2021年03月14日
八代集に収められている筑波山の歌~【1】古今和歌集にある筑波山
八代集に収められている筑波山の歌~(1)古今和歌集にある筑波山
日本で一番古い歌集「万葉集」には、筑波山を歌った歌が25首あるのは、よく知られているかと思います。
筑波山神社の境内や、登山道(迎場コース:筑波山神社~白雲橋~酒迎場分岐~筑波山ロープウェイを結ぶ道)に、万葉集歌を彫った石碑もありますし、筑波山麓やその周辺にも、万葉集の歌が彫られた碑も見かけますので、ご存じの方も多いでしょう。。
その万葉集以降に編纂された勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集)にも、筑波山(つくばやま、つくばね)を歌った歌が多く収録されています!
万葉集の後、(平安初期~鎌倉初期)に編纂された8つの勅撰和歌集は、「八代集」と呼ばれており、
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集
です。
(その後の時代にも、勅撰和歌集の編纂は続きます)
万葉集の他にも歌われた歌も知りたいですよね♪
八大集は図書館にもあるので調べやすいので(^^)v、
シリーズとして数回に分けて、八代集の中で歌われた筑波山の歌を見ていこうと思います。
(写真は、当時の常陸国国府のあった石岡付近から見た筑波山。2021年2月下旬 撮影)
万葉集では、筑波山は、かがい(歌垣)の地で、もっぱら恋の歌(それもかなりダイレクトな)が詠われる地で、「恋の山」のイメージですが、時代が下ると、恋の山以外のイメージも付加されてきます。
その辺りにも注目して、歌を見ていきましょう
さて、初回の今回は、古今和歌集の中にある、筑波山の歌です。
(1)古今和歌集
古今和歌集は、延喜五年(905年)醍醐天皇の勅命により、十世紀初期(文献1では「延喜十三年から十七年の間」)に編纂された和歌集です。
編纂の初期の頃は『続万葉集』と称せられていたとのこと(文献2)
『仮名序』と呼ばれる序文と、『真名序』と呼ばれる序文があり、万葉集に選ばれなかった古い時代の歌から編纂時の頃の和歌までが選ばれて、全二十巻、1111首が収められています。
この古今和歌集に納められている 『筑波山』(つくばやま、つくばね)の歌や表現は、
①仮名序 (紀貫之) :
『…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …』
②真名序 (紀淑望) : 『…陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。…』
『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰』 ③966番の歌 (宮道潔興) : 筑波嶺のこのもと毎に立ちぞよる春のみ山の蔭を恋つつ
④1095番の歌 (常陸歌) : 筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし
⑤1096番の歌 (常陸歌) : 筑波嶺の 峰のもみぢ葉おちつもり 知るも知らぬもなべてかなしも
です。
文献1,2の解釈を参考に、この5つを見てきましょう。
********
① 古今集仮名序
紀貫之が書いた仮名序。
その長い序文の一節
『…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …』
に、まず、筑波山(つくばやま)が出てきます!
(写真は2021年2月下旬撮影)
古今集は全20巻、総歌数1111首が納められた和歌集ですが、その序で、1111首に歌われる数々の歌枕の地の中から
『筑波山(つくばやま)』
の名が掲げられているのです!
しかも、この前後の文がまた素晴らしいので引用しますと、
『しかあるのみにあらず、さざれ 石にたとへ、筑波山にかけて君を願ひ、
よろこび身に過ぎ、たのしび心に余り、富士の煙によそへて人を恋ひ、
松虫の音に友をしのび、高砂・住の江の松も相生のやうに覚え、
男山の音を思ひ出でて、女郎花の ひとときをくねるにも、歌をいひてぞ慰めける』。
是非、声に出して歌って欲しい、名文だと思います(*^^*)。
古典のことはよくわかりませんが、紀貫之、さすがだと思いませんか?
醍醐天皇の勅命で編纂された和歌集なので、やはり醍醐天皇を讃えながら、和歌を讃えているわけですが、この名文の中に、京の都から遠く離れた常陸国の筑波山が、入っているのが嬉しい。
『君を願ひ』の『君』は、君主つまりここでは天皇のことです(文献1,2)。
つまり 『天皇陛下の安泰を願い』ということでしょう。
『筑波山(つくばやま 筑波嶺とも)は、君主の恩恵を賛美するたとえに用いられる』(文献1)とのことで、古事記が編纂された頃は、筑波山はもっぱら『恋の山』のたとえが多かったようですが、時代とともに別の意味も加わってきて、古今和歌集が編纂された平安時代前期になると、『君主の恩恵』を表すようになったようですね!
面白ですね
どのような変遷でそうなったか興味深いです。
それにしても、つくばやま・つくばねは、歌枕の地としてゆるぎなかった上に、勅撰和歌集の序文にも書かれるくらい、聖地としても遠く都まで伝わっていたということですよね。
これ、もっと知られて良いと思います。
********
② 真名序
紀淑望が書いたと言われる、漢文で書かれた序文です。
仮名(ひらがな)に対する真名(漢字)で書かれた序文。
真名序は仮名序の訳だとも、逆に仮名序を訳したのが真名序だとも言われるようですが、
書いてある内容のニュアンスが違うと私は思います。
お互い内容に整合性を持ちつつ、それぞれの表現方法で序を書いていると感じます。
さて、仮名序と同じく、こちらでも『筑波山』がしっかりと出てきます。
『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰』
読み下し文
『陛下の御宇今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵は筑波山の陰よりも茂る』
意味は、
『(醍醐天皇の治世は現在、九年である) 天皇の仁愛は日本国の外まであふれ出し、その恩恵は筑波山の山かげに草木が茂るように深い』
(文献1より筆者要約)
(写真は 御幸ヶ原登山道の巨木群。2016年10撮影)
『筑波山の陰』とは、筑波山に茂る木々の陰を指すようで、『木陰』は『 おかげ・恩恵』のたとえで、『寄らば大樹の陰』の『陰』と同じ使い方でしょうか(^^;)
つまり、『筑波山の陰』は、天皇が世に与える豊かな恵みを表す例えに使われている
これは、この古今和歌集に収められいる966番、1095番、1096番の歌において、
『筑波山に茂る木々の陰 = 身分の高い人からの庇護・恩恵』
とされているからのようで、多分、当時、つくばやま(筑波山)・つくばね(筑波嶺)をそのような意味を想起させる土地の名(歌枕)としてよく使われていて、古今和歌集に収録された歌以外にもそんな用例が多くあったのかもしれませんね。
なおこの後に続く文も見てみますと、
『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。
淵変為瀬之声、寂々閇口、砂長為巌之頌、洋々満耳。思継既絶之風、欲興久廃之道』
『陛下の御宇今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵は筑波山の陰よりも茂し。
淵の変じて瀬となる声、寂々として口を閉ぢ、砂の長じて巌となる頌、洋々として耳に満てり。
既に絶えたる風を継がむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す』
紀貫之が書いた仮名序と、(醍醐)天皇を褒め讃えている点はのは同じですが、讃え方の表現が微妙に違う。
真名序のこの部分では、仮名序のように和歌について直接讃えているわけではありませんが、失われつつある良き歌を残したいという
この古今和歌集編纂への天皇の想い(そして編纂者の想い)を強く伝えていると私は感じます。
********
③ 古今和歌集 966番 宮路潔興
筑波嶺のこのもと毎に立ちぞよる春のみ山の蔭を恋つつ
宮道潔興(みやじのきよき)は、平安時代前期の官人・歌人。
(写真は筑波山梅林、2021年3月撮影)
古今和歌集では、この歌の前に、
『親王(みこの)宮の帯刀(たちはき)に侍りけるを、宮仕え仕う奉らずとて、解けて侍りける時に、よめる』
とあります。
文献1の注釈・解説によりますと、
親王宮: 春宮(皇太子)御所
帯刀: 皇太子護衛の帯刀舎人(たちはきのとねり)
筑波嶺: 中世注は「つくはね」ともしめす
春のみやま: 『春の宮』と『春の御山』を掛ける
つまり(文献2)によりますと、
『東宮警護の役だった宮道潔興は、勤務不良という理由で解職されてしまった時に読んだ歌』
とのことのよう(^^;)
で、その歌の意味は、
(文献1より、後に出てくる④1095番の常陸歌の句
『筑波嶺のこのもかのもに影はあれど』tと『君がみかげにますかげはなし』 を踏まえて)
(写真は同上)
『「筑波嶺のこのもかのもに影あれど」というその木のしたのあちこちに立ち寄っていております。春のみやま(=春宮様)の恩恵をお慕いしております』
つまり職を解かれた宮道さんが、仕えていた春宮(皇太子)の恩恵を忘れらずにいるのか、はたまた再び恩恵を承りたい(もう一度雇って欲しい)のか・・・そんな切ない気持ちを歌っているのでしょうか。
一見、恋の歌のように読んでしまうのは、現代人の浅はかさ・・・実は、職を解かれた悲しさ、切なさを歌っているのですね
上でも書きましたが、この宮道潔興の歌の下地になっているのが、次に見ていく1095番の歌(常陸歌)です。
********
④ 古今和歌集 常陸歌 1095番
『常陸歌』とは、常陸国の民衆が歌ってきた歌(歌謡)で、詠み人は不明です。
筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし
『このもかのもの』の『も』は、文献1によると『表面、方向の意の「おも」の略』とのこと。
(写真はつくばフォレストアドベンチャー 2021年3月上旬撮影)
意味は、文献1では、
『昔から名高いあの筑波山のこちら側にもあちら側にも「かげ」はあるけれど、「かげ」とは名ばかりのことで、あなた様の御面「影」にまさる「陰」はございません』
また文献2では、ちょっとニュアンスが違って、
『かげはあれど』: 木の蔭はいくらでもあるが
『きみがみかげ』: 君のみ恵みのかげ。君の御庇護
ちなみに文献3では、文献2とほぼ同じ解釈で、
『筑波嶺のこちらの斜面あちらの斜面に木陰は多いけれど、君(主君)御庇護にまさる蔭はありません』
なるほど~!
前述の966番の歌の下地にもなっている歌。
きっと、いろんな人が謡ってきたヒットソングだったのでしょう。
でも現代でも、ごますり 誰かのご恩を褒め讃える時に使えそうですので、使ってみたいですね 株が上がりそう!?
********
⑤ 古今和歌集 『常陸歌』 1096番 詠み人知らず
筑波嶺の 峰のもみぢ葉おちつもり 知るも知らぬもなべてかなしも
(写真は、筑波山ケーブルカー 宮脇駅付近。写真は2019年11月撮影)
文献1によると歌の意味は
『昔から名高いあのもみじの葉が落葉して積もっていて、秋はともかく『悲しい』ことではるが、それでもやはり、知っている葉も知らない葉も、すべてそれぞれにしみじみといとおしく思われることだなあ』
とし、更に
『(筆者註:他の歌の例から) 秋は悲しいものという前提でいうが、転じて「葉」が「御世」を暗示し、1095番を承けた御世御世の賛歌と解する。「おほやけ(朝廷・公)のあまねき御恵みの遠近なきにたとへたり」。もとは筑波山の嬥歌会(かがい)の歌とする説もある』
としています。
また文献2では、微妙に解釈が異なり、
『つくばねの峯のもみじばおちつもり』: 美しいものがたくさん集っているたとえ
『しるもしらぬもなべてかなしも』: している人も知らない人も、おしなべていったいにいとおしいなあ。
とのこと。
(写真は同上。2019年11月撮影)
こちらの歌も上の1095番の歌と同様、常陸歌で、詠み人知らず。
これも、平安時代初期の更に昔から常陸国の人々が折に触れ歌っていたらしい、ヒットソングですね。
それにしても 『もみじ葉』が何を指しているか、何を例えているのか…いろいろ想像が膨らみますが、
落ち葉は土に戻り、腐葉土となり、木々が育つ豊かな土壌になるわけで、『落ち葉』=『恩恵』という解釈は、しみじみと深いと思います。
***********
今回は、平安時代前期に編纂された『古今和歌集』に出てくる筑波山
つくばやま、つくばね
の歌や表現を見ていきました。
歌枕の地としての『つくばやま』『つくばね』は、
・天皇の世(=国の安泰)を願える聖地
・その恩恵の大きさ・豊かさの例えに使われた地
とされていたのが分かり、感動しています。
これ、本当にもっと宣伝すべきですよ、筑波山。
それにしても、現代でも使えそうな歌の数々。雅に気持ちを歌えるのに良さそうではありませんか
筑波山麓やその周辺にお住いの方、是非使ってみてはいかがでしょう♪
さて、次回は後撰和歌集に歌われる『筑波山』です。
百人一首に詠われるあの有名な歌の他にも、筑波山を歌った歌がありますし、こちらの「序」にも
「筑波の山」「筑波嶺」が出てきます(^^)v。
続きます。
→ 八代集に収められている筑波山の歌~ 【2】後撰和歌集にある筑波山
*******************************************
【参考文献】
1. 『古今和歌集 新日本古典文学大系5』 岩波書店
2. 『古今和歌集 日本古典文學体系8』 岩波書店
3. 『鑑賞 第7巻 日本古典文學 古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集』 角川書店
4, 『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店
5.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房
5には、筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。
日本で一番古い歌集「万葉集」には、筑波山を歌った歌が25首あるのは、よく知られているかと思います。
筑波山神社の境内や、登山道(迎場コース:筑波山神社~白雲橋~酒迎場分岐~筑波山ロープウェイを結ぶ道)に、万葉集歌を彫った石碑もありますし、筑波山麓やその周辺にも、万葉集の歌が彫られた碑も見かけますので、ご存じの方も多いでしょう。。
その万葉集以降に編纂された勅撰和歌集(天皇や上皇の命で編纂された和歌集)にも、筑波山(つくばやま、つくばね)を歌った歌が多く収録されています!
万葉集の後、(平安初期~鎌倉初期)に編纂された8つの勅撰和歌集は、「八代集」と呼ばれており、
・古今和歌集 ・後撰和歌集 ・拾遺和歌集 ・後拾遺和歌集 ・金葉和歌集 ・詞花和歌集 ・千載和歌集 ・新古今和歌集
です。
(その後の時代にも、勅撰和歌集の編纂は続きます)
万葉集の他にも歌われた歌も知りたいですよね♪
八大集は図書館にもあるので調べやすいので(^^)v、
シリーズとして数回に分けて、八代集の中で歌われた筑波山の歌を見ていこうと思います。
(写真は、当時の常陸国国府のあった石岡付近から見た筑波山。2021年2月下旬 撮影)
万葉集では、筑波山は、かがい(歌垣)の地で、もっぱら恋の歌(それもかなりダイレクトな)が詠われる地で、「恋の山」のイメージですが、時代が下ると、恋の山以外のイメージも付加されてきます。
その辺りにも注目して、歌を見ていきましょう
さて、初回の今回は、古今和歌集の中にある、筑波山の歌です。
(1)古今和歌集
古今和歌集は、延喜五年(905年)醍醐天皇の勅命により、十世紀初期(文献1では「延喜十三年から十七年の間」)に編纂された和歌集です。
編纂の初期の頃は『続万葉集』と称せられていたとのこと(文献2)
『仮名序』と呼ばれる序文と、『真名序』と呼ばれる序文があり、万葉集に選ばれなかった古い時代の歌から編纂時の頃の和歌までが選ばれて、全二十巻、1111首が収められています。
この古今和歌集に納められている 『筑波山』(つくばやま、つくばね)の歌や表現は、
①仮名序 (紀貫之) :
『…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …』
②真名序 (紀淑望) : 『…陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。…』
『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰』 ③966番の歌 (宮道潔興) : 筑波嶺のこのもと毎に立ちぞよる春のみ山の蔭を恋つつ
④1095番の歌 (常陸歌) : 筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし
⑤1096番の歌 (常陸歌) : 筑波嶺の 峰のもみぢ葉おちつもり 知るも知らぬもなべてかなしも
です。
文献1,2の解釈を参考に、この5つを見てきましょう。
********
① 古今集仮名序
紀貫之が書いた仮名序。
その長い序文の一節
『…さざれ石にたとへ 筑波山にかけて君を願ひ 喜び身に過ぎ …』
に、まず、筑波山(つくばやま)が出てきます!
(写真は2021年2月下旬撮影)
古今集は全20巻、総歌数1111首が納められた和歌集ですが、その序で、1111首に歌われる数々の歌枕の地の中から
『筑波山(つくばやま)』
の名が掲げられているのです!
しかも、この前後の文がまた素晴らしいので引用しますと、
『しかあるのみにあらず、さざれ 石にたとへ、筑波山にかけて君を願ひ、
よろこび身に過ぎ、たのしび心に余り、富士の煙によそへて人を恋ひ、
松虫の音に友をしのび、高砂・住の江の松も相生のやうに覚え、
男山の音を思ひ出でて、女郎花の ひとときをくねるにも、歌をいひてぞ慰めける』。
是非、声に出して歌って欲しい、名文だと思います(*^^*)。
古典のことはよくわかりませんが、紀貫之、さすがだと思いませんか?
醍醐天皇の勅命で編纂された和歌集なので、やはり醍醐天皇を讃えながら、和歌を讃えているわけですが、この名文の中に、京の都から遠く離れた常陸国の筑波山が、入っているのが嬉しい。
『君を願ひ』の『君』は、君主つまりここでは天皇のことです(文献1,2)。
つまり 『天皇陛下の安泰を願い』ということでしょう。
『筑波山(つくばやま 筑波嶺とも)は、君主の恩恵を賛美するたとえに用いられる』(文献1)とのことで、古事記が編纂された頃は、筑波山はもっぱら『恋の山』のたとえが多かったようですが、時代とともに別の意味も加わってきて、古今和歌集が編纂された平安時代前期になると、『君主の恩恵』を表すようになったようですね!
面白ですね
どのような変遷でそうなったか興味深いです。
それにしても、つくばやま・つくばねは、歌枕の地としてゆるぎなかった上に、勅撰和歌集の序文にも書かれるくらい、聖地としても遠く都まで伝わっていたということですよね。
これ、もっと知られて良いと思います。
********
② 真名序
紀淑望が書いたと言われる、漢文で書かれた序文です。
仮名(ひらがな)に対する真名(漢字)で書かれた序文。
真名序は仮名序の訳だとも、逆に仮名序を訳したのが真名序だとも言われるようですが、
書いてある内容のニュアンスが違うと私は思います。
お互い内容に整合性を持ちつつ、それぞれの表現方法で序を書いていると感じます。
さて、仮名序と同じく、こちらでも『筑波山』がしっかりと出てきます。
『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰』
読み下し文
『陛下の御宇今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵は筑波山の陰よりも茂る』
意味は、
『(醍醐天皇の治世は現在、九年である) 天皇の仁愛は日本国の外まであふれ出し、その恩恵は筑波山の山かげに草木が茂るように深い』
(文献1より筆者要約)
(写真は 御幸ヶ原登山道の巨木群。2016年10撮影)
『筑波山の陰』とは、筑波山に茂る木々の陰を指すようで、『木陰』は『 おかげ・恩恵』のたとえで、『寄らば大樹の陰』の『陰』と同じ使い方でしょうか(^^;)
つまり、『筑波山の陰』は、天皇が世に与える豊かな恵みを表す例えに使われている
これは、この古今和歌集に収められいる966番、1095番、1096番の歌において、
『筑波山に茂る木々の陰 = 身分の高い人からの庇護・恩恵』
とされているからのようで、多分、当時、つくばやま(筑波山)・つくばね(筑波嶺)をそのような意味を想起させる土地の名(歌枕)としてよく使われていて、古今和歌集に収録された歌以外にもそんな用例が多くあったのかもしれませんね。
なおこの後に続く文も見てみますと、
『陛下御宇于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。
淵変為瀬之声、寂々閇口、砂長為巌之頌、洋々満耳。思継既絶之風、欲興久廃之道』
『陛下の御宇今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵は筑波山の陰よりも茂し。
淵の変じて瀬となる声、寂々として口を閉ぢ、砂の長じて巌となる頌、洋々として耳に満てり。
既に絶えたる風を継がむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す』
紀貫之が書いた仮名序と、(醍醐)天皇を褒め讃えている点はのは同じですが、讃え方の表現が微妙に違う。
真名序のこの部分では、仮名序のように和歌について直接讃えているわけではありませんが、失われつつある良き歌を残したいという
この古今和歌集編纂への天皇の想い(そして編纂者の想い)を強く伝えていると私は感じます。
********
③ 古今和歌集 966番 宮路潔興
筑波嶺のこのもと毎に立ちぞよる春のみ山の蔭を恋つつ
宮道潔興(みやじのきよき)は、平安時代前期の官人・歌人。
(写真は筑波山梅林、2021年3月撮影)
古今和歌集では、この歌の前に、
『親王(みこの)宮の帯刀(たちはき)に侍りけるを、宮仕え仕う奉らずとて、解けて侍りける時に、よめる』
とあります。
文献1の注釈・解説によりますと、
親王宮: 春宮(皇太子)御所
帯刀: 皇太子護衛の帯刀舎人(たちはきのとねり)
筑波嶺: 中世注は「つくはね」ともしめす
春のみやま: 『春の宮』と『春の御山』を掛ける
つまり(文献2)によりますと、
『東宮警護の役だった宮道潔興は、勤務不良という理由で解職されてしまった時に読んだ歌』
とのことのよう(^^;)
で、その歌の意味は、
(文献1より、後に出てくる④1095番の常陸歌の句
『筑波嶺のこのもかのもに影はあれど』tと『君がみかげにますかげはなし』 を踏まえて)
(写真は同上)
『「筑波嶺のこのもかのもに影あれど」というその木のしたのあちこちに立ち寄っていております。春のみやま(=春宮様)の恩恵をお慕いしております』
つまり職を解かれた宮道さんが、仕えていた春宮(皇太子)の恩恵を忘れらずにいるのか、はたまた再び恩恵を承りたい(もう一度雇って欲しい)のか・・・そんな切ない気持ちを歌っているのでしょうか。
一見、恋の歌のように読んでしまうのは、現代人の浅はかさ・・・実は、職を解かれた悲しさ、切なさを歌っているのですね
上でも書きましたが、この宮道潔興の歌の下地になっているのが、次に見ていく1095番の歌(常陸歌)です。
********
④ 古今和歌集 常陸歌 1095番
『常陸歌』とは、常陸国の民衆が歌ってきた歌(歌謡)で、詠み人は不明です。
筑波嶺の このもかのもに 陰はあれど 君がみかげにますかげはなし
『このもかのもの』の『も』は、文献1によると『表面、方向の意の「おも」の略』とのこと。
(写真はつくばフォレストアドベンチャー 2021年3月上旬撮影)
意味は、文献1では、
『昔から名高いあの筑波山のこちら側にもあちら側にも「かげ」はあるけれど、「かげ」とは名ばかりのことで、あなた様の御面「影」にまさる「陰」はございません』
また文献2では、ちょっとニュアンスが違って、
『かげはあれど』: 木の蔭はいくらでもあるが
『きみがみかげ』: 君のみ恵みのかげ。君の御庇護
ちなみに文献3では、文献2とほぼ同じ解釈で、
『筑波嶺のこちらの斜面あちらの斜面に木陰は多いけれど、君(主君)御庇護にまさる蔭はありません』
なるほど~!
前述の966番の歌の下地にもなっている歌。
きっと、いろんな人が謡ってきたヒットソングだったのでしょう。
でも現代でも、
********
⑤ 古今和歌集 『常陸歌』 1096番 詠み人知らず
筑波嶺の 峰のもみぢ葉おちつもり 知るも知らぬもなべてかなしも
(写真は、筑波山ケーブルカー 宮脇駅付近。写真は2019年11月撮影)
文献1によると歌の意味は
『昔から名高いあのもみじの葉が落葉して積もっていて、秋はともかく『悲しい』ことではるが、それでもやはり、知っている葉も知らない葉も、すべてそれぞれにしみじみといとおしく思われることだなあ』
とし、更に
『(筆者註:他の歌の例から) 秋は悲しいものという前提でいうが、転じて「葉」が「御世」を暗示し、1095番を承けた御世御世の賛歌と解する。「おほやけ(朝廷・公)のあまねき御恵みの遠近なきにたとへたり」。もとは筑波山の嬥歌会(かがい)の歌とする説もある』
としています。
また文献2では、微妙に解釈が異なり、
『つくばねの峯のもみじばおちつもり』: 美しいものがたくさん集っているたとえ
『しるもしらぬもなべてかなしも』: している人も知らない人も、おしなべていったいにいとおしいなあ。
とのこと。
(写真は同上。2019年11月撮影)
こちらの歌も上の1095番の歌と同様、常陸歌で、詠み人知らず。
これも、平安時代初期の更に昔から常陸国の人々が折に触れ歌っていたらしい、ヒットソングですね。
それにしても 『もみじ葉』が何を指しているか、何を例えているのか…いろいろ想像が膨らみますが、
落ち葉は土に戻り、腐葉土となり、木々が育つ豊かな土壌になるわけで、『落ち葉』=『恩恵』という解釈は、しみじみと深いと思います。
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今回は、平安時代前期に編纂された『古今和歌集』に出てくる筑波山
つくばやま、つくばね
の歌や表現を見ていきました。
歌枕の地としての『つくばやま』『つくばね』は、
・天皇の世(=国の安泰)を願える聖地
・その恩恵の大きさ・豊かさの例えに使われた地
とされていたのが分かり、感動しています。
これ、本当にもっと宣伝すべきですよ、筑波山。
それにしても、現代でも使えそうな歌の数々。雅に気持ちを歌えるのに良さそうではありませんか
筑波山麓やその周辺にお住いの方、是非使ってみてはいかがでしょう♪
さて、次回は後撰和歌集に歌われる『筑波山』です。
百人一首に詠われるあの有名な歌の他にも、筑波山を歌った歌がありますし、こちらの「序」にも
「筑波の山」「筑波嶺」が出てきます(^^)v。
続きます。
→ 八代集に収められている筑波山の歌~ 【2】後撰和歌集にある筑波山
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【参考文献】
1. 『古今和歌集 新日本古典文学大系5』 岩波書店
2. 『古今和歌集 日本古典文學体系8』 岩波書店
3. 『鑑賞 第7巻 日本古典文學 古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集』 角川書店
4, 『八代集総索引 新日本古典文學体系 別巻』 岩波書店
5.『筑波誌 <筑波山神社版>』 杉山友章 著 崙書房
5には、筑波山を歌った歌・和歌が数多く紹介されています。
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9) 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
国立歴史民俗博物館 企画展 『陰陽師とは何者か』 を見て
映画『石岡タロー』
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9) 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
国立歴史民俗博物館 企画展 『陰陽師とは何者か』 を見て
映画『石岡タロー』
Posted by かるだ もん at 22:51│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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