2022年05月07日
つくば牡丹園2022
つくば牡丹園2022
先週4/30(土)に、つくば牡丹園に行ってきました。
朝9時の開園時に到着。

入り口には、開花状況の掲示が。
この日は
『ぼたん 1011株、しゃくやく 959株』
が開花とのこと。
ワクワク

世界最大級!の牡丹園
牡丹・芍薬、あわせて800種、約6万株あるというのは、すごいですよね。

『野うさぎに注意』の看板も
。
里山の自然もたっぷり満喫(^o^)v。
野うさぎ、見たいなぁ

見頃を迎えた牡丹の花々。
朝露に濡れて、花も葉も綺麗
なんて艶やかなんでしょう

よく見ると、花は一斉の同じ方向を向いていますね。
朝日の射す方向を向いているようです。
牡丹/芍薬の花も太陽の方を向くのかな。

つぼみが膨らみ初めている芍薬の花。
あと数日で開花かな
。

こちらの畑のシャクヤクも花茎を伸ばし、その先のつぼみがついています。
まだちょっとかための蕾ですが、多分GW開けぐらいから、この畑のシャクヤクの花々が咲き誇るのでしょうね
。

広い園内では、森林浴も楽しめるのも嬉しい。
朝の森林は、ことさら気持ちいいです。

園内ではスタンプラリーが行われていました。
入場料を払うと、スタンプラリーの台紙を渡されます。
台紙の後ろは『花コレクション2022』ということで、園内での代表的な牡丹と芍薬の花図鑑となっています。
園内の各所にあるスタンプ台でスタンプを押します。

スタンプ台
こちらは「かわせみ」の図柄のスタンプ。
園内では運が良いとカワセミも見られるとのこと。
カワセミも見たい!

園内から筑波山を望む。

スタンプを全部揃えてみたら、なんと特製!牡丹の絵はがきを頂きました。
(台紙1枚で、絵はがき1枚)
二人で行ったので、絵はがきも2枚(2種類)♪
写真の花の名も書かれていて、
大きな花の写真は、『牡丹 トリビュート』
群生する花の写真は、『牡丹 福雲』
とのこと。
嬉しいサプライズでした
またスタンプラリーの台紙自体もしっかりした紙質なので、園内の牡丹・芍薬の図鑑の側の面をポスターのように壁に貼って楽しめそうなのも嬉しい。
つくば牡丹園、今年2022年は、4月9日~5月25日までの開園とのことです。
先週4/30(土)に、つくば牡丹園に行ってきました。
朝9時の開園時に到着。
入り口には、開花状況の掲示が。
この日は
『ぼたん 1011株、しゃくやく 959株』
が開花とのこと。
ワクワク


世界最大級!の牡丹園

牡丹・芍薬、あわせて800種、約6万株あるというのは、すごいですよね。

『野うさぎに注意』の看板も

里山の自然もたっぷり満喫(^o^)v。
野うさぎ、見たいなぁ


見頃を迎えた牡丹の花々。
朝露に濡れて、花も葉も綺麗
なんて艶やかなんでしょう


よく見ると、花は一斉の同じ方向を向いていますね。
朝日の射す方向を向いているようです。
牡丹/芍薬の花も太陽の方を向くのかな。

つぼみが膨らみ初めている芍薬の花。
あと数日で開花かな


こちらの畑のシャクヤクも花茎を伸ばし、その先のつぼみがついています。
まだちょっとかための蕾ですが、多分GW開けぐらいから、この畑のシャクヤクの花々が咲き誇るのでしょうね


広い園内では、森林浴も楽しめるのも嬉しい。
朝の森林は、ことさら気持ちいいです。

園内ではスタンプラリーが行われていました。
入場料を払うと、スタンプラリーの台紙を渡されます。
台紙の後ろは『花コレクション2022』ということで、園内での代表的な牡丹と芍薬の花図鑑となっています。
園内の各所にあるスタンプ台でスタンプを押します。

スタンプ台
こちらは「かわせみ」の図柄のスタンプ。
園内では運が良いとカワセミも見られるとのこと。
カワセミも見たい!


園内から筑波山を望む。

スタンプを全部揃えてみたら、なんと特製!牡丹の絵はがきを頂きました。
(台紙1枚で、絵はがき1枚)
二人で行ったので、絵はがきも2枚(2種類)♪
写真の花の名も書かれていて、
大きな花の写真は、『牡丹 トリビュート』
群生する花の写真は、『牡丹 福雲』
とのこと。
嬉しいサプライズでした

またスタンプラリーの台紙自体もしっかりした紙質なので、園内の牡丹・芍薬の図鑑の側の面をポスターのように壁に貼って楽しめそうなのも嬉しい。
つくば牡丹園、今年2022年は、4月9日~5月25日までの開園とのことです。
2022年04月17日
2022年4月上旬 筑波山梅林の山桜
2022年4月上旬 筑波山梅林の山桜
4月に入り、里のソメイヨシノの季節が終わること、筑波山系は山桜の見頃を迎え始めます。
そして筑波山梅林も、山桜が見事になります。
2月~3月とはまた違う素晴らしい景色が見られます
ご参考までに、梅が美しい頃の、今年2022年の梅林の記事は、
→
梅の品種の掲示がスタート! 筑波山梅林2022
山桜に加え、山つつじ、山吹の木の花、足下にはニリンソウなどの山野草の花が咲き誇る、4月の筑波山梅林とその周辺
。

林道の脇の『見返り縁台』から見た4月上旬の筑波山梅林。
(2022年4月9日撮影)
咲き誇る山桜に囲まれて、本当に素晴らしい
。
梅の木々も新緑の葉が芽吹き始めています。

つくば市街地方面を望む。
写真では分かりませんが、向かいに見える山並み(蚕影山周辺や、その向こうに見える宝筺山周辺)でも、山桜が咲き始めています。

暖かい南向きの岩のそばのせいか、早くも見頃を迎えている山ツツジの大木も!
青空に、濃い朱色の山ツツジと、淡いピンク色の山桜と、芽生え始めた新緑のコントラスト
。

切り通しの花崗岩の上で咲く、山桜。

園内を散策。
新緑
と山桜を間近でも堪能。

隣接するフォレストアドベンチャー近くでは、足下で可憐なニリンソウの花がたくさん咲いています。

その近くで茂るキツネノカミソリの葉。
キツネノカミソリは春の今の時期、葉を茂らせて
、夏には葉がなくなり、その後に花茎だけが出てきて、オレンジ色のユリのような花を咲かせます。

梅林からちょっと歩くと満開の山吹の花も見られます。
(『筑波山四季の道』にて)
山間の中で、黄色い群生が、パアッと広がる姿も、春ですよね

春めいた景色に囲まれた、おもてなし館。
暖かいと、アイスクリームが食べたくなります♪

名残惜しみながら、4月上旬の筑波山梅林を後にしました。
5月の終わり頃からは、色とりどりのあじさいも楽しめます。
ご参考
→
筑波山梅林の紫陽花 2020
あじさいも楽しみです
4月に入り、里のソメイヨシノの季節が終わること、筑波山系は山桜の見頃を迎え始めます。
そして筑波山梅林も、山桜が見事になります。
2月~3月とはまた違う素晴らしい景色が見られます

ご参考までに、梅が美しい頃の、今年2022年の梅林の記事は、
→

山桜に加え、山つつじ、山吹の木の花、足下にはニリンソウなどの山野草の花が咲き誇る、4月の筑波山梅林とその周辺


林道の脇の『見返り縁台』から見た4月上旬の筑波山梅林。
(2022年4月9日撮影)
咲き誇る山桜に囲まれて、本当に素晴らしい

梅の木々も新緑の葉が芽吹き始めています。

つくば市街地方面を望む。
写真では分かりませんが、向かいに見える山並み(蚕影山周辺や、その向こうに見える宝筺山周辺)でも、山桜が咲き始めています。

暖かい南向きの岩のそばのせいか、早くも見頃を迎えている山ツツジの大木も!
青空に、濃い朱色の山ツツジと、淡いピンク色の山桜と、芽生え始めた新緑のコントラスト


切り通しの花崗岩の上で咲く、山桜。

園内を散策。
新緑

隣接するフォレストアドベンチャー近くでは、足下で可憐なニリンソウの花がたくさん咲いています。

その近くで茂るキツネノカミソリの葉。
キツネノカミソリは春の今の時期、葉を茂らせて

梅林からちょっと歩くと満開の山吹の花も見られます。
(『筑波山四季の道』にて)
山間の中で、黄色い群生が、パアッと広がる姿も、春ですよね


春めいた景色に囲まれた、おもてなし館。
暖かいと、アイスクリームが食べたくなります♪

名残惜しみながら、4月上旬の筑波山梅林を後にしました。
5月の終わり頃からは、色とりどりのあじさいも楽しめます。
ご参考
→

あじさいも楽しみです

2022年03月26日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
さて神栖市 蠶霊神社・星福寺の後編は、仏教系の養蚕信仰の『馬鳴菩薩』、そして星福寺の『衣襲(きぬがさ)明神』について、そして、この地における 金色姫信仰について、考えてみます。
【馬鳴菩薩とは】
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》)で、
養蚕の神には、神道系の神、仏教系の神、民間信仰の神に分けられる旨を書きました、
(文献1、2、3)。
また同じく前回、星福寺の山門前の石碑に、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
という一文がある旨に触れましたが、星福寺の御本尊の『蚕霊尊』は『馬鳴菩薩』の化身とのこと。
あまり見慣れない『馬鳴菩薩』という菩薩様のお名前、『馬鳴』は『まーめい』と読みます。
文献2②によると、『馬鳴』と呼ばれる仏教の尊者は2名いて、
(i) 紀元前5世紀頃の人 : 南天竺付近の馬国の人。菩薩がこの国で蚕の姿で現れて口から糸を出し衣を作った。
馬国の人々はそれを喜んで、馬のように鳴いたから『馬鳴菩薩』
(ii) 紀元後2世紀頃の人:中印度摩掲陀国の人。仏門に入り、著作もいくつかある。
とのこと。
馬鳴菩薩信仰が、いつ日本に伝来したかはっきりしたことは不明ですが、平安時代後期の天台宗比叡山の僧が記した書物に、馬鳴菩薩と蚕の関わりが書かれているとのこと(文献2②)。
それが中世になると、馬鳴菩薩信仰は、
(A) 中世の頃には蚕の神としての信仰ははっきりしていた(文献2①)
(B) 中世の頃は、鎌倉時代の書物から、戦い(合戦)を守護する仏と蚕を守護する仏としての信仰の2系統が
あり、中世の頃に『蚕の守護としての馬鳴菩薩』という信仰が盛んだったかどうかははっきりしない(文献2②)。
と、研究者に寄っても意見が分かれるようです。
しかし少なくとも、
・平安時代以降、日本の書物に馬鳴菩薩の名が出てくる。
・(当時まだ盛んで無くても)蚕の守護をする菩薩という信仰はあった。
ということは云えそうです。
【きぬがさ(絹笠・衣笠・襲衣)明神とは】
『きぬがさ明神』という神様も一般には聞き慣れないお名前ですが、養蚕の守り神としては重要な神様です。
神道系でも仏教系でもない、民間信仰の養蚕の神の一つです。
星福寺の石碑にはその名が見られない『きぬがさ明神』ではありますが、江戸時代以降この神栖の地から広まった養蚕信仰を考える上で、
外せない神様です。
『きぬがさ明神』の『きぬがさ』は、『絹笠』/『衣笠』/『襲衣』と書かれますが、『絹笠明神』という漢字表記が多いようです(文献1、2、3)。
文献2②によると、『絹笠明神』の総本山は滋賀県安土町の繖山蚕實寺(きぬがささんくわのみでら)で、
同書によると『養蚕の始まりは語るが、その後の発展については曖昧で確実性がない』とのこと。
また関東にどのように伝えられたかも明らかでないそうです。

その一方、関東の絹笠信仰の中心が星福寺(蚕霊山千手院星福寺)で、こちらについては、江戸時代の記録から信仰が広がっていった足跡が分かり、今も、群馬県を中心に『きぬがさ信仰』が残っています(文献1、2,3)。
(写真は、群馬県 咲前神社の境内にある絹笠神社。2019年7月撮影。拝殿には由緒書きが置かれ、『【御神徳】養蚕・子育て・安産 養蚕県群馬の中でも、碓氷・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られる。「蚕の神」というと「絹笠様」ということである。この神のことはよくわかっていない。』とことですが、いろいろ示唆を含む説明だと思います。拝殿前には、繭、絹糸と、白蛇の姿の絵馬が奉納されていました)
【星福寺の襲衣(きぬがさ)明神】
(以下文献1、2より)
時は文政十年(西暦1827年)の正月二十日夕方、江戸の版元 鶴屋喜右衛門が、戯作者の曲亭馬琴宅に年始に訪ねて来ました。
曲亭馬琴は滝沢馬琴の別名。あの南総里見八犬伝の作者です。
酒を飲みながら歓談していましたが、その折に喜右衛門は『蚕の祖神の像/衣笠明神』の絵を馬琴に渡し、
その絵に『賛』(絵の由来や絵を讃える一文)を書いてくれるよう依頼してきました。
そこで錦絵として世に出て広く広まったのが、『養蚕祖神衣襲明神真影』という図。
『賛』を書いた『曲亭陳人』はこれまた滝沢馬琴の別名。
この時、衣笠明神の『きぬがさ』に対して、その霊験から、馬琴は『衣を重ね着する=衣服に不自由しない』という意味の『衣襲』という字を当てたようです(文献2)
文献2、文献3にある写真を見ると、その姿絵は共通して、右手に蚕の種紙(卵が産み付けられた紙)、左手に桑の枝を持った、唐風の衣装の女神。多色刷りで色鮮やか
。まさに、錦絵です
衣装には、馬や蚕蛾や絹糸らしい模様もあります(時代により変化)。
馬琴が最初に賛を書いたオリジナルのものは不明とのことですが、おそらく似たデザインだったことでしょう。
今もお正月に『初絵』ということで七福神の絵など飾ることも多いかと思いますが、同じようにこの衣襲明神の絵も、正月にを飾る初絵として、人気を博したそうです
。
経緯は不明とのことですが、鶴屋喜右衛門は、鹿島神宮の近く(江戸から見たら近く)にある寺(『千手院』らしい)から、『衣笠明神』の姿絵を手に入れ、それの絵を元に、豪華な錦絵の版画を販売したようです。
元の絵はどういうものだったかも不明とのこと。
江戸時代のある時期から、千住院(現在の星福寺)は、順番は不明ながら、『馬鳴菩薩』、『金色姫』も取り入れ、
『蚕霊尊』(『蚕の祖神』か)、『衣笠明神(衣襲明神)』を習合して、養蚕の盛んな地方へ布教したようです。
(神栖地区は砂地が多く、桑の木が育ちにくいのか、養蚕は盛んでなかったようです)
いろんな神仏が混淆した、みごとな日本の民衆の信仰の例としても、大変興味深いです
。
【蚕霊神社・星福寺と金色姫の関係は?】
さていよいよ、金色姫譚とこの地の関係ですが、結論から言いますと、金色姫譚は後年になって神栖地域に入ってきたと言って良いと考えます。
上で見てきたように、星福寺が蚕を守護するとして本尊としたのは『蚕霊尊』。で、
『蚕霊尊』は、『馬鳴菩薩』とも『きぬがさ(衣襲)明神』とも混淆していますが、金色姫は全く出てきせん。
少なくとも、『衣襲明神』の絵姿が布教に使われるきっかけとなった文政十年(西暦1827年)では、『金色姫』の名は出てきません。
文献2①では、金色姫伝説がこの地で語られるようになったのは、『江戸時代のいつごろからか』としています。
私は、江戸時代もかなり後期、もしかすると明治に入った頃の可能性もあるように思っています。
布教先の地の多くの養蚕農家は、ほぼ女性。
蚕を育てる過酷な状況を乗り越える心の支えとして、いろんな神仏を信仰している。
しかも、養蚕の神仏の特徴は、共通点が女性の姿。
衣襲明神とも馬鳴菩薩とも、別の系統の金色姫も一緒に信仰していただろうことは想像に難くない。
星福寺(蚕霊神社)側も、はやりの『金色姫』も『導入』したけれど、寺としてはやはり金色姫譚は『よそ者』の信仰。
なので本堂では祀らず、『蚕霊神社』という社(いつ建立したか時期は不明)の神(蚕霊尊)とも関係する話として、金色姫譚を導入したのではないか・・・
私はそのように想像します。
また、神栖付近では、常陸国三蚕社の他の地域(つくば・日立)と違って、金色姫伝説にちなむはっきりとした地名や祠(跡)等が伝わっていないようですが、このことも、金色姫譚がこの地で定着していなかった傍証になるかと思います。
ちなみに、常陸国三蚕神社の他の2つ、つくば・蚕影山神社近くにも、日立・蚕養神社近くにも、金色姫譚にちなむ場所や地名が残ります。
★筑波山麓 蚕影山神社付近には、『船の宮』『太夫の宮(タルの宮)』の祠や祠跡。
以前書いた記事
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
★日立・蚕養神社の周辺には、現在は場所は不明のようですが、昭和初期に作られた和賛には、伝説にちなむ名所・地名が数多く歌われています。
以前書いた記事
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
さて、そういう観点も踏まえて、あらためて、神栖の地に伝わっている金色姫譚をみていきましょう。
神栖の地での金色姫譚を伝える(a)~(f) の6つの資料を比較しましたが、(d)以外は本当におおまかなあらすじだけの記載です。
(d)は詳しく話を記載していますが、ストーリーはほぼ今まで見てきた金色姫譚と同じ。
特記すべきは、(a)〜(f) に共通しているのは、どれも繭から糸・布にしてそれが広まったところまでで話は終わっていることです。富士山云々の下りも全くありません。
また、登場人物の名前などは微妙に違ってはいますので、それだけ抜き出しますと、
(a) 文献4に掲載の『金色姫の伝説』
・金色姫の父:なし
・金色姫を助けて、『姫の生まれ変わり』の白い虫を育てた人:日川の権太夫夫婦
・繭から糸と真綿を作ることを教えた人:一人の仙人(名前なし)

(b) 星福寺の石碑にある登場人物:
・金色姫の父:大王(名前不明)
・金色姫を助けて『蚕化した』姫を育てた人:漁士の黒塚権太夫
・繭を糸や布にすることを教えた人:(景凡)道仙人 ※(景凡)は偏が「景」旁が「凡」。読みは『ホン』か?

(c) 蚕霊神社にある神栖市教育委員会による看板にある登場人物:
・金色姫の父:天竺の霖夷国の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった金色姫から変わった虫を育てた人:
・繭を糸や布にすることを教えた人:不明(記載なし)
(d) 文献5より((b)にある署名の人と作者は同じ)登場人物:
・金色姫の父:印度の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった姫の身体にわいた虫を育てた人:日川の漁夫 権太(権太夫の写植ミスか?)、もしくは権太夫夫妻
・繭を糸や布にすることを教えた人:権太夫夫妻の夢に出てきた老人(名前不明)
(e) 文献6の『蚕霊神社』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:記載なし (※『金色姫』の名もなし。『古某邦渠曾の女』とだけ記載)
・金色姫を助けた人:漁師 青塚権太夫
・繭を糸・布にすることを教えた人:記載なし
(f) 文献7の『星福寺』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:中国の輪廻大王
・金色姫を育てた人:漁師の青塚梶太夫 (※『梶』は『権』の誤植か?)
・『糸を綿にすること』を教えた人:星福寺の住職であった法道上人
登場人物の名前などが微妙に違うのが、なかなか興味深いです
。
そして、先にも書きましたが、どの話にも、富士山の話は出てきません。
富士山信仰は修験道などにも絡むので、宗派・思想的に相容れず、カットしたのかもしれませんね。
(そう読むと、また別の観点で興味深いです
)
現実的に、神栖・日川付近について地形を考えると、海洋から何かが流れ着くとしても外洋側の海岸でしょう。神栖・日川付近は内海か、海から川を遡るような土地に位置します。
漕ぎ手のいる船なら分かりますが、漂着物が川の遡るように何かが流れ着くというのは、伝説とはいえ、やはり正直無理があります
。
そういった訳で、金色姫譚がもし常陸国で生まれ育ったとしても、神栖の土地ではなさそうです・・・
。
【『利根川図志』には星福寺(千住院)の記載は無い】
江戸時代末期、安政2年(1855年)に完成した『利根川図志』という書物があります(文献8)。
利根川の中流~下流域の名所・見どころなどを細かく記録した、今でいう観光ガイドブック
。
図も多くて当時のことがよく分かる書物です。
江戸時代、『千手院』と呼ばれていたという星福寺ですが、この利根川図志では、星福寺の名も千手院の名も出てきませんし、衣襲明神についても何も触れられていません。
養蚕の神仏で有名だったお寺ですから、当然詣でる人も多そうですし、
文政十年(西暦1827年)の頃、当代きっての戯曲作家の曲亭馬琴によって描かれた衣襲明神の絵図もそれなりに人気を博したでしょうから、
それから、20年以上経った頃に書かれたガイドブックである利根川図志には、それなりに何か触れられていても良さそうなのですが。
もしかすると、この地ではそれほど有名な寺ではなかったのでしょうか?
江戸時代、人気だった東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)詣り。
その一つの息栖神社は、この近くですが、これは当然、利根川図志で触れられています。
しかし、千住院(星福寺)の名は出てきません。
利根川図志は、結構細かい見どころも書かれているガイドブックで、『○○堂』『○○明神』『○○石』など、地元の人の
信仰を集めているらしいローカルな寺社や信仰物も、逸話なども交えて書かれています。
なのに千住院の名は出てこない・・・残念ですが、これが意味するのは、地元の人から特に篤い信仰はなかったのでなないか?
疑惑です。
神栖のあたりは砂地で桑が生育しにくく、もともと養蚕もあまり盛んではなかったと云います。
地元で養蚕が盛んでないので地元の信者が少なく、従って地元ではその名が知られていなかったため、
利根川図志にも書かれていなかった(一般の参拝者はいなかった)。
(そもそも養蚕の盛んでない土地で、養蚕信仰を掲げた千住院(星福寺)も、不思議といえば不思議)
千住院は、蚕の守護神仏の御利益を掲げて、養蚕の盛んでない地元でなく、遠方へ布教活動をしたのではないか。
そして、養蚕農家ある遠方の地では、当時の流行作家、曲亭馬琴=滝沢馬琴 の賛が書かれた衣襲(きぬがさ)明神の姿絵も出回り、
、千住院(星福寺)の神仏も信仰されて有名になった。
けれども養蚕の盛んでない地元では、あまり知られた寺院ではなかった。
・・・という状況が考えられるように、私は思っています。
ただよく考えてみると、このような土地で、江戸時代頃からか、星福寺(千住院)が蚕の神仏として、外部へ布教を精力的に
始め、明治の頃の養蚕業の振興の風に乗って、遠くの土地の信者が増えていったという経緯は大変面白い
です。
しかも、当時の流行作家、滝沢(曲亭)馬琴が、今で言うコピーライターとなって、売り出し文句(賛)と、
アイキャッチばっちりな漢字(『きぬがさ明神』に『衣襲明神』の字) が書かれた、明神の絵姿(ポスター)が広く配布された。
・・・その手法もいきさつも大変興味深い。
また、この土地の利として注目すべきは、利根川です
。
星福寺(千手院)は、利根川に接する地にあります
。

船運の盛んな利根川を、船で上流に向かえば、養蚕の盛んな群馬方面に布教に行くのはどこの土地よりも容易
。
これは、この神栖の土地ならではです
金色姫譚の伝説の地としては残念ではありますが、利根川の船運をも利用した、『現代的な宣伝戦略発祥の地』!?として考えると興味深い面白いのが、神栖の蚕霊神社・星福寺ではないでしょうか
。
(写真は利根川に架かる橋から筑波山方面を望む。 2022年1月初旬撮影)
【おまけ1: 神栖近くにある『豊浦』の地名がある?】
さて、本当に、この地に、金色姫譚を伝える地名はないのか、少し範囲を広げて調べてみました。
すると神栖市ではありませんが、星福寺から5キロほど離れた利根川の向こう岸、千葉県香取市に『豊浦』の地名が残っているのが分かりました
。
ここは、昔、豊浦村という村があったところです。
ところで、この地は、『常陸国』でなくて『下総国』ではあります。
しかし現在の利根川、江戸時代の治水工事前は鬼怒川が流れ、霞ケ浦(当時は内海)に流れ込むあたりは、
川の氾濫があるたびに、川の流れも変わり、常陸国と下総国の国境はあいまいだったと考えられます。
文献9によると、この豊浦村は養蚕が盛んだったとのこと。
しかし『豊浦』の名は、5つの村が合併した時に、良い名をということで『豊浦』の名が付けられたとのことで、
残念ながら、金色姫譚に出てくる『豊浦』とは関係なさそうです
。
下総国だけど国境があいまいだったので、常陸国として外部に伝わった…とすると、話は面白いのですが・・・。
現在調べている範囲では、千葉県(下総国)ではどうも、金色姫譚のような伝説はなく、信仰もなかったようなのです
。
やはり、残念ながら、利根川の下流や河口付近が金色姫伝説の発祥の地とするのは無理がありそうです
。
【おまけ2:「息栖神社」の元の名は「於岐津説神社」だが】

東国三社の一つ、神栖の『息栖神社』は、中世の頃『於岐津説神社』と呼ばれていました(文献10)。
(写真は息栖神社の前にある、忍井。2022年1月初旬撮影)
そして、日立・川尻の蠶養神社の昔の名前も『於岐津説神社』ですが、江戸時代は『津神社』とも記録にあります。
詳細 → 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
ところで『津神社』という名のお社は、日立市川尻地区だけでなく、茨城県の海岸沿いに散見されます。
『於岐津説(おきつせ)』 → 『沖つ瀬』=沖にある瀬 ということで、
沖にある瀬を神格化して、船の航行安全や豊漁を祈ったのだろうと思われます。
そして息栖神社の祭神の『くなど神』も、船の交通・安全航行の神。
安全航行の神や豊漁の神として、海岸線沿いで勧請され祀られていったのが『於岐津説』ではないでしょうか。
または、そういった信仰対象をまとめて、いつの頃からか『於岐津説』と呼ぶようになったか。
同じ名前で気になりますが、日立の於岐津説神社(現在の蚕養神社)と、神栖の於岐津説神社(現在の息栖神社)
には、養蚕信仰の地としての関係(金色姫譚の繋がり的なもの)はないのではないかと、私は考えます。
以上で、常陸国三蚕神社の2つ目、神栖の蚕霊神社/星福寺 と 金色姫譚の関係については、ひとまず筆を納めます。
次回は、常陸国三蚕神社の3つ目、つくば・神郡の 蚕影山神社(蚕影神社)です。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
******************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
この中の解説 ① 『養蚕の神々』 阪本英一
② 『馬鳴菩薩の信仰』 生駒哲郎
③ 『蚕神信仰に関する一考察』 佐野亨介
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
8.『利根川図志』 赤松宗旦 著 柳田国男 校訂 岩波文庫
9,『千葉県香取郡史』(復刻版)千葉県香取郡役所 編纂 臨川書店 発行
10.『神栖町史 上巻』 神栖町史編さん委員会 編著 神栖町 発行
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話







物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

さて神栖市 蠶霊神社・星福寺の後編は、仏教系の養蚕信仰の『馬鳴菩薩』、そして星福寺の『衣襲(きぬがさ)明神』について、そして、この地における 金色姫信仰について、考えてみます。
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蚕霊神社 | 星福寺 |
【馬鳴菩薩とは】
前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》)で、
養蚕の神には、神道系の神、仏教系の神、民間信仰の神に分けられる旨を書きました、
(文献1、2、3)。
また同じく前回、星福寺の山門前の石碑に、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
という一文がある旨に触れましたが、星福寺の御本尊の『蚕霊尊』は『馬鳴菩薩』の化身とのこと。
あまり見慣れない『馬鳴菩薩』という菩薩様のお名前、『馬鳴』は『まーめい』と読みます。
文献2②によると、『馬鳴』と呼ばれる仏教の尊者は2名いて、
(i) 紀元前5世紀頃の人 : 南天竺付近の馬国の人。菩薩がこの国で蚕の姿で現れて口から糸を出し衣を作った。
馬国の人々はそれを喜んで、馬のように鳴いたから『馬鳴菩薩』
(ii) 紀元後2世紀頃の人:中印度摩掲陀国の人。仏門に入り、著作もいくつかある。
とのこと。
馬鳴菩薩信仰が、いつ日本に伝来したかはっきりしたことは不明ですが、平安時代後期の天台宗比叡山の僧が記した書物に、馬鳴菩薩と蚕の関わりが書かれているとのこと(文献2②)。
それが中世になると、馬鳴菩薩信仰は、
(A) 中世の頃には蚕の神としての信仰ははっきりしていた(文献2①)
(B) 中世の頃は、鎌倉時代の書物から、戦い(合戦)を守護する仏と蚕を守護する仏としての信仰の2系統が
あり、中世の頃に『蚕の守護としての馬鳴菩薩』という信仰が盛んだったかどうかははっきりしない(文献2②)。
と、研究者に寄っても意見が分かれるようです。
しかし少なくとも、
・平安時代以降、日本の書物に馬鳴菩薩の名が出てくる。
・(当時まだ盛んで無くても)蚕の守護をする菩薩という信仰はあった。
ということは云えそうです。
【きぬがさ(絹笠・衣笠・襲衣)明神とは】
『きぬがさ明神』という神様も一般には聞き慣れないお名前ですが、養蚕の守り神としては重要な神様です。
神道系でも仏教系でもない、民間信仰の養蚕の神の一つです。
星福寺の石碑にはその名が見られない『きぬがさ明神』ではありますが、江戸時代以降この神栖の地から広まった養蚕信仰を考える上で、
外せない神様です。
『きぬがさ明神』の『きぬがさ』は、『絹笠』/『衣笠』/『襲衣』と書かれますが、『絹笠明神』という漢字表記が多いようです(文献1、2、3)。
文献2②によると、『絹笠明神』の総本山は滋賀県安土町の繖山蚕實寺(きぬがささんくわのみでら)で、
同書によると『養蚕の始まりは語るが、その後の発展については曖昧で確実性がない』とのこと。
また関東にどのように伝えられたかも明らかでないそうです。

その一方、関東の絹笠信仰の中心が星福寺(蚕霊山千手院星福寺)で、こちらについては、江戸時代の記録から信仰が広がっていった足跡が分かり、今も、群馬県を中心に『きぬがさ信仰』が残っています(文献1、2,3)。
(写真は、群馬県 咲前神社の境内にある絹笠神社。2019年7月撮影。拝殿には由緒書きが置かれ、『【御神徳】養蚕・子育て・安産 養蚕県群馬の中でも、碓氷・安中地方は特に養蚕の盛んな事で知られる。「蚕の神」というと「絹笠様」ということである。この神のことはよくわかっていない。』とことですが、いろいろ示唆を含む説明だと思います。拝殿前には、繭、絹糸と、白蛇の姿の絵馬が奉納されていました)
【星福寺の襲衣(きぬがさ)明神】
(以下文献1、2より)
時は文政十年(西暦1827年)の正月二十日夕方、江戸の版元 鶴屋喜右衛門が、戯作者の曲亭馬琴宅に年始に訪ねて来ました。
曲亭馬琴は滝沢馬琴の別名。あの南総里見八犬伝の作者です。
酒を飲みながら歓談していましたが、その折に喜右衛門は『蚕の祖神の像/衣笠明神』の絵を馬琴に渡し、
その絵に『賛』(絵の由来や絵を讃える一文)を書いてくれるよう依頼してきました。
そこで錦絵として世に出て広く広まったのが、『養蚕祖神衣襲明神真影』という図。
『賛』を書いた『曲亭陳人』はこれまた滝沢馬琴の別名。
この時、衣笠明神の『きぬがさ』に対して、その霊験から、馬琴は『衣を重ね着する=衣服に不自由しない』という意味の『衣襲』という字を当てたようです(文献2)
文献2、文献3にある写真を見ると、その姿絵は共通して、右手に蚕の種紙(卵が産み付けられた紙)、左手に桑の枝を持った、唐風の衣装の女神。多色刷りで色鮮やか


衣装には、馬や蚕蛾や絹糸らしい模様もあります(時代により変化)。
馬琴が最初に賛を書いたオリジナルのものは不明とのことですが、おそらく似たデザインだったことでしょう。
今もお正月に『初絵』ということで七福神の絵など飾ることも多いかと思いますが、同じようにこの衣襲明神の絵も、正月にを飾る初絵として、人気を博したそうです

経緯は不明とのことですが、鶴屋喜右衛門は、鹿島神宮の近く(江戸から見たら近く)にある寺(『千手院』らしい)から、『衣笠明神』の姿絵を手に入れ、それの絵を元に、豪華な錦絵の版画を販売したようです。
元の絵はどういうものだったかも不明とのこと。
江戸時代のある時期から、千住院(現在の星福寺)は、順番は不明ながら、『馬鳴菩薩』、『金色姫』も取り入れ、
『蚕霊尊』(『蚕の祖神』か)、『衣笠明神(衣襲明神)』を習合して、養蚕の盛んな地方へ布教したようです。
(神栖地区は砂地が多く、桑の木が育ちにくいのか、養蚕は盛んでなかったようです)
いろんな神仏が混淆した、みごとな日本の民衆の信仰の例としても、大変興味深いです

【蚕霊神社・星福寺と金色姫の関係は?】
さていよいよ、金色姫譚とこの地の関係ですが、結論から言いますと、金色姫譚は後年になって神栖地域に入ってきたと言って良いと考えます。
上で見てきたように、星福寺が蚕を守護するとして本尊としたのは『蚕霊尊』。で、
『蚕霊尊』は、『馬鳴菩薩』とも『きぬがさ(衣襲)明神』とも混淆していますが、金色姫は全く出てきせん。
少なくとも、『衣襲明神』の絵姿が布教に使われるきっかけとなった文政十年(西暦1827年)では、『金色姫』の名は出てきません。
文献2①では、金色姫伝説がこの地で語られるようになったのは、『江戸時代のいつごろからか』としています。
私は、江戸時代もかなり後期、もしかすると明治に入った頃の可能性もあるように思っています。
布教先の地の多くの養蚕農家は、ほぼ女性。
蚕を育てる過酷な状況を乗り越える心の支えとして、いろんな神仏を信仰している。
しかも、養蚕の神仏の特徴は、共通点が女性の姿。
衣襲明神とも馬鳴菩薩とも、別の系統の金色姫も一緒に信仰していただろうことは想像に難くない。
星福寺(蚕霊神社)側も、はやりの『金色姫』も『導入』したけれど、寺としてはやはり金色姫譚は『よそ者』の信仰。
なので本堂では祀らず、『蚕霊神社』という社(いつ建立したか時期は不明)の神(蚕霊尊)とも関係する話として、金色姫譚を導入したのではないか・・・
私はそのように想像します。
また、神栖付近では、常陸国三蚕社の他の地域(つくば・日立)と違って、金色姫伝説にちなむはっきりとした地名や祠(跡)等が伝わっていないようですが、このことも、金色姫譚がこの地で定着していなかった傍証になるかと思います。
ちなみに、常陸国三蚕神社の他の2つ、つくば・蚕影山神社近くにも、日立・蚕養神社近くにも、金色姫譚にちなむ場所や地名が残ります。
★筑波山麓 蚕影山神社付近には、『船の宮』『太夫の宮(タルの宮)』の祠や祠跡。

→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
★日立・蚕養神社の周辺には、現在は場所は不明のようですが、昭和初期に作られた和賛には、伝説にちなむ名所・地名が数多く歌われています。

→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
さて、そういう観点も踏まえて、あらためて、神栖の地に伝わっている金色姫譚をみていきましょう。
神栖の地での金色姫譚を伝える(a)~(f) の6つの資料を比較しましたが、(d)以外は本当におおまかなあらすじだけの記載です。
(d)は詳しく話を記載していますが、ストーリーはほぼ今まで見てきた金色姫譚と同じ。
特記すべきは、(a)〜(f) に共通しているのは、どれも繭から糸・布にしてそれが広まったところまでで話は終わっていることです。富士山云々の下りも全くありません。
また、登場人物の名前などは微妙に違ってはいますので、それだけ抜き出しますと、
(a) 文献4に掲載の『金色姫の伝説』
・金色姫の父:なし
・金色姫を助けて、『姫の生まれ変わり』の白い虫を育てた人:日川の権太夫夫婦
・繭から糸と真綿を作ることを教えた人:一人の仙人(名前なし)

(b) 星福寺の石碑にある登場人物:
・金色姫の父:大王(名前不明)
・金色姫を助けて『蚕化した』姫を育てた人:漁士の黒塚権太夫
・繭を糸や布にすることを教えた人:(景凡)道仙人 ※(景凡)は偏が「景」旁が「凡」。読みは『ホン』か?

(c) 蚕霊神社にある神栖市教育委員会による看板にある登場人物:
・金色姫の父:天竺の霖夷国の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった金色姫から変わった虫を育てた人:
・繭を糸や布にすることを教えた人:不明(記載なし)
(d) 文献5より((b)にある署名の人と作者は同じ)登場人物:
・金色姫の父:印度の霖光大王
・金色姫を助けて、亡くなった姫の身体にわいた虫を育てた人:日川の漁夫 権太(権太夫の写植ミスか?)、もしくは権太夫夫妻
・繭を糸や布にすることを教えた人:権太夫夫妻の夢に出てきた老人(名前不明)
(e) 文献6の『蚕霊神社』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:記載なし (※『金色姫』の名もなし。『古某邦渠曾の女』とだけ記載)
・金色姫を助けた人:漁師 青塚権太夫
・繭を糸・布にすることを教えた人:記載なし
(f) 文献7の『星福寺』の箇所で紹介されている話の登場人物:
・金色姫の父:中国の輪廻大王
・金色姫を育てた人:漁師の青塚梶太夫 (※『梶』は『権』の誤植か?)
・『糸を綿にすること』を教えた人:星福寺の住職であった法道上人
登場人物の名前などが微妙に違うのが、なかなか興味深いです

そして、先にも書きましたが、どの話にも、富士山の話は出てきません。
富士山信仰は修験道などにも絡むので、宗派・思想的に相容れず、カットしたのかもしれませんね。
(そう読むと、また別の観点で興味深いです

現実的に、神栖・日川付近について地形を考えると、海洋から何かが流れ着くとしても外洋側の海岸でしょう。神栖・日川付近は内海か、海から川を遡るような土地に位置します。
漕ぎ手のいる船なら分かりますが、漂着物が川の遡るように何かが流れ着くというのは、伝説とはいえ、やはり正直無理があります

そういった訳で、金色姫譚がもし常陸国で生まれ育ったとしても、神栖の土地ではなさそうです・・・

【『利根川図志』には星福寺(千住院)の記載は無い】
江戸時代末期、安政2年(1855年)に完成した『利根川図志』という書物があります(文献8)。
利根川の中流~下流域の名所・見どころなどを細かく記録した、今でいう観光ガイドブック

図も多くて当時のことがよく分かる書物です。
江戸時代、『千手院』と呼ばれていたという星福寺ですが、この利根川図志では、星福寺の名も千手院の名も出てきませんし、衣襲明神についても何も触れられていません。
養蚕の神仏で有名だったお寺ですから、当然詣でる人も多そうですし、
文政十年(西暦1827年)の頃、当代きっての戯曲作家の曲亭馬琴によって描かれた衣襲明神の絵図もそれなりに人気を博したでしょうから、
それから、20年以上経った頃に書かれたガイドブックである利根川図志には、それなりに何か触れられていても良さそうなのですが。
もしかすると、この地ではそれほど有名な寺ではなかったのでしょうか?
江戸時代、人気だった東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)詣り。
その一つの息栖神社は、この近くですが、これは当然、利根川図志で触れられています。
しかし、千住院(星福寺)の名は出てきません。
利根川図志は、結構細かい見どころも書かれているガイドブックで、『○○堂』『○○明神』『○○石』など、地元の人の
信仰を集めているらしいローカルな寺社や信仰物も、逸話なども交えて書かれています。
なのに千住院の名は出てこない・・・残念ですが、これが意味するのは、地元の人から特に篤い信仰はなかったのでなないか?

神栖のあたりは砂地で桑が生育しにくく、もともと養蚕もあまり盛んではなかったと云います。
地元で養蚕が盛んでないので地元の信者が少なく、従って地元ではその名が知られていなかったため、
利根川図志にも書かれていなかった(一般の参拝者はいなかった)。
(そもそも養蚕の盛んでない土地で、養蚕信仰を掲げた千住院(星福寺)も、不思議といえば不思議)
千住院は、蚕の守護神仏の御利益を掲げて、養蚕の盛んでない地元でなく、遠方へ布教活動をしたのではないか。
そして、養蚕農家ある遠方の地では、当時の流行作家、曲亭馬琴=滝沢馬琴 の賛が書かれた衣襲(きぬがさ)明神の姿絵も出回り、
、千住院(星福寺)の神仏も信仰されて有名になった。
けれども養蚕の盛んでない地元では、あまり知られた寺院ではなかった。
・・・という状況が考えられるように、私は思っています。
ただよく考えてみると、このような土地で、江戸時代頃からか、星福寺(千住院)が蚕の神仏として、外部へ布教を精力的に
始め、明治の頃の養蚕業の振興の風に乗って、遠くの土地の信者が増えていったという経緯は大変面白い

しかも、当時の流行作家、滝沢(曲亭)馬琴が、今で言うコピーライターとなって、売り出し文句(賛)と、
アイキャッチばっちりな漢字(『きぬがさ明神』に『衣襲明神』の字) が書かれた、明神の絵姿(ポスター)が広く配布された。
・・・その手法もいきさつも大変興味深い。
また、この土地の利として注目すべきは、利根川です

星福寺(千手院)は、利根川に接する地にあります


船運の盛んな利根川を、船で上流に向かえば、養蚕の盛んな群馬方面に布教に行くのはどこの土地よりも容易

これは、この神栖の土地ならではです

金色姫譚の伝説の地としては残念ではありますが、利根川の船運をも利用した、『現代的な宣伝戦略発祥の地』!?として考えると興味深い面白いのが、神栖の蚕霊神社・星福寺ではないでしょうか

(写真は利根川に架かる橋から筑波山方面を望む。 2022年1月初旬撮影)
【おまけ1: 神栖近くにある『豊浦』の地名がある?】
さて、本当に、この地に、金色姫譚を伝える地名はないのか、少し範囲を広げて調べてみました。
すると神栖市ではありませんが、星福寺から5キロほど離れた利根川の向こう岸、千葉県香取市に『豊浦』の地名が残っているのが分かりました

ここは、昔、豊浦村という村があったところです。
ところで、この地は、『常陸国』でなくて『下総国』ではあります。
しかし現在の利根川、江戸時代の治水工事前は鬼怒川が流れ、霞ケ浦(当時は内海)に流れ込むあたりは、
川の氾濫があるたびに、川の流れも変わり、常陸国と下総国の国境はあいまいだったと考えられます。
文献9によると、この豊浦村は養蚕が盛んだったとのこと。
しかし『豊浦』の名は、5つの村が合併した時に、良い名をということで『豊浦』の名が付けられたとのことで、
残念ながら、金色姫譚に出てくる『豊浦』とは関係なさそうです

下総国だけど国境があいまいだったので、常陸国として外部に伝わった…とすると、話は面白いのですが・・・。
現在調べている範囲では、千葉県(下総国)ではどうも、金色姫譚のような伝説はなく、信仰もなかったようなのです

やはり、残念ながら、利根川の下流や河口付近が金色姫伝説の発祥の地とするのは無理がありそうです

【おまけ2:「息栖神社」の元の名は「於岐津説神社」だが】

東国三社の一つ、神栖の『息栖神社』は、中世の頃『於岐津説神社』と呼ばれていました(文献10)。
(写真は息栖神社の前にある、忍井。2022年1月初旬撮影)
そして、日立・川尻の蠶養神社の昔の名前も『於岐津説神社』ですが、江戸時代は『津神社』とも記録にあります。

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
ところで『津神社』という名のお社は、日立市川尻地区だけでなく、茨城県の海岸沿いに散見されます。
『於岐津説(おきつせ)』 → 『沖つ瀬』=沖にある瀬 ということで、
沖にある瀬を神格化して、船の航行安全や豊漁を祈ったのだろうと思われます。
そして息栖神社の祭神の『くなど神』も、船の交通・安全航行の神。
安全航行の神や豊漁の神として、海岸線沿いで勧請され祀られていったのが『於岐津説』ではないでしょうか。
または、そういった信仰対象をまとめて、いつの頃からか『於岐津説』と呼ぶようになったか。
同じ名前で気になりますが、日立の於岐津説神社(現在の蚕養神社)と、神栖の於岐津説神社(現在の息栖神社)
には、養蚕信仰の地としての関係(金色姫譚の繋がり的なもの)はないのではないかと、私は考えます。
以上で、常陸国三蚕神社の2つ目、神栖の蚕霊神社/星福寺 と 金色姫譚の関係については、ひとまず筆を納めます。
次回は、常陸国三蚕神社の3つ目、つくば・神郡の 蚕影山神社(蚕影神社)です。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(7) つくば市 蚕影山神社
******************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
この中の解説 ① 『養蚕の神々』 阪本英一
② 『馬鳴菩薩の信仰』 生駒哲郎
③ 『蚕神信仰に関する一考察』 佐野亨介
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
8.『利根川図志』 赤松宗旦 著 柳田国男 校訂 岩波文庫
9,『千葉県香取郡史』(復刻版)千葉県香取郡役所 編纂 臨川書店 発行
10.『神栖町史 上巻』 神栖町史編さん委員会 編著 神栖町 発行
2022年03月16日
梅の品種の掲示がスタート! 筑波山梅林2022
梅の品種の掲示がスタート! 筑波山梅林2022
関東平野を見渡せる立地と、大小の斑れい岩の岩々と梅の花々のコントラストが美しい筑波山梅林。
ワイルドな地形を歩きながら、間近に梅の花と香りを堪能出来るのも、筑波山梅林の魅力です。
傾斜地に立地する筑波山梅林の梅の木は約1000本。
しかしながら、梅の木の種類が長らく分からないものがほとんどでした
。
昭和40年代、観光梅林としてではなく、地元で梅の実を消費するために、梅の木が植えられたのが、
筑波山梅林の始まり。
その後、ある意味、思い思いに?梅の木を植栽していったので、何の種類を植えたのか記録がはっきりしてこなかった
・・・という経緯もあったようです。
しかも、梅の花は咲かないと同定が大変難しいのだそうです
。
それをきちんと調べようと、ここ数年来、つくば市の観光ボランティア298の皆さんが、
木々に一本一本振られている番号を地図に記録し、
開花期に、花の色も含め、写真で記録し、
・・・を、地道に続けられてきた、その結果が実りました
。

そして、苦労の甲斐があって、ほとんどの梅の木の種類が判明してきた
とのことで、いよいよ梅の木の種類の掲示板が掲げられてきました
。
(写真をよく見ると、新しく掲示された品種板の他に、小さく番号の振られたタグや、白い小さなリボン(花の色を示す)があります。
これが、観光ボランティア298の皆さんのご苦労を示すものです。
まずは40数枚が作られて、筑波山梅林内の梅に掲示されています。
立派な掲示版なので予算も関係で、現在は千本中の40数枚だけですが、看板を見つけられるとラッキー
小さな福
が来るかもしれませんよ
是非、探してみて下さいませ。
例えば、私が見つけた梅の木の説明板と梅の花の一部を紹介します。
(撮影は2月12日 もしくは 3月13日)
看板には、梅の新種の漢字表記、カタカナ表記、ローマ字表記がされ、花の色が着色で示されていて分かりやすいです。
そして、花の時期も、
早咲き:1月中旬~2月中旬
中咲き:2月中旬~3月中旬
遅咲き:3月上旬~4月上旬
に分けられて表示されて、これも分かりやすい
。
今後、掲示版を随時、作って掲示を増やすそうです
。
楽しみです
。
梅の開花のタイミングは、植えられた梅の種類に加え、その年の冬の気温に大変左右されるそうです。
筑波山梅林の場合、紅白の梅が一斉に咲く年もあれば、紅梅が早くに開花してピークが終わる頃に白梅が満開になる年もあって、
その年によってかなり梅林の盛りが違うとのこと。
(昔から筑波山梅林の隣におられる、陶梅田さんから伺いました)

ちなみに今年2022年2月12日の筑波山梅林
(本来ならば梅まつりの初日でした)
白く見えるのは、残雪です。
2日前に降った雪がまだ残っています。
白梅はまだ固い蕾でした。

そして、1ヶ月後、先日2022年3月13日の筑波山梅林。
この数日前から気温が急に上がり、梅の花も咲き進んだようで、
満開の白梅の花々が、まるで白い雪のように見えます
。
3/13この日は大変暖かい日でした。
あと、今年2022年の筑波山梅林では、もう一つ特筆すべきは、なんと梅林園内全体で、Free-WiFi も使えるようになっていること
屋外でもWiFiが使えるのです
。
でも、屋外でFree-Wifi が使えるからと云って、歩きスマホなんかすると、足下が悪いので、転んで大けがしますし、最悪、他の人にも怪我をさせてしまいます
。
スマホはマナーを守って、筑波山梅林では、他の人の邪魔にならない場所で立ち止まるか、座って操作して下さいね。
【今回のお土産】

梅林となりの敷地の、陶梅田さんで購入した、つくばね焼の、一輪挿しと、筑波山の形のお皿。
お皿の上に一輪挿しを置いて、我が家の庭のロウバイと、名残の柚子を飾ってみました
(2022年2月中旬撮影)。
この一輪挿しはとても気に入っています
【ご参考】 筑波山梅林の過去の記事
2021年の梅林の報告
・筑波山梅林2021
2020年の梅林の報告
・筑波山梅林2020
・筑波山梅林の紫陽花 2020
2019年の梅林の報告
・平成最後の筑波山梅林梅まつり2019
2018年の梅林の報告
・筑波山梅林2つの秘話(1)と、梅まつり2018年3月3日&7日
・筑波山梅林2つの秘話(2)~筑波山梅林より古い隣接の梅の林
2017年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2017年3月5日
2016年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2016年2月21日
2015年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2015年3月8日
2014年の梅林の報告
・2014年筑波山梅まつり その1 ―2/22オープニング
・2014年筑波山梅林梅まつり その2 3月9日(日)
関東平野を見渡せる立地と、大小の斑れい岩の岩々と梅の花々のコントラストが美しい筑波山梅林。
ワイルドな地形を歩きながら、間近に梅の花と香りを堪能出来るのも、筑波山梅林の魅力です。
傾斜地に立地する筑波山梅林の梅の木は約1000本。
しかしながら、梅の木の種類が長らく分からないものがほとんどでした

昭和40年代、観光梅林としてではなく、地元で梅の実を消費するために、梅の木が植えられたのが、
筑波山梅林の始まり。
その後、ある意味、思い思いに?梅の木を植栽していったので、何の種類を植えたのか記録がはっきりしてこなかった
・・・という経緯もあったようです。
しかも、梅の花は咲かないと同定が大変難しいのだそうです

それをきちんと調べようと、ここ数年来、つくば市の観光ボランティア298の皆さんが、
木々に一本一本振られている番号を地図に記録し、
開花期に、花の色も含め、写真で記録し、
・・・を、地道に続けられてきた、その結果が実りました


そして、苦労の甲斐があって、ほとんどの梅の木の種類が判明してきた


(写真をよく見ると、新しく掲示された品種板の他に、小さく番号の振られたタグや、白い小さなリボン(花の色を示す)があります。
これが、観光ボランティア298の皆さんのご苦労を示すものです。
まずは40数枚が作られて、筑波山梅林内の梅に掲示されています。
立派な掲示版なので予算も関係で、現在は千本中の40数枚だけですが、看板を見つけられるとラッキー

小さな福


是非、探してみて下さいませ。
例えば、私が見つけた梅の木の説明板と梅の花の一部を紹介します。
(撮影は2月12日 もしくは 3月13日)
看板には、梅の新種の漢字表記、カタカナ表記、ローマ字表記がされ、花の色が着色で示されていて分かりやすいです。
そして、花の時期も、
早咲き:1月中旬~2月中旬
中咲き:2月中旬~3月中旬
遅咲き:3月上旬~4月上旬
に分けられて表示されて、これも分かりやすい

説明版 | 花 | 備考 |
2022年2月12日撮影『安行八重野梅』:「早咲き」なので咲き進んでいます。(下に一ヶ月後の状態あり) | ||
![]() | ![]() |
2022年2月12日撮影『一重寒紅』:「中咲き」で未開花ですが蕾が膨らんでいます |
![]() | 2022年2月12日撮影『緑萼』:園内に4本だけある緑萼梅。「中咲き」ですが、この木は他の緑萼よりいつも早く咲き、今年も既に咲き進んでいます。 | |
![]() | 2022年2月12日撮影『御所紅』: 「早咲き」で可愛らしいピンクの八重の花が咲き始めています。(下に1ヶ月後の状態あり) | |
![]() |
2022年3月13日撮影『安行一重野梅』 :「中咲き」で、この陽気ですっかり満開。2月の頃は固い蕾でした。 | |
![]() | ![]() |
2022年3月13日撮影『安行八重野梅』:上の2月12日でも撮った『安行八重野梅』も参考までに。早咲きなのでピークは過ぎていました(ピンぼけ写真ですみません) |
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2022年3月13日撮影『御所紅』:「早咲き」でピークは過ぎていますが、まだまだ切れに咲いています。花持ちが良いのかな?(上に1ヶ月前の状態あり) |
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2022年3月13日撮影『思いの儘』:白色とピンク色の花が混じって同じ木に咲く品種。「中咲き」とのことで咲き始めています。咲いている花は薄いピンク色。 |
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2022年3月13日撮影『花香美』:「遅咲き」の品種ですが、咲き始めています。 |
今後、掲示版を随時、作って掲示を増やすそうです

楽しみです

梅の開花のタイミングは、植えられた梅の種類に加え、その年の冬の気温に大変左右されるそうです。
筑波山梅林の場合、紅白の梅が一斉に咲く年もあれば、紅梅が早くに開花してピークが終わる頃に白梅が満開になる年もあって、
その年によってかなり梅林の盛りが違うとのこと。
(昔から筑波山梅林の隣におられる、陶梅田さんから伺いました)

ちなみに今年2022年2月12日の筑波山梅林
(本来ならば梅まつりの初日でした)
白く見えるのは、残雪です。
2日前に降った雪がまだ残っています。
白梅はまだ固い蕾でした。

そして、1ヶ月後、先日2022年3月13日の筑波山梅林。
この数日前から気温が急に上がり、梅の花も咲き進んだようで、
満開の白梅の花々が、まるで白い雪のように見えます

3/13この日は大変暖かい日でした。
あと、今年2022年の筑波山梅林では、もう一つ特筆すべきは、なんと梅林園内全体で、Free-WiFi も使えるようになっていること

屋外でもWiFiが使えるのです

でも、屋外でFree-Wifi が使えるからと云って、歩きスマホなんかすると、足下が悪いので、転んで大けがしますし、最悪、他の人にも怪我をさせてしまいます

スマホはマナーを守って、筑波山梅林では、他の人の邪魔にならない場所で立ち止まるか、座って操作して下さいね。
【今回のお土産】

梅林となりの敷地の、陶梅田さんで購入した、つくばね焼の、一輪挿しと、筑波山の形のお皿。
お皿の上に一輪挿しを置いて、我が家の庭のロウバイと、名残の柚子を飾ってみました

この一輪挿しはとても気に入っています

【ご参考】 筑波山梅林の過去の記事

・筑波山梅林2021

・筑波山梅林2020
・筑波山梅林の紫陽花 2020

・平成最後の筑波山梅林梅まつり2019

・筑波山梅林2つの秘話(1)と、梅まつり2018年3月3日&7日
・筑波山梅林2つの秘話(2)~筑波山梅林より古い隣接の梅の林

・筑波山梅林 梅まつり 2017年3月5日

・筑波山梅林 梅まつり 2016年2月21日

・筑波山梅林 梅まつり 2015年3月8日

・2014年筑波山梅まつり その1 ―2/22オープニング
・2014年筑波山梅林梅まつり その2 3月9日(日)
2022年02月19日
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい
前回までの話
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています
。
まず、今回は養蚕を守る神仏について改めて書きます。
といいますのも、特に養蚕を守る神仏については混淆が激しいようで、明治以前はもちろんのこと、神仏分離された明治以降になっても、表面上は分かれているようですが、信仰する人々の心情は、混淆したままで続いてようで、特に今回取り上げる、神栖の蠶霊神社・星福寺は、それがはっきり感じるからです。
養蚕を守る神仏は実は多くあります。
大きく分けて、神道系、仏教系、民間信仰系の神仏に分けられます(文献1、2、3、4)。
それらの神仏の詳細については当ブログでは触れませんが、茨城県内の養蚕信仰について書きますと、
(文献1,2,3)
・民間信仰の信仰
つくば・蚕影山神社: 蚕影山明神、金色姫
日立・蚕養神社: 金色姫
神栖・蚕霊神社: 蚕霊尊、衣襲明神(※)
・神道系の信仰
つくば・蚕影山神社: 稚産霊命、埴山姫命、木花開耶姫命
日立・蚕養神社: 稚産霊命、宇気霊命、事代主命
神栖・蚕霊神社: 大気津比売命
・仏教系の信仰
神栖・星福寺: 馬鳴菩薩
明治以前はこれらの神仏が混淆して布教され、信仰されていました。
日立の蚕養神社(江戸時代は津神社)には、江戸時代初期までは吉祥院という寺が管理していたことが分かっているのは、前々回・前回に書きました。
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《前編》
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
つくばの蚕影山神社は、明治の神仏分離までは別当寺の桑林寺が管理し、江戸時代の蚕影山明神の布教に力を入れていました。
つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
養蚕は、餌となる桑の栽培も含め、天候や蚕や桑の病気に左右される上に、大変な重労働。
養蚕農家は、多くの神仏を信仰し、なるべくご加護があるように祈りながら作業されてきたのでしょう。
だから、近代(現代も?)に至っても、心の中では様々な神仏が混淆するのは、当然だと思います。
(ちなみに私個人は、日本の民衆の信仰は、神仏混淆が自然だと思っています)
以上を頭の隅に置いて頂いて、以下お読み頂けたらと思います
。
ということで、今回は、常陸三蚕神社の2つ目の聖地、神栖市にある蚕霊神社です。
当ブログでは、神社の扁額にある表記に従い、今後は『蠶霊神社』と表記します。

常陸三蚕神社の他の二社と違って、別当寺であったらしい星福寺が現在も残っており、
仏教系の養蚕信仰を今に伝えています。
この神栖の蚕霊神社・星福寺については、大変詳しく調査されている文献1を中心に参考にしながら、考えていきます。
まずは実際に、神栖の蚕霊神社と星福寺に行ってきました
。
(1) 星福寺

(写真は、2022年1月初旬撮影)
正式名は蠶霊山山千手院星福寺。
本尊は、大日如来と蚕霊尊
(文献1,2)
文献4によると、
『星福寺と蚕霊神社はもともと一体のもので、養蚕の神として人々信仰を集めていました』
とあります。
まさに、神仏分離前の、神社とそれを管理する別当寺の関係を、今に伝えているのではないでしょうか
星福寺の山門の前に、金色姫伝説が書かれた立派な石造りの碑があり、お寺の由来・御本尊や、この地に伝わる金色姫譚のあらすじが書かれています。
(ここに書かれている金色姫譚については、次回、星福寺の御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)、そして衣襲明神と絡めて詳しく見ていきます)
まずは星福寺について、こちらの碑文によると、
『当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(今の日川)に蚕霊山千手院星福寺と称し』
とのことで、お寺のあるこの地が、『豊良浦日向川』 とのこと。
また、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
そして、
『降りて室町時代から江戸時代には益々信を起し、(中略)京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆をみ、・・・(後略)』
ということで、当初は『蚕霊尊』を本尊として祀り、その後、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となったとのこと。文意から江戸時代頃に真言密教の道場になったように読めます。
江戸時代までの神仏混淆の様子も分かる、興味深い一文です。
更に大正六年に突風によって多くの堂宇を失い、残ったのが
『元禄二年建立せる山門』 (筆者註:元禄二年は西暦 1689年)
『嘉永五年に建立せる堂宇のみ』 (筆者註:嘉永五年は西暦 1852年)
とのことで、堂宇は平成に大改築された旨が同石碑にあります。

ガラス越しに参拝しました。
御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)は分かりませんでした。
『奥の院』の御本尊ということなので、なかなか拝見出来ないのかもしれません。
石碑にある 『大正六年』 の突風による被害がなければ、堂宇が立ち並ぶ壮観な様子が今に伝わっていたのでしょう。
その頃の姿が見たかったですが、自然の災害には逆らえませんね・・・
。
それでも敷地に隣接して幼稚園もあったりで、親しみのある雰囲気を感じる境内でした
(2) 蠶霊神社

蚕霊神社読み方は「さんれい」とも「こだま」とも「こりん」とも読むようです。
星福寺から240mほど西北西方向に行った場所にあります。
(写真は2022年1月初旬撮影)
祭神は大気津比売命(文献6)

鳥居の手前に、神栖市の教育委員会による説明版に、金色姫伝説が書かれています。
文の最後の『撰文 中村ときを』とありますが、この方は、文献5(『神栖のむかし話』)の著書の方です。
こちらの説明板には同書に書かれている金色姫伝説のあらすじが書かれていますが、時に個人的に気になった表現が、
『この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、蚕業の創始先駆者の象徴として、造営したのが蚕霊神社であり、長くこの地域の守りが意味と鳴って鎮座されている』
です。
神社というものが生まれて人々の守り神になっていく姿を表す、誠意ある文章だと感じます。

静謐な参道の奥に、鮮やかな赤いお堂が。
創建の時期は不明とのこと(文献6)。

拝殿の後ろの本殿は波板で覆いがされています。
拝殿も本殿も赤い色を基調に鮮やかに色が塗られています。
特に覆いがかかっている本殿は、色鮮やかに保たれています。
比較的最近、塗り直された印象です。
覆いが、雨風などから本殿の塗装を守っているのですね。

しかしながら、本殿正面上部の蟇股の部分の彫刻が何か、見たかったのですが、拝殿から通路と覆いがあってよく見えません
。
神社本殿の蟇股の彫刻は、祭神のお使いの動物や象徴する物だったりすることが多いので、興味があるのですが。
何か青い波みたいな形が見えますので、金色姫が乗ってきたうつぼ舟だったりしませんかね?
興味津々
。
ご神体は「軽石」だったが戦後のどさくさで行方不明になったといいます(文献1)。
ご神体が軽石・・・というくだり、日立・川尻の蠶養神社の話を彷彿させます。
詳細 → 前回の記事 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蠶養神社 《後編》
軽石がやはり、繭を連想させる色・形だからでしょうか。
ただし日立・川尻の蠶養神社と違って、ご神体という軽石ついてまつわる伝承は不明です(※)。
※ 一般に寺社については、その自治体が発行している書籍(○○市史、○○町史)に歴史や祭神など書かれているものですが、
『神栖町史』には、東国三社の一つの息栖神社以外の寺社について、何も書かれていません。残念です・・・。
さて次回は、星福寺の蚕霊神=衣襲(きぬがさ)明神について、そして、この地における金色姫譚について見ていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
*************************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社
茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい

前回までの話






物的証拠も記録もないので、伝承や地形・状況からの類推になりますが、妄想の翼を広げつつも、なるべく説得力ある考察を心がけています

まず、今回は養蚕を守る神仏について改めて書きます。
といいますのも、特に養蚕を守る神仏については混淆が激しいようで、明治以前はもちろんのこと、神仏分離された明治以降になっても、表面上は分かれているようですが、信仰する人々の心情は、混淆したままで続いてようで、特に今回取り上げる、神栖の蠶霊神社・星福寺は、それがはっきり感じるからです。
養蚕を守る神仏は実は多くあります。
大きく分けて、神道系、仏教系、民間信仰系の神仏に分けられます(文献1、2、3、4)。
それらの神仏の詳細については当ブログでは触れませんが、茨城県内の養蚕信仰について書きますと、
(文献1,2,3)
・民間信仰の信仰
つくば・蚕影山神社: 蚕影山明神、金色姫
日立・蚕養神社: 金色姫
神栖・蚕霊神社: 蚕霊尊、衣襲明神(※)
・神道系の信仰
つくば・蚕影山神社: 稚産霊命、埴山姫命、木花開耶姫命
日立・蚕養神社: 稚産霊命、宇気霊命、事代主命
神栖・蚕霊神社: 大気津比売命
・仏教系の信仰
神栖・星福寺: 馬鳴菩薩
明治以前はこれらの神仏が混淆して布教され、信仰されていました。
日立の蚕養神社(江戸時代は津神社)には、江戸時代初期までは吉祥院という寺が管理していたことが分かっているのは、前々回・前回に書きました。


つくばの蚕影山神社は、明治の神仏分離までは別当寺の桑林寺が管理し、江戸時代の蚕影山明神の布教に力を入れていました。


養蚕は、餌となる桑の栽培も含め、天候や蚕や桑の病気に左右される上に、大変な重労働。
養蚕農家は、多くの神仏を信仰し、なるべくご加護があるように祈りながら作業されてきたのでしょう。
だから、近代(現代も?)に至っても、心の中では様々な神仏が混淆するのは、当然だと思います。
(ちなみに私個人は、日本の民衆の信仰は、神仏混淆が自然だと思っています)
以上を頭の隅に置いて頂いて、以下お読み頂けたらと思います

ということで、今回は、常陸三蚕神社の2つ目の聖地、神栖市にある蚕霊神社です。
当ブログでは、神社の扁額にある表記に従い、今後は『蠶霊神社』と表記します。

常陸三蚕神社の他の二社と違って、別当寺であったらしい星福寺が現在も残っており、
仏教系の養蚕信仰を今に伝えています。
この神栖の蚕霊神社・星福寺については、大変詳しく調査されている文献1を中心に参考にしながら、考えていきます。
まずは実際に、神栖の蚕霊神社と星福寺に行ってきました

(1) 星福寺

(写真は、2022年1月初旬撮影)
正式名は蠶霊山山千手院星福寺。
本尊は、大日如来と蚕霊尊
(文献1,2)
文献4によると、
『星福寺と蚕霊神社はもともと一体のもので、養蚕の神として人々信仰を集めていました』
とあります。
まさに、神仏分離前の、神社とそれを管理する別当寺の関係を、今に伝えているのではないでしょうか


(ここに書かれている金色姫譚については、次回、星福寺の御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)、そして衣襲明神と絡めて詳しく見ていきます)
まずは星福寺について、こちらの碑文によると、
『当山は常陸国鹿島郡豊良浦日向川(今の日川)に蚕霊山千手院星福寺と称し』
とのことで、お寺のあるこの地が、『豊良浦日向川』 とのこと。
また、
『奥之院御本尊は蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)あり、養蚕守護の尊霊にして、
養蚕業者悉く帰依渇望の念を運び来たりて参詣報賽せらるゝ霊城赫々四方に高く・・・(後略)』
そして、
『降りて室町時代から江戸時代には益々信を起し、(中略)京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となり、養蚕の祈願と共に寺運興隆をみ、・・・(後略)』
ということで、当初は『蚕霊尊』を本尊として祀り、その後、京都総本山醍醐寺より大日如来を勧請して、
真言密教の道場となったとのこと。文意から江戸時代頃に真言密教の道場になったように読めます。
江戸時代までの神仏混淆の様子も分かる、興味深い一文です。
更に大正六年に突風によって多くの堂宇を失い、残ったのが
『元禄二年建立せる山門』 (筆者註:元禄二年は西暦 1689年)
『嘉永五年に建立せる堂宇のみ』 (筆者註:嘉永五年は西暦 1852年)
とのことで、堂宇は平成に大改築された旨が同石碑にあります。

ガラス越しに参拝しました。
御本尊の蚕霊尊(馬鳴菩薩)は分かりませんでした。
『奥の院』の御本尊ということなので、なかなか拝見出来ないのかもしれません。
石碑にある 『大正六年』 の突風による被害がなければ、堂宇が立ち並ぶ壮観な様子が今に伝わっていたのでしょう。
その頃の姿が見たかったですが、自然の災害には逆らえませんね・・・

それでも敷地に隣接して幼稚園もあったりで、親しみのある雰囲気を感じる境内でした

(2) 蠶霊神社

蚕霊神社読み方は「さんれい」とも「こだま」とも「こりん」とも読むようです。
星福寺から240mほど西北西方向に行った場所にあります。
(写真は2022年1月初旬撮影)
祭神は大気津比売命(文献6)

鳥居の手前に、神栖市の教育委員会による説明版に、金色姫伝説が書かれています。
文の最後の『撰文 中村ときを』とありますが、この方は、文献5(『神栖のむかし話』)の著書の方です。
こちらの説明板には同書に書かれている金色姫伝説のあらすじが書かれていますが、時に個人的に気になった表現が、
『この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、蚕業の創始先駆者の象徴として、造営したのが蚕霊神社であり、長くこの地域の守りが意味と鳴って鎮座されている』
です。
神社というものが生まれて人々の守り神になっていく姿を表す、誠意ある文章だと感じます。

静謐な参道の奥に、鮮やかな赤いお堂が。
創建の時期は不明とのこと(文献6)。

拝殿の後ろの本殿は波板で覆いがされています。
拝殿も本殿も赤い色を基調に鮮やかに色が塗られています。
特に覆いがかかっている本殿は、色鮮やかに保たれています。
比較的最近、塗り直された印象です。
覆いが、雨風などから本殿の塗装を守っているのですね。

しかしながら、本殿正面上部の蟇股の部分の彫刻が何か、見たかったのですが、拝殿から通路と覆いがあってよく見えません

神社本殿の蟇股の彫刻は、祭神のお使いの動物や象徴する物だったりすることが多いので、興味があるのですが。
何か青い波みたいな形が見えますので、金色姫が乗ってきたうつぼ舟だったりしませんかね?
興味津々

ご神体は「軽石」だったが戦後のどさくさで行方不明になったといいます(文献1)。
ご神体が軽石・・・というくだり、日立・川尻の蠶養神社の話を彷彿させます。

軽石がやはり、繭を連想させる色・形だからでしょうか。
ただし日立・川尻の蠶養神社と違って、ご神体という軽石ついてまつわる伝承は不明です(※)。
※ 一般に寺社については、その自治体が発行している書籍(○○市史、○○町史)に歴史や祭神など書かれているものですが、
『神栖町史』には、東国三社の一つの息栖神社以外の寺社について、何も書かれていません。残念です・・・。
さて次回は、星福寺の蚕霊神=衣襲(きぬがさ)明神について、そして、この地における金色姫譚について見ていきます。
続きます。
→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(6)~神栖市 蠶霊神社・星福寺《後編》
*************************************
【参考文献】
1.『養蠶の神々-蚕神信仰の民俗-』 阪本英一 著 群馬県文化事業振興会
2.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』 畑中章宏 著 晶文社
3.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
4.『第19回企画展 蚕物語 ~天の虫・糸の虫~』 神栖町歴史民俗資料館
5.『神栖の昔ばなし』 中村ときを 著 崙書房
6.『茨城県神社誌』 茨城県神社誌編纂委員会 茨城県神社庁
7.『茨城242社寺 ご利益ガイド』 今瀬文也 著 茨城新聞社