【茨城こんなもの見つけた♪(50) 】 筑波山麓めぐりの手ぬぐい&大御堂の手ぬぐい


季節柄やご当地もの柄の手ぬぐいが好きで、壁飾りにもなるし、つい買ってしまう かるだもん です笑

筑波山関係でも、過去にこんなデザインの手ぬぐいを見つけて、当ブログでも紹介しておりますハート

豆電球 【茨城 こんなもの見つけた!(10)】 つくば・北条ふれあい館 てぬぐいなど

豆電球 【茨城こんなもの見つけた♪(43)】 『筑波山の自然』の手ぬぐい

手ぬぐい好きの同好の士の皆さま、また ちょっとおしゃれで変わったお土産・グッズを探しておられる皆さまに、またまた筑波山にちなむ素敵なデザインの手ぬぐいを見つけましたので、ご紹介しますちょき


(1) 『筑波山麓歴史めぐり』 手ぬぐい




デザインももちろんおしゃれで素敵なのですが、個人的にすごく気に入ったのが、つくば市だけでなく隣の桜川市の歴史巡り、見どころも描かれていることですキラキラ
手ぬぐいに同封された説明書きに 「企画・販売 Ks GRAPHIC」と書かれています。
地元つくば市にあるデザイン会社さんとのこと。

この手ぬぐい、筑波山大鳥居と筑波山神社をつなぐ道沿いに新しく出来た BaSE877 というお店で見つけ、一目見て気に入って購入しました。




更に素晴らしいのは、描かれた絵の説明書きも同封されていること!

観光案内でよくあるのが、自治体ごとにバラバラとある情報提供。
自治体としては、そして各観光地としては、自分のところに来て欲しい(お金を落として欲しい・・・)という事情はあるでしょう。
でも、それは地元の勝手な事情であり、訪れた人にとっては、大変不親切ぷんぷん
正直、セコい大人の事情汗

そんな、せせこましい事情に風穴を開けるような、好企画の『筑波山麓歴史めぐい』の手ぬぐい!!

筑波山、筑波山系、筑波山系山麓全体が、繋がった文化であり、歴史なのですから!

そしてそれは、筑波山地域ジオパークの理念にもかなうデザインといえましょうちょき

願わくはこれに続いて、つくば市・桜川市の歴史めぐり だけでなく、他にも筑波山地域を囲む、笠間市、石岡市、かすみがうら市、土浦市の 筑波山麓歴史巡り シリーズの手ぬぐいが生まれて欲しいですキラキラ




我が家の壁が白いので、残念ながら分かりにくくて申し訳ないのですが汗
手ぬぐいって、おしゃれな壁飾りになりますハート

ただこの手ぬぐい、めっちゃ素敵なデザインなのですが、贅沢をいえば、上下に多少余白を作ってくれると、このように棒につるして飾るときに、
上下が欠けないで見せることができます。
(写真のものには、下の棒はつけていませんが、下にも重しのように棒をつけることで、しわを伸ばしてしゃんとさせて見せることが出来ます)

手ぬぐいディスプレイ用の額縁に入れる分には、今のサイズぴったりの絵でも良いのですが、もっとお手軽に飾れるように、上下の余白が欲しいのです。
同様の手ぬぐいデザインをされる方、その辺りのご考慮頂けると幸いですにこにこ


(2)大御堂の手ぬぐい




筑波山を背にした大御堂
(2021年7月撮影)

板東三十三観音の第二十五番札所の、大御堂。
東京にある護国寺の別院であり、元は、江戸時代まで現在の筑波山神社にあった筑波山知足院中禅寺の流れをくむお寺。

ご本尊の千手観音菩薩像は、昭和13年に筑波山を襲った山津波で流されながらも、奇跡的に無傷で発見された奇跡の観音菩薩様です。

新しく建て替えられた本堂が2020年に完成し、広々とした立派な階段も作られ、筑波山を背景に、いにしえの姿を彷彿させてくれるようですキラキラ

その大御堂にお参りしたときに、本堂内の寺務所で御札の傍らに置かれているこの手ぬぐいに気づきました。



白地に濃紺。シンプルにして、味わい深い筑波山をかたどった線画。
右(手前)が女体山、左(奥)が男体山を描いているのかと思います。

ちなみに筑波山系の宝篋山(小田山)の山頂付近から観た筑波山が、山頂付近がこんな風に見えますよね笑
豆電球ご参考 → 宝篋山登山 『常願寺コース』~『小田城コース』 を歩く

書かれている詩は、大御堂の御詠歌
大御堂 かねは筑波の峯にたて かた夕暮れに 國ぞ恋しき

これぞ昔ながらの、筑波山の手ぬぐいハート
という感じですし、見ていると、じわじわとありがたい気持ちになります。



この二種類の手ぬぐい、それぞれ味わい深く、どちらもとても気に入っています笑


  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑

前回までの話
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山


引き続き、金色姫譚が生まれた過程を考えていきますが、
さて今回は、室町時代後期の頃までの金色姫譚に、なぜ、いきなり、富士山信仰が入ってきたのか?についてです。

前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山)では、
室町時代後期 永禄元年(西暦1558年)滝本坊という人によって『戒言』(滝本坊 筆)として書かれた金色姫譚に、
かなり無理矢理の後付け感たっぷりで、『かぐや』姫と富士山の話が挿入されていることを書きました。

その『戒言』(金色姫譚)の最後の部分、富士山とかぐや姫がいきなり出てくる箇所のあらすじを、再度掲載します。


*****

そこへまた『不思議なことに』、欽明天皇の皇女のかぐやひめが、筑波山へ飛んできて、神様だと言われ、人々にあがめ奉られた。
ある時、神託があり、『自分は旧仲国の霖夷大王の娘で、この国の人々を守るために来て、欽明天皇の子となった。
そしてこの国でこがひの神となり、『とよら』の地で綿を作ったのは、私、かくやひめである』と言い、
この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ神様は行かれた。
 たかとりの翁達もこの神を拝んだ。『筑波山の神と富士の権現は一体』なので、こがひの神ともなり、
その本地は勢至菩薩の化身である。
 だいにちへんぜう(大日遍照か?)の『ごへんさ』(意味不明)なので飼っている蚕はおろそかにしてはいけない。
綿を練った仙人は、りやうじゅせん(霊鷲山か?)の釈迦牟尼仏である。


*****

この箇所を頭に入れて、考えていきましょう走る


【1.中世富士山縁起と、かぐや姫】


写真は、伊豆大島から見た富士山
(2019年5月撮影)

一般に『かぐや』『かぐや姫』といえば、有名な竹取物語の登場人物です。
竹取物語は平安時代前期ごろ成立した考えられる物語。

その竹取物語とは別のストーリーが、富士山付近で古くから伝わっているというのです。
(文献1:「富士山縁起の世界 -赫夜姫・愛鷹・犬飼-」 富士市立博物館)

『富士山縁起』と呼ばれている、富士山ものがそれで、文献1によると
『富士山縁起とは、富士山および富士山信仰に関わった寺社に関する由来伝説などを記した縁起書の総称』
とのことで、内容は多義に渡っているのですが、『赫夜姫(かぐやひめ)』にまつわる話も多く含まれるとのこと。

現在の富士山信仰の神社の祭神は『木花開耶姫(このはなさくやひめ)』ですが、これは近世、江戸時代以降のことで、中世の富士山縁起には、赫夜姫は登場するけれども、木花開耶姫は出てこないのです。

富士山縁起の赫夜姫の説話については本記事では触れませんが、注目すべきは、

★中世の頃の富士山縁起には、かぐや姫(赫夜姫)』が主役として語られる縁起が多く伝わる

という事実です。



【2.中世の富士山信仰と常陸国】

文献2(「富士山信仰と富士塚」 富士市立博物館)によると、平安時代後期に末代上人によって富士山修験道が生まれ、富士山麓の村山の地を拠点に、村山修験道と呼ばれる信仰が広まったそうです。そして、

●仏教色の強い初期の富士山信仰は、関東よりも関西に広がった。
(「村山を中心とする富士山修験者は京都聖護院門跡を中心とする本山派に属している」)

●時代が下がるにつれて関東にも広がり、関東に多くの行者・先達が現れた。
(「これが爆発的な発展をみせる江戸時代の富士講の基礎になる」)。

特に、同文献では『新編常陸国誌』の記述『中世以後、関東ノ風俗ニテ塚ヲ築キ、富士権現ヲ勧請スルモノ所々ニアリ』
という一文を紹介し、中世以後の関東での富士山修験者(村山修験者)の増加は明らかとのこと。

つまり、中世(室町時代ごろか)、仏教色の強い村山修験が常陸の国にも広がりつつあった様子が分かります。


【3.中世の富士山修験者と養蚕と女性】

さて、養蚕信仰と富士山信仰がどう繋がるのかと言うと、これもしっかり繋がります。

文献3(「富士山と養蚕 ―信仰の側面からー」山梨県立富士山世界遺産センター)によると、江戸時代に入ると、富士講と蚕神(蚕影山権現)と結びつき、山梨県方面で蚕影山信仰が広がっていったとのこと。

江戸期以前、中世の頃も、富士講が生まれる前の富士山修験者によって、富士山信仰と共に蚕神(この場合、蚕影山権現かどうかは不明)が関係づけられて、信仰を広げていったのは充分考えられます。

その証拠が、先に上げた永禄元年(西暦1558年)に書かれた『戒言』の最後の部分なわけです。

『戒言』では、富士山の神がコノハナサクヤヒメでなくカグヤヒメなのも、中世富士山縁起を反映されているのが分かります。


養蚕、蚕糸、織物は、古代から近代・現代に至るまで女性の仕事でした(文献4)。
また、江戸以降の富士講が発達した地域は養蚕が非常に盛んだった地域と重なるとのこと(文献5)。

蚕の餌となる桑の栽培も含め、養蚕は気候変動や、蚕の病気・害獣による食害などで、大変に苦労を伴う仕事です。
蚕という『生けるもの』の生命と交換に蚕糸を得る仕事。
そういう重労働に携わる女性達の気持ちをぐっと捉えるのは、やはり女性神、女神でしょう。

中世の富士山縁起に出てくる『赫夜姫(かぐやひめ)』は、絶好のキャラクターです。
(それが江戸時代以降は『木花開耶姫(このはなさくやひめ)』になっていくわけです)

女性たちによって養蚕が営まれてきた関東甲信地区で布教するうえで、富士山修験者達が富士の神『赫夜姫(かぐやひめ)』と、蚕神『金色姫』キャラクターを用いて、『同じ神』だとなかば強引に結び付けて布教していったのは容易に想像できます。


中世の頃『金色姫譚』がどのエリアまで広がっていたのか不明です。
最初は、常陸国もしくは筑波山付近あたりだけのローカルな蚕神だったのかもしれません。

それを関東に布教にやってきた富士山修験者(村山修験者)が金色姫譚の存在を知り、布教のツールとして金色姫を使ったのではないかと私は思います。
その証拠が、『戒言』の最後に無理やり挿入されている『かぐや姫』のくだりです。

原文は
こゝもとの山も、いさぎよからす、これより、みやこちかき、ふしさんへ、よぢのほるなり
(文献6)
つまり、『この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ(神様は)登られた

の部分は、地元常陸国の人が語ったとは思えないぷんぷん
しかも『よちのぼる』です。 富士山に登っちゃうんです!!
もろに富士山修験です。

『戒言』からは、そのような背景をも見えてくるようで、大変興味深いです。


写真は、常磐自動車道から見た富士山
(2020年2月撮影)







【4.江戸時代~近代の金色姫譚】

江戸時代になると幕府や各藩の政策で養蚕が奨励されるようになり、寺子屋でも養蚕技術が教えられるようになります。

江戸時代中期になりますと、養蚕業の興隆に合わせるように、養蚕技術に関する様々な指南書の普及し、信仰面でも、蚕影山桑林寺など、後述する常陸国蚕の神社に繋がる寺院による布教もあり、金色姫譚も全国に知られていきました。

蚕影山桑林寺と金色姫譚のことは、以前当ブログでも書きましたのでそちらもご参照ください。
 → 豆電球 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
   豆電球 つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地


江戸後期、享和三年(1803年)に蚕種商人の上垣守国による『養蚕秘録』は養蚕について多義にわたって書かれた蚕書で、度々再版されて、海外にも伝わりフランス語訳、イタリア語訳で出版された書(文献4)ですが、その『養蚕秘録』でも金色姫譚が紹介される(文献4、7)など、金色姫譚が全国に(世界に!)広まっていきました。

江戸時代以降につきましては、今後、常陸国の3つの蚕の神社の各論でまた詳しく見ていきます。


【★金色姫譚誕生の仮説★】

ということで、今まで見てきた資料等から、今に伝わる金色姫譚が生まれ、後世広く広まっていった経緯を想像しますと、

下記の

(A)⇒(B)⇒ (C) ⇒(D) ⇒ (E) ⇒ (F) ⇒ (G) ⇒ (H)

という仮説を私は考えます。



(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か?  ≪時代不明:古代~中世≫
 
以下の(i)と(ii)がベースにあったか。

(i) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)

(ii) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話。

  物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明




(B)  常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫


養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。

(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。

(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。

 伝わり方は想像するしかないが、例えば、
 
 ・新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
   養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。

 ・九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた舟に、蚕種を持った人がいて、
  蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。



(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫ 

(c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった

 (c2) とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していったか。
    
  永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。



(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫

 上の(C)の前か後か同時期かは不明




(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫

  『筑波山のほんどう仙人』



(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫

   『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
    かぐやは、生糸から織り方を教える。

   『富士山=筑波山』という考え方
    かぐやは、『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。



(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる。  ≪中世≫

   室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。 




(H)江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく   ≪近世:江戸時代≫

   寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。




(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭    ≪近世:江戸時代中期~後期≫

・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせ、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教。

金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。



(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫

養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。



(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫

 明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
 蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
 筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
 広く信仰される。



以上の(A)~(K)のような流れがあったのではないかと私は考えます。

特に記録のほとんどない中世以前の(A)~(G)の『金色姫譚 誕生仮説』は、
状況証拠による私の想像の産物ですが、あながち外れていないように思っていますが、更に詳しい方のご意見を聞きたいです。

江戸時代以降の(H)~(K)については、文献   など、多くの研究者が調べられていますので、
当ブログでは、中世以前の(A)~(G)の『貴人蚕譚』から『金色姫譚』に変わっていったプロセスについて
焦点を当てて考えます。

(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生

については、今まで考えてきましたので、いよいよ、常陸国が関わっていそうな、

(B) 『貴人蚕譚』の伝播?誕生?
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』
(D) 権太夫という登場人物の誕生
(E) 筑波山系修行者の介入
(G) (B)〜(E)がまとめられて伝播

のプロセスが気になります。
どこでどのようにして生まれたのか?ヒントはないのか?
そうしますと、やはり、金色姫譚が今でも伝わる常陸国の三蚕社のある地域は外せません。

ということで、常陸国の三蚕社とその地域について、それぞれ考えていきます。

まず最初は、日立市の蚕養神社とその地域についてです。

(続きます)


  

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑

前回までの話
豆電球茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
豆電球茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」


引き続き、金色姫譚が生まれた過程を考えていきます。

前回は、長門国(穴門)の豊浦宮(現在の山口県下関市)で、もしかして『原・金色姫譚』が生まれたのかもしれない!? という仮説を、歴史文献から立ててみました。

今回は、さらに別の見地からも考察してみます。

【おことわり】
※ 前回、当ブログでは、『金色姫譚の原形』を『原・金色譚』と呼ぶとしましたが、
初期の頃に登場人物に『こんじき(金色)』という名がついていたか不明であり、紛らわしいので、今後は『金色姫譚の原形』を『貴人蚕譚
と呼び、現在に伝わる金色姫伝説を『金色姫譚』と呼ぶことにします。
 

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【1.柳田国男 著『妹の力』の中の『うつぼ舟のこと』論考より】


柳田国男 著『妹の力』(文献1)の中の『うつぼ舟のこと』論考を読むと、以下のことが書かれています。

① 海からうつぼ舟(中空の舟)に乗って、貴人が流れてくる伝説が、瀬戸内海地方~九州にかけていくつも伝わっており、祖先がそういった貴人だとする氏族がある(周防の大内氏、備前の宇喜多氏、伊予の河野家など)。

②(常陸国の金色姫譚以外には)うつぼ舟が伝わる話は、『東部日本ではいまだ聞くことがないのである』。
つまり、東日本では、うつぼ舟で貴人が流されてくる伝説・説話は、金色姫譚以外に見当たらないとのこと。


また別の文献(文献2)によると、

③ 阿波や土佐などの諸国は養蚕の技術が盛んに取り入れられながらも、それに伴う信仰が伝えられなかったようだとのこと。
(徳島県でわずかに繭を社寺や祠堂に供えたり、高知県で戦後に関東に習ってつくられた女神の御札がある程度とのこと)

どうも西日本では、養蚕が盛んだった地域でも、不思議なことに養蚕関係の伝説・説話は伝わっていないようです
(これは今後も要確認事項ですが)。

しかしながら、注目は①で、瀬戸内海地方~九州にかけて、うつぼ舟に乗って流れ着いた貴人が祖先だという氏族が複数あるということです。
つまり、長門国(穴門)豊浦を含む瀬戸内海~九州の地域には、『金色譚』の原型となる『原・金色譚』ともいうべき『貴人蚕譚』が生まれる土壌があったと言えるのではないでしょうか。


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【2.永禄元年(西暦1558年)滝本坊 筆『戒言』より】


さて、現在まで伝わる『金色姫譚』は、少なくとも室町時代後期には出来上がっていたのが分かっています。
(文献2,3) 
というのも、永禄元年(西暦1558年)京都の八幡山の滝本坊という人が書き写した『戒言(かいこ)』  
が『金色姫譚』そのものなのですグッド

現在まで伝わる金色姫譚(蚕影神社縁起、蚕影山和讃等 文献5,6)のあらすじとほぼ同じなのですが、微妙に違う点があり、これが今後、考察を進める上で重要だと私は考えますので、文献4(『室町時代物語大成 第三』に収録されている『戒言』)を元に、少し詳しく書きます。


【『戒言』のあらすじ】

まず『戒言』では、前書きの後に、『きんめいてんわうのみよに、こかひあり、そのゆらいを、くわしくたつぬるに、』
で話が始まります。
『きんめいてんわう』(欽明天皇か?)の時代には既に『こかひ』(蚕養ひ=養蚕)があり、その由来がこれから語られる物語だという始まりです。

ストーリーは現在に伝わる『金色姫譚』とほぼ同じで、話の流れは大きく4つ(※)に分けられます。
 ※多くの文献では、下記の①②を一つにして、3つに分かれるとしていますが、私は4つだと考えます。

① 北天竺国のなかの旧仲国の りんゐだいわう(霖夷大王)の娘の こんじき(金色)が継母にいじめられる。
   継母によって4回の災難(獅子孔山に捨てられる・鷹群山に捨てられる・海眼山という島に捨てられる・庭の地中深くに埋められる)にあうが、なんとか助けられる。
  こういう災難に会うのは、こんじきが尊い仏様の化身のためだと考えた王は、桑の木でうつぼ舟にこんじきを乗せて泣く泣く海に流して逃がす。


    ※全体の話の中で、この①の部分が一番長く、全体の6割弱を占めます


② 海に流されたこんじきは、多くの月日を経て、秋津洲(日本)の「ひたち」国の「とゆら」に流れ着き、漁師のごんのだいふ(権太夫)に助けられる。
 権太夫夫婦の介護もむなしく、こんじきは身体が衰弱して亡くなる。
  嘆き悲しんだ夫婦は、からひつ(唐棺)をこしらえて亡くなったこんじきを安置する。
 ある夜、『食事を与えて欲しい』という夢を見て棺を開けると、こんじきの姿は消えていて、小さな虫たちがいた。
 生まれ変わったと喜こんだものの、餌に何を与えて良いか分からない権太夫夫婦、こんじきが乗ってきた舟が桑の木で出来ていたので、桑の木の葉を虫に与えると、虫たちは喜んで食べた。
 しかしそのうち虫たちは動かなくなってしまい、権太夫夫婦は途方にくれたが、また夢で(こんじきが出てきて)、自分が祖国で受けた4つの災難を語り、これは虫たちの4つの生態(しけめとまり・たかめとまり・ふなとまり・にわとまり)だと伝える。
 4つの『とまり』を経て虫たちは まひ(繭)を作ったが、これは こんじきがうつぼ舟に乗ることと同じだとされた。

    
  ※この②の部分は全体の3割を占めます


③ その頃、つくば山(筑波山)に ほんだう仙人という一人の仙人がいて、山から下りてきて、繭を練って『綿』(真綿。木綿ではない)を作ることを教えた。『わたいと(絹糸)』はこの時より始まった。 綿は寒さを防ぎ、人々に喜ばれた。『きぬ』『あや』とも言われ、衣装も美しくなった。  
 その方法を学び、権太夫は豊かになった。
 
  
 
※③の部分は全体の0.5割強を占めます。

④ そこへまた『不思議なことに』、欽明天皇の皇女のかぐやひめが、筑波山へ飛んできて、神様だと言われ、人々にあがめ奉られた。
 ある時、神託があり、『自分は旧仲国の霖夷大王の娘で、この国の人々を守るために来て、欽明天皇の子となった。そしてこの国でこがひの神となり、『とよら』の地で綿を作ったのは、私、かくやひめである』と言い、この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ神様は行かれた。
 たかとりの翁達もこの神を拝んだ。『筑波山の神と富士の権現は一体』なので、こがひの神ともなり、その本地は勢至菩薩の化身である。
 だいにちへんぜう(大日遍照か?)の『ごへんさ』(意味不明)なので飼っている蚕はおろそかにしてはいけない。綿を練った仙人は、りやうじゅせん(霊鷲山か?)の釈迦牟尼仏である。


     ※④は③よりも更に占める割合は少なく、全体の0.5割弱ですが、仏教用語が並びます。


『話が4つに分かれる』というより、①の話に、後から別の話②③④が次々付け加えられたような印象です。

 ★は、外国で継母にいじめらる娘のこんじき(金色姫)を、大王が(助けるために?)舟に乗せられて海に流されるまでの話で、世界的に見られる、継母による継子いじめの話の類型に思えます。
 (余談:継子いじめの類話に出てくる、いじめる後妻のダンナ=いじめられる子の父親は、たとえ大王とはいえ、後妻には何も出来ないというが、世界の昔話の定番であり、不思議ではありますね)

 『北天竺国の旧仲国』(具体的な場所は不明)という設定に加え、金色姫の父の霖夷、実母(早くに亡くなる)の光契という名、受難を受ける獅子吼山・鷹群山・海眼山という地名にも、やはり大陸から伝わった物語だと感じさせます。
 
 また、霖夷大王が金色に言う台詞『ぶつじんさんほうのけしんなり(仏神三宝の化身か?)』『ぶつはふ はんじやうのくにへ(仏法繁盛の国か?』
『しゅうじゃうをもさいどし給へ(衆生を済度し給え)』
 と仏教的表現が(唐突ですが)使われています。
 また金色姫の4回の苦難(継母のいじめ)は、蚕の4回の脱皮にも見立てられていて、蚕の生態説明の説話になっています。

★②で、『ひたち』の『とゆら』という地名が出てきます。


(写真は、茨城県日立市の国民宿舎 鵜の岬 の前の海。 常陸国の海の例です。2020年8月撮影)

 常陸国の『とゆら』という地名だけで、舟が流れ着いたので、海辺だということしか分かりません。
こんじきを助けるのが、『うら人』の『ごんのだいふ(権太夫)』夫婦。『うら人』は『浦人』で、つまり流れ着いた浦に住む人ということでしょう。
 こんじきの生まれ変わりの白い小さな虫の餌(桑の葉)や蚕の生態を夢に出てきた姫から教わって、育てます。
 つまり、蚕を育てる=養蚕の事始めの説話です。



で、『つくば山』の名が出てきます。

 
(写真は石岡市高浜付近から見た筑波山。2021年4月撮影)

 ほんどう仙人は、『仙人』という表現から、一見、神仙思想のようにも思えますが、
 『つくば山』に当時も既に多くいたであろう、筑波山系で修業する山岳信仰の修行者の影を感じます。
  ほんどう仙人は「綿」(※)の作り方を教えています。「綿」は蚕の成虫が出てきた後の(穴の開いた)繭を伸ばして作ります(文献 )。 
   ※ここで言われている『綿』は、木綿(コットン)ではなくて真綿=蚕の繭から作られたものを指しています。
  ほんどう仙人が、成虫が出た後の繭から真綿を作り、暖かい服に出来ることを教えたというお話です。 
  更に『わたいと(生糸)』はこの時より始まったという表現、『きぬ(衣?)』『あや(綾?)』『いしょう(衣装?)』という表現も(取って付けた感がありますが)書かれ、機織りも伝えたような表現です。

  筑波山信仰の宗教者が、養蚕・蚕糸・機織りの知識を持っていて、地元の人に教えたようなこともあったかもしれませんが、それにしては①②のようや具体的な説話ではなく、話が短すぎます。
『つくば山のほんどう仙人』というキャラクターを登場させ、養蚕の技術を伝える際に、筑波山(筑波山信仰?)を結びつけようとした宗教者(グループ)がいたのではないかと考えます。

  なお、『つくば山のほんどう仙人』が綿の作り方を教えた場所は、筑波山麓(蚕影山?)か他の土地なのかは、冷静に読むとはっきりしません。
 『つくば山のほんどう仙人』と書かれていることで、筑波山麓で教えたような含みを持たせているようには感じさせてますが。    


★そして最後では、いきなり!欽明天皇の皇女のかぐや』が登場してきて、実は自分が養蚕の神であると言います。
 ストーリーの冒頭で、欽明天皇の世に既にあった養蚕の由来で、欽明天皇の時代よりも以前の時代設定のはずなのに、
 欽明天皇の皇女が出てくる・・・という矛盾も物ともせず(^^:)汗


(写真は 伊豆大島から見た富士山。2019年5月撮影)

 『筑波山=富士山』だと言いながらも、筑波山なんかにいてもぱっとしないのでと言って泣『都に近い』富士山に行くと言って富士に行き、当地で神になったという話。しかも『たかとりの翁』という人物がなんの説明もなく、『あの有名人も信仰してるよ!』という感じでいきなり名前があがる。
 しかも神だけど、仏教の勢至菩薩、釈迦牟尼仏、などなど仏教用語のオンパレード
 結末は常陸国でなくて、富士山のある駿河国か甲斐国のお話に…?がーん…。 
明らかに、富士山信仰、しかも仏教と混淆した宗教思想が唐突に入ってきて、結末をかっさらています(笑)びっくり

 
  ①②③④と話の構成を見ていくと、①の説話がくどい位に(^^;)長い。
 登場人物の描写やら、金色姫の遭う災難の説明がひたすら長く描かれます。

  ②は舞台が秋津洲(日本)の常陸国に舞台が変わりますが、割と自然な感じで①と結びついていて、『蚕を育てる(養蚕)』の事始めの話としてまとまっています。
  私は②の部分は、物語が伝わった初期の段階で①に付け加えられ、比較的長い間、人口に膾炙していって話がこなれて繋がっているのではないかと考えます。
  (一般には、①と②は一緒の話だと考える研究者がほとんどのようです)

  しかし後の③(綿づくり業・蚕種業・蚕糸業・織物業の事始め説話)は、かなり重要な技術に関する説話のはずですが、簡単に語られていて、正直、雑…(^^;)汗
 思うに、それほど養蚕・蚕糸・織物の造詣の深くない、筑波山系の山岳宗教者(グループ)が、もとからあった養蚕の伝説に、
  『つくば山のほんどう仙人』というキャラクターを加えて、無理に?筑波山の話にしたように私は感じます。

更に④は、全く違う登場人物が唐突に出てきて、『筑波山=富士山』だと言い、『ここに(筑波山)にいてもいさぎよからず(いてもしょうがない)』と、筑波山をディスりながら(笑)、京の都に『近い』と言って舞台を富士山に持って行き、仏様の名も出しまくって終わります。
  富士山信仰・特に仏教との混淆が強い山岳宗教者(グループ)、がこの説話を利用するために、強引に汗最後の部分をつけて、富士山の神が養蚕の神だとして、話を拡散(布教)したと見て良いかと思います。

  でも、なぜ富士山信仰が関わってきたのでしょうか??
  それを考察していきます。
 
  (続きます)
 
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説


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【参考文献】

1.『妹の力』柳田国男著 角川文庫 収録 『うつぼ舟の話』

2.『民俗信仰の神々』 大島建彦 著 三弥井書店

3.『養蚕と蚕神 近代産業に息づく民俗学的想像力』 沢辺満智子 著 慶応義塾大学出版会 発行

4.『室町時代物語大成 第三 えしーきき』 横山重 松本隆信 編 角川書店 収録『戒言』慶応義塾図書館蔵 86

5.『筑波歴史散歩』 宮本宣一 著 日経事業出版センター

6.『筑波町史 史料集 第五篇』 茨城県つくば市教育委員会


















  

プロフィール
かるだ もん
かるだ もん
徒然なるままに、興味のあることを気ままに書いています。好きなことばは「中途半端も、たくさん集まればいっぱい!」(ドラマのセリフ)

地元つくばや茨城の話題を中心に、茨城の食材を使った家庭料理、民俗学もどき、国際交流、旅の話題など、趣味の記事を掲載中。

特に自分の勉強も兼ねて、
★民話・伝説紹介と、それにちなむ土地めぐり
★茨城を中心に、全国の郷土料理と食材(世界の料理も含む)の話題
の話題が多いです。

・ヒッポファミリークラブ(多言語自然習得活動と国際交流)
・観光ボランティア
・郷土食研究会うまかっぺ!茨城

別館: 夢うつつ湯治日記 https://note.com/carfamom/

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