2024年02月19日
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
茨城県南西部から千葉県北部が舞台の落語 『紋三郎稲荷』 (文献1)。
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名です。
その舞台を訪ねる旅です。
前回 は、主人公の笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬が、取手から利根川を渡り、渡った跡から駕籠に乗って、駕籠屋の誤解を利用しながら、途中の茶屋で稲荷寿司など食べるところまで、たどりました。
以前書いた記事
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
今回は、話の後半の松戸宿までをたどります。
(このページの写真は全て、2024年1月上旬に撮影)
(3)小金宿
さて、我孫子宿跡を後にして、駕籠ならぬ車で一路、小金宿=JR常磐線 小金駅に向かいます。
落語 『紋三郎稲荷』 では小金宿は出てきませんが、通過地点(もしくは立ち寄った茶屋があった場所?)ということで、立ち寄りました。
小金はあのドラッグストアチェーンのマツモトキヨシの発祥の地です。
『小金宿』の碑の背景に、マツモトキヨシの店舗があるのが、さすがです
ちなみに、マツモトキヨシの店舗はこのすぐ近くにももう1件ありました。
さすが、発祥の地♪
宿場町の通り沿いに名刹の東漸寺。
境内の大きな木々が、ここが宿場町だったという歴史を感じさせてくれます。
凜とした佇まいに惹かれて、境内に入ってお参りさせて頂きました。
浄土宗の関東十八檀林の一つとのこと。
広い境内なる風格ある建物に身が引き締まりながらも、山門までの参道には、ところどころ、とても可愛らしいお地蔵様がおられて、ほっこり優しい気分になるのも素敵。
東漸寺も面する旧道は、旧水戸街道です(文献2)。
そしてこの通りに沿って、歩道に灯りが点在して並べられていました。
夜に点灯すると、とても趣きがありそう。
小金宿の本陣跡は、旧道から入った住宅街にありました。
江戸時代、東漸寺敷地の一角だっだそう。
さて、この落語のお話の最終地点、松戸宿に向かいます。
(4) 松戸宿
落語では、松戸に到着した駕籠屋は、『笠間稲荷のお使い狐である』平馬を一番良い宿、つまり陣屋に案内します。
笠間稲荷を深く信心している主人の高橋清右衛門、大変喜んで平馬を迎え、粗相があってはならぬと自ら、平馬をもてなします。
平馬は内心焦りながらも、笠間稲荷のお使い狐を演じ続けます。
お稲荷様ということで、夕食に油揚げ稲荷寿司を出そうとする主人に、平馬は『自分は身分が高いキツネなので、油揚げなど食べず、鯉こくや鯰なべなどが良いと、美味しいお酒と一緒に所望します。
そのうち、噂を聞きつけた近所の人たちが、一目ありがたい笠間稲荷のお使いを拝もうと、閉まっている襖の隣の部屋に集まって来て、拝み出したり、襖を細めに開けてお賽銭のおひねりをどんどん投げ込んできます。
だんだん困ってきた平馬は・・・
ネタをバラすのは野暮というもの。
あとは本物の落語でお楽しみ下さい。
さて聖地巡りも終盤。
松戸宿=JR常磐線の松戸駅周辺に来ました。
松戸本陣跡
明治2年、松戸本陣から出火し、折からの風で、宮前町、角町など、丸焼けになったとのこと(文献2)。
消失した本陣は、すぐに立て直されたものの明治維新になり、本陣として使われることはなかったとのことです(参考文献3、参考サイト2)。
その建物も個人のお宅として残っていたそうですが、2004年に老朽化のため取り壊されたとのこと(参考文献3、参考サイト2 より)。
今は写真のような説明書きのある石碑があるのみです。
落語 『紋三郎稲荷』(文献1)では、松戸本陣の主人は『高橋清右衛門』となっています。
本サイトで参考にした『新編 旧水戸街道繁盛記』(文献2)では、『松戸市史』からの引用として、松戸村の最初の本陣は吉岡隼人という人の屋敷に設けられたそうです。吉岡家は宝暦三年(1753年)まで代々本陣と名主・問屋を兼務していたそうですが、何らかの理由で罷免され、その後は伊東宗蔵という人が人々に推挙されて本陣経営し、宝暦末(1760年)以降は、『名主と問屋は、宗蔵と倉田次郎右衛門の二名で運営されたという』(文献2)とのこと。
・・・本陣はまた別の人が経営した用に読めますが、伊東家がそのまま経営したのか、落語にあるように高橋家が経営したのか?
松戸神社
落語では松戸神社は出てきませんが、本陣跡近くにある大きな神社です。
今回は駆け足旅だったので、松戸神社にお詣り出来ませんでした。
松戸神社は江戸時代までは『御岳大権現』と呼ばれていた、仏教の影響を受けた信仰の場だったそう。修験道系だったのでしょうか。
ところで、この御岳大権現(現 松戸神社)をはじめ、松戸にはいくつか水戸光圀さんが関わる伝説が残っているとのこと(参考サイト3)。
・・・いろいろ出かけては、何かやらかしている黄門さんであります(^^;)。
松戸駅周辺も開発されて、当時の趣もほとんどありませんが、それでもそれでも時代を感じさせる建物も点在しています。
本当なら松戸のあたりで、ランチで、鯉こくや鯰なべなど食べられる川魚料理のお店が見つけられたら良かったのですが、見つけられず…残念。
また調べると、松戸でも最近、地酒が売り出されていることを知りました。
この時は買えなかったので、また近いうちに購入出来たら、松戸付近ではありませんが、茨城の自宅で、鯉やナマズ料理を食べながら、松戸の地酒で一杯やりたいと目論んでます。
さて、次回は、落語では語られていない笠間から取手までの道中を考えてみます。
続きます。
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
*****************************
【参考文献】
1. 『古典落語大系 第五巻』 江國茂・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一 編著
三一書房
p.156~ 『紋三郎稲荷』
2.『新編 旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 崙書房出版
3.『松戸宿の今と昔』 松戸よみうり 2022年10月25日
【参考サイト】
1. 松戸市観光協会 サイト
松戸本陣跡
2.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第854号(2020年10月25日)
松戸宿の今と昔
https://www.matsudo417.com/matsuyomi/?p=4629
3.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第849号(2020年5月24日)
松戸の黄門伝説
茨城県南西部から千葉県北部が舞台の落語 『紋三郎稲荷』 (文献1)。
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名です。
その舞台を訪ねる旅です。
前回 は、主人公の笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬が、取手から利根川を渡り、渡った跡から駕籠に乗って、駕籠屋の誤解を利用しながら、途中の茶屋で稲荷寿司など食べるところまで、たどりました。
以前書いた記事
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
今回は、話の後半の松戸宿までをたどります。
(このページの写真は全て、2024年1月上旬に撮影)
(3)小金宿
さて、我孫子宿跡を後にして、駕籠ならぬ車で一路、小金宿=JR常磐線 小金駅に向かいます。
落語 『紋三郎稲荷』 では小金宿は出てきませんが、通過地点(もしくは立ち寄った茶屋があった場所?)ということで、立ち寄りました。
小金はあのドラッグストアチェーンのマツモトキヨシの発祥の地です。
『小金宿』の碑の背景に、マツモトキヨシの店舗があるのが、さすがです
ちなみに、マツモトキヨシの店舗はこのすぐ近くにももう1件ありました。
さすが、発祥の地♪
宿場町の通り沿いに名刹の東漸寺。
境内の大きな木々が、ここが宿場町だったという歴史を感じさせてくれます。
凜とした佇まいに惹かれて、境内に入ってお参りさせて頂きました。
浄土宗の関東十八檀林の一つとのこと。
広い境内なる風格ある建物に身が引き締まりながらも、山門までの参道には、ところどころ、とても可愛らしいお地蔵様がおられて、ほっこり優しい気分になるのも素敵。
東漸寺も面する旧道は、旧水戸街道です(文献2)。
そしてこの通りに沿って、歩道に灯りが点在して並べられていました。
夜に点灯すると、とても趣きがありそう。
小金宿の本陣跡は、旧道から入った住宅街にありました。
江戸時代、東漸寺敷地の一角だっだそう。
さて、この落語のお話の最終地点、松戸宿に向かいます。
(4) 松戸宿
落語では、松戸に到着した駕籠屋は、『笠間稲荷のお使い狐である』平馬を一番良い宿、つまり陣屋に案内します。
笠間稲荷を深く信心している主人の高橋清右衛門、大変喜んで平馬を迎え、粗相があってはならぬと自ら、平馬をもてなします。
平馬は内心焦りながらも、笠間稲荷のお使い狐を演じ続けます。
お稲荷様ということで、夕食に油揚げ稲荷寿司を出そうとする主人に、平馬は『自分は身分が高いキツネなので、油揚げなど食べず、鯉こくや鯰なべなどが良いと、美味しいお酒と一緒に所望します。
そのうち、噂を聞きつけた近所の人たちが、一目ありがたい笠間稲荷のお使いを拝もうと、閉まっている襖の隣の部屋に集まって来て、拝み出したり、襖を細めに開けてお賽銭のおひねりをどんどん投げ込んできます。
だんだん困ってきた平馬は・・・
ネタをバラすのは野暮というもの。
あとは本物の落語でお楽しみ下さい。
さて聖地巡りも終盤。
松戸宿=JR常磐線の松戸駅周辺に来ました。
松戸本陣跡
明治2年、松戸本陣から出火し、折からの風で、宮前町、角町など、丸焼けになったとのこと(文献2)。
消失した本陣は、すぐに立て直されたものの明治維新になり、本陣として使われることはなかったとのことです(参考文献3、参考サイト2)。
その建物も個人のお宅として残っていたそうですが、2004年に老朽化のため取り壊されたとのこと(参考文献3、参考サイト2 より)。
今は写真のような説明書きのある石碑があるのみです。
落語 『紋三郎稲荷』(文献1)では、松戸本陣の主人は『高橋清右衛門』となっています。
本サイトで参考にした『新編 旧水戸街道繁盛記』(文献2)では、『松戸市史』からの引用として、松戸村の最初の本陣は吉岡隼人という人の屋敷に設けられたそうです。吉岡家は宝暦三年(1753年)まで代々本陣と名主・問屋を兼務していたそうですが、何らかの理由で罷免され、その後は伊東宗蔵という人が人々に推挙されて本陣経営し、宝暦末(1760年)以降は、『名主と問屋は、宗蔵と倉田次郎右衛門の二名で運営されたという』(文献2)とのこと。
・・・本陣はまた別の人が経営した用に読めますが、伊東家がそのまま経営したのか、落語にあるように高橋家が経営したのか?
松戸神社
落語では松戸神社は出てきませんが、本陣跡近くにある大きな神社です。
今回は駆け足旅だったので、松戸神社にお詣り出来ませんでした。
松戸神社は江戸時代までは『御岳大権現』と呼ばれていた、仏教の影響を受けた信仰の場だったそう。修験道系だったのでしょうか。
ところで、この御岳大権現(現 松戸神社)をはじめ、松戸にはいくつか水戸光圀さんが関わる伝説が残っているとのこと(参考サイト3)。
・・・いろいろ出かけては、何かやらかしている黄門さんであります(^^;)。
松戸駅周辺も開発されて、当時の趣もほとんどありませんが、それでもそれでも時代を感じさせる建物も点在しています。
本当なら松戸のあたりで、ランチで、鯉こくや鯰なべなど食べられる川魚料理のお店が見つけられたら良かったのですが、見つけられず…残念。
また調べると、松戸でも最近、地酒が売り出されていることを知りました。
この時は買えなかったので、また近いうちに購入出来たら、松戸付近ではありませんが、茨城の自宅で、鯉やナマズ料理を食べながら、松戸の地酒で一杯やりたいと目論んでます。
さて、次回は、落語では語られていない笠間から取手までの道中を考えてみます。
続きます。
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
*****************************
【参考文献】
1. 『古典落語大系 第五巻』 江國茂・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一 編著
三一書房
p.156~ 『紋三郎稲荷』
2.『新編 旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 崙書房出版
3.『松戸宿の今と昔』 松戸よみうり 2022年10月25日
【参考サイト】
1. 松戸市観光協会 サイト
松戸本陣跡
2.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第854号(2020年10月25日)
松戸宿の今と昔
https://www.matsudo417.com/matsuyomi/?p=4629
3.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第849号(2020年5月24日)
松戸の黄門伝説
2024年02月10日
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名。
その笠間稲荷に絡んだ落語があります。
その名もスバリ 『紋三郎稲荷』。
以下、『古典落語大系 第五巻』(文献1)にある 『紋三郎稲荷』 を基に話を見ていきます。
この落語の主人公は、笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬。
江戸勤番を命じられたが、風邪を引き寝込んだため、一行より3日遅れて出立するところから始まります。
寒い時期で体調も完全ではなかった平馬は、裏地に狐の毛皮(尻尾付き)を縫い付けた胴着を身につけ、更にその上に背割り羽織を着て、江戸に向かいました。
そして水戸街道に出て、途中、とって(取手:当時は『とって』と呼ばれた)で、渡しに乗って川を越えましたが、天気は時雨てきて北風も寒く、病み上がりには辛い状況。
そこで平馬は、松戸まで駕籠に乗ることにしました。
この駕籠を担ぐ二人の勘違いが第一の面白いところ。
平馬はその勘違いを利用していきます。
松戸の陣屋に到着すると、駕籠かきから事情を聴いた陣屋当主の勘違い、そして近所を巻き込んでの騒動が第二の面白いところ
・・・しかしここで話のあらすじを細かく書くのは、野暮ってもの。
今はYoutubeなどで名人の話芸が聞けますので、是非そちらで、話をご堪能下さい。
さて、この『紋三郎稲荷』は、紋三郎稲荷こと笠間稲荷のある笠間は、実はほとんど出てきません。
現在の茨城県・千葉県北東部辺りかが舞台の落語です。
写真は、笠間稲荷の参道から、笠間稲荷の楼門を望む(2021年2月撮影)。
狛犬ならぬ、お狐さまの石像があります。
お狐さまは、神社のご祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の眷属でお使いです。
落語『紋三郎稲荷』の主人公 山崎平馬は、この笠間稲荷のある常陸国笠間藩(現在の茨城県笠間市)藩主 牧野氏の家来という設定。
今回、笠間は訪ねませんでしたが、この愉快な落語の聖地巡りということで、主人公の山崎平馬がたどった道に想いを巡らせて、車旅ですが、回ってみました。
まず1回目の今回は、この話のメインが始まる、とって(取手)の渡しから、利根川を渡り、平馬が途中の茶屋に立ち寄るところまでです。
(1) とって(取手)の渡し
笠間を出て、どこの地点からから水戸街道に合流して歩いてきた山崎平馬は、当時『とって』と呼ばれてたという取手に到着。
そこから利根川で向こう岸まで渡ります。
落語の中では、取手についたのは 『八つ時を過きたあたり』 ということで、午後2時過ぎでしょうか。
江戸時代の頃、利根川を渡るため、街道筋にあたる取手にはいくつか渡し船があったようです(文献2)が、現在は、『小堀(おおほり)の渡し』 が残っています。
『小堀』と書いて『おおほり』と読みます。
難読地名です。
小堀(おおほり) 地区は、大正時代に利根川の改修事業で、茨城県の川向こうの千葉県側に位置することとなり、取手市の飛び地となりました。
『小堀(おおほり)の渡し』は、現在取手市が運営しており、取手市の中心付近の2カ所の乗り場と小堀地区をを繋いています。
(写真は2024年1月撮影)
詳細:
● 取手市HP 小堀の渡し(おおほりのわたし)
https://www.city.toride.ibaraki.jp/mizutomidori/bunkakatsudo/kanko/kankomesho/ohorinowatashi.html
● 取手観光協会HP 小堀の渡し
https://www.toride-kankou.net/page/page000009.html
ということで、まずは、 『小堀(おおほり)の渡し』 に乗ってみました。
その体験については、先日書いた記事をご参照ください。
→ 利根川の『小堀の渡し』に乗ってみた
(2)駕籠に乗った平馬が立ち寄る茶屋
落語『紋三郎稲荷』の話に戻りましょう。
とって(取手)から舟に乗り川を渡った平馬は、北風が病み上がりの身体に辛いために、ちょうど近づいてきた駕籠に乗ることにします。
写真は、茨城県側から利根川を渡った所にある、『小堀(おおほり)』地区付近(2024年1月撮影 以下同じ)。
先にも書いたように、茨城県取手市の飛び地です。
よく見ると、写真左奥に、利根川が蛇行していた時の名残の三日月湖である 『古利根沼』 が見えます。
小堀(おおほり)地区は、江戸時代後期は高瀬舟、明治初期は蒸気船通運丸の停泊する河岸として賑わったといいます(文献2)。
取手からの渡し船は複数あったそうです(文献2)。
この小堀(おおほり)地区は、江戸時代の頃はまだ川向こうではなかったので、平馬が渡ってきた場所候補にはなりません。
しかし今に残る渡し船でも行ける地ということで、訪れました。
さて平馬は、八つ時(午後2時)過ぎに取手に到着し、それから舟に乗って利根川を渡ったということで、午後3時過ぎに川向こうに到着し、それから駕籠に乗って出発したと想定。
当時、篭籠は一里(4km)を40~60分で走ったといいますので、その平均で50分で走ったとして時速4.8kmくらいで走ったことにしましょう。
気前の良い平馬の様子に加え、防寒用の狐の毛皮の尻尾が見えることから、この籠屋が平馬を狐が化けていると思い込んでしまいます。
この駕籠屋と平馬のやりとりが、この落語の第一の山場?というか、面白いところ
水戸街道で江戸に向かう駕籠の中、駕籠かきの2人が自分をキツネだと勘違いしていることを知った平馬は、いたずら心を出します。
2人から訊かれるままに、笠間稲荷のお使いのキツネだと答え、途中に立ち寄った茶屋では稲荷寿司ばかり食べて、キツネのフリをします。
立ち寄った茶屋はどの辺りだと想定すると良さそうでしょうか。
当時、街道では、宿場町周辺はもちろんのこと沿道に茶屋があったといいます。
まず取手から我孫子までは(川も含めて?)、約7km。
我孫子宿から小金宿までは約8km。
小金宿から松戸宿までは、約9km。
落語では、どの辺りで茶屋に入ったかは触れられていませんが、まあ、我孫子宿から小金宿の間で茶屋に入ったとするのが自然でしょう。
我孫子宿の本陣跡。
JR常磐線 我孫子駅南口から南東へ500~600mあたり、道路に面したマンションの入り口付近に、本陣跡地の碑があります。
本陣跡からほど近い所に、我孫子宿の説明板がありました。
この辺りはほとんど宿場町の雰囲気は残っていないようで、この説明版で当時に想いを巡らすしかないのが残念。
想定より手前ですが、そこからほど近い交差点のコンビニ(現代の茶屋♪)で、稲荷寿司とお茶を購入して食べました。
落語の主人公の平馬の気分をちょっぴり感じられた・・・かな?(笑)
さて、次回は、我孫子宿を出て、小宿宿から、話の終盤で最大の山場の松戸宿を訪ねます。
続きます。
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
*****************************
【参考文献】
1. 『古典落語大系 第五巻』 江國茂・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一 編著
三一書房
p.156~ 『紋三郎稲荷』
2.『新編 旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 崙書房出版
【参考サイト】
● 取手市HP 小堀の渡し(おおほりのわたし)
https://www.city.toride.ibaraki.jp/mizutomidori/bunkakatsudo/kanko/kankomesho/ohorinowatashi.html
● 取手観光協会HP 小堀の渡し
https://www.toride-kankou.net/page/page000009.html
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名。
その笠間稲荷に絡んだ落語があります。
その名もスバリ 『紋三郎稲荷』。
以下、『古典落語大系 第五巻』(文献1)にある 『紋三郎稲荷』 を基に話を見ていきます。
この落語の主人公は、笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬。
江戸勤番を命じられたが、風邪を引き寝込んだため、一行より3日遅れて出立するところから始まります。
寒い時期で体調も完全ではなかった平馬は、裏地に狐の毛皮(尻尾付き)を縫い付けた胴着を身につけ、更にその上に背割り羽織を着て、江戸に向かいました。
そして水戸街道に出て、途中、とって(取手:当時は『とって』と呼ばれた)で、渡しに乗って川を越えましたが、天気は時雨てきて北風も寒く、病み上がりには辛い状況。
そこで平馬は、松戸まで駕籠に乗ることにしました。
この駕籠を担ぐ二人の勘違いが第一の面白いところ。
平馬はその勘違いを利用していきます。
松戸の陣屋に到着すると、駕籠かきから事情を聴いた陣屋当主の勘違い、そして近所を巻き込んでの騒動が第二の面白いところ
・・・しかしここで話のあらすじを細かく書くのは、野暮ってもの。
今はYoutubeなどで名人の話芸が聞けますので、是非そちらで、話をご堪能下さい。
さて、この『紋三郎稲荷』は、紋三郎稲荷こと笠間稲荷のある笠間は、実はほとんど出てきません。
現在の茨城県・千葉県北東部辺りかが舞台の落語です。
写真は、笠間稲荷の参道から、笠間稲荷の楼門を望む(2021年2月撮影)。
狛犬ならぬ、お狐さまの石像があります。
お狐さまは、神社のご祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の眷属でお使いです。
落語『紋三郎稲荷』の主人公 山崎平馬は、この笠間稲荷のある常陸国笠間藩(現在の茨城県笠間市)藩主 牧野氏の家来という設定。
今回、笠間は訪ねませんでしたが、この愉快な落語の聖地巡りということで、主人公の山崎平馬がたどった道に想いを巡らせて、車旅ですが、回ってみました。
まず1回目の今回は、この話のメインが始まる、とって(取手)の渡しから、利根川を渡り、平馬が途中の茶屋に立ち寄るところまでです。
(1) とって(取手)の渡し
笠間を出て、どこの地点からから水戸街道に合流して歩いてきた山崎平馬は、当時『とって』と呼ばれてたという取手に到着。
そこから利根川で向こう岸まで渡ります。
落語の中では、取手についたのは 『八つ時を過きたあたり』 ということで、午後2時過ぎでしょうか。
江戸時代の頃、利根川を渡るため、街道筋にあたる取手にはいくつか渡し船があったようです(文献2)が、現在は、『小堀(おおほり)の渡し』 が残っています。
『小堀』と書いて『おおほり』と読みます。
難読地名です。
小堀(おおほり) 地区は、大正時代に利根川の改修事業で、茨城県の川向こうの千葉県側に位置することとなり、取手市の飛び地となりました。
『小堀(おおほり)の渡し』は、現在取手市が運営しており、取手市の中心付近の2カ所の乗り場と小堀地区をを繋いています。
(写真は2024年1月撮影)
詳細:
● 取手市HP 小堀の渡し(おおほりのわたし)
https://www.city.toride.ibaraki.jp/mizutomidori/bunkakatsudo/kanko/kankomesho/ohorinowatashi.html
● 取手観光協会HP 小堀の渡し
https://www.toride-kankou.net/page/page000009.html
ということで、まずは、 『小堀(おおほり)の渡し』 に乗ってみました。
その体験については、先日書いた記事をご参照ください。
→ 利根川の『小堀の渡し』に乗ってみた
(2)駕籠に乗った平馬が立ち寄る茶屋
落語『紋三郎稲荷』の話に戻りましょう。
とって(取手)から舟に乗り川を渡った平馬は、北風が病み上がりの身体に辛いために、ちょうど近づいてきた駕籠に乗ることにします。
写真は、茨城県側から利根川を渡った所にある、『小堀(おおほり)』地区付近(2024年1月撮影 以下同じ)。
先にも書いたように、茨城県取手市の飛び地です。
よく見ると、写真左奥に、利根川が蛇行していた時の名残の三日月湖である 『古利根沼』 が見えます。
小堀(おおほり)地区は、江戸時代後期は高瀬舟、明治初期は蒸気船通運丸の停泊する河岸として賑わったといいます(文献2)。
取手からの渡し船は複数あったそうです(文献2)。
この小堀(おおほり)地区は、江戸時代の頃はまだ川向こうではなかったので、平馬が渡ってきた場所候補にはなりません。
しかし今に残る渡し船でも行ける地ということで、訪れました。
さて平馬は、八つ時(午後2時)過ぎに取手に到着し、それから舟に乗って利根川を渡ったということで、午後3時過ぎに川向こうに到着し、それから駕籠に乗って出発したと想定。
当時、篭籠は一里(4km)を40~60分で走ったといいますので、その平均で50分で走ったとして時速4.8kmくらいで走ったことにしましょう。
気前の良い平馬の様子に加え、防寒用の狐の毛皮の尻尾が見えることから、この籠屋が平馬を狐が化けていると思い込んでしまいます。
この駕籠屋と平馬のやりとりが、この落語の第一の山場?というか、面白いところ
水戸街道で江戸に向かう駕籠の中、駕籠かきの2人が自分をキツネだと勘違いしていることを知った平馬は、いたずら心を出します。
2人から訊かれるままに、笠間稲荷のお使いのキツネだと答え、途中に立ち寄った茶屋では稲荷寿司ばかり食べて、キツネのフリをします。
立ち寄った茶屋はどの辺りだと想定すると良さそうでしょうか。
当時、街道では、宿場町周辺はもちろんのこと沿道に茶屋があったといいます。
まず取手から我孫子までは(川も含めて?)、約7km。
我孫子宿から小金宿までは約8km。
小金宿から松戸宿までは、約9km。
落語では、どの辺りで茶屋に入ったかは触れられていませんが、まあ、我孫子宿から小金宿の間で茶屋に入ったとするのが自然でしょう。
我孫子宿の本陣跡。
JR常磐線 我孫子駅南口から南東へ500~600mあたり、道路に面したマンションの入り口付近に、本陣跡地の碑があります。
本陣跡からほど近い所に、我孫子宿の説明板がありました。
この辺りはほとんど宿場町の雰囲気は残っていないようで、この説明版で当時に想いを巡らすしかないのが残念。
想定より手前ですが、そこからほど近い交差点のコンビニ(現代の茶屋♪)で、稲荷寿司とお茶を購入して食べました。
落語の主人公の平馬の気分をちょっぴり感じられた・・・かな?(笑)
さて、次回は、我孫子宿を出て、小宿宿から、話の終盤で最大の山場の松戸宿を訪ねます。
続きます。
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
*****************************
【参考文献】
1. 『古典落語大系 第五巻』 江國茂・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一 編著
三一書房
p.156~ 『紋三郎稲荷』
2.『新編 旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 崙書房出版
【参考サイト】
● 取手市HP 小堀の渡し(おおほりのわたし)
https://www.city.toride.ibaraki.jp/mizutomidori/bunkakatsudo/kanko/kankomesho/ohorinowatashi.html
● 取手観光協会HP 小堀の渡し
https://www.toride-kankou.net/page/page000009.html