2009年08月25日
学園都市地区の学校跡を訪ねて(3/3)
茨城&つくば プチ民俗学 学園都市地区の学校跡を訪ねて(3/3)
(初出:2009年8月25日 21時59分 追記:2012年7月)
「学園都市地区の学校跡を訪ねて」最終回は、学園都市地区内に今もある中学校の廃校跡についてです(前回のお話はこちら→「学園都市地区の学校後を訪ねて(2/3))。
前々回「学園都市地区の学校跡を訪ねて(1/3)」の時に、「旧手代木小学校跡」を教えてくださった地元の方が、同じ時に「昔、小野川中学校というのもあったんだよ。校舎が少しだけ残っているよ。」とおっしゃっていたのがずっと気になっていて、これを機に探してみました。
小野川中学校については、「谷田部の歴史」(谷田部の歴史編さん委員会)に次のように書かれています。
「昭和三〇年三月三〇日、新谷田部町は、真瀬村の老田淵新田を除いて五か町村合併の結果誕生した。」(註:五か町村とは、谷田部町、真瀬村、島名村、葛城村、小野川村)
「・・・さらに、昭和三十六年、町立谷田部中学校と町立小野川中学校が統合、」
また谷田部中学校のホームページをみますと、沿革として冒頭に以下の一文があります。
「昭30.3.31 一町四か村が合併し,谷田部町誕生。当時の町内の中学校は谷田部中学校,高山中学校,葛城中学校、小野川中学校。」
昔、小野川村立小野川中学校があり、小野川村が谷田部町と合併して6年後、小野川中学校は谷田部中学校との統合のため、廃校になったようです。
学園都市すらも影も形もない、今から50年近く前の話です。
「小野川中学校」の話をしてくださった方は、「今もあるけど、中学校のそばに『ひがのや』というお店があって、そこでノートやら鉛筆やら、お菓子やら売っていた。」ともおっしゃっていたので、そのことばを頼りに行ってみました。
実は「ひがのや」さんは、うちの子供たちが小学生のころ、自転車に乗って買いに行っていたので、場所は分かっています。「きっとあの辺りだ・・・」というおおまかな位置は分かっていたつもりだったのですが・・・。
歩き回ったのですが、よく分かりません。
「ひがのや」さんで場所を聞いて、更に、道を歩いている地元の人に聞いて探しました。
みなさん、「ああ、ここいら辺は全部中学校だったんだよー。家がずいぶん建ってしまったけどね。」、「あの辺りは運動場だったんだよ。」、「校舎は木造だよ。」と懐かしそうに話されていました。
「校舎はあのあたりにまだ残ってるよ」という「あのあたり」を探して歩き回り、 やっとみつけたのが、こちらです。
会社らしいの敷地内に、古い木造の建物がありました。私有地なので当然中には入れません。道路から少し見えるのでアップで写真を撮りました。
前述の、「谷田部の歴史」には、生徒たちが運動場で遊んでいる姿が写っている平屋建ての小野川中学校校舎の写真が掲載されています。それに写っている校舎と似てはいますが小さいので、多分校舎の一部分なのかと思います。
私有地ではありますが、取り壊されることなく残っているのがすごいなぁと思いました。
※2012年7月 追記: こちらの旧小野川中学校の建物は、2012年2月、火災によって焼失しました。大変残念です。
Twitterで情報を教えて下さった @inarimae 様、ありがとうございました。)
あと、もっとすごいのが、この中学校があったときから今に至るまで、ちゃんと営業していている「ひがのや」さんです。素晴らしいです!
「ひがのや」さん、ホームページあります。
http://homepage3.nifty.com/higanoya/
ホームページによると昭和26年(1951年)オープンとのこと、操業60年近くになるのですね!!
学園都市中心近くにあり、小野川村―谷田部町―研究学園都市―つくば市 の変遷を経た 文化財だと思います!!!
「つくばプチ民俗学 番外編 学園都市地区の学校跡を訪ねて」と名付けて、三回に分けて学校跡を訪ねてみました。
今の様子からはもう想像もできない、さまざまなその地の持つ記憶に想いを馳せました。
(初出:2009年8月25日 21時59分 追記:2012年7月)
「学園都市地区の学校跡を訪ねて」最終回は、学園都市地区内に今もある中学校の廃校跡についてです(前回のお話はこちら→「学園都市地区の学校後を訪ねて(2/3))。
前々回「学園都市地区の学校跡を訪ねて(1/3)」の時に、「旧手代木小学校跡」を教えてくださった地元の方が、同じ時に「昔、小野川中学校というのもあったんだよ。校舎が少しだけ残っているよ。」とおっしゃっていたのがずっと気になっていて、これを機に探してみました。
小野川中学校については、「谷田部の歴史」(谷田部の歴史編さん委員会)に次のように書かれています。
「昭和三〇年三月三〇日、新谷田部町は、真瀬村の老田淵新田を除いて五か町村合併の結果誕生した。」(註:五か町村とは、谷田部町、真瀬村、島名村、葛城村、小野川村)
「・・・さらに、昭和三十六年、町立谷田部中学校と町立小野川中学校が統合、」
また谷田部中学校のホームページをみますと、沿革として冒頭に以下の一文があります。
「昭30.3.31 一町四か村が合併し,谷田部町誕生。当時の町内の中学校は谷田部中学校,高山中学校,葛城中学校、小野川中学校。」
昔、小野川村立小野川中学校があり、小野川村が谷田部町と合併して6年後、小野川中学校は谷田部中学校との統合のため、廃校になったようです。
学園都市すらも影も形もない、今から50年近く前の話です。
「小野川中学校」の話をしてくださった方は、「今もあるけど、中学校のそばに『ひがのや』というお店があって、そこでノートやら鉛筆やら、お菓子やら売っていた。」ともおっしゃっていたので、そのことばを頼りに行ってみました。
実は「ひがのや」さんは、うちの子供たちが小学生のころ、自転車に乗って買いに行っていたので、場所は分かっています。「きっとあの辺りだ・・・」というおおまかな位置は分かっていたつもりだったのですが・・・。
歩き回ったのですが、よく分かりません。
「ひがのや」さんで場所を聞いて、更に、道を歩いている地元の人に聞いて探しました。
みなさん、「ああ、ここいら辺は全部中学校だったんだよー。家がずいぶん建ってしまったけどね。」、「あの辺りは運動場だったんだよ。」、「校舎は木造だよ。」と懐かしそうに話されていました。
「校舎はあのあたりにまだ残ってるよ」という「あのあたり」を探して歩き回り、 やっとみつけたのが、こちらです。
会社らしいの敷地内に、古い木造の建物がありました。私有地なので当然中には入れません。道路から少し見えるのでアップで写真を撮りました。
前述の、「谷田部の歴史」には、生徒たちが運動場で遊んでいる姿が写っている平屋建ての小野川中学校校舎の写真が掲載されています。それに写っている校舎と似てはいますが小さいので、多分校舎の一部分なのかと思います。
私有地ではありますが、取り壊されることなく残っているのがすごいなぁと思いました。
※2012年7月 追記: こちらの旧小野川中学校の建物は、2012年2月、火災によって焼失しました。大変残念です。
Twitterで情報を教えて下さった @inarimae 様、ありがとうございました。)
あと、もっとすごいのが、この中学校があったときから今に至るまで、ちゃんと営業していている「ひがのや」さんです。素晴らしいです!
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Posted by かるだ もん at 21:59│Comments(0)│茨城&つくば プチ民俗学・歴史
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