沿いの桜・八重桜が見ごろになり、
続く、ヤマザクラの季節は、この辺りの山々もヤマザクラが山を彩ります。
今年2020年は暖冬で、ヤマザクラの開花も平年より早そうですね。

そして4月下旬から5月上旬は、新緑田植えの苗で、爽やかで美しいに囲まれます。

秋、11月中旬から下旬は、蚕影山神社の紅葉も綺麗です。

古代から人が住み、伝説に彩られる静かな山間の道の散策。
是非、フットパスマップをダウンロードして歩いてみて下さい。
お勧めですグッド

★ 蚕影山神社及び桑林寺と養蚕信仰については、また後日改めて書きます。


*********************************
【参考文献】

1. 『筑波山麓フットパスマップ 神郡~六所~筑波』 マップ つくば市 発行

2. 『筑波歴史散歩』 宮本宣一著 日経事業出版センター

3. 『筑波町史 上』 筑波町史編纂委員会

4. 『つくば市遺跡地図』 つくば市教育委員会 







  

三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?


前回は、宝篋山に登山した報告を書きました。
 → 宝篋山登山 『常願寺コース』~『小田城コース』 を歩く


今回は、その宝篋山麓に伝わる狐の伝説について考えます。

東條という場所に住む狐がみな、不殺生界がある三村山に移住してきた
という伝説です。

伝説のネタ元は、鎌倉時代の僧侶 無住が書いた仏教の説法書『雑談集』にある以下の記述です(文献1,2より)。

常州三村山ハ板東ノ律院ノ根本トシテ本寺也。故良観上人結界シ、コトニ殺生禁断、昔ヨリモ、キビシク侍シ事、
東條ト云フ所ノ狐ネ共具シテ、聞及テ来ルヨシ、人ニ託シテカケリ


宝篋山は三村山とも呼ばれています。
中世の頃、宝篋山の麓には、三村山清冷院極楽寺という律宗の大きな寺がありました(文献1、3)。


写真は、三村山清冷院極楽寺跡の辺りを望む。
2020年1月撮影。










三村清冷寺極楽寺の想像図を掲載した説明板。
宝筺山小田休憩所の敷地にあります。
(文献3 『筑波町史 上』に載っている想像図の拡大板です)


上にある『良観上人』とは、鎌倉時代、奈良からこの極楽寺に来て10年ほど滞在した律宗の忍性上人のこと。
この山の辺りを『不殺生界』として結界し、結界石が今に残っています。

不殺生界』とは、文字通り『生き物の殺生を禁じるエリア』。
つまり、忍性上人が三村山(宝篋山)付近を、殺生を禁じるエリアとして結界したので、
東條と云う所に住んでいた狐達が、みんな三村山の方に移住してきた。

というお話です。

この話は、鎌倉時代後期の鎌倉時代後期の僧の無住道暁(一円)が書いた仏教説話集 『雑談集』(ぞうたんしゅう)巻九の
万物精霊事』 に書かれています。
無住は『沙石集』(しゃせきしゅう)という仏教説話集も記しました。

無住は、十代後半の頃に出家し、今の石岡市(旧八郷町)の宝薗寺(法音寺)で出家し、その後、今の土浦市(旧新治村)の東城寺、般若寺、
そして、今のつくば市の宝筺山麓にあった極楽寺で修業して回り、28歳ぐらいまで常陸国にいたようです(文献1、2、3)。
実際、手元にある『沙石集』(文献9)にも『常陸国の~』『常州の~』という話がいくつも書かれていて、
著書は当時の様子を語る貴重な資料となっています。

そして、無住は若い頃は律宗の僧であったようで、同時期に三村山清冷院極楽寺にいた忍性とも繋がります。


● 『東條という処に住む狐がみな、三村山に移住した』の意味

この一文はどういう状況を指しているのでしょうか。
生き物全ての殺生を禁じる結界ならば、狐以外の生き物も逃げてきても良さそうなものなのに、何故か『』だけ。

これについては文献2 では、『(狐たちが)人に託シテカケリ』を、『狐が人に取り憑いて語った = いわゆる 狐憑きの人 が語った』 といういことで、仏教者達が喜んで、この話を喧伝したのではないかとしています。
これは十分考えられることだと思います。


● 『東條』はどこか?

さて、無住が書いている『東條ト云フ所』とはどこか?

文献1(『中世の霞ヶ浦と律宗』)では、
『忍性の不殺生界によって、宝筺山東麓の東城寺周辺の狐が三村山に逃げてきたという。』
と解釈し、『東條』を『東城』として、『東城寺』としています。


東城寺は平安時代に天台宗の最仙が建てた古刹で、土浦市(旧新治村)にあります。
写真は東城寺境内(2020年2月撮影)。
境内の裏山に平安時代に遡る経塚があり、これは日本三大経塚の一つに数えられているとのこと(経塚にあったものは、現在、国立博物館蔵になっています!)

しかし私は、この見解に大変違和感を感じます

まず第一に、無住は若い頃、その東城寺にいて修行していたのです(文献1、2、4)。
その無住が、著書『雑談集』で、狐は『東條ト云フ所カラ』と書いています。

数年間住んでいてよく知っている場所なのに、『東條という所から』と、あたかも知らないような場所のように書くものでしょうか?
もし仮に『東條』=『東城=東城寺』ならば、そこに住んでいたことのある無住は『東條から』とはっきり書くのではないか。

『東城』と『東條』は読み方が『とうじょう』で同じですが、文献1『中世の霞ヶ浦と律宗』では、(隣接するエリアだからか?)何の説明もなしに『東條』=『東城=東城寺』と言い切ってます。
これは安易ではないかと。

なので、私は『東條』という別の土地ではないかと考えます。

そして可能性の一つとして、同じ内海(昔の霞ヶ浦水域)にある東条(東条荘)を指しているのではないかと考えます。


『東条』は現在の稲敷市の辺り(文献5,6,7,8)。
※『條』は『条』の古い字

写真は、稲敷市阿波に鎮座する大杉神社の近くに立つ、古い観光案内板(2013年撮影)。
【注意】 この写真辺りは平成の大合併前は『桜川村』でした。なお、 今の『桜川市』とは、全く違う離れた場所にあります。

筑波山南麓には桜川(紛らわしいですね汗)が通っていますので、舟の航行が盛んだった当時、霞ヶ浦~桜川を使って、『すぐ近く』の感覚で行き来できる場所です。

つまり、無住が書いている 『東條という所に住む狐がみな、三村山に移って来た』は、
同じ霞ヶ浦水域に接する 東条に住んでいる狐(=狐付きの呪術をする巫や巫女たち)が、
三村山に移住してきた(=三村山極楽寺の律宗に帰依した もしくは 極楽寺で出家した)
と読めるのではないかと思うのです。

以上から、私は、無住が書いている 『東條』は、『東条(荘)』(現在の稲敷市付近)ではないかと考えます。


写真は、稲敷市(旧桜川村)にある大杉神社。
『あんばさま』で知られている古刹。




・・・まあ所詮、伝説なので、あまり追及してもしょうがない部分もありますが汗、今回紹介した短い伝説の話にも、当時の常陸国南部の様子や、信徒獲得合戦?の様子が垣間見えて、とても興味深いですグッド




***********

● 筑波山麓から霞ヶ浦南岸のエリアで見え隠れする、『狐』伝説


さてここからは半分、私のファンタジーキラキラと云いますか、妄想です笑
ご興味ありましたら、お付き合いくださいハート


① 安倍晴明伝説

映画や小説でもブームになった平安時代の陰陽師 安倍晴明。
平安中期(西暦921~1005年頃)の人と伝わります。

安倍晴明の舞台は京都・大阪が有名ですが、実は、筑波山麓にも、安倍晴明伝説が伝わっています
筑西市市(旧 明野町)と、石岡市(旧八郷町)に、それぞれ『安倍晴明が生まれた地』と伝わる土地があります(筑西市ホームページ>安倍晴明伝説、文献11、12)。

晴明の母は『信太の狐』だったと言います。

信太』! … 信太郡を彷彿させますびっくり
そして、『』!びっくり


当時の信太郡は、今の美浦村~阿見町~土浦市南部あたりです。
(写真は、美浦村の陸平遺跡付近の霞ヶ浦沿岸から、筑波山を望む)

なので信太郡からは、霞ケ浦~桜川を通って、舟でも伝説の伝わる筑西市(旧明野町方面)に行けますし、
同様に、霞ケ浦を渡って高瀬川を通って、もう一つに伝説が伝わる石岡市(旧八郷町方面)にも行けます。

晴明のお母さんは、狐を使う巫術を使う巫女で、信太から筑波山方面に行って、そこで子をなして『晴明』を生んだとも想像できます。

安倍晴明は陰陽師でしたが、晴明その人そのものかは定かでないとしても、陰陽師的な民間信仰の祈祷師/巫術をする人は
当時たくさんいたはずです(文献2)。

…古くから、信太の地には、狐を使った巫術が盛んで、その巫女さんが、筑波山麓で子供を産み育て、その子供が、大人になって、祈祷師/巫術をする人として当時その地で名を馳せて、それが時代とともに安倍晴明とされたのかもしれません。
(私個人としては、あの安倍晴明その人が、筑波山麓で生まれ育ったと考える方が嬉しいですが)

信太郡は、平安後期、信太西条と信太東条に分かれます。
信太東条が、『東条』と呼ばれるようになったとのこと(文献8)

鎌倉中期から後期の人である無住の『雑談集』の記述
『東条(東條)という処の狐が、(不殺生界がある)三村山に移住してきた』
の背景にも繋がってくるようにも感じませんか♪ 


② 信太郡西条

次に東条に隣接した信太西条に注目します。
信太西条は、現在の美浦村、阿見町、土浦南部のエリア

信太西条は、平安時代末期、1151年平頼盛の母藤原宗子(池禅尼)が、信太郡西条(さいじょう)を美福門院得子に寄進して立荘しました。
その後に、美福門院の娘の八条院暲子(しょうし)に伝領され、八条院領となります(文献5,6,7,8)。

美福門院得子は鳥羽天皇の皇后で近衛天皇の生母ですが、いわゆる『九尾の狐』伝説に出てくる悪女 玉藻前のモデルとされている人です。

九尾の狐』伝説とは、
中国・朝鮮で悪事を働き世を乱した九尾の狐が、今度日本に渡っては玉藻前という美人になり、鳥羽天皇の寵姫となって世を乱し、
二人の武将に追われて下野国まで逃げ、今度は那須の殺生石になって毒気を吐いて、生き物を殺していたところ、
源翁上人に「げんのう」で割られて退治された

という話です。

 ちなみに物語の後半、殺生石に化けた九尾の狐を退治する玄翁和尚は、南北朝期の曹洞宗の僧侶。
 常陸国結城のお寺 にいて、その近くにはお墓もあります。

 豆電球玄翁和尚の話については、かなり以前書いた記事を良かったら♪
 → 『那須の殺生石を砕いた!源翁和尚』

伝説の時代背景は、平安後期から南北朝期。

そして、偶然か、ここにも『』が出てきて、『殺生石』の『殺生』という言葉が出てくる!びっくり

九尾の狐=玉藻前 のモデル美福門院の荘園だったのが信太西条で、東条(無住が書いていた「東條」の候補地)に隣接した地域。

つまり、

・筑波山麓(筑西市・旧明野町 及び 石岡市・旧八郷町)に伝わる、安倍晴明伝説。晴明の母は『信太の狐』
《平安時代中期》

・九尾の狐=玉藻前 のモデル美福門院の荘園だったのが、信太西条
《平安時代後期》

・無住の『雑談集』にある『東條という処の狐が、(不殺生界がある)三村山に逃げてきた』話。
 この「東條」は、(信太)東条である(これは私の説(^^))
 《鎌倉時代中期~後期》

信太』と『』、そして『殺生/不殺生』(と仏教の教え)が、チラチラ見え隠れしています!

…偶然か否かはわかりません。


鎌倉時代後期、『雑言集』『沙石集』を書いた無住道暁(一円)は、大変博学だったそうです。
Wikipediaによると
『臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、
真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』
とのこと。

九尾の狐伝説は、最後は、南北朝期の曹洞宗の僧侶 源翁和尚に退治されるので、伝説の完成時期は、
無住の生きていた時代よりずっと後になるかと思います。
しかし物語は二つに分かれていて、話の前半で玉藻前=九尾の狐を追う武士のモデルは上総介広常と三浦介義明で、ともに平安末期の武将。
だから、前半までの話(噂やゴシップ?)の骨子は、無住が生きていた当時、既にあったのかもしれないですよね(私の妄想です)。

博学だった無住の頭の中には、(当時多分流布しつつあったであろう)安倍晴明伝説も、九尾の狐伝説(噂)の知識も
があったのかも…とさらに妄想が膨らみます。

『雑言集』『沙石集』を書いた無住は、難しい仏教教理の他に、
世間のいろんな噂話や伝説にも詳しかったのではないでしょうか。

そしてやはり、伝説(多分に当時の噂やゴシップを含む)や仏教啓蒙書の話を深読みすると、
当時の民間信仰、修験道、陰陽道、仏教の各宗派の布教やら宗旨替えやら信者獲得の様相が見えてきて、
ニヤリとしてしまいます。

面白いですね♪グッド


***********************************************************

【参考文献】

1. 『中世の霞ヶ浦と律宗』 土浦市立博物館 企画展

2. 『死者の救済史:供養と憑依の宗教学』 池上良正 著 ちくま学術文庫 

3. 『筑波町史 上』

4. 『無住の見た風景を歩く-「沙石集」「雑談集」を手がかりとして-』 山田健二 著 茨城県高等学校教育研究会

5. 『里の国の中世 常陸・北下総の歴史世界』 網野善彦 平凡社ライブラリー

6. 『茨城県史 中世編』

7. 『常設展示解説 茨城の歴史をさぐる』 編集・発行 茨城県歴史館

8. 『角川日本地名大辞典 茨城県』

9. 『沙石集 上・下』 岩波文庫

10. 『大乗仏典 日本・中国篇 25 無住 虎関』 三木紀人・山田昭全 訳 中央公論社

11. 『常陽藝文 2001年1月号』 常陽藝文センター 発行

12. 『常陸の伝説』 藤田稔 編著 第一法規


【参考ホームページ】

1.筑西市ホームページ > 観光・文化・学び > 安倍晴明伝説 
  https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page001246.html




  

プロフィール
かるだ もん
かるだ もん
徒然なるままに、興味のあることを気ままに書いています。好きなことばは「中途半端も、たくさん集まればいっぱい!」(ドラマのセリフ)

地元つくばや茨城の話題を中心に、茨城の食材を使った家庭料理、民俗学もどき、国際交流、旅の話題など、趣味の記事を掲載中。

特に自分の勉強も兼ねて、
★民話・伝説紹介と、それにちなむ土地めぐり
★茨城を中心に、全国の郷土料理と食材(世界の料理も含む)の話題
の話題が多いです。

・ヒッポファミリークラブ(多言語自然習得活動と国際交流)
・観光ボランティア
・郷土食研究会うまかっぺ!茨城

別館: 夢うつつ湯治日記 https://note.com/carfamom/

オーナーへメッセージ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 30人
アクセスカウンタ
QRコード
QRCODE