2010年03月07日
悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(1)
茨城&つくばプチ民俗学 悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(1)
(初出:2010年3月07日 23時15分)
つくば市の千現の広大なエリアにある、独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 JAXA(ジャクサ)の筑波宇宙センター。
宇宙技術の開発・試験、人工衛星の追跡、宇宙飛行士の訓練など、宇宙技術の最先端が、この土地で行われているのは、皆さんご存じの通りです。
常に国内外から熱い視線が注がれるこの土地(←「宇宙センター」ゆえ、諸外国の軍事衛星も空の上からチェックしているらしい)。 実は今から300年以上前も、近隣から熱い視線を浴び(?)、所有権争いの場となっていました。
★秣場
「秣場」ということば、ご存知ですか。
「まぐさば」と読みます。
大辞林(三省堂)によると「秣を刈りとる野原。入会地である場合が多い。」とのこと。
また、「秣(まぐさ)」とは、「馬や牛の飼料とする草」で、「秣には馬や牛に与える飼料一般やそれらを与えて飼育することの意味も含まれており、」「また、化学肥料が普及する以前の農業においては馬や牛の糞尿は貴重な肥料であり、秣はそれを生み出すものとして重要視され、場合によっては秣そのものを肥料にすることも可能であった。」(ウィキペディア(Wikipedia)より)そうです。
このように、「秣」を得るための場所は、古来より非常に重要な地で、「入会地」と言って近隣の集落・村で共有していたそうですが、所有権について、しばしば争いになっていたようです。
筑波宇宙センターがある、現在の千現の地あたりも、そのような秣場の一つでした。
「いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図」 ((財)日本地図センター)に、元禄10年(1697年)の「蔵掛村花室村と小野崎村秣場論裁許絵図」が、掲載されています。
蔵掛(倉掛)村、花室村は、現在の倉掛地区と花室地区で、つくば市になるまでは、旧桜村でした。江戸時代は、倉掛村は幕府直轄領(新庄綱五郎知行)、花室村は土浦藩(南郷組)領でした(「桜村史 下巻」(桜村史編さん委員会))。(なお、「谷田部の歴史」」(谷田部の歴史編さん委員会)では花室村は「太田帯刀の知行所で旗本領」となっている)
また、小野崎村は、現在の小野崎地区で、つくば市になる前は旧谷田部村で、江戸時代は谷田部藩でした(「谷田部の歴史」)。
今から300年ちょっと前、この3つの村(事実上は、倉掛・花室 vs 小野崎)が、現在の宇宙センターがある秣場の所有権を争ったのです。
★元禄の御難
「谷田部の歴史」によると、
「元禄三年(1690) 隣村の新治郡倉掛村、花室村より、地続き原野の境界争いの訴訟が起こされた。同一〇年(1697年)小野崎村の敗訴に帰し、約五〇町歩(約五〇ヘクタール)の原野をとられてしまった。 」
7年間の訴訟の後、小野崎村が負けて、秣場を取られてしまいました。
同書によると、
「(花室、倉掛は)ともに旗本領であった。ところが小野崎村は細川領(外様大名)の領地であったため、なにかにつけて不如意の点が多く、理不尽にも敗訴したと伝えられている」
さらに小野崎村の悲劇は続きます。
小野崎集落を望む
小野崎 (前方は小野崎館跡)
「小野崎村はこの判決に不服で、判決にもとづき、境塚を築造することをためらっていた。これをとがめた当局は、一〇月一四日名主である荒井太郎左衛門を逮捕し入獄させた。
・・・(中略)・・・
入獄した太郎左衛門は、心身共につかれはてたためか、入獄一か月後の一一月一三日あえなく牢死をとげた。
・・・(中略)・・・
ところが後を追うようにして、一二月一四日父利右衛門も歿した。これは長い荒井氏の歴史の中で、最も悲しい事件であった。人びとはこの悲劇を「元禄の御難」と呼んで、犠牲となった荒井氏をしのんだという 。」
小野崎村は外様大名の谷田部藩領だったゆえ、幕府直轄領もしくは土浦藩領だった倉掛村・花室村に負けただけでなく、理不尽な処遇を受け、名主父子は憤死しまったというのです。
昭和50年発行の同書にも掲載されるくらい、ずっと言い伝えられており、それくらい悔しい想いをした村民の気持ちが伝わってくるようです。
さて、勝訴した倉掛村、花室村側の方の歴史的記録は、どうなっているのでしょうか。
以下次号です。
→ 悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(1)
掲載当時頂いた* コメント
元禄の御難・小野崎村の悔しい思いは言い伝えられているのですね。
早く続きが知りたいです。よろしくお願いいたします。m(__)m
by ポップコーン at 3月7日 23時57分
つくばに来て初めてすんだ千現地区にこんな話があったとは・・・
続きが早く知りたいです。
私が来たときはまだ桜村だったんですよ。当時は宇宙センターの裏、パン屋さんのモルゲンのすぐそばに住んでいました。
by カナメモチ at 3月10日 22時28分
明日は(3/14)私たち千現一丁目会では隣地ということで自治会主催の「宇宙センター見学ツアー」が実施されます。
約80名が参加されます。
特別に敷地内を案内していただけます。
早速、プチ知識をお借りして「秣場」の話をさせてもらいます。(ちょっと鼻を高くしてね)
ありがとうございました。
by ぐらんぱ at 3月13日 23時07分
ぐらんぱさま
自治会での見学ツアーで「秣場」の話をされるとのこと、記事を書いたことが少しでもお役に立てて、望外の喜びです!ありがとうございます。
しかしなかなか時間が取れず、続きの掲載が遅れていて、3/14に間に合わず申し訳ありませんでした。急いで続きを書きたいと思います。
by かるだもん at 3月17日 21時17分
ポップコーンさま、カナメモチさま
ありがとうございます。続きをアップしました。読んで頂けると嬉しいです。
カナメモチさまが来られた時は桜村だったんですね。私の時もでした。 モルゲンの近くに住んでいらっしゃったとのこと、本当に「秣場」エリアに住まわれていたんですね。
by かるだもん at 3月18日 20時49分
(初出:2010年3月07日 23時15分)

宇宙技術の開発・試験、人工衛星の追跡、宇宙飛行士の訓練など、宇宙技術の最先端が、この土地で行われているのは、皆さんご存じの通りです。
常に国内外から熱い視線が注がれるこの土地(←「宇宙センター」ゆえ、諸外国の軍事衛星も空の上からチェックしているらしい)。 実は今から300年以上前も、近隣から熱い視線を浴び(?)、所有権争いの場となっていました。
★秣場
「秣場」ということば、ご存知ですか。
「まぐさば」と読みます。
大辞林(三省堂)によると「秣を刈りとる野原。入会地である場合が多い。」とのこと。
また、「秣(まぐさ)」とは、「馬や牛の飼料とする草」で、「秣には馬や牛に与える飼料一般やそれらを与えて飼育することの意味も含まれており、」「また、化学肥料が普及する以前の農業においては馬や牛の糞尿は貴重な肥料であり、秣はそれを生み出すものとして重要視され、場合によっては秣そのものを肥料にすることも可能であった。」(ウィキペディア(Wikipedia)より)そうです。
このように、「秣」を得るための場所は、古来より非常に重要な地で、「入会地」と言って近隣の集落・村で共有していたそうですが、所有権について、しばしば争いになっていたようです。
筑波宇宙センターがある、現在の千現の地あたりも、そのような秣場の一つでした。
「いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図」 ((財)日本地図センター)に、元禄10年(1697年)の「蔵掛村花室村と小野崎村秣場論裁許絵図」が、掲載されています。
蔵掛(倉掛)村、花室村は、現在の倉掛地区と花室地区で、つくば市になるまでは、旧桜村でした。江戸時代は、倉掛村は幕府直轄領(新庄綱五郎知行)、花室村は土浦藩(南郷組)領でした(「桜村史 下巻」(桜村史編さん委員会))。(なお、「谷田部の歴史」」(谷田部の歴史編さん委員会)では花室村は「太田帯刀の知行所で旗本領」となっている)
また、小野崎村は、現在の小野崎地区で、つくば市になる前は旧谷田部村で、江戸時代は谷田部藩でした(「谷田部の歴史」)。
今から300年ちょっと前、この3つの村(事実上は、倉掛・花室 vs 小野崎)が、現在の宇宙センターがある秣場の所有権を争ったのです。
★元禄の御難
「谷田部の歴史」によると、
「元禄三年(1690) 隣村の新治郡倉掛村、花室村より、地続き原野の境界争いの訴訟が起こされた。同一〇年(1697年)小野崎村の敗訴に帰し、約五〇町歩(約五〇ヘクタール)の原野をとられてしまった。 」
7年間の訴訟の後、小野崎村が負けて、秣場を取られてしまいました。
同書によると、
「(花室、倉掛は)ともに旗本領であった。ところが小野崎村は細川領(外様大名)の領地であったため、なにかにつけて不如意の点が多く、理不尽にも敗訴したと伝えられている」
さらに小野崎村の悲劇は続きます。

「小野崎村はこの判決に不服で、判決にもとづき、境塚を築造することをためらっていた。これをとがめた当局は、一〇月一四日名主である荒井太郎左衛門を逮捕し入獄させた。
・・・(中略)・・・
入獄した太郎左衛門は、心身共につかれはてたためか、入獄一か月後の一一月一三日あえなく牢死をとげた。
・・・(中略)・・・
ところが後を追うようにして、一二月一四日父利右衛門も歿した。これは長い荒井氏の歴史の中で、最も悲しい事件であった。人びとはこの悲劇を「元禄の御難」と呼んで、犠牲となった荒井氏をしのんだという 。」
小野崎村は外様大名の谷田部藩領だったゆえ、幕府直轄領もしくは土浦藩領だった倉掛村・花室村に負けただけでなく、理不尽な処遇を受け、名主父子は憤死しまったというのです。
昭和50年発行の同書にも掲載されるくらい、ずっと言い伝えられており、それくらい悔しい想いをした村民の気持ちが伝わってくるようです。
さて、勝訴した倉掛村、花室村側の方の歴史的記録は、どうなっているのでしょうか。
以下次号です。
→ 悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(1)
掲載当時頂いた* コメント
元禄の御難・小野崎村の悔しい思いは言い伝えられているのですね。
早く続きが知りたいです。よろしくお願いいたします。m(__)m
by ポップコーン at 3月7日 23時57分
つくばに来て初めてすんだ千現地区にこんな話があったとは・・・
続きが早く知りたいです。
私が来たときはまだ桜村だったんですよ。当時は宇宙センターの裏、パン屋さんのモルゲンのすぐそばに住んでいました。
by カナメモチ at 3月10日 22時28分
明日は(3/14)私たち千現一丁目会では隣地ということで自治会主催の「宇宙センター見学ツアー」が実施されます。
約80名が参加されます。
特別に敷地内を案内していただけます。
早速、プチ知識をお借りして「秣場」の話をさせてもらいます。(ちょっと鼻を高くしてね)
ありがとうございました。
by ぐらんぱ at 3月13日 23時07分
ぐらんぱさま
自治会での見学ツアーで「秣場」の話をされるとのこと、記事を書いたことが少しでもお役に立てて、望外の喜びです!ありがとうございます。
しかしなかなか時間が取れず、続きの掲載が遅れていて、3/14に間に合わず申し訳ありませんでした。急いで続きを書きたいと思います。
by かるだもん at 3月17日 21時17分
ポップコーンさま、カナメモチさま
ありがとうございます。続きをアップしました。読んで頂けると嬉しいです。
カナメモチさまが来られた時は桜村だったんですね。私の時もでした。 モルゲンの近くに住んでいらっしゃったとのこと、本当に「秣場」エリアに住まわれていたんですね。
by かるだもん at 3月18日 20時49分
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Posted by かるだ もん at 23:15│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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