蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議


筑波山南麓にある、蚕影山神社(蚕影神社 ※ここでは通称の『蚕影山神社』と呼びます)。
金色姫伝説が伝わる地です。

 豆電球前回までのお話
  → つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地 
金色姫伝説というのは、養蚕の始まりを伝える伝説です。
あらすじは、このページの最後にまとめました。

今回は、金色姫伝説をめぐり、蚕影山神社と、江戸時代まで蚕影山神社の近くにあった桑林寺について、注目していきます。


【謎:金色姫は蚕影山神社の祭神ではない?】

蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
階段を上がった所が、蚕影山神社 拝殿。(2016年8月撮影)

前回 にも書きましたが、蚕影山神社の主祭神は、
稚産霊神(わかみむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまびめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

この三柱の神様は、いずれも神道系の神様です。
稚産霊神と埴山姫命は養蚕の神様で、木花開耶姫命は、織物の神様とされています(文献2)。

しかし伝説が伝わる『金色姫』は祭神ではありませんびっくり

また、蚕影山神社(蚕影神社)の信者が作る『蚕影講』では、掛けられる姿絵の神様は『蚕影明神』とされますが、
その蚕影明神も、現在の蚕影山神社の祭神には入っていませんびっくり

・・・そのあたりのナゾは、今は無き桑林寺にありそうです。
考えていきましょう。


【金色姫伝説はいつ頃からあったのか】

文献1によると、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の
『廿八社略縁誌巻之二』の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、
祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあるそうで、
『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に
飛んで行かれた話が書かれています。
更に同書には、社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』を上げているとのこと。
 ※『太夫之宮』の跡、『船之宮』の祠は、前回の記事をご参照下さい。

すると少なくとも、1797年頃には、金色姫伝説と同様の話が、蚕影山神社には伝わっていたのははっきりしていますね。
ただあくまでも伝説であって、祭神ではないよう? 
そしてまた、『金色姫』という名もこの頃はなかった??(特に名づけられてなかった?)ようですね。

なお『蚕影山明神』については、更に古い安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』の『蚕養(こかひ)山』の項で、
蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』とあり、
船に乗って来た神人が残していった玉を、里人が『蚕影明神』として崇め祀ったと記されています。
(この話のあらすじも後述します)

いわゆる金色姫伝説とは違う話の伝説です。

そして、現在の蚕影山神社の祭神には入っていない『蚕影山明神/蚕影明神』の名は、この時、既にありますね豆電球
ところで、祭神三座(稚産霊命・埴山姫命・開耶姫命)と『蚕影明神』とは別の神様のように読めるのですが、どうなんでしょう??


【桑林寺とは?】

前回も書きましたが、蚕影山神社の近くに江戸時代まで、『桑林寺』という寺院がありました。
『蚕影山吉祥院』と号したそうです(文献1)。

桑林寺は蚕影山神社の神宮寺(神様を守り神社を管理する寺、別当とも)で、
いうなれば、桑林寺と蚕影山神社は、二つでワンセットということになります。
(江戸時代までの神仏混淆信仰の頃は、この形態は一般的な形でした)

蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議桑林寺は明治の時に、廃仏毀釈で廃寺となりました。
蚕影山神社から歩いて5分程度の所、館(たて)の集落の中に跡地があります。
跡地は今は竹林になっています。
(写真は 桑林寺跡地付近の竹林。2019年3月撮影)

江戸時代、桑林寺は、蚕影明神を養蚕の神として広く布教していったようです(文献1、2)

文献1によると、寛延四年(1751年)の資料より、桑林寺の創建は延宝(1673年~)年間以降から寛延元年(1748年)前後頃だろうとしています。
そして『18世紀後期、流布していた金色姫譚から蚕影神社縁起を創作したと考えられる』としています。

そして金色姫伝説を使って、蚕影山の蚕影明神を、蚕神として、布教していったようです。
そうして『金色姫=蚕影明神』になっていったのでしょう。

桑林寺は、江戸後期に『蚕影山縁起』を記し、更に内容が追加する形で、江戸末期 慶応元年(1865年)に『常州蚕影山略縁起』を記しています。
この慶応元年の『常州蚕影山略縁起』で、現在に伝わる金色姫伝説が完成したように思います。


【神様は混ざっていって・・・】

さて、養蚕に関わる信仰は複数の系統があり、大きく分けて、
・神道の蚕神
・仏教の蚕神
・民間信仰の蚕神

があります(文献1、2、3)。

どの信仰も共通なのは、
 1.蚕の生育祈願と良い絹が取れる祈願
 2.絹を得るために殺生したの蚕(さなぎ)の供養

側面があることです(文献1,2)。

特に、天候の影響(蚕の餌の桑の葉の生育に直結)や、ネズミの食害(蚕を食べてしまう)などにも合いやすく、養蚕は、管理も労力も大変にも関わらず不安定な労働。
だからこそ、ご利益がありそうな神や仏が習合したり、一緒に複数の神や仏をお祀りして祈る地域も多かったようです。

桑林寺は仏教の蚕神である『馬鳴(めみょう)菩薩』を本尊として取り入れていたらしい(文献2)とのこと。
桑林寺はお寺なので、仏教要素を入れて伝えたのは当然流れでしょう。

本来、菩薩に性別はないのですが、馬鳴菩薩は近世には女神として描かれることも多かったとのこと。
更に、養蚕に関わったのは主に農家の女性達だったので、女神や女性の姿の馬鳴菩薩がより信仰されていったようです(文献2,3)。

そして蚕影明神も、馬鳴菩薩の姿で描かれたり像が造られて、神仏混淆の形で各地で信仰が広まったいったようです。


【明治以降の蚕影山神社の興隆】

明治に入り、富国政策として外国との貿易が急速に発展し、絹糸、絹織物が日本の大きな輸出品となり、国内で養蚕業が大変盛んになっていきましたグッド
それに伴い、養蚕農家の中で、養蚕の神仏への信仰が盛んになっていきましたグッド

桑林寺は廃寺になりましたが、残った蚕影山神社(蚕影神社)は、関東甲信地域の養蚕を支える信仰の中心となり、分社もたくさん建立されました。
総本山の蚕影山神社も、昭和40年代頃までは参拝者が絶えなかった走ると云います。

蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
写真は、蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社。(2013年3月撮影)

 豆電球この蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社については、以前書いた記事も良かったら。
 → 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係! http://cardamom.tsukuba.ch/e300925.html


しかし、化学繊維が普及し始め、安価な中国産の絹が入ってきたため、国内の養蚕農家も激減し、
蚕影山神社への参拝者も減っていきました。
今は、とてもひっそりした静けさに包まれています四つ葉のクローバー

蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
写真は 養蚕の盛んな地域で今も続く繭玉。小正月の行事です。
つくば近郊では『ならせ餅』とも言います。
写真は2017年撮影の、2017個の巨大ならせ餅。 以下の記事もご参考まで♪
 豆電球どんど焼き と ならせ餅 2017







【なぜ蚕影神社と蚕影講の総本社 蚕影山神社に、蚕影明神像も金色姫像もないのか】

ここまで来て明らかなのは、やはり明治の廃仏毀釈で、桑林寺が廃寺になったのが大きいと思います。

『明神』というのは神仏習合の時代の 仏教的に呼んだ神の称号です。
神仏分離で、神社は仏教用語の『明神』を避けるようになりました。

ここ蚕影山山麓でも、桑林寺が廃寺となり、蚕影信仰の担い手は蚕影山神社になりました。
そうするとやはり、仏教系の『蚕影明神』の名はやはり言わなくなったのでしょう・・・ぶーっ

しかしながら民間の蚕影講では、昔から伝わっている蚕影明神の姿絵が祀られ(文献2,3,8)、一部の地方の蚕影神社にも、馬鳴菩薩に似た蚕影明神(金色姫)像(文献2)が信仰されているのだと思います。
つまり、各地の民間信仰では、蚕影明神(金色姫)信仰は、細々でも続いている!グッド

桑林寺が現存していたら、像なども残っていたでしょうが・・・う~ん、残念ですね泣

豆電球 金色姫=蚕影明神 の姿絵がご覧になりたい方は、下記の参考文献2,3,8 を ご参照下さい。 蚕影明神も含め、各地に伝わる蚕神の姿絵や像の写真があります。


********************


【金色姫伝説のあらすじ】

金色姫伝説は、いくつかのパターンがあり、同様の伝説が伝わっている地も国内で何か所かあります(文献1,2、3,4)。
が、金色姫の伝説の本拠地は筑波山麓の蚕影山とされるようです。

あらすじ:
 天竺の旧仲(きゅうちゅう)国のリンエ大王の娘の金色姫が、継母にいじめられ、4度の苦難に合う。
 不憫に思った王が、繭の形のような舟に乗せて海へ逃がし、その舟がついた地で権太夫(夫婦)に娘は育てられる。
 が、まもなくして金色姫は病気で死んでしまい、金色姫のなきがらは、絹糸を生む繭を作る白い虫になった。
 その虫を権太夫夫婦が育てる時に、虫の様子に変化があって困ると、夢枕に亡き金色姫が現れて知識を授けてくれ、虫を育てて繭を作ることが出来て、権太夫夫婦が養蚕の祖となる。
 その後、筑波山の影道仙人がやってきて、権太夫夫婦に、繭から糸を紡ぐ方法を教え、権太夫夫婦は金持ちになった。
 また、リンエ大王の娘が生まれ変わって欽明天皇の娘の各谷(かくや)姫となり、筑波山に飛んできて神衣を織り、また富士山に飛んでいった。

 ・『4度の苦難』=4回の脱皮   
 ・丸い舟に乗って海を渡る=繭
 ということで、蚕の一生を表しているのだそうです。


【蚕影山麓に伝わる別の伝説】

蚕影山神社には、いわゆる『金色姫伝説』とは違う系統の伝説も伝わります。

『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説(文献5)

 あらすじ:
 ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
 その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
 里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
 イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
 この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。


和気広虫(わけのひろむし)に関係する伝説(文献4)

  こちらはまた全く違う系統の話が伝わっています。
  和気広虫は、奈良時代、孝謙上皇に使えた女官で、和気清麻呂の姉。慈悲深く、たくさんの孤児を養育した人と伝わっています。
  和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託の事件で、孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛された道鏡に憎まれ、一度失脚し、姉の広虫も一緒に失脚します。
  が、その後二人とも復帰し、桓武天皇の時に重用されます。

  蚕影山には、その和気広虫その人の伝説というより、広虫に育てられた孤児が、瓦職人になって、蚕影山山麓の神郡に住んだ話が伝わります。

  あらすじ:
  広虫に育てられた孤児の一人が瓦職人になり、まず、新治郡カワラエ村に来て、(石岡の)国分寺や、北条 中台の寺の
  屋根瓦を焼く職人になりました。
  その後、神郡の娘を妻にし、神郡に住んで瓦を焼くようになりました。
  その職人は育ててくれた和気広虫を偲んで、近くの山の中に広虫の絵を祀って朝夕に拝んだので、子が影を拝むとのことで、
  その山は、こかげさん→蚕影山 と呼ばれるようになりました。

 豆電球 広虫伝説については、
 → 『筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説
で考察してみましたので、良かったら♪


********************


【おまけ:養蚕信仰の二大女神の中心は茨城県内に】

養蚕に関わる民間信仰で、茨城県内には大きな信仰の中心地が2つがありました。

桑林寺(=蚕影山神社・蚕影神社):蚕影明神(こかげみょうじん)
星福寺(=蚕霊神社(これいじんじゃ)):衣襲明神(きぬがさみょうじん)

ちなみに、衣襲明神も女神ですキラキラ

蚕影明神も衣襲明神も、寺による直接の布教活動の他、正月の縁起物(初絵)として配られたり、
蚕種(蚕の卵を産み付けた和紙)を売る業者が蚕の神仏の絵を一緒に配布したり、
薬売りの商人が、薬のおまけでそういった神仏の絵を配ったりしたそうで、
信仰が広まったようです(文献1,2,3)。

一種のアイドルや人気キャラクターのブロマイドみたいな感じでしょうか(こう書くと軽くなってしまいますが)。
しかもご利益があるかもしれない女神様のお姿。これは飾りたくなりますよねハート

関東甲信越地域の養蚕信仰の2大アイドル…いえ、二大女神(蚕影明神&衣襲明神)
の本拠地が二つとも茨城県にあるのは何か嬉しいです(^^)キラキラ

神栖の星福寺・蚕霊神社にも近いうちに行ってみたいです。

※また、もう一つ、日立市川尻の『養蚕(こかい)神社』を含む、常陸国の三つの蚕の神社と信仰については、
またあらためて書いていこうと思います。



***********************************
【参考文献】

1.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房

2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行

3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社

4.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター

5.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林

6. 『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行

7. 『筑波山麓フットパスマップ 神郡~六所~筑波』 マップ つくば市 発行

8.『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録





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