シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」(5)観流庵(前編)


新年 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて2018年の最初は、江戸中期の”ガイドブック” 『筑波山名跡誌』(上生菴亮盛 著)(文献1)に書かれた名所・旧跡を訪ね、興味のおもむくまま♪ 関連する話題も調べるシリーズからです。
(筑波山名跡誌に記載されている順ではありませんので、その点、ご了承ください)


今までのお話
豆電球シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1)常陸帯宮(前編)
豆電球シリーズ『筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて』 (1) 常陸帯宮(後編)
豆電球 シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (2) 男女川(水源)
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (3)夫女之原、夫女石
豆電球シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」 (4)亀之岳
  

第5回は、観流庵』があった場所について、2回に分けて推理していきます。


さて個人的に、『筑波山名跡誌』の『観流庵』の項の文章が好きですハート
『筑波山名跡誌』の著者 上生庵亮盛は中禅寺の僧侶だったそうなので、この『観流庵』について、より想いを深くして綴ったように感じます。

で、今回は『観流庵』の場所を考えてみます。

『筑波山名跡誌』の『観流庵』の項に、
中禅寺(現在の筑波山神社)から『西へ十町ほどの帚谷』にある男女川の流れに挟まれた場所に、
その昔、庵があったという話が記載されています。

しかし著者の上生庵亮盛が直接見聞きしたことではなく、さらに昔の文献『宗祇諸国物語』の記述を引用して書かれています。

引用されている『宗祇諸国物語』に出てくる宗祇法師という人は、コトバンク(https://kotobank.jp/)の諸解説を見ると、生年1421年~没年1502年の室町時代後期の連歌師とのことで、『宗祇諸国物語』自体は、時代がずっと下って、江戸前期 貞享二年(1685年)に西村市郎右衛門という人(版元)が刊行したものとのこと。

『筑波山名跡誌』は安永九年(1780年)に刊行されていますので、筑波山名跡誌は、100年近く前に刊行された『宗祇諸国物語』を引用していることになりますねびっくり

『宗祇諸国物語』刊行以前に、宗祇法師が書き残したものがあったのかどうか、あったとしても、それを下敷きにしたリメイク版なのかどうかは不明です。
しかし多分、元々は1400年代後半の頃に、宗祇法師が書いた原本のようなものがあったのだろうと、想像します。


【観流庵とは】

その『観流庵』の話のあらすじですが、

宗祇法師が、そこを訪ねたとき、庵に一人の修行僧がじっと座禅をしている姿を見るところから始まります。
庵の佇まいや、じっと同じ姿勢で動かず座っている姿に感銘を受けて近づいてみると、その修行僧は座禅したまま亡くなっていたのでした。
その周りには、折々に想いを綴った歌などが書かれた紙もあり、その真摯な修行の様子やその想いに感じ入りながら、埋葬した


という話が書かれています。

その修行僧は、残された歌の表現から、隠岐(現在の島根県隠岐島)の出身ということが分かったということも書かれています。


【観流庵はどこにあったか】

筑波山名跡誌の『観流庵』の項には、
大御堂の西十町余帚谷にあり。左右に男女川の流を帯す。庵号此地景による。誠に清浄閑寂の禅窟なり
とあります。

ここでいう『大御堂』は、現在の筑波山大御堂(坂東三十三観音第25番札所。真言宗豊山派護国寺の別院)ではなく、当時の知足院中禅寺の大御堂のことで、現在の筑波山神社拝殿のある場所です。




筑波山神社拝殿 (江戸時代は知息院中禅寺の大御堂があった場所)
※2017年12月下旬撮影









こちらは現在の 筑波山大御堂(護国寺別院、坂東三十三観音第25番札所)。
本堂は2020年に新しくなるとのことで、現在全面的に改修・工事中です。
※2017年12月下旬撮影


『帚谷』の『帚』の訓読みは『ほうき』、掃除器具のほうきのことのようです。
『帚谷』の意味は調べても該当がなく分からないのですが、たぶん『ほうき』のように、竹林や草木が茂った谷…のような意味で、当たらずとも遠からずではないかと推測します。


さて、ここで、問題になるのが、
・大御堂の西十町余帚谷にあり。
・左右に男女川の流を帯す。

の2つの記述です。


①西十町とはどのあたりか?

大御堂の西十町余』の『十町』の『町(ちょう)』は、昔の長さの単位(尺貫法)で、Wikipediaによると、

『この場合は丁とも書く。条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200メートルを11町と定めた[2]。したがって1町は109.09091メートル、1キロメートルは9.16667町となる。』

とのこと。

なので1891年のメートル条約加入後だと、十町は約1091mでつまり約1.1kmの距離。

しかし『筑波山名跡誌』は江戸中期1780年の刊行。
同書が引用している『宗祇諸国物語』は江戸前期の書物。更に、その主人公 宗祇法師は、室町時代の人。

そうすると、どちらかというと太閤検地の際に決められたという『1町=60歩、1歩=6尺』に近いようにも(素人考えですが)思いますので、一応それで計算してみると、
1町=6尺×60=360尺

尺はまたまたwikipediaによると、
『大宝律令の小尺 : 約29.6 cm(小尺一尺二寸=大尺一尺) 唐尺に由来。平安時代以降はこれが一般的になる』とのことなので、これをあてはめてみると、
1町=360×29.6cm = 10656cm =約107m

なので10町は約1070m。
1891年に定められた値から算出した1091mとオーダー的に同じです。

そこでいずれにせよ、
江戸時代の大御堂(現在の筑波山神社拝殿)から、西へ約1.1km程度の場所
と考えて良いかと思います。

そうすると、ちょうど筑波山梅林のあるあたりになります(筑波山麓フットパスマップ 文献2、3)。


②男女川の場所は?

しかし筑波山名跡誌には、観流庵は『左右に男女川の流を帯す』ともあります。

男女川は、筑波山神社拝殿(当時の中禅寺大御堂の場所)から、せいぜい250~300mほど西です(筑波山麓フットパスマップ 文献2、3)。
『西十町余西』つまり、1.1km程度西と言い切るには、ちょっと無理がある…。

昔は、筑波山からの沢の流れを、全てひっくるめて『男女川』と総称していた?…とも考えましたが、現存している元禄7年(1694年)の山麓の4カ町村の水争いの裁許した絵図(文献4、5)には、筑波山からの谷川・沢の流れから、山麓の小川、用水路のような流れまで、細かく記載されているので、地元では『ひっくるめて“男女川”と呼んでいた』ということはなかったようです。


③『常陸国筑波山縁起』の絵図では

ところで、『常陸国筑波山縁起』(国立公文書館所蔵)という文献があります。
その下巻(※)の絵図(文献5、6)に中禅寺付近の絵図もあり、そこに『観流庵』が描かれています。
※文献5より、絵図のある常陸国筑波山縁起の下巻は、文化五年(1808年)以降のものとのこと。

この絵図によると、現在の筑波山神社拝殿(この絵図では『千手堂』と書かれている)のある場所から、西の道を少し上がり、現在の『御幸が原コース』の登山口の始まりとなる鳥居の手前で西に折れ、さほど行かない所に、川の流れと中洲のような場所と、そこに建つ建物と石造物らしい絵が描かれ、『観流庵』と書かれています。

絵図なので縮尺は正確ではないでしょうが、同図の他の部分とも照らし合わせると、たぶん
現在の、ケーブルカー宮脇駅の西側付近、現在の大御堂裏手の共同墓地の西側の沢(男女川の沢)付近
ではないか
と推測します。



筑波山神社拝殿を西に行く。
行けば分かるさ!? 迷わず行けよ♪
※2017年12月下旬撮影。初詣に向けて準備中。





ということで、『観流庵』の場所の候補2か所を訪ねてみましたちょき

その報告は次回。
 → シリーズ「筑波山名跡誌に書かれた場所を訪ねて」(5)観流庵(後編)


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【参考文献】

1.『筑波山名跡誌 ―安永期の貴重な地誌再現―』 上生庵亮盛 著 桐原光明 解説  筑波書林

2.『筑波山麓フットパス 筑波山口~筑波山神社』マップ つくば市 発行

3.『筑波山麓フットパス 神郡~六所~筑波』マップ つくば市 発行

4.『いまに残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図』 日本地図センター 発行

5.『筑波山 ―神と仏の御座す山―』 茨城県立歴史館 編集・発行

6.『関東の名山 筑波山 筑波山神社案内記』 筑波山神社 発行









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