宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)


『宇治拾遺物語』(文献1)のなかの説話の一つ『伯ノ母ノ事』に登場する『多気大夫』。

『多気大夫』は、常陸平氏の本家の祖、平維幹(これもと)
または、その息子の 平為幹(ためもと)
と考えられています(文献2,3)。

いずれも、平安後期、現在のつくば市の水守や多気(北条)を拠点としていました。

この物語のあらすじと、『多気大夫』については、前回の記事
 → 宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (前編)

をご覧下さいちょき


さて、物語にいろいろツッコミを入れながら、舞台と背景を考えてみるのは楽しいものです。

そこで後編では、妄想の翼を広げながら(笑)、さらに突っ込んで、物語の舞台となった土地と歴史的背景を考えてみます。


【1.大姫をさらったのか、財力にあかせて連れてきたのか】

まず、一目ぼれしたお姫様をさらって故郷に連れて行こう!というのは大胆ですが、
連れ去られた大姫の父親、高階成順(なりのぶ)は、特に手は打っていないようです。

乳母もお金を受け取って協力し、一緒に常陸国に行っている。

思うに、お金を受け取ったからといって乳母の一存で、大姫をさらわせたとは思えません。
自分も一緒に常陸国に行ってますし、多分他のお付きの人たちも一緒に行ったのではないでしょうか。

京の都から常陸国。京都から茨城県ですよ。
車や新幹線で移動するとのは訳が違う。

連れ去られたことが分かった時点で、捜索されて、遠くに行かないうちに多気の大夫は捕まり、
大姫や乳母達は連れ戻されたはずですが、どうもそういうこともやらなかった様子。

おそらく乳母は、多気の大夫から話があってお金も受け取った時点で、
大姫の両親(物語では越前守=高階成順と、伊勢の大輔)に相談したのではないでしょうか豆電球

そして、家族も乳母を通してお金を受取り、結婚を了承したのではないでしょうか。

『娘はたくさんいた』のだし、多分中級貴族で生活はそれほど豊かではなかったでしょうし、
当時は娘の意志などないですから、お金を積まれて了承したことも十分あり得ると思います。

平維幹も息子の為幹も、身分は『大夫』。
大夫とは五位の位を持つ身分で、平安後期は、五位以上は昇殿を許された殿上人だそう(wikipediaより)。
そして、草深く、都からひどく遠い常陸国出身とはいえ、その地に広大な資産を持つ。

娘の一人の婚姻相手としては、平維幹もしくは為幹は、悪くなかったキラキラのではないでしょうか。

この物語の題名は『伯母事』で、大姫の妹『伯の母』から見た・体験した話となっています。
なので『事件』の当時、ティーンエイジャーだったであろう妹(伯の母)は、
事情を知らず『姉は連れ去られた』と思っていて、そう語ったのかもしれません。

もしくは、高階家では、世間の手前、略奪婚のように語ったのかもしれませんし、
逆に世間がスキャンダル的に面白おかしく噂したのが記録されたのかもしれませんね。

また、大姫と多気の大夫の間に生まれたであろう二人の娘たちが、
京に帰る叔母さん(伯の母)夫妻(=常陸国の国司夫妻)が帰る時に、膨大な贈り物をしたとしています。

これもやはり現実は、
『(娘たちを通して)大夫で地元有力者である平維幹/為幹が、国司に沢山の貢物をした』
と考えるのが自然でしょう。


【2.贈り物にした馬を飼育していた牧場はどこか】

膨大な資産を持っていた、多気大夫こと平維幹/為幹。

その財源はなんだったのか。
まず、大量の名馬や運搬の馬をすぐに揃えられるということは、広大な馬の牧場を所有していたと考えられます。

事実、平維幹・為幹は、『南野牧』という広大な土地を所有していました(文献2,3)。

南野牧は、現在のかすみがうら市、土浦市北部、つくば市東部を含むエリアとのこと。
『牧』は馬の放牧をしていた牧場
自分の土地の特産品である馬をたくさん贈ったわけですキラキラ

平維幹・為幹をはじめ常陸平氏は、特産の馬や絹を中央の貴族に贈る等、関係を築いて、官位をもらっていたようです(文献2,3)。
当時は権力のある人に貢物をして、コネを作りをして、官位をもらったり便宜を図ってもらうのが常(というか、それが手腕の見せ所?)。

しかし、人々に語られ続け、『宇治拾遺物語』にまでも書かれているのは、やはり常識破りのびっくり! 相当な贈り物だったようですね。

馬が積んでいた皮子(皮を張った蓋つきの籠だそうです)には何が入っていたのでしょう?

多分、特産の絹を使った織物などもあったことでしょうハート
海(当時の霞ヶ浦は内海)にも面したエリアなので、保存の利く塩、海藻、魚の干物もあったかもしれませんグッド

さすが古代から『常陸国風土記』で書かれているくらい海の幸、山の幸が豊富なエリア!キラキラ

ちなみに文献3によると、平維幹・為幹の頃の常陸平氏は、
常陸介(常陸国の国司)を凌ぐほどの力を持っていたグッドとのこと。

そして、そこまでの大量の贈り物を渡しても、その娘たちは、特に大したことをした風でもなかったという記述。
娘たちは謙虚だったのかもしれませんが、逆に、沢山の馬もその他の贈り物も、
娘達には大して珍しいものではなかったのかも?
…でしたら、すごい!びっくり


【3.姫たちが叔母さん夫妻を訪ねた道】

平維幹は、当初、水守(現在のつくば市水守)に居を構えていたそうですから、
娘たちも、水守か多気(北条)付近に住んでいたことでしょう。

いずれにしても筑波山南麓。
そして桜川が近いです。

宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
水守城跡付近から筑波山を望む(2019年7月撮影)

写真左の丘に「水守城跡」石碑があります。







宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
太田橋から見た桜川(2019年7月撮影)

太田橋は、水守よりやや下流、小田に近い辺りにかかる橋。




では、二人の娘たちや、大量の馬と物品は、水守もしくは多気から、どのルートで国府(現在の石岡市府中)に行ったのでしょうか。

私の素人考えのルートは3案

<ルート1> 山越えルート
     水守 → 桜川を渡って、筑波山系の峠を越えて(風返し峠?不動峠?)
→ 石岡市八郷付近
      → 国府(石岡市府中)


<ルート2> 平地の陸路ルート
      水守 → 桜川を渡って、陸路で筑波山系(宝篋山、東城寺のある山、雪入山など)の麓を
      南から東に迂回する道(その後の『鎌倉街道小田城線』 文献 )を通って→ 国府(石岡市府中)    
      ※ もしくは 官道(古東海道)に出て、そこから一路 国府へ

<ルート3> 水運を使うルート
     <ルート 3A> 桜川と官道を使う
            水守 → 桜川で筏、もしく舟に乗って、現在の土浦市 付近まで移動。
            → 官道(古東海道)とクロスする当たりで陸に上がる。 
            → 官道(古東海道)で一路 国府へ。

     <ルート3B> 桜川から内海(現在の霞ヶ浦)を使う
            水守 → 桜川で筏、もしく舟に乗って、内海(霞ケ浦)に出る。 
            → 歩崎(かすみがうら市)を回って、高浜(石岡市)で上陸
            → 陸路で国府(石岡市府中)へ。

 
 【① 馬や物品を運んだルートは?】

全部で220頭の馬!うち200頭の馬には皮子で沢山の贈り物を運んでいる!
想像を絶する大量輸送なわけで、そうすると、

・平維幹の娘たちは、その馬や荷物と一緒に国府まで行ったのか?
・それとも、お姫様たちは荷物とは別に(身軽に)国府まで行き、馬と荷物は別の場所から届けらたのか?
・別の場所からだとすると、馬や荷物はどの地から届けられたのか?
・資産家の娘二人は徒歩で行ったのか?牛車に乗るか、輿に乗ったのではないか?

…そのあたりが、どうしても気になりませんか?


まず、220頭の馬は山越えさせないですよね。足を折る危険性大ですし、労力は想像を絶する。

馬の産地(南野牧=今のかすみがうら市、土浦市、つくば市南東部)は平地ですし、国府に近いですから、
馬はそこから直接連れていったと考えるのが一番自然。

計200頭の運搬用の馬の『皮子』に入れたものも、運ぶもののよって馬をグループ分けして、
例えば絹織物を積んで筑波山南麓を出発したグループがあったり、
霞ケ浦(当時は海)の塩や干した海産物を霞ヶ浦沿岸から出発したグループもあったのでは? 
…とイメージが膨らみます。


【② 大夫の二人の娘達が使ったルートは?】

さて、二人のお姫様達のルートはどうでしょう。

<ルート1>
まず、<ルート1> の山越えはしたかどうか。
当時は徒歩が普通でしょうから、お姫様といえども、たくましく徒歩で山越えしたか?
山道は、輿も難しそうですし、何といっても、山賊も出そう。


<ルート2>
それに対し、筑波山系を南に迂回して平地を通る <ルート2> は、領地である南野牧を通ります。
この辺りは中世の城跡も点在しますが、それより前の平安時代も、それなりの館なり詰所的な所はあったのではないでしょうか。
つまり配下の者たちが住んでいたり待機している土地。

または、途中からは古代の東海道を通って一路国府(現在の石岡市街地)へ(文献5)。
お姫様も一行も安心して行けそうです。
しかも平坦な土地を行くので、輿や牛車でもで行けそう。


<ルート3>
水路を使う <ルート3> の可能性もあります(文献6、7)。

人だけなら、桜川と官道の組み合わせた<ルート3A>

一緒に行く荷物が多いなら、運搬量も多く運べるので、大量の贈り物と一緒に、石岡近くの高浜の港まで行けます。

そこで、隣接する南野牧から連れてきて待機させていた大量の馬に、『皮子に入れる贈り物に数々』載せて、
一路、石岡(国府)へ。

時代が下った中世のころ、霞ケ浦沿岸には『海夫』と呼ばれる有力者で水上運搬・警備の専門集団が点在していたそうです(文献6、7)。
平維幹・為幹のいた平安後期もすでに、その前駆的な有力者はいたでしょうし、配下の者もいたことでしょう。

速くて大量運搬のできる水運を使った可能性は大きいように思います。
水路だと歩かなくて良いので、お姫様にも楽々。

宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
霞ケ浦の上から筑波山方面を望む(2015年5月撮影)










宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
高浜にある高浜神社(2019年7月撮影)
国府からも近く、古くは鹿島神宮への遥拝所だったとのこと。
藁葺き屋根の社殿が古風です。







宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
高浜付近、高瀬川から筑波山方面を見る(2019年7月撮影)
写真では、曇っていて、筑波山は方面は雲に覆われているのが残念。

今は高瀬川の河口付近ですが、物語当時は内海がもっと内陸まで入り込んでいて、この辺りも入り江だったようです。


以上をまとめると、私の素人考えですが、考えられるルートは、

① 海産物の皮子を背負った馬も含め、馬たちは、
  南野牧(現在のかすみがうら市、土浦市北部、つくば市東部付近)から直接、国府(現在の石岡市)へ。


② 二人の娘たちが使ったルートは、贈り物の一部(絹織物等?)と一緒に、
<ルート2>もしくは、<ルート3A><ルート3> 
 

ではないかと考えます。
特に<ルート3A>の可能性が大きい気がしています。

専門家の意見が是非聞きたい♪


【4.筑波郡衙と常陸平氏の関係】

北条に隣接した平沢には、筑波郡衙に比定される平沢官衙遺跡があります。
奈良時代~平安後期の遺跡とのこと。

平安後期は、まさに維幹・為幹のいた時代。
するとやはり土地の有力者、維幹・為幹をはじめとする常陸平氏と筑波郡衙の関係が、気になります。

文献2、3 によると、やはり平安後期ごろは、常陸平氏が郡司として、筑波郡衙に関わっていたようです。

平維幹が郡衙に関わっていたとなると、水守から今の北条の地に居を移した経緯も、
郡衙(平沢官衙)の近くに移動したと考えられますし、いろいろ興味は尽きません。


宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
写真は、筑波郡衙跡と推定されている、平沢官衙遺跡(2018年4月撮影)
平沢官衙遺跡は、筑波郡衙の正倉跡と考えられるとのこと(文献3)









【5.合計220頭の馬を京都まで運んだのか!???】

それにしても、合計220頭の馬とそれに載せられた膨大の贈り物(特産の絹もあったことでしょう)を贈られて、
国司夫妻はどうやって京まで運んだのか?

実は、これが一番の疑問!

もらった方は、実は途方にくれたのではないでしょうか?
京都まで戻る道中、馬の世話をする人手、エサ等、どうするのでしょう??
もしかして、馬の運輸や世話にかかる人手も費用も警備も、全部込みだった…としたら、すごい。

でも思うに、素人考えですが、馬も、馬に積まれた贈り物も、全部私物にしたのではなく、一部をもらったとしても、多くは、国府に置いたり、
街道の駅家等に配備したり、国内の有力者に渡したりしたのではないかなと思います。

つまり今の感覚でいえば、平維幹もしくは為幹は、管内の営業所に置く車や、必要経費(物品)を、寄付してくれたということ。

物語最後の方で、常陸守(伯の母の夫)が語ったとされるセリフ

『ありける常陸四年があひだの物はなにならず。
そのかはごの物どもしてこそよろづのくどくもなにもし給ひけれ。
ゆゝしかりける物共の心のおほきさひろさかな』

にある『功徳』はそういうことを言っているのではないでしょうか。

この辺りの考察は、いずれ気が向いた時でも、調べてみたいです。
(これも大変奥が深そう)



【おまけ】

宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
ところで、日向廃寺跡に近い住宅地の一角に、『多気太郎』墓と伝えられる五輪塔があります。
(写真は2019年6月撮影)

この『多気太郎』さんは、今まで見てきた多気大夫こと平維幹から時代が下って、六代後の平義幹を指すとのこと(文献2,3)。
時代は鎌倉時代初頭。







宇治拾遺物語と筑波山麓 ~ 多気の大夫 (後編)
今も現存する北条の裏堀は、義幹によるものと伝わります。
(写真は2019年6月撮影)

この堀が「農業用水」だったのか、城のある多気山の麓ゆえに堀だったのか、意見が分かれるようです。
ただ、この堀を掘ったことや、源頼朝による富士山麓の巻狩りに参加せずに城に一族で籠ったことで、八田知家(小田氏の祖)
によって、源頼朝に讒言され、平義幹は失脚し、常陸平氏本宗は没落してしまいます。

猛きものもついには滅びぬ…これは、『平家物語』の有名な言葉ですが、同じ平氏の平維幹の流れにとっても同様だったようです。


そしてこの筑波山南麓を含む広いエリアには、今度は小田氏が台頭してきます。
小田氏の居城は、北条よりやや南の小田。
どちらもつくば市内です。

 その小田城跡については以前書いた記事がありますので、よかったら♪
  → “ 小田城跡歴史ひろば ” の歩き方(入門編)


筑波山麓にあった兵どもが夢の跡、
水守城(営所?)跡
日向廃寺跡
平沢官衙遺跡
小田の小田城跡


夢の跡を訪ねる旅も、おすすめです(^^)v。


【さらにおまけ】

『伯の母』の呼び名のもとになった、その息子の神祇伯康資王。
以下、全部wikipediaからの情報ですが、
神祇伯というのは、日本の律令官制における神祇官の長官。
『伯の母』は常陸守となる夫の前に、神祇伯の延信(のぶざね)王という人に嫁ぎ、康資王を生んでいます。
康資王はやはり神祇伯を継いでいます(そのお母さんだから『伯の母』)。

代々の神祇伯が司っていたのが、皇室の祭祀。なので『伯家神道』と呼ばれ、白川家によって
受け継がれたので『白川神道』とも呼ばれるそう。

この『白川家』というキーワードに注目。

明治の廃仏毀釈の時に廃された筑波山知足院中禅寺の跡地に建立されたのが、筑波山神社。

明治2年9月(1869)、その筑波山神社の祭主に神祗大副伯の実弟白川資義が任じられています。
(筑波山神社HPより)

つまり、平安後期に生きた『伯の母』。
その姪たちが暮らした、筑波山を近くに仰ぐ水守や、筑波山麓にある多気(北条)。
『伯の母』は常陸国府(石岡)に四年暮らしたこともある。石岡もまた筑波山を仰ぐ地。

『伯の母』の息子の神祇伯康資王は、直接筑波山エリアには関係はないようですが、
その子孫のお一人が、時代がぐっと下り明治の世になった時に、
筑波山に新たに建立された神社の祭主になっておられる。

これも歴史の面白さかもしれません笑



***********************************
【参考文献】

1. 『宇治拾遺物語』  中島悦次 校注 角川ソフィア文庫

2. 『茨城県史 原始古代編』 茨城県史編集委員会 監修

3. 『筑波町史 上巻』 筑波町史編纂専門委員会 編集

4. 「里の国の中世: 常陸・北下総の歴史世界」 網野 善彦 著 平凡社ライブラリー

5. 「第12回特別展 古代のみち-常陸を通る東海道駅路-」 上高津貝塚ふるさと歴史の広場

6. 「中世関東の内海世界」 鈴木哲雄 著 岩田書院

7. 「常総 内海の中世 地域権力と水運の展開」 千野原靖方 著 崙書房出版

8. 「続 図説 茨城の城郭」 茨城城郭研究会 図書刊行会























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