2019年07月10日
宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)
※ 2019年7月19日 水守城跡の写真を追加しました。
日本の古典で、『宇治拾遺物語』という中世の説話集があります。
13世紀前半頃確立したそうですから、鎌倉時代に出来上がったようです。
学校の古典の授業で、物語の一部を習った方も多いかもしれません。
この『宇治拾遺物語』(文献1)のなかの説話の一つに、なんと現在のつくば市の、とある地域に住んでいた人が出てきます。
説話の題名は『伯ノ母ノ事(はくのははのこと)』
この物語に出てくる『たけのたいふ(多気の大夫)』というのが、その人。
その『伯ノ母ノ事』を、文献1の注釈を参考に、私の超~意訳であらすじを書くと
*** あらすじ ***
多気の大夫という人が、訴訟があって京都に上がった時、
お向かいの越前守の家で僧侶による読経の会がありました。
この越前守の奥さんは『伊勢の大輔』と呼ばれる人で、娘がたくさんいました。
娘たちのうちの一人は『伯の母』と呼ばれた有名な歌人でした。
で、多気の大夫もその集まりに行ってみると、御簾の奥がチラリと見えて、
中にいた紅い着物のお姫様(『伯の母』のお姉さん)に一目ぼれ。
多気の大夫さん、そのお姫様が忘れられず、さらって故郷(常陸国)に連れて帰ろうと画策します。
最初 お姫様の召使に何とかしてもらおうとしたけれど断られましたが、乳母の情報をゲット。
そして乳母にお金を渡したりで説得し、乳母も一緒にお姫様を連れ去って
急いで故郷に帰ることに成功します。
その後、大姫の妹(『伯の母』)が、歌を書いた手紙を送ると、
常陸国に連れていかれた大姫からも返事の歌が届いたりしました。
さて月日が経ち、『伯の母』の夫が常陸守(常陸国の国司)となり、
一緒に赴任先の常陸国に行くことになりました。
『伯の母』のお姉さんである大姫は、その時もう亡くなっていましたが、二人の娘がおり、『伯の母』に会いに来ました。
すると、『田舎の者とは思えないほど』雅びで美しい娘たちで、
娘たちも伯の母を見て『亡き母に似ている』と泣きました。
しかしその後、その娘たちは、叔母さんである『伯の母』や、その夫の常陸守に会ったり頼ったりすることはありませんでした。
月日が経ち、任期が終わって国司夫妻は都に帰ることになりました。
『今まで何の連絡も寄こさずに情けない』と叔母さんの夫である常陸守に嘆かれた大姫の娘二人は、
出立の二日前に、叔母さん夫妻である国司夫妻にお別れに会いに来ました。
で、その時に持ってきた餞別の品が豪華!
原文をそのまま引用しますと、
「えもいはぬ馬、一(ひとつ)をたからにする程の馬十疋づつ、
ふたりして、又また皮子(かはこ)おほせたる馬ども百疋づつ、
ふたりしてたてまつりり。何にも思(おもひ)たらず、か計(はかり)のことしたりともおもはず、
打(うち)たてまつりて帰(かえり)にけり」
二人ともそれぞれ、まず非常に立派な馬を、十頭ずつで計二十匹。
そしてそれとは別に皮籠を背負った馬を、百頭ずつ持参して、叔母さん夫妻に贈ったのでした。
そこまでのものすごい贈り物をしたにも関わらず、二人の娘たちは、そういう思わせぶりな様子もすることなく、
あっさりと帰ってしまいました。
計220頭の馬!
今の感覚で言うと、高級車20台、いろいろな贈り物を詰め込んだワゴン車200台を送った感じでしょうか!!
これを見た、常陸守(叔母さんの夫ですね)のセリフ、
また原文をそのまま引用しますと、
「常陸守の、「ありける常陸四年があひだの物はなにならず。
そのかはごの物どもしてこそよろづのくどくもなにもし給ひけれ。ゆゝしかりける物共の
心のおほきさひろさかな。」とかたられけるとぞ」
古文はよくわからないのですが、多分、
「常陸国の赴任期間4年の諸々の自分の収入など、餞別の物に比べれば何でもない。皮子に包まれて贈られた多くの物こそ、功徳になっておられる。恐れ多い人たちの心は大きく広いものだ」と常陸守は語りました。
ということでしょう。
…大量の贈り物をもらったとたん、手のひらを返したように褒めちぎる、伯の母の夫(任期の終わった常陸守)
…というツッコミはおいといて(^^;)。
この物語、ここで終われば良いものの、宇治拾遺物語はやはり京の都の人達が語ってきた話をまとめたようで、
最後の結びが、『いけず』。
原文を引用すると、
「此のいせのたいふの子孫は、めでたきさいはひ人おほくいでき給たるに、
大姫公の、かく、ゐ中びとになられたりける、あはれに心うくこそ」。
つまり、
「伊勢の大輔(維幹の奥さんになった大姫や「伯の母」の母親)」の子孫は有名な人がたくさん出たけれど、
大姫は田舎の人になってしまい、かわいそうなこと」
というまとめ方・・・。
「大姫はんはなあ、お金持ちとはいえ、田舎者にならはったわけでっしゃろ・・・ ほんま、お・き・の・ど・く」(←偽京都弁)ということで、
いやですねぇ、京の人は、ほんと、いけず。
ちなみに、この物語の最初の方と最後に2回、名前だけ出てくる『伊勢の大輔』という方。
『伯の母の母』である伊勢の大輔さんは有名な歌人で、例えば小倉百人一首にある
「いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに ひほひぬるかな」
は、この伊勢の大輔の歌です。
なのでこの物語は、現代にも名前が残っている 伊勢の大輔さん の娘達(大姫と『伯の母』)、孫娘達(大姫の二人の娘)の話でもあります。
題名にある「伯の母」は誰?
題名は『伯母事(はくのははのこと)』ということで、まず『伯の母』で誰?
ですが、
『伯の母』というのは歌人で、高階成順という人の二女(文献1)とのこと。
高階成順というのは、この物語の最初に出てくる『越前守』で、本当は『筑前守』が正しく、『越前守』は間違って伝えられたそうです。
『越前守』こと高階成順にはたくさん娘がいて、多気大夫にさらわれた大姫も、『伯の母』も、
高階成順と伊勢の大輔の間の娘(文献1)。
つまりは常陸国に赴任した夫についてきた奥さん=大姫の二人の娘達の叔母さんが、『伯の母』。
神祇伯康資王という人の母でもあるので、『伯の母』と呼ばれていたそうです。
物語の題名が『伯の母の事』となっているということは、伯の母の目線での物語か、
伯の母が語った(常陸国での姪達についての)話が巷に伝えられた
…ということでしょうか。
「多気の大夫」は誰?
で、本稿で最大の注目点、大姫をさらって常陸国に帰った
『多気の大夫』は誰か?
ですが、
① 第一候補
文献1や、文献2(『茨城県史 原始古代編』)など、一般には、平維幹(これもと)と考えられているようです。
平維幹は、後に平清盛が出る伊勢平氏や、この地に勢力を持つ常陸平氏の祖、平国香の孫の一人。
平将門の乱(天慶三年(940年))平将門を討った平貞盛の甥で養子の一人でもあります。
維幹は「水守の営所」にいたとのこと。
水守は現在のつくば市水守。
つくば市の北部工業団地、ウェルネスパーク、筑波北部公園があるエリアです。
(写真は ウェルネスパークから筑波山方面を望む。 2019年6月撮影)
水守の営所は、発掘調査から、現在の田水山小学校がある場所の近くにあったとのことです。
写真は田水山小学校敷地の隣にある小山の中にある、『水守城跡』の石碑。
ウェルネスパークの北1kmほどの所にあります。
(2019年7月撮影)
多気は地名で、今も多気山(城山)の名が残る北条付近。
維幹は最初は水守に居を構えていて、その後、多気に移ったようです。
(写真は、神郡方面から見た多気山(城山)。 2014年10月撮影)
また『大夫』とは、五位または五位以上の位の身分とのこと(文献1,2)。
②第二候補
ところが、「多気の大夫」=平維幹 説に異論を唱えてるのが、文献3(『筑波町史 上巻』)。
筑波町史では、平維幹ではなく、その息子の平為幹(ためもと)ではないかと推定しています。
その理由が、大姫に懸想してをさらってきた年齢。
平維幹だと、その御年70歳代でそんなことをしたことになるそうで、息子の為幹ならば年齢的に合致するからとのこと。
加えて息子の平為幹は、粗暴な人物だったようで、
常陸介として赴任していた紫式部の弟の常陸介 藤原惟通(これみち)が常陸国府で亡くなった時に、その妻と子供を無理やり自分のものにしてしまったそう。
筑波町史では、地元の人物のせいか(^^;)、「自宅に連れていってしまった」とマイルドな表現になっていますが、
「茨城県史」(文献2)では、もっと直接的に「惟通卒去のとき、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姧するという事件が起こった」
と書いています。
惟通の母親は朝廷にことの次第を訴えましたが、結局ウヤムヤにされたよう(怒)。
高階成順の大姫強奪(?)事件についても、年齢も該当するし、父の維幹と同じ「多気の大夫」ですし、為幹のヤツならやりかねないってことですね。
平維幹・為幹 父子は、都では財力にものを言わせて、有力貴族に繋がり、官位もをお金で買い、人脈も培い、常陸大掾氏としての地位を築き上げたわけで、まあ、相当のやり手だったわけです。
宇治拾遺物語の『伯母事』の表現(雅な古文の表現)もありますし、読み手によっては、『ロマンチック』に受け取れるような話ですが、
実は、とんでもない史実を含んでいる可能も大ありのよう…。
写真は、石岡市にある、常陸国府跡の碑。
常陸国府跡は、現在の石岡小学校の地にありました(現在は校庭の下に埋め戻されているそう)。
(写真は2013年9月撮影)
筑波山麓に、平等院鳳凰堂のような寺院があった!
筑波山麓の北条地区には、『多気山=城山(じょうやま)』と呼ばれる小山があります。
その多気山(城山)の麓に『日向廃寺跡』という史跡があります。
つくば市指定遺跡です。
この日向廃寺は、多気氏の私寺だったと考えられるとのこと。
現在も、平安末期の史跡で建物の礎石が残っていますが、京都の宇治の平等院鳳凰堂のような構造のお寺だったようです。
日向廃寺の礎石
(写真は2011年5月撮影)
平等院鳳凰堂のような建築ということは、雛に稀なる優美な建築だったのでしょう。
ちなみに関東地方ではこのような形の寺は珍しいそうです(文献3)。
やはりかなりの財力を持っていたのがうかがえます。
日向廃寺については→ 茨城県立歴史館サイト 「日向廃寺」
筑波山から、多気山方向を望む(2017年4月撮影)
後編は、物語にツッコミ(?)を入れながら、物語の背景を考えていきます。
後編に続く。
→ 宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
*********************************************
【参考文献】
1. 『宇治拾遺物語』 中島悦次 校注 角川ソフィア文庫
2. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修
3. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集
4. 『つくば市の文化財』 つくば市教育委員会 編集
5. 『里の国の中世』 網野善彦 著 平凡社
6. 『よみがえる 古代の茨城』 茨城県立歴史館
※ 2019年7月19日 水守城跡の写真を追加しました。
日本の古典で、『宇治拾遺物語』という中世の説話集があります。
13世紀前半頃確立したそうですから、鎌倉時代に出来上がったようです。
学校の古典の授業で、物語の一部を習った方も多いかもしれません。
この『宇治拾遺物語』(文献1)のなかの説話の一つに、なんと現在のつくば市の、とある地域に住んでいた人が出てきます。
説話の題名は『伯ノ母ノ事(はくのははのこと)』
この物語に出てくる『たけのたいふ(多気の大夫)』というのが、その人。
その『伯ノ母ノ事』を、文献1の注釈を参考に、私の超~意訳であらすじを書くと
*** あらすじ ***
多気の大夫という人が、訴訟があって京都に上がった時、
お向かいの越前守の家で僧侶による読経の会がありました。
この越前守の奥さんは『伊勢の大輔』と呼ばれる人で、娘がたくさんいました。
娘たちのうちの一人は『伯の母』と呼ばれた有名な歌人でした。
で、多気の大夫もその集まりに行ってみると、御簾の奥がチラリと見えて、
中にいた紅い着物のお姫様(『伯の母』のお姉さん)に一目ぼれ。
多気の大夫さん、そのお姫様が忘れられず、さらって故郷(常陸国)に連れて帰ろうと画策します。
最初 お姫様の召使に何とかしてもらおうとしたけれど断られましたが、乳母の情報をゲット。
そして乳母にお金を渡したりで説得し、乳母も一緒にお姫様を連れ去って
急いで故郷に帰ることに成功します。
その後、大姫の妹(『伯の母』)が、歌を書いた手紙を送ると、
常陸国に連れていかれた大姫からも返事の歌が届いたりしました。
さて月日が経ち、『伯の母』の夫が常陸守(常陸国の国司)となり、
一緒に赴任先の常陸国に行くことになりました。
『伯の母』のお姉さんである大姫は、その時もう亡くなっていましたが、二人の娘がおり、『伯の母』に会いに来ました。
すると、『田舎の者とは思えないほど』雅びで美しい娘たちで、
娘たちも伯の母を見て『亡き母に似ている』と泣きました。
しかしその後、その娘たちは、叔母さんである『伯の母』や、その夫の常陸守に会ったり頼ったりすることはありませんでした。
月日が経ち、任期が終わって国司夫妻は都に帰ることになりました。
『今まで何の連絡も寄こさずに情けない』と叔母さんの夫である常陸守に嘆かれた大姫の娘二人は、
出立の二日前に、叔母さん夫妻である国司夫妻にお別れに会いに来ました。
で、その時に持ってきた餞別の品が豪華!
原文をそのまま引用しますと、
「えもいはぬ馬、一(ひとつ)をたからにする程の馬十疋づつ、
ふたりして、又また皮子(かはこ)おほせたる馬ども百疋づつ、
ふたりしてたてまつりり。何にも思(おもひ)たらず、か計(はかり)のことしたりともおもはず、
打(うち)たてまつりて帰(かえり)にけり」
二人ともそれぞれ、まず非常に立派な馬を、十頭ずつで計二十匹。
そしてそれとは別に皮籠を背負った馬を、百頭ずつ持参して、叔母さん夫妻に贈ったのでした。
そこまでのものすごい贈り物をしたにも関わらず、二人の娘たちは、そういう思わせぶりな様子もすることなく、
あっさりと帰ってしまいました。
計220頭の馬!
今の感覚で言うと、高級車20台、いろいろな贈り物を詰め込んだワゴン車200台を送った感じでしょうか!!
これを見た、常陸守(叔母さんの夫ですね)のセリフ、
また原文をそのまま引用しますと、
「常陸守の、「ありける常陸四年があひだの物はなにならず。
そのかはごの物どもしてこそよろづのくどくもなにもし給ひけれ。ゆゝしかりける物共の
心のおほきさひろさかな。」とかたられけるとぞ」
古文はよくわからないのですが、多分、
「常陸国の赴任期間4年の諸々の自分の収入など、餞別の物に比べれば何でもない。皮子に包まれて贈られた多くの物こそ、功徳になっておられる。恐れ多い人たちの心は大きく広いものだ」と常陸守は語りました。
ということでしょう。
…大量の贈り物をもらったとたん、手のひらを返したように褒めちぎる、伯の母の夫(任期の終わった常陸守)
…というツッコミはおいといて(^^;)。
この物語、ここで終われば良いものの、宇治拾遺物語はやはり京の都の人達が語ってきた話をまとめたようで、
最後の結びが、『いけず』。
原文を引用すると、
「此のいせのたいふの子孫は、めでたきさいはひ人おほくいでき給たるに、
大姫公の、かく、ゐ中びとになられたりける、あはれに心うくこそ」。
つまり、
「伊勢の大輔(維幹の奥さんになった大姫や「伯の母」の母親)」の子孫は有名な人がたくさん出たけれど、
大姫は田舎の人になってしまい、かわいそうなこと」
というまとめ方・・・。
「大姫はんはなあ、お金持ちとはいえ、田舎者にならはったわけでっしゃろ・・・ ほんま、お・き・の・ど・く」(←偽京都弁)ということで、
いやですねぇ、京の人は、ほんと、いけず。
ちなみに、この物語の最初の方と最後に2回、名前だけ出てくる『伊勢の大輔』という方。
『伯の母の母』である伊勢の大輔さんは有名な歌人で、例えば小倉百人一首にある
「いにしへの ならのみやこの やへざくら けふここのへに ひほひぬるかな」
は、この伊勢の大輔の歌です。
なのでこの物語は、現代にも名前が残っている 伊勢の大輔さん の娘達(大姫と『伯の母』)、孫娘達(大姫の二人の娘)の話でもあります。
題名にある「伯の母」は誰?
題名は『伯母事(はくのははのこと)』ということで、まず『伯の母』で誰?
ですが、
『伯の母』というのは歌人で、高階成順という人の二女(文献1)とのこと。
高階成順というのは、この物語の最初に出てくる『越前守』で、本当は『筑前守』が正しく、『越前守』は間違って伝えられたそうです。
『越前守』こと高階成順にはたくさん娘がいて、多気大夫にさらわれた大姫も、『伯の母』も、
高階成順と伊勢の大輔の間の娘(文献1)。
つまりは常陸国に赴任した夫についてきた奥さん=大姫の二人の娘達の叔母さんが、『伯の母』。
神祇伯康資王という人の母でもあるので、『伯の母』と呼ばれていたそうです。
物語の題名が『伯の母の事』となっているということは、伯の母の目線での物語か、
伯の母が語った(常陸国での姪達についての)話が巷に伝えられた
…ということでしょうか。
「多気の大夫」は誰?
で、本稿で最大の注目点、大姫をさらって常陸国に帰った
『多気の大夫』は誰か?
ですが、
① 第一候補
文献1や、文献2(『茨城県史 原始古代編』)など、一般には、平維幹(これもと)と考えられているようです。
平維幹は、後に平清盛が出る伊勢平氏や、この地に勢力を持つ常陸平氏の祖、平国香の孫の一人。
平将門の乱(天慶三年(940年))平将門を討った平貞盛の甥で養子の一人でもあります。
維幹は「水守の営所」にいたとのこと。
水守は現在のつくば市水守。
つくば市の北部工業団地、ウェルネスパーク、筑波北部公園があるエリアです。
(写真は ウェルネスパークから筑波山方面を望む。 2019年6月撮影)
水守の営所は、発掘調査から、現在の田水山小学校がある場所の近くにあったとのことです。
写真は田水山小学校敷地の隣にある小山の中にある、『水守城跡』の石碑。
ウェルネスパークの北1kmほどの所にあります。
(2019年7月撮影)
多気は地名で、今も多気山(城山)の名が残る北条付近。
維幹は最初は水守に居を構えていて、その後、多気に移ったようです。
(写真は、神郡方面から見た多気山(城山)。 2014年10月撮影)
また『大夫』とは、五位または五位以上の位の身分とのこと(文献1,2)。
②第二候補
ところが、「多気の大夫」=平維幹 説に異論を唱えてるのが、文献3(『筑波町史 上巻』)。
筑波町史では、平維幹ではなく、その息子の平為幹(ためもと)ではないかと推定しています。
その理由が、大姫に懸想してをさらってきた年齢。
平維幹だと、その御年70歳代でそんなことをしたことになるそうで、息子の為幹ならば年齢的に合致するからとのこと。
加えて息子の平為幹は、粗暴な人物だったようで、
常陸介として赴任していた紫式部の弟の常陸介 藤原惟通(これみち)が常陸国府で亡くなった時に、その妻と子供を無理やり自分のものにしてしまったそう。
筑波町史では、地元の人物のせいか(^^;)、「自宅に連れていってしまった」とマイルドな表現になっていますが、
「茨城県史」(文献2)では、もっと直接的に「惟通卒去のとき、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姧するという事件が起こった」
と書いています。
惟通の母親は朝廷にことの次第を訴えましたが、結局ウヤムヤにされたよう(怒)。
高階成順の大姫強奪(?)事件についても、年齢も該当するし、父の維幹と同じ「多気の大夫」ですし、為幹のヤツならやりかねないってことですね。
平維幹・為幹 父子は、都では財力にものを言わせて、有力貴族に繋がり、官位もをお金で買い、人脈も培い、常陸大掾氏としての地位を築き上げたわけで、まあ、相当のやり手だったわけです。
宇治拾遺物語の『伯母事』の表現(雅な古文の表現)もありますし、読み手によっては、『ロマンチック』に受け取れるような話ですが、
実は、とんでもない史実を含んでいる可能も大ありのよう…。
写真は、石岡市にある、常陸国府跡の碑。
常陸国府跡は、現在の石岡小学校の地にありました(現在は校庭の下に埋め戻されているそう)。
(写真は2013年9月撮影)
筑波山麓に、平等院鳳凰堂のような寺院があった!
筑波山麓の北条地区には、『多気山=城山(じょうやま)』と呼ばれる小山があります。
その多気山(城山)の麓に『日向廃寺跡』という史跡があります。
つくば市指定遺跡です。
この日向廃寺は、多気氏の私寺だったと考えられるとのこと。
現在も、平安末期の史跡で建物の礎石が残っていますが、京都の宇治の平等院鳳凰堂のような構造のお寺だったようです。
日向廃寺の礎石
(写真は2011年5月撮影)
平等院鳳凰堂のような建築ということは、雛に稀なる優美な建築だったのでしょう。
ちなみに関東地方ではこのような形の寺は珍しいそうです(文献3)。
やはりかなりの財力を持っていたのがうかがえます。
日向廃寺については→ 茨城県立歴史館サイト 「日向廃寺」
筑波山から、多気山方向を望む(2017年4月撮影)
後編は、物語にツッコミ(?)を入れながら、物語の背景を考えていきます。
後編に続く。
→ 宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
*********************************************
【参考文献】
1. 『宇治拾遺物語』 中島悦次 校注 角川ソフィア文庫
2. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修
3. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集
4. 『つくば市の文化財』 つくば市教育委員会 編集
5. 『里の国の中世』 網野善彦 著 平凡社
6. 『よみがえる 古代の茨城』 茨城県立歴史館
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9) 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
国立歴史民俗博物館 企画展 『陰陽師とは何者か』 を見て
映画『石岡タロー』
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
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国立歴史民俗博物館 企画展 『陰陽師とは何者か』 を見て
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Posted by かるだ もん at 23:14│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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