2019年03月01日
シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (8) 一の鳥居
シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (8) 一の鳥居
江戸中期の”ガイドブック” 『筑波山名跡誌』(上生菴亮盛 著)(文献1)に書かれた名所・旧跡を訪ね、興味のおもむくまま♪ 関連する話題も調べるシリーズです。
(筑波山名跡誌に記載されている順ではありませんので、その点、ご了承ください)
今までのお話
→ シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1)常陸帯宮(前編)
→ シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1) 常陸帯宮(後編)
→ シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (2) 男女川(水源)
→ シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (3)夫女之原、夫女石
→ シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (4)亀之岳
→ シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」(5)観流庵(前編)
→ シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (5)観流庵(後編)
→ シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (6) 酒香川
→シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (7) 橘川・迎来橋(前編)
→シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (7) 橘川・迎来橋(後編)
久しぶりの更新です。
第8回は、『一の鳥居』です。
筑波山名跡誌にもその名が書かれている『一の鳥居』
北条~神郡~臼井~筑波山神社をまっすぐ通る『つくば道』の途中にある、石造りの鳥居です。
別名、『六丁目の鳥居』とも呼ばれます。
春と秋の御座替祭では、鳥居そばに御仮屋が建てられ、そこに安置されいた大神輿と、筑波山頂を巡ってきた小神輿と、半年間山頂にあった『神衣』を運んできた櫃が御仮屋の中に入り、周りが覆われて外からは見えない状態で神事が行われます。
その後、関係者による大人数の行列で筑波山神社に向かう『神幸祭』が、この一の鳥居から出発します。

春の御座替祭の時の一の鳥居(2017年4月撮影)
御座替祭の神幸祭の様子については、以前書いた記事も良かったら♪
→ 筑波山神社 春の御座替神事(神幸祭) 2017

ちなみにこちらは、緑濃い季節の頃の一の鳥居(2014年9月撮影)
参詣路である つくば道は、臼井の集落からは筑波山神社まで急な坂道が続きますが、この一の鳥居からはさらに道が急になり、最後の方は階段となっていきます。
現在の石鳥居は、宝暦9年(1759)、再建されたものとのこと。

『一の鳥居』の説明の看板
宝暦13年11月(1763)に、嵯峨宮の御染筆の『天地開闢筑波神社』と書かれた勅願が、明治になるまで掲げられていたといいます。
さて、この一の鳥居の近くに、一つの台座が残っています。
これは、江戸時代までここに立っていた1体の仁王像(金剛力士像)のものです。

写真の中に白い枠の部分がそうです(2014年9月撮影)

こちらは2017年春の御座替祭の時に撮影。
お神輿が安置される御仮屋のそばに、仁王像の台座だった石があります。

アップにすると。
像の足が取り付けられていた後の孔がありますね。
筑波山名跡誌には、『一人仁王』(筑波の一王と呼ばれることもあるよう?)と呼ばれた、この一体の「吽形(うんぎょう)」の銅製の仁王像にまつわる話が書かれ、江戸中期の絵図(文献 )にもこの鳥居の脇に、それらしい1体の像が描かれています。
ここにどんな像が建っていたのでしょうか?
なんと!この台座に立っていた青銅製の仁王像(金剛力士像)は、現在、明治の廃仏毀釈の際に移動されて、現在は東京・文京区の護国寺の境内に祀られています。

こちらが、その仁王像です!(2014年5月撮影)
筋肉ムキムキです
先に紹介した鳥居のそばに、この像がすっくと立って、こちらを睨んでいると想像してみてください♪

後ろ姿はこちら♪ (2016年12月撮影)
古の人々は、この背中を見ながら、山から下りてきて、一の鳥居をくぐって下山していったのですね
この『一人仁王』にまつわる伝説が面白い!。
その伝説と、現在の護国寺にある様子については、以前詳しく書きましたので、そちらをお読み頂けると幸いです。
→ 消えた筑波山の「お宝」を巡って!(後編)
→ 元々は筑波山にあった、東京・護国寺の瑜祇(ゆぎ)塔
さて、他にも、この一の鳥居の近くには、
天明2年(1782年)に建てられた、服部嵐雪(松尾芭蕉門下、十哲の一人)の句碑
「雪は まうさず まず むらさきの筑波山」
文政10年(1827年)に建てられた、27世木村庄之助の句碑
「西東 山の錦や はなすまひ」
があります。
どちらも、この地を訪れた際に読まれた句だそうで、二つとも古びて雰囲気のある石碑です。
この一の鳥居付近は、江戸時代、旅籠、茶屋などが立ち並んで、大変賑わったと言います。
江戸時代の絵図にも、この道沿いに建物が続いている様子が描かれています。
今は、懐かしい雰囲気を残す静かな住宅街ですが、当時に思いを馳せながら、この参道を登って参拝するのも良いものです(^^)
でも、現在もこの一の鳥居に、筋肉ムキムキの一人仁王様が立っていたら、この急な坂を登っていく気合いを入れてくれるだろうなぁ
。
→ このシリーズ、ぼちぼち続きます♪
*************************************************************************
【参考文献】
1.『筑波山名跡誌 ―安永期の貴重な地誌再現―』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
2.『平成24年度特別展 筑波山―神と仏の御座す山―』 茨城県立歴史館 編集・発行
p.90 『常陸国筑波山縁起 下巻 「筑波山南面の図」』
3.『いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図』
p.32-33 『筑波町沼田村と臼井村神郡村水論裁許絵図』
元禄七年(1694年)
4.『関東の名山 筑波山 筑波山神社案内記』
p.34-35 『筑波町沼田村と臼井村神郡村水論裁許絵図写』
元禄七年(1694年)原図の写し
5.『筑波山麓フットパス 神郡~六所~筑波』マップ つくば市 発行
江戸中期の”ガイドブック” 『筑波山名跡誌』(上生菴亮盛 著)(文献1)に書かれた名所・旧跡を訪ね、興味のおもむくまま♪ 関連する話題も調べるシリーズです。
(筑波山名跡誌に記載されている順ではありませんので、その点、ご了承ください)
今までのお話










久しぶりの更新です。
第8回は、『一の鳥居』です。
筑波山名跡誌にもその名が書かれている『一の鳥居』
北条~神郡~臼井~筑波山神社をまっすぐ通る『つくば道』の途中にある、石造りの鳥居です。
別名、『六丁目の鳥居』とも呼ばれます。
春と秋の御座替祭では、鳥居そばに御仮屋が建てられ、そこに安置されいた大神輿と、筑波山頂を巡ってきた小神輿と、半年間山頂にあった『神衣』を運んできた櫃が御仮屋の中に入り、周りが覆われて外からは見えない状態で神事が行われます。
その後、関係者による大人数の行列で筑波山神社に向かう『神幸祭』が、この一の鳥居から出発します。

春の御座替祭の時の一の鳥居(2017年4月撮影)

→ 筑波山神社 春の御座替神事(神幸祭) 2017

ちなみにこちらは、緑濃い季節の頃の一の鳥居(2014年9月撮影)
参詣路である つくば道は、臼井の集落からは筑波山神社まで急な坂道が続きますが、この一の鳥居からはさらに道が急になり、最後の方は階段となっていきます。
現在の石鳥居は、宝暦9年(1759)、再建されたものとのこと。

『一の鳥居』の説明の看板
宝暦13年11月(1763)に、嵯峨宮の御染筆の『天地開闢筑波神社』と書かれた勅願が、明治になるまで掲げられていたといいます。
さて、この一の鳥居の近くに、一つの台座が残っています。
これは、江戸時代までここに立っていた1体の仁王像(金剛力士像)のものです。

写真の中に白い枠の部分がそうです(2014年9月撮影)

こちらは2017年春の御座替祭の時に撮影。
お神輿が安置される御仮屋のそばに、仁王像の台座だった石があります。

アップにすると。
像の足が取り付けられていた後の孔がありますね。
筑波山名跡誌には、『一人仁王』(筑波の一王と呼ばれることもあるよう?)と呼ばれた、この一体の「吽形(うんぎょう)」の銅製の仁王像にまつわる話が書かれ、江戸中期の絵図(文献 )にもこの鳥居の脇に、それらしい1体の像が描かれています。
ここにどんな像が建っていたのでしょうか?
なんと!この台座に立っていた青銅製の仁王像(金剛力士像)は、現在、明治の廃仏毀釈の際に移動されて、現在は東京・文京区の護国寺の境内に祀られています。

こちらが、その仁王像です!(2014年5月撮影)
筋肉ムキムキです

先に紹介した鳥居のそばに、この像がすっくと立って、こちらを睨んでいると想像してみてください♪

後ろ姿はこちら♪ (2016年12月撮影)
古の人々は、この背中を見ながら、山から下りてきて、一の鳥居をくぐって下山していったのですね

この『一人仁王』にまつわる伝説が面白い!。
その伝説と、現在の護国寺にある様子については、以前詳しく書きましたので、そちらをお読み頂けると幸いです。


さて、他にも、この一の鳥居の近くには、
天明2年(1782年)に建てられた、服部嵐雪(松尾芭蕉門下、十哲の一人)の句碑
「雪は まうさず まず むらさきの筑波山」
文政10年(1827年)に建てられた、27世木村庄之助の句碑
「西東 山の錦や はなすまひ」
があります。
どちらも、この地を訪れた際に読まれた句だそうで、二つとも古びて雰囲気のある石碑です。
この一の鳥居付近は、江戸時代、旅籠、茶屋などが立ち並んで、大変賑わったと言います。
江戸時代の絵図にも、この道沿いに建物が続いている様子が描かれています。
今は、懐かしい雰囲気を残す静かな住宅街ですが、当時に思いを馳せながら、この参道を登って参拝するのも良いものです(^^)
でも、現在もこの一の鳥居に、筋肉ムキムキの一人仁王様が立っていたら、この急な坂を登っていく気合いを入れてくれるだろうなぁ

→ このシリーズ、ぼちぼち続きます♪
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【参考文献】
1.『筑波山名跡誌 ―安永期の貴重な地誌再現―』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
2.『平成24年度特別展 筑波山―神と仏の御座す山―』 茨城県立歴史館 編集・発行
p.90 『常陸国筑波山縁起 下巻 「筑波山南面の図」』
3.『いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図』
p.32-33 『筑波町沼田村と臼井村神郡村水論裁許絵図』
元禄七年(1694年)
4.『関東の名山 筑波山 筑波山神社案内記』
p.34-35 『筑波町沼田村と臼井村神郡村水論裁許絵図写』
元禄七年(1694年)原図の写し
5.『筑波山麓フットパス 神郡~六所~筑波』マップ つくば市 発行
つくば・神郡 筑波山麓秋祭り お行屋公開とお接待
常陸国に伝わる鎌倉・三浦に関係する伝説 &八田知家と三浦義村の関係?!
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Posted by かるだ もん at 23:53│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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