茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4) ~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説


茨城3つの養蚕信仰の聖地について、じっくり調べて考えていくシリーズ。
文献を参照しつつ、取り組んでいきますので、お付き合い下さい笑

前回までの話
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(1)
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(2) ~ 蚕伝来の伝説と「豊浦」
豆電球 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山


引き続き、金色姫譚が生まれた過程を考えていきますが、
さて今回は、室町時代後期の頃までの金色姫譚に、なぜ、いきなり、富士山信仰が入ってきたのか?についてです。

前回(茨城3つの養蚕信仰の聖地について(3) ~ うつぼ舟・常陸国とゆら・筑波山・富士山)では、
室町時代後期 永禄元年(西暦1558年)滝本坊という人によって『戒言』(滝本坊 筆)として書かれた金色姫譚に、
かなり無理矢理の後付け感たっぷりで、『かぐや』姫と富士山の話が挿入されていることを書きました。

その『戒言』(金色姫譚)の最後の部分、富士山とかぐや姫がいきなり出てくる箇所のあらすじを、再度掲載します。


*****

そこへまた『不思議なことに』、欽明天皇の皇女のかぐやひめが、筑波山へ飛んできて、神様だと言われ、人々にあがめ奉られた。
ある時、神託があり、『自分は旧仲国の霖夷大王の娘で、この国の人々を守るために来て、欽明天皇の子となった。
そしてこの国でこがひの神となり、『とよら』の地で綿を作ったのは、私、かくやひめである』と言い、
この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ神様は行かれた。
 たかとりの翁達もこの神を拝んだ。『筑波山の神と富士の権現は一体』なので、こがひの神ともなり、
その本地は勢至菩薩の化身である。
 だいにちへんぜう(大日遍照か?)の『ごへんさ』(意味不明)なので飼っている蚕はおろそかにしてはいけない。
綿を練った仙人は、りやうじゅせん(霊鷲山か?)の釈迦牟尼仏である。


*****

この箇所を頭に入れて、考えていきましょう走る


【1.中世富士山縁起と、かぐや姫】

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4)~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
写真は、伊豆大島から見た富士山
(2019年5月撮影)

一般に『かぐや』『かぐや姫』といえば、有名な竹取物語の登場人物です。
竹取物語は平安時代前期ごろ成立した考えられる物語。

その竹取物語とは別のストーリーが、富士山付近で古くから伝わっているというのです。
(文献1:「富士山縁起の世界 -赫夜姫・愛鷹・犬飼-」 富士市立博物館)

『富士山縁起』と呼ばれている、富士山ものがそれで、文献1によると
『富士山縁起とは、富士山および富士山信仰に関わった寺社に関する由来伝説などを記した縁起書の総称』
とのことで、内容は多義に渡っているのですが、『赫夜姫(かぐやひめ)』にまつわる話も多く含まれるとのこと。

現在の富士山信仰の神社の祭神は『木花開耶姫(このはなさくやひめ)』ですが、これは近世、江戸時代以降のことで、中世の富士山縁起には、赫夜姫は登場するけれども、木花開耶姫は出てこないのです。

富士山縁起の赫夜姫の説話については本記事では触れませんが、注目すべきは、

★中世の頃の富士山縁起には、かぐや姫(赫夜姫)』が主役として語られる縁起が多く伝わる

という事実です。



【2.中世の富士山信仰と常陸国】

文献2(「富士山信仰と富士塚」 富士市立博物館)によると、平安時代後期に末代上人によって富士山修験道が生まれ、富士山麓の村山の地を拠点に、村山修験道と呼ばれる信仰が広まったそうです。そして、

●仏教色の強い初期の富士山信仰は、関東よりも関西に広がった。
(「村山を中心とする富士山修験者は京都聖護院門跡を中心とする本山派に属している」)

●時代が下がるにつれて関東にも広がり、関東に多くの行者・先達が現れた。
(「これが爆発的な発展をみせる江戸時代の富士講の基礎になる」)。

特に、同文献では『新編常陸国誌』の記述『中世以後、関東ノ風俗ニテ塚ヲ築キ、富士権現ヲ勧請スルモノ所々ニアリ』
という一文を紹介し、中世以後の関東での富士山修験者(村山修験者)の増加は明らかとのこと。

つまり、中世(室町時代ごろか)、仏教色の強い村山修験が常陸の国にも広がりつつあった様子が分かります。


【3.中世の富士山修験者と養蚕と女性】

さて、養蚕信仰と富士山信仰がどう繋がるのかと言うと、これもしっかり繋がります。

文献3(「富士山と養蚕 ―信仰の側面からー」山梨県立富士山世界遺産センター)によると、江戸時代に入ると、富士講と蚕神(蚕影山権現)と結びつき、山梨県方面で蚕影山信仰が広がっていったとのこと。

江戸期以前、中世の頃も、富士講が生まれる前の富士山修験者によって、富士山信仰と共に蚕神(この場合、蚕影山権現かどうかは不明)が関係づけられて、信仰を広げていったのは充分考えられます。

その証拠が、先に上げた永禄元年(西暦1558年)に書かれた『戒言』の最後の部分なわけです。

『戒言』では、富士山の神がコノハナサクヤヒメでなくカグヤヒメなのも、中世富士山縁起を反映されているのが分かります。


養蚕、蚕糸、織物は、古代から近代・現代に至るまで女性の仕事でした(文献4)。
また、江戸以降の富士講が発達した地域は養蚕が非常に盛んだった地域と重なるとのこと(文献5)。

蚕の餌となる桑の栽培も含め、養蚕は気候変動や、蚕の病気・害獣による食害などで、大変に苦労を伴う仕事です。
蚕という『生けるもの』の生命と交換に蚕糸を得る仕事。
そういう重労働に携わる女性達の気持ちをぐっと捉えるのは、やはり女性神、女神でしょう。

中世の富士山縁起に出てくる『赫夜姫(かぐやひめ)』は、絶好のキャラクターです。
(それが江戸時代以降は『木花開耶姫(このはなさくやひめ)』になっていくわけです)

女性たちによって養蚕が営まれてきた関東甲信地区で布教するうえで、富士山修験者達が富士の神『赫夜姫(かぐやひめ)』と、蚕神『金色姫』キャラクターを用いて、『同じ神』だとなかば強引に結び付けて布教していったのは容易に想像できます。


中世の頃『金色姫譚』がどのエリアまで広がっていたのか不明です。
最初は、常陸国もしくは筑波山付近あたりだけのローカルな蚕神だったのかもしれません。

それを関東に布教にやってきた富士山修験者(村山修験者)が金色姫譚の存在を知り、布教のツールとして金色姫を使ったのではないかと私は思います。
その証拠が、『戒言』の最後に無理やり挿入されている『かぐや姫』のくだりです。

原文は
こゝもとの山も、いさぎよからす、これより、みやこちかき、ふしさんへ、よぢのほるなり
(文献6)
つまり、『この山(筑波山?)も 『いさぎよからず』、『都に近い』富士山へ(神様は)登られた

の部分は、地元常陸国の人が語ったとは思えないぷんぷん
しかも『よちのぼる』です。 富士山に登っちゃうんです!!
もろに富士山修験です。

『戒言』からは、そのような背景をも見えてくるようで、大変興味深いです。

茨城3つの養蚕信仰の聖地について(4)~金色姫譚と富士山信仰 及び 金色姫譚の誕生仮説
写真は、常磐自動車道から見た富士山
(2020年2月撮影)







【4.江戸時代~近代の金色姫譚】

江戸時代になると幕府や各藩の政策で養蚕が奨励されるようになり、寺子屋でも養蚕技術が教えられるようになります。

江戸時代中期になりますと、養蚕業の興隆に合わせるように、養蚕技術に関する様々な指南書の普及し、信仰面でも、蚕影山桑林寺など、後述する常陸国蚕の神社に繋がる寺院による布教もあり、金色姫譚も全国に知られていきました。

蚕影山桑林寺と金色姫譚のことは、以前当ブログでも書きましたのでそちらもご参照ください。
 → 豆電球 蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
   豆電球 つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地


江戸後期、享和三年(1803年)に蚕種商人の上垣守国による『養蚕秘録』は養蚕について多義にわたって書かれた蚕書で、度々再版されて、海外にも伝わりフランス語訳、イタリア語訳で出版された書(文献4)ですが、その『養蚕秘録』でも金色姫譚が紹介される(文献4、7)など、金色姫譚が全国に(世界に!)広まっていきました。

江戸時代以降につきましては、今後、常陸国の3つの蚕の神社の各論でまた詳しく見ていきます。


【★金色姫譚誕生の仮説★】

ということで、今まで見てきた資料等から、今に伝わる金色姫譚が生まれ、後世広く広まっていった経緯を想像しますと、

下記の

(A)⇒(B)⇒ (C) ⇒(D) ⇒ (E) ⇒ (F) ⇒ (G) ⇒ (H)

という仮説を私は考えます。

!2022年7月17日 追記】 この仮説に修正・増補した仮説を掲載しました
 → 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(8) 誰が語り伝えてきたのか:中世神話としての金色姫譚


(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生:場所は瀬戸内海~九州か?  ≪時代不明:古代~中世≫
 
以下の(i)と(ii)がベースにあったか。

(i) 古代に、長門国(穴門)豊浦にて(豊浦宮にいた仲哀天皇に)、朝鮮半島から来た渡来人(功満王)が、蚕種を献上した伝承。(前回の話 参照)

(ii) 瀬戸内海各地にある『うつぼ舟』の乗って流されてくる貴人伝説・説話

  物語の登場人物の『こんぢき(金色)』の名が当時あったかどうかは不明




(B)  常陸国への『貴人蚕譚』(蚕を育てる(養蚕業)ために蚕の生体を説話にして伝える話)の伝播 ≪時代不明:古代~中世≫


養蚕技術が東国に広がる時に、『貴人蚕譚』も一緒に説話として東国に伝わり、常陸国にも伝わる。

(b1) (A)の(i)(ii)二つの話が 瀬戸内海~九州の地域のどこかで合体して『貴人蚕譚』が生まれ、それが常陸国に伝わる。

(b2) (A)の(i)(ii)二つの話は別々に常陸国に伝わる。

 伝わり方は想像するしかないが、例えば、
 
 ・新しく伝わった知見・技術とともに、別の説話・伝承も伝わり、その中に『貴人蚕譚』もあって、他の話を淘汰して残った。
   養蚕技術の伝播は一回だけでなく、時代と共に何度か波のように新しい知見・技術が伝わったのかもしれない。

 ・九州付近で遭難して、黒潮で流されて、常陸の国に打ち上げられた舟に、蚕種を持った人がいて、
  蚕種と共に『貴人蚕譚』を伝えた。



(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』 ≪時代不明:古代~中世≫ 

  (c1) 偶然『とゆら(豊浦)』の地名が、譚の伝播前から常陸国の海沿いにもあった

 (c2) とよら(豊浦)が、『常陸国の豊浦』に変わって『常陸化』していったか
    
  永禄元年(西暦1558年) の『戒言』には『常陸国』が出てくるので、1558 年より前に『常陸化』したのは確か。



(D) 『こんぢき(金色姫)』の名、権太夫の名の登場 ≪時代不明:古代~中世?≫

 上の(C)の前か後か同時期かは不明




(E) 筑波山系修行者の介入 ≪時代不明:古代~中世?≫

  『筑波山のほんどう仙人』



(F) 富士山信仰宗教者の介入 ≪中世≫

   『欽明天皇の娘のかぐや」の登場
    かぐやは、生糸から織り方を教える。

   『富士山=筑波山』という考え方
    かぐやは、『より都に近い』富士山に帰る。⇒ 『こんぢき=かぐや』となって蚕の神になる。



(G) 上記(C)(D)(E)(F) の話が一つにまとめられ『金色姫譚』となり、広く伝わる  ≪中世≫

   室町後期 永禄元年(西暦1558年)年 の『戒言』として金色姫譚が記述される。 




(H) 江戸時代に入り、幕府・各藩による養蚕奨励で、養蚕業が盛んになっていく   ≪近世:江戸時代≫

   寺子屋などの教科書でも『金色姫譚』が書かれ、更に広く伝えられる。




(I) 筑波山麓の桑林寺、及び 日川の星福寺の布教の台頭    ≪近世:江戸時代中期~後期≫

・筑波山麓の桑林寺(蚕影山神社別当寺)が金色姫譚と蚕影山信仰と組み合わせ、
・日川の星福寺(蚕霊神社別当寺)が襲衣明神と金色姫譚と組み合わせて、
積極的に布教。

金色姫譚は特に蚕影山信仰と強く結びつき、信仰が広がる。



(J) 養蚕指南書の多くの出版 ≪近世:江戸時代中期~後期≫

養蚕指南書(蚕書)も様々に出版され、特に名著の『養蚕秘録』にも金色姫譚が入り、
ベストセラーとなって、金色姫譚が更に広まる。



(K) 国策としての養蚕業振興に伴う、信仰の高揚 ≪近代~現代≫

 明治時代になり、生糸の輸出量とともに養蚕業が一気に盛んになり、全国の養蚕農家によって、
 蚕影山信仰や襲衣明神信仰が広まりる。それらと一体になった金色姫譚もますます広く信仰され、
 筑波の蚕影山神社、神栖の蚕霊神社(星福寺)に加え、日立の蚕養神社が、『常陸三大蚕の神社』として
 広く信仰される。



以上の(A)~(K)のような流れがあったのではないかと私は考えます。

特に記録のほとんどない中世以前の(A)~(G)の『金色姫譚 誕生仮説』は、
状況証拠による私の想像の産物ですが、あながち外れていないように思っていますが、更に詳しい方のご意見を聞きたいです。

江戸時代以降の(H)~(K)については、文献   など、多くの研究者が調べられていますので、
当ブログでは、中世以前の(A)~(G)の『貴人蚕譚』から『金色姫譚』に変わっていったプロセスについて
焦点を当てて
考えます。

(A) 『貴人蚕譚』(金色姫譚の原形)の誕生

については、今まで考えてきましたので、いよいよ、常陸国が関わっていそうな、

(B) 『貴人蚕譚』の伝播?誕生?
(C) 『貴人蚕譚』の『常陸化』
(D) 権太夫という登場人物の誕生
(E) 筑波山系修行者の介入
(G) (B)〜(E)がまとめられて伝播


のプロセスが気になります。

どこでどのようにして生まれたのか? ヒントはないのか?
そうしますと、やはり、金色姫譚が今でも伝わる常陸国の三蚕社のある地域は外せません。

ということで、次回からは、常陸国の三蚕社とその地域について、それぞれ考えていきます。

まず最初は、日立市の蚕養神社とその地域についてです。

→ 茨城3つの養蚕信仰の聖地について(5) ~ 日立市 蚕養神社 《前編》







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