2020年10月10日
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)
源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(後編)
あの源氏物語に 『筑波山』 が出てくる!
ということで、前回に引き続き源氏物語と筑波山の関係 についてです。
前回までのお話
→ 源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)
(写真は2019年11月下旬撮影 つくば市国松付近から筑波山を望む)
4.源重之の歌のネタ元?『風俗歌 筑波山』
ところで、9世紀前半から11世紀中ごろの時代に風俗歌『筑波山』という歌がありました(文献4、5)
風俗歌『筑波山』
『筑波山 は山しげ山 茂きをぞや 誰が子も通ふな 下に通へ わがつまは下に』
つくはやま はやましげやま しげきをぞや たがこもかよふな したにかよへ わがつまはしたに
歌の前半が、源重之の歌とほぼ同じです。
後半の『下に通う』というのは『密かに通う』という意味(文献3)。
【参考】 新古今和歌集 1014 : 我ならぬ人に心をつくば山したにかよはむ道だにやなき (大中臣能宣)
※この歌も、『つくば山(筑波山)』を歌っています。
つまり、風俗歌『筑波山』の意味は、
『(歌垣・嬥歌(かがい)のあって古来から有名な)筑波山の周りの樹々が茂った山道(は皆が通う道なので)を通ってはいけない。
こっそり通いなさい。私の愛しい人は密かに(別の場所に)いるのだから』
ということでしょうか??(私の超訳です)
(写真は、石岡市 国民宿舎つくばね の駐車場より筑波山を望む。2015年11月撮影)
【2021年5月24日追記】
新古今和歌集 1013 番の源重之の歌 及び 風俗歌『筑波山』の解釈については、
少し違う解釈も以下の記事に書きましたので、そちらもご参照下さい。
→ 八代集に収められている筑波山の歌~【4】新古今和歌集にある筑波山
ところで、この風俗歌『筑波山』、9世紀前半から11世紀中ごろの歌というのが気になります。
『風俗歌』というのは、明治時代に編纂された日本初の百科事典 『古事類苑』 によると(文献5)
宮中の行事で歌われたものが、次第に民衆に広まっていった歌のようです。
★この風俗歌『筑波山』が元々あって、それを『本歌取』して、源重之が『筑波山端山重山…』を歌ったのか?
★それとも、源重之の歌が有名(源氏物語でも引用されているくらい)なので、これが宮中の行事で歌われ、
次第に民衆にも広く歌われていったのか?
その辺りが気になりますが、いずれにせよ、源氏物語の時代に、
『つくばやま、はやま、しげやま・・・』 と始まる歌は、、
民衆にも歌われていたし、三十六歌仙の歌人までもが、筑波山を『詠って』いたというのは、事実!
『つくばやま はやま しげやま しげ〇〇〇』
韻もいくつも踏んでいるし、とてもリズム良い。
現代ならば、ラップですね♪
みんなが口ずさみたくなるのが、よくわかります。
『つくばやま、はやましげやま 茂けれど♪』
『つくばやま、はやましげやま 茂きをぞや♪』
こう歌いながら、常陸国の国府(石岡)やあちこちの村から、男女がフェス(歌垣・嬥歌(かがい))に参加するために、
筑波山目指してワクワク歩いている様子が、目に浮かぶようではありませんか!?
そして都から常陸国の国府(石岡)に赴任してきた人たちやそのお供の人たちが、都に帰って、楽しかった?筑波山のフェスの話をして、噂は広まり・・・。
更に時代を遡った頃から伝わる万葉集にも25歌も詠われる筑波山のイメージもあり、
都の人々は、あーんなことや、こーんなこと等、いろいろ妄想を膨らませて 筑波山に恋とロマンを感じたのでしょうね
(写真は常陸国の国府跡地。現在は石岡市立石岡小学校)
5.源氏物語と「常陸」と「筑波山」
源氏物語の五十帖(宇治十帖の第六帖)の『東屋(あずまや)』
この東屋(あずまや)は、その字の如く、『東国にあるような(素っ気ない)家屋』を表すそうです。
重要人物の浮舟は、父(養父)の赴任地の、東国の常陸国で育ちます。
それもあり、京で育てばそれなりに身についていたであろう雅びな教養がなく、身分も常陸介の娘(継娘)なので、
超~高級貴族の薫君も匂宮も、何気に見下す態度で接します。
正直、薫君も匂君も、いけ好かないヤツ…というのは置いといて、
★ 『東屋』帖は、三十六歌仙の一人 源重之の歌『筑波山(つくばやま)…』で始まる。
★ 筑波山は、東国常陸国にある歌枕の地。恋の山としても知られる。
というのがあるので、やはり作者の紫式部は意識して、
『東屋』(東国にあるような家屋)
―『常陸・常陸介』(常陸国・常陸国の長官)
―『筑波山』(常陸国にある山・歌枕の地)
を、設定に取り入れたように思います。
今回注目している源氏物語の宇治十帖の、ヒロイン浮舟の養父の身分も、常陸介(※)。
垢抜けないし、実子でない浮舟には冷たいけれど、とても金持ちで羽振りが良いオヤジキャラ。
(写真は常陸国国府跡の碑。石岡市立石岡小学校敷地内)
常陸介は『受領』と呼ばれる身分で、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者のこと。
現地でがっぽり富を蓄えて裕福ではありますが、所詮中央政権には進出できない中小貴族。
しかも都から見て、常陸国は遠い東国にある辺境の地。
同じ国司でも、東国に赴任する人は、やはり都近くの国に赴任するする人よりパッとしない貴族だったようで・・・。
※ただし、『介』は国司に次ぐナンバー2ですが、常陸国は親王任国なので、『常陸介』という身分は、現地(常陸国)では実質ナンバー1。
(親王任国であった、常陸国、上総国、上野国の3国は、国守は伝統的に親王がなるが現地には行かないので、
実際に任地に赴任する「介」が、現地ではナンバー1なのです)
源氏物語の中では、浮舟の家に仕えている人も東国出身者も多く、「あずまことば」でしゃべっているのも云々というくだりも出てきます^^;
(このくだりを読むと、生まれも育ちも関東出身の私は、正直イラっとします(笑))
で、それやこれやで、中央政権にいる超~高級貴族の薫君は、浮舟を軽く見て、世間体を気にして煮え切らないわけです。
なら、惚れなきゃいいのにね、薫 ← 恋愛小説に文句いってもしかたありませんが。
今回、苦手な源氏物語を、『筑波山』に関わりそうな部分だけですが、訳文等を読む機会を持ちました。
私は薫君や匂宮という 野郎どもキャラ には何も惹かれませんが、浮舟の生きざま(設定)には共感するものがあります。
宇治十帖ぐらいは今度ちゃんと読んでみようかなと思いました。
6.源氏物語が書かれた頃の筑波山周辺は?
さてさて、源氏物語の作者、紫式部の生きていた時代の筑波山付近を見てみますと・・・。
源氏物語が文献に初出するのは、1008年(参考サイト1より)。
その頃、常陸国の筑波山南麓(今のつくば市の水守や北条付近)には、平維幹、為幹親子がいました(990~1020年過ぎ頃)。
(写真はつくば市北条にある、日向廃寺跡。平安時代後期、この地にいた平氏(常陸平氏)が、京都の平等院鳳凰堂を模して作られたと考えられています。2011年5月撮影)
その財力は、当時の説話集の今昔物語でも語られていて、常陸介夫妻が京に帰る時の贈り物が都で語り草になっていたのが分かります。
紫式部(970頃~1019頃?)の頭の中には、地元の豪族、常陸国の平氏からがっつりいろいろ貰っていた潤っていた常陸介のイメージがあったのかもしれません。
ちなみに紫式部の母方の祖父の藤原為信も、常陸介経験者です(参考サイト2より)。
そういう、常陸国にある筑波山という連想も、作者の紫式部にも読者の貴族側にも共通にあったことでしょう。
そして、源氏物語が書かれた後になりますが、紫式部の異母弟(藤原惟通)も常陸介として常陸国の国府に赴任して現地で亡くなっています(1020年頃)。
この1020年頃は、筑波山南麓 水守~多気(今のつくば市水守~北条付近)に居を構えていた、平維幹・為幹父子の勢力が強大だったころです。
常陸介の藤原惟通が常陸国で亡くなった後、その妻は平為幹によってひどい目にあい、それを都で訴えたけれど、どうも握りつぶされたようです… (文献6、7)。
平維幹・為幹親子は、権勢を誇ったのでしょうが、特に為幹は行状が悪く、許せませんね。
→ 平維幹、為幹親子及びそのゴシップについては、以前書いた記事をご参照下さい。
宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
しかし、源氏物語に『筑波山』が出てくることから、ちょっと調べてみただけでもいろいろ分かって面白い!
源氏物語には他にも『常陸』という言葉が度々出てきます。
それは、地名としてだったり、身分や役職名だったり。
奈良時代末期に成立したとみられる日本最古の和歌集『万葉集』には、筑波山を歌った歌が25首もあるのはご存じの方も多いでしょう。
それより時代が下った平安中期の歌人で、三十六歌仙の一人の源重之も筑波山を歌っているのを、今回知りました。
その歌を引用する形で、筑波山という名が源氏物語に出てくる!
万葉集以降の歌、平安時代~鎌倉・室町時代の頃の『筑波山』の歌も、近いうちに調べたいです(^^)
【おまけ】
この春から夏にかけてNHK第二ラジオの『古典朗読』という番組で、『更級日記』をシリーズで紹介していて、ストリーミング放送で聞きました。
藤原孝標女(ふじわらのたかつえのむすめ)著 『更科日記(さらしなにっき)』
こちらも紫式部の時代よりやや後の時代に生きた女性が書いた日記で、父が上総国介になり、
その赴任に従って上総国(千葉県南部)で育った文学少女は、当時超人気だった源氏物語マニアとなり、その思いを語る姿は、
今も昔もマニアの心は同じだと親近感を持ちます。
藤原孝標女は、50歳台になった頃、昔を回想する形で更科日記を書き綴ったようです。
藤原孝標女の父親は、60歳!になって今度は常陸国介になり、その年齢で一人で遠く単身赴任する時に、
年頃(といっても25歳で未婚)の娘を残していく心配を愚痴る場面があります。
それに、なかなかじーんとくるのは、私がそういう年齢になって身につまされるからですね…。
そして当時の受領階級(中級・下級貴族)の悲哀や、『常陸国介にしかなれない』という悲哀もあって、これまた興味深くも、
茨城県民としてはビミョーな気持ち。
でも、更級日記も今度、ちゃんと読んでみようっと♪
**********************************************
【参考文献】
1.「源氏物語 七」 新潮日本古典集成<新装版> i石田穣二・清水好子 校注 新潮社
2.「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店
3.「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社
4. 「日本国語大辞典」 第2板 9巻 小学館
5.「古事類苑 樂舞部 一」 吉川弘文館
※豆電球 古事類苑については、国際日本文化研究センターのWEBサイトのデータベースのページ
http://db.nichibun.ac.jp/pc1/ja/
で全文を見ることが出来ます。
6. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修
7. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集
【参考サイト】 2020年10月現在のもの
1.Wikipedia 『紫式部』
2.コトバンク 『藤原為信』
3.Wikipedia 『藤原惟通』
あの源氏物語に 『筑波山』 が出てくる!
ということで、前回に引き続き源氏物語と筑波山の関係 についてです。
前回までのお話
→ 源氏物語と筑波山~平安貴族のハートをつかむ地名(前編)
(写真は2019年11月下旬撮影 つくば市国松付近から筑波山を望む)
4.源重之の歌のネタ元?『風俗歌 筑波山』
ところで、9世紀前半から11世紀中ごろの時代に風俗歌『筑波山』という歌がありました(文献4、5)
風俗歌『筑波山』
『筑波山 は山しげ山 茂きをぞや 誰が子も通ふな 下に通へ わがつまは下に』
つくはやま はやましげやま しげきをぞや たがこもかよふな したにかよへ わがつまはしたに
歌の前半が、源重之の歌とほぼ同じです。
後半の『下に通う』というのは『密かに通う』という意味(文献3)。
【参考】 新古今和歌集 1014 : 我ならぬ人に心をつくば山したにかよはむ道だにやなき (大中臣能宣)
※この歌も、『つくば山(筑波山)』を歌っています。
つまり、風俗歌『筑波山』の意味は、
『(歌垣・嬥歌(かがい)のあって古来から有名な)筑波山の周りの樹々が茂った山道(は皆が通う道なので)を通ってはいけない。
こっそり通いなさい。私の愛しい人は密かに(別の場所に)いるのだから』
ということでしょうか??(私の超訳です)
(写真は、石岡市 国民宿舎つくばね の駐車場より筑波山を望む。2015年11月撮影)
【2021年5月24日追記】
新古今和歌集 1013 番の源重之の歌 及び 風俗歌『筑波山』の解釈については、
少し違う解釈も以下の記事に書きましたので、そちらもご参照下さい。
→ 八代集に収められている筑波山の歌~【4】新古今和歌集にある筑波山
ところで、この風俗歌『筑波山』、9世紀前半から11世紀中ごろの歌というのが気になります。
『風俗歌』というのは、明治時代に編纂された日本初の百科事典 『古事類苑』 によると(文献5)
宮中の行事で歌われたものが、次第に民衆に広まっていった歌のようです。
★この風俗歌『筑波山』が元々あって、それを『本歌取』して、源重之が『筑波山端山重山…』を歌ったのか?
★それとも、源重之の歌が有名(源氏物語でも引用されているくらい)なので、これが宮中の行事で歌われ、
次第に民衆にも広く歌われていったのか?
その辺りが気になりますが、いずれにせよ、源氏物語の時代に、
『つくばやま、はやま、しげやま・・・』 と始まる歌は、、
民衆にも歌われていたし、三十六歌仙の歌人までもが、筑波山を『詠って』いたというのは、事実!
『つくばやま はやま しげやま しげ〇〇〇』
韻もいくつも踏んでいるし、とてもリズム良い。
現代ならば、ラップですね♪
みんなが口ずさみたくなるのが、よくわかります。
『つくばやま、はやましげやま 茂けれど♪』
『つくばやま、はやましげやま 茂きをぞや♪』
こう歌いながら、常陸国の国府(石岡)やあちこちの村から、男女がフェス(歌垣・嬥歌(かがい))に参加するために、
筑波山目指してワクワク歩いている様子が、目に浮かぶようではありませんか!?
そして都から常陸国の国府(石岡)に赴任してきた人たちやそのお供の人たちが、都に帰って、楽しかった?筑波山のフェスの話をして、噂は広まり・・・。
更に時代を遡った頃から伝わる万葉集にも25歌も詠われる筑波山のイメージもあり、
都の人々は、
(写真は常陸国の国府跡地。現在は石岡市立石岡小学校)
5.源氏物語と「常陸」と「筑波山」
源氏物語の五十帖(宇治十帖の第六帖)の『東屋(あずまや)』
この東屋(あずまや)は、その字の如く、『東国にあるような(素っ気ない)家屋』を表すそうです。
重要人物の浮舟は、父(養父)の赴任地の、東国の常陸国で育ちます。
それもあり、京で育てばそれなりに身についていたであろう雅びな教養がなく、身分も常陸介の娘(継娘)なので、
超~高級貴族の薫君も匂宮も、何気に見下す態度で接します。
正直、薫君も匂君も、いけ好かないヤツ…というのは置いといて、
★ 『東屋』帖は、三十六歌仙の一人 源重之の歌『筑波山(つくばやま)…』で始まる。
★ 筑波山は、東国常陸国にある歌枕の地。恋の山としても知られる。
というのがあるので、やはり作者の紫式部は意識して、
『東屋』(東国にあるような家屋)
―『常陸・常陸介』(常陸国・常陸国の長官)
―『筑波山』(常陸国にある山・歌枕の地)
を、設定に取り入れたように思います。
今回注目している源氏物語の宇治十帖の、ヒロイン浮舟の養父の身分も、常陸介(※)。
垢抜けないし、実子でない浮舟には冷たいけれど、とても金持ちで羽振りが良いオヤジキャラ。
(写真は常陸国国府跡の碑。石岡市立石岡小学校敷地内)
常陸介は『受領』と呼ばれる身分で、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者のこと。
現地でがっぽり富を蓄えて裕福ではありますが、所詮中央政権には進出できない中小貴族。
しかも都から見て、常陸国は遠い東国にある辺境の地。
同じ国司でも、東国に赴任する人は、やはり都近くの国に赴任するする人よりパッとしない貴族だったようで・・・。
※ただし、『介』は国司に次ぐナンバー2ですが、常陸国は親王任国なので、『常陸介』という身分は、現地(常陸国)では実質ナンバー1。
(親王任国であった、常陸国、上総国、上野国の3国は、国守は伝統的に親王がなるが現地には行かないので、
実際に任地に赴任する「介」が、現地ではナンバー1なのです)
源氏物語の中では、浮舟の家に仕えている人も東国出身者も多く、「あずまことば」でしゃべっているのも云々というくだりも出てきます^^;
(このくだりを読むと、生まれも育ちも関東出身の私は、正直イラっとします(笑))
で、それやこれやで、中央政権にいる超~高級貴族の薫君は、浮舟を軽く見て、世間体を気にして煮え切らないわけです。
なら、惚れなきゃいいのにね、薫 ← 恋愛小説に文句いってもしかたありませんが。
今回、苦手な源氏物語を、『筑波山』に関わりそうな部分だけですが、訳文等を読む機会を持ちました。
私は薫君や匂宮という 野郎どもキャラ には何も惹かれませんが、浮舟の生きざま(設定)には共感するものがあります。
宇治十帖ぐらいは今度ちゃんと読んでみようかなと思いました。
6.源氏物語が書かれた頃の筑波山周辺は?
さてさて、源氏物語の作者、紫式部の生きていた時代の筑波山付近を見てみますと・・・。
源氏物語が文献に初出するのは、1008年(参考サイト1より)。
その頃、常陸国の筑波山南麓(今のつくば市の水守や北条付近)には、平維幹、為幹親子がいました(990~1020年過ぎ頃)。
(写真はつくば市北条にある、日向廃寺跡。平安時代後期、この地にいた平氏(常陸平氏)が、京都の平等院鳳凰堂を模して作られたと考えられています。2011年5月撮影)
その財力は、当時の説話集の今昔物語でも語られていて、常陸介夫妻が京に帰る時の贈り物が都で語り草になっていたのが分かります。
紫式部(970頃~1019頃?)の頭の中には、地元の豪族、常陸国の平氏からがっつりいろいろ貰っていた潤っていた常陸介のイメージがあったのかもしれません。
ちなみに紫式部の母方の祖父の藤原為信も、常陸介経験者です(参考サイト2より)。
そういう、常陸国にある筑波山という連想も、作者の紫式部にも読者の貴族側にも共通にあったことでしょう。
そして、源氏物語が書かれた後になりますが、紫式部の異母弟(藤原惟通)も常陸介として常陸国の国府に赴任して現地で亡くなっています(1020年頃)。
この1020年頃は、筑波山南麓 水守~多気(今のつくば市水守~北条付近)に居を構えていた、平維幹・為幹父子の勢力が強大だったころです。
常陸介の藤原惟通が常陸国で亡くなった後、その妻は平為幹によってひどい目にあい、それを都で訴えたけれど、どうも握りつぶされたようです… (文献6、7)。
平維幹・為幹親子は、権勢を誇ったのでしょうが、特に為幹は行状が悪く、許せませんね。
→ 平維幹、為幹親子及びそのゴシップについては、以前書いた記事をご参照下さい。
宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
しかし、源氏物語に『筑波山』が出てくることから、ちょっと調べてみただけでもいろいろ分かって面白い!
源氏物語には他にも『常陸』という言葉が度々出てきます。
それは、地名としてだったり、身分や役職名だったり。
奈良時代末期に成立したとみられる日本最古の和歌集『万葉集』には、筑波山を歌った歌が25首もあるのはご存じの方も多いでしょう。
それより時代が下った平安中期の歌人で、三十六歌仙の一人の源重之も筑波山を歌っているのを、今回知りました。
その歌を引用する形で、筑波山という名が源氏物語に出てくる!
万葉集以降の歌、平安時代~鎌倉・室町時代の頃の『筑波山』の歌も、近いうちに調べたいです(^^)
【おまけ】
この春から夏にかけてNHK第二ラジオの『古典朗読』という番組で、『更級日記』をシリーズで紹介していて、ストリーミング放送で聞きました。
藤原孝標女(ふじわらのたかつえのむすめ)著 『更科日記(さらしなにっき)』
こちらも紫式部の時代よりやや後の時代に生きた女性が書いた日記で、父が上総国介になり、
その赴任に従って上総国(千葉県南部)で育った文学少女は、当時超人気だった源氏物語マニアとなり、その思いを語る姿は、
今も昔もマニアの心は同じだと親近感を持ちます。
藤原孝標女は、50歳台になった頃、昔を回想する形で更科日記を書き綴ったようです。
藤原孝標女の父親は、60歳!になって今度は常陸国介になり、その年齢で一人で遠く単身赴任する時に、
年頃(といっても25歳で未婚)の娘を残していく心配を愚痴る場面があります。
それに、なかなかじーんとくるのは、私がそういう年齢になって身につまされるからですね…。
そして当時の受領階級(中級・下級貴族)の悲哀や、『常陸国介にしかなれない』という悲哀もあって、これまた興味深くも、
茨城県民としてはビミョーな気持ち。
でも、更級日記も今度、ちゃんと読んでみようっと♪
**********************************************
【参考文献】
1.「源氏物語 七」 新潮日本古典集成<新装版> i石田穣二・清水好子 校注 新潮社
2.「新訂 新古今和歌集」 ワイド版岩波文庫115 佐佐木信綱 校訂 岩波書店
3.「新古今和歌集 下」 新潮日本古典集成<新装版> 久保田淳 校注 新潮社
4. 「日本国語大辞典」 第2板 9巻 小学館
5.「古事類苑 樂舞部 一」 吉川弘文館
※豆電球 古事類苑については、国際日本文化研究センターのWEBサイトのデータベースのページ
http://db.nichibun.ac.jp/pc1/ja/
で全文を見ることが出来ます。
6. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修
7. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集
【参考サイト】 2020年10月現在のもの
1.Wikipedia 『紫式部』
2.コトバンク 『藤原為信』
3.Wikipedia 『藤原惟通』
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
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Posted by かるだ もん at 18:17│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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