2010年03月18日
悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(2)
茨城&つくばプチ民俗学 悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(2)
(初出:2010年3月18日 22時44分)
前回までのお話は → 悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(1)
さて、今は昔の約300年前の、現在の千現地区で繰り広げられた、 「秣場(まぐさば)」争い。
前回は、悔しさを今に伝える(?)旧小野崎村のお話でした。
今回は、勝訴した旧倉掛村、花室村側の話です。
旧倉掛村(現在の倉掛地区)と旧花室村(現在の花室地区)は、前回も書いたように、つくば市になる前は、新治郡桜村でした。
なので、まず、「桜村史」(桜村史編さん委員会著 桜村教育委員会 出版 上巻 昭和57年発行 下巻 昭和58年発行)を調べました。
・・・が、記載なし!? 。
寛延三年(1750年)の栗原村と玉取村の水争いについては記載がありますが、この秣場争いについては何も掲載されていません。
巻末の年表にも一言も記載なし!
倉掛村は幕府直轄領でしたが、花室村は土浦藩領だったとのことなので、念のため、土浦市史(土浦市史編集委員会 編集 昭和50年発行)を調べましたが、やはりこの地の秣場争いの掲載はありません。
元禄当時はいざ知らず、歴史書が編さんされた昭和の時は桜村でしたらから、歴史として書かれるのは、当然桜村史なのですが、編さん委員会の調査漏れか、故意のシカトか(?)。ちゃんとした古文書がなかったからとして、記載しなかったのでしょうか??
さて、「つくばの自然誌11 洞峰公園」(学園都市の自然と親しむ会編 STEP発行)にも「元禄の秣場争い」という見出しで、この三つの村の争いの話が紹介されています。
このp.112で「一方、蔵掛村などでは勝利を記念して、富士山のよく見える所に塚を築き千現神社を祀り千現塚と称しました。」とあります。
さらに「つくば市遺跡地図」を見てみると、倉掛地域に、「倉掛千現塚」というものが記載されています。ここですね!
文献がダメなら、実地検分ということで、行ってきました。
東大通り「千現一丁目南」交差点から東の方へ入った道の脇に小高い塚があります。塚のふもとは墓地です。
塚に登ってみると、頂上付近に小さな「富士山」の祠があります。
また、秣場を眺める方向に、大きな石碑があり、「千現塚由来」とあり、読んでみると、小野崎・倉掛・花室の秣場争いのことが書かれているではありませんか。
以下、石碑の文章を掲載します(旧漢字は、一部現代の漢字に書き直しました)。
---------------------------------------------
千現塚由来
元禄三年一六九〇年隣村小野崎村現谷田部町小野崎と蔵掛村
花室村現桜村倉掛同花室との間に地続原野の境界争の訴訟が起
された 当時この原野の草資源は家畜の飼料とまた草葺屋根の材料
として貴重なるものであった 当倉掛はこのため有志相計り富士山
浅間神社に願望達成を祈願した 結果元禄十年一六九七年時の幕
府の判決は当部落の願いが入られ境界の設定を見ここに於て当方
はこれを記念し富士山を眺望するこの地に塚を築き祠を建てゝ
浅間神社を祀った 喬木うつ蒼と茂り附近住民の信仰と道しるべ
として親しまれた研究学園の概成を見変貌著しいこの地
に昔日を偲びこの一帯を千現待ちと改め記念碑を建て後世につた
えるものである
昭和五十四年四月吉日
千現神社建設委員 (以下委員の名前が続く)
-----------------------------------------------
桜村史に記載されていない分、この倉掛の石碑にはあらましが彫られていました。
昭和54年、研究学園建設でものすごい変貌を遂げる中、地域の人々がこの石碑を建てることで、記録を残していたんですね。
勝訴した当時は喜びに浮き立ったことでしょうが、この石碑は史実だけを淡々と伝えるのみです。しかしこの石碑が建てられたいうことは、少なくとも倉掛の人々には300年前のことがちゃんと伝わっている、ということですよね
さて、「千現」の地の名前ですが、
浅間(せんげん)神社信仰 = 富士山が見える塚
⇒ 千現(せんげん)塚
という名称になったようですね。
どうして「浅間(せんげん)」でなくて、「千現(せんげん)」という字を当てたのか、知りたいところです。 地元の方でいわれをご存知の方、教えて頂ける嬉しいです 。
しかしながら、古絵図がしっかり残っていますし、歴史的には事実のようですから、桜村史(村はないので旧桜村地区史)、改定増補版出して欲しいのは、私だけでしょうか。
だいたい、桜村史発行の3~4年前に、既に千現塚由来の石碑は出来て建てられたようですし、他にも掲載漏れや調査漏れもありそうな・・・。
(その後、発掘調査や発見もあったでしょうから、つくば市にそろそろ各旧町村ごとの歴史を再発行して欲しいです )。
ところで、「谷田部町の歴史」を読むと、負けた小野崎村も、泣く泣く境界の塚を作ったようです。
しかし、その塚がどこにあるのかは、残念ながら今のところ、文献からも遺跡地図からも分かりません。学園都市建設の頃は「文化財保護」という思想はなかったようなので、開発の名の下、せん滅されてしまったのでしょうか。
言い伝えなど、地元の古老に聞くしかないのでしょう・・・。ご存知の地元の方、こちらも教えて頂けると嬉しいです。
この千現塚から、当時争われた秣場方面を見てみました。新興住宅の家々の屋根の向こうに、JAXA 筑波宇宙センターがあります。現代的な新館の建物が見えます。
昔は富士山が見えたのかもしれません。今も、冬の晴れた日はもしかすると、富士山の先っちょくらいは並木の後ろ見えるかもしれません。
私が訪れたこの日、2月の終わり。曇っていましたが、紅梅の花がとても鮮やかでした。 もうすぐ春がやってきます。
-----------------------
参考文献
・「いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図」 財団法人 日本地図センター
・「谷田部町の歴史」 (昭和50年9月) 谷田部の歴史編さん委員会 著 谷田部町教育委員会 発行
・「桜村史」 桜村史編さん委員会著 桜村教育委員会 出版 上巻 昭和57年発行 下巻 昭和58年発行
・「土浦市史」 土浦市史編集委員会 編集 昭和50年発行
・「図説 土浦・石岡・つくばの歴史」 佐久間好雄 監修 郷土出版社(2004年11月)
・「地図で見る つくば市の変遷」 財団法人 日本地図センター
・「つくば市遺跡地図」 つくば市教育委員会(平成13年7月)
・「つくばの自然史11 洞峰公園」 学園都市の自然と親しむ会編 STEP発行(1995年7月)
掲載当時頂いたコメント
プチ民俗学を楽しみにしています。それぞれの村人の気持ちを想像してしまいます。地図を見て、今度近くを通ったら車を停めて、『千現塚由来』を探してみますね。石碑を建てた昭和54年には村人に300年前からの熱い思いが残っていたのでしょう。
次も期待しています。(^o^)丿
by ポップコーン at 3月19日 10時19分
(初出:2010年3月18日 22時44分)
前回までのお話は → 悔し涙の村、勝利に浮き立つ村(1)
さて、今は昔の約300年前の、現在の千現地区で繰り広げられた、 「秣場(まぐさば)」争い。
前回は、悔しさを今に伝える(?)旧小野崎村のお話でした。
今回は、勝訴した旧倉掛村、花室村側の話です。
旧倉掛村(現在の倉掛地区)と旧花室村(現在の花室地区)は、前回も書いたように、つくば市になる前は、新治郡桜村でした。
なので、まず、「桜村史」(桜村史編さん委員会著 桜村教育委員会 出版 上巻 昭和57年発行 下巻 昭和58年発行)を調べました。
・・・が、記載なし!? 。
寛延三年(1750年)の栗原村と玉取村の水争いについては記載がありますが、この秣場争いについては何も掲載されていません。
巻末の年表にも一言も記載なし!
倉掛村は幕府直轄領でしたが、花室村は土浦藩領だったとのことなので、念のため、土浦市史(土浦市史編集委員会 編集 昭和50年発行)を調べましたが、やはりこの地の秣場争いの掲載はありません。
元禄当時はいざ知らず、歴史書が編さんされた昭和の時は桜村でしたらから、歴史として書かれるのは、当然桜村史なのですが、編さん委員会の調査漏れか、故意のシカトか(?)。ちゃんとした古文書がなかったからとして、記載しなかったのでしょうか??
さて、「つくばの自然誌11 洞峰公園」(学園都市の自然と親しむ会編 STEP発行)にも「元禄の秣場争い」という見出しで、この三つの村の争いの話が紹介されています。
このp.112で「一方、蔵掛村などでは勝利を記念して、富士山のよく見える所に塚を築き千現神社を祀り千現塚と称しました。」とあります。
さらに「つくば市遺跡地図」を見てみると、倉掛地域に、「倉掛千現塚」というものが記載されています。ここですね!
文献がダメなら、実地検分ということで、行ってきました。
東大通り「千現一丁目南」交差点から東の方へ入った道の脇に小高い塚があります。塚のふもとは墓地です。
塚に登ってみると、頂上付近に小さな「富士山」の祠があります。
また、秣場を眺める方向に、大きな石碑があり、「千現塚由来」とあり、読んでみると、小野崎・倉掛・花室の秣場争いのことが書かれているではありませんか。
以下、石碑の文章を掲載します(旧漢字は、一部現代の漢字に書き直しました)。
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千現塚由来
元禄三年一六九〇年隣村小野崎村現谷田部町小野崎と蔵掛村
花室村現桜村倉掛同花室との間に地続原野の境界争の訴訟が起
された 当時この原野の草資源は家畜の飼料とまた草葺屋根の材料
として貴重なるものであった 当倉掛はこのため有志相計り富士山
浅間神社に願望達成を祈願した 結果元禄十年一六九七年時の幕
府の判決は当部落の願いが入られ境界の設定を見ここに於て当方
はこれを記念し富士山を眺望するこの地に塚を築き祠を建てゝ
浅間神社を祀った 喬木うつ蒼と茂り附近住民の信仰と道しるべ
として親しまれた研究学園の概成を見変貌著しいこの地
に昔日を偲びこの一帯を千現待ちと改め記念碑を建て後世につた
えるものである
昭和五十四年四月吉日
千現神社建設委員 (以下委員の名前が続く)
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桜村史に記載されていない分、この倉掛の石碑にはあらましが彫られていました。
昭和54年、研究学園建設でものすごい変貌を遂げる中、地域の人々がこの石碑を建てることで、記録を残していたんですね。
勝訴した当時は喜びに浮き立ったことでしょうが、この石碑は史実だけを淡々と伝えるのみです。しかしこの石碑が建てられたいうことは、少なくとも倉掛の人々には300年前のことがちゃんと伝わっている、ということですよね
さて、「千現」の地の名前ですが、
浅間(せんげん)神社信仰 = 富士山が見える塚
⇒ 千現(せんげん)塚
という名称になったようですね。
どうして「浅間(せんげん)」でなくて、「千現(せんげん)」という字を当てたのか、知りたいところです。 地元の方でいわれをご存知の方、教えて頂ける嬉しいです 。
しかしながら、古絵図がしっかり残っていますし、歴史的には事実のようですから、桜村史(村はないので旧桜村地区史)、改定増補版出して欲しいのは、私だけでしょうか。
だいたい、桜村史発行の3~4年前に、既に千現塚由来の石碑は出来て建てられたようですし、他にも掲載漏れや調査漏れもありそうな・・・。
(その後、発掘調査や発見もあったでしょうから、つくば市にそろそろ各旧町村ごとの歴史を再発行して欲しいです )。
ところで、「谷田部町の歴史」を読むと、負けた小野崎村も、泣く泣く境界の塚を作ったようです。
しかし、その塚がどこにあるのかは、残念ながら今のところ、文献からも遺跡地図からも分かりません。学園都市建設の頃は「文化財保護」という思想はなかったようなので、開発の名の下、せん滅されてしまったのでしょうか。
言い伝えなど、地元の古老に聞くしかないのでしょう・・・。ご存知の地元の方、こちらも教えて頂けると嬉しいです。
この千現塚から、当時争われた秣場方面を見てみました。新興住宅の家々の屋根の向こうに、JAXA 筑波宇宙センターがあります。現代的な新館の建物が見えます。
昔は富士山が見えたのかもしれません。今も、冬の晴れた日はもしかすると、富士山の先っちょくらいは並木の後ろ見えるかもしれません。
私が訪れたこの日、2月の終わり。曇っていましたが、紅梅の花がとても鮮やかでした。 もうすぐ春がやってきます。
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参考文献
・「いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図」 財団法人 日本地図センター
・「谷田部町の歴史」 (昭和50年9月) 谷田部の歴史編さん委員会 著 谷田部町教育委員会 発行
・「桜村史」 桜村史編さん委員会著 桜村教育委員会 出版 上巻 昭和57年発行 下巻 昭和58年発行
・「土浦市史」 土浦市史編集委員会 編集 昭和50年発行
・「図説 土浦・石岡・つくばの歴史」 佐久間好雄 監修 郷土出版社(2004年11月)
・「地図で見る つくば市の変遷」 財団法人 日本地図センター
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Posted by かるだ もん at 22:44│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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