三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?


前回は、宝篋山に登山した報告を書きました。
 → 宝篋山登山 『常願寺コース』~『小田城コース』 を歩く


今回は、その宝篋山麓に伝わる狐の伝説について考えます。

東條という場所に住む狐がみな、不殺生界がある三村山に移住してきた
という伝説です。

伝説のネタ元は、鎌倉時代の僧侶 無住が書いた仏教の説法書『雑談集』にある以下の記述です(文献1,2より)。

常州三村山ハ板東ノ律院ノ根本トシテ本寺也。故良観上人結界シ、コトニ殺生禁断、昔ヨリモ、キビシク侍シ事、
東條ト云フ所ノ狐ネ共具シテ、聞及テ来ルヨシ、人ニ託シテカケリ


宝篋山は三村山とも呼ばれています。
中世の頃、宝篋山の麓には、三村山清冷院極楽寺という律宗の大きな寺がありました(文献1、3)。

三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?
写真は、三村山清冷院極楽寺跡の辺りを望む。
2020年1月撮影。









三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?
三村清冷寺極楽寺の想像図を掲載した説明板。
宝筺山小田休憩所の敷地にあります。
(文献3 『筑波町史 上』に載っている想像図の拡大板です)


上にある『良観上人』とは、鎌倉時代、奈良からこの極楽寺に来て10年ほど滞在した律宗の忍性上人のこと。
この山の辺りを『不殺生界』として結界し、結界石が今に残っています。

不殺生界』とは、文字通り『生き物の殺生を禁じるエリア』。
つまり、忍性上人が三村山(宝篋山)付近を、殺生を禁じるエリアとして結界したので、
東條と云う所に住んでいた狐達が、みんな三村山の方に移住してきた。

というお話です。

この話は、鎌倉時代後期の鎌倉時代後期の僧の無住道暁(一円)が書いた仏教説話集 『雑談集』(ぞうたんしゅう)巻九の
万物精霊事』 に書かれています。
無住は『沙石集』(しゃせきしゅう)という仏教説話集も記しました。

無住は、十代後半の頃に出家し、今の石岡市(旧八郷町)の宝薗寺(法音寺)で出家し、その後、今の土浦市(旧新治村)の東城寺、般若寺、
そして、今のつくば市の宝筺山麓にあった極楽寺で修業して回り、28歳ぐらいまで常陸国にいたようです(文献1、2、3)。
実際、手元にある『沙石集』(文献9)にも『常陸国の~』『常州の~』という話がいくつも書かれていて、
著書は当時の様子を語る貴重な資料となっています。

そして、無住は若い頃は律宗の僧であったようで、同時期に三村山清冷院極楽寺にいた忍性とも繋がります。


● 『東條という処に住む狐がみな、三村山に移住した』の意味

この一文はどういう状況を指しているのでしょうか。
生き物全ての殺生を禁じる結界ならば、狐以外の生き物も逃げてきても良さそうなものなのに、何故か『』だけ。

これについては文献2 では、『(狐たちが)人に託シテカケリ』を、『狐が人に取り憑いて語った = いわゆる 狐憑きの人 が語った』 といういことで、仏教者達が喜んで、この話を喧伝したのではないかとしています。
これは十分考えられることだと思います。


● 『東條』はどこか?

さて、無住が書いている『東條ト云フ所』とはどこか?

文献1(『中世の霞ヶ浦と律宗』)では、
『忍性の不殺生界によって、宝筺山東麓の東城寺周辺の狐が三村山に逃げてきたという。』
と解釈し、『東條』を『東城』として、『東城寺』としています。

三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?
東城寺は平安時代に天台宗の最仙が建てた古刹で、土浦市(旧新治村)にあります。
写真は東城寺境内(2020年2月撮影)。
境内の裏山に平安時代に遡る経塚があり、これは日本三大経塚の一つに数えられているとのこと(経塚にあったものは、現在、国立博物館蔵になっています!)

しかし私は、この見解に大変違和感を感じます

まず第一に、無住は若い頃、その東城寺にいて修行していたのです(文献1、2、4)。
その無住が、著書『雑談集』で、狐は『東條ト云フ所カラ』と書いています。

数年間住んでいてよく知っている場所なのに、『東條という所から』と、あたかも知らないような場所のように書くものでしょうか?
もし仮に『東條』=『東城=東城寺』ならば、そこに住んでいたことのある無住は『東條から』とはっきり書くのではないか。

『東城』と『東條』は読み方が『とうじょう』で同じですが、文献1『中世の霞ヶ浦と律宗』では、(隣接するエリアだからか?)何の説明もなしに『東條』=『東城=東城寺』と言い切ってます。
これは安易ではないかと。

なので、私は『東條』という別の土地ではないかと考えます。

そして可能性の一つとして、同じ内海(昔の霞ヶ浦水域)にある東条(東条荘)を指しているのではないかと考えます。

三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?
『東条』は現在の稲敷市の辺り(文献5,6,7,8)。
※『條』は『条』の古い字

写真は、稲敷市阿波に鎮座する大杉神社の近くに立つ、古い観光案内板(2013年撮影)。
【注意】 この写真辺りは平成の大合併前は『桜川村』でした。なお、 今の『桜川市』とは、全く違う離れた場所にあります。

筑波山南麓には桜川(紛らわしいですね汗)が通っていますので、舟の航行が盛んだった当時、霞ヶ浦~桜川を使って、『すぐ近く』の感覚で行き来できる場所です。

つまり、無住が書いている 『東條という所に住む狐がみな、三村山に移って来た』は、
同じ霞ヶ浦水域に接する 東条に住んでいる狐(=狐付きの呪術をする巫や巫女たち)が、
三村山に移住してきた(=三村山極楽寺の律宗に帰依した もしくは 極楽寺で出家した)
と読めるのではないかと思うのです。

以上から、私は、無住が書いている 『東條』は、『東条(荘)』(現在の稲敷市付近)ではないかと考えます。

三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?
写真は、稲敷市(旧桜川村)にある大杉神社。
『あんばさま』で知られている古刹。




・・・まあ所詮、伝説なので、あまり追及してもしょうがない部分もありますが汗、今回紹介した短い伝説の話にも、当時の常陸国南部の様子や、信徒獲得合戦?の様子が垣間見えて、とても興味深いですグッド




***********

● 筑波山麓から霞ヶ浦南岸のエリアで見え隠れする、『狐』伝説


さてここからは半分、私のファンタジーキラキラと云いますか、妄想です笑
ご興味ありましたら、お付き合いくださいハート


① 安倍晴明伝説

映画や小説でもブームになった平安時代の陰陽師 安倍晴明。
平安中期(西暦921~1005年頃)の人と伝わります。

安倍晴明の舞台は京都・大阪が有名ですが、実は、筑波山麓にも、安倍晴明伝説が伝わっています
筑西市市(旧 明野町)と、石岡市(旧八郷町)に、それぞれ『安倍晴明が生まれた地』と伝わる土地があります(筑西市ホームページ>安倍晴明伝説、文献11、12)。

晴明の母は『信太の狐』だったと言います。

信太』! … 信太郡を彷彿させますびっくり
そして、『』!びっくり

三村山(宝筺山)山麓に伝わる、狐の伝説~狐達はどこから移住してきた?
当時の信太郡は、今の美浦村~阿見町~土浦市南部あたりです。
(写真は、美浦村の陸平遺跡付近の霞ヶ浦沿岸から、筑波山を望む)

なので信太郡からは、霞ケ浦~桜川を通って、舟でも伝説の伝わる筑西市(旧明野町方面)に行けますし、
同様に、霞ケ浦を渡って高瀬川を通って、もう一つに伝説が伝わる石岡市(旧八郷町方面)にも行けます。

晴明のお母さんは、狐を使う巫術を使う巫女で、信太から筑波山方面に行って、そこで子をなして『晴明』を生んだとも想像できます。

安倍晴明は陰陽師でしたが、晴明その人そのものかは定かでないとしても、陰陽師的な民間信仰の祈祷師/巫術をする人は
当時たくさんいたはずです(文献2)。

…古くから、信太の地には、狐を使った巫術が盛んで、その巫女さんが、筑波山麓で子供を産み育て、その子供が、大人になって、祈祷師/巫術をする人として当時その地で名を馳せて、それが時代とともに安倍晴明とされたのかもしれません。
(私個人としては、あの安倍晴明その人が、筑波山麓で生まれ育ったと考える方が嬉しいですが)

信太郡は、平安後期、信太西条と信太東条に分かれます。
信太東条が、『東条』と呼ばれるようになったとのこと(文献8)

鎌倉中期から後期の人である無住の『雑談集』の記述
『東条(東條)という処の狐が、(不殺生界がある)三村山に移住してきた』
の背景にも繋がってくるようにも感じませんか♪ 


② 信太郡西条

次に東条に隣接した信太西条に注目します。
信太西条は、現在の美浦村、阿見町、土浦南部のエリア

信太西条は、平安時代末期、1151年平頼盛の母藤原宗子(池禅尼)が、信太郡西条(さいじょう)を美福門院得子に寄進して立荘しました。
その後に、美福門院の娘の八条院暲子(しょうし)に伝領され、八条院領となります(文献5,6,7,8)。

美福門院得子は鳥羽天皇の皇后で近衛天皇の生母ですが、いわゆる『九尾の狐』伝説に出てくる悪女 玉藻前のモデルとされている人です。

九尾の狐』伝説とは、
中国・朝鮮で悪事を働き世を乱した九尾の狐が、今度日本に渡っては玉藻前という美人になり、鳥羽天皇の寵姫となって世を乱し、
二人の武将に追われて下野国まで逃げ、今度は那須の殺生石になって毒気を吐いて、生き物を殺していたところ、
源翁上人に「げんのう」で割られて退治された

という話です。

 ちなみに物語の後半、殺生石に化けた九尾の狐を退治する玄翁和尚は、南北朝期の曹洞宗の僧侶。
 常陸国結城のお寺 にいて、その近くにはお墓もあります。

 豆電球玄翁和尚の話については、かなり以前書いた記事を良かったら♪
 → 『那須の殺生石を砕いた!源翁和尚』

伝説の時代背景は、平安後期から南北朝期。

そして、偶然か、ここにも『』が出てきて、『殺生石』の『殺生』という言葉が出てくる!びっくり

九尾の狐=玉藻前 のモデル美福門院の荘園だったのが信太西条で、東条(無住が書いていた「東條」の候補地)に隣接した地域。

つまり、

・筑波山麓(筑西市・旧明野町 及び 石岡市・旧八郷町)に伝わる、安倍晴明伝説。晴明の母は『信太の狐』
《平安時代中期》

・九尾の狐=玉藻前 のモデル美福門院の荘園だったのが、信太西条
《平安時代後期》

・無住の『雑談集』にある『東條という処の狐が、(不殺生界がある)三村山に逃げてきた』話。
 この「東條」は、(信太)東条である(これは私の説(^^))
 《鎌倉時代中期~後期》

信太』と『』、そして『殺生/不殺生』(と仏教の教え)が、チラチラ見え隠れしています!

…偶然か否かはわかりません。


鎌倉時代後期、『雑言集』『沙石集』を書いた無住道暁(一円)は、大変博学だったそうです。
Wikipediaによると
『臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、
真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』
とのこと。

九尾の狐伝説は、最後は、南北朝期の曹洞宗の僧侶 源翁和尚に退治されるので、伝説の完成時期は、
無住の生きていた時代よりずっと後になるかと思います。
しかし物語は二つに分かれていて、話の前半で玉藻前=九尾の狐を追う武士のモデルは上総介広常と三浦介義明で、ともに平安末期の武将。
だから、前半までの話(噂やゴシップ?)の骨子は、無住が生きていた当時、既にあったのかもしれないですよね(私の妄想です)。

博学だった無住の頭の中には、(当時多分流布しつつあったであろう)安倍晴明伝説も、九尾の狐伝説(噂)の知識も
があったのかも…とさらに妄想が膨らみます。

『雑言集』『沙石集』を書いた無住は、難しい仏教教理の他に、
世間のいろんな噂話や伝説にも詳しかったのではないでしょうか。

そしてやはり、伝説(多分に当時の噂やゴシップを含む)や仏教啓蒙書の話を深読みすると、
当時の民間信仰、修験道、陰陽道、仏教の各宗派の布教やら宗旨替えやら信者獲得の様相が見えてきて、
ニヤリとしてしまいます。

面白いですね♪グッド


***********************************************************

【参考文献】

1. 『中世の霞ヶ浦と律宗』 土浦市立博物館 企画展

2. 『死者の救済史:供養と憑依の宗教学』 池上良正 著 ちくま学術文庫 

3. 『筑波町史 上』

4. 『無住の見た風景を歩く-「沙石集」「雑談集」を手がかりとして-』 山田健二 著 茨城県高等学校教育研究会

5. 『里の国の中世 常陸・北下総の歴史世界』 網野善彦 平凡社ライブラリー

6. 『茨城県史 中世編』

7. 『常設展示解説 茨城の歴史をさぐる』 編集・発行 茨城県歴史館

8. 『角川日本地名大辞典 茨城県』

9. 『沙石集 上・下』 岩波文庫

10. 『大乗仏典 日本・中国篇 25 無住 虎関』 三木紀人・山田昭全 訳 中央公論社

11. 『常陽藝文 2001年1月号』 常陽藝文センター 発行

12. 『常陸の伝説』 藤田稔 編著 第一法規


【参考ホームページ】

1.筑西市ホームページ > 観光・文化・学び > 安倍晴明伝説 
  https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page001246.html






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