2020年03月21日
蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
蚕影山神社と桑林寺 ~金色姫伝説の不思議
筑波山南麓にある、蚕影山神社(蚕影神社 ※ここでは通称の『蚕影山神社』と呼びます)。
金色姫伝説が伝わる地です。
前回までのお話
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
金色姫伝説というのは、養蚕の始まりを伝える伝説です。
あらすじは、このページの最後にまとめました。
今回は、金色姫伝説をめぐり、蚕影山神社と、江戸時代まで蚕影山神社の近くにあった桑林寺について、注目していきます。
【謎:金色姫は蚕影山神社の祭神ではない?】
階段を上がった所が、蚕影山神社 拝殿。(2016年8月撮影)
前回 にも書きましたが、蚕影山神社の主祭神は、
稚産霊神(わかみむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまびめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
この三柱の神様は、いずれも神道系の神様です。
稚産霊神と埴山姫命は養蚕の神様で、木花開耶姫命は、織物の神様とされています(文献2)。
しかし伝説が伝わる『金色姫』は祭神ではありません。
また、蚕影山神社(蚕影神社)の信者が作る『蚕影講』では、掛けられる姿絵の神様は『蚕影明神』とされますが、
その蚕影明神も、現在の蚕影山神社の祭神には入っていません。
・・・そのあたりのナゾは、今は無き桑林寺にありそうです。
考えていきましょう。
【金色姫伝説はいつ頃からあったのか】
文献1によると、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の
『廿八社略縁誌巻之二』の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、
祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあるそうで、
『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に
飛んで行かれた話が書かれています。
更に同書には、社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』を上げているとのこと。
※『太夫之宮』の跡、『船之宮』の祠は、前回の記事をご参照下さい。
すると少なくとも、1797年頃には、金色姫伝説と同様の話が、蚕影山神社には伝わっていたのははっきりしていますね。
ただあくまでも伝説であって、祭神ではないよう?
そしてまた、『金色姫』という名もこの頃はなかった??(特に名づけられてなかった?)ようですね。
なお『蚕影山明神』については、更に古い安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』の『蚕養(こかひ)山』の項で、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』とあり、
船に乗って来た神人が残していった玉を、里人が『蚕影明神』として崇め祀ったと記されています。
(この話のあらすじも後述します)
いわゆる金色姫伝説とは違う話の伝説です。
そして、現在の蚕影山神社の祭神には入っていない『蚕影山明神/蚕影明神』の名は、この時、既にありますね。
ところで、祭神三座(稚産霊命・埴山姫命・開耶姫命)と『蚕影明神』とは別の神様のように読めるのですが、どうなんでしょう??
【桑林寺とは?】
前回も書きましたが、蚕影山神社の近くに江戸時代まで、『桑林寺』という寺院がありました。
『蚕影山吉祥院』と号したそうです(文献1)。
桑林寺は蚕影山神社の神宮寺(神様を守り神社を管理する寺、別当とも)で、
いうなれば、桑林寺と蚕影山神社は、二つでワンセットということになります。
(江戸時代までの神仏混淆信仰の頃は、この形態は一般的な形でした)
桑林寺は明治の時に、廃仏毀釈で廃寺となりました。
蚕影山神社から歩いて5分程度の所、館(たて)の集落の中に跡地があります。
跡地は今は竹林になっています。
(写真は 桑林寺跡地付近の竹林。2019年3月撮影)
江戸時代、桑林寺は、蚕影明神を養蚕の神として広く布教していったようです(文献1、2)
文献1によると、寛延四年(1751年)の資料より、桑林寺の創建は延宝(1673年~)年間以降から寛延元年(1748年)前後頃だろうとしています。
そして『18世紀後期、流布していた金色姫譚から蚕影神社縁起を創作したと考えられる』としています。
そして金色姫伝説を使って、蚕影山の蚕影明神を、蚕神として、布教していったようです。
そうして『金色姫=蚕影明神』になっていったのでしょう。
桑林寺は、江戸後期に『蚕影山縁起』を記し、更に内容が追加する形で、江戸末期 慶応元年(1865年)に『常州蚕影山略縁起』を記しています。
この慶応元年の『常州蚕影山略縁起』で、現在に伝わる金色姫伝説が完成したように思います。
【神様は混ざっていって・・・】
さて、養蚕に関わる信仰は複数の系統があり、大きく分けて、
・神道の蚕神
・仏教の蚕神
・民間信仰の蚕神
があります(文献1、2、3)。
どの信仰も共通なのは、
1.蚕の生育祈願と良い絹が取れる祈願
2.絹を得るために殺生したの蚕(さなぎ)の供養
側面があることです(文献1,2)。
特に、天候の影響(蚕の餌の桑の葉の生育に直結)や、ネズミの食害(蚕を食べてしまう)などにも合いやすく、養蚕は、管理も労力も大変にも関わらず不安定な労働。
だからこそ、ご利益がありそうな神や仏が習合したり、一緒に複数の神や仏をお祀りして祈る地域も多かったようです。
桑林寺は仏教の蚕神である『馬鳴(めみょう)菩薩』を本尊として取り入れていたらしい(文献2)とのこと。
桑林寺はお寺なので、仏教要素を入れて伝えたのは当然流れでしょう。
本来、菩薩に性別はないのですが、馬鳴菩薩は近世には女神として描かれることも多かったとのこと。
更に、養蚕に関わったのは主に農家の女性達だったので、女神や女性の姿の馬鳴菩薩がより信仰されていったようです(文献2,3)。
そして蚕影明神も、馬鳴菩薩の姿で描かれたり像が造られて、神仏混淆の形で各地で信仰が広まったいったようです。
【明治以降の蚕影山神社の興隆】
明治に入り、富国政策として外国との貿易が急速に発展し、絹糸、絹織物が日本の大きな輸出品となり、国内で養蚕業が大変盛んになっていきました。
それに伴い、養蚕農家の中で、養蚕の神仏への信仰が盛んになっていきました。
桑林寺は廃寺になりましたが、残った蚕影山神社(蚕影神社)は、関東甲信地域の養蚕を支える信仰の中心となり、分社もたくさん建立されました。
総本山の蚕影山神社も、昭和40年代頃までは参拝者が絶えなかったと云います。
写真は、蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社。(2013年3月撮影)
この蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社については、以前書いた記事も良かったら。
→ 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係! http://cardamom.tsukuba.ch/e300925.html
しかし、化学繊維が普及し始め、安価な中国産の絹が入ってきたため、国内の養蚕農家も激減し、
蚕影山神社への参拝者も減っていきました。
今は、とてもひっそりした静けさに包まれています。
写真は 養蚕の盛んな地域で今も続く繭玉。小正月の行事です。
つくば近郊では『ならせ餅』とも言います。
写真は2017年撮影の、2017個の巨大ならせ餅。 以下の記事もご参考まで♪
→ どんど焼き と ならせ餅 2017
【なぜ蚕影神社と蚕影講の総本社 蚕影山神社に、蚕影明神像も金色姫像もないのか】
ここまで来て明らかなのは、やはり明治の廃仏毀釈で、桑林寺が廃寺になったのが大きいと思います。
『明神』というのは神仏習合の時代の 仏教的に呼んだ神の称号です。
神仏分離で、神社は仏教用語の『明神』を避けるようになりました。
ここ蚕影山山麓でも、桑林寺が廃寺となり、蚕影信仰の担い手は蚕影山神社になりました。
そうするとやはり、仏教系の『蚕影明神』の名はやはり言わなくなったのでしょう・・・。
しかしながら民間の蚕影講では、昔から伝わっている蚕影明神の姿絵が祀られ(文献2,3,8)、一部の地方の蚕影神社にも、馬鳴菩薩に似た蚕影明神(金色姫)像(文献2)が信仰されているのだと思います。
つまり、各地の民間信仰では、蚕影明神(金色姫)信仰は、細々でも続いている!
桑林寺が現存していたら、像なども残っていたでしょうが・・・う~ん、残念ですね。
金色姫=蚕影明神 の姿絵がご覧になりたい方は、下記の参考文献2,3,8 を ご参照下さい。 蚕影明神も含め、各地に伝わる蚕神の姿絵や像の写真があります。
********************
【金色姫伝説のあらすじ】
★金色姫伝説は、いくつかのパターンがあり、同様の伝説が伝わっている地も国内で何か所かあります(文献1,2、3,4)。
が、金色姫の伝説の本拠地は筑波山麓の蚕影山とされるようです。
あらすじ:
天竺の旧仲(きゅうちゅう)国のリンエ大王の娘の金色姫が、継母にいじめられ、4度の苦難に合う。
不憫に思った王が、繭の形のような舟に乗せて海へ逃がし、その舟がついた地で権太夫(夫婦)に娘は育てられる。
が、まもなくして金色姫は病気で死んでしまい、金色姫のなきがらは、絹糸を生む繭を作る白い虫になった。
その虫を権太夫夫婦が育てる時に、虫の様子に変化があって困ると、夢枕に亡き金色姫が現れて知識を授けてくれ、虫を育てて繭を作ることが出来て、権太夫夫婦が養蚕の祖となる。
その後、筑波山の影道仙人がやってきて、権太夫夫婦に、繭から糸を紡ぐ方法を教え、権太夫夫婦は金持ちになった。
また、リンエ大王の娘が生まれ変わって欽明天皇の娘の各谷(かくや)姫となり、筑波山に飛んできて神衣を織り、また富士山に飛んでいった。
・『4度の苦難』=4回の脱皮
・丸い舟に乗って海を渡る=繭
ということで、蚕の一生を表しているのだそうです。
【蚕影山麓に伝わる別の伝説】
蚕影山神社には、いわゆる『金色姫伝説』とは違う系統の伝説も伝わります。
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説(文献5)
あらすじ:
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
★ 和気広虫(わけのひろむし)に関係する伝説(文献4)
こちらはまた全く違う系統の話が伝わっています。
和気広虫は、奈良時代、孝謙上皇に使えた女官で、和気清麻呂の姉。慈悲深く、たくさんの孤児を養育した人と伝わっています。
和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託の事件で、孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛された道鏡に憎まれ、一度失脚し、姉の広虫も一緒に失脚します。
が、その後二人とも復帰し、桓武天皇の時に重用されます。
蚕影山には、その和気広虫その人の伝説というより、広虫に育てられた孤児が、瓦職人になって、蚕影山山麓の神郡に住んだ話が伝わります。
あらすじ:
広虫に育てられた孤児の一人が瓦職人になり、まず、新治郡カワラエ村に来て、(石岡の)国分寺や、北条 中台の寺の
屋根瓦を焼く職人になりました。
その後、神郡の娘を妻にし、神郡に住んで瓦を焼くようになりました。
その職人は育ててくれた和気広虫を偲んで、近くの山の中に広虫の絵を祀って朝夕に拝んだので、子が影を拝むとのことで、
その山は、こかげさん→蚕影山 と呼ばれるようになりました。
広虫伝説については、
→ 『筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説』
で考察してみましたので、良かったら♪
********************
【おまけ:養蚕信仰の二大女神の中心は茨城県内に】
養蚕に関わる民間信仰で、茨城県内には大きな信仰の中心地が2つがありました。
桑林寺(=蚕影山神社・蚕影神社):蚕影明神(こかげみょうじん)
星福寺(=蚕霊神社(これいじんじゃ)):衣襲明神(きぬがさみょうじん)
ちなみに、衣襲明神も女神です。
蚕影明神も衣襲明神も、寺による直接の布教活動の他、正月の縁起物(初絵)として配られたり、
蚕種(蚕の卵を産み付けた和紙)を売る業者が蚕の神仏の絵を一緒に配布したり、
薬売りの商人が、薬のおまけでそういった神仏の絵を配ったりしたそうで、
信仰が広まったようです(文献1,2,3)。
一種のアイドルや人気キャラクターのブロマイドみたいな感じでしょうか(こう書くと軽くなってしまいますが)。
しかもご利益があるかもしれない女神様のお姿。これは飾りたくなりますよね。
関東甲信越地域の養蚕信仰の2大アイドル…いえ、二大女神(蚕影明神&衣襲明神)
の本拠地が二つとも茨城県にあるのは何か嬉しいです(^^)
神栖の星福寺・蚕霊神社にも近いうちに行ってみたいです。
※また、もう一つ、日立市川尻の『養蚕(こかい)神社』を含む、常陸国の三つの蚕の神社と信仰については、
またあらためて書いていこうと思います。
***********************************
【参考文献】
1.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
4.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
5.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
6. 『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
7. 『筑波山麓フットパスマップ 神郡~六所~筑波』 マップ つくば市 発行
8.『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
筑波山南麓にある、蚕影山神社(蚕影神社 ※ここでは通称の『蚕影山神社』と呼びます)。
金色姫伝説が伝わる地です。
前回までのお話
→ つくば市フットパス『筑波山麓』で訪ねる 金色姫伝説の地
金色姫伝説というのは、養蚕の始まりを伝える伝説です。
あらすじは、このページの最後にまとめました。
今回は、金色姫伝説をめぐり、蚕影山神社と、江戸時代まで蚕影山神社の近くにあった桑林寺について、注目していきます。
【謎:金色姫は蚕影山神社の祭神ではない?】
階段を上がった所が、蚕影山神社 拝殿。(2016年8月撮影)
前回 にも書きましたが、蚕影山神社の主祭神は、
稚産霊神(わかみむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまびめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
この三柱の神様は、いずれも神道系の神様です。
稚産霊神と埴山姫命は養蚕の神様で、木花開耶姫命は、織物の神様とされています(文献2)。
しかし伝説が伝わる『金色姫』は祭神ではありません。
また、蚕影山神社(蚕影神社)の信者が作る『蚕影講』では、掛けられる姿絵の神様は『蚕影明神』とされますが、
その蚕影明神も、現在の蚕影山神社の祭神には入っていません。
・・・そのあたりのナゾは、今は無き桑林寺にありそうです。
考えていきましょう。
【金色姫伝説はいつ頃からあったのか】
文献1によると、筑波に住む石井脩融の著で寛政九年(1797年)成立の
『廿八社略縁誌巻之二』の『山内摂社 蚕影山明神』の項に、
祭神三座(稚産霊命、埴山姫命、開耶姫命)とあるそうで、
『金色姫』の名はないものの、後世の金色姫伝説とほぼ同様の話と、欽明帝の皇女の各耶姫がこの地に来て養蚕を始めた後に富士山に
飛んで行かれた話が書かれています。
更に同書には、社地内摂社として、『太夫之宮』と『船之宮』を上げているとのこと。
※『太夫之宮』の跡、『船之宮』の祠は、前回の記事をご参照下さい。
すると少なくとも、1797年頃には、金色姫伝説と同様の話が、蚕影山神社には伝わっていたのははっきりしていますね。
ただあくまでも伝説であって、祭神ではないよう?
そしてまた、『金色姫』という名もこの頃はなかった??(特に名づけられてなかった?)ようですね。
なお『蚕影山明神』については、更に古い安永九年(1780年)刊『筑波山名跡誌』の『蚕養(こかひ)山』の項で、
『蚕養(こがひ)山 蚕影(こかげ)明神の社あり。日本養蚕の始といふ』とあり、
船に乗って来た神人が残していった玉を、里人が『蚕影明神』として崇め祀ったと記されています。
(この話のあらすじも後述します)
いわゆる金色姫伝説とは違う話の伝説です。
そして、現在の蚕影山神社の祭神には入っていない『蚕影山明神/蚕影明神』の名は、この時、既にありますね。
ところで、祭神三座(稚産霊命・埴山姫命・開耶姫命)と『蚕影明神』とは別の神様のように読めるのですが、どうなんでしょう??
【桑林寺とは?】
前回も書きましたが、蚕影山神社の近くに江戸時代まで、『桑林寺』という寺院がありました。
『蚕影山吉祥院』と号したそうです(文献1)。
桑林寺は蚕影山神社の神宮寺(神様を守り神社を管理する寺、別当とも)で、
いうなれば、桑林寺と蚕影山神社は、二つでワンセットということになります。
(江戸時代までの神仏混淆信仰の頃は、この形態は一般的な形でした)
桑林寺は明治の時に、廃仏毀釈で廃寺となりました。
蚕影山神社から歩いて5分程度の所、館(たて)の集落の中に跡地があります。
跡地は今は竹林になっています。
(写真は 桑林寺跡地付近の竹林。2019年3月撮影)
江戸時代、桑林寺は、蚕影明神を養蚕の神として広く布教していったようです(文献1、2)
文献1によると、寛延四年(1751年)の資料より、桑林寺の創建は延宝(1673年~)年間以降から寛延元年(1748年)前後頃だろうとしています。
そして『18世紀後期、流布していた金色姫譚から蚕影神社縁起を創作したと考えられる』としています。
そして金色姫伝説を使って、蚕影山の蚕影明神を、蚕神として、布教していったようです。
そうして『金色姫=蚕影明神』になっていったのでしょう。
桑林寺は、江戸後期に『蚕影山縁起』を記し、更に内容が追加する形で、江戸末期 慶応元年(1865年)に『常州蚕影山略縁起』を記しています。
この慶応元年の『常州蚕影山略縁起』で、現在に伝わる金色姫伝説が完成したように思います。
【神様は混ざっていって・・・】
さて、養蚕に関わる信仰は複数の系統があり、大きく分けて、
・神道の蚕神
・仏教の蚕神
・民間信仰の蚕神
があります(文献1、2、3)。
どの信仰も共通なのは、
1.蚕の生育祈願と良い絹が取れる祈願
2.絹を得るために殺生したの蚕(さなぎ)の供養
側面があることです(文献1,2)。
特に、天候の影響(蚕の餌の桑の葉の生育に直結)や、ネズミの食害(蚕を食べてしまう)などにも合いやすく、養蚕は、管理も労力も大変にも関わらず不安定な労働。
だからこそ、ご利益がありそうな神や仏が習合したり、一緒に複数の神や仏をお祀りして祈る地域も多かったようです。
桑林寺は仏教の蚕神である『馬鳴(めみょう)菩薩』を本尊として取り入れていたらしい(文献2)とのこと。
桑林寺はお寺なので、仏教要素を入れて伝えたのは当然流れでしょう。
本来、菩薩に性別はないのですが、馬鳴菩薩は近世には女神として描かれることも多かったとのこと。
更に、養蚕に関わったのは主に農家の女性達だったので、女神や女性の姿の馬鳴菩薩がより信仰されていったようです(文献2,3)。
そして蚕影明神も、馬鳴菩薩の姿で描かれたり像が造られて、神仏混淆の形で各地で信仰が広まったいったようです。
【明治以降の蚕影山神社の興隆】
明治に入り、富国政策として外国との貿易が急速に発展し、絹糸、絹織物が日本の大きな輸出品となり、国内で養蚕業が大変盛んになっていきました。
それに伴い、養蚕農家の中で、養蚕の神仏への信仰が盛んになっていきました。
桑林寺は廃寺になりましたが、残った蚕影山神社(蚕影神社)は、関東甲信地域の養蚕を支える信仰の中心となり、分社もたくさん建立されました。
総本山の蚕影山神社も、昭和40年代頃までは参拝者が絶えなかったと云います。
写真は、蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社。(2013年3月撮影)
この蚕影山神社の分社の一つ、東京の立川市にある蚕影神社については、以前書いた記事も良かったら。
→ 東京・立川の『猫返し神社』と筑波山麓の関係! http://cardamom.tsukuba.ch/e300925.html
しかし、化学繊維が普及し始め、安価な中国産の絹が入ってきたため、国内の養蚕農家も激減し、
蚕影山神社への参拝者も減っていきました。
今は、とてもひっそりした静けさに包まれています。
写真は 養蚕の盛んな地域で今も続く繭玉。小正月の行事です。
つくば近郊では『ならせ餅』とも言います。
写真は2017年撮影の、2017個の巨大ならせ餅。 以下の記事もご参考まで♪
→ どんど焼き と ならせ餅 2017
【なぜ蚕影神社と蚕影講の総本社 蚕影山神社に、蚕影明神像も金色姫像もないのか】
ここまで来て明らかなのは、やはり明治の廃仏毀釈で、桑林寺が廃寺になったのが大きいと思います。
『明神』というのは神仏習合の時代の 仏教的に呼んだ神の称号です。
神仏分離で、神社は仏教用語の『明神』を避けるようになりました。
ここ蚕影山山麓でも、桑林寺が廃寺となり、蚕影信仰の担い手は蚕影山神社になりました。
そうするとやはり、仏教系の『蚕影明神』の名はやはり言わなくなったのでしょう・・・。
しかしながら民間の蚕影講では、昔から伝わっている蚕影明神の姿絵が祀られ(文献2,3,8)、一部の地方の蚕影神社にも、馬鳴菩薩に似た蚕影明神(金色姫)像(文献2)が信仰されているのだと思います。
つまり、各地の民間信仰では、蚕影明神(金色姫)信仰は、細々でも続いている!
桑林寺が現存していたら、像なども残っていたでしょうが・・・う~ん、残念ですね。
金色姫=蚕影明神 の姿絵がご覧になりたい方は、下記の参考文献2,3,8 を ご参照下さい。 蚕影明神も含め、各地に伝わる蚕神の姿絵や像の写真があります。
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【金色姫伝説のあらすじ】
★金色姫伝説は、いくつかのパターンがあり、同様の伝説が伝わっている地も国内で何か所かあります(文献1,2、3,4)。
が、金色姫の伝説の本拠地は筑波山麓の蚕影山とされるようです。
あらすじ:
天竺の旧仲(きゅうちゅう)国のリンエ大王の娘の金色姫が、継母にいじめられ、4度の苦難に合う。
不憫に思った王が、繭の形のような舟に乗せて海へ逃がし、その舟がついた地で権太夫(夫婦)に娘は育てられる。
が、まもなくして金色姫は病気で死んでしまい、金色姫のなきがらは、絹糸を生む繭を作る白い虫になった。
その虫を権太夫夫婦が育てる時に、虫の様子に変化があって困ると、夢枕に亡き金色姫が現れて知識を授けてくれ、虫を育てて繭を作ることが出来て、権太夫夫婦が養蚕の祖となる。
その後、筑波山の影道仙人がやってきて、権太夫夫婦に、繭から糸を紡ぐ方法を教え、権太夫夫婦は金持ちになった。
また、リンエ大王の娘が生まれ変わって欽明天皇の娘の各谷(かくや)姫となり、筑波山に飛んできて神衣を織り、また富士山に飛んでいった。
・『4度の苦難』=4回の脱皮
・丸い舟に乗って海を渡る=繭
ということで、蚕の一生を表しているのだそうです。
【蚕影山麓に伝わる別の伝説】
蚕影山神社には、いわゆる『金色姫伝説』とは違う系統の伝説も伝わります。
★『筑波山名跡誌』(1772年~1781年頃)に書かれた伝説(文献5)
あらすじ:
ある時、神人が船に乗って来た。数日、この山で遊んでから、1つの宝玉を残して去った。
その玉は昼も夜も輝き渡り、光が及る所には蚕と桑が生じた。
里人達は悦んで、玉を蚕影明神として、崇め祀った。今もこの近隣の国で養蚕する者で、この神に祈らない者はいない。
イザナギノミコトの御子は、カグツチノカミハニヤマビメを娶られ、ワカムスビノミコトをお産みなった。
この神の頭に蚕と桑を生じたと神代巻にある。この山に出現した宝玉はそのワカムスビノミコトの神魂である。
★ 和気広虫(わけのひろむし)に関係する伝説(文献4)
こちらはまた全く違う系統の話が伝わっています。
和気広虫は、奈良時代、孝謙上皇に使えた女官で、和気清麻呂の姉。慈悲深く、たくさんの孤児を養育した人と伝わっています。
和気清麻呂は、宇佐八幡宮の神託の事件で、孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛された道鏡に憎まれ、一度失脚し、姉の広虫も一緒に失脚します。
が、その後二人とも復帰し、桓武天皇の時に重用されます。
蚕影山には、その和気広虫その人の伝説というより、広虫に育てられた孤児が、瓦職人になって、蚕影山山麓の神郡に住んだ話が伝わります。
あらすじ:
広虫に育てられた孤児の一人が瓦職人になり、まず、新治郡カワラエ村に来て、(石岡の)国分寺や、北条 中台の寺の
屋根瓦を焼く職人になりました。
その後、神郡の娘を妻にし、神郡に住んで瓦を焼くようになりました。
その職人は育ててくれた和気広虫を偲んで、近くの山の中に広虫の絵を祀って朝夕に拝んだので、子が影を拝むとのことで、
その山は、こかげさん→蚕影山 と呼ばれるようになりました。
広虫伝説については、
→ 『筑波山麓を舞台にした古代の民衆ドラマ!蚕影山の「和気広虫」伝説』
で考察してみましたので、良かったら♪
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【おまけ:養蚕信仰の二大女神の中心は茨城県内に】
養蚕に関わる民間信仰で、茨城県内には大きな信仰の中心地が2つがありました。
桑林寺(=蚕影山神社・蚕影神社):蚕影明神(こかげみょうじん)
星福寺(=蚕霊神社(これいじんじゃ)):衣襲明神(きぬがさみょうじん)
ちなみに、衣襲明神も女神です。
蚕影明神も衣襲明神も、寺による直接の布教活動の他、正月の縁起物(初絵)として配られたり、
蚕種(蚕の卵を産み付けた和紙)を売る業者が蚕の神仏の絵を一緒に配布したり、
薬売りの商人が、薬のおまけでそういった神仏の絵を配ったりしたそうで、
信仰が広まったようです(文献1,2,3)。
一種のアイドルや人気キャラクターのブロマイドみたいな感じでしょうか(こう書くと軽くなってしまいますが)。
しかもご利益があるかもしれない女神様のお姿。これは飾りたくなりますよね。
関東甲信越地域の養蚕信仰の2大アイドル…いえ、二大女神(蚕影明神&衣襲明神)
の本拠地が二つとも茨城県にあるのは何か嬉しいです(^^)
神栖の星福寺・蚕霊神社にも近いうちに行ってみたいです。
※また、もう一つ、日立市川尻の『養蚕(こかい)神社』を含む、常陸国の三つの蚕の神社と信仰については、
またあらためて書いていこうと思います。
***********************************
【参考文献】
1.『つくば市蚕影神社の養蚕信仰』近江礼子 著 常総の歴史第44号 崙書房
2.『養蚕の神々 繭の郷で育まれた信仰』 安中市ふるさと学習館 編集・発行
3.『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏 著 晶文社
4.『筑波歴史散歩』宮本宣一 著 日経事業出版センター
5.『筑波山名跡誌 -安永期の貴重な地誌再現-』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説 筑波書林
6. 『筑波町史 資料編 第5篇(社寺篇)』 つくば市教育委員会 発行
7. 『筑波山麓フットパスマップ 神郡~六所~筑波』 マップ つくば市 発行
8.『筑波山-神と仏の御座す山-』 茨城県立歴史館 企画展図録
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (三)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9) 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
国立歴史民俗博物館 企画展 『陰陽師とは何者か』 を見て
映画『石岡タロー』
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (二)
落語『紋三郎稲荷』 の舞台を訪ねて (一)
茨城3つの養蚕信仰の聖地について(9) 地元の方から教えて頂いた神栖に伝わるお話
国立歴史民俗博物館 企画展 『陰陽師とは何者か』 を見て
映画『石岡タロー』
Posted by かるだ もん at 22:00│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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