2016年11月03日
“ 小田城跡歴史ひろば ” の歩き方(入門編)
“ 小田城跡歴史ひろば ” の歩き方(入門編)
※ラヂオつくば『つくばね自由研究クラブ』2016年10月20日(木)の放送でお話した内容を、再構成して書いています。
今年2016年4月に開園された、つくば市小田にある『小田城跡歴史ひろば』
まだまだご存知ない方も多いかと思います。
また行ってみようと思っても、どこをどう見たら良いのかな?と思う方も多いのではないでしょうか。
いろいろ知ると、とても面白い歴史を持つ、小田城。
そんな小田城跡歴史ひろばの『見どころ』と『歩き方』について、
勉強させて頂いた(※)ことも含め、
私かるだもんが、個人的に好きな場所を巡るコースなどを書いてみます。
とりあえず、ポイントは8つ上げてみました。
『小田城跡歴史ひろば巡り 入門編』としてお役に立つと嬉しいです。
小田城は、昭和10年に国指定遺跡に指定されています。
鎌倉時代から戦国時代まで、関東八屋形の一つであった小田氏の居城でした。
戦国時代終わりの頃は、佐竹氏に奪われ城主が3回変わり、最後は1602年(慶長7年)廃城となりました。
近代に入り、大正時代、土浦から岩瀬まで繋ぐ、旧筑波鉄道が開業し、
路線が城跡のど真ん中を突っ切る・・・などの憂き目にあい、
その後は田んぼやら荒れ地になりながらも、
最近になって、小田城跡(あと)は7年の歳月をかけて発掘調査が行われ、その後、保存のために埋め戻されました。
そしてその上に更に約1m土を盛った土地に、発掘した当時の様子を中心に遺構を復元した、歴史公園として整備されました。
また同時に、鎌倉時代から戦国時代までこの土地を治めていた小田氏についてや、小田地区で発掘された歴史遺物も分かりやすく展示された、資料館も併設されました。
①小田城跡歴史ひろば案内所
まずは、最初に、歴史ひろば案内所の展示は是非ご覧ください。
小田氏代々の城主の業績など、わかりやすく展示されている資料館です。
小田城の周りの様子、発掘されたもの、文化財の分布なども展示されています。
ビデオによる説明もあって、わかりやすいです。
ここでパンフレットをもらって、それを見ながら歴史ひろばを廻りましょう♪
ちなみに、この歴史ひろば案内所があった場所は、旧筑波鉄道の『常陸小田駅』があった場所だそうです。
すぐそばの自転車道路(りんりんロード)は旧筑波鉄道の線路跡です。
しかし列車が走っていた頃の線路とは違い、現在のりんりんロードは小田城の中は突っ切らず、南側に迂回して通っています。
②土塁の中の城跡に入るときは、案内所に一番近いトイレがある口からでなく、堀の周りを半周して反対側の大手口から入る。
案内所から歴史ひろばに向かうと、トイレがある『入口風』な場所がありますが、これは正式な『入口』ではありません。
(ポイント⑦で後述します)
ここから入らず、左に道なりに進み、ぐるっと反対側にある大手口(東虎口)に向かって下さい。
案内所がある場所の反対側に行くと、大手口が見えてきます。
公園の説明板も、大手口(東虎口)から始まります。
※大手口の別名は東虎口(ひがしこぐち)。また堀は「東堀」、橋は「東橋」と名付けられていて、要は、復元広場の東側です。
大手口の橋(東橋)は、発掘調査の結果から 途中まで土の橋で、途中から木の橋になっていた様子を復元。
ただし安全面から、当時は木製だった橋は、手すり付きの茶色い鉄製の橋になっています。
同じく発掘調査の結果、堀の底は障子のような升目に掘っている『障子掘り』だったことがわかりました。
『障子掘り』は、マスの深さ1m近くあったそうです。
深さを分からなくするためと、足を捉えて侵攻を妨げるための構造とのこと。
ただし、復元した掘は、危険なので、実際よりも浅く作っているそうです。
『障子掘り』も危険なのと、水がたまりやすく蚊が発生したりで、メンテナンスが大変なので、堀の底の『障子掘り』は復元していないそうです。
→だから、現在の堀の底は平らです。
さて土塁の周りの堀と、内側の復元されて広場になっている場所は、発掘調査後に保存の為に埋め戻して、さらに1mほど土を持って、建物跡や池の跡を復元して作られています。
だから、現在ある地面は、実際に最後に城跡があった地面より1m程高いのです。
園内には大小の説明板がありますので、よ~く読んでみてくださいね
③ビューポイント2か所: 通称「涼み台」の上からの見渡した景色、「涼み台」下の東池から見た筑波山。
一番の高台『涼み台』のある高さが、当時の土塁の高さではないかと考えられるそうです。
(現在は3m程度、本来は4~5mあったと考えられるそう)。
昔、まだ『荒れ地』だった小田城跡に行くと、ぽつんとあった盛り土のような高台・通称『涼み台』。
周りが整備されて、すっかり貫禄のある高台に見えますね♪
涼み台は、『物見やぐらがあったとも考えられるが、何も発掘されなかったので詳しくは分からない』
のだそうです。
園内の池は東池と西池の2つがあります。
大きくて、あずまやがそばにあるのが東池。
ここから筑波山を見た景色が良いのです♪
多分、当時も筑波山を借景として風景を楽しんだのではないかといわれています。
多分そのうち、
『東池ほとりから筑波山を見た風景』
が、つくばの名所絵ハガキとして出るのではないかとニラんでいます(^^)v
涼み台から見下ろした園内と、バックの宝篋山(小田山)
さてここからは3つ続けて、
特に見てほしい『復元の見どころ』
です。
④東池の作り。復元方法。
池は海辺を模した『磯敷き州浜(州浜護岸)』と呼ばれる作り方。
中世の貴族の館の庭園の池など、この手法の池だったそうで、維持に手間がかかるそう。
戦国武将、特に地方の豪族が貴族の館の庭園のような池を持つのは珍しい例だそうです。
写真のように、浜辺を模した小石の様子も復元されています。
東池・西池の2つの池は、池の水が多くなると、細い水路(暗渠)で別の池や堀に排出するしくみになっていて、それも復元。
当時も、排水はちゃんと考えられていたのですね。
池の周りを白く固めているのはセメントではなく、特殊な材料で固めているそうです。
現代の池は大きな石で囲った『石積み護岸』がほとんどだそうですが、発掘された『東池』は、池の周りは土で固めて浜辺を模した『州浜護岸』。
それを再現しようとしたそうですが、当時と現在では土質が異なるのか、現在の土では池の形に保てないため、復元には人工的な材料で当時の池の形を作るように囲ったとのことです。
そのうち草が生えてきて、良い感じになるそうです。
今は細い植栽も大きく茂ってくるでしょうし、楽しみですね♪
発掘調査から、小田城跡からは、当時の高級品だった中国からの輸入陶磁器の破片もたくさん発掘されています(案内所にも展示されています)。
ここから見た筑波山の景色を愛でながら、接待などしていたのかもしれませんね(´-`).。oO
⑤南西虎口(なんせいこぐち)の跡の、石組みの復元。
これは私の個人的な一番の見どころです。
ここだけは、
『出土した時の状況のままの姿を再現』
しているそうです。
しかも、今見られる石組みの『石』は、
『出土した石一つ一つまで忠実に再現した人口の石』
なのです!
本物の石組は、歴史ひろばの他の場所同様、1m土の下にあります。
石組みの石は、どうも、いろんな石を利用していた模様です。
注目は、お地蔵さまのような『石仏』まで石組みに使われており、
礎石があることから、当時は木製の門があったと考えられるとのことで、
⑥建物の柱があった場所の印。
建物跡が色分けされているのには、意味があります。
赤い四角の地面は礎石があった場所、白い四角の地面は掘立柱の穴があった所を表しています。
発掘調査で出てきた本物の地面は、現在は埋め戻されて現在の地面の1mほど下にあるので、このような表現をしているとのことです。
また、堀についての説明、橋についての説明など、近くの説明板を読むとわかりやすいので、是非読んで下さいね♪
⑦旧筑波鉄道が、城跡のどまんなかを突っ切っていたなごり。
土浦から岩瀬を繋いでいた旧筑波鉄道は、現在自転車道・りんりんロードとなっており、小田城跡では、ぐるっと城跡を迂回していますが、城跡手前で急に不自然に迂回しています。
ポイント①②でも触れましたが、旧筑波鉄道の線路は、小田城跡を斜めにど真ん中に突っ切っていました。
公園のトイレがある場所の『土塁の切り通し』箇所が、突っ切っていた名残です。
有る意味、筑波鉄道と小田城跡の黒歴史(^^;)だと思いますが、ここは転んでもタダでは起きていないのがすごい。
逆に土塁の切りとおしだった跡から、土塁の形作ってきた土の積み重ねの歴史、外に広がっていった様子がわかったそうです。
それを説明しているのが、トイレ前の壁の展示です。
⑧そして最後にもう一度、歴史ひろば案内所に行って、城の復元ジオラマを見る。
一通り廻ってから、最後に再び案内所へ行って展示や説明を読むと、
より当時の小田城の状態が実感できます。おすすめします!
※ラヂオつくば『つくばね自由研究クラブ』2016年10月20日(木)の放送でお話した内容を、再構成して書いています。
今年2016年4月に開園された、つくば市小田にある『小田城跡歴史ひろば』
まだまだご存知ない方も多いかと思います。
また行ってみようと思っても、どこをどう見たら良いのかな?と思う方も多いのではないでしょうか。
いろいろ知ると、とても面白い歴史を持つ、小田城。
そんな小田城跡歴史ひろばの『見どころ』と『歩き方』について、
勉強させて頂いた(※)ことも含め、
私かるだもんが、個人的に好きな場所を巡るコースなどを書いてみます。
とりあえず、ポイントは8つ上げてみました。
『小田城跡歴史ひろば巡り 入門編』としてお役に立つと嬉しいです。
小田城は、昭和10年に国指定遺跡に指定されています。
鎌倉時代から戦国時代まで、関東八屋形の一つであった小田氏の居城でした。
戦国時代終わりの頃は、佐竹氏に奪われ城主が3回変わり、最後は1602年(慶長7年)廃城となりました。
近代に入り、大正時代、土浦から岩瀬まで繋ぐ、旧筑波鉄道が開業し、
路線が城跡のど真ん中を突っ切る・・・などの憂き目にあい、
その後は田んぼやら荒れ地になりながらも、
最近になって、小田城跡(あと)は7年の歳月をかけて発掘調査が行われ、その後、保存のために埋め戻されました。
そしてその上に更に約1m土を盛った土地に、発掘した当時の様子を中心に遺構を復元した、歴史公園として整備されました。
また同時に、鎌倉時代から戦国時代までこの土地を治めていた小田氏についてや、小田地区で発掘された歴史遺物も分かりやすく展示された、資料館も併設されました。
①小田城跡歴史ひろば案内所
まずは、最初に、歴史ひろば案内所の展示は是非ご覧ください。
小田氏代々の城主の業績など、わかりやすく展示されている資料館です。
小田城の周りの様子、発掘されたもの、文化財の分布なども展示されています。
ビデオによる説明もあって、わかりやすいです。
ここでパンフレットをもらって、それを見ながら歴史ひろばを廻りましょう♪
ちなみに、この歴史ひろば案内所があった場所は、旧筑波鉄道の『常陸小田駅』があった場所だそうです。
すぐそばの自転車道路(りんりんロード)は旧筑波鉄道の線路跡です。
しかし列車が走っていた頃の線路とは違い、現在のりんりんロードは小田城の中は突っ切らず、南側に迂回して通っています。
②土塁の中の城跡に入るときは、案内所に一番近いトイレがある口からでなく、堀の周りを半周して反対側の大手口から入る。
案内所から歴史ひろばに向かうと、トイレがある『入口風』な場所がありますが、これは正式な『入口』ではありません。
(ポイント⑦で後述します)
ここから入らず、左に道なりに進み、ぐるっと反対側にある大手口(東虎口)に向かって下さい。
案内所がある場所の反対側に行くと、大手口が見えてきます。
公園の説明板も、大手口(東虎口)から始まります。
※大手口の別名は東虎口(ひがしこぐち)。また堀は「東堀」、橋は「東橋」と名付けられていて、要は、復元広場の東側です。
大手口の橋(東橋)は、発掘調査の結果から 途中まで土の橋で、途中から木の橋になっていた様子を復元。
ただし安全面から、当時は木製だった橋は、手すり付きの茶色い鉄製の橋になっています。
同じく発掘調査の結果、堀の底は障子のような升目に掘っている『障子掘り』だったことがわかりました。
『障子掘り』は、マスの深さ1m近くあったそうです。
深さを分からなくするためと、足を捉えて侵攻を妨げるための構造とのこと。
ただし、復元した掘は、危険なので、実際よりも浅く作っているそうです。
『障子掘り』も危険なのと、水がたまりやすく蚊が発生したりで、メンテナンスが大変なので、堀の底の『障子掘り』は復元していないそうです。
→だから、現在の堀の底は平らです。
さて土塁の周りの堀と、内側の復元されて広場になっている場所は、発掘調査後に保存の為に埋め戻して、さらに1mほど土を持って、建物跡や池の跡を復元して作られています。
だから、現在ある地面は、実際に最後に城跡があった地面より1m程高いのです。
園内には大小の説明板がありますので、よ~く読んでみてくださいね
③ビューポイント2か所: 通称「涼み台」の上からの見渡した景色、「涼み台」下の東池から見た筑波山。
一番の高台『涼み台』のある高さが、当時の土塁の高さではないかと考えられるそうです。
(現在は3m程度、本来は4~5mあったと考えられるそう)。
昔、まだ『荒れ地』だった小田城跡に行くと、ぽつんとあった盛り土のような高台・通称『涼み台』。
周りが整備されて、すっかり貫禄のある高台に見えますね♪
涼み台は、『物見やぐらがあったとも考えられるが、何も発掘されなかったので詳しくは分からない』
のだそうです。
園内の池は東池と西池の2つがあります。
大きくて、あずまやがそばにあるのが東池。
ここから筑波山を見た景色が良いのです♪
多分、当時も筑波山を借景として風景を楽しんだのではないかといわれています。
多分そのうち、
『東池ほとりから筑波山を見た風景』
が、つくばの名所絵ハガキとして出るのではないかとニラんでいます(^^)v
涼み台から見下ろした園内と、バックの宝篋山(小田山)
さてここからは3つ続けて、
特に見てほしい『復元の見どころ』
です。
④東池の作り。復元方法。
池は海辺を模した『磯敷き州浜(州浜護岸)』と呼ばれる作り方。
中世の貴族の館の庭園の池など、この手法の池だったそうで、維持に手間がかかるそう。
戦国武将、特に地方の豪族が貴族の館の庭園のような池を持つのは珍しい例だそうです。
写真のように、浜辺を模した小石の様子も復元されています。
東池・西池の2つの池は、池の水が多くなると、細い水路(暗渠)で別の池や堀に排出するしくみになっていて、それも復元。
当時も、排水はちゃんと考えられていたのですね。
池の周りを白く固めているのはセメントではなく、特殊な材料で固めているそうです。
現代の池は大きな石で囲った『石積み護岸』がほとんどだそうですが、発掘された『東池』は、池の周りは土で固めて浜辺を模した『州浜護岸』。
それを再現しようとしたそうですが、当時と現在では土質が異なるのか、現在の土では池の形に保てないため、復元には人工的な材料で当時の池の形を作るように囲ったとのことです。
そのうち草が生えてきて、良い感じになるそうです。
今は細い植栽も大きく茂ってくるでしょうし、楽しみですね♪
発掘調査から、小田城跡からは、当時の高級品だった中国からの輸入陶磁器の破片もたくさん発掘されています(案内所にも展示されています)。
ここから見た筑波山の景色を愛でながら、接待などしていたのかもしれませんね(´-`).。oO
⑤南西虎口(なんせいこぐち)の跡の、石組みの復元。
これは私の個人的な一番の見どころです。
ここだけは、
『出土した時の状況のままの姿を再現』
しているそうです。
しかも、今見られる石組みの『石』は、
『出土した石一つ一つまで忠実に再現した人口の石』
なのです!
本物の石組は、歴史ひろばの他の場所同様、1m土の下にあります。
石組みの石は、どうも、いろんな石を利用していた模様です。
注目は、お地蔵さまのような『石仏』まで石組みに使われており、
それもちゃんと再現されています!
他にも何かの石造物を利用したらしいものもあります。
・・・それにしても、どういう経緯で、どこにあった石仏を持ってきて他の石と一緒に積んだのか・・・
興味があります。
行ったら是非見つけてみてください。
他にも何かの石造物を利用したらしいものもあります。
・・・それにしても、どういう経緯で、どこにあった石仏を持ってきて他の石と一緒に積んだのか・・・
興味があります。
行ったら是非見つけてみてください。
礎石があることから、当時は木製の門があったと考えられるとのことで、
その礎石もちゃんと再現されています。
⑥建物の柱があった場所の印。
建物跡が色分けされているのには、意味があります。
赤い四角の地面は礎石があった場所、白い四角の地面は掘立柱の穴があった所を表しています。
発掘調査で出てきた本物の地面は、現在は埋め戻されて現在の地面の1mほど下にあるので、このような表現をしているとのことです。
また、堀についての説明、橋についての説明など、近くの説明板を読むとわかりやすいので、是非読んで下さいね♪
⑦旧筑波鉄道が、城跡のどまんなかを突っ切っていたなごり。
土浦から岩瀬を繋いでいた旧筑波鉄道は、現在自転車道・りんりんロードとなっており、小田城跡では、ぐるっと城跡を迂回していますが、城跡手前で急に不自然に迂回しています。
ポイント①②でも触れましたが、旧筑波鉄道の線路は、小田城跡を斜めにど真ん中に突っ切っていました。
公園のトイレがある場所の『土塁の切り通し』箇所が、突っ切っていた名残です。
有る意味、筑波鉄道と小田城跡の黒歴史(^^;)だと思いますが、ここは転んでもタダでは起きていないのがすごい。
逆に土塁の切りとおしだった跡から、土塁の形作ってきた土の積み重ねの歴史、外に広がっていった様子がわかったそうです。
それを説明しているのが、トイレ前の壁の展示です。
⑧そして最後にもう一度、歴史ひろば案内所に行って、城の復元ジオラマを見る。
一通り廻ってから、最後に再び案内所へ行って展示や説明を読むと、
より当時の小田城の状態が実感できます。おすすめします!
ということで、まずは、この8ポイントを押さえて、小田城跡歴史ひろばに行ってみて下さいね。
ただの『広場』ではないのが、よくわかると思います(^^)v
宝篋山登山の帰りにも寄って見て下さい。
宝篋山頂上の宝篋印塔を作ったお寺(極楽寺)を守護していた小田氏の居城です。
【2017年7月24日追記】
小田氏関連の武具がご覧になりたい方は、足を延ばして、つくば市のお隣、常総市の
『常総市地域交流センター(通称:豊田城)』
に行くと、見ることが出来ます。
ご参考 → 常総市地域交流センター(豊田城)が、良い!
※【謝辞】
以上は、小田城歴史ひろばに関する、観光ボランティア関係のいくつかの現地勉強会や、つくば市主催の講演会で勉強させて頂いた内容から、かるだもんの理解の範囲で書いたものです。
機会を下さった関係者にお礼申し上げます。
また、事実誤解・誤謬がありましたら、ご教示頂けると幸いです。
ただの『広場』ではないのが、よくわかると思います(^^)v
宝篋山登山の帰りにも寄って見て下さい。
宝篋山頂上の宝篋印塔を作ったお寺(極楽寺)を守護していた小田氏の居城です。
【2017年7月24日追記】
小田氏関連の武具がご覧になりたい方は、足を延ばして、つくば市のお隣、常総市の
『常総市地域交流センター(通称:豊田城)』
に行くと、見ることが出来ます。
ご参考 → 常総市地域交流センター(豊田城)が、良い!
※【謝辞】
以上は、小田城歴史ひろばに関する、観光ボランティア関係のいくつかの現地勉強会や、つくば市主催の講演会で勉強させて頂いた内容から、かるだもんの理解の範囲で書いたものです。
機会を下さった関係者にお礼申し上げます。
また、事実誤解・誤謬がありましたら、ご教示頂けると幸いです。
2016年08月23日
信仰とジオの意外な関係(3)後篇~磨崖仏に秘められた歴史と地球ロマン
信仰とジオの意外な関係(3)
~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―後篇~
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年8月5日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域ジオパーク構想 勝手の応援企画の第三段の後編です!
第1回は → 信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
第2回は → 信仰とジオの意外な関係(2) ~土浦 カシャ(雷神)の爪・龍の爪~
第3回前篇 → 信仰とジオの意外な関係(3)~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―前篇~
第3回の後篇、
早速行きます。
(3)-2 つくば市 小田 宝篋山近く(小田前山) 磨崖不動明王立像「小田不動尊」
つくば市の指定文化財です。
こちらは、なんと!
先に紹介した、百体磨崖仏よりも古いそうなのです
小田の宝篋山(ほうきょうさん)の麓に、小田前山と呼ばれる小さな山があります。
参考→ つくば市HP > 宝篋山
場所は、上のサイトにある、宝篋山トレッキングマップ(PDFファイル)を見ると、
『小田城コース』沿い付近、国道125号からちょっと入った所に『小田不動尊』の記載があります。
『八幡宮』の近くです。
像が彫られた岩肌の前に本堂(拝殿?)があります。
そこまで行ってみました。
本堂(拝殿?)の後ろに、
御簾がかかっている大きな岩が見えます。
切り立った岩の中腹、地面から5~6m位の高さの所に、御簾がかかっています!
あの御簾の奥に、小田不動尊こと、磨崖不動明王立像がいらっしゃる。
部屋のように四角く彫られた、その奥の壁面に彫られているようです。
年に1回、1月28日に御開帳され、この日に行くと拝見出来るということです。
文献1(「つくばの文化財」)に写真が載っています。
肉厚で立体的なレリーフ像です。
同書によると、像高167.5cm
岩は花崗岩。
『・・・藤原和様の特徴が現われています。造立年代は12世紀前半と考えられています』
とのこと。
12世紀前半ということは、平安後期。
【誰が彫ったのか?】
この像についても、
先日のジオツアーに参加した(前篇を参照)の時に、
かすみがうら市歴史資料館の先生に伺ってみました。
すると彫り方や装飾などから、平安後期だろうということは推測できるそうです。
ただし同じタイプの仏像の例が全国を見てもないので、はっきり断定はできないそうで、
しかも誰が(どういった人が)何故彫ったかとういことは、全く分からないそうです。
ここにも、
山の中の、謎の磨崖仏ロマンが(*^^*)
当時の最高技術を持った石工技術者の人たちが、
奈良から忍性さんと共に、同じ小田地区のすぐ近くにあった三村山極楽寺に来たのは、
鎌倉時代でした(詳細は前篇)
平安後期の像だと考えられる小田不動尊像は、それよりも古い!
つくば市内に、そんな古い磨崖仏があるなんて、感動です
小田不動尊につきましては、
詳しいことは、宝篋山登山口入口(駐車場)の「宝篋山小田休憩所」で、
地元の方が待機されている時に、聞いてみると良いかと思います。
【仏像が彫られた岩・・花崗岩と凝灰岩】
前回、今回と紹介した、筑波山地域の磨崖仏が彫られている岩は、花崗岩と呼ばれる岩石です。
石材として有名な真壁石や稲田石も、花崗岩です。
約6,000万年前、恐竜が絶滅したぐらいの頃の大昔、
日本列島など影も形もなくて、大陸の端っこだったか海の底だったの頃に、
地面の下でマグマが冷えて固まって固い岩になったものが、
筑波山地域の花崗岩だそうです。
地面の下で出来た花崗岩とその周りの部分は、その後だんだん隆起してきて山になり、
周りのやわらかい部分が風化で削られて、
残った固い部分が筑波山とその周りの山だと考えられるそうです。
そうやって、硬い岩となった花崗岩が、地表に現われている場所が、筑波山系で多くみられます。
そして、数百年の昔、山奥のそんな花崗岩の岩肌に、
大変な思いをして、仏像を彫った人々がいた!
ちなみに、前篇の最初で触れた日立市内で見られる磨崖仏は、いずれも凝灰岩と呼ばれる岩でに彫られています。
よく塀などに使われてる大谷石も、凝灰岩です。
(大谷石は栃木で取れます)。
凝灰岩というのは、大昔、火山の噴火で飛んできた火山灰が降り積もって、
それが長い年月をかけて岩になったものだそうです。
日立の海岸近くの凝灰岩は2種類(2つの層が)あるそうで、
1つは約2000万年に、どこかの火山の噴火で飛んできた火山灰が堆積したもの。
もう1タイプはそれより新しく約1000万年前に、火山の噴火で飛んできた火山灰が堆積したものだそうです。
(茨城県北ジオパークの方、及び 日立市郷土資料館の方からご教示頂きました。ありがとうございました)
ちなみに、今から1000万年前から2000万年前の頃というのは、
大陸から日本列島のもとになる部分が、
バリバリバリと観音開きのように開いて分かれてきた頃だと考えられるそう。
筑波山の花崗岩は6000万年前に地面の下で冷えて固まって出来たもの。
日立の海岸の凝灰岩は2000万年前もしくは1000万年前に、どこかで噴火した火山灰が地面に積もったもの。
地球のすごい歴史を感じます。
ちなみに、筑波山は火山ではありません。
マグマというと「火山?噴火するの?」と連想しがちですが、
筑波山は、日本列島が生まれる以前の6000万年前という、超~大昔に、
地面の下にあったマグマが地上に出ることなく、地面の下で冷えて固まった岩です。
筑波山は大きな岩の塊みたいなものです。火山では全くありません。
【石仏の場所と石工技術の歴史】
日本に仏教が入って間もないころは、道沿いや集落の近くに仏像を彫り、
時代が下って山に入って修行する山岳信仰が盛んになると、
修行者は山の岩などに仏像を彫るようになったそうです。
日立市の小木津浜は、古代の街道沿い(古代の東海道)にあたる場所。
そして、筑波山系の閑居山、小田前山や、(前篇で触れた)北茨城の浄蓮寺渓谷は、山の中。
なるほど!
また、彫られている岩についても、
現在も塀などに使われている大谷石などの凝灰岩は、柔らかめの石で、
特別な道具を使わなくても、ちょっと硬い石などでもガリガリと表面を彫ることができます。
だから、約1300年前以上の昔でも、小木津浜などの凝灰岩に仏像を彫ることができたんでしょうね。
それに比べ花崗岩は固いので、
彫る道具も、道具を作る技術も、石の加工技術も進歩しないと彫れない。
時代が下って、大陸から最先端の石工技術が伝わってきて、やっと彫れるようになったんですね。
茨城県内の磨崖仏から、
昔の仏教の伝わり方・修行の場所の変遷と、石工技術の変遷が見えてきます。
そして素材となっている岩から、
大昔の地表(現在の茨城県に当たるエリア)の成り立ちも見えてくる。
勉強しました!
・・・ということで3回にわけて、
筑波山ジオパーク構想、勝手に応援企画、ジオと信仰の意外な関係について調べてみました。
そういう目で見ると、トレッキングもウォーキングもランニングも、より面白くなりそうです。
日立市郷土博物館の方、および、茨城県北ジオパークの方から、メールでご教示いただきました。
また、ジオツアーで、かすみがうら市歴史資料館の先生からもご教示頂きました。
この場をおかりしてお礼申し上げます。
(誤謬がありましたら、ご指摘頂けると幸いです)
また、先日7月22日に行われた、かすみがうら歴史資料館主催の、ジオツアーに参加出来て、筑波山地域の花崗岩の、人との歴史や文化、そして加工技術を、実際に見て勉強し、更に見識を深めることが出来ました。
貴重な体験、ありがとうございました!
**************************************************************************
【参考文献】
1. 『つくば市の文化財』 2009年版 つくば市教育委員会 編 茨城県つくば市発行
2. 『日本の美術36 石仏』 久野健 著 小学館
3. 『常陸国 歴史の道を歩こう』 金砂大田楽研究会 歴史の実著のグループ編著 金砂大田研究会発行
【参考ホームページ】
1. つくば市 HP ›› 観光・イベント・交通 ›› 観光情報 ›› 観光施設・スポット ›› 宝篋山
http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/14271/14272/14348/008676.html
2. 日立市郷土博物館 HP
http://www.city.hitachi.lg.jp/museum/
3. 茨城県北ジオパーク HP
http://www.ibaraki-geopark.com/
4. かすみがうら市歴史資料館 HP
http://edu.city.kasumigaura.ibaraki.jp/shiryokan/
5. 茨城県教育委員会 HP
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/index.html
~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―後篇~
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年8月5日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域ジオパーク構想 勝手の応援企画の第三段の後編です!
第1回は → 信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
第2回は → 信仰とジオの意外な関係(2) ~土浦 カシャ(雷神)の爪・龍の爪~
第3回前篇 → 信仰とジオの意外な関係(3)~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―前篇~
第3回の後篇、
早速行きます。
(3)-2 つくば市 小田 宝篋山近く(小田前山) 磨崖不動明王立像「小田不動尊」
つくば市の指定文化財です。
こちらは、なんと!
先に紹介した、百体磨崖仏よりも古いそうなのです
小田の宝篋山(ほうきょうさん)の麓に、小田前山と呼ばれる小さな山があります。
参考→ つくば市HP > 宝篋山
場所は、上のサイトにある、宝篋山トレッキングマップ(PDFファイル)を見ると、
『小田城コース』沿い付近、国道125号からちょっと入った所に『小田不動尊』の記載があります。
『八幡宮』の近くです。
像が彫られた岩肌の前に本堂(拝殿?)があります。
そこまで行ってみました。
本堂(拝殿?)の後ろに、
御簾がかかっている大きな岩が見えます。
切り立った岩の中腹、地面から5~6m位の高さの所に、御簾がかかっています!
あの御簾の奥に、小田不動尊こと、磨崖不動明王立像がいらっしゃる。
部屋のように四角く彫られた、その奥の壁面に彫られているようです。
年に1回、1月28日に御開帳され、この日に行くと拝見出来るということです。
文献1(「つくばの文化財」)に写真が載っています。
肉厚で立体的なレリーフ像です。
同書によると、像高167.5cm
岩は花崗岩。
『・・・藤原和様の特徴が現われています。造立年代は12世紀前半と考えられています』
とのこと。
12世紀前半ということは、平安後期。
【誰が彫ったのか?】
この像についても、
先日のジオツアーに参加した(前篇を参照)の時に、
かすみがうら市歴史資料館の先生に伺ってみました。
すると彫り方や装飾などから、平安後期だろうということは推測できるそうです。
ただし同じタイプの仏像の例が全国を見てもないので、はっきり断定はできないそうで、
しかも誰が(どういった人が)何故彫ったかとういことは、全く分からないそうです。
ここにも、
山の中の、謎の磨崖仏ロマンが(*^^*)
当時の最高技術を持った石工技術者の人たちが、
奈良から忍性さんと共に、同じ小田地区のすぐ近くにあった三村山極楽寺に来たのは、
鎌倉時代でした(詳細は前篇)
平安後期の像だと考えられる小田不動尊像は、それよりも古い!
つくば市内に、そんな古い磨崖仏があるなんて、感動です
小田不動尊につきましては、
詳しいことは、宝篋山登山口入口(駐車場)の「宝篋山小田休憩所」で、
地元の方が待機されている時に、聞いてみると良いかと思います。
【仏像が彫られた岩・・花崗岩と凝灰岩】
前回、今回と紹介した、筑波山地域の磨崖仏が彫られている岩は、花崗岩と呼ばれる岩石です。
石材として有名な真壁石や稲田石も、花崗岩です。
約6,000万年前、恐竜が絶滅したぐらいの頃の大昔、
日本列島など影も形もなくて、大陸の端っこだったか海の底だったの頃に、
地面の下でマグマが冷えて固まって固い岩になったものが、
筑波山地域の花崗岩だそうです。
地面の下で出来た花崗岩とその周りの部分は、その後だんだん隆起してきて山になり、
周りのやわらかい部分が風化で削られて、
残った固い部分が筑波山とその周りの山だと考えられるそうです。
そうやって、硬い岩となった花崗岩が、地表に現われている場所が、筑波山系で多くみられます。
そして、数百年の昔、山奥のそんな花崗岩の岩肌に、
大変な思いをして、仏像を彫った人々がいた!
ちなみに、前篇の最初で触れた日立市内で見られる磨崖仏は、いずれも凝灰岩と呼ばれる岩でに彫られています。
よく塀などに使われてる大谷石も、凝灰岩です。
(大谷石は栃木で取れます)。
凝灰岩というのは、大昔、火山の噴火で飛んできた火山灰が降り積もって、
それが長い年月をかけて岩になったものだそうです。
日立の海岸近くの凝灰岩は2種類(2つの層が)あるそうで、
1つは約2000万年に、どこかの火山の噴火で飛んできた火山灰が堆積したもの。
もう1タイプはそれより新しく約1000万年前に、火山の噴火で飛んできた火山灰が堆積したものだそうです。
(茨城県北ジオパークの方、及び 日立市郷土資料館の方からご教示頂きました。ありがとうございました)
ちなみに、今から1000万年前から2000万年前の頃というのは、
大陸から日本列島のもとになる部分が、
バリバリバリと観音開きのように開いて分かれてきた頃だと考えられるそう。
筑波山の花崗岩は6000万年前に地面の下で冷えて固まって出来たもの。
日立の海岸の凝灰岩は2000万年前もしくは1000万年前に、どこかで噴火した火山灰が地面に積もったもの。
地球のすごい歴史を感じます。
ちなみに、筑波山は火山ではありません。
マグマというと「火山?噴火するの?」と連想しがちですが、
筑波山は、日本列島が生まれる以前の6000万年前という、超~大昔に、
地面の下にあったマグマが地上に出ることなく、地面の下で冷えて固まった岩です。
筑波山は大きな岩の塊みたいなものです。火山では全くありません。
【石仏の場所と石工技術の歴史】
日本に仏教が入って間もないころは、道沿いや集落の近くに仏像を彫り、
時代が下って山に入って修行する山岳信仰が盛んになると、
修行者は山の岩などに仏像を彫るようになったそうです。
日立市の小木津浜は、古代の街道沿い(古代の東海道)にあたる場所。
そして、筑波山系の閑居山、小田前山や、(前篇で触れた)北茨城の浄蓮寺渓谷は、山の中。
なるほど!
また、彫られている岩についても、
現在も塀などに使われている大谷石などの凝灰岩は、柔らかめの石で、
特別な道具を使わなくても、ちょっと硬い石などでもガリガリと表面を彫ることができます。
だから、約1300年前以上の昔でも、小木津浜などの凝灰岩に仏像を彫ることができたんでしょうね。
それに比べ花崗岩は固いので、
彫る道具も、道具を作る技術も、石の加工技術も進歩しないと彫れない。
時代が下って、大陸から最先端の石工技術が伝わってきて、やっと彫れるようになったんですね。
茨城県内の磨崖仏から、
昔の仏教の伝わり方・修行の場所の変遷と、石工技術の変遷が見えてきます。
そして素材となっている岩から、
大昔の地表(現在の茨城県に当たるエリア)の成り立ちも見えてくる。
勉強しました!
・・・ということで3回にわけて、
筑波山ジオパーク構想、勝手に応援企画、ジオと信仰の意外な関係について調べてみました。
そういう目で見ると、トレッキングもウォーキングもランニングも、より面白くなりそうです。
日立市郷土博物館の方、および、茨城県北ジオパークの方から、メールでご教示いただきました。
また、ジオツアーで、かすみがうら市歴史資料館の先生からもご教示頂きました。
この場をおかりしてお礼申し上げます。
(誤謬がありましたら、ご指摘頂けると幸いです)
また、先日7月22日に行われた、かすみがうら歴史資料館主催の、ジオツアーに参加出来て、筑波山地域の花崗岩の、人との歴史や文化、そして加工技術を、実際に見て勉強し、更に見識を深めることが出来ました。
貴重な体験、ありがとうございました!
**************************************************************************
【参考文献】
1. 『つくば市の文化財』 2009年版 つくば市教育委員会 編 茨城県つくば市発行
2. 『日本の美術36 石仏』 久野健 著 小学館
3. 『常陸国 歴史の道を歩こう』 金砂大田楽研究会 歴史の実著のグループ編著 金砂大田研究会発行
【参考ホームページ】
1. つくば市 HP ›› 観光・イベント・交通 ›› 観光情報 ›› 観光施設・スポット ›› 宝篋山
http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/14271/14272/14348/008676.html
2. 日立市郷土博物館 HP
http://www.city.hitachi.lg.jp/museum/
3. 茨城県北ジオパーク HP
http://www.ibaraki-geopark.com/
4. かすみがうら市歴史資料館 HP
http://edu.city.kasumigaura.ibaraki.jp/shiryokan/
5. 茨城県教育委員会 HP
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/index.html
2016年08月21日
信仰とジオの意外な関係(3)前篇~磨崖仏に秘められた歴史と地球ロマン
信仰とジオの意外な関係(3)
~磨崖仏に秘められた歴史と地球ロマン(前篇)~
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年8月5日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域ジオパーク構想 勝手の応援企画 の第三段です!
第1回目は → 信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
第2回目は → 信仰とジオの意外な関係(2) ~土浦 カシャ(雷神)の爪・龍の爪~
3回目の今回は、岩肌に直接彫られた仏像=磨崖仏 の、歴史背景とジオの関係です。
例えばテレビ等で、ユネスコの世界遺産として有名な、中国・敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)があったり、石窟寺院と呼ばれる史跡など、テレビでご覧になった方も多いかと思います。
それらに比べると、ぐっと規模は小さいのですが、日本国内にも、崖の岩に直接彫刻された仏像というのは、全国にあります。
そして、茨城県下にも数か所あるんです!
【茨城県内の磨崖仏―県北―】
まず県北から。
①日立市内に3か所
・小木津浜の岩地蔵
・田尻町(たじりちょう) 度志観音(どしかんのん)
・折笠町(かさおりちょう) 新旗観音(あらはたかんのん)
どれも、凝灰岩に岩肌に彫られているそうです。
(日立市郷土博物館の方からご教示頂きました。ありがとうございました)。
②北茨城市に1か所
・浄蓮寺渓谷。
こちらは花崗岩の岩肌に彫られているそうです。
こちらは、比較的新しく、江戸時代に彫られたものだそうです。
日立市内の磨崖仏は大変歴史が古く、
1300年前、奈良時代初頭に編纂された常陸国風土記にも、
その当時、既にこの地には崖に彫られた仏像があって『仏浜』と呼ばれているという記述が残っています。
(専門家の先生から伺った話では)、小木津浜の岩地蔵と呼ばれている彫刻群がそれではないかと考えられているそうです。
小木津浜にはまだ行ったことがないので、文献1(『常陸国 歴史の道を歩こう』)の写真を見てみますと、相当古いものみたいで、何の仏像だかはよく分からないんですが、でも、確かに仏像のような形がいくつか残っています
凝灰岩というのは、よく塀などに使われている大谷石と同じものですが、岩としてはあまり固くなくて、削りやすい岩です。
もともととても古い彫刻で、長い年月、海のそばで雨風にあたって、風化も激しんですね・・・。
【茨城県内の磨崖仏―県南―】
筑波山地域ジオパーク構想の応援なので、ここからが本番。
県南に目を向けますと、筑波山系の山の中の崖に仏像が彫られている場所が、2か所あります。
・かすみがうら市 閑居山(かんきょさん) 百体磨崖仏
茨城県指定文化財
・つくば市 小田前山(宝篋山近く) 磨崖不動明王立像(小田不動尊)
つくば市指定文化財
※あともう一か所あるらしいという話も聞きましたが、未確認です。
これらは、花崗岩の岩肌に彫られています。
詳しく見ていきましょう。
(3)-1 かすみがうら市 閑居山(かんきょさん) 百体磨崖仏
茨城県指定文化財です。
参考→ 茨城県教育委員会HP 『百体磨崖仏』
ちなみに先日、とてもラッキーだったのですが、
かすみがうら市歴史資料館主催のジオツアー
に参加できました。
そこで、閑居山の百体磨崖物を、地元の市民学芸員の方や、かすみがうら市歴史資料館の先生の説明を受けながら見ることが出来ました!
こちらで下調べていたことに加え、このツアーで学んだことのごく一部ですが、交えてお話します。
閑居山は古くは『志筑山(しづくさん)』と呼ばれていました。
その閑居山には、かつて願成寺(がんじょうじ)というお寺がありました。
鎌倉時代の書物(吾妻鏡だったか)をはじめ、いくつかの古い書物に、
『志筑山に願成寺があって、独自に生活手段と力を持っているお寺で、中央に与しなかった』
というような内容の記載があるそうです。
願成寺は、当時かなり有力なお寺だったようです。
願成寺があった場所には、花崗岩の露頭も多く、その岩肌に多くの仏像が彫られているのが今の残り、
『百体磨崖仏』と呼ばれています。
『百体磨崖仏』というだけあって、数えられるだけでも90以上の仏像が彫られているそうです。
彫られているのは、その形などから大きく分けて、地蔵菩薩、観音菩薩、弘法大師だそうです。
多くは、「薄肉彫り」と言いまして、どれも、ちょうどコインやメダルみたいに、像を薄く浮き上がらせて彫られています。
こんな感じの薄肉彫りの像がずらっと横に並んだ形で、あちこちの岩に彫られています。
これらの仏像は、装飾や彫り方から、大体、鎌倉時代から江戸時代まで彫られ続け(=奉納され続け)たのではないかとのことですが、
時代的にははっきり言えないないそうです。
それにしても、こんな足場の悪い場所の崖に、どうやって彫ったのでしょう??
百体磨崖仏の中でも、一番古いと思われるという、不動明王像。
(もしかすると平安後期までさかのぼるのでは・・・という見方もあるようです)
写真では分かりにくいのですが、こちらは輪郭だけを線で彫る『線刻』で、右手に剣を持ち、左に縄(羂索 けんじゃく)を持っている仏像が確かに彫られています。
(近くには、線刻の弘法大師もあるそうですが、私は見つけられませんでした)
長い年月を経てきたと思うと、じーんとします。
【だれがいつ彫ったか?】
伝説では、その願成寺の乗海(じょうかい)というお坊さんが、ここで磨崖仏を彫ったといわれていていますが、実際いつの時代に彫られたかという特定は、難しいそうです。
ここで、地元の歴史に詳しい方ならば、
『鎌倉時代なら、小田のあたりに立派な五輪塔やら、宝篋山のてっぺんの石造物やらを作った人達が、奈良から来た(※)でしょうよ?』
と思われるかもしれませんね。
・・・じゃあ、その人たちが、閑居山の方にも行って、崖に仏像をたくさん彫ったんじゃないの?
そのあたり、今回のジオツアーの時に、かすみがうら市歴史資料館の先生に伺ってみました。
で、確かに百体近くある仏像の中で、古いものは、時代的にはありうるのですが、
本当にそうだとはっきり言えないそうなんです。
閑居山の百体磨崖仏は、前述したように
ほとんどが『薄肉彫り』といって、コインの模様みたいに、薄く像を浮き上がらせて彫られています。
こういう彫り方の仏像は、鎌倉時代に小田に来た、西大寺系流派が作る仏像と、違うそうなんです。
また、全国的に見ても、閑居山の磨崖仏と同じような形式の仏像がほとんどないそうで、
百体近い磨崖仏の中でも、比較的新しい江戸時代に彫られたらしいものは、地元の人たちが奉納したらしいことは分かっても、
古いものになると、いつどんな人たちが彫ったのかとか、はっきり言いきることが出来ないそうなんです。
ロマン掻き立てられる、山の中の謎の磨崖仏群!
そこで、これらの「百体磨崖仏」及び「願成寺跡」に行ってみたいという方へ
訪問に際する注意です。
かすみがうら市歴史資料館のホームページ
http://edu.city.kasumigaura.ibaraki.jp/shiryokan/
に、かすみがうら市の教育委員会からのお願いが掲載されいます。
注意点3つ
・所在地とその周りの土地は、現在、国立研究開発法人 森林総合研究所の敷地内となっています。
・敷地内の道はほとんど整備されておらず、足元が危ない場所も多いので、滑らない歩きやすい靴を履いて、十分注意して歩いて下さい。
・また、フェンス及び鉄鎖ロープ内及び関連施設への立入は禁止。
訪問される方は、以上を注意してルールを守ってご覧になって下さい。
後篇
筑波山地域で二つ目の磨崖仏、つくば市の小田にある磨崖不動明王立像
に続きます。
→ 信仰とジオの意外な関係(3)後篇~磨崖仏に秘められた歴史と地球ロマン
(※註)
鎌倉時代になると、今のつくば市の小田の宝篋山のふもとにあった大伽藍があった、三村山極楽寺に、奈良から、真言律宗の忍性(にんしょう)というお坊さんが来て、10年ほど滞在して、布教しています。
忍性さんは、奈良から来るときに、一緒に西大寺系の石工の技術者集団を連れてきています。
その石工技術者集団は、当時の最先端の技術で、布教のための石造物を作りました。
3m近い大きな五輪塔など、今も小田の付近にいくつも残っていますよね。
固い花崗岩を彫る技術は、道具の製造も含めて難しく、鎌倉時代、中国大陸の宋の国から、技術を持った石工技術者の集団が、奈良に招かれて来ました。戦乱で焼失してしまった東大寺復興のためだったそうです。
その石工技術者たちの子孫は真言律宗の西大寺系と呼ばれる石工集団となり、その中の大蔵派と呼ばれるグループの職人さん達が、はるばる忍性さんと一緒に奈良から常陸国に入り、筑波山近く小田山のふもとを拠点に、多くの石の造形物を作ったそうです。
固い花崗岩を、きれいな形に彫りあげる、非常に高い技術水準をもった職人さんたちで、その人たちが小田の極楽寺跡近くにある、湯地蔵と呼ばれる背の高いお地蔵さんや、3m近い高さで見事な形の五輪塔などを作ったと考えられています。
**************************************************************************
【参考文献】
1. 『常陸国 歴史の道を歩こう』 金砂大田楽研究会 歴史の実著のグループ編著 金砂大田研究会発行
2. 『日本の美術36 石仏』 久野健 著 小学館
【参考ホームページ】
1. 日立市郷土博物館 HP
http://www.city.hitachi.lg.jp/museum/
2. 茨城県北ジオパーク HP
http://www.ibaraki-geopark.com/
3. かすみがうら市歴史資料館 HP
http://edu.city.kasumigaura.ibaraki.jp/shiryokan/
4. 茨城県教育委員会 HP
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/index.html
~磨崖仏に秘められた歴史と地球ロマン(前篇)~
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年8月5日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域ジオパーク構想 勝手の応援企画 の第三段です!
第1回目は → 信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
第2回目は → 信仰とジオの意外な関係(2) ~土浦 カシャ(雷神)の爪・龍の爪~
3回目の今回は、岩肌に直接彫られた仏像=磨崖仏 の、歴史背景とジオの関係です。
例えばテレビ等で、ユネスコの世界遺産として有名な、中国・敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)があったり、石窟寺院と呼ばれる史跡など、テレビでご覧になった方も多いかと思います。
それらに比べると、ぐっと規模は小さいのですが、日本国内にも、崖の岩に直接彫刻された仏像というのは、全国にあります。
そして、茨城県下にも数か所あるんです!
【茨城県内の磨崖仏―県北―】
まず県北から。
①日立市内に3か所
・小木津浜の岩地蔵
・田尻町(たじりちょう) 度志観音(どしかんのん)
・折笠町(かさおりちょう) 新旗観音(あらはたかんのん)
どれも、凝灰岩に岩肌に彫られているそうです。
(日立市郷土博物館の方からご教示頂きました。ありがとうございました)。
②北茨城市に1か所
・浄蓮寺渓谷。
こちらは花崗岩の岩肌に彫られているそうです。
こちらは、比較的新しく、江戸時代に彫られたものだそうです。
日立市内の磨崖仏は大変歴史が古く、
1300年前、奈良時代初頭に編纂された常陸国風土記にも、
その当時、既にこの地には崖に彫られた仏像があって『仏浜』と呼ばれているという記述が残っています。
(専門家の先生から伺った話では)、小木津浜の岩地蔵と呼ばれている彫刻群がそれではないかと考えられているそうです。
小木津浜にはまだ行ったことがないので、文献1(『常陸国 歴史の道を歩こう』)の写真を見てみますと、相当古いものみたいで、何の仏像だかはよく分からないんですが、でも、確かに仏像のような形がいくつか残っています
凝灰岩というのは、よく塀などに使われている大谷石と同じものですが、岩としてはあまり固くなくて、削りやすい岩です。
もともととても古い彫刻で、長い年月、海のそばで雨風にあたって、風化も激しんですね・・・。
【茨城県内の磨崖仏―県南―】
筑波山地域ジオパーク構想の応援なので、ここからが本番。
県南に目を向けますと、筑波山系の山の中の崖に仏像が彫られている場所が、2か所あります。
・かすみがうら市 閑居山(かんきょさん) 百体磨崖仏
茨城県指定文化財
・つくば市 小田前山(宝篋山近く) 磨崖不動明王立像(小田不動尊)
つくば市指定文化財
※あともう一か所あるらしいという話も聞きましたが、未確認です。
これらは、花崗岩の岩肌に彫られています。
詳しく見ていきましょう。
(3)-1 かすみがうら市 閑居山(かんきょさん) 百体磨崖仏
茨城県指定文化財です。
参考→ 茨城県教育委員会HP 『百体磨崖仏』
ちなみに先日、とてもラッキーだったのですが、
かすみがうら市歴史資料館主催のジオツアー
に参加できました。
そこで、閑居山の百体磨崖物を、地元の市民学芸員の方や、かすみがうら市歴史資料館の先生の説明を受けながら見ることが出来ました!
こちらで下調べていたことに加え、このツアーで学んだことのごく一部ですが、交えてお話します。
閑居山は古くは『志筑山(しづくさん)』と呼ばれていました。
その閑居山には、かつて願成寺(がんじょうじ)というお寺がありました。
鎌倉時代の書物(吾妻鏡だったか)をはじめ、いくつかの古い書物に、
『志筑山に願成寺があって、独自に生活手段と力を持っているお寺で、中央に与しなかった』
というような内容の記載があるそうです。
願成寺は、当時かなり有力なお寺だったようです。
願成寺があった場所には、花崗岩の露頭も多く、その岩肌に多くの仏像が彫られているのが今の残り、
『百体磨崖仏』と呼ばれています。
『百体磨崖仏』というだけあって、数えられるだけでも90以上の仏像が彫られているそうです。
彫られているのは、その形などから大きく分けて、地蔵菩薩、観音菩薩、弘法大師だそうです。
多くは、「薄肉彫り」と言いまして、どれも、ちょうどコインやメダルみたいに、像を薄く浮き上がらせて彫られています。
こんな感じの薄肉彫りの像がずらっと横に並んだ形で、あちこちの岩に彫られています。
これらの仏像は、装飾や彫り方から、大体、鎌倉時代から江戸時代まで彫られ続け(=奉納され続け)たのではないかとのことですが、
時代的にははっきり言えないないそうです。
それにしても、こんな足場の悪い場所の崖に、どうやって彫ったのでしょう??
百体磨崖仏の中でも、一番古いと思われるという、不動明王像。
(もしかすると平安後期までさかのぼるのでは・・・という見方もあるようです)
写真では分かりにくいのですが、こちらは輪郭だけを線で彫る『線刻』で、右手に剣を持ち、左に縄(羂索 けんじゃく)を持っている仏像が確かに彫られています。
(近くには、線刻の弘法大師もあるそうですが、私は見つけられませんでした)
長い年月を経てきたと思うと、じーんとします。
【だれがいつ彫ったか?】
伝説では、その願成寺の乗海(じょうかい)というお坊さんが、ここで磨崖仏を彫ったといわれていていますが、実際いつの時代に彫られたかという特定は、難しいそうです。
ここで、地元の歴史に詳しい方ならば、
『鎌倉時代なら、小田のあたりに立派な五輪塔やら、宝篋山のてっぺんの石造物やらを作った人達が、奈良から来た(※)でしょうよ?』
と思われるかもしれませんね。
・・・じゃあ、その人たちが、閑居山の方にも行って、崖に仏像をたくさん彫ったんじゃないの?
そのあたり、今回のジオツアーの時に、かすみがうら市歴史資料館の先生に伺ってみました。
で、確かに百体近くある仏像の中で、古いものは、時代的にはありうるのですが、
本当にそうだとはっきり言えないそうなんです。
閑居山の百体磨崖仏は、前述したように
ほとんどが『薄肉彫り』といって、コインの模様みたいに、薄く像を浮き上がらせて彫られています。
こういう彫り方の仏像は、鎌倉時代に小田に来た、西大寺系流派が作る仏像と、違うそうなんです。
また、全国的に見ても、閑居山の磨崖仏と同じような形式の仏像がほとんどないそうで、
百体近い磨崖仏の中でも、比較的新しい江戸時代に彫られたらしいものは、地元の人たちが奉納したらしいことは分かっても、
古いものになると、いつどんな人たちが彫ったのかとか、はっきり言いきることが出来ないそうなんです。
ロマン掻き立てられる、山の中の謎の磨崖仏群!
そこで、これらの「百体磨崖仏」及び「願成寺跡」に行ってみたいという方へ
訪問に際する注意です。
かすみがうら市歴史資料館のホームページ
http://edu.city.kasumigaura.ibaraki.jp/shiryokan/
に、かすみがうら市の教育委員会からのお願いが掲載されいます。
注意点3つ
・所在地とその周りの土地は、現在、国立研究開発法人 森林総合研究所の敷地内となっています。
・敷地内の道はほとんど整備されておらず、足元が危ない場所も多いので、滑らない歩きやすい靴を履いて、十分注意して歩いて下さい。
・また、フェンス及び鉄鎖ロープ内及び関連施設への立入は禁止。
訪問される方は、以上を注意してルールを守ってご覧になって下さい。
後篇
筑波山地域で二つ目の磨崖仏、つくば市の小田にある磨崖不動明王立像
に続きます。
→ 信仰とジオの意外な関係(3)後篇~磨崖仏に秘められた歴史と地球ロマン
(※註)
鎌倉時代になると、今のつくば市の小田の宝篋山のふもとにあった大伽藍があった、三村山極楽寺に、奈良から、真言律宗の忍性(にんしょう)というお坊さんが来て、10年ほど滞在して、布教しています。
忍性さんは、奈良から来るときに、一緒に西大寺系の石工の技術者集団を連れてきています。
その石工技術者集団は、当時の最先端の技術で、布教のための石造物を作りました。
3m近い大きな五輪塔など、今も小田の付近にいくつも残っていますよね。
固い花崗岩を彫る技術は、道具の製造も含めて難しく、鎌倉時代、中国大陸の宋の国から、技術を持った石工技術者の集団が、奈良に招かれて来ました。戦乱で焼失してしまった東大寺復興のためだったそうです。
その石工技術者たちの子孫は真言律宗の西大寺系と呼ばれる石工集団となり、その中の大蔵派と呼ばれるグループの職人さん達が、はるばる忍性さんと一緒に奈良から常陸国に入り、筑波山近く小田山のふもとを拠点に、多くの石の造形物を作ったそうです。
固い花崗岩を、きれいな形に彫りあげる、非常に高い技術水準をもった職人さんたちで、その人たちが小田の極楽寺跡近くにある、湯地蔵と呼ばれる背の高いお地蔵さんや、3m近い高さで見事な形の五輪塔などを作ったと考えられています。
**************************************************************************
【参考文献】
1. 『常陸国 歴史の道を歩こう』 金砂大田楽研究会 歴史の実著のグループ編著 金砂大田研究会発行
2. 『日本の美術36 石仏』 久野健 著 小学館
【参考ホームページ】
1. 日立市郷土博物館 HP
http://www.city.hitachi.lg.jp/museum/
2. 茨城県北ジオパーク HP
http://www.ibaraki-geopark.com/
3. かすみがうら市歴史資料館 HP
http://edu.city.kasumigaura.ibaraki.jp/shiryokan/
4. 茨城県教育委員会 HP
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/index.html
2016年08月10日
信仰とジオの意外な関係(2) ~土浦 カシャ(雷神)の爪・龍の爪~
信仰とジオの意外な関係(2) ~土浦 カシャ(雷神)の爪・龍の爪~
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年7月8日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域もジオパーク選定に向けて、リベンジの夏です。
そこで、筑波山地域ジオパーク構想 勝手に応援企画!
皆さんのお住まいの近所の神社やお寺に、不思議なお供えや「宝物(ほうもつ)」はありませんか?
そんな不思議なお供え、「宝物(ほうもつ)」と、
人が住む以前の土地の様子との、面白い関係
「ジオ」と「昔からの信仰」の意外な関係
について、3回に分けて探っていくシリーズの第2回目。
第1回目は→ 信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
ジオ的視点で見ると、お住まいの場所の景色が、ウォーキング・トレッキングの視点が、またちょっと変わって見えてくるかもしれません♪
(2)-① 雷神(カシャ)のツメ 土浦市大岩田 法泉寺
雨乞いに霊験あらたかな「蓑笠不動明王」が伝わる古いお寺です。
まずは、こちらに伝わる不思議なお話から。
【おおまかなあらすじ】
昔、日照りが続いた時に、阿闍梨(あじゃり)が雨乞いの儀式をしていたところ、空から雷神が現れ、「蓑笠不動明王」の笠を奪い取ろうとしました。
すると、不動明王の手の剣が光り、その光で雷神の足のツメと雷雨袋が切られて、雨が降ってきたそうです。
その爪が「カシャの爪」としてお寺に伝わっているとのことです。
(その他、「雲加持(くもかじ)の五独鈷(どっこ)」も伝わる)
ここに出てくる、『カシャ』とは、wikipediaによると
『火車』もしくは『化車』と書く妖怪だそうで、一般的には
・悪行を重ねて死んだ亡者の亡骸を奪う
・化け猫の姿で語られることも多い
・雷と一緒に現われることもあるとされることも多い。
ようです。
本来は『悪行を重ねた亡者の亡骸』を奪うカシャですが、
こちらの伝説では、『雷神』が『蓑笠不動明王』の蓑笠を奪おうとしています。
信仰の形と、信仰にまつわる妖怪の言い伝えの変遷を見るようで、興味深いお話です。
山門
本殿。
この中に、蓑笠不動明王がおられるのかな(^^)
境内にある大木(けやき?)と、石仏。
(2)-② 龍のツメ 土浦市永国 大聖寺
こちらはつくばにも近い、土浦の永国にある古いお寺さんです。
こちらに伝わる不思議なお話
【おおまかなあらすじ】
今から280年程前、享保年間の頃、この辺りも大干ばつに見舞われました。
霊天(りょうてん?)和尚が、大干ばつの時に7日7晩祈ったところ、最後の日に、空が一転真っ黒にかき曇り、黒い雲から大きな雷鳴が響き、大きな龍が襲ってきました。
霊天和尚が持っていた水晶の大念珠を投げつけると、龍に命中し、閃光が光り龍は黒雲の中に消え、大雨が降ってきて、大地を潤し、作物も蘇り、人々は大喜びしました。
その時、龍が落とした爪と大念珠は、現在も寺の宝として伝えられているそうです。
大聖寺さんのHPにも、
(「霊天和尚と雨乞の話」より) 「当山には今でも、大念珠の母珠と龍の爪が漆の小箱に納められ、寺宝として代々伝えられている。」
とあります。
土浦市文化財指定の
山門
藁ぶき屋根で趣きがあります。
同じく、土浦市文化財指定の
四脚門
こちらも藁ぶき屋根。
大聖寺本殿
境内も大変広い♪
『龍の爪』が出てくる『霊天和尚と雨乞』の話が伝わるのは、境内にある大杉殿。
大杉大明神を祀られているそうです(同寺パンフレットより)
お寺に方に伺ったら、
『『龍の爪』は、文化財に指定されていないので公開はしていませんが、お寺の保管庫に収めています』
とのことでした。
ちなみに、土浦の法泉寺と大聖寺は、どちらも「常陸四ヶ寺」に数えられる古いお寺です。
※常陸四ヶ寺(小田領四ケ寺:
つくば市神郡の「普問寺」、土浦市永国の「大聖寺」、土浦市大岩田の「法泉寺」、かすみがうら市の「南円寺」の4つのお寺。
1374(応安7)年、この地を治めていた小田孝朝が、小田城の守りとして定めた常陸四ヶ寺(小田領4ケ寺)と呼ばれるそうです。。
★”爪”とは?
実は似たお話は、全国各地に伝わっているようで、「竜の爪」「雷神の爪」「天狗の爪」「鬼の爪」などとして寺の宝として伝えているお寺も多いようです。
そして、やはり雨乞いなどに使われたことも多かったようです。
昨年、千葉県立中央博物館の展覧会(「妖怪に出会う夏」展)に行きました。
そうしたらやはり、龍の爪、龍の頭・・・というお寺に伝わる物が展示されていました。
これらは見るとサメの歯の化石だったり、他にも外国から持ち込まれたらしいワニの歯だったり、龍の頭はワニの頭だったり、いろいろあって面白かったです。
一般に、全国のお寺に伝わる、「竜の爪」 「雷神の爪」 「天狗の爪」 「鬼の爪」は、サメの歯等の化石が多いようです。
今年GWに沖縄のちゅら海水族館に行ったら、
『天狗の爪』
という名で、超巨大な(長さ15cm位あったと思います)サメの歯の展示がされていました。
これは「メガロドン」という巨大サメの歯の化石だそうです。
昔の人は古代の生物や化石などという話は知らないので、地面から見つかったり、どこからか手に入れたサメの歯の化石を、龍や雷神や天狗や鬼の爪だと解釈したり、お寺のお坊さんも、それを使って雨乞いをしたり、功徳を謳ったり、寺の宝にしたのでしょう。
★どこから来たのか?
サメの歯の化石とか、簡単に手に入るんでしょうか?
サメは歯がよく抜け変わって次次と新しい歯が生えてくるそうです。
だから、サメがたくさんいたらしい場所では、抜けた歯がたくさん化石になっているそうなのです。
例えば、茨城県南の近くでは、最近2013年にも、千葉県の柏市の畑の下の、やはり「木下(きおろし)層」の地層から、大量のサメの歯化石も発見されています(千葉日報記事、千葉県立中央博物館記事より)。
茨城県北でも、日立市の助川海岸に接する崖の地層(日立層群)、北茨城市の五浦海岸に接する崖の地層(九面(ここづら)層)から、サメの歯の化石が出るそうです。
特に、五浦(いずら)海岸の地層からは、ムカシホホジロサメの歯が噛み合わさった形の化石で発見されていて、太古の昔、ここにムカシホホジロサメが生息していた証拠とされています。
★12万年前の関東平野
その頃の関東平野については、前回の、
信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
をご覧ください。
今から12万年前の頃は、今の茨城県があった場所も、貝やウニが住む温かい海で、サメの歯の化石も多く採取されていることから、サメもたくさん住んでいたようですね。
★信仰の文物 と ジオ
現代の私たちでも、大きなサメの歯の化石を見たら、『何だこれ?』と思いますよね。
魚の歯だとは思いつかない。
地面から、まるで巨大な爪のような形のものが出てきたら、昔の人はやっぱり、龍の爪とか鬼の爪・・・と思っちゃいますし、水不足が今よりも深刻な時代、雨乞いの儀式に使われたというのも、すごく納得します。
「な~んだ、それって化石でしょ」
と思っちゃうのはつまらない。
雨乞いが必要だった昔の人の生活と信仰に想いを馳せると同時に、古代の海の環境に想いを馳せる。こんな視点で見てみると、住んでいる場所がまた面白く楽しくなってきます!
そんな目でご近所を見てみると、新しい発見があるかもしれません。
●サメの歯の化石を見たい時は、茨城県自然博物館へGO!
茨城県自然博物館で、茨城県内で採取されたサメの歯の化石も(前回ご紹介した、カシパンウニの化石と同じく)展示されているとの情報を、同館の方からご教示頂きました。
大きいもの(ムカシホジロザメ)から小ぶりのもの(アオザメ)まで、いろいろ♪
『2階第2展示室の新生代のサメのコーナー』とのことです。
(ここでの掲載はしませんが、どちらの化石のお写真もメールで添付して下さいました!ありがとうございました)
観たい方は、是非、茨城県自然博物館へ行ってご覧になって下さい♪
もちろん、他にもいろんな化石もたくさんありますよ!
ミュージアムパーク 茨城県自然博物館
https://www.nat.museum.ibk.ed.jp/
とうことで、『筑波山ジオパーク構想、勝手に応援企画、ジオと信仰の面白い関係』 第2回は、土浦市に伝わる謎の2つの
「爪」
に迫りました。
信仰とジオの意外な関係(3) に続きます。
→ 信仰とジオの意外な関係(3)~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―前篇~
*****************************************************************************
【参考文献】
1. 『民話100話 土浦ものがたり』 本堂清 著 常陽新聞社
2. 『茨城の寺を訪ねて 古寺巡礼ガイド』 茨城新聞社
3. 大聖寺パンフレット
【参考ホームページ】
1. 大聖寺
http://www.daishouji.jp/
2. 国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データペース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/
3. ミュージアムパーク 茨城県自然博物館
https://www.nat.museum.ibk.ed.jp/
4. 千葉県立中央博物館
「トピックス展 クジラ化石、ネギ畑から出現」
5. 千葉日報
「ネギ畑からクジラの化石 10万年超前にサメが襲う? 柏」
6. 茨城県北ジオパーク
http://www.ibaraki-geopark.com/
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年7月8日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域もジオパーク選定に向けて、リベンジの夏です。
そこで、筑波山地域ジオパーク構想 勝手に応援企画!
皆さんのお住まいの近所の神社やお寺に、不思議なお供えや「宝物(ほうもつ)」はありませんか?
そんな不思議なお供え、「宝物(ほうもつ)」と、
人が住む以前の土地の様子との、面白い関係
「ジオ」と「昔からの信仰」の意外な関係
について、3回に分けて探っていくシリーズの第2回目。
第1回目は→ 信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
ジオ的視点で見ると、お住まいの場所の景色が、ウォーキング・トレッキングの視点が、またちょっと変わって見えてくるかもしれません♪
(2)-① 雷神(カシャ)のツメ 土浦市大岩田 法泉寺
雨乞いに霊験あらたかな「蓑笠不動明王」が伝わる古いお寺です。
まずは、こちらに伝わる不思議なお話から。
【おおまかなあらすじ】
昔、日照りが続いた時に、阿闍梨(あじゃり)が雨乞いの儀式をしていたところ、空から雷神が現れ、「蓑笠不動明王」の笠を奪い取ろうとしました。
すると、不動明王の手の剣が光り、その光で雷神の足のツメと雷雨袋が切られて、雨が降ってきたそうです。
その爪が「カシャの爪」としてお寺に伝わっているとのことです。
(その他、「雲加持(くもかじ)の五独鈷(どっこ)」も伝わる)
ここに出てくる、『カシャ』とは、wikipediaによると
『火車』もしくは『化車』と書く妖怪だそうで、一般的には
・悪行を重ねて死んだ亡者の亡骸を奪う
・化け猫の姿で語られることも多い
・雷と一緒に現われることもあるとされることも多い。
ようです。
本来は『悪行を重ねた亡者の亡骸』を奪うカシャですが、
こちらの伝説では、『雷神』が『蓑笠不動明王』の蓑笠を奪おうとしています。
信仰の形と、信仰にまつわる妖怪の言い伝えの変遷を見るようで、興味深いお話です。
山門
本殿。
この中に、蓑笠不動明王がおられるのかな(^^)
境内にある大木(けやき?)と、石仏。
(2)-② 龍のツメ 土浦市永国 大聖寺
こちらはつくばにも近い、土浦の永国にある古いお寺さんです。
こちらに伝わる不思議なお話
【おおまかなあらすじ】
今から280年程前、享保年間の頃、この辺りも大干ばつに見舞われました。
霊天(りょうてん?)和尚が、大干ばつの時に7日7晩祈ったところ、最後の日に、空が一転真っ黒にかき曇り、黒い雲から大きな雷鳴が響き、大きな龍が襲ってきました。
霊天和尚が持っていた水晶の大念珠を投げつけると、龍に命中し、閃光が光り龍は黒雲の中に消え、大雨が降ってきて、大地を潤し、作物も蘇り、人々は大喜びしました。
その時、龍が落とした爪と大念珠は、現在も寺の宝として伝えられているそうです。
大聖寺さんのHPにも、
(「霊天和尚と雨乞の話」より) 「当山には今でも、大念珠の母珠と龍の爪が漆の小箱に納められ、寺宝として代々伝えられている。」
とあります。
土浦市文化財指定の
山門
藁ぶき屋根で趣きがあります。
同じく、土浦市文化財指定の
四脚門
こちらも藁ぶき屋根。
大聖寺本殿
境内も大変広い♪
『龍の爪』が出てくる『霊天和尚と雨乞』の話が伝わるのは、境内にある大杉殿。
大杉大明神を祀られているそうです(同寺パンフレットより)
お寺に方に伺ったら、
『『龍の爪』は、文化財に指定されていないので公開はしていませんが、お寺の保管庫に収めています』
とのことでした。
ちなみに、土浦の法泉寺と大聖寺は、どちらも「常陸四ヶ寺」に数えられる古いお寺です。
※常陸四ヶ寺(小田領四ケ寺:
つくば市神郡の「普問寺」、土浦市永国の「大聖寺」、土浦市大岩田の「法泉寺」、かすみがうら市の「南円寺」の4つのお寺。
1374(応安7)年、この地を治めていた小田孝朝が、小田城の守りとして定めた常陸四ヶ寺(小田領4ケ寺)と呼ばれるそうです。。
★”爪”とは?
実は似たお話は、全国各地に伝わっているようで、「竜の爪」「雷神の爪」「天狗の爪」「鬼の爪」などとして寺の宝として伝えているお寺も多いようです。
そして、やはり雨乞いなどに使われたことも多かったようです。
昨年、千葉県立中央博物館の展覧会(「妖怪に出会う夏」展)に行きました。
そうしたらやはり、龍の爪、龍の頭・・・というお寺に伝わる物が展示されていました。
これらは見るとサメの歯の化石だったり、他にも外国から持ち込まれたらしいワニの歯だったり、龍の頭はワニの頭だったり、いろいろあって面白かったです。
一般に、全国のお寺に伝わる、「竜の爪」 「雷神の爪」 「天狗の爪」 「鬼の爪」は、サメの歯等の化石が多いようです。
今年GWに沖縄のちゅら海水族館に行ったら、
『天狗の爪』
という名で、超巨大な(長さ15cm位あったと思います)サメの歯の展示がされていました。
これは「メガロドン」という巨大サメの歯の化石だそうです。
昔の人は古代の生物や化石などという話は知らないので、地面から見つかったり、どこからか手に入れたサメの歯の化石を、龍や雷神や天狗や鬼の爪だと解釈したり、お寺のお坊さんも、それを使って雨乞いをしたり、功徳を謳ったり、寺の宝にしたのでしょう。
★どこから来たのか?
サメの歯の化石とか、簡単に手に入るんでしょうか?
サメは歯がよく抜け変わって次次と新しい歯が生えてくるそうです。
だから、サメがたくさんいたらしい場所では、抜けた歯がたくさん化石になっているそうなのです。
例えば、茨城県南の近くでは、最近2013年にも、千葉県の柏市の畑の下の、やはり「木下(きおろし)層」の地層から、大量のサメの歯化石も発見されています(千葉日報記事、千葉県立中央博物館記事より)。
茨城県北でも、日立市の助川海岸に接する崖の地層(日立層群)、北茨城市の五浦海岸に接する崖の地層(九面(ここづら)層)から、サメの歯の化石が出るそうです。
特に、五浦(いずら)海岸の地層からは、ムカシホホジロサメの歯が噛み合わさった形の化石で発見されていて、太古の昔、ここにムカシホホジロサメが生息していた証拠とされています。
★12万年前の関東平野
その頃の関東平野については、前回の、
信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
をご覧ください。
今から12万年前の頃は、今の茨城県があった場所も、貝やウニが住む温かい海で、サメの歯の化石も多く採取されていることから、サメもたくさん住んでいたようですね。
★信仰の文物 と ジオ
現代の私たちでも、大きなサメの歯の化石を見たら、『何だこれ?』と思いますよね。
魚の歯だとは思いつかない。
地面から、まるで巨大な爪のような形のものが出てきたら、昔の人はやっぱり、龍の爪とか鬼の爪・・・と思っちゃいますし、水不足が今よりも深刻な時代、雨乞いの儀式に使われたというのも、すごく納得します。
「な~んだ、それって化石でしょ」
と思っちゃうのはつまらない。
雨乞いが必要だった昔の人の生活と信仰に想いを馳せると同時に、古代の海の環境に想いを馳せる。こんな視点で見てみると、住んでいる場所がまた面白く楽しくなってきます!
そんな目でご近所を見てみると、新しい発見があるかもしれません。
●サメの歯の化石を見たい時は、茨城県自然博物館へGO!
茨城県自然博物館で、茨城県内で採取されたサメの歯の化石も(前回ご紹介した、カシパンウニの化石と同じく)展示されているとの情報を、同館の方からご教示頂きました。
大きいもの(ムカシホジロザメ)から小ぶりのもの(アオザメ)まで、いろいろ♪
『2階第2展示室の新生代のサメのコーナー』とのことです。
(ここでの掲載はしませんが、どちらの化石のお写真もメールで添付して下さいました!ありがとうございました)
観たい方は、是非、茨城県自然博物館へ行ってご覧になって下さい♪
もちろん、他にもいろんな化石もたくさんありますよ!
ミュージアムパーク 茨城県自然博物館
https://www.nat.museum.ibk.ed.jp/
とうことで、『筑波山ジオパーク構想、勝手に応援企画、ジオと信仰の面白い関係』 第2回は、土浦市に伝わる謎の2つの
「爪」
に迫りました。
信仰とジオの意外な関係(3) に続きます。
→ 信仰とジオの意外な関係(3)~崖の岩に彫られた仏像(磨崖仏)に秘められた歴史と地球ロマン―前篇~
*****************************************************************************
【参考文献】
1. 『民話100話 土浦ものがたり』 本堂清 著 常陽新聞社
2. 『茨城の寺を訪ねて 古寺巡礼ガイド』 茨城新聞社
3. 大聖寺パンフレット
【参考ホームページ】
1. 大聖寺
http://www.daishouji.jp/
2. 国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データペース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/
3. ミュージアムパーク 茨城県自然博物館
https://www.nat.museum.ibk.ed.jp/
4. 千葉県立中央博物館
「トピックス展 クジラ化石、ネギ畑から出現」
5. 千葉日報
「ネギ畑からクジラの化石 10万年超前にサメが襲う? 柏」
6. 茨城県北ジオパーク
http://www.ibaraki-geopark.com/
2016年07月07日
信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
信仰とジオの意外な関係(1) ~つくばみらい 石饅頭~
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年6月17日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域もジオパーク選定に向けて、リベンジの夏です。
そこで、筑波山地域ジオパーク構想 勝手に応援企画!
皆さんのお住まいの近所の神社やお寺に、不思議なお供えや「宝物(ほうもつ)」はありませんか?
そんな不思議なお供え、「宝物(ほうもつ)」と、
人が住む以前の土地の様子との、面白い関係
「ジオ」と「昔からの信仰」の意外な関係
について、3回に分けて、探っていこうと思います。
ジオ的視点で見ると、お住まいの場所の景色が、ちょっと変わって見えてくるかもしれません♪
(1) つくばみらい(旧伊奈町) 石饅頭
※つくばみらい市は、筑波山系に隣接していないので、正確には筑波山地域ジオパーク構想に関わる自治体ではないようですが、
筑波山~霞ヶ浦一帯の土地ということでは同じだと考え、
また大変興味深い伝承が伝わるので、最初に取り上げました。
●足高(あだか)の観音様と呼ばれる、足高地区の千住院付近に伝わるお話です。
(千住院は、常陸西国三十三観音の、第十九番札所)
先日「日本伝説集」(文献1)という本を古本で見つけて、買って読んでいたら、
いきなり次の一文が目に飛び込んできました。
足高の石饅頭
上記の本はオリジナルは大正時代に編纂された書籍で、当時の東京朝日新聞で投稿を募集して集まった全国の伝説集です。
そこでは「茨城県筑波郡久賀村大字足高」にある「観音様」となっています。
現在のつくばみらい市(旧 伊奈町)足高の千住院かと思います。
その足高では、近くの崖から出土する
『石饅頭』
をお供えする風習があるとの記事。
そして、その『石饅頭』は、モナカの様に薄くて壊れやすく、崖の土の中から出てくるという謎のものらしい。
何なのでしょう、それは!
まずはここの足高に伝わる、今も出てくるという、謎の「石饅頭」のお話です。
【大まかなあらすじ】
昔、強欲な饅頭屋のおじいさんが、足高の観音様の門先で饅頭を売っていました。
通りがかった旅の僧が饅頭を1つ所望しましたが、このおじいさんは「これは石の饅頭なので食べられない」と渡さなかったそうです。
そこでその旅の僧は「それなら本当に石の饅頭にしてやろう」と言って立ち去ったところ、そのおじいさんが作る饅頭は全部石になってしまい、饅頭屋はつぶれてしまいました。
その旅の僧は弘法大師でした。
そして、今 地面から出てくるのは、その石になった饅頭なので、それを近くの観音様にお供えしています。
全国に分布する、いわゆる『石芋』伝説と呼ばれる、弘法大師伝説の類型の1つです。
こちらでは、『石芋』の代わりに『石饅頭』として、話が伝わっているようです。
そして、足高の観音様付近の崖からは、その『石饅頭』なるものが出てくると、昔話では語られています。
●本当に、『石饅頭』はあるのか!? あるとしたら、どんなものなのか!?
で、実際に行って、「石饅頭」がお供えされているのが見られたらラッキーということで、
実際に行ってみました。
つくばみらい市 千住院(常陸西国三十三観音の 十九番札所)
朱塗りの本殿が綺麗なお寺さんです。
残念ながら、「石饅頭」らしいお供えは見られず。
もう出てこないのか、そういった風習は廃れてしまったのか・・・。
残念・・・。
でもただでは起きないぞっと。
●この「石饅頭」、正体は?
»続きを読む
※FM84.2MHzラヂオつくば「つくばね自由研究クラブ」(毎週金曜夜21:30-45放送)で、
2016年6月17日放送 した内容を再構成しております。
筑波山地域もジオパーク選定に向けて、リベンジの夏です。
そこで、筑波山地域ジオパーク構想 勝手に応援企画!
皆さんのお住まいの近所の神社やお寺に、不思議なお供えや「宝物(ほうもつ)」はありませんか?
そんな不思議なお供え、「宝物(ほうもつ)」と、
人が住む以前の土地の様子との、面白い関係
「ジオ」と「昔からの信仰」の意外な関係
について、3回に分けて、探っていこうと思います。
ジオ的視点で見ると、お住まいの場所の景色が、ちょっと変わって見えてくるかもしれません♪
(1) つくばみらい(旧伊奈町) 石饅頭
※つくばみらい市は、筑波山系に隣接していないので、正確には筑波山地域ジオパーク構想に関わる自治体ではないようですが、
筑波山~霞ヶ浦一帯の土地ということでは同じだと考え、
また大変興味深い伝承が伝わるので、最初に取り上げました。
●足高(あだか)の観音様と呼ばれる、足高地区の千住院付近に伝わるお話です。
(千住院は、常陸西国三十三観音の、第十九番札所)
先日「日本伝説集」(文献1)という本を古本で見つけて、買って読んでいたら、
いきなり次の一文が目に飛び込んできました。
足高の石饅頭
上記の本はオリジナルは大正時代に編纂された書籍で、当時の東京朝日新聞で投稿を募集して集まった全国の伝説集です。
そこでは「茨城県筑波郡久賀村大字足高」にある「観音様」となっています。
現在のつくばみらい市(旧 伊奈町)足高の千住院かと思います。
その足高では、近くの崖から出土する
『石饅頭』
をお供えする風習があるとの記事。
そして、その『石饅頭』は、モナカの様に薄くて壊れやすく、崖の土の中から出てくるという謎のものらしい。
何なのでしょう、それは!
まずはここの足高に伝わる、今も出てくるという、謎の「石饅頭」のお話です。
【大まかなあらすじ】
昔、強欲な饅頭屋のおじいさんが、足高の観音様の門先で饅頭を売っていました。
通りがかった旅の僧が饅頭を1つ所望しましたが、このおじいさんは「これは石の饅頭なので食べられない」と渡さなかったそうです。
そこでその旅の僧は「それなら本当に石の饅頭にしてやろう」と言って立ち去ったところ、そのおじいさんが作る饅頭は全部石になってしまい、饅頭屋はつぶれてしまいました。
その旅の僧は弘法大師でした。
そして、今 地面から出てくるのは、その石になった饅頭なので、それを近くの観音様にお供えしています。
全国に分布する、いわゆる『石芋』伝説と呼ばれる、弘法大師伝説の類型の1つです。
こちらでは、『石芋』の代わりに『石饅頭』として、話が伝わっているようです。
そして、足高の観音様付近の崖からは、その『石饅頭』なるものが出てくると、昔話では語られています。
●本当に、『石饅頭』はあるのか!? あるとしたら、どんなものなのか!?
で、実際に行って、「石饅頭」がお供えされているのが見られたらラッキーということで、
実際に行ってみました。
つくばみらい市 千住院(常陸西国三十三観音の 十九番札所)
朱塗りの本殿が綺麗なお寺さんです。
残念ながら、「石饅頭」らしいお供えは見られず。
もう出てこないのか、そういった風習は廃れてしまったのか・・・。
残念・・・。
でもただでは起きないぞっと。
●この「石饅頭」、正体は?
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