2024年03月23日
筑波山梅林2024年
筑波山梅林2024年
今年は、冬の高温のためか、梅林の梅の開花も例年よりかなり早く、2月下旬には早くも見ごろを迎えていたようです。
報告が遅くなりましたが、先日3/10(日)に行ってきました。
行ったのはお昼過ぎ。
例年ならば見ごろの時期なのですが…。かなりの梅は散り始めていました。
それでも梅林の上の方、展望四阿(あずまや)近くのピンク系の遅咲きの梅は開花中で、
そこだけ見ているとまるで見ごろのようです。
大変良いお天気のこの日。風もほとんどなくて穏やかな絶好の行楽日和。
都心のビル群もスカイツリーもよく見えました。
正午過ぎ頃でも、富士山がうっすらと見えたのはラッキー。
梅林を横から見下ろせる、展望デッキからの景色。
例年ならば、白梅が満開を迎え、白梅に紅梅が混ざって、まさに梅の雲のように見えるのですが、
今年は梅の花がほとんど終わっていて、山桜にもまだ早すぎますし、残念。
それにしても、梅の見ごろを過ぎていても、お客さんが引きも切らず訪れているのは、すごいなぁと思いました。
梅の柄の着物の観光大使も艶やか。
近くでは、梅の木々に囲まれて、ガマの油売り口上や、七色唐辛子口上などの芸も見られて、うららかな春の日を過ごせました。
梅の花にウグイス・・・でなくてメジロ。
メジロが数羽、梅の花の蜜を吸いに訪れていました。
それにしても、見よ!このメジロの食い(吸い)意地(笑) 頭はどっち?
ピンボケ写真で申し訳ありません
梅の品種の札も、また増えていました。
調査は、つくば観光ボランティア298の皆さんが、毎年地道にされています。
土日祝日は、観光ボランティアさんの待機するテーブルが出ていて、現在分かっている梅の花の写真も掲載されていますし、
筑波山梅林の梅まつりの公式サイトでは、その一覧もPDFファイルでダウンロード出来ます♪
→ 筑波山梅まつり公式サイト > 筑波山梅林の梅図鑑
さてこの日、午前中は筑波山神社に行きました。
筑波山山頂は、2日~3日前の降雪が残っているとのことで、滑りやすく足元がかなり危なかったとか。
山頂は寒くても、神社や梅林がある中腹(標高200~250mほど)は暖かでした。
筑波山神社の御神橋から見る紅梅。
御神橋を額縁に見立てて、撮ってみました
実は、今年初めて、筑波山神社でお詣りしました。
登山客で賑わう境内、参拝客もまた多くおられました。
筑波山神社にもいろいろおみくじがありますが、5カ国語(※)で書かれた多言語おみくじを引いてみました。
大吉!ラッキー♪
嬉しかったので、持ち帰って、机の近くに飾ってます
※ おみくじの「5カ国語」は、日本語、英語、韓国語、簡字体の中国語、繁字体の中国語 なので、実質 4カ国語ですね・・・。
ご参考までに、昨年2022年以前の梅林の様子については、
2023年の梅林の報告
筑波山梅林2023~第50回 筑波山梅林 梅まつり
2022年の梅林の報告
梅の品種の掲示がスタート! 筑波山梅林2022
2021年の梅林の報告
・筑波山梅林2021
2020年の梅林の報告
・筑波山梅林2020
・筑波山梅林の紫陽花 2020
2019年の梅林の報告
・平成最後の筑波山梅林梅まつり2019
2018年の梅林の報告
・筑波山梅林2つの秘話(1)と、梅まつり2018年3月3日&7日
・筑波山梅林2つの秘話(2)~筑波山梅林より古い隣接の梅の林
2017年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2017年3月5日
2016年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2016年2月21日
2015年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2015年3月8日
2014年の梅林の報告
・2014年筑波山梅まつり その1 ―2/22オープニング
・2014年筑波山梅林梅まつり その2 3月9日(日)
今年は、冬の高温のためか、梅林の梅の開花も例年よりかなり早く、2月下旬には早くも見ごろを迎えていたようです。
報告が遅くなりましたが、先日3/10(日)に行ってきました。
行ったのはお昼過ぎ。
例年ならば見ごろの時期なのですが…。かなりの梅は散り始めていました。
それでも梅林の上の方、展望四阿(あずまや)近くのピンク系の遅咲きの梅は開花中で、
そこだけ見ているとまるで見ごろのようです。
大変良いお天気のこの日。風もほとんどなくて穏やかな絶好の行楽日和。
都心のビル群もスカイツリーもよく見えました。
正午過ぎ頃でも、富士山がうっすらと見えたのはラッキー。
梅林を横から見下ろせる、展望デッキからの景色。
例年ならば、白梅が満開を迎え、白梅に紅梅が混ざって、まさに梅の雲のように見えるのですが、
今年は梅の花がほとんど終わっていて、山桜にもまだ早すぎますし、残念。
それにしても、梅の見ごろを過ぎていても、お客さんが引きも切らず訪れているのは、すごいなぁと思いました。
梅の柄の着物の観光大使も艶やか。
近くでは、梅の木々に囲まれて、ガマの油売り口上や、七色唐辛子口上などの芸も見られて、うららかな春の日を過ごせました。
梅の花にウグイス・・・でなくてメジロ。
メジロが数羽、梅の花の蜜を吸いに訪れていました。
それにしても、見よ!このメジロの食い(吸い)意地(笑) 頭はどっち?
ピンボケ写真で申し訳ありません
梅の品種の札も、また増えていました。
調査は、つくば観光ボランティア298の皆さんが、毎年地道にされています。
土日祝日は、観光ボランティアさんの待機するテーブルが出ていて、現在分かっている梅の花の写真も掲載されていますし、
筑波山梅林の梅まつりの公式サイトでは、その一覧もPDFファイルでダウンロード出来ます♪
→ 筑波山梅まつり公式サイト > 筑波山梅林の梅図鑑
さてこの日、午前中は筑波山神社に行きました。
筑波山山頂は、2日~3日前の降雪が残っているとのことで、滑りやすく足元がかなり危なかったとか。
山頂は寒くても、神社や梅林がある中腹(標高200~250mほど)は暖かでした。
筑波山神社の御神橋から見る紅梅。
御神橋を額縁に見立てて、撮ってみました
実は、今年初めて、筑波山神社でお詣りしました。
登山客で賑わう境内、参拝客もまた多くおられました。
筑波山神社にもいろいろおみくじがありますが、5カ国語(※)で書かれた多言語おみくじを引いてみました。
大吉!ラッキー♪
嬉しかったので、持ち帰って、机の近くに飾ってます
※ おみくじの「5カ国語」は、日本語、英語、韓国語、簡字体の中国語、繁字体の中国語 なので、実質 4カ国語ですね・・・。
ご参考までに、昨年2022年以前の梅林の様子については、
2023年の梅林の報告
筑波山梅林2023~第50回 筑波山梅林 梅まつり
2022年の梅林の報告
梅の品種の掲示がスタート! 筑波山梅林2022
2021年の梅林の報告
・筑波山梅林2021
2020年の梅林の報告
・筑波山梅林2020
・筑波山梅林の紫陽花 2020
2019年の梅林の報告
・平成最後の筑波山梅林梅まつり2019
2018年の梅林の報告
・筑波山梅林2つの秘話(1)と、梅まつり2018年3月3日&7日
・筑波山梅林2つの秘話(2)~筑波山梅林より古い隣接の梅の林
2017年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2017年3月5日
2016年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2016年2月21日
2015年の梅林の報告
・筑波山梅林 梅まつり 2015年3月8日
2014年の梅林の報告
・2014年筑波山梅まつり その1 ―2/22オープニング
・2014年筑波山梅林梅まつり その2 3月9日(日)
2024年03月12日
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
茨城県南西部から千葉県北部が舞台の落語 『紋三郎稲荷』 (文献1)。
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名です。
主人公は、笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬。
その話の舞台を訪ねる旅です。
以前書いた記事
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
さて、落語『紋三郎稲荷』では、江戸道中前半の笠間から取手までの話はありません。
ですので、シリーズ最終回の今回は、笠間から取手までの道のり について、平馬の旅を妄想してみました。
(5)想定:笠間から取手までのルート
まず、笠間藩の参勤交代ルートは、2つありました(参考サイト1、2)。
① 笠間藩 江戸東道中
笠間~府中(現在の石岡市)~<水戸街道> → 江戸へ
② 笠間藩 江戸西道中
笠間~<小山・日光街道経由>~岩瀬(現在の桜川市岩瀬)~真壁(現在の桜川市真壁)~結城~杉戸(現在の埼玉県杉戸市)→ 江戸へ
基本は2泊3日の行程だったそうですが、②の西道中の方が11km長いので、3泊になることもあったそうです。
また参勤交代のルートは幕府に届け出て許可されたルートなので、これ以外のルートは使えなかったといいます。
さて、落語『紋三郎稲荷』の平馬ですが、これは江戸勤番のために行くとはいえ、個人の旅なので、参勤交代のルートは使わず、脇街道を使ったと考えます。
というのも、参勤交代ルート、例えば①の東道中にしても、かなり遠回りですから、個人の移動ならなるべく短い距離を歩くのではないかと思うからです。
落語では平馬は『水戸街道を西へと向かい』ということなので、水戸街道で取手から川を渡り松戸に向かっています。が、これはルート松戸までのルート後半。
では、(話は出てこない)ルートの前半については、どう行くのが一番もっともらしいかと考えると、距離がなるべく短い、
笠間 → 柿岡(石岡市柿岡地区)→ <水戸街道> → 土浦 → 取手
まで行くルートが一番自然ではないでしょうか。
で、どのあたりから水戸街道に乗ったかというのは、中貫宿(現在の土浦市中貫)あたりかなと想定します。
現在の中貫宿付近。
(2024年2月下旬撮影)
府中(石岡)に出てから水戸街道を歩くより合計の距離が短くなるので、やはり中貫宿あたりで水戸街道に乗るのが自然かと。
ところで、江戸時代、徒歩旅で、成人男性は1日に30~40km歩いたといいます。
笠間~中貫宿まではちょうど35kmくらい。
中貫宿の本陣跡
なお、距離的にも笠間~取手間で一泊するかと思いますが、落語ではその話は出てきません。
距離的には、平馬は、初日は中貫宿(※)で一泊したと考えたい・・・のですが、どうも中貫宿は旅籠があまりなかったようなのです(文献2)。
そうするとあと4kmほど歩いて、土浦宿で宿泊したと想定した方が良さそうです。
当時の土浦は水運・陸運の要所として大変栄えていたので、宿も多かったであろう土浦宿に一泊したと考えましょう。
それにしても、平馬さん、病み上がりなのに健脚ですよね!?
土浦宿には本陣が2つあったといいます(文献2)。
そのうちの1つ、大塚家のあった場所が現在、土浦商工会議所のあたりとのこと。
(2024年2月下旬撮影)
土浦宿の本陣跡の解説も書かれたポールがあるはずなのですが、最初はなかなか見つからず・・・?
(2024年2月下旬撮影)
すると、訪れた日、そのポール碑に「土浦の雛まつり」の立て看板が立てられていて、「本陣跡」の文字も説明文も見えない状態・・・。
いくらイベント中とはいえ、立て看板の置く場所、もう少し考えた方が良いかと思いました。
ここにほど近い場所に、昔の建築が並んで風情のある、土浦中城通りがあります。
この日は都合が合わずに行けなかったので、また後日行ったら、追加でこちらのページにもアップしたいと思っています。
さてさて、『落語 紋三郎稲荷』 に描かれていない、平馬が歩いたであろう前半のルートは、
私かるだもん の妄想で、
笠間 → 柿岡(石岡市柿岡地区)→ 中貫宿 →<水戸街道>→ 土浦宿(宿泊) → 取手
とします
(6)想定:土浦宿での料理は?
平馬が初日の宿を土浦宿だとすると、宿での食事はなんだったのかなと、またまた空想してみました。
まず霞ヶ浦沿岸なので、魚は出たでしょう。
参考サイト3によると、当時の旅籠の食事は、香の物を加えた『一汁三菜』で、
『汁、飯、焼き魚か煮魚、野菜の煮物、香の物』 が一般的だったそうです。
そこで、想像するに、やはり霞ケ浦の幸の魚は出たでしょう。
江戸時代から霞ヶ浦は鯉も名産(文献3:参考文献は北浦の資料ですが霞ヶ浦もほぼ同じかと想定)。
落語では、平馬は冬の時期に旅しています。
冬の時期で美味しいのは、やはり鯉(これは話の中では翌日の松戸宿で食べます)か、鮒(寒鮒)か(文献3,4)。
とすると、鯉か鮒は土浦の宿で出たのではないでしょうか。
今回、松戸では川魚も地酒も頂けなかったので、主人公の平馬の初日の宿泊場所の土浦宿の夕食を、以下のように想定して用意しました。
『一汁三菜』の三菜は、
・魚 : 贅沢に、鯉の旨煮(霞ヶ浦産)。
・野菜の煮物 : ごぼう、にんじん(※1)、干し椎茸とこんにゃく(※2)の煮もの
・香の物 : 干しだいこんの酢漬け、大根の葉添え
(野菜は全て茨城県内産)
そして、お酒は
・地酒 (残念ながら土浦には日本酒の地酒がないので、落語の中で通過する 取手 の地酒)
を用意。
旅の楽しみは、今も昔も、宿での名物の食事
お酒は、冬の旅ですし、平馬は風邪からの病み上がりなので、温まるために熱燗で飲んだことでしょうが、私は冷や酒が好きなので、時代考証無視で(笑)冷や酒で頂きました。
当時の土浦宿の宿の食事を思いながら一杯やりました。
美味しかったです(^^)。
※1:江戸時代のにんじんですので、今回は市販で手に入りやすい西洋にんじんではなく、東洋系にんじんの金時にんじんを使いました。
※2:江戸時代、こんにゃくは水戸藩の専売でした(参考サイト4)。
土浦は、江戸時代は土屋氏が藩主だった土浦藩ですが、水戸藩の領地にほど近い場所です。
もしかするとこんにゃくも食べられていたのではないかなと想像して、生こんにゃくいもから作られた手作りこんにゃく(茨城産)を使いました♪
*****************************
【参考文献】
1.『古典落語大系 第5巻』 江口滋 他編 三一書房
2.『新編旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 著 崙書房出版
3.『水戸藩 玉里御留川 ―近世 霞ヶ浦の漁業と漁民―』
小美玉市玉里古文書調査研究会 編集・発行
4.『聞き書 茨城の食事』 「日本の食生活全集 茨城」編集委員会 編集
農山漁村文化協会 発行
【参考サイト】
1.笠間市HP 文化・歴史
広報かさま 2022年8月号 かさまのれきし 第67回
https://www.city.kasama.lg.jp/data/doc/1659490140_doc_203_0.pdf
2.笠間の歴史探訪 vol.61-70
https://www.city.kasama.lg.jp/page/page012632.html
3.歌舞伎座 『江戸食文化紀行-江戸の美味探訪』 No.86 旅籠の食事
https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no86.html
4.大子町公式ホームページ 『こんにゃく』
https://www.town.daigo.ibaraki.jp/page/page000035.html#:~:text=%E5%8F%A4%E3%81%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%83%E3%81%8F%E6%A0%BD%E5%9F%B9%E3%81%8C,%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%8F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
茨城県南西部から千葉県北部が舞台の落語 『紋三郎稲荷』 (文献1)。
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名です。
主人公は、笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬。
その話の舞台を訪ねる旅です。
以前書いた記事
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
さて、落語『紋三郎稲荷』では、江戸道中前半の笠間から取手までの話はありません。
ですので、シリーズ最終回の今回は、笠間から取手までの道のり について、平馬の旅を妄想してみました。
(5)想定:笠間から取手までのルート
まず、笠間藩の参勤交代ルートは、2つありました(参考サイト1、2)。
① 笠間藩 江戸東道中
笠間~府中(現在の石岡市)~<水戸街道> → 江戸へ
② 笠間藩 江戸西道中
笠間~<小山・日光街道経由>~岩瀬(現在の桜川市岩瀬)~真壁(現在の桜川市真壁)~結城~杉戸(現在の埼玉県杉戸市)→ 江戸へ
基本は2泊3日の行程だったそうですが、②の西道中の方が11km長いので、3泊になることもあったそうです。
また参勤交代のルートは幕府に届け出て許可されたルートなので、これ以外のルートは使えなかったといいます。
さて、落語『紋三郎稲荷』の平馬ですが、これは江戸勤番のために行くとはいえ、個人の旅なので、参勤交代のルートは使わず、脇街道を使ったと考えます。
というのも、参勤交代ルート、例えば①の東道中にしても、かなり遠回りですから、個人の移動ならなるべく短い距離を歩くのではないかと思うからです。
落語では平馬は『水戸街道を西へと向かい』ということなので、水戸街道で取手から川を渡り松戸に向かっています。が、これはルート松戸までのルート後半。
では、(話は出てこない)ルートの前半については、どう行くのが一番もっともらしいかと考えると、距離がなるべく短い、
笠間 → 柿岡(石岡市柿岡地区)→ <水戸街道> → 土浦 → 取手
まで行くルートが一番自然ではないでしょうか。
で、どのあたりから水戸街道に乗ったかというのは、中貫宿(現在の土浦市中貫)あたりかなと想定します。
現在の中貫宿付近。
(2024年2月下旬撮影)
府中(石岡)に出てから水戸街道を歩くより合計の距離が短くなるので、やはり中貫宿あたりで水戸街道に乗るのが自然かと。
ところで、江戸時代、徒歩旅で、成人男性は1日に30~40km歩いたといいます。
笠間~中貫宿まではちょうど35kmくらい。
中貫宿の本陣跡
なお、距離的にも笠間~取手間で一泊するかと思いますが、落語ではその話は出てきません。
距離的には、平馬は、初日は中貫宿(※)で一泊したと考えたい・・・のですが、どうも中貫宿は旅籠があまりなかったようなのです(文献2)。
そうするとあと4kmほど歩いて、土浦宿で宿泊したと想定した方が良さそうです。
当時の土浦は水運・陸運の要所として大変栄えていたので、宿も多かったであろう土浦宿に一泊したと考えましょう。
それにしても、平馬さん、病み上がりなのに健脚ですよね!?
土浦宿には本陣が2つあったといいます(文献2)。
そのうちの1つ、大塚家のあった場所が現在、土浦商工会議所のあたりとのこと。
(2024年2月下旬撮影)
土浦宿の本陣跡の解説も書かれたポールがあるはずなのですが、最初はなかなか見つからず・・・?
(2024年2月下旬撮影)
すると、訪れた日、そのポール碑に「土浦の雛まつり」の立て看板が立てられていて、「本陣跡」の文字も説明文も見えない状態・・・。
いくらイベント中とはいえ、立て看板の置く場所、もう少し考えた方が良いかと思いました。
ここにほど近い場所に、昔の建築が並んで風情のある、土浦中城通りがあります。
この日は都合が合わずに行けなかったので、また後日行ったら、追加でこちらのページにもアップしたいと思っています。
さてさて、『落語 紋三郎稲荷』 に描かれていない、平馬が歩いたであろう前半のルートは、
私かるだもん の妄想で、
笠間 → 柿岡(石岡市柿岡地区)→ 中貫宿 →<水戸街道>→ 土浦宿(宿泊) → 取手
とします
(6)想定:土浦宿での料理は?
平馬が初日の宿を土浦宿だとすると、宿での食事はなんだったのかなと、またまた空想してみました。
まず霞ヶ浦沿岸なので、魚は出たでしょう。
参考サイト3によると、当時の旅籠の食事は、香の物を加えた『一汁三菜』で、
『汁、飯、焼き魚か煮魚、野菜の煮物、香の物』 が一般的だったそうです。
そこで、想像するに、やはり霞ケ浦の幸の魚は出たでしょう。
江戸時代から霞ヶ浦は鯉も名産(文献3:参考文献は北浦の資料ですが霞ヶ浦もほぼ同じかと想定)。
落語では、平馬は冬の時期に旅しています。
冬の時期で美味しいのは、やはり鯉(これは話の中では翌日の松戸宿で食べます)か、鮒(寒鮒)か(文献3,4)。
とすると、鯉か鮒は土浦の宿で出たのではないでしょうか。
今回、松戸では川魚も地酒も頂けなかったので、主人公の平馬の初日の宿泊場所の土浦宿の夕食を、以下のように想定して用意しました。
『一汁三菜』の三菜は、
・魚 : 贅沢に、鯉の旨煮(霞ヶ浦産)。
・野菜の煮物 : ごぼう、にんじん(※1)、干し椎茸とこんにゃく(※2)の煮もの
・香の物 : 干しだいこんの酢漬け、大根の葉添え
(野菜は全て茨城県内産)
そして、お酒は
・地酒 (残念ながら土浦には日本酒の地酒がないので、落語の中で通過する 取手 の地酒)
を用意。
旅の楽しみは、今も昔も、宿での名物の食事
お酒は、冬の旅ですし、平馬は風邪からの病み上がりなので、温まるために熱燗で飲んだことでしょうが、私は冷や酒が好きなので、時代考証無視で(笑)冷や酒で頂きました。
当時の土浦宿の宿の食事を思いながら一杯やりました。
美味しかったです(^^)。
※1:江戸時代のにんじんですので、今回は市販で手に入りやすい西洋にんじんではなく、東洋系にんじんの金時にんじんを使いました。
※2:江戸時代、こんにゃくは水戸藩の専売でした(参考サイト4)。
土浦は、江戸時代は土屋氏が藩主だった土浦藩ですが、水戸藩の領地にほど近い場所です。
もしかするとこんにゃくも食べられていたのではないかなと想像して、生こんにゃくいもから作られた手作りこんにゃく(茨城産)を使いました♪
*****************************
【参考文献】
1.『古典落語大系 第5巻』 江口滋 他編 三一書房
2.『新編旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 著 崙書房出版
3.『水戸藩 玉里御留川 ―近世 霞ヶ浦の漁業と漁民―』
小美玉市玉里古文書調査研究会 編集・発行
4.『聞き書 茨城の食事』 「日本の食生活全集 茨城」編集委員会 編集
農山漁村文化協会 発行
【参考サイト】
1.笠間市HP 文化・歴史
広報かさま 2022年8月号 かさまのれきし 第67回
https://www.city.kasama.lg.jp/data/doc/1659490140_doc_203_0.pdf
2.笠間の歴史探訪 vol.61-70
https://www.city.kasama.lg.jp/page/page012632.html
3.歌舞伎座 『江戸食文化紀行-江戸の美味探訪』 No.86 旅籠の食事
https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no86.html
4.大子町公式ホームページ 『こんにゃく』
https://www.town.daigo.ibaraki.jp/page/page000035.html#:~:text=%E5%8F%A4%E3%81%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%83%E3%81%8F%E6%A0%BD%E5%9F%B9%E3%81%8C,%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%8F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
2024年02月19日
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
茨城県南西部から千葉県北部が舞台の落語 『紋三郎稲荷』 (文献1)。
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名です。
その舞台を訪ねる旅です。
前回 は、主人公の笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬が、取手から利根川を渡り、渡った跡から駕籠に乗って、駕籠屋の誤解を利用しながら、途中の茶屋で稲荷寿司など食べるところまで、たどりました。
以前書いた記事
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
今回は、話の後半の松戸宿までをたどります。
(このページの写真は全て、2024年1月上旬に撮影)
(3)小金宿
さて、我孫子宿跡を後にして、駕籠ならぬ車で一路、小金宿=JR常磐線 小金駅に向かいます。
落語 『紋三郎稲荷』 では小金宿は出てきませんが、通過地点(もしくは立ち寄った茶屋があった場所?)ということで、立ち寄りました。
小金はあのドラッグストアチェーンのマツモトキヨシの発祥の地です。
『小金宿』の碑の背景に、マツモトキヨシの店舗があるのが、さすがです
ちなみに、マツモトキヨシの店舗はこのすぐ近くにももう1件ありました。
さすが、発祥の地♪
宿場町の通り沿いに名刹の東漸寺。
境内の大きな木々が、ここが宿場町だったという歴史を感じさせてくれます。
凜とした佇まいに惹かれて、境内に入ってお参りさせて頂きました。
浄土宗の関東十八檀林の一つとのこと。
広い境内なる風格ある建物に身が引き締まりながらも、山門までの参道には、ところどころ、とても可愛らしいお地蔵様がおられて、ほっこり優しい気分になるのも素敵。
東漸寺も面する旧道は、旧水戸街道です(文献2)。
そしてこの通りに沿って、歩道に灯りが点在して並べられていました。
夜に点灯すると、とても趣きがありそう。
小金宿の本陣跡は、旧道から入った住宅街にありました。
江戸時代、東漸寺敷地の一角だっだそう。
さて、この落語のお話の最終地点、松戸宿に向かいます。
(4) 松戸宿
落語では、松戸に到着した駕籠屋は、『笠間稲荷のお使い狐である』平馬を一番良い宿、つまり陣屋に案内します。
笠間稲荷を深く信心している主人の高橋清右衛門、大変喜んで平馬を迎え、粗相があってはならぬと自ら、平馬をもてなします。
平馬は内心焦りながらも、笠間稲荷のお使い狐を演じ続けます。
お稲荷様ということで、夕食に油揚げ稲荷寿司を出そうとする主人に、平馬は『自分は身分が高いキツネなので、油揚げなど食べず、鯉こくや鯰なべなどが良いと、美味しいお酒と一緒に所望します。
そのうち、噂を聞きつけた近所の人たちが、一目ありがたい笠間稲荷のお使いを拝もうと、閉まっている襖の隣の部屋に集まって来て、拝み出したり、襖を細めに開けてお賽銭のおひねりをどんどん投げ込んできます。
だんだん困ってきた平馬は・・・
ネタをバラすのは野暮というもの。
あとは本物の落語でお楽しみ下さい。
さて聖地巡りも終盤。
松戸宿=JR常磐線の松戸駅周辺に来ました。
松戸本陣跡
明治2年、松戸本陣から出火し、折からの風で、宮前町、角町など、丸焼けになったとのこと(文献2)。
消失した本陣は、すぐに立て直されたものの明治維新になり、本陣として使われることはなかったとのことです(参考文献3、参考サイト2)。
その建物も個人のお宅として残っていたそうですが、2004年に老朽化のため取り壊されたとのこと(参考文献3、参考サイト2 より)。
今は写真のような説明書きのある石碑があるのみです。
落語 『紋三郎稲荷』(文献1)では、松戸本陣の主人は『高橋清右衛門』となっています。
本サイトで参考にした『新編 旧水戸街道繁盛記』(文献2)では、『松戸市史』からの引用として、松戸村の最初の本陣は吉岡隼人という人の屋敷に設けられたそうです。吉岡家は宝暦三年(1753年)まで代々本陣と名主・問屋を兼務していたそうですが、何らかの理由で罷免され、その後は伊東宗蔵という人が人々に推挙されて本陣経営し、宝暦末(1760年)以降は、『名主と問屋は、宗蔵と倉田次郎右衛門の二名で運営されたという』(文献2)とのこと。
・・・本陣はまた別の人が経営した用に読めますが、伊東家がそのまま経営したのか、落語にあるように高橋家が経営したのか?
松戸神社
落語では松戸神社は出てきませんが、本陣跡近くにある大きな神社です。
今回は駆け足旅だったので、松戸神社にお詣り出来ませんでした。
松戸神社は江戸時代までは『御岳大権現』と呼ばれていた、仏教の影響を受けた信仰の場だったそう。修験道系だったのでしょうか。
ところで、この御岳大権現(現 松戸神社)をはじめ、松戸にはいくつか水戸光圀さんが関わる伝説が残っているとのこと(参考サイト3)。
・・・いろいろ出かけては、何かやらかしている黄門さんであります(^^;)。
松戸駅周辺も開発されて、当時の趣もほとんどありませんが、それでもそれでも時代を感じさせる建物も点在しています。
本当なら松戸のあたりで、ランチで、鯉こくや鯰なべなど食べられる川魚料理のお店が見つけられたら良かったのですが、見つけられず…残念。
また調べると、松戸でも最近、地酒が売り出されていることを知りました。
この時は買えなかったので、また近いうちに購入出来たら、松戸付近ではありませんが、茨城の自宅で、鯉やナマズ料理を食べながら、松戸の地酒で一杯やりたいと目論んでます。
さて、次回は、落語では語られていない笠間から取手までの道中を考えてみます。
続きます。
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
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【参考文献】
1. 『古典落語大系 第五巻』 江國茂・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一 編著
三一書房
p.156~ 『紋三郎稲荷』
2.『新編 旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 崙書房出版
3.『松戸宿の今と昔』 松戸よみうり 2022年10月25日
【参考サイト】
1. 松戸市観光協会 サイト
松戸本陣跡
2.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第854号(2020年10月25日)
松戸宿の今と昔
https://www.matsudo417.com/matsuyomi/?p=4629
3.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第849号(2020年5月24日)
松戸の黄門伝説
茨城県南西部から千葉県北部が舞台の落語 『紋三郎稲荷』 (文献1)。
紋三郎稲荷とは、笠間稲荷の別名です。
その舞台を訪ねる旅です。
前回 は、主人公の笠間藩牧野家の家臣 山崎平馬が、取手から利根川を渡り、渡った跡から駕籠に乗って、駕籠屋の誤解を利用しながら、途中の茶屋で稲荷寿司など食べるところまで、たどりました。
以前書いた記事
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
今回は、話の後半の松戸宿までをたどります。
(このページの写真は全て、2024年1月上旬に撮影)
(3)小金宿
さて、我孫子宿跡を後にして、駕籠ならぬ車で一路、小金宿=JR常磐線 小金駅に向かいます。
落語 『紋三郎稲荷』 では小金宿は出てきませんが、通過地点(もしくは立ち寄った茶屋があった場所?)ということで、立ち寄りました。
小金はあのドラッグストアチェーンのマツモトキヨシの発祥の地です。
『小金宿』の碑の背景に、マツモトキヨシの店舗があるのが、さすがです
ちなみに、マツモトキヨシの店舗はこのすぐ近くにももう1件ありました。
さすが、発祥の地♪
宿場町の通り沿いに名刹の東漸寺。
境内の大きな木々が、ここが宿場町だったという歴史を感じさせてくれます。
凜とした佇まいに惹かれて、境内に入ってお参りさせて頂きました。
浄土宗の関東十八檀林の一つとのこと。
広い境内なる風格ある建物に身が引き締まりながらも、山門までの参道には、ところどころ、とても可愛らしいお地蔵様がおられて、ほっこり優しい気分になるのも素敵。
東漸寺も面する旧道は、旧水戸街道です(文献2)。
そしてこの通りに沿って、歩道に灯りが点在して並べられていました。
夜に点灯すると、とても趣きがありそう。
小金宿の本陣跡は、旧道から入った住宅街にありました。
江戸時代、東漸寺敷地の一角だっだそう。
さて、この落語のお話の最終地点、松戸宿に向かいます。
(4) 松戸宿
落語では、松戸に到着した駕籠屋は、『笠間稲荷のお使い狐である』平馬を一番良い宿、つまり陣屋に案内します。
笠間稲荷を深く信心している主人の高橋清右衛門、大変喜んで平馬を迎え、粗相があってはならぬと自ら、平馬をもてなします。
平馬は内心焦りながらも、笠間稲荷のお使い狐を演じ続けます。
お稲荷様ということで、夕食に油揚げ稲荷寿司を出そうとする主人に、平馬は『自分は身分が高いキツネなので、油揚げなど食べず、鯉こくや鯰なべなどが良いと、美味しいお酒と一緒に所望します。
そのうち、噂を聞きつけた近所の人たちが、一目ありがたい笠間稲荷のお使いを拝もうと、閉まっている襖の隣の部屋に集まって来て、拝み出したり、襖を細めに開けてお賽銭のおひねりをどんどん投げ込んできます。
だんだん困ってきた平馬は・・・
ネタをバラすのは野暮というもの。
あとは本物の落語でお楽しみ下さい。
さて聖地巡りも終盤。
松戸宿=JR常磐線の松戸駅周辺に来ました。
松戸本陣跡
明治2年、松戸本陣から出火し、折からの風で、宮前町、角町など、丸焼けになったとのこと(文献2)。
消失した本陣は、すぐに立て直されたものの明治維新になり、本陣として使われることはなかったとのことです(参考文献3、参考サイト2)。
その建物も個人のお宅として残っていたそうですが、2004年に老朽化のため取り壊されたとのこと(参考文献3、参考サイト2 より)。
今は写真のような説明書きのある石碑があるのみです。
落語 『紋三郎稲荷』(文献1)では、松戸本陣の主人は『高橋清右衛門』となっています。
本サイトで参考にした『新編 旧水戸街道繁盛記』(文献2)では、『松戸市史』からの引用として、松戸村の最初の本陣は吉岡隼人という人の屋敷に設けられたそうです。吉岡家は宝暦三年(1753年)まで代々本陣と名主・問屋を兼務していたそうですが、何らかの理由で罷免され、その後は伊東宗蔵という人が人々に推挙されて本陣経営し、宝暦末(1760年)以降は、『名主と問屋は、宗蔵と倉田次郎右衛門の二名で運営されたという』(文献2)とのこと。
・・・本陣はまた別の人が経営した用に読めますが、伊東家がそのまま経営したのか、落語にあるように高橋家が経営したのか?
松戸神社
落語では松戸神社は出てきませんが、本陣跡近くにある大きな神社です。
今回は駆け足旅だったので、松戸神社にお詣り出来ませんでした。
松戸神社は江戸時代までは『御岳大権現』と呼ばれていた、仏教の影響を受けた信仰の場だったそう。修験道系だったのでしょうか。
ところで、この御岳大権現(現 松戸神社)をはじめ、松戸にはいくつか水戸光圀さんが関わる伝説が残っているとのこと(参考サイト3)。
・・・いろいろ出かけては、何かやらかしている黄門さんであります(^^;)。
松戸駅周辺も開発されて、当時の趣もほとんどありませんが、それでもそれでも時代を感じさせる建物も点在しています。
本当なら松戸のあたりで、ランチで、鯉こくや鯰なべなど食べられる川魚料理のお店が見つけられたら良かったのですが、見つけられず…残念。
また調べると、松戸でも最近、地酒が売り出されていることを知りました。
この時は買えなかったので、また近いうちに購入出来たら、松戸付近ではありませんが、茨城の自宅で、鯉やナマズ料理を食べながら、松戸の地酒で一杯やりたいと目論んでます。
さて、次回は、落語では語られていない笠間から取手までの道中を考えてみます。
続きます。
→ 落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
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【参考文献】
1. 『古典落語大系 第五巻』 江國茂・大西信行・永井啓夫・矢野誠一・三田純一 編著
三一書房
p.156~ 『紋三郎稲荷』
2.『新編 旧水戸街道繁盛記』 山本鉱太郎 崙書房出版
3.『松戸宿の今と昔』 松戸よみうり 2022年10月25日
【参考サイト】
1. 松戸市観光協会 サイト
松戸本陣跡
2.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第854号(2020年10月25日)
松戸宿の今と昔
https://www.matsudo417.com/matsuyomi/?p=4629
3.WEB松戸よみうり
NEWS / WEB松戸よみうり / 歴史 / 第849号(2020年5月24日)
松戸の黄門伝説